57. Got to Be Real

1.

「それじゃ、いつでもどうぞ」

 そこら辺で拾っただけの、ただの木の枝を右手でだらりと下げて、特に構えるでなくマーサは告げた。

「はい。行きます」

 らしくもなく生真面目な声で返事をして、リィナは僅かに腰を落とす。

 次の瞬間には、五、六歩ほども離れていたマーサの懐に、滑るように跳び込んでいた。

「シッ——」

 跳び込みざまに放ったリィナの右拳を、マーサはひらりと躱した。

 その表現通り、マーサの脛まであるスカートがひらりと舞う——優雅にすら見える余裕——マーサは普段着のまま、着替えてすらいないのだ。

 だが、リィナも負けていない。

「フッ——」

 躱されるのは想定通りとでもいうように、急停止した両足を踏み締めて、背後に回ったマーサに躰を捻りつつ肘打ちをする。

 そこに、マーサは居なかった。

 一瞬速く後ろに跳んだマーサを追って、リィナがさらに後ろ蹴りを放つ。

「ん〜……」

 伸び切った蹴り足を、マーサは手にした小枝でぴしりと打った。

「たたっ——」

 すぐに足を引っ込めたリィナは、距離を離すためか自ら地面に身を投げ出して、くるっと回転して立ち上がる。

 ここは、アリアハンの城下町を南に出てすぐの草原。

 街道からは雑木林を挟んで、見えない位置だ。

 魔物は出るが、スライムや大鴉なんかの弱っちいヤツしか居ないので、マーサやリィナはもちろん、俺の隣りで二人の対決を見守っているマグナやシェラにも危険はない。

 なんなら、俺が一番危なっかしいくらいだ。

 ところで、何故マーサとリィナの二人がやり合っているのかと言えば、話は暗黒大陸の調査を終えて、ロマリアに報告に戻った昨日まで遡る。

 暗黒大陸の調査は、結果で言えば失敗に終わった。

 あれから二週間ほどかけて、襲い来る魔物に悩まされつつ海岸線沿いまで調べたんだが、どこもかしこも切り立つ壁のような断崖に阻まれて、人が通れそうな場所は何処にも見つけられなかったのだ。

 だが、まるきり手ぶらで戻った訳でもない。

 テドンで俺が出会でくわした体験は、そこで手に入れた深緑宝珠グリーンオーブと共に報告を上げてある。

 あの奇妙な出来事になんらかの意味があるとするならば、後は魔法使い共が勝手に理屈をつけてくれるだろう。

 という訳で、一旦はお役御免となった事だし、もう少しマメに家に帰るようにマグナに伝えてくれとマーサに頼まれていたことを思い出した俺は、ダメ元で本人に提案してみたのだった。

 すると、喰い付いたのはマグナではなく、リィナだった。

 なんでも、伝説の『剣姫』であるマーサに、自分を鍛え直してもらいたいと言うのだ。

 そんな次第で、アリアハンに戻って早々に、こうして二人は立ち合っている訳だが——

「はい、次」

 マーサは左手を後ろに回し、正面を向くのではなく躰を斜めに構えて、右手に持った木の枝をゆらりと持ち上げた。

「……はい」

 リィナはそろそろと立ち上がり、急に速度を変えて踏み込みつつ前蹴りを放つ。

 いや——放とうとした。

 しかし、リィナの初動よりも速く、マーサが手にした木の枝で蹴り脚を叩いていた。

 俺が見たと思ったのは、リィナの動きを見慣れた脳みそが描き出した投機的な幻だ。

「——っ!?」

 続いて、右手、左腰、左肩、再び右脚。

 ピシリぴしりと、リィナが動き出す前にマーサの手にした木の枝が叩いていく。

 まるで、行儀見習いの新人メイドを躾けるように。

「ちょっ、ちょっと、待っ——」

 枝の鞭から、とにかく一旦逃れようとリィナが後ろへ跳び退る。

 それを予期していたように。

 側面に回り込んだマーサの木の枝が、地面を蹴ったリィナの足を掬っていた。

「っ——!!」

 リィナは、頭から地面に倒れなかった。

 先に両手を地面について躰を支えつつ、やや開いた両足を巻き上げるように回転させて全身を捻り、その勢いでマーサに蹴りを当てにいく。

 だが、蹴り足を木の枝で絡め取り、マーサは上に跳ね上げた。

 バランスを崩しながらも、リィナはどうにか躰を上下に反転させて、片足ずつ地面を踏み締める。

「ん~……」

 自ら二歩、三歩と距離を取り、マーサは困った顔で口を開いた。

「リィナちゃん。ずっと昔に引退した私が相手だからって、あんまり手加減しなくていいのよ? ある程度は本気でやってくれないと、いまのあなたの状態がちゃんと分からないわ」

「え——いえ、ボク、かなり本気で……」

 慌てて弁明しかけたリィナの語気が、途中で力なく減衰する。

「……すみません。ボク、いま、力が出なくて……」

 正直、俺にはリィナの動きがそんなに悪いようには見えないんだが、本人やマーサはまた違った印象なんだろう。

 マーサは小首を傾げて、ふっと息を吐いた。

「言っていたことは、本当みたいね。これはなかなか重症だわ。困ったわね、これじゃ私と稽古しても、あんまり意味がないみたい」

「……すみません」

 申し訳なさそうに謝るリィナに、マーサは小さく手を横に振ってみせる。

「ああ、違うのよ、そういう意味じゃなくて——そうだわ、マグナ。あなたが、リィナちゃんの相手をしてあげなさい」

 急に話を振られて、俺の隣りで吃驚した顔をするマグナ

 すっかり観客のつもりで、油断し切っていたと見える。

「え? なんで、あたしが」

「ホラ、リィナちゃんってば、私のことをすっごく尊敬してくれてるから、遠慮しちゃって本気で拳を向けられないみたいなのよ」

「いえ、そんな事——」

「どんだけ自分のことを誉めるのよ。恥ずかしいから止めてよね、母さん」

「止めて欲しかったら、あなたが相手をしてあげなさい?」

「嫌よ、めんどくさい」

「……」

 マーサはにっこりと、無言で微笑んだ。

 そのまま、しばし。

「——分かった、分かりました。やればいいんでしょ、やれば。ちょっとは遠慮してくれるようになるかと思ったのに、結局強引なんだから……」

 無言の圧力に負けたマグナが、物凄く仕方なさそうに腰の剣に手をかけて前に出る。

「ありがとう。いい子ね、マグナ」

 嬉しそうに礼を言うマーサから、照れたように顔を逸らし、マグナは口では文句を言う。

「だから、子供扱いしないでってば。ていうか、あたしとリィナじゃ、そもそも勝負にならないわよ?」

 へぇ、今のマグナでも、未だにそういう認識なんだな。

 だが、マーサの評価は違っていた。

「リィナちゃんが本調子だったら、そうかも知れないわね。でも、さっきの様子だと、最近は修行をサボってたのも本当みたいだし、調子も最悪だから、いまならいい勝負よ」

「……貶されてるようにしか聞こえないんだけど」

「あら、そんなことないわよ」

 リィナの方をちらと見てから、マーサは続ける。

「この前、少し見てあげた感じなら、もしかして私の娘が勝っちゃうかもね」

 口振りから察するに、先日マグナが一人で実家に戻った時に、手合わせをしていたらしい。

「……まぁ、いいわ。あたしとしても、いつまでもリィナあんたに腑抜けられてても困るのよ」

 マグナはリィナを挑発するように不敵な笑みを湛えて、腰に下げた剣を抜いた。

 出掛けに武装するようにマーサに言われていたので、この成り行きはマグナも想定していたのかも知れない。

「こうして直接やり合うのは、イシスの武闘大会以来だっけ? あたしも、あの時よりはマシになってるから、今度は手を抜いてくれなくていいわよ」

「……」

 親子揃って挑発されて、流石にリィナの顔には不満げな表情が浮かんでいた。

 これは、悪くない流れかもな。

 リィナが常に抱えていたマグナへの対抗意識が上手いこと働いてくれれば、やる気が出ないことに悩んでいるあいつの調子を取り戻すキッカケになるかも知れない。

「そうだね……マグナは最近ちょ〜っと調子に乗ってるから、ここら辺で一回凹ましといてあげるのが、お付きのボクとしては正しい在り方かな。これ以上、勘違いする前にね」

 お、少しはらしくなってきたか?

「好きに言ってなさい。どうせ、最後に立ってるのはあたしだから」

「ホント、言うようになったよね。けど、戦闘に関してだったら、マグナの教育係として、まだまだ負けてあげるつもりはないよ」

 舌戦を交わしながら、二人は間合いを開けたまま、じりじりと円を描くように横に移動する。

「シェラちゃん。リィナちゃんが怪我したら、優先して回復をしてあげてちょうだいね」

 いつの間にやら、俺達の隣りに下がっていたマーサが小声で囁いた。

「え、あ、はい」

「ウチの娘の方は、私に任せてくれていいから」

「……分かりました」

 シェラが唾を飲み込んだのが分かった。

 どちらかが——いや、ひょっとするとどちらもが、回復呪文が必要になるほどの怪我を負うかも知れないってことだよな。

 そこまで本気でやり合う空気が、二人の間に張り詰めはじめていた。

2.

