55. Super Collider

1.

 ハッ、ハッ、ハッ。

 浅く荒く速い呼吸音が耳に届く。

 リィナだ。

 やや俯いた顔は、いまにも卒倒しそうなほど真っ蒼だった。

 瞳の焦点が合っていないようにも見える。

 ここまで追い詰められた様子のあいつを目にするのは、出会ってから初めてだ。

 前回と違って、ニックを前にしても入れ込み過ぎた様子もなく、普段通りの余裕を保てていたように見えたのに。

 この時点の俺は、まだリィナの絶望に、まるで追いつけていなかった。

「リィナさん……?」

 シェラも異常に気付いたように、心配そうな声で囁いた。

「いつまで、そうしているつもりだ。戦う気が失せた奴は、さっさと場所を空けろ」

 腹部を抱えて蹲っていたロンの後頭部を、ニックは裏拳で無造作に打ち落とした。

 めり込む勢いで額を床に激突させたロンは、そのままグッタリと横倒しになる。

退かせ。邪魔だ」

 最早、興味を失ったように視線を外し、ニックはココの隣りで身構えていたパクパに声を掛けた。

 カクカクと細かく頷き、パクパはロンを肩に担いでココの元に戻る。

「貴様の方がマシだったかも知れんな」

 ニックの呟きに、パクパは背を向けたまま、小さく首を横に振った。

「いや、己こそ、前と何も変わらん」

「フン。貴様のやり方では仕方あるまいな。精々、そいつに手を貸してやるがいい」

 口振りからすると、ニックは意外なほどパクパを評価しているようだった。

 あいつも、教えるのとか上手そうだもんな。

「さて……」

 ニックの視線が、俺達を射抜く。

「次は、どいつだ?」

「ひっ……」

 青褪めた顔をして後退ったシェラが、不意に横を向く。

 隣り並んだフゥマが、一瞬だけシェラの手を握ったのだ。

「大丈夫。心配しないで」

 正面に視線を据えたまま、落ち着かせるように静かな声で呟き、すぐにシェラの手を離して前へ進み出る。

「よっしゃ! 今度こそ、オレ様の番だな!」

 一転して、いつものように何も考えていなさそうな能天気な声を出すのだった。

 虚勢を張ってる風にも聞こえないから、勝算はあるんだろうけどさ。

 いくらお前でも、やっぱりニックを相手取るのは無謀なんじゃねぇのか。

「ようやく、真打ち登場ってな! 昔の借りを返させてもらうぜ!」

 威勢よく啖呵を切って、握り拳をニックに向かって突き付ける。

「……」

 ニックはなんとも答えずに、ジロリとフゥマを睨め付けた。

「アンタ、さっきのアレ見て、まだヤろうってのかい?」

 代わりに、呆れた声でそう尋ねたのはティミだった。

「当然だろ! オレ様が強くなったのは、今この時の為だからな!」

 ハァ、と小さくため息を吐いて、ティミは苦笑する。

「……止めたって、アンタは聞きゃしないだろうね。ま、せいぜい頑張んなよ」

「おう! アンタとは、やり合うのも楽しかったし、一緒に戦うのも悪くなかったぜ。息バッチシだったしな! またいっちょ、ヨロシク頼まぁ!!」

 フゥマはニカッと嬉しそうに笑ってみせた。

 ティミは口をへの字に歪めて、肩を竦める。

「アンタが生き残って、縁があったらね」

「お前は、止めないのか?」

 少し気になってシェラに問いかけると、フゥマを見つめたまま微かに頷いた。

「大丈夫って……言ってもらいましたから」

 僧衣の前を、両手でぎゅっと掴む。

「フム。僕の全てを見通す瞳にすら、アレは身の程を弁えない哀れな破落戸ゴロツキにしか映らないが、見どころはあるのかい」

「ええ。三年程前にニックさんと立ち会った時と比べれば、いまは見違えましたよ」

「誰が貴様に口を開く許可を与えたんだ。黙ってろ、道化が」

 相変わらず、にやけ面に冷たいギア様なのだった。

「……俺はもう少し、寝かせておくつもりだったんだがな」

 ニックの口振りは、言葉通りにやや不本意そうだった。

 そんな、酒の熟成じゃあるまいし。

「言っておきますけど、今回、彼を連れて来たのは私じゃありませんからね? 私は置いていくつもりだったのに、あそこのヴァイスさんが勝手に連れて来てしまいまして」

 にやけ面の野郎、俺をしょうもない言い訳のダシにすんじゃねぇよ。

「フン。まぁ、よかろう。これが奴の天運ということだ」

 今度は言葉とは裏腹に、ニックに面白くなさそうな目つきでジロリと睨まれた。

 おお、おっかねぇの。

「クク。君が天だの運だのを語るとはね。一番嫌っていただろうに、そういった言い草をサ」

「……他に言葉が思い浮かばなかっただけだ」

 からかうギアに、仏頂面で返すニック。

 へぇ。あれで、四人でパーティを組んでた頃は、案外上手く回ってたのかもな。

 常に間に挟まれて振り回されそうな、にやけ面の心労が半端なさそうだけど。

 とても他人事とは思えない——いや、俺はあいつなんかとは全く似てないので、同情なんぞを覚える筈もありませんけどね。

「ゴチャごちゃ言ってンじゃねぇッ!! いくぞ、オラァッ!!」

 仕切り直すように叫んで、フゥマは中腰で左拳を引いた。

「一撃でぶっ飛ばす!!」

 いつも通りに、無茶なことを宣言する。

「ぉぉおおおおおぉぉぉおおおぉぉ——ッ!!」

 なんの意味があるのか分からんが、大声をあげながら気合いを入れる。

 どう見ても、正面から思いっ切りぶん殴る準備をしているようにしか見えませんが。

 お前、さっきは技でも負けないみたいな事を言ってやがった癖して、結局ソレかよ。

『身につけた技が泣くよ』

 いつかのリィナの小言が、脳裏に甦る。

 だが——

「ちっけぇの!! お前の技も、オレ様が連れてってやるッ!!」

 壁際で座り込んでいたココが、膝を抱えたままピクリと顔を上げた。

「いくぜッ——『シュクチ』!!」

 怪しい発音を置き去りに、一瞬沈んだフゥマの躰が前方に弾け出た。

 胸郭を貫かんとするフゥマの左拳を、ニックは右腕で内から外に払う。

 だが、ニックの腕は、ただ空を掻いていた。

 実際のフゥマの左拳は、まだ到達していない。

 見る者の認識より一瞬遅れて、ニックの胸板を襲う。

「ム?」

 拳は、ただ掠めただけだった。

 体を開いて躱したニックは、フゥマの拳を左手で握り止め、そのまま左膝で肘の裏側を蹴り上げる。

「うがぁッ!!」

 完全に折れた。

 一瞬、何故か背後に気を取られたニックが離した手を、フゥマは折れた方の左手で掴み返していた。

「やっぱナメやがったなッ!! 行くぜッ!!」

 激痛に襲われているだろうに、フゥマは歯を喰いしばりながら凄絶な笑みを浮かべる。

 左手でニックの右腕を掴んだまま、思いっ切り躰を反らせて、床に着くほど右手を振りかぶる。

「おぉおおおぉぉぉおぉッ!! 必殺ひっさぁつッ!!!」

 いつ、意思の疎通があったのか。

 ニックの背後で、ティミが腰を沈めていた。

 フゥマの拳に合わせて、掌底でニックの背中をかち上げる。

「ふっ——吽っ!!」

『魔拳ッ!!!!!』

 さっきもそうだったが、息がぴったりだ。

 表と裏から同時に叩き込まれる、躰を内側から破壊する拳撃。

 そういえば。

 以前、同行している間に尋ねたことがあったんだが、フゥマが叫んでいる技名は、その場のノリで決めているのだそうだ。

 大海妖クラーケンの時は海の上だったから、海っぽい名前を景気付けに叫んだらしい。

 だから、おそらく。

 今回のコレは、名前こそ違えど、かの大海妖を撃沈せしめた破壊力、フゥマにとって正にとっておきの必殺技の筈なのだ。

 俺の頭の中には。

 割りとどうでもいい、そんな記憶がぼんやりと浮かんでいた。

『フ——』

 引き伸ばされた時間の中で、ニックを挟んでフゥマとティミが前後に弾き飛ばされる。

 まるで、お互いの攻撃がニックを通り抜けて、そのまま喰らったみたいに。

「ぐがっ」

「ぐっ」

 床に打ち付けられた二人は、すぐに立ち上がれなかった。

 特にティミは、すぐにその場から離れようと懸命に身を起こそうとするのだが、全身に力が入らないらしくガクガクと震えて自分で躰を支える事すらできない。

 ふーっ、とニックは躰の前面で下に向けた掌をゆっくりと下ろしながら、長い呼気を発した。

「今のは、悪くなかった」

 これまで聞いた中で、最も満足げな声音に聴こえた。

 ごぽっ、と一瞬えずいたニックの口角から、一筋の血が流れる。

「自らの言動に囚われることなく、使える手を惜しまなかった太々ふてぶてしさといい、機を合わせた勁といい、僅かに違えば斃れていたのは俺だっただろう」

 口元には、薄っすらと笑みすら浮かんでいる。

 これは、ニックにとって最大級の賛辞と受け取っていいんじゃねぇのか。

 だが結局、立っているのもまた、ニックなのだった。

「くそッ——」

 折られた左腕をダラリと下げて、フゥマは震える脚で立ち上がる。

 大海妖クラーケンの時は、そのままぶっ倒れて寝ちまったくらい疲弊してたもんな。

 あの時よりはマシみたいだが、これ以上の戦闘は無茶じゃねぇのか。

『ベホイミ』

 シェラの呪文だ。

 左腕の癒えたフゥマは、シェラを少しだけ振り返って、小さく頷いた。

 おそらく制止する為に開きかけた口を閉じ、泣くのを我慢している顔で、シェラは頷き返す。

「まだだ——まだ付き合ってもらうぜ……オラァッ!!」

 フゥマは、愚直に特攻した。

 飛び込むように、思いっ切り殴りかかる。

 なんで、そうなるんだよ——

 さっきのココ戦でも見せたように、こいつには技が無い訳じゃない。

 だが、きっと——

 そこで勝負しても、及ばない。

 そう割り切っているのだ。

『あんなバケモンとマトモにやり合ったって、勝てる訳ねーんだよ。あいつに勝つには、マグレでもなんでもいいから、一発でぶっ倒せるくれぇの必殺の一撃を叩き込む——これしかねぇんだ』

