56. (RE)PLAY

1.

「わぁ、やっぱり自然が綺麗ですよね。この河をのぼる間も、ずっと思ってたんですけど」

 船縁から身を乗り出して、シェラは大河を遡った先に見える、樹木生い茂る河岸を眺めた。

「まぁ、自然を荒らす人間が居ねぇからな」

 隣りに並びながら零した俺を、シェラを挟んだ反対側からマグナが嗜める。

「あんたって、すぐそういう身も蓋もない言い方するわよね」

「あはは、確かにそういうところがあるかも知れませんね、ヴァイスさんには」

 シェラにまで同意されちまった。

 少し大袈裟なくらいシェラがはしゃいで見せているのは、ともすれば沈みがちな一行の空気を少しでも軽くしようという気遣いなんだろう。

「でも、暗黒大陸なんて呼ばれてるから、もっと不気味な場所を想像してました。こうして見てると、自然が豊かっていうだけで、特に変わってるようには見えませんね」

「まだ崖のこっち側ってのもあるんだろうけど、思ったより普通なのは確かだな」

「桟橋も、どうにか残ってるみてぇだしなぁ」

 後ろから聞こえた銅鑼声に振り向くと、首の太い煙管キセルを手にした船長が顎を擦っていた。

 ちなみに、誰もが船長と呼んでいるので、俺は未だにマグナの船を取り仕切る、この髭を生やした壮年の男の名前を知らなかったりする。

「え、あれが云ってた港町なの?」

 マグナが驚いた声を出す。

 両脇の陸地が見えないほど幅の広い大河の合流地点にかつて存在したその町は、正確には河港と呼ぶべきなのだろう。

「へぃ、その筈です。もう十年以上も使われちゃいねぇでしょうがね」

 言われてみれば、樹木の狭間に建造物の痕跡が遠目にも窺えた。

 だが、そのほとんどが密林に呑み込まれちまっている。

 そういった意味じゃ、あんまり普通とも言い難いな。

 魔王の居城にほど近い環境が、動植物の異常成長を促していたりするんだろうか。

 それとも、単に元から成長の早い種なのか。

 魔物に占拠された土地でさえなけりゃ、涎を垂らして研究したがる学者は多そうだ。

「あんだけ人の痕跡が失われつつあるっていうことは、道やなんかもロクに残されてねぇってことだからな。そんなトコを調査に分け入るとか、考えただけでウンザリするよ」

 何を隠そう、俺達はロランを筆頭とする国王連に依頼された形で、魔王バラモスの居城へ至る道筋を探る為に、砂漠の王国イシスの更に南に位置する暗黒大陸を訪れているのだった。

 この大陸が魔王を筆頭とする魔物の群れに制圧され、人の住まない魔境と化し、さらには天変地異と云うべき超自然的な隆起で大地が切り立つ壁のような崖に囲まれた台地に変容して以降、その奥深くに位置する旧王国の王城——現在は魔王の居城と目されているその場所を目指して、もちろん幾度となく各国から、もしくは数ヶ国からなる合同で調査隊が派遣された。

 だが、そのほとんどが、崖に辿り着くことすら出来ずに、分厚い密林と其処を徘徊する魔物に妨げられて失敗している現状だ。

 魔王が台地の奥に引っ込む以前のように軍隊を送ろうにも、現地の状況がまるきり分からないってんじゃ話にならない。

 さりとて、大規模な調査隊を送ったところで、人員を失うばかりでまるで成果が上がらないときては、ほぼ手詰まりだ。

 正攻法ではな。

 この状況に一石を投じたのが、勇者として台頭しつつあるマグナの存在という訳だった。

 一般の兵士と異なり、魔物退治の専門家である勇者とその一行であれば、魔王城へ至る道筋を発見できるのではないか。そう期待されているのだ。

 もう少し内情を明かせば、魔物の跋扈に上手く対応しているアリアハンやロマリア等の数ヶ国を除いた各国には、大規模な調査隊を送る程の国力が残されていない。

 その連中にしてみれば、微々たる援助で成果が期待できる勇者の存在は、使わない手がない妙手なのだった。

 正直、便利に使われている感は否めない。

 そして、勇者は人間側の、いわば切り札だ。

 それを最前線とも言える現地調査に投入して、使い潰すような真似が許されるのか。

 ロランはそう主張して反対したらしいんだが、国家としての運営が危うくなりかけている弱小国連合に押し切られた格好だ。

『ボクらの都合を押し付けてしまって、本当に申し訳ない』

 口ではしおらしくマグナに謝っていたロランだが、国際社会におけるマグナの立場を強化するまたとない機会だという下心も、きっと腹の内に抱えてやがったに違いないと、俺は踏んでるけどね。

 そのロランから人が住んでいた頃の暗黒大陸の地図を譲り受け、前もって道筋なんかもある程度は決めていたものの、眼前に広がる丸出しの大自然を目の当たりにするに、事前の情報がどこまで当てになるかは分からない。

 探索の方向性は、実際に密林に分け入った後に、様子を見ながら都度修正していくしかなさそうだ。

 全く、面倒な仕事を押し付けてくれやがったモンだぜ、王様連中もよ。

 実際にバラモスの居城に攻め込む段になったら、各国の軍隊をせいぜい露払いとしてコキ使ってやるとしよう。

「——っとと」

 蔦や苔がまとわりつき、あちこちに穴が開いた頼りない桟橋に降り立つ時に、リィナが足を滑らせてたたらを踏んだ。

 この俺でさえ、バランスを崩すことなく降りられたのに、だ。

「大丈夫かよ」

 さりげなさを装って支えようとした俺から、リィナはすぐに身を離す。

「あ、うん、だいじょぶだいじょぶ。ごめんね、気を遣わせちゃって」

 力なく笑って、そそくさと逃げるように先に進んでしまう。

 幽霊船でニックに手酷い敗北を喫して以来、未だに終始、この調子だった。

 どうにも、参ったね。

 マグナに目をやると、口をへの字に結んでリィナの方に顎をしゃくられた。

「いや……やっぱ、俺、避けられてると思うぜ」

「そんなこと分かってるわよ」

 分かってるのかよ。

「けど、あたしもシェラも、もうお手上げなのよ。何を言っても大丈夫しか返さないし」

 シェラもリィナに聞かれないように小声で囁く。

「本当は、もうしばらくそっとしてあげておいた方がいいと思うんですけど……」

 今回の仕事を王様連中に押し付けられた所為で、予定より早くロマリアを発つことになっちまったからな。

「とにかく、あたし達ももちろん見ておくけど、しばらく気をつけてあげてよ——船長! 送ってくれてありがとう。ロマリアまで船をお願いね!」

「へぃ、勇者様もお気をつけなすって!」

 いつも通り、帰りはルーラでひとっ跳びなので、ここまで俺達を運ぶ役目を果たしたマグナの船の乗組員達は、慌ただしく離岸の準備を始める。

「トビ! 船の護衛は任せたわよ!!」

「分かっとる。ホンマに儂は同行せんでええんじゃな?」

 マグナは船に向かって大声で語り掛けたのに、すぐ背後から声が聞こえて、俺達は一斉にびくっと振り返った。

「ビックリさせないでよ。あんたって、ホントに人を驚かすのが好きよね。そういうところは、歳相応に子供っぽいっていうか」

「なんじゃと?」

 黒布の隙間でまなじりを吊り上げるトビだったが、さらっと流される。

「ええ、あんたは船に残ってちょうだい。あんたまでこっちに来ちゃったら、帰りの船が心配だもの」

 相変わらず全身を黒装束で包んだトビは、切れ長の目でマグナを値踏むように眇めた。

「……お前に死なれたら、儂の食い扶持がぅなってまうんじゃ。おっ死ぬ前に戻って欲しいもんじゃな」

「当たり前でしょ。こんな調査に、命まで懸けるつもりなんてないわよ」

 マグナは、にや~っと人の悪い笑みを浮かべる。

「なによ。口ではなんだかんだ言いながら、やっぱり心配してくれるんだ、あたしのこと?」

ちゃうわ。儂の食い扶持の為じゃ言うとるじゃろ」

「照れなくていいのに。ご主人様が心配ですって、素直に言いなさいよ」

「阿呆か、誰がご主人様じゃ。付き合いきれんわ」

 苦々しげ吐き捨てたトビは、その場から消え失せたような身のこなしで、気付くと船上に戻っているのだった。

「からかい甲斐があるのよね、あのコ」

 人の悪そうな表情のまま、クスクス笑うマグナ。

 なんか知らんが、意外と馬が合うみたいなんだよな。

 こういう時、内心穏やかじゃなくなる自分が、本当に面倒臭い。

 トビはどうやらマグナより一歳年下らしいし、マグナはきっと年上の方が好みだし、どうにかなるとは思ってないんだけどさ。

 つか、俺にはそもそも、もう関係の無い話な訳で。その筈だ。

 マジでそろそろ、ちゃんと割り切らねぇとなぁ。

「それじゃ、行きましょうか」

 俺とシェラを促して崩れかけた桟橋を歩き出すマグナのサバサバとした横顔を、恨めしげに眺める。

 こいつもこいつで、どういうつもりなんだかな。

 俺が便利な相談役に徹しようとしても、ワザとそれを邪魔しているフシがある。

 以前、俺がしでかした仕打ちへの意趣返しのつもりなら、何も言い返せねぇんだけどさ。

 今回の調査に出る前に、二人きりでマグナに相談されたロマリアの夜のことを、俺は思い出していた。

2.