「それじゃ、いくわよ」

 先に仕掛けたのは、マグナだった。

 摺り足で横に移動しているように見えて、少しずつ円の半径を縮めていたらしい。

「フッ」

 打ち込みの一歩で、切っ先がリィナに届く。

 リィナはそれを、余裕綽々で半歩退がって躱し、引き手に合わせてマグナの懐に跳び込んだ。

「でしょうね!」

 マグナは予期していた動きで、鳩尾に添えられようとしていたリィナの右拳を、剣の柄で打ち落とした。

「あいた」

 打ち落とした反動で剣を上段に振り上げたマグナの持ち手を、振り下ろすより速くリィナの踵が蹴り上げる。

「ッ——」

 蹴られた痛みに顔を顰めながら、強制的に万歳の姿勢を取らされるマグナ。

 剣はどうにか取り落とさずに、右手だけで保持していた。

 その状態のマグナに、振り下ろした足で地面を踏み締めたリィナの肘が襲い掛かる。

 マグナはなんと、右手の剣を自ら手離した。

 自由落下した剣が地面に刺さるに任せて、膝を上げてリィナの肘を腿の外側で受ける。

「いっ——たぁっ!!」

 リィナの攻撃に加えて自らも残った足で地面を蹴って後ろに跳び退りざまに、刺さっていた剣の柄を握って逆袈裟に斬り上げる。

 だが、その斬撃すら、リィナはすんでのところで躱していた。

「シェラ!!」

 その時、マグナがシェラの名を呼んだ。

『ピオリム』

 おそらく、いつもの調子で反射的に応じてしまったのだろう。

「あっ、すっ、すみません——!!」

 あわあわしながらリィナに謝るシェラ。

「いいよ、だいじょぶ——ッ」

 呪文の威力で素早さの増したマグナの斬撃が、明らかに鋭くなった。

「いつまで言ってられるかしら——ねっ!!」

 縦に横に斜めに、矢継ぎ早にに襲い掛かるマグナの斬撃を、リィナは際どいところで躱し続ける。

「まだまだ——」

 リィナは横薙ぎに振るわれた剣の腹を、下から掌底で打ち上げた。

 あれは、幽霊船でニックが見せた技——

「ヴァイス! スカラ!」

 すっぽ抜けたように剣が手から離れるより早く、既にマグナは叫んでいた。

『スカラ』

 あっぶね、なんとか咄嗟に唱えられた。

 一年も長く一緒に戦ってきたシェラと違い、俺は呪文まで指示されないと対応できない事まで、ちゃんと把握してやがる。

 って、ヤベ、俺までマグナに助太刀しちまった。

 だが、剣が無いまま振り切った体勢のマグナは、目の前で腰を沈めるリィナになす術がない。

「フッ——吽」

 腹に掌打を喰らったマグナが宙を舞う。

 え、やりすぎでは?

「きッつ——」

 マグナのボヤきが聞こえた気がした。

『ライデイン』

 きっと、リィナは油断をしていた。

 いや、これが油断とまで言えるかは分からないが——手合わせはこれで終わり、そう思った筈だ。

 だから、地面に打ち付けられる寸前にマグナが唱えた専用呪文ライデインに反応できなかった。

「きゃぅ——ッ!?」

 紫電に躰を貫かれて、どさりと地に倒れ伏すリィナ。

 え、だから、君達やりすぎでは?

「……ホント、勘弁してよ」

 口の中で愚痴りながら、マグナが腹を押さえてよろよろと立ち上がった。

 覚束ない足取りで地面の剣を拾い上げると、リィナの元に歩み寄り、首先に切っ先を突き付ける。

「あたしの勝ちね」

 マグナが勝利を宣言した。

 ニックにしたのと同じように。

「……いっつも、ズルいんだよ、マグナは」

 起きて迎え打とうと思えば、おそらく出来た筈だ。

 だが、その気は無さそうに、リィナは地に伏したまま、まるで自嘲のように呟いた。

「あんたから見てズルかろうがなんだろうが、これがあたしよ。あたしの力よ。あんたが結局、最後に手加減したことまで含めてね」

 ああ、そうなのか。

 そうだよな、リィナはあそこで勝負を決めようと思えば決められたよな、やっぱ。

 だが、結局そうしなかった事まで含めて自分の力だと、マグナは言い切っているのだ。

 いや、まぁ、結果だけ見れば、そうなのかも知んねぇけどさ。

 確かに、そりゃズリィだろ、と微妙にリィナの肩を持ちたい気分になる。

 反応しないリィナの様子に軽く息を吐き、マグナは続ける。

「あたしは誰なの。言ってみなさい」

「……勇者サマ?」

 あるいは、リィナの返答は、ある種の意趣返しだったかも知れない。

 だが、その意に反して、マグナはあっさり頷いてみせた。

「そうよ。世界を救うだなんて馬鹿馬鹿しい絵空事を、世界中から期待されてるこのあたしですら、仲間の僧侶と魔法使いに助けてもらわなきゃ、あんたの相手ができないのよ。少しは誇りに思いなさい」

 マグナは剣を腰の鞘に納めながら続ける。

「そもそも、あんたはずっと勘違いをしてるのよ」

「へ、何が?」

「最初からそうだけど、誰が守って欲しいなんて頼んだのよ」

「それは……」

 単純に聞けば、存在意義の否定。

 しかし、そうではなかった

「ダーマでなんて命令されてたのか知らないけど、保護者じゃあるまいし、一方的に守って欲しいだなんて思ってないわよ。だから、あんたも独りで勝手に思い詰めてないで、もう少しあたし達を頼ることを覚えなさい。仲間なんだから」

 別にひとりで全部背負おうとしなくてもいいのだ。

 それはきっと、マグナ本人まで含めた俺達全員に向けられた言葉だった。

 それまで険しかったマグナの表情が、ふっと緩む。

「いい加減、シャキッとしてよね。頼りにしてるんだから」

 たったの一言で、心が救われることがある。

 もちろん、いままでも頼りにされていないと思っていた訳ではないだろう。

 だが、アリアハンからダーマに至る旅路で引いていた一線を、リィナはどこかで引き摺り続けていたに違いないのだ。

「あんたの生まれがどうだとか、どこに所属してるだとか、そういうのはなんだっていいわ。いいから、他の何かじゃなくて、あたしに力を貸しなさい。あたしには、あんたの力も必要だわ」

 意図してか、無意識か。

 マグナのいまの言葉は、その線を一歩、踏み越えていた。

 未だに地べたに伏したままのリィナに、マグナが手を差し伸べる。

「ん。分かった」

 引き起こされながら、リィナは小さく頷いた。

 立ち上がって、道着をパタパタはたきながら、ふと漏らす。

「それにしてもさ」

「え?」

「いきなり人に向かってライデイン放つのはヒドいんじゃないの? せっかく、ボクは手加減してあげたっていうのにさ」

 からかう表情で、リィナは唇を尖らせた。

「あんたなら、一撃は耐えるでしょ。あのニックってのだって、耐えたんだから」

「え~……全然、根拠になってないんだけど」

「うるっさいわね。こうして結果的に無事だったんだから、いいでしょ。過ぎたことをグチグチ言わないでよ」

 指摘されて、遅ればせながらやり過ぎたと思ったのか、マグナはそっぽを向いた。

 まぁ、本人同士は手加減したとか言ってるが、マグナも随分と派手にぶっ飛ばされてたからな。

 正直、お互い様だと思うが。

『ベホイミ』

「およ、ありがと、シェラちゃん。ああ、シェラちゃんはマグナと違って優しいなぁ~」

 当てつけるようなリィナの言い方に、シェラは苦笑を浮かべる。

「いえ、そんな、全然優しくなんてないですよ。私こそ、さっきは余計な真似をしちゃって、すみませんでした」

「あ、そうだった。ヒドいよね、寄ってたかってボクを虐めてさ。みんな、マグナの味方ばっかりするんだもん。ボク、思わず泣きそうだったよ」

 恨みがましい視線を、今度は俺に向ける。

「いや、うん、まぁ……悪かったよ」

「マグナも『これが、あたしの力よ!』とか言っちゃってさ。違うじゃん、シェラちゃんとヴァイスくんの力じゃん! やっぱりズルいんだよ、マグナは!」

「……分かった、あたしもやり過ぎたわよ。悪かったわね」

 物真似をされて恥ずかしかったのか、マグナはぶっきら棒に謝る。

 それにしても、リィナはタマにマグナの真似をするが、特徴を掴んでるっていうか、案外似てるんだよな。

「すっかりか弱くなっちゃったあんたが怪我しないように、これからはあたしが大事に守ってあげるから、安心しなさいよ」

 一方的にやり込められるのが腹に据えかねたのか、マグナは余計な一言を付け加えた。

「はー???」

 リィナの表情が、引き攣った笑みを浮かべたまま、一瞬静止する。

「ごめんごめん、お灸を据えるつもりだったのに、ボクとしたことが手加減し過ぎちゃったみたいだね。なら、もう一回ろうよ。今はもう、負ける気しないから」

「嫌よ、面倒臭い」

「あー、逃げるの? 世界中から期待されてる勇者サマが、逃げていいの?」

「うるっさいな。ちょっと母さん、このコ、やっと元気になったみたいだから、今度こそ厳しく躾けてやってよ」

「ええ、そうね。リィナちゃんさえよければ」

「あ、はい! もちろんです!! よろしくお願いします!!」

 娘とその友達がじゃれ合う様子を微笑ましく見守っていたマーサに声を掛けられて、リィナは片手を上げて前のめりに頼み込んだ。

 これで、何もかもがすっかり上手くいく訳ではないとしても。

 だが、リィナはきっと、また修行に精を出すようになるだろう。

 今度は、自分の意志で。

3.