 らしくもなく思い詰めていた、いつだかのフゥマの呟きを思い出す。

「フン。運試しだ」

 体捌きで特攻をいなしたニックは、開いた脚を踏みしめるのに合わせて、上から裏拳でフゥマの背中を打ち落とした。

「ガッ!?」

 血を吐いてひしゃげるように床に打ち付けられるフゥマ。

 無理矢理飲み込んだシェラのか細い悲鳴が耳をつく。

 回復呪文は、まだしばらく発動出来ない。

「生き延びたか。矢張り、貴様は運もいいようだ」

 辛うじて——本当に辛うじて、フゥマは生きているようだった。

 微かに手足が痙攣している。

 ニックとしては、死んでも構わないくらいの強さで、フゥマを打ったのだ。

 死ななければ、生き延びることを許してやる。そんなつもりで——何様なんだよ。と反発する気すら起こらない。

 この場における生殺与奪の権利は、全てニックのものだった。

「ああ——」

 シェラが両手で強く口元を押さえて、涙を流していた。

 いまにも倒れそうだ。

『そンだけだけど、そんなコト、じゃない』

 ついさっき、戦うことに対する自負について釘を刺された上に、ニックとの勝負をずっと目標にしていた事まで知っているのだ。

 だから、止められなかった。

 でも、止めるべきだった。

 きっと、いまのシェラを苛んでいるのは、そんな無力感に違いない。

「……だから、ウチは忠告してやったんだよ。勝ち負け出来るような相手じゃないってね」

 ようやく前屈みに腰を上げたティミの顔には、引き攣った自嘲が貼り付いていた。

「き、君は何をやってるんだよ!? なんで、あんなヤツの手助けなんか——」

 薬草を手に介抱していたグエンが叱り付けると、ティミは悪びれない声で吐き捨てる。

「さぁね。気付いたら体が動いてたんだから、仕方ないだろ」

「仕方ない訳ないだろっ!! 全く、いっつも君ってヤツは、ホントに面倒ばっかり掛けるんだ——も、申し訳ありません、ニキル様。で、ですが、この不調法者は、いまはギア様のお世話になっておりまして、その、どうかお目溢しいただきたく——いえ、そんな恐れ多いことを申し上げるつもりはないのですが、その、キツく言って聞かせますので、今回だけは、どうか、その、どうか、お許しください!!」

 いつもの粘着質な喋り方とは全く異なる早口でまくし立て、グエンは崩れ落ちるように平伏した。

「だ、そうだが」

 どうでもよさそうに言って、ニックはジロリとギアを睨む。

「フム、そうか。形の上では、確かにその子は僕が世話をしていることになるね。では、許してやり給え」

 あれ、ギア様、意外と頼りになる。

 少なくとも、あそこでぼんやり突っ立ってるにやけた男よりは頼もしいぞ。

 そして、これまた意外な事に、ギアの偉そうな暴言に腹を立てた風もなく、ニックは短く苦笑した。

「構わんが、俺の古い名を勝手に呼ばせるな」

「だってサ。分かったな、グエン」

「は、はい! 大変申し訳ありせんでした! 今後は二度と口に致しません! ご寛恕、ありがとうございます、ニック様!!」

 跪きながら上げた顔に安堵を浮かべるグエンの横で、チッという忌々しげな舌打ちが聞こえた。

「随分とまぁ、アッサリと。ウチなんざ眼中に無いってかい」

 ティミの愚痴に、グエンは忙しなく手を左右に振る。

「また君は!! 折角お許しいただいたのに、余計なことを言うんじゃないよ!!」

「分かってるよ。あの有様じゃ、相手にされなくても仕方ない。文句も何もありゃしないよ」

『ベホイミ』

 見ると、フゥマの傍に膝をついたシェラが回復呪文を唱えていた。

 おそらく、唱えられるようになった瞬間に、すぐ発動できるように待ち構えていたんだろう。

「無駄だ。経絡が幾つか潰れたのでな、下らん呪文如きでは回復せんぞ」

 つまらなそうに指摘したニックを、シェラは顔だけ振り向けてキッと睨みつけた。

「それでも、命を繋ぐ事はできます」

 この時、俺は密かに感動を覚えていた。

 だって、最初は戦闘中にホイミを唱える事すら出来なかった、あのシェラが。

 ニックのような強者を相手に、はっきりと自分の意見を口にしている。

「放っておいたら、それこそ助かるものも助かりません。貴方だって、フゥマさんが生き延びる事を認めてくれたのに、出来る手当もしないまま命を落としてもいいって言うんですか」

「……好きにしろ」

 ニックは面倒臭そうに、短く返した。

 すげえな、シェラ。フゥマの命がかかってるとはいえ、ニックを相手に良く言ったもんだぜ。

 とはいえ、こりゃヤベェな。

 自信がありそうだったロンは圧倒的な力の差の前に沈み、フゥマまで戦闘不能になっちまった。

 ティミも、もうまともに戦えないだろう。

 ついさっき、フゥマにこっ酷い敗北を喫したココに、何かが出来るとも思えない。

 この場で、ニックに少しでも対抗できそうなのは、もうリィナを置いて他になかった。

 そのリィナは——

2.

「……ヴァイスくん、リレミトとルーラでみんなを連れて逃げて」

 精一杯、とでもいう様子で、震える声を絞り出した。

 前回、地下の祭祀場でリレミトを唱えようとした俺を制止したあの時とは、まるで逆だ。

 顔色は、最早無い。

 悲壮な覚悟を決めた顔からは、血の気が失われていた。

「いや、お前は、どうすんだよ」

「……ボクはいいから。呪文を唱える間くらいは、なんとか堪えてみせるから」

「お前だけ置いてけってか? そんな訳にいくかよ」

「いいから! 誰かが捨て石にならないと、呪文を唱えようとした瞬間に殺されちゃうんだってば!!」

 リィナの声は、悲鳴に近かった。

 今日のニックにそこまでの殺意を感じていなかった俺は、どうやら勘違いをしていたらしい。

 ほんの少し、ニックの気が変わるだけで、俺達はいつ殺されてもおかしくないのだ。

 いまの状況は、絶体絶命だ。

 けど、それでも、リィナを残して逃げる選択肢なんてあってたまるかよ。

「落ち着けよ。マグナだって、まだ合流してないんだし——」

「マグナは心配しなくても大丈夫だよ! リレミトとルーラだって使えるし、ヴァイスくんより全然強いんだから!!」

 コイツが、ここまで取り乱す程なのか。

 この現状認識のズレは、エルフの隠れ里の近くで姫さんを取り合った時に、にやけ面がイオナズンを唱えられる可能性に気付いた時の俺と俺以外の意識の差を思い起こさせるな。

 ということは——あくまで俺の想像だが。

 いまこの場に居合わせている面々の中で、同じバケモンのギアとにやけ面を除いて、リィナが最もニックの実力に迫っているのだ。

 それ故にこそ、認識できてしまったのではないか。

 どうやっても、何をしたって覆らない、絶望的な彼我の戦力差を。

「お願いだから、言うこと聞いてよ……」

 俺は、ギョッと目を見張る。

 リィナが、泣いていた。

「うぅ〜〜っ」

 子供のように、ボロボロと涙を零している。

「ど、どうした。おち——落ち着け」

 俺が落ち着け。

「だって……もうちょっと、なんとかなると思ってたのに……少しは近づけたって、思ってたのに……」

 悔しさや、不甲斐なさやるせなさがないまぜになった独白。

「ボクって、なんてバカなんだろう。全部無駄だった。ボク、全然変わってなんてなかったんだよ」

 もちろん、俺にはリィナが成長してないだなんて、まるきり思えない。

 むしろ、これ以上なく成長したと思っているのだが。

「なんて格好悪いんだろう。こんな……何も出来ない癖に、思い上がって、調子に乗って……」

 多分リィナは、さっきからこの状況をどうにかしようと、必死に考えてたんだ。

 けれど、どうやっても敵わない事が分かってしまった。

 成長したからこそ。

「無様だな。不死者と多少いい勝負をした程度で、慢心でもしたか」

 なんだと、この野郎。

 振り返って、ニックを睨みつけた俺は、背中に冷たい物が流れ落ちるのを感じた。

 ニックの眼差しから。

 これまでリィナに向けられていた興味が。

 薄れていく。

「どうやら、貴様はここまでか」

 ビクン、とリィナが全身を震わせた。

「俺と同じく貴様は、誰かを育てたりも出来まい」

 それまでアホ面をぶら下げていた俺も、一瞬で思い知らされる。

 リィナを生かしておくつもりが、ニックから失せていた。

 いや、待て、待ってくれ。

 リィナが誰かを育てたり出来ないこたねぇだろ。ほら、ロマリアで駆け出し武闘家のブルブスの面倒をみたりしてたじゃねぇか——

「まだ永らえたいのなら、自力で勝ち取ってみせろ」

 殺す気で戦うから、生き延びたければ勝手に足掻け。

 そう言っているのだ。

 マズい、マジで俺は何も出来ないまま、リィナが殺されちまう。

「待て——っ」

 言葉が続かない。

 リィナは俺に向かって小さく頭を振って、瞳に涙を浮かべながら、無理をして微笑んだ。

「ううん、もういいよ」

「いや、なんも良くねぇよ」

「ううん、いいんだよ……でも、もう一回くらい、二人でお出掛けしたかったな」

「ふざけんな。そんなん、いっくらだって出掛けてやる。だから、これで最期みたいなこと言うな」

「ありがと。ヴァイスくんがちゃんとリレミトを唱えられるように、その間だけは絶対守ってみせるから」

「だから、ふざけんなって!! 俺は絶対、そんなモン唱えねぇぞ!?」

「私も、残ります」

 そう言って、俺の隣りに並んだのはシェラだった。

 ちらりと目を向けると、フゥマはココ達から少し離れた通路の端に寝かされていた。

「今度はちゃんと、一緒に戦います」

 俺と同じく、見ているだけしか出来なかった前回を踏まえての発言だろう。

「シェラちゃんまで……ダメだってば。言う事聞いてよ、お願いだから」

「嫌です。いっつもリィナさんは私の言う事を聞いてくれないのに、どうして私だけ聞かなきゃいけないんですか」

「なら、次からボクも言うこと聞くから!」

「あ、云いましたね? もう取り消せませんよ? でも、次が無いと意味がありませんから、絶対に生き残ってくださいね。それに私、言いましたよね? 今回は死にかけたら問答無用で回復するって」

