Interlude ~それぞれの事情~

シェラの事情

 大海原を、船が征く。

 ポルトガ王からマグナに下賜された帆船は、順風を背に波を割りながら、海面に束の間の航跡を残して進む。

 ここしばらく海は穏やかで、意識しなければ船体の軋む音や、永遠に続く不規則に規則的な揺れを忘れてしまいそうだ。

——そういえば、すっかり慣れちゃったな。

 洗濯物が入った籠を手に下げて、羽毛のような雲が微かに浮かぶ青空を甲板で仰ぎながら、シェラはふと思った。

 あの事件の後——

 黒胡椒を持ち帰ったマグナを勇者と認めたポルトガ王から、立派な船を譲り受けたは良いものの、当初は大変だったのだ。

 船酔いで。

『これは、バランス感覚を鍛えるのに悪くないね』

 などとのたまいながら、ケロリとしていたのはリィナくらいで、特に症状が酷かったのはマグナだった。

 何度となく嘔吐を繰り返し、吐くものが無くなったら船室でぐったりと横になって、物も言えないような有様がしばらく続いたのだ。

 こんな様子では、どこかに寄港して船を降りた瞬間に「もう絶対乗らない!」などと言い出すのではないか。

 マグナほどではないにしろ、同じく船酔いに悩まされていたシェラは心配したものだが、結局それは杞憂に終わった。

「もう慣れたわ」

 幾日か経つと、マグナはすっかり平気な顔をして、あっさり言ってのけたのだ。

 朝から晩まで気分の悪い状態をまだ引き摺っていたシェラは、とても羨ましく思ったので、よく覚えている。

 と、船首の方から届いたざわめきが、シェラを追憶から引き戻す。

 そちらに目を向けると、くだんのマグナが船長以下、大人の男達を何人も従えて、キャビンに向かって歩いているのが見えた。

「——振りに、波も風もおあつらえ向きだ。この分なら遅れを取り戻して、明日にでもおかが見えてくる筈でさ」

「そう、分かったわ」

 腰を低くして上申する船長の報告を受け、鷹揚に頷いてみせる様は、まるで女王のようだ。

 現在のマグナは、勇者として周囲から過分なほどの敬意を払われており、しかも各地の国王と親交があることも知れ渡っているので、話しかけるのも恐れ多いみたいに扱われるのが常態だった。

 本人も承知の上で対応を面倒臭がって、それを助長するような振る舞いをするものだから、最近では妙な貫禄すらついてきたように見える。

 あくまで表面的には、だが。

「天気のことだし、多少の遅れは仕方ないわ。ただ、次から報告だけは、ちゃんと上げてもらえる?」

「すいやせん。気をつけますんで」

「よろしくね。それじゃ、私は部屋に戻ってるから」

「へい」

 キャビンに戻りかけたマグナは、ちょっと振り返って男達に微笑みかけた。

「みんな、いつもありがとう。後はお願いね」

「へい!」

 船長どころか、付近の水夫まで一緒になって、なにやらいい返事をするのだった。

 立場が人——の外見そとみ——を作るって本当だな。

 その様子を眺めながら、シェラは思う。

 ポルトガ王から船の備品として一緒に贈られた船員達が、案外とまんざらでもなさそうなのは、マグナが王族とも昵懇な間柄のご立派な勇者様だからだろう。

 仮に何の立場も無い、単なる十代の少女でしかなかったら、こうはいかなかった筈だ。

 さらに言えば、いまの世界にとって最大の懸念事項である魔王討伐の要——いうなれば、全世界を舞台にした物語の中心人物——彼等にとっては、それがマグナだ。

 そして、マグナは周りから期待されるように振る舞うことに慣れている。

 だから、彼女を軸とした壮大な物語に参加させてもらっているという感覚すら、ひょっとしたら船員達は抱いているかも知れない。

 でも、シェラにはお見通しなのだ。

 キャビンに戻ったマグナがいま考えていることは、あまり肌が焼ける前に日陰に戻れて良かったとか、せいぜいそんなところに違いない。

 およそ皆が思い描くような、ご立派な勇者様の考えることじゃないのは確かだった。

(大体、マグナさんは、いつもズルいんだよね)