「あれは一体、どういう事なんスか!?」

 マグナとリィナがやり合った、その翌日。

 俺は通された応接間のソファから腰を浮かせて、ようやく姿を現した邸の主人を声を荒げて問い詰めていた。

「まぁ、落ち着けよ、ヴァイス」

 小太りの男はどこ吹く風で、ローテーブルを挟んで反対側のソファに大義そうに身を埋める。

「いや、落ち着ける訳ないでしょう!?」

 俺がこんなに憤っているのは、さっきレーベの村の様子を見てきたからだ。

 なんというか、唖然としたね。

 俺がクラーケン対策で魔法の玉を量産した時には一棟しか無かった工場こうばが、なんと十棟以上に増えていたのだ。

 しかも、その殆どが、魔法を込める手前の工程までしか行ってなかった。

 つまり、単なる爆弾を大量に製造していたのだ。

 魔法の玉は、最初に建てた一番規模の小さいたったの一棟だけで、細々と作られていた。

 あれじゃ、まるで村全体がただの兵器工場だぜ。

 あんな有様にする為に、俺は社長ヘーレンに運営を託した訳じゃ無い。

「お前ェの言いたいこたぁ、俺だってよっくと分かってるよ」

 ソファに浅く腰掛けて、だらしなく体を寝かせた腹の上で手を組み、社長は宥めるような口調で言うのだった。

「けどよ、最果ての村に産業が出来たって喜んでるヤツだって、村の中にゃいるんだぜ?」

「居直んないでくださいよ。それで誤魔化せると思われてるなんて、心外ですね」

 どうしても、声に怒気が混じっちまう。

 もう少し、感情を抑えた方がいいのは分かってるんだが。

 このままだと、多分、海千山千のこの人の思う壺だ。

「こっちこそ、心外だぜ。俺ぁ、誤魔化そうだなんて、これっぽっちも思っちゃいねぇよぉ」

 腹から少し手を浮かせて、人差し指を俺に向ける。

「けどよ、ヴァイス。お前ェも悪ぃんだぜ?」

 片目を見開いて、社長ヘーレンは俺を見詰めた。

「俺みたいなのに話を持ってきたら、こうなる事くれぇ予想出来ただろうがよ、お前ぇなら」

「それは……」

 言われてこっちの非を検討し始めるところが、俺の弱点だ。

 そりゃ、全く考えなかった訳じゃないからな。

 だけど——

「社長なら、ちゃんとまともに取り回してくれると思ったんスよ」

ちゃんとまともに、ねぇ」

「なんスか」

 こっちは怒ってんのに、なにを小馬鹿にしてやがんだよ。

「いや、もちろん諸々きちんと真っ当にやらせて貰ってるぜ? 魔物を攻撃する以外は、平和利用にしか使わねぇって念書も、契約する時に書いてもらってるしよ」

「あ、そうなんスか」

 拍子抜けした俺の顔を見て、社長ヘーレンは鼻で笑う。

「だから、お前ェは商売にゃ向かねぇってんだよ。そんな素直に受け取ってどうすんだ」

「え、じゃあ、嘘なんスか?」

「嘘じゃねぇよー。けど、いっくら契約で縛ったって、有事になったらあっさり反故にされたりすんだよ、そんなモン。特に、相手が国とかだとよ」

「……」

 納得のいかない俺の顔を見て、ブフ、と社長は少し吹き出した。

「ンな顔すんなって。平時はそれなりに拘束力あるようにしてっからよ。いくつかの国だの勢力だのが、うまい具合にお互いを縛り合うような感じでよ」

 言葉を返せずにいる俺を、社長ヘーレンはソファに寝っ転がったまま、じろりと睨む。

「つか、ハナっから勘違いしてんだよ、お前ぇは。自分が持って来た話のキモをよ」

「え?」

 なんの話だ?

「自分が持ってきた話の中で、一番価値があったのは、なんだと思ってんだ、お前ェはよ?」

「え、そりゃ、普通の爆弾とは違う、魔法の玉の特性っていうか——」

「違ぇよ。お前ぇの話でいっとう価値があったのは、火薬の原料と配合だよ」

 社長の言葉を飲み込むまでに、しばらくかかった。

「……マジすか」

「マジもマジ、大マジだよ。どうやったって壊れなかった『いざないの洞窟』の分厚い石壁を、一発でブチ壊したんだろ? そんだけの威力を出す爆弾なんざ、この世界にゃ存在しなかったんだよ」

 急に、眩暈を覚えた。

 もしかして、俺は取り返しのつかない事をしちまったのか?

「いや、お前ぇがそんな蒼い顔するこたねぇんだけどよ。別に作った張本人でもあるまいしよ」

「そりゃ、そうですけど……」

「誰だろうと拵えたヤツがいて、実際にこの世に存在してる技術なら、遅かれ早かれ広まってたよ。今回みたいに、欲しがる人間が山ほど居るような代物なら、尚更な」

「……そうですかね」

 社長は、ソファに寝そべったまま、フンと鼻を鳴らした。

「決まってんじゃねぇか。ある意味、お前ぇが俺に話を持ってきたのは良かったと思うぜ? 無軌道に広まっちまった後じゃ、どうしようもないけどよ。最初ハナっからソコに一枚噛ませてもらってりゃあ、ある程度は手綱を握ってやれるからな。だから、お前ぇの判断は、あながち間違っちゃなかったと思うぜ?」

 そう願いたい。

「ただ、俺が融通利かせてやれんのは、あくまである程度だ。俺も商売でやってるからよ、単価のクソ高ェ魔法の玉ばっかし作ってる訳にゃいかねぇんだわ」

「そりゃ、分かりますけど……」

 つか、ほとんどただの爆弾しか作ってなかったじゃねぇか。

「そんなに心配ならよ、前に言ったみてぇに、共同事業主として登録しとくか? そんで、お前ェが自分で気の済むように管理すりゃいいじゃねぇかよ」

「いや……いまは、止めときます。魔王退治もあるし、社長が言うように、そもそも自分がそういうのに向いてるとも思えないんで」

「なら、こっちを信じて任せてもらうしかねぇな。ま、お前ぇが心配してるみたいな、人間同士の戦争に使われるような事ぁ、勇者様が魔王を斃すまでは起こらねぇよ。だから、この話は、またそん時にしようぜ」

 納得はいかない。

 だが、社長の言い分も分かる。

 丸投げで任せちまってる負い目もある。

 などと考えちまうところが、俺が決定的に社長ヘーレンと渡り合えない部分なのだ、おそらく。

「……分かりました。そん時は、俺も体が空いてるかも知れませんし」

「おう、そしたら、いつでも声掛けてくれ。歓迎するからよ」

 これは、問題の先送りだ。

 そう思いつつ、意味の無い念を押す。

「魔物退治に使う以外は平和利用っての、くれぐれも徹底させて下さいよ」

 これは、単なる自己欺瞞だ。

「おう、勿論だ。任せとけって」

 社長は、こんな世慣れていない若造が考えることなど、きっと全てお見通しなのだろう。

 無力感に全身が重くなるのを覚えつつ、思う。

 それでも、他の誰かに託すよりは——それこそ、俺自身よりも——ずっとマシな筈なのだ。

 そう自分に言い聞かせる事で、俺はどうにか不安に蓋をするのだった。

4.

 ヘーレンと口論をしてから、さらに三日後。

 アリアハンからロマリアへと移動した俺達は、あの懐かしの地下闘技場を訪れていた。

 ほら、いつだかスティアと一緒に観戦した、魔物同士を戦わせて賭けをする賭博場のことだ。

 尤も、懐かしいと感じているのは、俺だけだろうけどな。

「……」

 俺の隣りに座ったシェラは、なんとも言えない顔付きで、半地下の闘技場で相争う魔物に視線を落としていた。

「趣味の悪い場所ね」

 シェラの正面の長椅子ソファに背中を預け、観るともなしにそちらを眺めているマグナの方は、はっきりとそう口にした。

 うん、こんな風に生き物同士を戦わせて、それを賭け事として見物しながら酒を飲むなんて、いい趣味とは思えねぇよな。

「お気に召さなかったかい、我が国自慢の魔物闘技場は?」

 マグナのつぶやきは、たった今到着した優男に向けたものだったのだろう。

 断りもせず図々しく隣りに着席しつつ、マグナの顔を覗き込みながらロランは尋ねた。

「はじめて来たけど、好きじゃないわ」

 腕組みをしてソファに背をもたせかけたマグナは、組んだ足を揺らしながら機嫌の悪そうな声で応じた。

「ああ、それは申し訳なかったね。少し趣向を凝らした逢瀬を演出したかったのだけれど、我が女王陛下の冷たい仮面の下に隠された優しい心根を察し切れなかった不肖の従僕を、どうか許しておくれ」

 などと世迷い言をほざきつつ、ロランはマグナの髪を一房手に取って口付けをした。

 王城と違って咎める目や口が無いのをいいことに、いつもより調子に乗ってやがるな、この野郎。

「ほら。ですから、ご忠告差し上げましたのに。マグナちゃん達はこんな場所ところ、きっとお気に召さないって」

 ロランを窘めながら、成熟した肢体を俺に押し付けるようにしてソファの隣りに座ったのは、誰あろうスティアだった。

 俺達が『旅の扉』を渡って初めてロマリアを訪れた時に、最初に出会った冒険者パーティの女魔法使い。

 顔を見るのは二年振りだけど、相変わらずいい女だな。

 ていうか、変な気分になっちゃうから、体をぴったりくっつけるの止めてくれる?

「よう、久し振り」

 俺が普通に挨拶をしたのが気に食わなかったのか、スティアはつまらなそうな顔をした。

「そうね、本当に久し振りだわ。貴方ったら、ちっとも顔を出さないんですもの。会いに来てくれるって約束した癖に。だから、ロランにお願いして、こっちから会いに来ちゃったわ」

 わざとらしく甘えた声出すのも、止めてもらっていいですか。

「ふぅん、キミも随分と贅沢な真似をしてくれるね。たったの一言でもスティアと言葉を交わしたいと想い焦がれる男達は、このロマリアにはそれこそ星の数ほど居るっていうのに」

 うるせぇな。黙れよ、このお調子者。

 一方のスティアは、ちらちらと俺とマグナを見比べて、やがて不服そうに口を開く。

「……つまらないわ」

 とうとう、声に出して言いやがった。

 俺にちょっかいかけても、マグナがしれっとした顔をしているのがお気に召さないらしい。

 昔みたいな反応をマグナに期待してるなら、無駄だぞ。

 あれから、色々あったからな。

 つか、今日はそういう主旨の集まりじゃねぇだろうが。

「それで? 王城じゃなくて、こんなところに呼び出して、今日は一体どういう用件なの? 調査が失敗した報告なら、この前もうしたでしょ?」

 給仕に酒を注文していたロランは、朗らかな笑顔をたたえてマグナを振り返った。

「いや、さっきも言った通り、キミとこういう普通の店で、お酒を楽しんでみたかったのさ。けれど、どうやら迷惑だったかな」

 言うほど普通の店か、ここ?