 暗黒大陸へ調査に向かう五日ほど前の、日が暮れ始めたロマリア——

 ノックの音に宿屋の部屋のドアを開けると、朝から実家に戻っていた筈のマグナが壁に寄りかかって、斜めに俺を見上げていた。

「あれ、もう戻ってたのか。今日は向こうに泊まるのかと思ってたぜ」

「うん、まぁ。いま、時間大丈夫?」

「え? ああ、別にいいけど」

「そ。じゃあ、ちょっと夕ご飯に付き合ってよ」

「へ?」

「なによ。嫌なの?」

「いや、嫌じゃない。全然」

 なんだなんだ。

 やっぱり、実家でなんかあったのか。

 自分に伏せられていた事実を確認する為に戻った筈だが、その件でマーサと喧嘩になっちまったとか——って雰囲気でもなさそうなんだよな。

 特に落ち込んだ様子は見受けられない。

「なら、行くわよ」

「……あいあい、リーダー」

 聞きたい事は色々とあったが、飯屋に着いてからでいいか。

 そっけなく言い置いて先を歩くマグナの後について、別に飯屋に行く程度なら支度も何もないので、そのまま部屋を出る。

 なるべく騒がしい店がいいとのマグナのお達しで、ロマリア城下町の中心にある噴水広場に面した適当な安酒場を見繕って、そこに入った。

「そういや、シェラは?」

 とりあえずの注文を済ませて何気なく問うと、マグナは明後日を見ながら気のない口調で返す。

「今日は遅くなる——っていうか、もしかしたら泊まってくるかもって言ってあるから、リズの店にでも行ってるんじゃない」

 マジかよ。

 あいつら、あれから付き合いが続いてたのか。

 シェラはロマリアに自分の店を構えているリズを随分と尊敬しているみたいだったし、リズの方も相当に懐いてやがったからな。

 ちなみに、ガイアの剣はロマリアに戻ったその日の内にロランに渡して、厄介払いを済ませてある。どうせいま頃は、魔法使い共の格好の研究材料になっている事だろう。

 貸し出しの密約を結んでいたにやけ面に関しては、シェラの遠話装置で連絡を取ったところ、『然るべき時にお貸しいただければ結構ですよ。そしてそれは、今ではありません』とか、毎度ながらに良く分からん事をぬかしてやがったので、とりあえず放置した。

「——で?」

 最初に頼んだ酒を半分ほど消費して、ツマミ代わりの食事がぼちぼち届きはじめた頃合いに、それとなくマグナに話を振ってやる。

「え?」

 いや、え? じゃなくて。

「だから、どうだったんだよ。お母さんとは、いい話し合いが出来たのか?」

 こっちは日がな一日、部屋でゴロゴロしながらずっとやきもきしてたってのによ。

「……あんたが、お義母かあさんとか言わないでよ」

 マグナは、全然関係ない文句を口にした。

 いや、俺が言ったのと違う意味で受け取られてる気がするんだけど?

「馴れ馴れしい口利いて悪かったよ。で、マーサさんとは、ちゃんと話せたのか?」

「……人の母親を、名前で呼ばないでよ。いやらしい」

 いやらしいて、お前。

「じゃあ、お袋さんでいいから」

「なんなのよ、その言い方……まぁ、それはね。聞く前から、予想もついてたし」

「そっか。思ったより平気そうで、安心したよ」

「ふぅん。心配してくれてたんだ?」

「そりゃそうだろ。俺はいつだって、マグナの事は気にかけてるよ」

「あ、そ」

「ま、ちゃんと話せたなら、よかったな」

「うん」

 マグナは、しばらく杯を傾けた姿勢のままで静止した後、少し首を捻ってテーブルにグラスを戻した。

「ん? あれ?」

「どした?」

「——ごめん、待って。やっぱり、あんまり平気じゃないかも」

 やや困惑した口振りで続ける。

「え、あれ? なんか——思ったより、モヤモヤしてるみたい?」

 いや、俺に聞かれても困るんだが。

「母さんの前では、全然平気なつもりだったんだけど……」

 グラスを持っていない方の手で、額を押さえる。

「だって、母さんは母さんで、別にそれは変わらないじゃない? だから……ふぅん、やっぱりダーマの出身だったんだ、くらいにしか思わなくて……そりゃ、最初からいろいろ知ってた癖に、それをあたしに黙ってた事には腹が立ったけど……それよりあの母さんが、あたしに凄い勢いで謝ってくるから、それが逆に違和感過ぎて困ったっていうか……」

 顔を上げて、正面から俺を見る。

「だから、そんなに気にしなくていいって言えたのよ。あたしは、いまは大丈夫だからって。ちゃんと」

「そっか」

「でも……これって、自分でもちゃんと呑み込めてなかっただけなのね……気付く前に会っといて良かったわ。今から顔を合わせたら、結構ヒドいこと言っちゃいそう」

「まぁ、言う権利はあると思うけどな、マグナには」

「……そうかな」

「だと思うぜ。溜め込んでないで、言っちまった方がいいのかも知れねぇし」

「……でも、それで母さんがもっと傷つくのは、なんかヤダな」

「向こうも、きっとそう思ってるよ」

 マグナは、怪訝な目つきを俺に向けた。

「なんか知らないけど、さっきからヤケに親しげじゃない? あんたに、母さんの何が分かるっていうのよ」

「いや、何も分かんねぇけど。お前んで、この前ちょっと喋らせてもらっただろ。それだけだよ」

「その割りには、なんか……母さんもだけど……」

 マグナは口の中でブツクサと文句を噛み殺した。

 なにが、そんなに気に入らないんだ。

「なんにしろ、マーサさんがお前を大切に思ってることに、間違いはねぇよ」

「そんなの、あたしだって分かってるけど……」

「なら、良かったじゃねぇか。ヒドい口利かずに済んだなら、それはそれでさ」

「うん。いまだと文句言ってもどうしようもなくても言っちゃいそう。っていうか、今度帰った時に、もう少し追加で言ってやるわ」

「おう、言ってやれ言ってやれ。てか、その口振りなら、もう自分でもそこそこ整理ついてるんだろ」

「そうなのかな……って、なんか面倒臭がって、適当に流そうとしてない?」

 恨みがましい目付きで睨まれた。

「ンなことねぇよ。ちゃんと聞いてるっての。っていうか、本人もよく分かってねぇ事柄に、そんな簡単にアレコレ言えねぇっての」

「そうだけど……あたしだって、色々複雑なんだから! ちょっとくらい、自分の気持ちが分からなくても、仕方ないでしょ!?」

「別に悪いなんて言ってねぇよ。いいから、なんか悩んでんなら、ここで吐き出しとけよ。どうせ、お袋さんの事だけじゃないんだろ? うまく言葉にできなくても、ちゃんと全部聞いてやるから」

 その為に、俺はここでこうして間抜け面を晒してるんだからさ。

「……また、偉そうに」

 仮に偉そうだとしても、貴女あなたほどじゃないと思いますけどね。

 マグナはしばらく口を噤んだまま、酒の入ったグラスを何度か傾ける。

 一杯目を飲み干して、不安になるペースで二杯目もグビグビ飲んでから、再び口を開いた。

「——そもそも、一番の問題はね」

「うん」

「あたしがいま、全然無理をしてないって事なのよ」

 予想外の返事が戻ってきて、俺は寸時言葉を失った。

「お、おぅ。そりゃ、よかったな?」

「全然良くないっ!!」

 タンッ、とグラスをテーブルに勢いよく置いた拍子に、マグナの手に酒が少し溢れる。

 えー、なんだよ、もー。

 テーブルの端にあった布巾を手渡しながら、首を捻る。

「悪い、よく分からん」

「なんでよ!? 分かるでしょ!? だって、それじゃまるで、あたしが勇者に向いてるみたいじゃない!!」

 あぁ、そういう意味か。

 同意の余り自然と頷き掛けた顎を、力づくで無理矢理抑え込む。

「……いま思うとね」

 手にかかった酒を布巾で拭いながら、ポツリポツリとマグナは続ける。

「ヴァイスと初めて会った頃のあたしって、結構無理をしてたのよ」

 えー、アレでかぁ?

 と揶揄からかうのは、辛うじて堪えた。

 思ったよりも真面目な話らしい。

 それに正直、よく分かるのだ。

 俺も、無理をしていたから。

「キラキラした女の子に憧れてたって話はしたでしょ?」

「ああ」

「だから、意識して女の子っぽくあろうとしてたのよ。いま考えると」

 やたらと可愛いに拘ったりしてたもんな。

 俺も、マグナの事を、普通の女の子として扱おうとしていた。

 いま思うと、色んな不都合に目を瞑って。

「あー……確かに、そういう部分はあったのかもなぁ」

 つまり、俺達はお互いに欺瞞を抱えていた。

「でしょ? でも、あんたに捨てられた後に、なんかもう色々面倒臭くなっちゃって、そういうのも止めちゃったのよね」

 一瞬、息が詰まる。

「でね、とにかくもう無理するのは止めて、自分が思うように振る舞ってたら、なんかどんどんみんなが勇者様勇者様って勝手に盛り上がるのよ」

 前に聞いた内容とほぼ同じだが、再度合流してからここまで行動を共にして、もう少し深いニュアンスまで掴めるようになったと思う。

「これじゃまるで、あたしが生まれついての勇者みたいじゃない。そんなんじゃないっていちいち否定するのも面倒だし、そもそも言っても聞く耳持たれないし、けど放っておいたらますます調子に乗られるし……」