「……ごめん。ホントに勝算なんて無いんだよ」

 だから、巻き添えにしたくない。

 声を絞り出したリィナに、シェラは優しく微笑みかける。

「分かってます。だから、残るんですよ。私も、ヴァイスさんも」

 シェラに名前を呼ばれて、慌てて俺も何度も細かく首を縦に振ってみせた。

「……どうなっても知らないから」

「どうにかしてください。いつもみたいに」

 理屈も何も無いシェラの言い草に、リィナは一瞬キョトンとしてみせてから、ちょっと吹き出した。

 いつもみたいに。

「分かった。そこまで言われたら、仕方ないね。そいじゃ、なんとかしてみるよ」

 気付くとシェラは、俺の袖を強く握っていた。

 うん、偉かったな。

 シェラ自身も、どうにもならない事は分かっているだろうに。

『等級制限時限解放』

 リィナが呟くと、ニックが片眉を上げた。

「フン。多少マシになったのは、嘘ではないか」

「だからこそ、でしょうね」

「全く、憐れな番犬だよ! こんな出鱈目な化物と張り合わされてサ」

「ぬかせ。本当の化物は、彼奴の事だろう」

「拘るね、君も。けれど、全くもって、ご尤も。僕らにすら及ばないんじゃ、それこそお話になりはしないってモノだからね」

 ニック達がよく分からない会話を交わしている間に、リィナはフクロから『星降る腕輪』を取り出して嵌めていた。

 そして、淡々とした声で告げる。

「ヴァイスくん、バイキルトお願い」

 えっ。

 リィナから補助魔法を要求されたのって、出会ってこの方、これが初めてじゃねぇのか。

 いつもあんなに、魔法の力に頼るのを嫌がっていたのに。

 使えるズルは全部使わないと、それこそ勝負にならない。

 そう判断しているのか。

『バイキルト』

 次にリィナから視線を向けられたシェラは、小さく首を横に振った。

 そうだよな。いま唱えちまったら、回復呪文が必要になった時に間に合わない可能性が高い。

「お待たせ。申し訳ないけど、悪足掻きに付き合ってもらうよ」

「まぁ、よかろう。貴様が死ねば、他の連中も全て貴様の後を追う事になると覚悟して来い」

 ニックの言葉を受けて、流石にリィナの顔が一瞬引き攣った。

「オイオイ、僕の可愛い下僕達まで巻き添えにするつもりかい?」

「私も、それは困るのですが」

 ギアとにやけ面の声音は、言葉ほどには困ってなさそうだった。

「知らん。文句があるなら、力づくで俺を止めればよかろう」

「コレだよ」

「昔から、言い出したら聞きませんからね」

 伝説の三人が、呑気らしく会話を交わしている隙を縫って。

 リィナの姿が、音も無く掻き消えたように見えた。

 思わず、目をしぱたたく。

 反応できたのは、ニックだけだった。

 いつの間にやら至近で繰り出されたリィナの右拳がニックの頬を掠める。

 久し振りに目にする、『星降る腕輪』の強烈な速度——いや、あの時より遥かに速い。

 当たる。

 リィナの攻撃が当たっている。

「ああああぁぁぁあああっ!!」

 おそらく、自分でも無意識に発された雄叫び。

 リィナが間断なく繰り出す、鋭いと表現するのも烏滸がましい疾風の如き拳や蹴りを、ニックは捌き切れていない。

 たとえ防御されたとしても、バイキルトで倍化された膂力が防御を貫く。

「ハッ、番犬如きがやるもんだ! 正直、ここまでとは想像してなかったよ!!」

 二人の戦いを眺めながら、ギアが愉しげな声をあげた。

「ご褒美に、もう少し君も真面目に相手をしてやり給え——参つ」

 にいやりと口角を釣り上げて、ギアは。

 パチンと、指を鳴らした。

 まるで。

 破滅の合図だ。

「あの阿呆が」

「げぅ——っ」

 ニックが、リィナの鳩尾を殴り上げていた。

 一瞬、脚の浮いたリィナは、口どころか目や耳から血を噴き出して床に落ちる。

 脳みそが思考を進めるのを拒否する。

 いま目で見た光景が、現実のものだと信じられない。

『ベホマ』

 思考の麻痺した俺と違い、シェラは間髪入れずに呪文を唱えていた。

 どんな傷でも瞬時に癒す、最上級の回復呪文。

 そうか、ベホマラーを覚えてるんだから、シェラはベホマも使えるんだ。

 これはきっと、ほとんど攻撃の手段を持たないシェラが忍ばせた、必中の刃。

 ここまで使って来なかったベホマを、ここぞで唱えてみせやがった。

 リィナがピクリと反応した。

 死んでない。

 ニックの打撃が、呪文じゃ完全には回復しないのは分かってる。

 だが、傷自体は癒えた。

 動ける。

 立ち上がる——

「くだらん」

「ぎゃふ——っ」

 ニックがリィナの背中を踏みつけた。

 また、リィナが血を吐く。

 興奮で頭にのぼりかけていた血が、瞬時に凍てつく。

 凍った血に血管が圧迫されたように、意識が捻じ曲がる。

 眩暈が酷い。

 マジで、リィナが死んじまう。

 なんで、こうなっちまったんだ。

 嘘だろ。

 なんで。

 あそこで踏み付けられてるのは、俺じゃねぇんだ。

「あぁ……」

 シェラが、膝から崩れ落ちた。

 両手で顔を覆う。

 これか。

 リィナがさっきから感じていた絶望は、この未来だったのか。

仮令たとえ完全に回復しようが、続けて二回殺せばいいだけだ」

 ニックは、つまらなそうに吐き捨てた。

 必死な想いとか。

 いじましい積み重ねとか。

 コイツの前では、等しく無価値だった。

 ニックは全てを蹂躙する。

 でも——

 なんでコイツは、こんなことをするんだ。

 ただ強い奴と戦いたいだけが理由とは思えない。

 きっと、もっとちゃんとした理由が——

 違う。

 こんなのは、傲慢な考え方なのか。

 自分が納得できる理由が必ずある筈だなんて——

 ああ、ダメだ。

 深く思考できない。

 そして、俺の意識は、ただひとつの考えに占領されていく。

 脚がガクガクと震えていた。

 どうして忘れてたんだ。

 いや、忘れる筈がない。

 思い出した。

 おっかねぇ。

 コイツ、おっかねぇよ。

「やめてくれよ……リィナを殺さないでくれ……頼むよ……」

 気付くと、俺はか細く震える声で、ようやくそれだけを懇願していた。

 滑稽だ。

 通じる訳が無いのに。

「何度も言わせるな。気に喰わんなら、力づくで俺を止めればいいだけだ」

 そんなの。

 無理だよ——

3.

「ちょっと、あんた。あたしの同行者パーティメンバーに、何してくれてんのよ」

 唐突に、声は遥かな頭上から降ってきた。

 まるで重苦しい曇天を斬り裂く、天啓のように。

 耳に心地よい、聞き慣れた声。

 一瞬の忘我を経て、全身にぞわぞわと震えがはしる。

 これは、歓喜の震えだ。

『ベホイミ』

 唱えた声は、アルスか?

 ニックの足元で、血の池に沈んだリィナが、ピクリと蠢いた。

 まだ、生きてる。

「酷いな、これは」

 声の降ってきた背後を振り返って見上げると、さっき俺が落ちた穴の淵に、見覚えのある二つの影が立っていた。

 嗚呼——確かにこれは、勇者だった。

 絶体絶命の危機に、颯爽と登場する。

 あいつが嫌って止まなかった、物語の勇者様そのものだ。

 どうか、いまだけは許してくれ。

 お前が勇者で良かったって、どうしようもなく思っちまう、俺の不甲斐なさを。

 天に向かって差し上げた右手を、問答無用でマグナが振り下ろす。

『ライデイン』

 凛とした声と同時に、煌めくは破邪の雷光。

 同時に、アルスが床を蹴る。

 神速の雷光に撃たれたニックを、飛び降りざまに斬りつけた。

「ぬぅ」

 ライデインの雷撃で、ニック本来の動きが損なわれていた。

 辛うじて躱していたが、アルスの剣がニックの肩口を斬り裂く。

「チッ、おかしいだろ。なんで躱せるんだ」

 着地の無防備を嫌って、アルスが大きく後ろに飛び離れる。

「泣き言いってないで、やるわよ」

 その隣りに軽やかに降り立ったマグナが、腰から剣を抜く。

「泣き言じゃない」

「だといいけど」

 マグナとアルスは、左右から同時にニックに斬りかかった。

「ハァッ!!」

「フンッ!」

 同時に斬り掛かっているのに、お互いの剣筋が全く干渉せず、邪魔にならない。

 どころか、見事に連動してニックを追い詰める。

 息が合うとかのレベルじゃない。

 まるで、二人で一人みたいに。

 いや、ひとりの人間の右手と左手よりも、さらに——

 激しい攻防の中で、マグナがちらりと一瞬だけ俺を見た気がした。

 それで、気が付く。

 マグナとアルスは、リィナからニックを遠ざけるように剣を振るっていた。

 急いで駆け寄り、ぐんにゃりと力ないリィナを無理矢理抱きかかえて——嗚呼、なんて酷ぇ有様だ——シェラの元に運ぶ。

『ベホマ』

 回復呪文で躰の傷は癒えても、リィナは目を覚さなかった。

 だが、血まみれの口元に耳を寄せると、微かに呼吸の音が途切れ途切れに聞こえる。

 生きてる。

 待ってろよ。

 こんな馬鹿らしい戦闘が終わったら、すぐにちゃんとした寝床に寝かせて、起きたらたらふく飯を喰わせてやっからな。

「嘘でしょ!? なんなのよ、こいつ——っ!!」

 視線を戻すと、思わず文句がマグナの口を衝いているところだった。

 完璧な連動を以って恐るべき速度で前後左右から繰り出される斬撃は、それでもニックに届いていなかった。

 あるいは躱され、あるいはココの手斧を捌いたフゥマの技よろしく逸らされ、致命的な一撃を与えるには至らない。

「フン」

 水平に薙いだマグナの剣の腹を下から掌底で打ち上げて遠くへ飛ばし、絶妙の間を置いて縦に両断せんと振るわれたアルスの剣を半身になって躱したニックは、それを上から踏みつけた。

 切っ先が床にめり込んだ剣を押さえられて、アルスは動きを制され、マグナは剣を拾う為に距離を取らされる。

「——え? なに?」

 剣を拾って構え直したマグナは、ニックが凝っと自分を見つめている事に気付いて眉根を寄せた。

 ニックの顔に浮かんでいるのは、敵意ではなかった。

 なんというか、ひどく不可解な顔付きだ。

 どんな表情を浮かべればよいのか、本人自身が戸惑っているような。

 まるで、マグナの存在をようやくはじめて目に留めたとでもいうように、まじまじと見つめている。

「君、見惚みとれてないで、なんとか応えてやり給えよ」

「ム——」

 ギアに促されて、ようやく我に返ったみたいに、ニックは頷いた。

「見事な——太刀筋だ」

 それを聞いて、思わず吹き出すにやけ面。

「なんですか、その感想は。自分がそれを受けて、ようやく目が行くところも、貴方らしいというか、なんというか」

「どうだい、ソックリだろう」

 アルシェとギアの言葉に含まれた、からかう気配にも無頓着に、どこか上の空でニックは続ける。

「……そうだな。容姿は然程でもないが、改めて見れば、佇まいが良く似ている。無論、太刀筋もだが」

「もしかして、また母さんの話?」

 マグナの口調は、やや呆れ混じりだった。

「クク、そうともサ。君のご母堂は、あれで罪作りな人だったんだよ」

 ギアはニヤニヤと性格の悪そうな笑みを浮かべた。

「なによ、それ——ああ、説明しないでいいわ。親のそういう話なんて、別に聞きたくないから。っていうか、あんたまで知り合いだったの? って事は、ひょっとして母さんて、ダーマの関係者だったりとか?」