 マグナは、ロランの軽口に付き合わなかった。

「ガイアの剣の事で何か進展でもあったんなら、こんなところでする話じゃないでしょ」

 こんな人気ひとけの多い場所で、しれっとその単語を口にするお前も、どうかと思うけどな。

「本当に、キミには敵わないな。でも、偶にはキミと城の外で会いたかったのは本当だし——」

 ロランは、少し肩を竦めてみせた。

「それに実は、あっちだと僕の親愛なる従兄弟殿が、色々と嗅ぎ回って五月蝿うるさくてね。そういう意味でも、喧騒に紛れることの出来る此方こちらの方が、いくらかマシなのさ」

 ああ、いつだかロマリア城の廊下で出会でくわした、あの神経質そうな従兄弟殿か。

 つか、あいつのこと、まだ処分してなかったのかよ。

「トビ」

 マグナは短く、自らに仕える隠密の名を呼んだ。

「言われんでも、さっきから周りはちゃんと警戒しとるわ。仕草の怪しいヤツはおらんて」

 すぐ背後から声がいらえて、ロランは驚いて振り向いた。

 だが、トビの姿は、既に其処には無い。

「ほいじゃ、儂は引き続き、妙なヤツが近寄らんように見張っとればええんじゃな?」

「ええ、お願い。いい子ね、トビ」

 ていうか、俺にも今トビがどこに居るか分からないんだけど。

 ソファに挟まれたローテーブルの下には潜れないだろうしさ。

 姿を見せないまま、トビは主人に向かって盛大に舌打ちした。

「阿呆か。犬コロ扱いすなや」

 マグナはなんとも応えずに、クスクスと笑う。

 一方のロランは、珍しく素に近い驚いた表情を浮かべていた。

「これは凄いな。立場上、ボクも不審な人間の気配には敏感な方なんだが、近くにいることさえ全く気づかなかったよ。というか、今もまだ、何処に居るのか分からない。一体いつの間に、こんな人材を配下に引き入れたんだい、ボクの女王様?」

「まぁ……ちょっと前にね」

 おそらく説明を面倒臭がって、マグナは言葉を濁した。

「いやはや、有能な人材がキミという至上の主人あるじを目指して集まってくるのは、さすが我が親愛なる女王陛下のご威徳と申し上げる他ないが——ところでキミ、ボクの下で働く気はないかい?」

 べんちゃらを口にしつつ、しれっとトビに提案をするロラン。

「ご主人様が目の前にいるのに、勝手に引き抜こうとしないでよ」

「だから、誰がご主人様じゃ。ホンマに付き合いきれんわ——こっからは、無駄に儂に話し掛けんとけよ」

「はいはい、分かってます」

 澄まして応じるご主人様に、さらにひとつ舌打ちを残し、無礼極まりない従僕は完全に気配を消した。

「ふぅん、本当に大したものだな——それで、彼の身元は?」

 ロランもロランで、涼しい顔をしてマグナに尋ねるのだった。

「そんな事、ロランには関係ないでしょ」

「もちろん、仰る通りだとも、我が敬愛する女王陛下。けれど、税金からキミに活動資金を融通しているロマリアという国は、残念ながら無関係とまでは言えなくてね。さらに残念な事に、僕はソコの王様をやらされているんだ」

 にこやかにロランに諭されて、マグナはひどく渋い顔付きをした。

「……トビの出身は、ジパングよ」

「へぇ、それはそれは。興味深いお話だね」

「それ以上は、何も知らないわ。別に詮索するつもりもないし。もっと詳しく知りたければ、あのコの元の雇い主のギアにでも聞いてよ」

 一瞬、ロランの眉がひそめられた。

「……なるほど。事情は、おおよそ察したよ。分かった。いまは、これ以上聞かないことにしよう。その代わりに、約束しておくれ、我が君よ」

「なによ?」

「まるで親しい知り合いのように、その名をみだりに口にしない方がいい。何処に耳があるのか分からないからね」

「ウチのトビみたいに?」

 挑発的に返すマグナ。

 トビは、正にそのギアの配下から引き抜いたんだもんな。

「マグナ。ボクは、冗談を言っているのではないよ」

 真面目ぶった表情のロランに名前を呼ばれて、さすがに分が悪いと感じたのか、マグナは少し斜めに視線を落とした。

「……そんなに心配しなくても大丈夫よ。これ以上、あんな奴らと関わる気なんてさらさらないし、トビの事はあたしが責任を持つわ」

「うん、そうだね。キミの人を見る目は、ボクも自分以上に信頼しているよ。けれど、次からはすぐに相談してくれると助かるな」

 ジロリ、とロランは俺を睨め付けたが、いや、トビの事は、俺もその場に居ない時に、勝手に話を進められたんだからな?

 というか、俺が未だにマグナと行動を共にしているのが、そもそも気に入らねぇのか。

 ロランの視線から逃げるように明後日を見上げつつ、微妙に逆方向に身を離そうとした俺の腕に、なにやらひどく柔らかいモノが押し付けられた。

 スティアの肢体からだだ。

 周囲の薄ぼんやりとした灯りを僅かに反射して光る色っぽい唇を浅く開いて、俺に身を寄せて耳打ちする。

「なんだかマグナちゃん、昔より貫禄が出てきたわね」

「……結構なことじゃねぇの」

 自分でも何をホザいているのか、よく分からない。ホントに結構なのか?

 いや、だって、体の側面が気持ち良過ぎて、これで冷静でなんていられるかよ。

 とてもそっちを向けないけど、逆側に座ってるシェラの想像上の冷たい視線が気になります。

「あれから二年以上経ってるんですものね。そういえば、貴方も私が思っていたより、ずっと素敵になったわよ」

 ふふ、と含み笑いをする。

「そりゃ、光栄だね」

「もう、すぐそういう言い方をするのね。久し振り会ったっていうのに、少しは構ってくれたっていいじゃない」

「いや、俺がその気になっちまうから、駄目だ」

「え——へぇ。ホントに、ちょっと素敵になったみたい」

「そうでもねぇよ。つか、お前の方こそ、前よりもっといい女になりやがって、勘弁してくれよ」

「ふふ、嬉しい。ねぇ——」

「それで!」

 マグナの大きめの声が、隅っこでコショコショと喋ってた俺とスティアの口を止める。

「だから、用件はなんなのよ。こんなトコに呼び出して、関係無い人まで連れてきて」

 ギロリとマグナに睨まれて、スティアは俺の腕にしがみついて怯えてみせた。

 結局、こいつの目論見通りなんですけど。

 すごく気持ちいいです、いい匂いです。ありがとうございます。

 いや、違くて。

 どうやら俺も、一杯いっぱいらしい。

「ごめんなさい、マグナちゃん。関係の無い人間が、図々しく居座ったりして。久し振りにあなた達に会いたくて、私が無理を言って連れてきてもらったの。だから、ロランを責めないであげて」

「誰もロランなんか責めてないわよ!」

 仮にも一国の主に対して、なんかて、お前。

 どうしてこんなの連れて来たのよ? と咎める視線を、マグナはロランに向ける。

「キミのその凛々しい表情はとても魅力的だけれど、そんなに怒らないでおくれ、ボクの可愛い女王様。彼女がキミ達にずっと会いたがっていたのは、本当なんだ。それに、いまは少しばかりボクの仕事を手伝ってもらっていてね。ボクにとって最も信頼のおける友人のひとりだから、そんなに邪険にしないで欲しいな。彼女から話が漏れることはないと、このボクが保証するよ」

「どうだか。さっきはあたしに迂闊だとかなんだとか説教しておいて、自分だって大概じゃない」

「おお、説教だなんて、とんでもないよ。けれど、お怒りはご尤も。どうか、こちらの供物で怒りを鎮めておくれ、ボクの敬愛する女神様」

 マグナはとうとう神様にまで格上げされたようだった。

 アホらし。

 ちょうどテーブルに届けられた、つまみ用の詰め肉のスライスが乗った皿を、ロランはマグナの方に少し押しやった。

「それで結局、今日の用事はなんなのよ」

 素直に一枚摘んで口に運びながら、マグナが不機嫌な声で問う。

「ああ、それだ。キミ達に取ってきてもらった『ガイアの剣』の分析を、魔法使い達に依頼していただろう?」

「何か分かったのか?」

「忌々しいが、テドンから持ち帰った、キミの報告と合わせてね」

 嘴を挟んだ俺をロランは嫌そうに眺めて、すぐにマグナに視線を戻した。

「魔王城へ至る道が、見つかったかも知れない」

5.

 何やら立て込んでいるらしく、長いこと城を空ける訳にもいかないという話で——さっき言ってた、従兄弟殿が関係しているのかも知れない——ロランは話が終わると早々に帰城した。

 仕切りと名残惜しいことを、マグナにはアピールしていたが。

 そして、マグナやシェラが地下闘技場この場所をお気に召さなかったこともあり、残された俺達も食事を終えて早々に解散したのだった。

 だが、しかし。

 俺だけは、こっそりと宿屋を抜け出して、仄暗い階段を降りて再び地下へと戻っていた。

 ああ、いたいた。

「よう。寄らせてもらったぜ」

 別れ際に「貴方が最初にこの街に来た時に、ご一緒した席で待ってるわ」と耳打ちしてきたスティアは、記憶と同じように小さく手を振って俺を迎えた。

「ここ、いいかい」

「もちろん。どうぞ、座って」

 いつだかと同じやりとりに、顔を見合わせて苦笑する。

「今回、急に顔を見せたのって、もしかしてまたロランに俺をたらし込めとか頼まれたのか?」

 正面の椅子に座りながら尋ねると、スティアはつまらなそうな顔をした。

「そんなことを聞く為に戻ってきたの?」

「いや、そうじゃねぇけどさ」

 煮え切らない俺の返事に、小さく嘆息する。

「はっきりと言われた訳じゃないけど、そういうことでしょうね。私が貴方に色目を使った時の、マグナちゃんの反応が気になったみたいよ。あの方、マグナちゃんに関しては本気だから」

「マジかよ。つか相変わらず、ちょっとズレてんだよな。あいつ」

 王様と庶民じゃ、感覚がズレてねぇ方がおかしいけどさ。

 酒とツマミを注文した給仕が立ち去ると、スティアは拗ねた顔付きを俺に向ける。

「本当に、失礼しちゃうわ。私は、貴方達の当て馬になる為に生きている訳じゃないのよ?」

「そりゃそうだ。つか、ロランに言ってやれよ」

「もちろん、言ってやったわよ。けれど、あの方、話をはぐらかすのがお上手だから」

 フン、と鼻を鳴らすスティア。

 こんないい女が当て馬なんて、そんな馬鹿な話はねぇよ。

「それで貴方達は、一体どうなっているの? 私はてっきり、貴方はもうすっかりマグナちゃんと恋仲になっているものだと思っていたのだけれど?」

 なんか、エフィにも似たようなことを問い詰められた気がするな。

「いや~……とりあえず今は、そういう関係じゃねぇって言うか。マグナが厄介事を解決するまでは、まぁ、力になろうと思ってるよ」

 スティアは難しい顔をした後に、小さく息を吐いて肩を落とした。

「なんなの、それ。それじゃ、私が身を引いた意味がないじゃない」

「いや、元から引くほど押してないだろ」

「失礼ね。思ってても、そういう身も蓋もないことは口にするものじゃないわよ——でも、その様子なら、私にもまだ出番はあるのかしら?」

 弄うような笑みを浮かべる。

 勘弁してくれよ。

「そっちこそ、その気も無いのに、期待させるようなこと言わないでくれよ」

「あら、その気が無いだなんて、どうしてそう思うの?」

「どうしてって、実際無いだろ?」

「どうかしら。どう思う?」

 ますます楽しそうな笑みを浮かべる。

 くそ、完全にからかって遊んでやがるな。

「……あ~、そういや、アル達は元気か?」

 或いは、その名を出すことで少しばかりスティアが萎えて、からかう勢いを弱めてくれるんじゃないかと期待しただけなのだ。

 スティアが所属する冒険者パーティのリーダー。

 昔を思い出すに、二人の間柄が微妙っぽいことは分かってたからさ。

 だから、まさかスティアの表情が一瞬で、こんなに曇るだなんて思わなかったのだ。

「アルね……あの人は、もう王都にはいないわよ。他の人とも、最近は会ってないわね」

 予想外過ぎて、頭がいまいち追いつかないまま、俺は間抜けな声を出す。

「へ? 冒険者稼業はどうしたんだ。辞めちまったのか?」

「ええ……」

「……もしかして、悪いこと聞いちまったか?」

 なんだ? 一体、何があった?