 いましがた船酔いの件を思い出したこともあって、ついそんな風に考えてしまう。

 だって、マグナはいつも、多少の困難など気にも留めずに軽々と乗り越えてしまう。

 少なくとも、シェラにはそう見える。

 自信があって、判断に迷わない。

 仮令たとえ、間違うことがあったとしても、自分の選択を後悔しない。

 いいや、むしろ選択しなかったら、そのことを後悔するような人間なのだ。

 そして、あんなことがあったのに。

 マグナは結局、ひとりで立ち上がった。

 ひとりで立ち上がって、この先どうするのかをひとりで決めた。

 ようやくマグナの力になる時が来たのだと、半ば思い詰めていたシェラにとって、だから、支えることができた実感はほとんど無い。

 もちろん、マグナからは引き続き傍にいることを感謝された。

 シェラやリィナがいてくれるから、どうにか立っていられるのだと、そんなような意味の言葉も聞かされた。

 精神的なことだけでなく、魔物が蔓延はびこる世界を旅する為に、実際的な戦力としても、あれから自分に出来うる限りの努力はしたという自負もある。

 けれど、やっぱり。

 自分がマグナの力になれているとは、シェラにはあまり思えないのだった。

 きっと自分がいなくても、マグナはたったの独りきりで、いまと同じように立ち上がっただろう。

 それは、とても感心すべき事なのだろうけど。

 シェラには、手放しに良いこととは思えなくて。

 だって、自分だったら、きっと蹲ったまま立ち上がれなかった。

 だから、やっぱりマグナはズルいのだ。

 あんなに強いのは、おかしい。

 どこか、何かがズルくなくては、おかしいのだ。

 そんなことを考える度に、シェラはいつも自嘲する。

——私、そんなに良い子じゃないんですよ、ヴァイスさん。

 少なくとも、これほど世話になってるマグナのことを、ズルいだなんて考えてしまう程度には。

 そもそも、シェラは自分のことを『良い子』だなどと、欠片も思っていない。

 それどころか、周囲がかけてくれた期待に目を瞑り耳を塞ぎ顔を背け、自分の我を通す事しかしてこなかった最低最悪の人間だと思っている。

 罪の意識はふんだんに持ち合わせているし、油断するとふとした拍子に後ろめたさで圧し潰されそうになる。

 でも、どうしても、自分の全存在をかけて、この生き方しか選べなかったのだ。

 だから、本当にびっくりした。

 マグナが告白してくれた時は。

 勇者になんて、なるつもりは無いのだと。

 まるで、自分が喋っているのかと思った。

 マグナの述懐を聞きながら、もう一人の自分が目の前に現れて喋っているのではないかという錯覚にすらとらわれた。

 それほど、自分達の悩みはよく似ていた。

——マグナさんみたいにちゃんとした人でも、こんな風に悩んだりするんだ。

 でも、少し見方を変えれば、自分達は真逆としか思えなくて。

 だから、シェラは決心したのだ。

 この人の力になろう、と。

 この不器用で脆くて自分に似ていて、でも真っ直ぐで強くて私と正反対のこの人を支えてあげたいと。

 ただ、その時に感じたマグナの強さと、いまの彼女が見せるソレは、全く別物に思える。

 その事が、もどかしい。

 喩えるならば、しっかり者の姉が、その身を犠牲にして自分達の為に頑張ってくれている感覚とでも言おうか。

 そう。シェラは度々、自分達が本当の姉妹だったらと妄想することがある。

 そこではもちろん、マグナは長女だ。

 下を頼るよりは、気にかける。

 こちらが頼って欲しいと願っても、すべて抱え込んでひとりで処理しようとするきらいのある、しっかり者だけど困った姉。

 対して、最近のリィナは——

 頭上から水夫の悲鳴じみた野太い声が聞こえてそちらを見上げると、大きなお尻が降ってくるところだった。

「ちょっ——どいてどいて!」

「え——?」

 咄嗟のことで、身動きが取れなかった。

 かなり上方から降ってきた筈なのに、人影はほとんど衝撃を伴わずに目の前に着地した。

 ようやく反応した体が反射的に身を避けて、寸時遅れて尻餅をついてしまう。

「ぼーっと歩いてたら危ないよ、シェラちゃん?」

 小首を傾げながら手を差し伸べたのは、誰あろうリィナだった。

「もー……またですか?」

 船員の制止も無視して、檣楼辺りから索具を伝って飛び降りたに違いない。

 最近のリィナは、支檣索や滑車などマストやヤードに張り巡らされた索具を使って、するすると昇ったり降りたり、あちこち渡ったり跳び移ったりして、彼女の言う『修行』をするのがお気に入りだった。