「つまり、実は勇者が天職なんじゃねぇかって気分に、自分でもなっちまったか?」

「そんな風には、死んでも思わないんだけど」

 ああ、そうですか。

 勘違いして、どうもすみませんね。

「けど、昔のあたしは、女の子らしくあろうとしてたのと同じで、勇者を演じてたりもしてたのよ。勇者が求められた場面では」

 アリアハンでは、立派な勇者の卵をずっと演じてたんだもんな。

「でもね、そうするのをやめたっていうのに、それでも相変わらず——っていうか、それまで以上に勇者扱いされるのよ。ホント、なんなの!? そんな風にされたら、こっちはもう、どうしようもないじゃない!! なんなのよ!? やっぱり、なんだっていいんでしょ!? あたしじゃなくたって、勇者って肩書きさえあれば誰だって!? だったら別に、あたしじゃなくたっていいじゃない!!」

「いや、まぁ、そう思っちまう気持ちも分かるけどさ」

 マグナをなるべく刺激しないように、考え考え後を続ける。

「誰でもいい訳じゃないってのは、自分でも分かってるだろ?」

「……知らない。分かんない」

 駄々っ子か。

「俺を睨んだって仕方ねぇだろ——で、結局のところ、マグナ自身は、どうしたいんだ?」

「え?」

「いまからでも、やっぱり勇者なんてやーめたってんなら、俺は別にいいよ」

 気負いも衒いもなく言えたのは、あの焚き火の夜から少しは俺が変われた証だろうか。

 そう願いたい。

「今度こそ、最後まで付き合うよ」

「……」

 ますます怖い目をして睨まれた。

「自分が自分である為に、自分の思うようにするんだろ」

「そうよ。だから……」

「うん?」

「だから、自分の思うようにしてるんだってば」

「そっか」

「なのに……」

「アリアハンにいた頃と違って、意識して勇者として振る舞ってる訳でもないのに、ますます勇者扱いされちまって、腰の据わりが悪ぃんだな」

「……そうよ。悪い?」

 最近にしては珍しく、年相応の拗ねた顔付きをされて、思わず苦笑が漏れる。

「だから、悪くねぇってば」

「だって……」

「あんなに勇者を嫌がってた癖に、結局向いてんじゃねぇか、みたいにも思ってねぇよ、全く」

「……ホントに?」

「ああ。むしろ、全然変わってねぇなって思ってる」

「なによ、それ。あたしだって、少しは成長してるわよ」

「もちろんだ。いつも感心させられてる。だから、そういう意味じゃねぇよ。分かってるだろ?」

「知らない。そんなの、分かんない」

 ただ拗ねてるだけなので、聞き流す。

「けど、そうだな……」

「……なに?」

「いや、無理してないってんなら——勇者の役目を放り出した方が、逆に嫌な気分になりそうなら、とりあえずは今のままでもいいんじゃねぇの」

「……やっぱり、適当に答えてるじゃない」

「適当どころか、多大な覚悟の上で喋ってるよ」

 だって、それはすなわち、魔王退治に付き合うって宣言してるのと同じなんだぜ?

「さっきも言ったけど、やっぱり嫌になったら、それはそれでいいよ、俺は。どうなろうと俺だけは、最後までお前の側に居続けるよ。今度こそ」

「……また、適当な事言って」

 マグナの尤も過ぎる文句は、聞こえないフリをする。

「そんなこと言って、もしあたしに恋人でも出来たらどうするのよ。それでも、側に居てくれるの?」

「へ?」

 全く思ってもいなかった指摘をされて、しばらく固まっちまった。

 なるほど。

 そういう未来も、あり得るか。

「……お前が、そう望むなら」

 ようやく、それだけ答えられた。

 だが、マグナは思いっ切り顔を歪めてみせる。

「なによ、それ。バカじゃないの」

 いや、バカなこと言ってんのは、お前の方だろ。

「あんたはあたしのなんなのよ? 親戚の叔父さん? どういう感情で喋ってるの、それ?」

 魔王を退治して世界を救うだなんて、大袈裟で無責任な期待を世界中から押し付けられようとしている、いたいけな少女の力になろうとするのが、そんなにオカシイことですかね。

 つか、誰が叔父さんだ。

「とにかく、だ。お前がどういう判断を下そうが、俺だけは最後まで付き合うよ。ただ、この先自分がどうするかは、絶対に自分で決めろ。そこだけは、必ずだ」

「そんなの……当たり前じゃない」

 そうだな。

 それが、マグナだもんな。

「ヴァイスこそ、ちゃんと自分で決めなさいよ? あたしに付き従ってるだけじゃなくて」

「だから、俺はもう自分で決めてるんだよ。最後まで、お前に付き合うってな」

「なによ、それ。そんなのズルい」

 そんなムクれた顔をされましてもね。

 マグナはしばらく無言のまま、テーブルの一点を斜めに見下ろす。

 なんか色々考えてるんだろうな。

 邪魔をしないように、追加の酒を頼んで黙りこくって口に運んでいると、やがて不意に何かを思い出した顔をして、マグナが俺に視線を戻した。

3.

「そうだ。そういえば、あんた。シェラとあのオレ様を、無理にくっつけようとすんのやめなさいよ」

「……は?」

 話題が飛び過ぎて、一瞬付いていけなかった。

 オレ様って、フゥマの事か。

 どうした、急に。

 マグナは顰めっ面で続ける。

「絶対合わないわよ、あれ」

「あー……」

 言いたい事は、分からないでもない。

 この前の幽霊船の一件を思い出すに、フゥマにはティミみたいなヤツの方が合うんじゃないかって、俺も思ったからな。

 けど——

『大丈夫。心配しないで』

 ニックに立ち向かう前の、それまで聞いたことのないフゥマの落ち着いた安心させるような声音。

 二人きりの時は、あんな感じなんだとしたら。

「案外、大丈夫なんじゃねぇかな」

「えー、そう?」

 お姉さんは、大いに不満気だ。

「あんたみたいな人の方が合うんじゃないの、シェラには」

「へ? 俺?」

 また突拍子もない事を言い出したな。

 だが、今度は一考に値する提案だ。

「正直、それも悪くないかもなぁ」

 などと深く考えもせずに答えたこの時の俺は、おそらくそこそこ酒が回っていたんだと思う。

「え——そういうつもり、あるんだ?」

 自分で言い出しといて、吃驚びっくりしてんじゃねーよ。

「無くはねぇかなぁ。シェラの事は、もちろん好きだし、大事にしてやれると思うよ。性格も合わなくはないんじゃねぇかな、俺の自惚れでなけりゃ」

 断るまでもないが、これは単なる与太話だ。

 だから、シェラ自身の趣味趣向とかには、この際目を瞑ってくれよ、只の酒飲み話なんだからさ。

「そう、なんだ。そうね、あんただったら、シェラの事情も気にしなさそうだし——」

 奥歯に物の挟まったような言い方だな。

「うん。ていうかアイツ、普通に女だしな。っても、もし俺が一度も女と付き合ったことなかったら、ちと話は違ってたかも知んねぇけどさ。ソコはもう、割りとどうでもいいからなぁ」

 微妙に呂律が回らなくなってるな、俺。

「え? どういうこと?」

「あれ、分かり難ぃか? ほら、一回も女と付き合った事がなかったらさ、考えたくなくても想像しちゃいそうじゃん。なんていうか、肉体的な差みたいなモンをさ。けど、まぁ、飽きたって訳じゃないけど、別に女の体って、もうそんなに珍しいモンでもないからなぁ、俺にとっては」

「……なに色男みたいなこと言ってんのよ」

「いや、そんなツモリねぇけど。そこらの男と同程度の経験はあるって言ってるだけだよ」

「生意気……」

 お前にだけは言われたくない訳だが。

「ていうか、なんであんたが、あのオレ様の肩を持つのよ」

 言われてみれば、そうね。

「……あいつとは一緒に行動する機会が、割りと多かったからな」

 別に肩を持つつもりもないんだけどさ。上手くいかなかったらいかなかったで、仕方ねぇとも思うし。

「つか、最後はあいつら自身が決めることだろ」

「それは、もちろんそうよ。でも、それでシェラが傷付くって分かってて、後押し出来ないでしょ。もし付き合っても、絶対すぐ別れるわよ、アレ。賭けてもいいわ」

 俺達みたいにか?

 口をつきそうになった自嘲は、なんとか呑み込んだ。

「そこまでか? つか賭けるって、何を賭けるんだよ?」

「賭けって、なに不謹慎なこと言ってんのよ」

「いや、お前が自分で言い出したんだが」

「……別に、いちいち具体的な事まで考えて喋ってる訳じゃないんだけど」

 分かってるよ、そんなこと。

 けど、男に対して不用意に迂闊な発言をする、お前のその不用心さを、俺は指摘してるんだよ。

 いい加減にしねぇと、言葉尻を捉えていやらしい賭けの約束とかさせちまうぞ——という気持ちをぐっと堪えて、平静を装う。

「ただ単にフゥマが気に入らねぇだけなら、もうちょい様子を見てやったらどうだ? あいつらが自分達でどういう答えを見つけるのかさ」

「……外れたら、なんでもひとつ言うこと聞いてあげるわよ」

 ぶすっとムクれながら、マグナは呟いた。

「へ?」

 なんなの。

 人の話聞いてる?

 さっきから、話が唐突過ぎない?