「ああ、ごめんなさい。いえ、別に大した事じゃないのよ。冒険者をしてれば、誰にだってよくある話だわ」

 スティアの表情は、気を取り直そうとして、失敗していた。

「大した事じゃないようには見えないぜ。まさかとは思うけど……」

「いえ、本当にいま貴方が考えたような事じゃないの。大丈夫、アルはちゃんと生きてるわ」

 それを聞いて、ひとまず胸を撫で下ろす。

「じゃあ、なんで冒険者を辞めちまったんだよ」

「……怪我をしたのよ。冒険者を続けられないくらい、酷い怪我を」

「へ? そんなの、だって……」

 ホイミか薬草があれば、どうにだってなるだろ?

 と思いつつ、嫌な予感を覚えていた。

「……回復が間に合わなかったのよ」

 やっぱりか。

 昔パーティを組んでいたゴリラ男の頬に残されたひきつれを、俺は思い出す。

 ホイミや薬草で治せるのは、傷を負ってからせいぜい二日がいいところだ。

「てことは、はぐれちまったのか、その時」

「……ええ」

「なんだって、そんな……」

 いまさら言っても仕方ねぇか。

「……貴方の目には、アルはどう映っていた?」

 スティアは、テーブルに視線を落として呟いた。

「え? どうって……なんか、元気が良くて真面目なヤツ?」

 さすがに「あんまりよく覚えてない」とか、正直なことは言えなかった。

 スティアは見透かしたように、力なくフフと笑った。

「まぁ、そんなところでしょうね。貴方達の前では、暴走しがちな癖を抑えていたから」

「え? アルって、そんな感じだっけ? 周りが身内だけだと、案外ワガママとか?」

「我儘っていうかね……あの人、とにかく人の話を聞かないのよ。いくら危ないって言っても、独りで勝手に突っ走って無茶なことをするの」

 スティアは右手で額を押さえた。

「あの時は、それが最悪の形で出てしまって……アルが突出したところを別の魔物に回り込まれて、分断されてしまったのよ」

「うん」

「すぐに後を追おうとしたのだけれど、前衛の剣士が居なくなって、私達の方も危なくなってしまって……」

 はぁ、と息を吐く。

「というか、はぐれそうになったら、普通はどうにか合流しようとするでしょう? なのに、どういうつもりなんだか、何を考えたのか、アルは私達から遠ざかるような行動を取ったのよ」

「それは……スティア達から魔物を引き離そうとしたんじゃないか? 自分を餌にして。危なかったんだろ、そっちも?」

「……やっぱり、そう思う?」

 顔を顰めても、美人は美人だな。

「そういう無茶ばかりするのよ、あの人。自分の体のことなんて、全然考えないで。そんなに無理をしなくていいって、いくら言っても耳を貸してくれないの」

「どうせ、スティアにいいトコ見せたかったんだろ」

 少しばかり空気を軽くしたかっただけの俺の軽口に、スティアは意外にも頷いてみせた。

「そうなのよ」

「へ? ああ、うん、そうなんだ」

「……やっと見つけた時には酷い傷を負っていて、治すには手持ちの薬草が足りなかったの。私達も、途中で使ってしまっていたから」

「でも、見つかったんだろ? なら、すぐロマリアに戻って、教会に預ければ——」

「ごめんなさい。私、まだルーラを覚えていないのよ」

 俺の言葉は、喉の途中で止まっていた。

「思ってもみなかったっていう顔ね。そりゃ、勇者様と肩を並べる大魔法使いから見たら、信じられないくらいに低レベルなんでしょうけど」

「いや……そんなことねぇけどさ」

 つか、マグナとは、全然肩を並べてねぇし。

「その頃は冒険にも少し慣れてきて、私達にも気が抜けていたところがあったんだと思うわ。キメラの翼の買い置きが無くなっていることに気付いた時には、後の祭りよ。残った薬草で、どうにか歩けるくらいまでアルを治して、交代で肩を貸しながら王都までは戻って来られたのだけれど、アルの左脚は満足に動かなくなってしまったの。冒険者を続けるには致命的でしょ? もちろん、色々あって辞めた騎士見習いに戻るのも無理。だから、私の家の領地へ帰すことになったの」

「……はい?」

 いやいやいや、情報量が多いって。

 困惑する俺が情報を整理する時間をくれるつもりか、スティアはしばらくグラスをゆらゆらと揺らしながら、中で回る酒を見つめ続けた。

「……マグナちゃんと行動を共にしている貴方は、もうすっかりこちら側の人だし、話しても大丈夫よね」

 え、何をですか。

「私みたいな一介の冒険者が、どうして王様であるロランと親しい知り合いなのか、不思議に思ったことはない?」

 そりゃ思ったけど、俺はそちら側の人間じゃないのでよく分かりませんし、話しても大丈夫じゃないと思います。

 よっぽど止めようと思ったんだが、話を聞いて欲しがっている時の女達とよく似た表情をスティアがしているのを目にして、つい無言で先を促しちまった。

「私の家は、没落した伯爵家なの」

 スティアが普通の庶民じゃないのは、実は出会った頃から予想がついていた。

 この地下闘技場で、はじめてロランと邂逅した時の会話を思い出しても、とても平民の言葉遣いじゃなかったからな。

「それで、私の母親が、あの方の乳母なのよ」

 あぁ、なるほど。

 そういう関係性なのか。

「どういう経緯か詳しくは私も聞かされていないのだけれど、母は私の兄を生んだ時に、あの方の乳母を仰せつかったの。そのご縁で、何年か後に生まれた私は、あの方の幼少期の遊び相手として抜擢されたっていうワケ」

「へぇ」

 俺の気の無い返事に、スティアは少し苦笑する。

「いや、違う。興味が無いんじゃなくて、俺とは世界が違い過ぎて想像がつかないだけだよ」

「ええ。そういうことにしておいてあげるわ——で、アルはあの方の護衛をしていた騎士の子息なの」

「ああ」

 なるほど。そう繋がるのか。

「年齢と関係性が近い子供っていうのが、都合が良かったんでしょうね。私と同じように、アルもあの方の遊び相手に取り立てられたから、つまり、私達は平たく言うと幼馴染なのよ」

「だから、王様に対して、あんなに気安いんだな」

「本当は、とんでもないことだけれどね。というか、貴方に言われたくないのだけれど」

 うん、そうね。

 俺の方が、よっぽど無礼だわな。

「それでね、アルの父親は、魔物の征伐で目覚ましい活躍を認められて叙爵されたのだけれど、準男爵じゃなくて男爵なのよ」

「うん——うん?」

 まるで理解していない俺の顔付きを見て、スティアは言葉を重ねた。

「つまり、世襲が可能な爵位持ちじゃなくて、一代貴族なの」

「うん? へぇ、そういうモンなのか。なんか男爵の方が、準男爵より偉そうに聞こえるけど」

「もちろん、家格は男爵家の方が上よ。そもそも準男爵って、国の財政が逼迫した時に売り出されるような爵位で、歴史と格式のある旧家からは、あんまり認められてないしね」

 爵位が売りに出されるという話が、いまいちピンと来なかったが、成金が金に物を言わせて地位を買う感じなんだろうか。

「じゃあ、男爵って、みんな一代限りなのか」

 シェラの実父も、確か男爵って言ってたよな。

「いいえ、そんなことはないわ。ロマリアでは、普通の男爵家は長子相続で受け継がれていくものよ。けれど、一代限りの名誉貴族って、男爵に叙されるのが昔からの通例になっているのよ」

 はー。なんかよく分からんけど。

「つまり、アルが無茶をしてた理由ってのは、それなのか」

 スティアは、ちょっと驚いた顔をした。

「やっぱり貴方、頭がいいわね」

「いや、ほとんどスティアが教えてくれたようなモンだろ。要するに、父親と同じように魔物退治で成果を上げて、貴族になろうとしてたんだな、アルは。伯爵家のスティアと結婚するなら、それなりに釣り合う地位が必要だもんな」

「……そういう考えだったんでしょうね、あの人は」

 やたらと他人行儀な言い方だった。

「スティアは、そのつもりじゃなかったってことか」

「……あの人、何故か昔っから、ずっとそうだったのよ。子供の頃から、私と結婚するものだって思い込んでいたみたい。でも、幼い頃からずっと一緒だったんだし、私には兄弟のようにしか思えなかった。そもそも、両親が私をロラン様の遊び相手に推挙したのだって、王都でよりよい相手に見初められて、落ちぶれた貧乏伯爵家を救ってくれるように願ったからよ。そういった意味でも、アルを結婚相手には考えられないわ」

「ふぅん。貴族様ってのも、なんか色々大変だよな。聞き齧った話しか知らねぇけどさ」

 俺の言い草に、スティアは視線を上げて俺を睨んで苦笑した。

「ええ、そうね。本当に大変。だから私には、冒険者っていう自由な立場の方が合っているの」

「冒険者も冒険者で、そこそこ大変だけどな」

 それこそ、アルのように。

「……そうね、ごめんなさい」

「いや、責めてる訳じゃなくて。けど、なんでそれで、アルをスティアんが引き取るなんて話になるんだ? アルの親父さんだって、いちおう男爵なんだろ?」

「言ったでしょう、名誉爵位だって。アルの父親は、領地を持たないのよ」

「あー……?」

 またしても、いまいちピンとこない。

 領地なんかなくたって、どうにでもなりそうな気がするが。

「それに、昔からの付き合いもあったしね。少しくらい脚が悪くても、私の家なら何か仕事があるだろうって。私がついていながら取り返しのつかない大怪我をさせてしまったっていう負い目も、私の両親にはあったみたいよ」

「って言われてもな。真っ当な連中よりいい加減に生きられる代償として、全部自己責任なのが冒険者だってのに、勝手にそんな負い目を感じられても困るわな。つか、さっきの話だと、スティアの家って貧乏なんじゃなかったっけ?」