 あ、マズい。

 こんな形でバレるのは、誰にとっても本意ではない筈だ。

 ていうか、ギアのアホは、折角さっきは誤魔化してくれた癖に、これじゃ台無しじゃねぇかよ。

「さてね。僕からは、なんとも」

 いまさらトボけても遅いんだよ。しかも、面倒臭くなったのか、誤魔化し方が雑だし。

 にやけ面の言い草じゃねぇけど、ホントに余計な事しかしねぇな、このっちゃん坊やはよ。

「まぁ、いいわ。母さんには、次に帰った時に問い詰めてやるから。それに、母さんの知り合いだろうがなんだろうが、あたしの仲間パーティメンバーにあんたがしたことが許される訳じゃないわ」

 マグナは鋭い眼差しでニックを睨み付ける。

「無論だ。彼女あいつの娘というだけで、貴様を認められんのと同様にな」

 気を取り直したのか、ニックの身に纏う空気が、普段の剣呑なソレに戻りつつあった。

 それでも、いまのマグナは一切怯まない。

「そんなの、当たり前じゃない。あたしはいつだって、無条件に誰かに認めて欲しいだなんて、これっぽっちだって思ってないわよ! アルス! そいつの動きを止めて!!」

 床に刺さった剣を踏みつけられて動きを制されていたアルスは、マグナが指示する前から行動を起こしていた。

 柄を握ったままだった両手を離して、ニックにしがみつく。

「ぬぅ」

「ぐっ、なんて馬鹿力だ……だが、死んでも逃がさん!」

「なら、死ね」

 物騒な宣言と共に、ブルっと全身を震わせて、ニックが何かをするより僅かに速く。

「トビ! いま!!」

 マグナが天井に向かって叫んだ。

「命令せんとけ!!」

 頭上に開いた穴から飛び降りつつ、手にした鎌を投じたのは、さっきまでマグナとやり合っていた例の小柄な黒装束だった。

 空中で躰を捻りながら投じられた鎌は、力に限りに抱きつくアルスごとニックの周囲を旋回し、不可視の紐を巻きつけていく。

「むぅ」

「ぐっ」

 くっついたまま、もつれて床に倒れるアルスとニック。

 そのニックの首筋に、マグナの手にした剣の切っ先が突き付けられた。

「あたしの勝ちね」

 いや、うん、まぁ。

 そこはせめて、あたしと言ってあげてもよろしいのではないでしょうか、女王様。

「トビ、代わって」

「……儂はまだ、お前に雇われとりゃせんのじゃが」

 という反論には一切耳を貸さずに、素知らぬ顔で剣を収めたマグナの様子に、トビは小さくため息を吐いて、袖から取り出した鉄針をニックの首筋に突き付けた。

 早くも飼い慣らされてんな。

「……油断か。よかろう、殺せ」

 あっさりと、ニックは観念した。

「嫌よ。あたしの行動を、あんたが勝手に決めないで」

 こちらもきっぱりと、マグナは拒否した。

「どうせ、その気になれば、その状態からでもどうにか出来るんでしょ。だったら、ここで明確に勝ちを拾っておいた方が、あんたに言うことを聞かせるには都合が良さそうだわ」

 床に倒れたニックを見下ろしながら、傲然と言い放つ。

「いいだろう。俺は敗者だ。勝者に従おう」

 とうとう、あのニックすら、降参させちまった。

 これが、今のマグナだ。

「当然ね。もう暴れるんじゃないわよ。あんたには、色々聞かせてもらうから——トビ、戒めを解いてやって」

「ええんか? 正直、こんな好機は二度と無い思うんじゃが」

 俺と違って一部始終を視ていた訳でもないトビが、詳しい事情を把握しているとも思えないが、それでもニックの強さは肌で実感できるんだろう。

 圧倒的に優位な状態で首筋に鉄針と突き付けて尚、トビの声音は緊張に強張っていた。

 だが、マグナはあっさり頷いてみせる。

「ええ、構わないわ。こんな床に倒れたままじゃ、喋り難いもの。それに、アルスもこのままじゃ、ちょっと可哀想だしね」

「ああ。そうしてもらえると有り難い」

 ニックとピッタリ身を寄せて簀巻きにされたアルスは、力無く苦笑いを浮かべるのだった。

4.

「やれやれ。酷い目にあった」

 不可視の紐を解かれたアルスは、愚痴を口にしながら大義そうに立ち上がった。

「別に何を聞いてもらって構わんが、俺は彼奴等と違って、大した事は知らんぞ」

 抵抗しない意思表示のつもりか、ニックは立てた片膝に右腕を乗せて床に腰を下ろしたまま、にやけ面とギアに向かって顎をしゃくってみせた。

「あんたが知らなかったら、そいつらに聞くわよ」

「はてさて、これはとんだ勘違いだ。憐れな敗北を喫したのは、そこの愛想というものを母親の腹に置き忘れた武闘家の男であって、僕は君になんの負い目もありはしないよ」

 子供にしか見えない顔に、子供には見えない底意地の悪い笑みをニヤニヤと浮かべて、ギアは先回りで釘を刺した。

「何言ってんのよ。あんた達、いちおう仲間なんでしょ。連帯責任よ」

「それは遥かに昔々の物語おはなしだね。いまは仲間でもなんでもありはしないサ。彼の仏頂面を拝んだのすら久し振りだ、精々知り合い程度が妥当というモノだよ」

「同じく。確かに私から仕事を依頼する事はありますが、ニックさんは基本的にはお独りで勝手に——ああ、いえ、ご自由に活動されていますので、連帯責任と言われても困りますね」