「だから! すぐ別れるっていうあたしの予想が外れたら、なんでもひとつだけ言う事聞いてあげるわよ」

「……お前さ」

 ため息しか出ない俺の様子に、マグナはますます拗ねた顔をする。

「何よ」

「年頃の娘が、簡単にそんな事言うんじゃありません」

「別に、そんなつもりじゃ——」

「しかも、自分に惚れてるって言ってる男に対してさ」

「だって……別にヴァイスは、あたしにヘンなことしないでしょ、どうせ」

 どうせって何だ。

「そりゃ、お前が望まなきゃしねぇけどさ。俺がどうこうって話じゃなくてだな——」

「え——望んだら、するの? ヘンなこと?」

 引き続き、ため息しか出ない。

「なに、お前。タマってんの?」

「なにが?」

 ホントに言葉が通じてませんみたいな顔しやがって。

 でも、こいつの育ちからして、気楽に猥談できるような友達はアリアハンには居なかっただろうから、仕方ないのかね。

 ただ、それにしたってさ。

「さっきから、ワザとやってんのか?」

「だから、なにがよ!?」

 ダメだな、こりゃ。

 駆け引きにしちゃ、お粗末過ぎる。

 少しずつ、こういう方面の知識も教えてやった方がいいのかね。

 このままじゃ、危なっかしくて仕方ねぇよ。

「まぁ、今はいいや、もう」

「なんなのよ、その言い方!?」

「お前に、隙が多すぎるって話だよ」

「は? そんなの、相手がヴァイスだからに決まってるでしょ? じゃなきゃ、あたしだって、もっと気を付けてるわよ!」

 いや、だからさ。

 なんなの、この酔っ払い。

 タチ悪ぃなぁ。

「お前、悪い酔い方してねぇか?」

「酔ってないわよ! こんな、ちょっと飲んだくらいで!!」

 いやぁ、結構目とか据わって来てますけどねぇ。

「あれから、お酒も強くなったんだから。全然、まだまだ飲めるんだから。見てなさい——すいませ~ん!」

 振り向きながら片手を上げて給仕を呼び、勝手に追加の酒とつまみを頼みはじめるマグナ。

 その口が意味のわからない言葉を紡ぎはじめたのは、新しい酒を一口二口舐めた後だった。

4.

「で、どうなのよ?」

「へ? なにが?」

 マグナは珍しく俺から視線を逸らしつつ、ボソリと呟く。

「だから、その……何人くらいなのよ」

「はぁ?」

 四方八方でがなり声が飛び交うけたたましい酒場の一角で、辛うじて耳に届いた言葉の意味が分からずに、我ながら素っ頓狂な声を出す。

「だから! 何人くらいと、付き合ったことあるのよって聞いてるでしょ!?」

「ああ、そういう……いや、俺は全然少ねぇよ。それなりの期間、ちゃんと付き合ったことあるのは……三人かな。お前を入れると、四人だけど」

「なんで、あたしを入れるのよ」

 はい、すいません。

「別に、そこまでちゃんと付き合ってないし」

「あのくらいの付き合いを入れないとなると、二人とかになっちまうけど」

「ふぅん。そうなんだ……」

 手持ち無沙汰に酒を口に運びながら、何やら聞きにくそうにしている。

「なんだよ?」

「え? 別に……その、そういう、ヘンなことしたのも、じゃあ、三人だけなの?」

「ヘンなって……ああ、何人と寝たかって意味か?」

「だから、ヘンな風に言わないでよ!」

「いや、別にヘンじゃねぇだろ。寝たことあるだけだったら、さすがにもうちょい居るよ。っても、両手の指に余る程度だけどな」

「えっ——」

 なんでびっくりしてんの。

「それって……普通なの? 付き合ってもいない人と、そんなに、その……するのって」

 ああ、そうか。

 最近忘れがちだったけど、これで年頃の女の子だもんな。

 色恋沙汰には、やっぱり特別な興味を惹かれると見える。

「あー……いや、どうだろうな? 正直、冒険者の貞操観念って、一般的なソレより相当低いんだとは思うぜ。でも、これは俺の名誉の為に言っとくけど、ある程度仕方ない部分もあるんだって。明日死んじまうかも知れない職業だろ? だから、いまやれることはやっとかないと損だ、みたいな刹那的な付き合いになりがちなんだよ」

「だから、ヴァイスが女の人とそういうことしまくってたのも、仕方ないって言いたいの?」

 はしたない事を言うんじゃありません。

「いやー? そんな中では、俺は身持ちが固い方だったと思うけどなぁ。別に誰でもいいって訳でもなかったしさ」

 嘘だ。ごく短い間とは言え、誰でもよかった時期はあった。

 別に、敢えてマグナに教えたりしないけど。

「なに色男みたいなこと言ってんのよ。っていうか、そんなにモテたの?」

「なんだよ。随分と不満そうじゃねぇか」

「だって、パッと見、人目を惹くほどカッコいいって訳でもないじゃない」

 そりゃどうも、すいませんね。

「いや、そういう容姿とかって、あんまり関係ねぇけどな。最終的には」

「え、嘘。そんなことないでしょ? ……そうなの?」

「うん。そりゃ、最低限の清潔感とか身嗜みは必要だけどさ。結局みんな、大抵は話を聞いて欲しがってるんだって。だから、ちゃんと相手の話を聞いてやれば、そこに酒でも入ってりゃ、自然とそういう雰囲気になるっていうかさ……そりゃ、毎回上手くいく訳じゃねぇけど、向こうにもこっちにもそのつもりがあれば、三回に一回くらいは、そういうことになるっつーか」

 相手の欲しがっていそうな言葉と態度を、お互いに割り切った上で適度に与え合っていれば。

 これ以上、生々しいことはマグナには言えないが。

「……」

 あれ、疑り深い目をしてやがるな。

「そんで、また都合のいいことにさ、冒険者なんてやってる男共ロクデナシは、最低限の清潔感もなけりゃ、女の話なんて聞きもしねぇで押し倒す、みたいなのばっかしなんだよ。だから、ちょいと小綺麗に身形みなりを整えて、親身になって話を聞いてやるだけで、相対的に俺の評価って勝手に上がるんだって。別に、そんなに色男である必要はねぇんだよ」

 当時は、自分なりに相手の悩みに真摯に寄り添ったりしてたつもりだったけど、いま考えると、人を馬鹿にした付き合い方をしてたよ、俺は。

 でも、言い訳にならねぇけど、向こうも似たようなモンだったから、お互い様だと思うんだよな。

「なんか、ちょっと……ヴァイスの見方、変わったかも」

 えぇ、いまさらかよ。

 別に隠してなかっただろ、俺。

「ンなスネた顔すんなって。出逢ってからは、お前一筋じゃん、俺」

「——!?」

 いや、今更驚くトコか、ソコ?