 手を引かれて立ち上がりつつ、シェラはリィナを睨みつける。

「船員の人達にも迷惑だから、もうやめて下さいって何回も言ってますよね!?」

「ごめんごめん」

 これだ。

 こちらの言うことなど聞きもしない。

 最近のリィナは、末っ子がしっくりとくる。一番歳上なのに、おかしな話だけれど。

 奔放で、手のかかる妹。

 反省の色などまったく窺えない軽い調子で返されて、シェラは溜息を堪えきれなかった。

 リィナは少し不貞腐れながら、言い訳を口にする。

「だって、こんなにずっと船の上でじっとしてたら、体がナマッちゃうよ。魔物だって、そんなしょっちゅう襲ってくる訳じゃないしさ」

 そうなのだ。

 マグナを筆頭とする勇者様御一行が、海の荒くれ男達に一目置かれているのは、マグナの立場によるものであるのはもちろんのこと、リィナの魔物退治の腕前があまりにも優秀だからという理由も見過ごせない。

 神の気まぐれとでも言うべき天候に常に振り回されているせいか、はたまた何か危険が迫っても逃げ場とてなく祈るくらいしか出来ない大海原に、いつも身を置いているせいだろうか。

 海の男は、押し並べて信心深い。

 古くから伝わる海の怪異と混同された形で、彼等は意外な程、海の魔物を苦手としているのだった。

 どこからどう見ても屈強な男達が、徒党を組めば無理なく斃せるであろう程度の魔物にすら怯え震える様は、見ていて少し呆れてしまうくらいだったが、だからこそ、それをいとも容易く屠ってみせるリィナは、ほとんど英雄視されている。

 それでなくても、修行相手を求めてリィナが船員達と軽く手合わせをした最初の頃に、ほぼ全員が瞬殺された経験を持っているのだ。

 はじめは面白がって再挑戦する者も多かったのだが、今ではリィナが近くに寄ると、声を掛けられまいと蜘蛛の子を散らすように逃げられてしまう有様だった。

 そんなリィナの腕を鈍らせる訳にはいかないのは、確かなのではあるが。

(リィナさんが何かやらかす度に、いろんな人に文句を言われるこっちの身にもなって欲しい)

 普段の奔放な言動も手伝って、リィナはいまや何をやっても許される、みたいな立ち位置を築きつつある。

 その分、本人に直接言い難い苦情は、全てシェラの元に集まる仕組みになっていた。

 多分、すぐに謝ってしまうような、文句を言いやすい自分の態度も良くないんだろうな、とは思う。

 ただ、一緒に船に乗り込んでいるダーマのお目付け役まで、日々の不満まで含めてこっちに色々と言ってくるのは、流石にどうなのだろう。

 いつも間に挟まれる立場に、近頃ちょっと疲れてきた。

「それは分かりますけど。でも、本当に皆さんに迷惑掛けないように、気をつけてくださいね」

「うん、分かってる分かってる。ちゃんと縄とか痛めないようにしてるから、だいじょぶだよ。じゃ、よろしくね」

 軽く言い置いて、また躰を動かすべく身を翻す。

 なにが『よろしく』なのだ。

 全部分かってやっているので、余計に性質が悪い。

 昔はあれで、もうちょっと考えていたんだな、と思う。

 ここにはいない誰かさんを加えた四人で旅をしていた頃は、リィナは立場が少々複雑だったこともあり、気ままに見えて色々と気を遣っていたことが、いまなら分かる。

 ところが、最近のリィナときたら——

 でも、そうしろって言ったのは自分なんだよね、とシェラは内心で嘆息する。

 これからは、悩みでもなんでも、大事なことは自分達にも話して欲しいと。

 家族だと思って甘えてください、みたいなことを伝えた記憶もある。

 だって、あのまま放っておいたら、マグナやシェラを騙してダーマまで連れて来てしまったのは自分なのだ、裏切ったのだという自責の念で、リィナが押し潰されてしまいそうだったから。