 なのに、仕事なんてあるのかよ——って、しまった、つい気安さで口が滑った。

 だが、スティアは俺の暴言を咎めなかった。

「本当よね。まったく、どうするつもりなんだか……」

 スティアは、疲れたように嘆息した。

「そういえば、貴方は言わないのね」

「へ? 何を?」

「どうしてアルと一緒に帰ってやらなかったんだ、って」

「え。だって、そりゃ——」

 全く、考えもしなかった。

「スティアにはその気がないのに、一緒に帰ったりしたら結婚するしかない流れになっちゃいそうじゃん、なんか。それって、スティアにとってはもちろんだけどさ、スティアの家にも、あんまりよろしくないんじゃねぇの」

 玉の輿を目論んで王都に送り出されたようなこと言ってただろ。

「それに、アルだって望まないだろ、そんなの」

「どうかしらね。あの人のことは、私にはよく分からないわ」

 幼馴染はそう零して、自嘲気味に口元を歪める。

「これまでだって、何度も伝えているのよ? 私にとってアルは兄弟みたいなものだから、爵位の件を抜きにしても結婚相手として見ることは出来ないって。だのに、いくら言っても、自分がやりたくてやってることだからって。お前は気にしなくていいって、全然聞き入れてくれないの」

「そりゃ、惚れてる方は、そんな風に言われても諦められないわな」

 ていうか、急に怖くなってきた。

 俺もマグナにこんな風に思われてたら、どうしよう。

 違うんだ。

 どうにかなろうなんて、俺はもう思っちゃいねぇから。

「だったら、あんな無茶をしてもいいっていうの!?」

 スティアは、珍しく声を荒げた。

「結局、あんな大怪我負って……お前の為にって無茶される方の気持ちも、少しは考えてよ……」

「なんか、ごめんな」

 つい、謝罪が口から漏れた。

 スティアはきょとんとした後に、小さく吹き出した。

「なによ、それ。フフ、おかしい。どうして、貴方が謝るの?」

「いや、俺も似たようなことしちまってるなーと思って」

「そうなの? っていうことは、マグナちゃんに、その気はないの?」

「うん、まぁ。多分」

「……本当に? ちゃんと話し合った? 昔は、そんな風には見えなかったけれど」

「まぁ、俺のことはいいじゃん」

「それを言ったら、私のことだってどうでもいいわ」

「いや、そっちはどうでもよくねぇよ。なんか用があったから、俺に耳打ちしたんだろ?」

 スティアは普段の調子を取り戻しつつあるのか、婉然と魅惑的な笑みを浮かべた。

 やや無理をしているようにも思えたが。

「あら、心外だわ。この小さな胸を痛めながら、勇気を振り絞って気になる殿方に声を掛けたっていうのに」

 小さくはない胸の前で、きゅっと右手を握り締めながら、情感たっぷりにのたまう。

「ねぇ、用がなければ、私は貴方と会ってはいけないの?」

「そんなことねぇけど」

「ふふ、嬉しい。それに、私が貴方とお話しするのが嫌いじゃないのは、本当なのよ?」

「うん、俺もだよ」

「だったら、偶にはこうして会いましょうよ。ロマリアには、ちょくちょく来ているんでしょう?」

「そうだな」

 スティアは苦笑する。

「そんなに警戒しないで。貴方とマグナちゃんの仲を裂こうだなんて考えてないんだから」

「いや、まぁ、裂く仲もないんだけどさ」

 俺は首の後ろを揉みながら、続ける。

「……まぁ、なんか困ったことがあったら声掛けてくれよ。及ばずながら、力になるからさ」

「え?」

 いや、なんか、スティアも色々大変そうだし。

「俺でも、気晴らしくらいの役には立つだろ」

「ええ……ありがとう」

 少し呆然としていたスティアは、やがて苦笑いを浮かべる。

「ごめんなさい。私、物欲しそうな顔をしていたのね。はしたなくて恥ずかしいわ」

「うん、まぁ、スティアにも色々あったんだろうし、仕方ねぇって。気にすんなよ」

「それにしても、貴方も相変わらずね。私なんかのことまで、背負い込もうとしてくれなくていいのよ?」

「いや、そんな烏滸がましいこと考えてねぇから大丈夫だよ」

 やっぱ俺って、昔と比べて成長してねぇのかな。

「ふふ、でも、助かるわ。私は卑怯な女だから、ありがたく貴方のお言葉に甘えさせてもらうわね。いまや世界に名だたる勇者様御一行の中心人物である貴方の後ろ盾なんて、頼り甲斐がありそうだもの」

「よしてくれよ。矢の一本も防げない、薄っぺらい盾だよ」

 スティアは感情の読み取れないなんともいえない表情で、しばし俺を見つめた後、小さく頭を横に振った。

「やっぱり、人の好みってどうしようもないわよね。私も、もう少し趣味が一般的だったら良かったのだけれど」

「俺はヘンな女にしか、見向きされないらしいからな」

「って、誰かに言われたの? 言い得て妙ね」

 くすくす笑う。

「アルって、あれで案外モテるのよ。見た目も悪くはないし、誠実そうに見えるから。あんな人に一途に想われている私のことが、羨ましいんですって」

「って、誰かに言われたのか?」

「ええ、それはもう、何人も。その人達に言わせれば、私は怪我をした途端にアルを見捨てた、とんでもない悪女らしいわよ」

「大丈夫。アルも、スティアのことで、周りの男から絶対やっかまれてるからさ」

「それって、何が大丈夫なの?」

 スティアは口に手を当てて笑った。

「ああ、おかしい。ねぇ、やっぱり、偶にはこうして会ってくれる?」

「……善処するよ」

「ツレないお返事ね」

「いや、マジで歯止めが効かなくなりそうだから、困ってるんだ」

 最初会った時からそうだったけど、マジで好みなんだよ。

「ああ、それは——困るわね。私は、困らないけれど」

 スティアは、しめしめみたいな顔をした。

 すっかり弱みを握られちまったな。

「お手柔らかに頼むよ」

 俺は、そうお願いするのが精一杯だった。

6.

 往時は山頂付近だったと思われる絶壁から、くれぐれも単独で行えとヴァイエルから厳命されていた仕込みを終えた俺が戻ると、ゴツゴツとした岩肌で埋め尽くされた中では比較的平らかな一角で、何故かサムトとリィナが向かい合っていた。

 あの雰囲気は、まさか手合わせでもしようってのか?

 二人を遠巻きに囲んだイシスの兵士達が、サムトを応援する歓声をあげている。

 ちなみサムトってのは、昔懐かしいイシスの武闘大会で、勝ち抜き戦の一回戦目でリィナと対決した、イシス軍所属の巨漢のことだ。

 今回、俺達が駆り出されたこの作戦では、比較的国力に余裕のあるいくつかの大国から、騎士や兵士が派遣されているのだった。

 そいつらが、ここ何日か掛けて合流したんだが、イシス軍が到着したのはつい昨日の事だ。

「無理を言って、悪いな。恩に着る」

「ううん、別にいいよ。ボクも、もうちょっと調子を取り戻しておきたかったしね」

 左腕の肘を頭の上で右手で掴んで反らしながら、リィナは軽い口調でサムトに応じた。

 どうやら、この立ち会いはサムト側からの提案なのか?

「だが、あの時とは、俺も違うぞ。簡単に勝てると思うなよ」

「うん、分かるよ、強くなったの。前はすっごい力押しの人だったもんね」

「言ってくれる」

 サムトが手にしているのは、大ぶりの木の枝を少し整えただけと思しい木剣だった。

 とはいえ、実際に当たればリィナは大怪我——いや、サムトの怪力を考えれば絶命してもおかしくない。

 大丈夫なのかよ、リィナ。

 いや、ここまでの旅路での魔物との戦闘を思い出しても、かなり復調してきたようには感じたし、俺如きが案じるまでもないんだろうけどさ。

 けど、どうしたって心配しちまうだろ。

 ついこの前まで、あんなに弱々しくて頼りなさそうだったんだぞ。

——ロマリアで、ロランから魔王城へ至る方法が発見されたと告げられてから、早二月余り。

『魔王は北の山奥。ネクロゴンドにいるそうです』

 俺がテドンで夢現ゆめうつつに聞いた住民の幽霊だか亡霊だかのお告げは、結果的に間違いではなかったらしい。

『テドンの岬を東にまわり、陸沿いに更に河を上ると……大地にぽっかり黒い穴がある! それが火山の火口だ!』

 俺達は再び船で暗黒大陸へと向かい、それをぐるりと迂回する形で、とある火山の山頂付近を訪れていた。

 アッサラームから南、イシスから東に線を伸ばして、それがちょうど交差する辺りだ。

「『ガイアの剣』は、それ自体は取り立てて特徴の無い、単なる剣だ。その特殊性は、剣に内在するのではなく、その存在そのものだ」

 詳しい説明の為にロマリアにやって来るどころか、横着に俺をアリアハンに呼びつけた貧相な痩せぎすご主人さまは、どこかで聞き覚えのあることをのたまった。

「ロランからは、魔王城への道が見つかったって聞いてるんだけど。どういう事だ?」

 俺の質問を受けて、ヴァイエルは忌々しげにひとつ舌打ちをした。

「異界の剣などと不正確極まる表現をした阿呆が、魔法使いの中に居たのだ。自らの発言が及ぼす影響力に無頓着であるならば、未来永劫隠遁していればいいものを、お陰でより説明が面倒になった」

 珍しい。どうやら、俺に腹を立てている訳じゃなさそうだ。

 いつも通り、何に対して怒っているのかは、よく分からんが。

「ともあれ、此処から先は、より一層儀式めいた手順が必要になる。一見、無関係に思える事物が、より高次からは近接して視えるのと同様にな」

 相変わらず、訳の分からんことをほざいてんなー、と思いながら聞き流していると、ジロリと睨まれた。

「黒穴の位置情報を持ち帰ったことは、褒めてやる」

 自分に向けられた言葉を、しばらく脳が理解できなかった。

 え、俺、褒められたの?

 ヴァイエルに?

 ヤバい、明日、世界が終わるんじゃないか?

「道具立ては整った。ならば、次は畳み込みだ。世界を滅ぼす張本人になりたくなければ、私の言葉を一言一句逃さずに記憶して実行しろ」

「へ?」

 俺がなんかすんの?