「最初の頃から思ってたけど……ヴァイスって案外、恥ずかしいことを平気で言うわよね」

「えー。別にホントのことしか喋ってねぇけど」

 ニヤニヤしながら、右手に持ったグラスをあおる。

「嘘ばっかり。揶揄からかう事しか考えてない癖に」

 っていうか、こいつと出会ってから、女とそういうことを致してないのは事実な訳だが。

 マグナ達と居ない間は、姫さんと旅してたから、教育に悪いことは出来なかったしさ。

「あー、心外だ、傷つくぜ。嘘なんか、ひとっつも言ってねぇのによ」

「何言ってんのよ。ついこの前まで、あの美人の船長さんと仲良くやってたじゃない」

「だから、グレースとは、そういう関係じゃねぇっての。マグナも聞いただろ?」

「まぁ……あの海賊の人も、何も無かったとは言ってたけど」

 不満げな顔つきながらも、渋々と俺の言い分を認めるマグナ。

『お前ぇも、よく分かんねぇヤツだな、ヴァイス。ええ? 結局、お頭にゃ一度も手ぇ出してねぇんだろ?』

 あの時は、なんてことを言い出すんだこのホセ野郎と内心大いに憤慨したモンだが、これは感謝だな。

 自分で弁解するのと、第三者から聞かされたんじゃ、内容は同じでも説得力が違う。

「じゃあ、あのスティアって人は、どうなのよ。ロマリアに来る度に、会ったりしてるんじゃないの?」

 古い話を持ち出してきたな。

「もう長いこと会ってねぇよ。つか、お前は知らねぇだろうけど、結構色仕掛けとかされてたのに、ちゃんと我慢したんだぜ、俺」

 ロランの陰謀でな。

 マジで褒めて欲しいよ。

「知らないわよ、そんなの」

 だが、マグナはつれない返事をするのだった。

「それなら——エフィさんは、どうなのよ」

「ああ……いい友達になれそうだって話に、この前落ち着いたけど」

 マグナだって、友達になってただろうが。

「なら、リィナは?」

 おっと。急に本題に切り込んできやがったな。

「いや……あいつは、俺にとってはヒーローだからさ」

「なによ、それ」

「そういう対象ってより、憧れっていうか」

「じゃあ、恋人みたいには見れないって事?」

 自分でも意図せず、ちょっと間が空いた。

「……いや、そんな事ねぇな」

 なんとなく、嘘は吐きたくなかった。

「ほら、やっぱり」

 意図的に消されたマグナの表情は読めなかった。

「なら、もうちょっと気に掛けてあげなさいよ」

「気に掛けてるよ、当たり前だろ」

「避けられてる癖に」

「いや、だってさ——」

 今のリィナに対して、無理に距離を詰めるのは、なんか違うじゃねぇかよ。

「……マジで、どうしたらいいんだろうな」

 思わず、酒臭いため息が漏れた。

 ガイアの剣を求めて、湖の孤島まで旅した時のことを思い出す。

 まさかリィナが、冒険中に足手まといになるだなんて、考えたことすらなかったのだ。

「真面目な話……ダーマに帰すことも、考えないとダメかもね」

 マグナの言葉を切欠に、様々な感情が湧き上がって、すぐに口を開けなかった。

「さすがに、そりゃねぇだろ……」

「だって、いまの状態で連れ歩いたら、ホントに魔物にやられて死んじゃうかも知れないじゃない、リィナが」

「それは……」

「あたしだって、ダーマになんて帰したくないわよ。でも、死んじゃうよりは……マシじゃない」

「そりゃ……そうだけどよ」

「納得できないなら、ヴァイスがなんとかしてよ。あのコ、あたしの言うことなんて、ホントに全然聞かないんだから」

 マグナに対しては、特に複雑な感情を抱えてるもんな、リィナは。

「俺もそう思ってさ、気晴らしに誘ったりはしてるんだけど、いっつもはぐらかされて、避けられちまうんだよな」

 リィナらしくもなく、卑屈に見えるくらい、やたらと遠慮をしやがるのだ。

「しばらく、陰からそっと見守るくらいが、ホントはいいんだろうけどさ」

「それが出来たらね」

 こういう時は、マグナの肩書きと立場が邪魔をする。

 名実ともに世界中から認められた勇者になりつつあるマグナには、一つところに落ち着いて、リィナが立ち直るまでのんびり過ごすなんて贅沢は許されないだろう。

「しばらくトビと入れ替えて、リィナはロマリア辺りで休んでてもらうとか——」

「本気で言ってるの?」

 マグナは、俺に皆まで言わせなかった。

「いや、言ってみただけだ」

「そんなことしたら、ただでさえ弱ってるところに、あたし達からも必要無いって見限られたみたいに感じちゃうじゃない、あのコが」

「分かってるよ。だから、本気じゃねぇって」

 ふと、思い付く。

「だったら、俺も一緒に残るってのは?」

 それなら、リィナも見捨てられたとは感じねぇだろ。

 俺ごと見限られたと思われるかも知れないけど、そしたら傷の舐め合いをすればいい訳だし。

「……本気で言ってるなら、考えるけど」

 何をだ。

「冗談だ」

「こんな時に、つまんない冗談言わないでよ」

 申し訳ない。

「ダメだ。妙案を思い付ける気が、まるでしねぇ」

「頼りになんないわね」

「ごめんな。こういう時に力になれるようにって戻ってきた癖にな」

 素直に謝ると、マグナはちょっと鼻白んだ。

「なにそれ、またいつもの嫌味?」

「いや、違う違う。ホントに、そう思ってるんだって」

「……別に、あんたに全部ひっかぶせようなんて思ってないんだから、そんな言い方しないでよ」

「うん、分かってる」

 けど、もうちょい上手くやれると思ってたんだけどな。

「まぁ……あたしも考えるから、あんたもリィナの事、気をつけてあげてよ」

「ああ、もちろん」

 結局、ほとんど意味のない言葉を繰り返す事しか、その夜の俺達には出来なかったのだった。

5.

「——ねぇ。あれって、地図に載ってたテドンって町の跡じゃない?」

 目を細めて先を窺いながら、そう告げたのはマグナだった。

 いつもだったら、真っ先に報告するのはリィナの役割だったのにな。

 俯きがちに俺達の後を歩く、悄然とした姿をちらと振り返る。

「ああ、それっぽいな」

 マグナが口にした時には、樹木に半ば呑み込まれた石造りの壁や建物が俺の視界にも入っていた。

「思ったより、地図が正確でしたね」

 と、シェラ。

 暗黒大陸の密林に分け入って、探索を開始して三日目。

 草木に侵食されて途絶えがちな旧街道に不安を覚えつつの道行だったが、最初の目的地に設定していた町まで、どうやら予定より一日遅れで辿り着けたらしい。

 エルフの隠れ里を求めて彷徨った時のように、何日も道に迷っていたら、またマグナが文句を言い出さないとも限らなかったからな。内心で胸を撫でおろす。

 ちなみに、町とは言っても、当然ながら廃墟だ。

 二本の街道が交わる宿場町として、往時はそれなりに賑わっていた筈だが、いまはその面影もない。

「もう日も暮れちゃったし、今日はここで一泊するわよ。あんまりゾッとしないけどね」

 夕方になって、雨が降り始めていた。

 当時、魔物の軍勢の襲撃を受けた時から放置されたままなのだろう、打ち捨てられた骸骨が町のあちこちに転がっている。

 どこの誰ともしれない髑髏されこうべと同衾なんて、確かにゾッとしないが、辛うじて屋根が残っている建物も散見されるので、とりあえずは雨風が凌げるだけでも有難い。

「リィナさん、大丈夫ですか?」

 目についた近くの建物に入って、寝床にできそうな場所を探していると、背中に心配そうなシェラの声が聞こえた。

 振り返ると、ここまでの道中でも元気の無かったリィナの様子が、さらにおかしい。

 両腕で体を抱えながら、ブルブルと震えて返事も出来ない様子だ。

「リィナさん? しっかりしてください! まさか、風土病——熱は無いみたいですけど」

 リィナの額に手を押し当てながら、シェラは首を捻る。

「具合悪いのはどこですか? お腹? でも、食べた物は一緒だし——寒気はありませんか?」

「……違う……病気じゃ……ないから」

 リィナはようやくそれだけ言葉を絞り出すと、膝から崩れ落ち、苦悶の表情のまま床に倒れ込んだ。

「ちょっと、リィナ!?」

「リィナ!?」

 思わず駆け寄って傍らに跪いたが、丸めた身体を抱えたまま、眉根に深く皺を寄せ、リィナは強く目を瞑ったまま返事をしなかった。

 いや、言葉を発することすら出来ないのか。

「大丈夫——大丈夫ですからね」

 リィナの手を握りながら、シェラは自分に言い聞かせるように繰り返す。

 しばらく傍らでオロオロすることしか出来なかったが、こうしていても俺に出来ることは無さそうだ。

 ここは僧侶であるシェラに任せて、多少なりともマシな寝床の準備でもしていた方が、少しは役に立つだろう。

 マグナと目配せを交わし、荒れ放題の廃墟の住環境を少しでも整える為に、俺は普段より重く感じる腰を上げた。

6.

 まるで幽鬼のように音もなく廃墟を抜け出した影に俺が気付くことが出来たのは、入り口の真正面に位置する壁に背中を預けて見張りをしていたからだ。

 そろそろ交代の刻限なので、最初はマグナが用でも足しに早めに起きたのかと思ったが、雨上がりの朧な月に照らされた人影の形が明らかに違う。

 俺は、どうにか表面が見える程度に掃除をした床から立ち上がる。

「リィナ……?」

 囁き声で呼び掛けた時には、その姿は既に壁の向こう側だった。

 リィナを追って外に出た後に、マグナ達に声を掛け忘れた事に気付いたが、見失うのが怖かったので、後ろ髪を引かれつつ尾行を優先させる。

 夕方来、魔物の姿は見掛けてないから、大丈夫だとは思うんだが。

 リィナを連れて、早く戻らねぇと。

——が、あっさりと見失う。

 見慣れた背中を見据えながら、特に急いでいるとも思えない足取りのリィナを小走りに追ってた筈なのに。

 何やってんだ、俺は。

 耳を澄ましても、虫の鳴き声や夜行性の小動物の立てる微かな音が聴こえるくらいで、人間ほど大きな生き物が下生えを踏みしだく音は耳に届かない。

「チッ」

 自分の間抜けさに、我知らず舌打ちをしていた。

 だが、逆に良かったかも知れない。

 一旦戻って、マグナ達を起こして一緒に探しに来よう。

 寝ずの番を放ったらかして来ちまったし、さっさと戻らねぇと。

 振り向いた俺は、どこか見知らぬ街中に佇んでいた。

「——は?」

 夜も深けた、ちょっとした繁華街だ。

 お世辞にも整った町並みとは言い難いが、もちろん密林になど飲み込まれていない、ごく普通の建物が街道沿いに並んでいる。

 なん——だ、これは。

「なんじゃい、お兄ちゃん。まるで死んだ人間が目の前で生き返ったみたいな顔しとるぞ」

 道端の樽に斜めに腰をかけ、長煙管を吹かしている老人が、そんな風に俺に声を掛けてきた。

「おっと、すみません」

 周りの環境のあまりの変化に付いていけず、呆然と佇んでいると、前から歩いてきた男と肩が当たって、見っともなく体勢を崩してヨロめいた。

「ああ、大丈夫ですか。本当にすみません」

「いや……」

 反射的に言葉を発したことにすら、自分で気付いていなかった。

「おや、ここいらでは見かけない顔ですね。ひょっとして、旅人さんですか?」

「あ、ああ」

 吃りながら同じ返事をするのが精一杯だ。

 俺より少し年嵩に見える男は、朗らかな笑顔で続ける。

「そうでしたか。ようこそ。テドンの村へ!」

 呆気に取られて、言葉が出てこない。

 つか、この規模で村なのかよ、領主はちゃんと見直しをしろよ、とかどうでもいい事を、頭の片隅で考えていた。

 返事をしない俺を不思議そうにしばらく眺め、こちらを人見知りだとでも納得したのか、男はそれ以上干渉せずに立ち去った。

「この町……村は、滅んだんじゃなかったのか」

 長煙管を吹かしつつ、目を眇めて胡乱げに俺を睨む老人に、問いかけるともなく問いかける。

「ハァ? なんじゃって?」

 煙管を持っているのとは逆の手を、耳の後ろに当てる爺さん。

「……だから、魔王に滅ぼされたんじゃなかったのか」

「この村が魔王に滅ぼされたじゃと? 冗談もほどほどにせい!」

 老人は吸った煙を口の端から細く吐き出して、当てつけがましく続ける。

「そんなら、いまお前さんの目の前に居る儂は、なんじゃって言うんじゃい。死人とでもほざくつもりかえ」

「いや……なんか、勘違いしてたみたいだ。悪かったな」

 ようやくそれだけ言って、覚束ない足取りでその場を離れる。

「なんじゃい、藪から棒に。最近の若ぇモンの考えるこたァ、さっぱり分かりゃしねぇや——」

 いつしか老人の声は遠ざかり、広場のように開けた一角で軽やか踊る女を眺める自分を、俺は発見するのだった。

 一瞬、鳥の姿が薄っすらと重なって見えて、思わず目を擦る。

「ああ、空を飛べたらどんなに素敵かしら! そうしたら、どこへだって飛んでいけるのに!」

 ていうか、俺は一体、いつ移動したんだ?