 若干の恨み節を滲ませて、にやけ面も追従した。

「まぁ、なんでもいいわ。とにかく、あんたには喋ってもらうから」

 面倒臭そうにため息を吐いてから、マグナは瞳に力を篭め直してニックを睨みつける。

「何が聞きたい」

「それじゃ、聞くけど——なんで、こんな事したの?」

 随分と曖昧な表現だったが、まず最初に頭に浮かんだのが、どうして自分の仲間を傷付けたのかという憤りだったんだろう。

 加えて、細かい事をいちいち聞くのは面倒だから、知っている事を全部話しなさい、と翻訳するなら、そんなところか。

「選別だ」

 意外にも、ニックは特に返事に迷うでなく、すぐに言葉少なに返した。

「選別? それだけじゃ分かんないわ。もっと詳しく説明して」

 自分の言い回しは棚に上げ、マグナが苛ついた口調で促すと、ニックは困惑した声で続ける。

「ムゥ……元々、俺の考えではないのでな。もっと詳しくとせがまれても答えようもないが……ああ、そうだ」

 上手く言い表す言葉を思いついた、みたいな表情をニックは浮かべた。

「つまり、知人の頼みだ」

「知人? 誰のこと?」

 こんな言い方をするってことは、にやけ面やギアとは別の人間を指しているんだろう。

 マグナの問いに、だがニックは首を横に振った。

「それこそ、其処の締まりのない顔をした男に聞くんだな。正直、俺はよく理解しておらん」

「いや、こんな時ばっかり、適当に私に振らないでくださいよ」

 にやけ面は、慌てて体の前で手を左右に振ってみせる。

「なんなのよ、それ。知り合いなんでしょ? 理解してないってどういうことなのよ」

 マグナも明らかに言い逃れを疑っている顔付きだが、ニックは本気で困惑しているように見えた。

「フン。いまさら誤魔化すつもりもないが、どう云ったものか……」

「ひょっとして、あのフード付きの黒いマントを羽織った魔物のことを言ってるのか?」

 ひとりでに、口が動いていた。

 思えば、初めて遭遇した時から、あの魔物に名前を呼ばれてたし、さっきだって、ここまでアイツに連れて来てもらってたもんな。

 と——

 何気なく言葉を発したつもりが、その場の意識ある人間の視線が、一斉に俺に集まる。

 圧がすげぇから、全員でこっち見んな。

「ほら、カンダタ共と最初にやり合った時に、あんたら空飛ぶ妙な魔物と話してただろ。あいつのことだよ」

「そうか、貴様等はあの時にまみえていたか。そう、奴のことだ」

「……つまり、あんたは魔物の側についてるって訳?」

 顰めっ面で尋ねるマグナ。

「とは言えんな。単に、奴と付き合いがあるだけだ」

 だが、ニックはマグナの問いを否定した。

「十分、魔物側じゃない。それじゃ聞くけど、あの魔物は一体なんなの?」

「魔物は、魔物だろう」

 きょとんと言い返すニックに、マグナはますます苛立ちを募らせる。

「そういうこと言ってんじゃないでしょ!? あんた達、何が目的なのよ?」

「フム……それも、そこの締まりの無い顔をした男に聞けと言いたいところだが……」

 にやけ面は、全力で首を横に振る。

「そういう訳にもいかんらしい。そうだな……俺の理解しているところでは、生きながらえるのが奴の目的だろうな」

「は? そんなの当たり前じゃない」

 そりゃ、好んで死にたがるヤツは、あんまり居ないからな。

 けど、おそらくそういう意味じゃない。

「つまり、あの魔物は生存を脅かされるような状況に置かれてるってことか?」

 そんなに弱々しい存在には思えなかったが。

「……まるでそいつのように小賢しい言い回しするな、貴様は」

 ちらりとにやけ面に目をやって、ニックは渋い顔をした。

 いや、どこも似てませんけど。

「だが、そういう事らしいな。いますぐどうこうという話ではあるまいが、別の存在に生殺与奪の権利を握られているらしい」

 さっきまでの、俺達のように。

「つまり、彼奴は抗う者だ」

 僅かに、ニックの声音に色がついた。

 ほんの少しだけ、心躍るとでもいうように。

「その在り方は、俺には好ましく思えた。だから、気が向いた時に手を貸してやっている。その程度の関係だ」

「……結局、なんにも分かんないんだけど」

 ウチの女王様は大いに不満げだったが、ニックは床に座ったまま肩を竦めてみせる。

「だから、言っただろう。俺の知っていることなど、高が知れていると」

「これだけの事をしておいて、それで済むと思ってんの?」

「気に喰わんなら、俺を殺せばよかろう。いまだけは、貴様が勝者だ。逆らわんよ」

 ニックの口調に煽る意図は無さそうだったが、マグナは据わった目をして腰の剣に手を掛ける。

「あたしに出来ないと思ってナメてんの?」

「いや? なんなら、そっちの男にやらせても構わんぞ」

 そんな口を利きながら、今度はアルスにちらりと目を向ける。

「マグナ、やるべきだ。トビじゃないが、こんな機会は、きっと二度とないぞ」

 一旦は鞘に収めた剣を抜きながら、アルスは提案した。

 ていうか、こいつらの関係性がよく分からねぇんだけど。

 にやけ面繋がりで、どっちかと言えば仲間じゃねぇのかよ、お前ら。

「……こっちは、いちおう誰も死んでないわ」

「だから、命までは取らないか。お前らしいが、また何時いつ、この男がお前の前に敵として立ち塞がるか分からないんだぞ」

 ああ、なるほど。

 アルスにしてみれば、マグナを心配する気持ちの方が勝るのか。

「……」

 マグナは難しい顔をしたまま、黙って俺の方に視線を向けた。

 その意図を汲むなら、ご意見番として連れてきてあげたんだから、何か意見を言ってみせなさいよ、ってなところか。

「そうだな……確かに千載一遇だとは思うけどさ、別に卑怯な手を使われた訳でもねぇしな……戦ってる最中ならともかく、こうして一旦は落ち着いた後に殺しちまうってのは、ちと寝覚めが悪ぃのは否定できねぇな」

「案外、甘いんだな、あんた。この男は敵だぞ」

 アルスの言葉に、素直に頷く気にはなれなかった。

「ホントに、敵なのか?」

 考えて出た言葉じゃなかった。

 だが、アルスばかりか、ほとんどの人間が——ニック本人まで——怪訝な目を俺に向けるのだった。

 どうやら口が滑ったらしい。

「逆に聞くが、疑問の余地があるのか? 本人が殺されることに納得しているのが、この男が敵である証明だろう」

 と、アルス。

 だって、別に卑怯な手段を使われた訳じゃねぇし、勝負自体は尋常だったじゃねぇかよ。

 尤も、辛うじてとはいえリィナが生きてるからこそ、こんな風に考えられるんだが。

「そりゃ敵には違いないんだけどさ——こっちが弱かっただけだって言うんじゃねぇかな、もしリィナに意識があったら」

 ダシにしちまって、すまねぇな。

 フゥマの隣りに寝かされているリィナに、心の中で頭を下げる。

 ちなみに、そのフゥマはシェラに膝枕で介抱されている。あの果報者め。

「……確かに、言いそうね」

 それまで固い顔付きだったマグナが、少し表情を緩めてため息を吐いた。

 俺と同じ想像に辿り着いたのだろう。

 とは言え、実際にリィナがどう思うかは、俺には読み切れないところがあった。

 自分が知らない間にニックが殺されていたと知ったら、きっと納得はしないと思う。

 けど、力の差をまざまざと見せつけられた後だからな。

 目を覚ました時に、リィナは果たしていままでと同じように考えるだろうか。

 今日の一連の出来事は、リィナの在り方を根底から変えてしまってもおかしくないくらい、それ程の衝撃を受けたように思えた。

 正直、リィナが心配だ。

 これまでで、一番。

「クク。真逆、こんな愉快な喜劇に出会でくわすとはね。見たまえ、諸君。あろうことか、あの無敵の絶拳殿が、羽虫に情けをかけられているじゃないか!」

 愉しそうな声で発されたギアの嫌味に、ニックは顔を顰める。

「俺が負けたのは、その魔法使いの男ではない」

「これはこれは、珍事とは続くものだ。かの絶拳殿が、今度はみっともなく言い訳かい?」

「……確か、マグナと言ったか」

 苦虫を噛み潰したニックに名前を呼ばれて、マグナはちょっと目を見開いて、自分を指差した。

 すげぇ、あのニックにとうとう名前を覚えられたよ、ウチのお嬢様。

「ええ、そうだけど」

「勝者の当然の権利として、この俺に命じるがいい。其処の巫山戯た小男と、締まりの無い顔をした男の一味を、まとめて始末しろとな」

 ゴキキ、と指を鳴らしながら、拳を握り締める。

「おっと、そう来たか。君の方こそ、気の短さは相変わらずだネェ」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!? なんで私まで!?」

 完全にとばっちりのにやけ面は、慌てふためいてギアを怒鳴りつける。

「貴方って人は本当に、余計な真似しかしませんね!? なんでいっつもニックさんが本気で腹を立てるまでちょっかいをかけ続けるんですか!! 少しは学んで、ほどほどで抑えてくださいよ!!」

 ほどほどならいいのか。

 だが、ギアは腕を組んでふんぞり返り、下から見下ろすという器用な仕草を達成してのけた。

「黙れ。僕が学ぶのは、この世の真奥の神秘のみだ。それ以外など、知った事か。そんなどうでもいい瑣事は、全てお前がなんとかしろ、このドブさらいめ」

 すげぇ言い草だ。あれで、俺に対するギア様の態度は、まだマシだったんだな、と思わされる。

 流石に、にやけ面が気の毒になってきた。

「そうね。せめて、そいつらを蹴散らすくらいはして貰わないと、こっちも割りに合わないわね」

 そう言って舌戦に参加したのは、マグナだった。

「どうせ、あたし達の邪魔をしにきた連中だし、いいわ、やっちゃいなさい」

 などとのたまいながら、マグナは広げた右手をギアとにやけ面の方に突き付けてみせる。

 えー……。

 あのニックに命令してるよ、ウチのお嬢様。

 どういう心臓をしてるんだよ——思い返すと、初対面のリィナにも命令してたな、そういえば。生まれついての女王様かよ。

 そんで、ニックも素直に言うこと聞いて、ゆっくりと腰を上げてんじゃねぇよ。

 どうやら、にやけ面も俺と同じ感想を抱いたと思しく。

「ニックさん、貴方、それでいいんですか? あっさり言うことを聞いてますけど、確かにマグナさんは彼女の娘ですが、それはつまり、オルテガさんの娘でもあるということなんですよ?」

「……そう言えば、そうだったな」

 ニックは、口を歪めてひどく嫌そうな顔で吐き捨てた。

 いや、そんな基本的なこと、忘れんなよ。

「なに? やっぱり、あの人とも因縁があるの?」

「オルテガの事か。少しばかりな」

 苦虫を噛み潰しながら、ニックは小さく頷く。

「ふぅん。ま、そんなの今は関係ないわ。ほら、いいから、さっさとあいつらを片付けちゃいなさいよ」

 腕組みをしながら、マグナはにやけ面達の方に向かって顎をしゃくる。

 おお、あのニックを、文字通り顎で使ってるよ、ウチの女王様。

 どんな胆力してんだよ、マジで。

「だ、そうだ」

 ニックが足を踏み出すと、にやけ面は短いが深い溜息をついて、いまだに床に伏したままのロン達の方へと後退る。

「冗談じゃありませんよ。ニックさんをけしかけられたんじゃ、退散するしかないじゃないですか。ヴァイスさん、いいですか!? 約束は忘れないでくださいよ!?」

 俺達が『愛の思い出』を手に入れた場合は、貸し出しの相談には乗ってやるっていう、例の密約の件か。

 どう転んでも目的を果たす道筋を残している辺りは、流石に小賢しいな。

 いや、まぁ、俺も同じことをしてる訳ですが。

「いちいち念押しするトコが、こっちを馬鹿にしてるってんだよ」

 よっぽど惚けてやろうかと思ったが、ここまでの流れで珍しくにやけ面に同情的な気分になっていた俺は、しょうことなしにどこぞの海賊のような憎まれ口を叩きながら目配せをしてやる。

「いえいえ、言っておきますけど、私ほど貴方を高く評価している人間はいませんからね? もっと感謝していただきたいくらいですよ。それでは、アルスさんもこちらに」

 にやけ面の呼び掛けにも動こうとせず、アルスはマグナの傍らで、ニックに視線を据えたまま口を開く。

「俺では、まだ難しいか」

 一瞬だけ、言葉を詰まらせたにやけ面は、小さく顎を引く。

「ええ。いまはまだ、単独では及ばないでしょう」

「……そうだな。さっきやり合った感じだと、そうなんだろうな」

 マグナに向き直り、頬に手を添えてアルスはなにやら優しげな声を出す。

「じゃあな、マグナ。短い間だったが、顔を見れて嬉しかった」

 はー、ツラがいいと、何をやっても様になっていいですね。

「ええ、あたしも」

 そんで、なにアルスの気障ったらしい行為を、自然と受け入れてやがんだよ、ウチのお嬢様はよ。

 毎度の事だが、俺が同じように振る舞ったら、絶対変な顔するだろ、お前。

「あまり無茶をするなよ」

「アルスこそね。もう少し、自分の体を気遣ってよ」

「分かった。なるべく気をつける」

「お願いよ」

「ああ。それじゃ、またな」

「ええ、またね」

 アルスは名残惜しそうに、ゆっくりとマグナの頬を撫でるように手を下ろした。

 少しくすぐったそうな表情を覗かせるマグナ。

 だから、いちいち雰囲気を出してんじゃねぇよ、クソが。

「ルシエラさん達は——」

「いい。まだ用、ある」

 にやけ面の言葉に被せて、ルシエラはごとりと言葉をその場に放り置いた。

「そうですか。では、そちらはお任せします——ッ!?」

 痺れを切らせたニックが再び歩を進めたのを目にして、にやけ面は慌てて手を前に突き出して押し止める。

「分かってますから! いまお暇しますから、怖い顔してこっちに来ないでくださいよ、ニックさん!」

 アルスが歩み寄るや否や、急いで唱えられたにやけ面のリレミトで、ロンを含む一行は通路から姿を消した。

「さて。残るは貴様らか」

 ニックに睨みつけられて、ギアは幼い顔に不釣り合いな皮肉らしい笑みを浮かべる。

「フン、こんな閉鎖的な空間で絶拳殿を相手取る愚策は、さすがに頭が悪すぎて僕には選べないな。よかろう、グエン。先に戻り給え」

「はい。ギア様は、いかがなされますか」

「ジンスケを拾って、すぐに戻るよ」

 ジンスケってのは、多分あのジパングの剣士のことだろう。

 そういや、リィナとロンさんが戦ってた場所に置き去りだもんな。

「承知しました」

「やれやれ、命拾いしたよ、マッタク」

 ティミが苦笑を浮かべながら漏らすのが見えた。

「あ、トビは置いてってよ」

 つけつけと注文をつけたのは、もちろんマグナだ。

「——!?」

 口を覆った布切れの下で、無理矢理言葉を飲み込んで、一瞬だけ不審な挙動をしたトビを、ギアはしばし眺める。

「……だそうだよ、グエン。お前の大事な勇者様のお達しだ。彼処あそこで怖い顔をして、此方こちらを睨んでいる裏切り者もいることだし、ここは大人しく言うことを聞いておき給え」