 最初は、いくら言っても言葉が届かなかった。

 少しずつ少しずつ、野リスか何かが人に慣れるくらいにゆっくりと、彼女の気持ちは解きほぐされていた筈だった。

 それが急に決壊したのは、どのタイミングだっただろう。

 気が付くと、リィナは盛大に甘えるようになっていた。

 多分、加減が分かっていないのだ。甘えられる人なんて、それまで周りには——ダーマには居なかったから。

 それこそ、たった一人を除いては。

 そして、加減を分かっていないのは、シェラも同じなのだった。

 どこまで受け入れて良いのか分からない。

 仮に本当の家族だとしても、別個の人間である以上、しっかりと線引すべき場所はある筈だが、それが何処だか分からない。

 シェラもやはり、これまで甘えたことも甘えられたことも無かったから。

 それで、つい際限なく受け入れてしまいがちなのだった。

 自分達は、本当に不器用だ。

 しみじみと、そんな風に思うことが増えていた。

 そして、俺は何もしちゃいないとうそぶきながら、いつだって互いの距離を計ることに心を砕いていた人物の重要性に、いまさらながらに思い至らずにはいられなかった。

 彼がいまここに居たら、リィナとどのように向き合うのだろう。

 きっと、困ることに違いはないのだろうけど。

 でも、居たらいたで、自分はまた彼に全てを押してつけて、そのことに気づかないかも知れない。

 それは、嫌な想像だった。

 もう少し、頼り甲斐のある自分でありたかった。

 それに、リィナだって、変わろうとしているのは分かる。ダーマの指示に従うだけで、なにも無かった自分から。

 マグナの従者として、魔王を倒すことだけ考えていればいい。そんなことを口にして、単なるダーマの一兵卒として振る舞おうとはするのだけれど、実際の彼女は変わろうともがいてる。

 その力にはなりたいと思うし、だから、放っておけない。

 マグナは、その逆だ。

 変わろうとしない。

 頑なに変化を拒んでいるように見える。

 はっきりと確かめる勇気はないが、シェラにはその理由が分かる気がしている。

 マグナは、変わりたくないのだ。

 表面的には、それまでの自分から翻意して魔王を斃す決心を固めたみたいに見えるのかも知れないが、そんなのは彼女の本質とは、きっと一切関係が無い。

 マグナは、未だにあそこから一歩だって動いていないのだ。

 むしろ、立ち止まったままでいる為に、魔王退治を自ら志願したのだろうと、シェラは勝手に思っている。

 きっとそれは、とても馬鹿げた理由。

 でも、少し羨ましい。

 自分の思い込みは、おそらく正解に近い筈だと、シェラは信じている。

 だって、自分達はとても良く似ているから。

 だからこそ、マグナが再び歩き出せるように、自分が支えて背中を押してやらなくてはと思うのだが、お荷物にしかなれていない現実が、シェラをいたく疲弊させる。

 それも仕方がないのだ。

 自分達は、まるきり正反対なのだから。

 などと、言葉遊びみたいな下らないことを考えている場合じゃない。そう自らを奮い立たせようとする度に、はじめから大して貯蔵されていない元気が、みるみる目減りしていくのが分かる。

 寄りかかれば適度に補充してくれる存在は、もう側に居ないのに。

「ふぅ」

 シェラは軽く息を吐いて、とりとめもない考えを体内から追い出した。

 手に下げた籠を抱え直して、洗濯場へと向かう。

 この船には、なんと世界でも数台しか存在しないという、海水から真水を造ることの出来る装置が備え付けられているのだった。

 お風呂に入ったり洗濯ができないのなら、船旅なんてしたくない。

 マグナのそんな鶴の一声によって、魔法使い達——ヴァイスのような職業魔法使いではなく、彼らが使う呪文を開発した本物の魔法使いの方だ——から提供されたその装置は、船底の方にある水タンクの近くに設置されている。