「ふふ……それこそ、魔王のお城へだって、飛んでいけるのにね?」

 気が付くと、広場で踊っていた女は含み笑いを浮かべて、間近で俺の顔を覗き込んでいた。

「魔王の城だと? あんた、なんか知ってるのか?」

「魔王は北の山奥。ネクロゴンドにいるそうです」

 そう俺に答えたのは、踊っていた村娘ではなく、見知らぬ少壮の男だった。

 意味が分からない。

「テドンの岬を東にまわり、陸沿いに更に河を上ると……大地にぽっかり黒い穴がある! それが火山の火口だ!」

 いつしか俺の目の前には兵士が立っていて、そんなことを大声でのたまうのだった。

 酩酊感に近い頼りなさに全身を包まれながら、ようやく俺は思い至る。

 嗚呼。

 これはきっと、夢なのだ。

「ここは牢獄。立ち去られよ!」

 目の前の兵士が、いつの間にやら別人に入れ替わり、俺を叱責した。

「あ、ああ。すぐどくよ。悪かったな」

 何がなんだか分からないまま、その場を立ち去ろうとした俺を、崩れかけた牢屋に蹲っていた男が呼び止める。

「どうか待ってください! 私は、この時を待っていたのです!」

 囚人服を身に纏った薄汚れた男は、両手で鉄格子に縋り付いた。

 必死なその様子に、妙に心が動かされる。

「……悪ぃけど、この人の話だけ聞いてやっていいかな」

「ここは牢獄。立ち去られよ!」

 牢屋番の兵士に問いかけても、同じ言葉を繰り返されるだけだった。

 だが、実際は牢屋の壁は一部が崩れており、囚人はいつでも逃げ出すことのできる状態なのだった。

 なのに、男は逃げ出さない。

 兵士も、それを気にした様子が無い。

 まるで、男が牢獄に囚われたままでいることが、この世のことわりであるとでも云うように。

 さすがは夢だ。

 理不尽極まりない。

 だが、いまはその理不尽さが有難い。

 崩れた壁の隙間から牢屋の中へと、躊躇なく這入り込んだ自分に、ぼんやりとした違和感を覚える。

 普段の俺なら、奇妙奇天烈なこの状況に、もう少しは警戒心を持った筈だ。

 だが、夢の中の行動を不可解だと思えるのは、いつだって夢から覚めた後なのだ。

 囚人はどこから取り出したのか、見覚えのある竜を象った台座に嵌められた、深緑の渦が内部で幾重にも重なって廻転する不可思議な宝珠を俺に手渡した。

「生きている内に渡せてよかった」

 そう口にして、安堵の表情を浮かべる囚人は、きっと、とっくの昔に死んでいるのだろう。

 渡された宝珠オーブをフクロに仕舞いながら、何故かそんな風に思った。

7.

「ぐ……」

 いつの間に眠っていたのだろう。

 俺は身じろぎをして、石床に横たえていた体をゆっくりと起こす。

 体の下に挟まっていた瓦礫の破片のお陰で、脇腹が痛い。

「うおっ」

 すぐ側に骸骨が横たわっている事実に気付いて、思わず声をあげながら飛び起きる。

 なんだ、これは。

 どこだ、ここは。

 妙に見覚えのある廃墟の中を、ぐるりと見回す。

「あ」

 これは、あれだ。

 ついさっきの記憶よりさらにボロボロだが、オーブを俺に手渡した男が囚われていた牢獄だ。

 骸骨の脇の壁に、文字のように削られた跡がある事に気付く。

『生きている内に渡せてよかった』

 慌ててフクロの中を探る。

 果たして、そこには確かに探し求めていた深緑宝珠グリーンオーブが仕舞われているのだった。

「……勘弁してくれよ」

 出来の悪い怪談かよ。

 これはあれか、ひょっとして、また裏で魔法使い共が糸引いてやがんのか。

 自分の身が、行方知れずのオーブを探知する為の儀式装置として利用されているんじゃないかという想像は、あまり気分の良いものではなかった。

 まぁ、オーブは有り難くいただいておくけどさ。

「ありがとな」

 苔むした床に横たわる骸骨に礼を告げて外に出る。

 朧月を見上げると、記憶とさして高さが変わっていなかった。

 ということは、俺が眠っていた時間は、ごく僅かだろう。

 ていうか、ちょっと待て。

 そうだ、リィナはどこに行ったんだ。

 異様な体験につい気を取られちまったが、俺はリィナを追って外に出たのだ。

 このまま闇雲に探し回るよりは、マグナ達を呼びに戻って一緒に探した方が良さそうだってトコまで考えたんだっけな、さっきは。

 やべーな、帰り途分かるかな。自信ねーぞ、これ。

 果たして自分はどっちからやって来たものやらと左右を見回していると、女のすすり泣くような声が微かに聞こえた気がした。

 なんだ、今度は女幽霊でも出ようってのかよ。

 もうヤケクソだ、出るなら出やがれ。

 割りと最近、同じようなモンに出くわしたばっかだから、そこそこ耐性ついてるぞ、俺ぁ。

 などと無理やり自分を鼓舞しつつ、実際はおっかなびっくり声の方へと歩み寄る。

 辿り着く前に、もう気付いていた。

 大樹の幹に背を預け、膝を抱えて泣いているのは、リィナだった。

 なんと声を掛けてよいか分からず、しばらく立ち尽くす。

 近くまで寄っても、特に反応はない。

 俺は掛ける言葉を持たないまま、傍らの木の根に腰を下ろした。

 大樹の枝葉で雨はほどよく遮られていたらしく、思ったより濡れていないのが有り難かった。

「なん……るの……」

 やがて、抱えた膝に額を押し付けたまま、リィナが声を絞り出した。

「悪い。独りで出てくのが見えたから、追ってきちまった」

「だか……ごめ……ちょ……待って……」

「ああ。無理に喋らなくていいよ」

 さらに声を絞り出そうとするリィナに、なるべく優しく聞こえそうな声音で告げた。

 正直、しばらく反応がないことは覚悟していたので、却って申し訳ない気分になる。

「ちが……の……じゃなくて……」

「ていうか、俺、ここに居て大丈夫か? 一人の方が良ければ、どっか行くけど」

 リィナは俯いたまま、微かに首を横に振った。

「いい……いて」

「そっか。そんじゃ、待ってるよ」

 夜明けまで、まだ時間はある。

 ああ、でも、見張りを放ったらかして出てきちまったんだよな、そういえば。

 まぁ、マグナが居れば大丈夫だとは思うんだが。

 俺は、再び朧月を見上げた。

 いつだか、シェラと隣り合って墓場の地面に腰を下ろして話した時のことを思い出す。

 あの頃は、まさかリィナとこうして同じような状況になるなんて、思ってもいなかった。

 だって、あの頃のリィナは、いつだって余裕があるように、俺の目には映ってたんだ。

 そうじゃないってはじめて気付いたのは、それよりも少し後、ノアニールの宿屋で隠れて泣いていたであろう、リィナに気付いた時だっけ——

「ボク……この場所、知ってる……」

 ひっきりなしに鼻をすすり上げていたリィナの呼吸が、いつしか少し落ち着いていた。

「え?」

 だが、俺は言われた内容の意味が咄嗟に分からずに、阿呆みたいに聞き返していた。

「ここ……たぶん、ボクが生まれた村なんだよ……」

 一瞬の混乱の後、ふと思い出す。

『三歳とか四歳とか、そのくらいの頃に連れて来られたみたい。生まれた村は魔物に滅ぼされて、ボク以外はみんな死んじゃったんだって……たまたま、そこを通りかかったオルテガ様に拾われて、ここに預けられたんだ。すごい運が良かったんだよ』