「分かりました。逆にちょうど良かったかも知れませんねぇ。最初にご提案差し上げた通り、翁の後任にはハンゾウを据えた方が、皆も納得し易いでしょう」

「クク、この僕に嫌味かい?」

「いえ、とんでもない。決してそのような」

「じゃあ、その件はお前に任せるよ。僕は他のアレコレを考えるので忙しい。全く、友達甲斐の無い恩知らずのお陰で、大いに予定を狂わされたモノだよ!」

 大仰な身振りと共に当てつけるようにギアは吐き捨てたが、ニックは涼しい顔で返す。

「見逃してやるだけ、友人思いだろう」

「ハッ、それはそれは! 感激の余り滂沱の涙で溺れそうだ! では、短気な気分屋の機嫌が変わらない内に、さっさと退散し給え、グエン」

「はい、仰せのままに」

 ギアに深々と頭を下げてから、グエンは俺をギロリと睨み付けた。

「もう二度と顔を合わせないで済むように、精々僕から逃げ回るといいよ。次にあったら、殺意を抑えられそうにないからねぇ」

 いや、なんでだよ。毎度の事だが、俺はお前に何もしてねぇし、むしろいつもお前が俺にちょっかいを掛けてんだろうが。

 自分から話し掛けておいて、俺の返事を待たずに、グエンはリレミトを唱えてティミと共に姿を消した。

「それじゃ、僕もおいとまするよ。こんな別位相の大海原の真々中まんまんなかから、キミがどうやって戻るつもりか知らないが」

「貴様に案じて貰わずとも、彼奴が拾いに来ることになっている」

「ああ、そうかい。の高名な絶拳殿が、当てもない漂流の末に餓死して果てるだなんて、ツマラナイ死に様を晒さずに済むようで、心よりお慶び申し上げるよ」

 もはや返事をする気すらなさそうなニックが手で追い払う仕草をすると、ギアも諦めたように肩を竦める。

「ヤレヤレ、ツレないね。それでは、キミには約束通り、相応しい死に場所を用意してやるから、それまで不承不承ながら生き永らえ給え」

 ギアとニックのどうでもいいやり取りを、俺が気もそぞろに聞き流しているのには理由があった。

 内心でずっと引っ掛かっていた不安が、場が落ち着くにつれて、俺の裡で鎌首をもたげていたのだ。

 さっき、俺を殴って気絶させたクソガキジミーの姿が、ここまで何処どこにも見当たらない。

 まさかアイツ、また陰から俺を狙ってるんじゃねぇだろうな。

 俺はそっと右手で片目を覆った。

 ドゥツはさっき、遠隔視に再接続できるようにしてやるとか言ってたからな。

 未だに自由自在とはいかないので、肉眼の視界を塞いだ方が、不慣れな俺には視え易いんじゃないかと思ったのだ。

 果たして、真っ暗であるべき右目の視界が、船内の別の場所を映し出す。

 そして、物凄い勢いで切り替わる。

 うぇっ、気持ち悪っ!!

 場面の切り替わりが早過ぎる——居たっ!!

 やはり、この遠隔視の能力は、多少は俺の意も影響を与えているんだろう。

 床に空いた大穴の淵で、しゃがんで下を窺っている小柄な人影を捉えた途端、視界が固定する。

 ジミーあいつが居るのは——まさか、俺の真上か!?

 俺が正面の淵を見上げるのと、ジミーが上から振って来くるのは、ほぼ同時だった。

「えっ——」

「なに?」

 シェラとマグナの声が聞こえた気がしたが、身を躱すので精一杯で、とてもそちらを気にしていられない。

「くそっ!!」

 嘘だろ。

 このガキ、飛び降りざまに俺を剣で斬り付けやがった。

「卑怯者!! どうして分かったんだ!!」

 いや、不意打ちした卑怯者はどっちだよ。

 悔しそうに叫びながら、ジミーは体勢を立て直して追撃せんと剣を振りかぶる。

 金属が打ち合う音。

 床で尻餅をつく俺を庇ってジミーの剣を受けたのは、マグナだった。

 え。さっきから、ウチのお嬢様がカッコ良すぎるんですけど?

「なんのつもり、ジミー?」

 低い声で問うマグナに、ジミーは言い募る。

「勇者様こそ、どういうお積もりですか! ソイツは大罪人ですよ!? ノルブ様にも、この船の中で始末するように言われてるんです!!」

 何を企んどるんだ、ダーマのアホ共は。こんな小物にかかずらってる場合じゃねぇだろうに——自分で言ってて悲しくなるけど。

「……ヴァイスは、あたしが選んだ正式な同行者パーティメンバーだって言わなかった?」

「目を覚ましてください、勇者様!! ソイツが現れてからの勇者様はオカシイですよ!! いまこの時も、世界中でどれだけの人達が魔王に苦しめられてると思っているんですか!! もっと真面目に魔王討伐に邁進して下さい!! 勇者様を堕落させる邪悪な蛇は、いま僕が始末して差し上げますから!!」

 会話が噛み合わない。

 俺は辛うじて舌打ちを堪える。

 よりにもよってマグナの前で、薄っぺらい正論を振りかざしやがって。

 問題は、その薄っぺらい正論を、ジミーが心底から信じ切っているように見える点だ。

 おそらくジミーには、自分の目に映る世界の事しか分からない。

 もちろん誰にだってそういう部分はあるが、そこまで一般論的な意味で云っている訳ではない。

 人は目に映る景色の中から、情報を取捨選択して意識する。

 簡単に言えば、興味の無い物は、目に映っていても意識に上らない

 そして、情報を濾過して抽出するその固定観念を、ジミーは自ら更新しない

 何故なら、それは自分で考えて獲得したものはないからだ。

 ダーマの教えという外部から齎されたものに、その役割を丸投げしているのだ。

 非人間的なまでに、なんの疑問も挟まずに、完全に任せ切っている。

 つまり、教えから外れたことを、ハナから理解する気が無い。

 ジミーの世界の中では、俺を殺す事は絶対的な正義であり、そこに疑問の余地を持ち込まない。

 だから、他人を殺そうとしておいて、自分は全く悪くないと言わんばかりの態度が取れるのだ。

 正直、ゾッとするね。

「あんたがどう思おうが、別にあたしは何も変わってないわよ。いまだって、あんた達のお望み通り、魔王を斃す為に必要な物を探しに来てるんじゃない」

 マグナの声音が、恐ろしく不機嫌だった。

 だが、自分が悪いとは夢にも思えないジミーは意に介さない。

「いいえ、以前の勇者様なら、そんな風には仰いませんでした! 困ったな……あ、そうだ!」

 ジミーはマグナと鍔迫り合いをしながら、今度はなんとニックに向かって気安く語り掛ける。

「貴方、あの伝説のニキル様なんですよね? お会いできて光栄です! ダーマの偉大な先達であるニキル様なら、お分かりですよね!? こんな大罪人なんて切り捨てて、ルビス様のお導きに従って、もっと真面目に魔王討伐に励むように勇者様に忠告して下さい!」

 ニックは、反応すらしなかった。

 マグナの剣を押し返した命知らずは、小走りにニックの元へと駆け寄る。

「聞いてらっしゃいますか、ニキル様? ダーマの使徒として、あの大罪人を排する手伝いをお願いしま——ぅわぁっ!?」

 タイミング良く足を滑らせたようにしか見えなかった。

 だが、結果として、ニックが無造作に繰り出した拳を、ジミーは躱していた。

「小僧」

「なんですか、いきなり。もぅ、危ないなぁ」

 状況が分かっているのか、いないのか。

 ジミーは、普段通りのまるきり危機感のない声音で、ニックに文句を言ってのける。

「いくら『絶拳』様でも、やっていい事と悪い事ってあるんですよ? それに、ニキル様と同じように、僕だって『冥加』っていう二つ名を授かってるんですからね! あんまり子供扱いして見くびらないでください!」

 なんでコイツ、普通にニックに話し掛けてるんだよ。

 見ていて、こっちが不安になる。

 理解不能過ぎて、薄寒い気分になってきた。

 ニックの表情が、一際険しくなる。

 途端に、深海に連れていかれたような圧迫感が周囲を満たす。

 今日、ここで誰を相手にした時より本気になってるじゃねぇか。

 だが、またしても茶化す口調で空気を引っ掻き回したのは、去り際を見失っていたギアだった。

「クク、これは愉快だ。なんだ、この奇妙な生き物は」

 顎に手を当てて、言葉とは裏腹にどことなく嫌悪混じりの目つきでジミーを眺める。

「ダーマ又候またぞろ反吐の出る悪徳を重ねていると見える。ジミーと言ったか? 行く場所が無ければ、僕の処に来るかい?」

 芝居がかって手を差し伸べたギアを、怪訝な表情で見つめるジミー。

「みんな、君のこと伝説のギア様みたいに呼んでるけど、そんな訳ないよね? どう見たって、君は僕より年下じゃないか」

 あまりにも当たり前の感想。

 なんと、あのギアが、呆気に取られて言葉を失っていた。

「それに、行く場所が無いって、どういうこと? 僕は勇者様のお側にいなきゃ駄目だから、悪いけど君と一緒には行けないよ」

「なんと……うん、凄いな。ここまで綺麗に不都合に目を瞑れるものなのか。目眩がするね」

 珍しく素に近い苦笑を浮かべて呟いてから、気を取り直すようにいつも通りの皮肉らしい笑みを浮かべてギアは続ける。

「真逆とは思うが、念の為に尋ねてやろう。お前はまだ、あの勇者殿の元に居座る腹積もりでいるのかい?」

「え? そんなの、当たり前じゃないか」

「当たり前な訳ないでしょ」

 一言の元に切って捨てたマグナの声は、普段よりも硬かった。

「はい?」

「仲間を平気で殺そうとするような人間を、あたしがこれ以上一緒に連れて行く訳ないでしょ」

「え、でも、だって、悪いのはアイツで——」

「だっても何も無いわ。悪いのは問答無用で人を殺そうとしたあんたの方だし、あたしは絶対にそんなヤツをこれ以上連れて行かない。だから、あんたはどこへでも好きに行ったらいいじゃない」