 太い管がそこから生えて壁や床を這っており、その内の何本かが繋がったかまどに燃える石をくべると、何故か真水が造られるのだという。

 いちおう、空気がどうしたの、取り込んだ海水との温度差がなんだのという説明を受けた記憶はあるが、シェラにはさっぱり理解できなかった。

 それどころか、なんで海水をそのまま使ってはいけないのかすら良く分かっていない。

 でも、特に問題はないのだ。

 重要なのは、船の中でもお風呂に入れて洗濯もできるという事実なのだから。

 お陰で、こうしておかと同じように『日常的にやらなければいけない仕事』に精を出すことができる。

 やることがあるというのは、とても良い。

 いつもと同じ仕事をしている間は、余計なことを考えずに済むし、何も考えずに手を動かしていれば、気持ちも落ち着いてくる。

 なので、これはシェラが自分から進んでやっていることなのだが。

「ああ、また、洗濯なんて。そんなの、こっちでやるって言ってるじゃないスか」

 洗濯場に辿り着く直前で、顔見知りの大柄な船員に見咎められてしまった。

「勇者様のお伴の人にそんなことやらせちゃ、こっちが怒られるんですって」

 言いながら、船員はシェラの手から洗濯籠を引ったくろうと近づいてくる。

 何度となく喋ったことはあるので見覚えはあるものの、体の大きな船員は何人も居るので、実のところ顔と名前が一致していない。

 我ながら酷いとはシェラも思うのだが、ちゃんと紹介されたのは船長とあと数人だけで、大部分の船員は名前すら教えてもらっていないのだ。

 それに、シェラの方でも、意図して彼らとの接触をなるべく避けていた面もある。

「すみません。でも、あの、自分達の分だけですから」

 そもそも見られたくない洗い物だってあるだろうに、そんなことを言われてもこっちだって困る。

 シェラは固辞したつもりだったが、船員は足を止めようとしなかった。

「いや、いいから。ほら、貸して」

 にゅっと船員の太く逞しい腕が伸ばされる。

 船倉のような閉鎖的な空間で、しかも一対一という状況で、大きな男の人に近寄られるというただそれだけで、シェラの裡にほとんど本能的な恐怖が沸き上がる。

「いえ、あの、ホントに大丈夫ですから。お気遣い、ありがとうございます」

 それをなるべく表に出さないように注意しつつ、笑顔で脇をくぐり抜け、そそくさと洗濯場に逃げ込んだ。

 後ろ手に扉を閉めて、音を立てないように息を吐く。

 悪気が無いのは分かるのだが、どこかの誰かさんと違って、海の男達は声が大きくて所作が荒っぽい。

 そんな彼等が得意とは言えないシェラなのだった。

 どうしても、怖いという気持ちが先に立ってしまう。そして、そんな風に感じてしまう自分が嫌だった。

 こういうところが、自分の駄目なところなんだろうな、と思う。

 いっそ、もっとお近付きになってしまえば、きっとみんな気の良い人達で、こんな馬鹿な心配もしなくて済むのだろうけど。

 あるいは、一ヶ月とか二ヶ月とか、ある程度期間が決まっていれば、もう少し他の付き合い方もできるのだけれど。

 最短でも数年の付き合いにはなるだろうと考えると、シェラとしても色々と考えない訳にはいかないのだった。

「さ、洗濯洗濯」

 わざと声に出して気持ちを切り替えようと試みる。

 ところが、そのまま作業に没頭する、という訳にはいかなかった。

 タンクの栓を捻って洗濯桶にちょろちょろと水をため始めたところで、背後に扉が開閉する音を聞いた。

「ああ、やっぱり。もう始めちまってる」

 さっき話しかけてきた船員だった。

 シェラは、咄嗟に受け答えができなかった。

 意外だったのだ。

 一行の中で自分が最も軽く見られている自覚はあるが、それでも勇者であるマグナの共連れとして、一定以上の敬意は払われている筈だった。

 だから、こんな風にこちらの意図を無視して強引に押し入られる、みたいなことは、これまで無かったのだ。

「いや、ほら。手伝ってやろうかと思って」

 言い訳みたいに、船員は言葉を重ねる。

 それでようやく、シェラは我を取り戻した。

「いえ、本当に結構ですから」

 さすがに、語気が少し荒くなった。

 洗濯物を、まだ籠から取り出す前で良かった。

 益体も無い事を考えながら、船員を軽く睨みつけて出ていくように促したつもりが、今度も全く通じない。

「いいからいいから。遠慮すんなって」

 どこか馴れ馴れしい曖昧な笑みを浮かべながら、近寄ってくる。

 シェラは、自分が周りから舐められていることを、よく自覚している。

 それは、ごく当たり前のことだ。

 マグナのように肩書がある訳でもなく、リィナのように腕が立つ訳でもない、こんな痩せっぽちで何の力も無い小娘にしか見えないシェラに、本来は大の男が畏まったりする訳がない。