 世界を滅ぼすとか、そんな責任重大にも程がある役目を担いたくないんですが。

 などという要望が聞き入れられよう筈もなく、毎度のように『貴様の如き暗愚には、この程度の説明しか理解できまい』という枕つきで伝えられたヴァイエルの説明通りの手順で作業を行って、戻って来たらリィナとサムトの立ち会いの場面に出喰わしたのだった。

「なんだ、これ。どういう成り行きだ?」

 ゴツゴツとした岩肌に足を取られないように気をつけながら、マグナの横に並んで尋ねると、うんざりした声が返される。

「……よく分かんないわ。とりあえず、イシスの武闘大会であの大きい人がリィナに負けたのが、イシスの人達には納得いってなかったみたいよ」

 腕組みをしたマグナが、こちらに顔を向ける。

「それより、あんたの準備とかいう方は、どうだったのよ。あたし達にまで、こそこそ内緒にして」

「ああ、そっちは問題ねぇよ——お、はじまるぞ」

 特に合図があった訳ではない。

 リィナが軽く頷いてみせた時には、サムトは躰の横に引いた長い木剣を突き出していた。

 離れて観ているこちらまで、切っ先が押し出す空気が届いたと錯覚するような、物凄い刺突だ。

 だが、リィナは躱していた。

「応——ッ!!」

 体を開いて左に躱したリィナを追うように、木剣の起動が変化する。

「ぅわぉ」

 間一髪で身を沈めたリィナの躰を、片手で切り返された木剣がさらに襲う。

「——っと」

 今度は跳んで避けた宙空のリィナに獰猛な笑みを向け、サムトは木剣を逆袈裟に斬り上げた。

 いや、正確には、斬り上げられなかった。

 振るう直前に、リィナの足がサムトの手首を踏んで押さえていたからだ。

「構うかッ!!」

 猫を上に向かって放り投げるくらいの気軽さで、サムトはそのまま木剣を上に向かって振り抜いた。

「あ——」

 そら高くまい上がり、落ちてくるリィナを、狙い澄ましたサムトの木剣が横薙ぎに襲う。

 空中でロクに身動きが取れない筈のリィナの躰は、木剣が触れた瞬間、弾かれたように回転した。

 すり抜けるように地面に落ちたリィナは、うつ伏せの体勢から、海老反りにサムトの脇腹を蹴り上げる。

「なんっ——」

 まさか、そんな体勢から蹴られるとは思っていなかっただろう。

 それでもサムトは、痛みを堪えて木剣を振り下ろしてみせた。

 だが、リィナは既にそこには居ない。

「いてて、ちょっと掠らせただけでコレだもんね。キミの方は、全然効いてなさそうなのにさ。ホント、羨ましいよ」

 少し離れた位置で立ち上がったリィナは、左肩をだらりと下げていた。

「いや、俺も結構効いたぞ」

 サムトも、顔を顰めながら蹴られた脇腹をさする。

「悔しいが、やはり技では敵う気がしないな。褒めて貰った、俺の得意なところで勝負するとしよう」

 サムトは木剣を両手で握り、大上段に振りかぶった。

 リィナにどんな攻撃を加えられても、その一撃に耐えて木剣をお見舞いすると主張するような構えだ。

 正直、この対戦では理に適ったやり方だった。

 だが、リィナはぽそりと呟く。

「あ、よくないな、そういうの」

 奇妙な違和感。

 一歩を踏み出したかに見えたリィナは、やっぱり足を運んでおらず、それを認識した時には、既にサムトの脇を抜けていた。

「——ッ!?」

 振り向きながら、サムトが木剣を斜めに斬り下ろしたのは、流石と言うべきか。

 だが、それはリィナにそのように振らされていたのか。

 木剣の軌道の僅かに外側にいたリィナは、サムトの手首を脇に抱え込み、さらに手を絡めて木剣を捻り上げた。

「ぐぅ」

 苦悶の声を漏らしたサムトの手から、木剣が落ちる。

 だが、終わらない。

 両手首を押さえられたサムトは、そのまま振り回すようにリィナを放り投げる。

「無茶苦茶するね」

 リィナが平らな岩に足を着けた時には、既にサムトは正面で拳を振りかぶっていた。

「うおぉっ!!」

 リィナは太い腕を掠めるようにくるりと回転し、そのまま肘で脇腹をかち上げた。

「まだ……だッ!!」

 サムトはリィナの打撃に耐えつつ、道着の襟の後ろ側を掴んだ。

「ダメなんだな、それが」

 全身が脱力したように躰を沈ませたリィナは、次の瞬間にたわんだ道着の隙間を利用して、サムトに背を向けるように身を翻す。

「ぐぁっ!?」

 襟を握ったままの手首を極められて、痛みで動きの止まったサムトに対し、リィナはその腕を巻き込むようにさらに身を沈める。

 サムトは痛みからどうにか逃れるべく、そのまま地面に転がるしかなかった。

「こんなトコかな」

 ゆっくりと立ち上がり、リィナはサムトに右手を差し出した。

「……俺もあれから鍛えたつもりだったんだが、まるで歯が立たなかったな」

 すっきりした顔つきで、リィナの手を握り返すサムト。

 手がデカ過ぎて、リィナの手がすっぽり中に入っちまってるぞ。握り潰されやしないか心配になるぜ。

「ううん、すごく強くなってたよ。でも、ちょっと申し訳なかったかな」

「なにがだ」

 リィナに引き起こされながら、サムトは首を傾げる。

「だって、魔物相手とか戦争とかには、あんまり役に立たないことを練習させちゃったかなって」

「なんだ、そんなこと」

 サムトは、豪快に笑った。

「俺が好きでやったんだ。それに、力任せに剣を振り回すだけでは敵わん相手がいると知って、それを放っておくほど、俺だって自分の強さに誇りが無い訳じゃないぞ」

「そっか……うん、そうだね」

 リィナに引き起こされたサムトは、ざわめく自国の兵士達に声をかける。

「これで分かっただろう! あの試合のことを、未だにゴチャゴチャいうヤツもいるが、このリィナが俺に勝ったのは実力だ! これ以上勘繰るようなら、女王陛下への侮辱にもなるぞ!」

 サムトの宣言に、イシス兵達はバツの悪そうな顔を見合わせる。

「いや、俺達はただ……なぁ?」

「もう分かったって、サムト」

「そのお嬢さんの実力を疑ってたってよりさ、お前が本気で負けたのが信じられなかっただけなんだって」

「なんか、悪かったなぁ、お嬢さん——いや、リィナさん」

「別に気にしてないよ。まだ納得いかない人は、直接手合わせしてもいいし」

「お、そうかい? そんじゃ、おっちゃん立候補しちゃおうかしら」

 挙げた手をだらしなくぶらぶらさせたのは、イシス軍とは離れた場所で観戦していた少壮の男だった。

 そうだった。

 そういえば、この伊達男面も、昨日の夕暮れ時に合流してたんだった。

 出来れば、二度と顔を拝みたくなかったんだが。

 リィナは伊達男面のおっさんに、きっぱりと首を横に振ってみせる。

「ううん。おっちゃんとは、まだ止めとくよ。っていうか、おっちゃん関係無いじゃん、イシスの人達と」

「そんな悲しいこと言わないでちょうだいよ。イシスの武闘大会で突いたり挿したりした仲じゃない。まるきり無関係ってことはないでしょうよ」

「いや、関係無いよ。いいから、向こう行っててよ」

 シッシッと追い払われて、がっちりした体躯の無精髭を生やした男——イシスのオアシスでマグナ達三人の危機を救い、武闘大会ではリィナと激闘を繰り広げたアランは、肩を竦めながら、何故かこちらに歩み寄って来た。

「はぁ、おっちゃんフラれちゃった。お嬢ちゃんは、相変わらずツレないねぇ。おっちゃんの方は、こんなにもお嬢ちゃんを求めてるっていうのに」

 そういや、再会してから直接話すのは、これがはじめてだな。

「で、どうなのよ、ヴァイスくん。調子の方は」

「まぁ、ぼちぼちだな」

 相対したら、もっと苛つくのかと思っていたんだが、そこまでじゃなかった。

 平静を保ったまま、普通に返せている。

 俺も少しは成長したらしい。

「へえぇ?」

 なにやら、無精髭の生えた顎などさすりつつ、俺を値踏みする目つきで眺め回すアラン。

 なんだよ、この野郎——あ、駄目だ。やっぱ、苛つくわ。

 アランは睨み返した俺を無視して、マグナに向かって優雅な仕草で一礼した。

「ご機嫌麗しく。人の世を照らす希望の象徴にして、我が未来の女王様」

「親戚だからって、ロランみたいなこと言わないでよ」

 マグナが嫌な顔をしてみせても、飄々とした態度を崩さない。

「そりゃ、なんたって、あの子は可愛い甥っ子だからねぇ」

 そうなのだ。

 俺も昨日はじめて知ったんだが、なんとロランの親戚筋らしいのだ、このダメなおっさんが。

 それどころか、順位は低いながらも、一時は王位継承権まで持ってたってんだから、人は見かけによらないというか、大丈夫か、あの国ロマリア

 ロランとアラン。

 本名がロムルスのあいつが、市井ではロランを名乗っているのは、まさかこのおっさんの影響じゃねぇだろうな。

「アラン特別顧問! 余計な真似はせずに、こちらにおいでください!」

 おっさんがマグナに絡んでいるのを見咎めてか、遅ればせながら馳せ参じたロマリア騎士がアランを叱責した。

 口調から察するに、アランに対してあまり好感情は持っていないのだろう。

 お目付け役と思しい騎士の言葉遣いは、上位者に対するそれではなかった。

「ああ、丁度よかった、ルキウス君。いまから勇者様に、今後の方針についてお伺いしようと思っていたところだよ」

 ぬけぬけと応じるアラン。

「え——あ、そうなのですか。いえ、でも、アラン特別顧問が勇者様にご迷惑をお掛けしないようにと、陛下からくれぐれも仰せつかっているのです。次からは、私を通していただかないと困ります」

 柔らかそうな金髪のいかにもロマリア人然としたルキウスとやらいう年若い騎士は、丁寧に無礼な口を利くのを止めなかった。

 ロランの言い付けを守ることに汲々としているだけなのか、それとも素の性格がこうなのか。

「はいはい、分かりましたよ、ルキウス君。次からは気をつけるから、許して頂戴ね」

 絶対、気をつけなさそうな口振りでルキウスをあしらい、アランはマグナに顔を向ける。

「それで、この後はどうなさるので、我が麗しの女王陛下。この先には、抜けられそうな路は見当たらないようですが」

 今回の遠征は、魔王との最終決戦へ向けての威力偵察という意味合いが強く、各国から人員が派遣されているとはいうものの、それぞれがせいぜい小隊規模の少数精鋭だ。

 そもそも、こんな周りに岩場しかないような火山まで、大規模な軍隊で遠征するなんて、兵站を考えただけで頭が痛くなるぜ。後先を考える必要のない最終決戦くらいしか、そんな大掛かりな動員は無理だろう。