 ジミーは何を言われているのか全く理解していない顔で、しばらくポカンとしてから、少し唇を尖らせた。

「ふぅん」

 そして、ギアの方を向く。

「君がギア様だっていうのは、本当なの?」

「お前が云っているのがどのギアだか知らないが、ダーマで『子爵』なんて不名誉な二つ名を押し付けられたギアなら、確かに僕のことだよ」

「そっか。だったら、いいのかな」

 ギアが言った通り、一切の不都合に目を瞑り。

 元ダーマの英雄だから。

 その肩書だけで、おそらくジミーは判断を下していた。

「勇者様は混乱して、ちょっと意地になっちゃってるみたいだから、しばらく君と一緒に行くことにするよ。少し時間を置けば、勇者様もきっと分かって下さる筈だもんね」

 顔付きや声音で分かる。

 ジミーは、自分の言葉を全く疑っていなかった。

「そんな訳ないでしょ?」

 だから、マグナ本人が否定しても、どこ吹く風だ。

「ノルブ様の事、宜しくお願いしますね、勇者様」

 まるで悪びれたところのない朗らかな笑顔を浮かべる紅顔の美少年。

 実際のところ、その場その場で台詞を切り取ってみれば、ジミーは大しておかしな事を口にしていないのだ。

 だが、前後の連続性が無い——いや、完全にジミーにとっての連続性しかなかった。

 つまり、会話にならない。

 なのに、本人はそれを全く認識していない。

 ある意味、ギアやニック以上に自分本位なその態度が、結果として捉えどころのない得体の知れなさを接する者に振り撒いている原因なんだろう。

「……もちろん、あの人の事は処置するわ。ちゃんとね」

 マグナが絞り出した返事は、ため息に似ていた。

 俺を殺そうとした事などすっかり忘れたように、ケロリとした顔でジミーはギアに呼び掛ける。

「じゃあ、行こうか」

「……ヤレヤレ、これほど自分の判断の正しさに自信が持てないのは、もしかしたら生まれて初めてかも知れないな——おっと。アレと鉢合わせる前に、さっさと退散した方が良さそうだ。それでは、諸君。ご機嫌よう」

 慇懃無礼に大袈裟な仕草でお辞儀をしたギアの姿が、ジミーを伴ってすぅと掻き消える。

 まるで本物の魔法使いさながらだが、アイツラの同類とも思えないんだよな。

 機会があったら、もう少しちゃんと話を聞いてみたいモンだ。

 などと、どうでもいいことを考えていた俺の呼吸が、通路の奥から滑るようにこちらに向かってくる影を認めた瞬間、喉の内側が貼り付いたように堰き止められる。

 宙に浮いたままゆっくりと停止した漆黒のマントの裾が、周囲の靄を撹拌しながら翻った。

『モウ ヨイカ』

 フードの奥でゆらめくは、二つの青白い炎。

「あれって——!?」

 剣の柄に手をかけて身構えるマグナ。

 あいつも覚えてたか。

 そう、カンダタ共が根城にしていたシャンパーニの塔で初遭遇して、俺がイシスの王宮で望まぬ再会を果たした、あの魔物だ。

「随分と早かったな。が、丁度よかったか」

 ニックの返事もほとんど耳に入らず、俺は停止しそうな思考を必死に蹴飛ばし続けていた。

 マズい、こっちはリィナもフゥマも気絶したままだ。

 動けるのは、マグナとシェラと——当てに出来るか分からないが、トビか。

 ニックはおそらく、もう俺達とやり合うつもりはないだろう。

 だが、まだルシエラと魔物も残っている。

 戦闘になったら、明らかに不利だ。

 くそ、どうにか死地を切り抜けたと思った矢先に。

『アイノオモイデ ハ ドウスル』

「拾ってきたのか?」

 とニック。

 えらく普通に会話してやがるな。

 この空気感なら、或いはやり合わずに済ませられる目もあるか?

『アア ココニ』

 よく見ると、漆黒の魔物の手前の空間には、微細な装飾と小粒の宝石が象嵌された首飾りが浮かんでいた。開閉式のチャームのついたロケットペンダントだ。

「そこの娘に渡してやれ」

『ヨイノダナ』

「ああ。構わん」

 ニックの返答を受けて、首飾りが宙に浮いたまま、マグナの方へと滑り寄る。

「え——」

 流石に不気味だったのだろう。

 振り返ったマグナに問い掛けるような視線を向けられて、俺は小さく頷いてみせた。

 用心しながら、首飾りの金鎖を握るマグナ。

 いまさらニックがマグナに害を及ぼすとも思えないし、俺達が此処に来た目的をくれるというのなら、有り難く貰っておこう。

「それを湖畔で掲げて蓋を開ければ、貴様等の望みは叶うだろう」

 ふと思い出したように、ニックは付け加える。

「何故かを俺に尋ねても無駄だぞ。俺はそういうものだと教えられただけだからな」

「あんたには、もう説明なんて期待してないわよ」

 よし。これでもう、この幽霊船に用はねぇな。

 実はさっきから、早くこの場を離れたくて仕方ねぇんだ。

 この場というか、黒マントの魔物の前からさ。

 恐ろしくて、そちらに目を向けることすらできない。

 視界に入れたら、それだけで体中から脂汗が止まらなくなっちまう。

 そんな俺の気も知らずに。

「その人、殺しておく?」

 俺を一直線に指差しながら、ぽそりとルシエラが黒マントの魔物に語り掛けた。

 お前、なんてこと聞いてんだ。

 つか、やっぱりお前ら知り合いなのかよ。

 怖くてまともにそっちを見られないので分からないが、フードの奥で揺らめく二つの蒼炎に、凝っと観察されている気がした。

「ふざけたこと言わないで。ここは、あたし達の勝ちの筈でしょ」

「知らない。殺さないなら、別にいい」

 怒気を含んだマグナの声に、感情の無い声が応じる。

 さっきから、マグナには助けられてばっかりだ。

 くそ、情けねぇな。

『イマ ハ コロサヌ』

 返事まで不自然に間があったので、ルシエラと黒マントの魔物の間で、何か俺達には分からない意思の疎通があったのかも知れない。

 わざわざ俺達にも通じる念話の形で応じてくれたのは、ニックもこの場にいるからだろうか。

「そうだな。今回は、これ以上の手出しは無用だ。決着をつけたければ、別の機会にしろ」

 そう口にしてから、ニックは床に倒れたままのリィナの方に視線を向けた。

「奴に関しては、次があるかは分からんがな」

「あるに決まってるわ」

 勝ち気に返すマグナだったが、その表情はどこか憂いを含んでいた。

「フン。お前は、それでいい」

 一方のニックは、どこか愉しげな口振りだった。

『デハ ユクカ』

「ああ、頼む」

 ニックとルシエラが頷くと、黒マントは少し頭を上に向けた。

 次の瞬間。

 恐ろしい大きさの火球が出現する。

 最低でも、メラゾーマ級——

 物凄い勢いで真上に向かった火球は、丸く焦げ跡を残して、遥か頭上の甲板をも貫き、空高く消えた。

 度肝を抜かれている俺の眼前で、黒マントがふわりと浮かび上がり、ニックやルシエラ、それにお供の魔物を引き連れて、火球のあけた穴を上昇する。

 靄がかった空に紛れる前に、小さくなった連中の姿が掻き消えた。

 俺達だけが取り残された後も、しばらく誰も言葉を発しなかった。

 本当は。

 あの黒マントの魔物と遭遇する機会なんて滅多に無いんだし、そもそも伝説扱いされてる重要人物があれだけ揃ってたんだ。

 俺はもっと、核心へと迫る探りを入れるべきだった。

 自分が掴んでいない情報への手掛かりくらいは手繰り寄せなきゃならなかった。

 だけど、いま俺が抱いている感情は。

 どうにか、生き延びた。

 ただ、それだけだった。

 特に黒マントの魔物が現れてからは、早くどこかに立ち去ってくれと願うことしか出来なかった。

 ひどく精神が疲弊している。

 本来なら、ドゥツにも問い質さなきゃいけないことがあるんだが。

 とてもそんな気力が沸いてこない。

 さっき捻った足首も痛ぇし。

 まぁ、アレの知り合いらしいから、ドゥツの方は後でどうにでもなるだろ。

 やがて、疲れた中に安堵を滲ませたマグナのため息が耳に届いた。

「なんとか、なったわね」

「ああ」

 俺は深く考えもせず頷いたが。

「なったんか?」

 傍らに跪いたシェラに介抱されている、未だに床に臥せったままのフゥマとリィナの方を眺めながら口にされたトビの呟きには、誰も答えられなかった。

5.

 幽霊船での戦闘の後、俺達はそのまま船で、例のオリビアに呪われた湖を目指した。

 ルーラでどこかの街に戻って、そこから旅の扉を経由して向かうよりも、地図の上では距離的に近そうだったからだ。

 リィナとフゥマの体の事を考えれば、ひとまずおかに戻りたいところだったが、目的を優先してくれと目を覚ました本人達に強く希望されたのだ。

「ヒミコサマより偉そうなその女が、勝手に儂を買ったんじゃ。食い扶持は用意して貰わんとな」

 などと嘯きながら、トビも同行している。

 なにやら俺には良く分からん類いの矜持があるらしく、普段は何故か姿を隠しながらマグナの近くに控えている。

「あたしの部屋をコソコソ覗いたら、あんた殺すわよ?」

 とマグナに釘を刺されているので、船長室の天井裏には、陽が出ている間しか潜まないようにしているそうだが。

 そして、例の湖までほど近い海峡の港町で、フゥマは何も告げずに黙って姿を消した。

 尤も、シェラとはきちんと話をしたらしい。

「ちゃんと挨拶するように言っておいたんですけど……すみません」

 少し寂しげにはにかみながら、シェラは代わりに俺達に頭を下げた。

 フゥマの奴、あれだけ豪語しておいて、またニックに届かなかったもんな。

 けど、全く手応えを感じてなくもなさそうな様子だったが。

 それはシェラも同感らしく、どちらかといえば心配よりは呆れや諦念の方に比重が寄っている印象だった。

 船長には一足先にポルトガに戻るように伝えて、その港で別れ——ちなみに、ノルブも船倉に放り込んで護送する事になった。必死に言い訳をしていたが、仮にも俺という人間の殺害を企んだ訳だからな——俺達は例の湖を水源とする大河沿いに、そこからは陸路で向かった。