 彼等が自分に敬意を払うとすれば、それはひとえに勇者様御一行の一員だから、ただそれだけが理由だ。

 それとて、一皮剥けば、力づくでどうにでもなる子供だとしか思われていない。

 だから、シェラに対する彼等の態度は、自然と気安くなる。

 そしてそれは、立場が下の者ほどあからさまなのだった。

 曖昧な笑みを浮かべたまま、特に何を口にするでもなく、大柄な船員は壁に肘をついて、上から覆いかぶさるようにしてシェラを見下ろした。

 体の前で洗濯籠を抱え、シェラは眉根を寄せて男を見上げる。

「なんですか?」

 やや詰問口調で問いかけた。

 この辺り、自分も少しは成長したのかも知れない、とシェラは思う。昔だったら、怖くて俯いて震えることしか出来なかっただろう。

 いまだって、ちょっと声が震えそうだけれど。

 だが、男は半端に笑みを浮かべるばかりで、なんとも応じなかった。

「なんですか?」

 同じ言葉を繰り返すと、男はようやく口を開いた。

「いや、分かるだろ?」

 え、まったく分かりませんけど。

 よっぽどそう返してやろうかと思ったが、辛うじて踏み止まる。

 本当は分かってる。

 よく知ってる。

 ああ、これはダメな空気ヤツだ。

 そう思って、暗澹たる気分に襲われる。

 やっぱり自分は、そんなに与し易そうに見えるんだろうか。

「なぁ……いいだろ?」

 何が『良い』のだ。

 本当に、どいつもこいつも。

 大体、こんな風に迫られるほど、この船員と関わり合いを持ったことがあっただろうか。

 いや。そんなのは、こういう人種には関係が無い。

 だから、気をつけて一線を引くように心掛けていたのだ。

 こういう事態を招かないように。

 だって、これは他ならぬマグナの船なのだ。

 自分のせいで、おかしな空気を持ち込みたくなかった。

「いいって、なにがですか?」

「いや、分かるだろ?」

 そのまま返すと、同じ言葉を繰り返された。

 シェラの返事も待たずに、腰を折って首筋の辺りに顔を埋めようとする。

 視線を落とすと、桶から水が溢れはじめたのが目に入った。

——ああ、早く栓を閉めなきゃ。

「えと、あの、ちょっと落ち着きましょう。ね?」

「いや、そういうのいいだろ、もう」

 いい訳ないでしょ!?