「どうなのよ、ヴァイス」

 アランの質問を、マグナは俺に丸投げした。

 うん、まぁ、俺が独りで作業してたんだから、当たり前なんですけどね。

「ああ。多分、大丈夫だ」

「多分ってなによ。頼りないわね」

 どうも、すいませんね。

 俺達が合流したこの火山には、実は秘密が隠されている。

 などと正確でない表現をすると、また陰険野郎ヴァイエルにお小言をもらっちまうが、いまはどうでもいい。

 山頂を目指して移動を開始した俺達は、いくらも行かない内にどん詰まりに行く手を阻まれた。

 ネクロゴンドと呼ばれる一帯の大地が、天変地異じみた隆起をしたことにより生み出された、くだんの切り立つ壁だ。

 それは、人間が誰一人として気付かない内に発生した超自然現象だとされているが、実際は多少意味合いが異なる事を俺は知っている。

 いや、知っているというか、聞かされた。

 全然、分かってねぇけど。

 だから、さっき独りでやってた仕込みの意味も、実はきちんと理解している訳ではなかったりする。

 なので、俺に何かを質問するんじゃねぇぞ、周りの連中よ。

「よし、ここだ」

 俺は、絶壁の手前で足を止めた。

 振り返ると、一同は怪訝な顔つきで俺を注視している。

 そりゃそうだ。

 どう見ても、ただの行き止まりだからな。

 それにしても、何度見てもすげぇな、この崖は。

 ほとんど垂直に、俺の身長の何百倍も上に続いている。

 なんなら、先っぽの方は霞んでよく見えないくらいだ。

 こんな壁みたいな崖をよじ登って進軍なんて絶対に無理だし、試したところで空を飛べる魔物に襲われて落とされるのがオチだろう。

「それで、何をどうするのよ」

 あのひょろっとした頼りない魔法使いの男は、一体なにをしようとしているのか、という各国から集った精鋭たちの視線を受けて、多少苛立った口調でマグナが聞いた。

「ちょっと待ってくれ。えぇと……ああ、ここだ」

 さっき仕込んだ場所を、俺はようやく見つけ出す。

 だって、小さ過ぎるんだって、これ。

 それは、極小の黒い点だった。

『そもそも、黒とは光を反射しないことを云うが、此れはそのような意味で黒いのではない。いや、光を反射しないという意味では違わんが、熱に変換される訳ではなく——えぇい、何故この私が、こんな初歩的な事を説明せねばならんのだ』

 と説明を放棄したヴァイエルが云う意味で黒いらしい、崖から僅かに離れた場所に浮いている微小な点は、奇妙な性質を伴っていた。

 背後の兵士達がざわつきはじめているので、気付いたヤツもいるらしい。

「ヴァイスさん、そこ——なんだか、歪んでませんか?」

 そいつらの疑問を代弁して、シェラが俺に尋ねた。

 一面が岩肌なので分かり難いが、黒点を中心に地面や崖の表面が不自然に歪んで見えるのだった。

「うん。歪んでるな」

 俺はそのまま、オウム返しに返した。

 だって、俺もよく分かってねぇんだもん。

「マグナ、来てくれ」

 俺が呼びかけると、マグナはひどく嫌そうな顔をした。

 いや、分かるよ?

 こんな得体の知れないモンに近付きたくねぇよな。

 けど、いまは安定してこの世とは切り離されているらしいから大丈夫だって、多分。

 駄目だったら、さっき独りで仕込んでた時に、俺だけ犠牲になってたらしいからさ。

「なに? 何をさせる気よ?」

「うん、まずは、これを持ってくれ」

 俺が宙空に掲げた右手には、唐突に『ガイアの剣』が握られていた。

 それを目の当たりにして、兵士達が一層どよめく。

 しまったな、さっき独りで居た時に、先にこっそり取り出しておくべきだったな。

 フクロから取り出すのと大差ねぇって話だから、そんなに驚かれても困るんだが、まぁ、勇者のお仲間である魔法使いとしての箔付けには役立ったと思うことにしよう。

「で? どうすればいいの?」

 ガイアの剣を手渡されて、ともあれ鞘から抜いて構えたマグナに小声で返す。

「俺の合図にあわせて、あの歪みの中心の点を斬ってくれ。剣が引っ張っられたら、必ずすぐ手を離せよ」

 本来は突いた方がいいような気もするんだが、斬った方が見映えがいいからな。

「え、それだけなの?」

「ていうか、斬るフリだけして、実際は剣を放り投げる感じでいいや。頼んだぜ」

「は? だから、もっとちゃんと説明しなさいよ!?」

 なんだか雑な指示しか出せなくて申し訳ないが、上手く説明出来る自信がねぇんだよ。

 俺はあえてマグナの文句を無視して、背後を振り返って声を張る。

「いまから、勇者マグナが魔王の元へと至る道を、文字通り斬り開いてみせる! その偉業を、しっかりと目に焼き付けろ、歴史の目撃者達よ!」

 神々もご照覧あれ、とか付け加えるべきだったかね。

 大袈裟な言い回しって、苦手なんだよ。

 くそ、頬が熱くなってきやがった。

「……とにかく、あれを斬ればいいのね?」

 囁き声には俺に対する怒りが滲んでいるが、物腰に動揺が見受けられないのは流石だった。

 これなら他の連中の目には、最初から全てを弁えていた自信満々な勇者様に映っているだろう。

 ホントの事を言えば、マグナにこんな危ない真似はさせたくないんだけどさ。

「あ、ちょっと待ってくれ。俺の合図で頼む」

 俺はマグナから何歩か離れつつ、細長い切り込みが二つ並んだ紙片をフクロから取り出す。

『これは、単なるまじないだ。芝居がかった下世話な験担ぎだ、忌々しい』

 そう吐き捨てたヴァイエルから手渡された呪符を右目に当てて、左目は掌で覆って隠す。

『こんなモノを使わんでも、本来は貴様に組み込んだ『観測者の眼』さえあれば事足りるのだ。貴様の如き暗愚の理解度が影響しない道具を仕立ててやった主人に、泣いて感謝を捧げるがいい』

 などとほざいたご主人様ヴァイエルによれば、この作業はマグナにしか出来ない——マグナがやらないと意味が無いのだそうだ。

『ガイアの剣——そうだな。貴様の如き頑迷な輩には、どこぞの阿呆が放言した異界の剣という表現が、確かにおあつらえ向きやも知れん』

 とか、相変わらず訳の分からない事をのたまうヴァイエルは、いつものように付け足して、俺を勝手に否定する。

『ああ、いや、違う。いま、貴様が想像したような異世界ではない。いわゆる並行ではなく多世界だ。くそ、まるで通じている気がせんな、このタワケが』

 罵って説明を諦めたヴァイエルによって、俺は自分が取るべき行動だけを刷り込まれたのだった。

「いいぜ。頼む」

 マグナに声を掛けて、小さく頷く。

 呪符の隙間で、マグナは物凄い不服そうな顔をしながらも、手にした『ガイアの剣』を頭の上に振りかぶった。

「彼はいま、何をしているのですか?」

「いえ、あの……私にも、よくは……」

 ルキウスとかいう騎士が、怪訝な声でシェラに尋ねているのが耳に届く。

 なんかよく分からん紙を右目に当てて、端から勇者に指示を与えている魔法使いなんて、怪しい以外の何者でもねぇもんな。

 けど、いいから大人しく見とけ。

「はっ——!!」

 気合いと共に振り下ろされた『ガイアの剣』は、歪みを両断した——かに見えたが、実際は刹那の瞬間にぐにゃりと姿を変えて先細り、マグナの手を離れて微小な黒点に吸い込まれた

 その途端、景色が切り替わった

 行く手を阻んでいた絶壁は、視界の遥か遠方まで後退し、絶壁を目にした後ではなだらかに思える傾斜が麓まで下っている。

 横手の山道を登れば、すぐに火口だって覗けるだろう。

 まるで、最初からこの世界の景色がそうであったように。

 当たり前に。

 なんの違和感も無く。

 その景色の何の変哲もなさが、度を超えて異常な事象を目の当たりにした時に、どうにか自分の日常に還元して精神の安定を保とうと過小評価する心の働きを後押しする。

 さらに、道具立ても万全だ。

 少し離れて棒立ちしている兵士達は、世界中の王家——つまり、彼らの主人から認められた勇者様とその仲間の起こした奇跡、と理解したつもりになるしか、自らを納得させる術はないのだ。

 まぁ、肝をつぶす気持ちは、俺にも十分理解できるけどね。

 なんでもこの先に、隆起した台地に繋がる洞窟があるらしいから、さっさと先を急ごうぜ。

 そんなことより、俺は注意深く周囲を探り、黒点が確かに消えていることを確認して、内心で大いに安堵のため息を吐く。

 あの小さな黒点が残ってたら、魔王に滅ぼされる前に、この世界が終わってたらしいからな。

 あれの消滅——ヴァイエルは蒸発と表現していた——は、今回の作戦における絶対条件だったのだ。

 しばらく、声も出せないほど呆気に取られていた兵士達が、目の当たりにした意味不明な出来事を廻って、ようやくどよめきはじめる。

「見ての通り、ヴァイスが魔王城への道を切り開いたわ! それじゃ、行くわよ!」

 それを、無理やり断ち切るようなマグナの号令。

 疑問や質問は一切許さない、という響きを伴っていた。

 これは、事前に取り決めておいた通りだ。

 だって、聞かれたって困るもんよ。

 俺も、マグナも。

 だからこそ、お互いに相手を主語において、責任を押し付けあっているのだ。

 マグナの号令一下、未だにざわつきながらも、ともあれ一行は前進を始める。

 流石に世界各国から選び抜かれた精鋭達だけあって、自分達の目的さえ思い出せば、それ以外のことは一旦棚上げして、気持ちの切り替えは出来るらしい。

 全く、物分りが良くて助かるよ。

 ただ、この先、彼らを待ち受けているのは、絶壁に阻まれた下層に棲んでいた魔物よりも、さらに強力な魔物達だ。

 いかなつわもの達とはいえ、果たして、どのくらい生き残れるものだろうか。

 俺は自分の仲間達に、こっそりと視線を巡らせる。

 こいつらだけは、絶対に守り抜かねぇと。

 実際は、俺は護られる側だろうけどさ。

 密かに、そんな決心をするのだった。

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