 結果から言うと、愛の思い出の効果は覿面だった。

 湖のほぼ中央に位置する孤島を目指して小舟で漕ぎ出した俺達の耳に、まるでこの世に未練を残したまま生を失った女がすすり泣くような、歌声ともつかない寂しげな音が届く。

 タネ明かしをしてしまえば、それは孤島に建てられた崩れかけの尖塔を通り抜ける隙間風が奏でているのだろう。

 前回はシェラが随分と怖がってみせたものだが——今回も、割りと怖がってるな。正体さえ分かれば、綺麗さっぱり怖くなくなるというものでもないらしい。

 確かに、この湖の周辺は、人の手がほとんど入ってないこともあり、草も木も伸び放題で、しがみつくように幹を這い上る植物の蔦を枝から垂らした樹木は、御伽噺の夜に騒めく不気味な化物さながらだ。

 不透明で濁った湖面と、低く垂れ込めた暗雲に挟まれた景色は、いかにも息苦しく陰鬱だった。

 そういった舞台装置と相俟って、湖は呪われたと冠されるに相応しい雰囲気を醸し出しているのだった。

 やがて、孤島に接岸する直前だった。

 記憶と同様に急激に湖面が盛り上がり、俺達四人を乗せた小舟を押し返す。

 そこでマグナが掲げてみせたのが、あの黒マントの魔物から渡された首飾りだ。

 見知らぬ女の肖像が嵌め込まれたロケットを開くと、果たして湖面はすぐになだらかとなり、俺達は無事に孤島に上陸したのだった。

 常識的に考えると、マグナが掲げた首飾りと、盛り上がった湖面が凪ぐ現象の間に因果関係は存在しない。

 つまり、この怪異は、何者かが明確な意図を持って、そのように仕組んだものだと考えるのが自然だ。

 なんの意味があるのか、さっぱり分からないのが歯がゆいけどさ。何かの時間稼ぎくらいしか、いまのところ理由の候補を思い付かない。

 ところで、いま眼前で繰り広げられた怪異を実現するには、首飾りが掲げられたという事実を、どうにかして怪異が認識しなければならない

 これは俺の想像だが、盛り上がる湖面の方は、おそらく水棲として生み出されたスライムのように透明度の高い魔物の仕業だったのではないか。

 普段は近付くモノを孤島から遠ざける命令を与えてられていて、ロケットの蓋を開けた時に発される信号を受信した時だけ持ち主を通すように仕込まれているとか——完全に憶測にしかならないから、これ以上は考えても無駄だな。

 時間があれば、周囲の湖面をさらって一部だけでも回収して調べ上げたいところだが、ウチの短気な女王様が、成果があるかどうかも分からない、さらに分かったところで、それがどうしたってな検証作業にのんびり付き合ってくれるとも思えないしな。

 それにしても、この妙ちきりんな呪いとやらを仕込んだ張本人は、あの黒マントの魔物に違いあるまいが、解呪の鍵となる『愛の思い出』を、なんだって俺達にあっさりと渡したんだ?

 いや、建前上は、俺達——というか、マグナがニックを打ち破ってみせたからなんだろうが、どうにも誘導臭い。

 まだ、一枚か二枚上手の思惑に踊らされている気がするな——それすら分かっていなかった一年前よりは、大分マシではあるんだが。

 あちこちが崩れて脆くなっている尖塔の内部を、用心しながら探索し、サイモンの亡骸を発見したのは地下だった。

 正確には、発見したのはファングの父親であると思われる遺体だ。

 そもそも俺達がサイモンの顔を知らないという以前に、苔や黴にまだらに覆われた不衛生な石畳の上に横たわる、ほぼ朽ちかけた死体は、容姿が判別できるような状態ではなかった。

 実は、ガイアの剣を求めてサイモンの亡骸を訪ねるのだと、俺はファングに伝えていない。

 サマンオサを出るまで——いや、出てからもずっと悩んでいたんだが。

 きっと俺は、ファングをこの場に連れてくるべきだったのだろう。

 いまは王都や領地の復興にかかりきりで忙しい筈だとか、ついつい自分に言い訳を重ねちまったが、せめてあいつの意思は尋ねるべきだったのだろう。

 エフィにそうしたように。

 だが——この有様を目の前にして、やっぱり思っちまう。

 あいつを、連れて来なくて良かったと。

 己を殺して民衆の為に全てを捧げた英雄の末期まつごとしては、あまりにも惨たらしい。

 シェラが印を切って祈りを捧げ、マグナもそれに倣う。

 同じく黙祷を捧げて顔を上げた俺は、思わずギョッとした。

 サイモンの亡骸の真上の空間に、何かがある。

「ヒッ!?」

 シェラの押し殺した悲鳴で、他の人間にも見えている事が知れた——或いは、幽霊船で遠隔視を無理矢理使えるようにされた副作用かとも思ったんだが、そういう訳でもなさそうだ。

 靄というか、空間の歪みというか、はっきり認識しようとすると、却ってぼやけてとりとめがなくなってしまうそれは、おそらくサイモンの亡霊という表現が最も適当だと思われた。

 霊などという胡乱なものは存在しない、と仰る向きもあるだろう。

 どちらかと言えば、俺もそっち側だった。

 だが、思い返してみれば、最初にカンダタ共とやり合った後に、療養に戻ったカザーブの墓場で、リィナが幽霊と思われる何かと喋っている場面に、俺は既に遭遇していたのだ。

 だから、幽霊の存在を疑うなんてのは、ひどく今更な話なのだった、そういえば。

 繰り返しになるが、疑った所で詳しく調べる暇もねぇしさ。ヴァイエルなら解答を幾通りも取り揃えているに決まってるが、自分で調べもせずにただ尋ねても、どうせ嫌味を言われるのがオチだ。

『ぁ……あ……く……い……お……ぉ……』

 不明瞭ながらも苦しげに呻くような、ここに居る生者の誰のものでもない念話が脳みそを貫く。

 厄介なのは、音と違って感情めいたものまで伝わってくる点だ。

 凄まじいまでの絶望——思わず、いますぐ自死したくなるような。

「うぅ……」

 シェラは涙を流しながら頭を抱えてしゃがみ込み、マグナですら眉を顰めて気分悪そうに口元を手で覆う。

 ちょっと待て待て。ファングの親父さんにはホントに申し訳ないが、ウチの連中を呪うような真似はやめてもらっていいですかね。

『あんた、サイモンさんだろ。えぇと——はじめまして。息子さんのファングには良くしてもらってます』

 俺も動揺してるんだろう。場違いな挨拶を思い浮かべちまった。

 こんな事が言いたかった訳じゃないんだが。

『ファ……グ……』

 だが、意外にも反応があった。

 お、これは伝わってるのか?

『そう、俺はあんたの息子のファングの知り合いで、ここに居る今代勇者の同行者ツレだ。怪しいモンじゃない。魔王討伐に必要なガイアの剣が、サイモンさんの持ち物だって話を聞いて、いまは何処にあるのか教えてもらいに来たんだ』

 などという文言を思い浮かべながら、それとなく周囲を見回しても、苔まみれで滑り易い石床には特に何も見当たらなかった。

 そもそも、サイモンは無実の罪とはいえ捕らえられていた囚人なんだから、持ち物なんかは全て没収された筈だ。

 だから、前もって何処かに隠したんじゃないかと踏んだ訳だが。

『……は……イモン………屍……側……調べ……よ』

 ひどく聞き取りにくいが、サイモンの亡霊は、どうやら自分の遺骸の周りを調べろと伝えようとしているらしかった。

 マジか。

 なんも見当たりませんが?

 床板の下にでも隠したのか?

 だが、囚人が剣なんて牢獄に持ち込めないだろ。

 つか、よく俺が怪しいモンじゃないって信じてくれたな——じゃなくて、ここに辿り着いた人間であれば、誰に対しても同様に反応したと仮定するのが妥当か。

「周りを調べろって言われても、何もないけど」

 マグナにも、サイモンの言葉は伝わっているようだった。

『手……翳す……ぃ……』

「手をかざすって、こう?」

 マグナが床に向かって手を翳す。

 すると、寸前まで存在していなかったひと振りの剣——片刃のサーベルが、ふと、マグナの手の先に現れていた。

「えっ!?」

 慌てて護拳のついた柄を握るマグナ。

 なんともあっさりと出てきたモンだが、流石にこれがガイアの剣で間違いないだろう。

「吃驚させないでよ。なんなのよ、もぅ——えぇと、ありがとう、サイモンさん」

『バス……ス師……礼を……』

 ははぁ。

 さては、いまの奇妙な現象は、サマンオサでマグナを手伝ってくれた魔法使い、バスケスの仕込みか。

 内部がこの世のどこでもない空間に通じたフクロを開発した魔法使い共なら、このくらいの応用は効かせてみせそうだ。

 隣りにいるシェラの呼吸がやや落ち着いたことからも分かるように、サイモンから伝わる感情が急速に穏やかになっていた。

 多分、残された時間は長くない。

『あー……その、なんだ。あんたの息子は、あんたの意思を継いで、いまも立派にやってるよ』

 ファングを連れて来なかった判断に、改めて負い目を覚える。

 おそらく、これで最期だ。

 俺なんかが看取っちまってすまねぇな。申し開きのしようもねぇよ。

『もちろん、俺達もあんたの意思は無駄にしない。ガイアの剣は、魔王を討ち滅ぼす為に立派に役立たせてみせるから、心配しないでくれ。どうか、安らかに』

 これは、単なる気休めだ。

 だが、いまは言い訳じみたことをかす場面じゃないことくらい、俺にも分かった。

『……』

 礼を言われた気がしたが、俺の願望が聞かせた幻聴だったかも知れない。

 それまで牢獄内を覆っていた重苦しい空気が晴れ、ずっと頭の中に響いていた呻き声も消え失せ、通常の環境音を耳が捉えて、ようやく俺達は一息ついたのだった。

「……せめて、外に埋葬してあげませんか」

 頬の涙を拭いながら、シェラが口にした。

「そうね。それが終わったら、一旦ロマリアに戻りましょ。抜身でこんなモノ、持ち歩けないもの」

 確かに、ガイアの剣には鞘がついてなかった。またロランに用意させるつもりだな、マグナのヤツ。

「リィナも、それでいいわね」

 それまで一言も発さずに、黙って俺達の後ろに付いて来ていたリィナが、無言のまま小さく頷いた。

 実は、いまだけじゃない。

 あれから——幽霊船でニックとやり合ってから、リィナは本当に必要最低限しか口を開かなくなっていた。

 それどころか、ここまでの道中における魔物との戦闘でも、度々傷を負うほど覇気がなく——あの、リィナがだぞ!?——終始塞ぎ込んでいる。

 マグナがロマリアに戻ろうと提案したのは、そんなリィナの様子を案じて、しばらくひとつところに落ち着かせて、今後の事をゆっくり考えさせてやりたいという意図もあるんだろう。

 それには、俺も賛成だ。

 リィナとも、近々ちゃんと話をしてみよう。

 この先のリィナに待ち受ける悲劇も知らずに、俺はそんな呑気なことを考えていたのだった。

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