 こんな風に無理に迫られて、こっちが怖くないとでも思っているんだろうか。

 あ、ホントにマズい。

 この人達の間にも、自分達には手を出さないっていう不文律はあった筈なのに。

 シェラは、それが無意味だということを思い出す。

 このままでは、本当に襲われてしまう。

 しかも、腹が立つことに、自分からはっきり言うことすらしないのだ。

 いざとなって咎められても、そんなつもりじゃなかったと言い逃れができるように。

 なし崩し的に——

 なんで、自分ばっかり、いつもこんな——

 シェラは、頭に血が上る刹那を覚えた。

「どうせ口説くなら、もっとちゃんと口説いてください」

 そう啖呵を切ったのは、ほとんど無意識だった。

 洗濯籠を、男の顔に押し付けて、少しでも自分の身から遠ざける。

「はぁ? いや、別にそういうんじゃ——」

 ほら、言った。

 じゃあ、どういうつもりなのだ。

「まぁ、何を言われても無理なので、無駄ですけど」

「あぁ?」

 恫喝じみた唸り声に、心が折れそうになる。

 早鐘を打つ心臓が、すごく痛い。

 辛うじて折れずにいられるいまの自分は、せめて成長しているのだと信じたい。

「ほら、落ち着いてください。いまならまだ、私の胸だけに納めておきますから」

「……」

 駄目だった。

 男が襲いかかる気配を感じた瞬間、シェラは呪文を唱える。

『ラリホー』

 急速に眠りについた男の大きな体を支えきれず、壁に背を押し付けられながら、床にずり落ちて腰を打つ。

「痛っ! う~……重い」

 全身を使ってようやく男を脇に押しやると、安堵の息とも溜息ともつかない空気が口から漏れ出した。

 いまになって震えはじめた全身を庇うように、座り込んだまま強く膝を抱える。

 鼓動が恐ろしく早い。

 血が過剰に送られすぎて、どこかの血管が切れやしないかと不安になる。

 船という限定された空間を長時間共有しなければならないことは分かっていたので、かなり気をつけていたつもりだったのに、まだ足りなかったのかも知れない。

 今後のことを考えただけで気が重かった。

 この人は、いままで通りに振る舞ってくれるだろうか。変なことを周囲に触れ回ったり、妙なわだかまりが残ったりしなければ良いのだが。

 自分が原因の面倒ごとは、できるだけ避けたかった。

 こんな時でも、シェラの考えることは、マグナに迷惑がかからないかという心配だった。

 それが、あまり良くない傾向だということは、近頃ようやく分かってきた。分かってはきたのだが、身に染み付いた習性はなかなか抜けてくれそうにない。

 多分、彼が隣りにいたら、こんな自分を叱るだろう。

 シェラは鼻をすすりながら、いまは遠い面影に向かって、少し笑った。

——栓、閉めなきゃ。

 駄目だ。

 まだ、体に力が入らない。

 どうして、自分なんかを襲うんだろう。

 私のことを知ったら、どうせ離れていく癖に。

 彼みたいに、まるでそんなことなど忘れてしまったみたいに、全然変わらない人なんて本当に稀だ。

 ああ、でも、マグナさんが彼と暮らすようになったら、あんまりお邪魔できなくなっちゃうな。

 シェラは、急にそんなことを考え出した自分に苦笑する。

 決して、嫌な想像ではなかった。

 むしろ、自分はそれを望んでいるように感じる。

 少し寂しくはあるけれど、たまに遊びに行ければ、それで充分だ。

 だから、彼のことは好きという訳ではないのだろう。

 やっぱり自分は、まだ人を好きになったことがないんだろうな、とシェラは思う。

 なので、今みたいなことをされる意味も良く分からないし、ただひたすらに怖い。

 でも、好きという単語から、あの人のことを連想してしまった。

 どうしていいか分からないから、なるべく考えないようにしてたのに。

 きちんと正面から向き合って良いのか分からない。それが、あの人の為になるとは、とても思えないから。

 けれど、あの人は、それで良いと言ってくれたのだ。

 とはいえ、好きなのかと問われると、正直なところ自信がない。

 単に、自分を受け入れてくれそうな人に靡いているだけのような気もする。

 だって、仕方ないよ。

 あの人のこと、まだ全然知らないもの。

 シェラはぼんやりと、発達した筋肉質の体躯とは不釣り合いな、歳相応の幼さが残る面影を思い浮かべた。

 最後に別れたのは、ダーマに辿り着く直前のバハラタだったから、もう随分会っていないことになる。その割りには、意外と鮮明に思い出せてしまった。

 可愛いところはある。

 こっちの言動にいちいち一喜一憂してくれるところも嬉しくない訳じゃない。

 気にはなってる……と思う。

 といっても、次にいつ会えるかすら分からないのだし。

——私みたいなヒトのことを、そういう風に思ってくれる人達がいるだけ、まだ恵まれてるんだよね。

 それを心の支えに、今日も明日も明後日も、頑張って行くしかないのだ。

「はぁ~……」

 いけないいけない。

 溜息ばかりいてはいられない。

 でも、少しばかり愚痴るくらいは、許されると思う。

「も~……カッコつけてないで、はやく帰ってきてくださいよ、ヴァイスさん……」

 シェラは水タンクの栓を締める為に、のろのろと立ち上がった。

リィナの事情

 すごく、イライラする。

 イライラしちゃうから、躰を動かして考えないようにしてるのに、気がつくとまた考えてる。

 考えたくないのに。

 だって、思い出すのは嫌なトコばっかり。

 なんで、ボクには嫌なことばっかり言うんだろう。

 ボクにだけ、全然優しくない。

 もしかして、嫌われてるの?

 いいよ、ボクだって嫌いだよ、あんなヤツ。

 どうでもいいよ。

 どうでもいいって思ってるのに、なんでまた考えてるの。

 ガッカリしたんだって。ボクのこと。

 なんでさ。ボク、頑張ってるでしょ!?

 少しくらい——ううん、ボクの方こそ、ガッカリしたんだから。

 ホントに、見損なったよ!

 だから、嫌い。嫌いなんだから、どうでもいいのに。

 なんで、こんなにイライラするの!?

 もう、ホントに嫌いだよ。

 ボクの中から居なくなってよ。

 お願いだから。

マグナの事情

 船旅、もう飽きた。つまんない。

 

 

 

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