 ダーマで聞いた、リィナの告白。

「はっきり憶えてる訳じゃないけど……分かるもんだね。ヘンな既視感っていうの? 見覚えが……あるんだよ」

「そうなのか」

 咄嗟に言葉が出てこない。

 いまさらお悔やみを云うのも違うし、そもそもリィナがどんな気持ちでいるのか、俺にはまったく想像がつかなかった。

 それにしても、こいつもたいがい悲惨な育ちをしてるな。

「思い出した……ボク、お母さんとお父さんが居たんだ……」

 リィナは、涙声でちょっと苦笑した。

「そんなの当たり前だって、ヴァイスくんは思うかも知れないけど……ボクには居ないものだって、ずっと思ってたんだよ……」

 ぽつりぽつりと、リィナは続ける。

「ダーマでは、みんなに居るのに、ボクには居ない人達で……だから、オルテガ様に憧れたりして……なんで、いままで一度も思い出せなかったんだろ……」

 村が魔物に襲われて、オルテガに拾われるまでの出来事が、よほど陰惨な体験だったのか。

 それこそ、無意識の内に自分で記憶を封印してしまうくらいに。

 だが、余計にリィナを傷つけてしまう気がして、その想像を口にはできなかった。

「この村の人達も……おっかない爺ちゃんとかはいたけど……魔物に殺されなきゃいけないような、そんな悪い人はいなくて……」

 なんとなく、俺はさっき夢現に言葉を交わした爺さんのことを思い出していた。

「ああ、ボク……きっとここで、幸せだったんだ……」

 ダーマでの生活が幸せとは程遠いものだったことは、断片的にリィナから聞いた話や、実際に訪れた時のことを思い返せば、想像に難くない。

 だが、そんなリィナにも、魔物退治なんて強要されることのない、幸せな幼子だった時代もあったのだ。

「でも、もう、なんにもない」

 そう。

 幸せな記憶と共に、この村は魔物に蹂躙され、今は見る影もない。

 俺は、ますます何も言えなくなった。

 だって、俺は単なる普通の農家の次男坊に過ぎなくて。

 おん出てから一度も戻ったことはないが、帰ろうと思えばいつだって故郷あそこに帰れる訳で。

 幸せだったり楽しかった記憶なんて思い出せねぇけど、悲惨な身の上話だって無縁に生きてきたんだ。

 そんな俺が、こいつに掛けられる言葉なんてあるだろうか。

「ボクには、なんにもないんだよ」

 リィナは、ぽつりと繰り返した。

 故郷であるこの村はとっくの昔に魔物に滅ぼされ、ダーマでの研鑽の日々も、そこで培った誇りや自負ごと、先日の敗北で無惨に打ち砕かれた。

 だから、リィナがそう思っちまうのも無理はない。

 だが、その言葉に、いままで含まれている気がして、考える前に口が動く。

「なんにもないこたねぇだろ」

 自分で思っているよりも、ムッとした口調になった。

 バカか、なんで俺が不満げなんだよ。

 俺なんかのことより、リィナのことだろ——けど、だってさ。

「俺達が居るじゃねぇか」

「……でも、ボク、もう役立たずだし」

 自嘲混じりの呟き。

 なんで、こんなに腹が立つんだ。

「だから、なんだよ」

 俺を——俺達を、ナメるんじゃねぇよ。

「そんくらいのことで、俺達がお前を見捨てると思ってんのか? 戦えなくなったヤツに用はねぇから、ハイ、サヨウナラ、なんて追い出すとでも思ってんのかよ」

 こんな風に咎めているような言い方をしたくないのに、止まらなかった。

「そうじゃないけど……」

「けど、なんだよ」

「……ボクが、居辛い」

 ひどく頼りない声音だった。

 俺は、思わず息を呑む。

「そんなに怒んないでよ……ボク……もう、いいよ。見捨てて……」

「違う、ごめん、怒ってる訳じゃないんだ」

 阿呆だ、俺は。

「なんか、もう……立ってられる気がしない……このまま、ここに置いてってよ……」

 こんなに弱ってるコイツを目の当たりにして、まだ昔みたいな憧れに引き摺られている。

 そんな台詞、リィナに口にして欲しくないだなんて、どうしても思っちまう。

「だって、ボク、ホントはここで死んでた筈なんだから……それが、ちょっと遅くなっただけだよ」

「それは……本気で言ってるのか?」

 なんで俺の口からは、こんな言葉しか出ていかねぇんだ。

「うん、もういい……ホントに疲れた……いいことなんて、なんにもない人生だったな……」

 何もかも諦めたようなリィナの呟きを耳にして、俺は咄嗟になにも返せなかった。

「もう、ホントになんにもないんだもん……ここからダーマに連れて行かれて、今日までのボクの人生って、ホントになんの意味も無かった。だから、最初から何にも無かったんだから、このままここで、家族と一緒に土に還らせてよ……」

「何にもなくねぇよ……俺は、お前に命を救われたんだぞ」

 はじめてカンダタ共とやり合った時、あそこでリィナがベホイミを唱えてくれなければ、俺は確実に死んでいた筈だ。

「お前がいなきゃ、俺は今ここに居ねぇんだ。だから、意味無いなんてこと——」

「……ごめん。やっぱり、一人でいさせて」

 急に、拒絶するような、硬い声音。

「なんでだよ、俺はただ——」

「いいから! 優しくしようとしないでよ!!」

 叫んで、頭を抱えて身を護るように蹲る。

「優しくされたって、どうせヴァイスくんはそれだけの癖に」

 開きかけた口が止まる。

 また、リィナが鼻をすすりはじめた。

「……ごめんね……ボク、こんなこと言う資格ないのに……」

「いや、そんなこと——」

「ああ、嫌だ。だから、嫌なの……優しくされたら……きっと、縋っちゃう……見っともない人間だから……ボク……」

「それが——そんなに、駄目なことなの、か?」

 リィナは泣きながら、思わずといった感じで喉の奥で少し笑った。

「駄目に決まってるでしょ」

「どうして」

「だって……そんなことしたら……離れられないじゃん……」

「だから、どうして、それが駄目なんだ?」

「……なんで、そんな事聞くの?」

「え?」

「どうせ、ヴァイスくんは……ボクの隣りに居てくれない癖に……ボクのことなんか……見てくれない癖に……」

「そんなこと——」

「あるよ。だから、その場限りで優しそうなこと、言わないでよ……」

 リィナはますます俯いて、膝を抱き抱える。

「もう、いいから、ここに置いてってよ……嫌なんだよ、こんな自分……ボク、もうなんにもないのに、これ以上苦しめないでよ……」

 俺は、先日のニックの台詞を思い出していた。

『どうやら、貴様はここまでか』

 ホントに折れちまったっていうのかよ、リィナ。

8.

 うん、まぁ——

「折れたんなら折れたで、それでいいよ」

「……」

 唐突な台詞で、上手く意図が伝わっていないかも知れない。

「けど、ここに置いてくって選択肢は、俺にはねぇな」

「なんで……ここ、ボクの生まれ故郷だって言ったでしょ……ちゃんと、考えたの……お母さんとお父さんと……一緒に……ここに骨を埋めるのが……一番いいんだってば……」

「うん、そうだな。明日みんなで、せめて墓でも作ろうぜ」

 遺体は、もう無いとしても。

 俺の脳裏には、せつないほどに碧かった空と海、そして岬沿いの墓を背に白い花弁はなびらが風に舞う鮮烈な風景が蘇っていた。

「そんで、また墓参りに来ようぜ」

「……」

 返事は無かった。

 しばらく、俺も黙ってリィナの隣りで過ごす。

 リィナが再び口を開くまでに、随分と長い時間がかかったが、それを待つのは苦ではなかった。

「ごめん……でも、もう無理なんだよ……もう、追いつける気がしないの……これ以上、頑張れない……」

「だから、それならそれでいいっての」

「え……?」

 ようやく、リィナは少し顔を上げて俺を見た。

「別に戦えなくなったって、出来ることくらい、なんかあんだろ。そうだな、例えば——」

 昔、戯れに考えた妄想が、急に現実味を伴って思い起こされる。

「前に考えたことがあるんだけどさ。どっか静かな土地に、みんなで住めるような家を買ったらどうかなって」

「え?」

 まったく呑み込めていない表情を、リィナは浮かべる。

「そしたら、例えば、その家の世話をしてもらうとかさ。ほら、家って人が住んでないと、すぐに傷んじまうだろ? だから、ちゃんと住める状態を保ってもらう役割っていうか……ハウスメイド、はちょっと違うか」

「……え?」

 困惑した顔つきで、さっきから同じ言葉しか発していないリィナに構わず、俺は妄想を垂れ流し続ける。

「もちろん、俺達も冒険の合間にちょいちょい帰るようにするからさ。そん時に、美味い飯でも作って迎えてくれたら、すげぇ助かると思うんだよな。ホッとするっていうかさ」

「……」

「ああ、金のこた心配すんなよ。こう見えて、いっちょ噛みしてる事業なんてのがあったりするからさ。いくらか分け前を貰える筈だから、家の一軒や二軒、どうにでもなるって」

 そうだった。

 昔、ダーマで考えたことを思い出す。

 俺はリィナに、なんでもない普通の暮らしをさせてやりたいと思っていたのだ。

「それに、リィナって案外メイド服が似合うと思うんだよな。あと、これは秘密なんだが——ジツは俺って、メイド服が好きらしいんだ」

 いかにも重大な秘密を明かすような顔をして、我ながらアホなことを口にする。

 アリアハンに居た頃に、シェラに気付かされたからな。

「いや、だからどうしたって話だけどさ。でも、リィナにメイド服姿でお出迎えされたら——ああ、なんか、いいわ。想像しただけで、ちょっとソワソワしちまうよ。いや、もちろん、メイドなんて嫌だってんなら、それはそれで全然構わねぇよ? 単なる一例として挙げただけだからな?」

 どうやら俺はリィナが予想もしていなかった世迷言をほざいているらしく、困惑の極みみたいな顔をされちまった。

 ふん、挫けないもんね。

「けど、な? 別に戦い以外でも、リィナに出来ることなんていくらでもあるんだって」

「——」

「そりゃ、もちろん一番得意だったことに間違いはないんだろうけどさ。でも、それが無くなったからって、全部終わりなんてこたねぇんだよ」

「そんな——簡単じゃないよ」

 ようやく、リィナは口を開いた。

「うん……そりゃそうか」

 あんだけ強かったんだ、自分でも物凄く誇りに思ってただろうしな。

「けど——なんか……」

 呆けたように続ける。

「力、抜けちゃった。馬鹿馬鹿しくて」

 うん、まぁ、自分でも馬鹿なことほざいたと思ってるよ。

 リィナの表情が、強張っていた先刻までより、少し脱力して見えた。

「そっか……戦わなくても、いいんだった……他人ひとには平気で言っといて、ひっどい話……」

 幽霊船で、ロンに言い放った煽り文句。

『ううん、そうじゃなくて。戦うのが苦手なら、他の事して暮らせばいいのにって言ってるだけだよ』

 つまり、頭ではリィナも分かっていたのだろう。

 ハァ、とリィナは小さく溜息を吐いた。

「なんか、ボク、すごい性格悪かったみたい」

「まぁ、戦闘中はな」

 膝を抱えたリィナに、恨みがましそうな目で睨み上げられた。

「そこは、否定して欲しかったんだけど」

「いやぁ、お前、最近相手のこと煽りすぎだったぞ」

「だって……多分、焦ってたんだよ。自分でも気付いてなかったけど」

 油断したらマグナに追いつかれちゃう、みたいな話もしてたしな。

 あれも、実際に肩を並べられる云々よりも、マグナがいま以上に強くなってしまったら——

『ボクには、これしかないのに』

 いつだってそう言い切って憚らず、戦うことしか能が無いと思い込んでいたリィナが、自分の必要性を信じられなくなってしまう焦燥感に、より近かったのではないか。

 おそらく、いまはじめて、リィナは魔物を退治し魔王と戦う以外の道を——物心ついたころから刷り込まれたダーマの呪いから、自分の生まれ故郷、すなわち原点に戻ることによって開放されたのだ。

 そう願いたい。

「それにしてもさ——」

 リィナは疲れた顔つきながら、ひどく見覚えのある、しばらく見せてくれなかった、からかうような目つきを俺に向けていた。

「さっきのは、なんだかまるで結婚の申し込みみたいだったよね?」

「へ?」

 ああ、聞きようによっては、そんな風にも——いや、聞こえなくない?

「だって、自分の留守に家を守って欲しいって。そんなの、もう結婚の申し込みじゃない?」

「あー、うん、まぁ、なぁ」

 煮え切らない俺の返事に、リィナは苦笑した。

「そんなに警戒しなくていいのに。冗談だよ」

「あ、いや、別にそれが嫌だって訳じゃないからな?」

「はいはい、分かってるよ。それにやっぱり、ボクには家でひとりで大人しく待ってるなんて、そんなの似合わないしね」

 リィナの瞳に、さっきまで無かった光がほんの僅かに戻って見えた気がした。

「ん~~~っ——はぁ……」

 体の前に伸ばした両手の指を解き、リィナは大きく息を吐いた。

「はぁ……ヤダけど、自分で言ったんだから、仕方ないか……」

 もう一つ溜息を吐いて、顔を上げる。

「それに、外でみんなが頑張ってるなら、ボクだってそこで一緒に戦いたい。まぁ、いまのボクが、どこまで役に立てるかは分かんないけどね」

「いや、役に立つに決まってんだろ」

 俺は首の後ろを揉みながら続ける。

「そもそも、お前さ、ちょっと勘違いしてるぞ」

「え?」

 何を? と目で問うリィナ。

「俺達の目的は、いったい何だ? ニックを斃すことじゃなくて、魔王を斃すことだろ?」

 一呼吸置いて、続ける。

「だから、あのオッサンを超える必要なんて、別に無ぇんだよ」

「へ——?」

 リィナは、物凄く意表を突かれたような顔をした。

「極論を言っちまえばさ、別にあのオッサンを斃せなくたって、魔王さえ斃せりゃ問題ねぇ訳だろ? で、絶対あのオッサンの方が、魔王より強いって」

「それは、そうかも知れないけど……でも、ニキル様達でも、魔王は斃せなかったんだよ?」

「知ってる。けど、そりゃ純粋に戦闘力が及ばなかったって話じゃなくて、なんか絡繰からくりがあるんだよ」

「絡繰って?」

「なんつーか、必要な手順っての? 道具立て? そういうのがあるっつーか。それに従わないと、絶対に魔王は斃せないみたいな。この世の決まり事っていうかさ。だからむしろ、儀式に近いのか?」

「え? ヴァイスくんが何言ってんのか、全然分かんない」

「いや、俺も全部完璧に分かってる訳じゃないんだけどさ……」

 中途半端な事を口にしても、困惑させるだけで意味ねぇな、これ。

 貧相な痩せぎすが、口を歪めて常日頃吐き捨てていた台詞を思い出す。

『今ここで話すつもりはない』

 そう言って、いつも俺をけむに巻いていた野郎ヴァイエルの気持ちが、少しだけ理解できた気がした。

「なんで、ヴァイスくんが怒ってるの?」

 野郎の気持ちが分かっちまった不快感が、おもてに出ていたらしい。

「ああ、悪い。こっちの事だ——とにかく、だ。どうあっても、リィナは俺達の仲間だし、少しくらい出来ないことがあったって、それはなんにも変わりゃしねぇってことだよ」

 口にしてから、なんとも自分らしくない台詞をほざいていることに気付く。

 仲間だとかなんだとか、なんの衒いもなく言っちゃってるよ、この俺が。

 だが、以前シェラに告げた時よりも、さらに自然とそれを受け入れている自分に、最早驚きはなかった。

「それは、リィナだって同じだろ? 例えば、俺が魔法を使えなくなったって、俺を見放したりはしねぇよな?」

「いや~……それは、どうだろ」

 割りと本気っぽい口調で渋られて、つい苦笑が漏れる。

「そこは、すぐ否定してくれよ」

「ああ、うん、そうだね。ミハナサナイヨ?」

 わざとらしい言い方だな、おい。

 リィナは諦めたみたいに、ため息混じりに苦笑した。

「嘘うそ。そうだね——ヴァイスくんが魔法を使えなくなったって、きっと他のことで助けてくれるもんね」

 いつもの口振りに戻っていた。

「ていうか、そっか。確かに、助けてくれるとかくれないとかも、あんまり関係ないのかも」

「だろ。俺も、それは同じなんだよ」

「そっか……うん、そうだね……けど、ヴァイスくんには、逃げちゃった前科があるからなぁ」

 リィナはにんまり笑って、上目遣いで俺を見る。

 うぐ、痛いトコ突きやがる。

「それを言われると辛いな……けど、今回は、いちおう俺も腹決めて来てるんだ。流されてた前と違ってな」

「ふぅん? ま、そろそろ信じてあげてもいいかなぁ~?」

 くそ、完全に主導権を取り戻されちまった。

「そうしてくれると助かるよ」

 ため息交じりの俺の懇願に、リィナはちょっと笑った。

「ヴァイスくんは、すごいねぇ」

「へ? なにが」

 いまの俺に、凄いトコなんてなんにも無かっただろ。

「ボクも、ちょっと気を引き締め直さないと。油断してたら、寄り掛かってばっかりになっちゃいそう」

「そうか?」

 そんなことねぇだろ。

 だが、リィナは即座に頷くのだった。

「うん、そうなの! だから、あんまり甘やかさないでよ。なんか、ヴァイスくんのボクに対する無条件の期待が、ボクには重荷だよ」

「え、ごめん」

「ううん、まぁ、嬉しいんだけどね。それに、タマには甘やかしてくれてもいいんだよ?」

 疲れた顔が幸薄そうに見えるせいか、リィナが浮かべた挑発的な笑みは、妙に色っぽく目に映った。

「からかうなよ。お前も、もう大人って呼べる歳になってきたんだし、冗談じゃ済まなくなるぞ」

「ん? 冗談で済ますつもりないけど?」

 だから、いつでもどうぞ、みたいな顔すんじゃねぇよ、マジで襲っちまうぞ。

「大人をからかうんじゃありません」

 いつだかと同じ台詞を口にすると、リィナは一拍置いて同じように返す。

「そだね。他の二人に怒られちゃうしね」

 場違いな気もしたが、なんだか嬉しくなる気持ちを抑えられなかった。

「よく憶えてたな、ソレ」

「いや~? いつ言ったんだかは、あんまり憶えてないんだけどね」

 そりゃ都合が良かった。

 あの時は、あられもない姿を俺の前に晒してたから、いま思い出されると面倒臭そうだ。

「よっと」

 リィナは以前の身軽さを思わせる動きで、ぴょんと跳び立った。

「そんじゃ、そろそろ戻ろっか」

「大丈夫か?」

 自分でも思った以上に心配そうな声が出たせいか、リィナは苦笑する。

「うん、だいじょぶ。ヴァイスくんがぎゅってしてくれたら、もっと大丈夫になるけど」

「え、そんな風に頼まれたら、全然しちまうけど」

 腰に手を当てて溜息を吐くリィナに、既視感を覚える。

「ううん。やっぱ、止めとく。身の危険を感じるよ」

 そりゃ残念だ。

「ほら、早く戻ろ。じゃないと、マグナにすっごい怒られるよ。『見張りをほっぽらかして、二人で何してたのよ』って」

「おお、そりゃ……おっかねぇな」

 ぶるっと身を震わせて、俺も立ち上がる。

「つか、どっちから来たか憶えてるか?」

「うん、当たり前じゃん。まさか、ヴァイスくん、憶えてないの?」

「まぁ……色々あったんだよ」

 にや~っと笑いながら、リィナが肘で突いてくる。

「そんなに慌ててたの? ボクが居なくなって?」

「そりゃそうだろ」

 素直に返すと、つまらなそうな顔をされた。

「ほら、じゃあ、ボクが案内してあげるから、付いてきなよ」

「悪いな、よろしく頼むわ」

 まだぬかるんだ地面を踏み締めながら、ついて歩く背中が、ぽつりと漏らす。

「ねぇ……」

 その声音にからかう気配はなく、俺は密かに内心で居住まいを正す。

 だが、リィナの口にした言葉は、俺の予想とは違っていた。

「……勝とうね。魔王に」

「ああ……そうだな」

 それで全てがめでたしめでたし、となるかは分からないが。

 それを乗り越えなければ、俺達がどこにも進めないこともまた、確かなんだろう。

 世界中の人々を救う為だとか、御大層なお題目の為じゃなく。

 それぞれが自分の為に、そうするのだ。

 きっと、俺達は、それしか出来ない。

 そう考えるのは、ひどくしっくりと腑に落ちて、少しだけ気持ちが軽くなった気がした。

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