54. Fabulous, Infamous & Dangerous

1.

 吐き気を伴う眩暈を引き連れて、視界は巡る。

 陰気で陰険な魔法使い共に仕込まれた遠隔視が、俺を次なる景色へと誘う——

「——どうなのさ、お嬢ちゃん。あの色男に恨みがあるってんなら、まずは二人でアイツをやっつけちまうってのはさ」

 視える景色がようやく安定すると、ティミがそんな事をココに提案しているところだった。

「あ、ずっけぇっ!! アンタ、そんな卑怯なコト言うヤツだったのかよ!?」

「卑怯だなんて、人聞きが悪いね。猪みたいなアンタと違って、ウチにゃ考えるアタマがあるってだけのハナシだよ」

 文句を言うフゥマに向かって、ティミは得意げな顔をしてみせたものだが、いや、直前でグエンに耳打ちされたから、どうせアイツの入れ知恵だろ。

 いかにもグエンが提案しそうな内容だしな。

「だから、ちょっと待ってくださいってば! そんなこと言ってる場合じゃありませんよね!?」

 当然と言うべき呼び掛けを、通路に居並ぶ面々にしているのはシェラだった。

 うんうん。普通だったら、他の連中の姿が周囲から掻き消えた異常事態の方に気を取られるよな。

 さすがはシェラ、周りの脳筋共とは一味違うね。

「この幽霊船の内部は、どうやら特殊な空間構造をしているらしいですからねぇ。他の人達が突然消え失せたのは、多分その影響でしょうが……とはいえ、然程心配しなくても大丈夫だと思いますよ。ほどなくギア様が迎えに来てくれるでしょうからねぇ」

 シェラが何を不安がっているのか分からない、みたいなボンクラ面を並べる脳筋共の中で、唯一まともに反応してみせたのがグエンだった。

 ただ、微妙に視線が泳いでるところを視ると、自分の発言を信じ切れてねぇだろ、お前。

貴女あなたのことは、その時に一緒に連れて行って差し上げますよ。尤も、多少の拘束くらいは、我慢していただきますけどねぇ」

「ハン。なにさ、らしくもない。随分と親切な事を言うじゃないか。実はアンタ、前から惚れてたんじゃないだろうね。いかにも好きそうだもんね、シェラ様みたいなコがさ」

「は……ハァッ!? 何を馬鹿な事を——いっつも君は、下らない事ばっかり言ってるんじゃないよ!!」

 ダーマの二人はまだ辛うじて、勇者様御一行としての敬意をシェラに対して払ってるみたいだな。

 だが、軽口に反応したのは、当事者ではなかった。

「あァ? ンだと、手前ぇ。シェラさんに惚れてるだと? マジで言ってンのか、コラ?」

 やからよろしく、顔を歪めてグエンを威圧するフゥマ。

 そのフゥマを、そして背後のシェラを、さらに剣呑な目付きで睨みつける少女がひとり。

「さっきから五月蝿いぞ、お前らッ!! ソイツは私が殺すんだから、他の奴らは引っ込んでろッ!!」

 以前より少し伸びた髪を相変わらず頭頂部で結んだココは、右手に握った手斧をビシィッとフゥマに突き付けた。

「ヘェ、随分と威勢がいいじゃないか、お嬢ちゃん。だったらここは、やっぱりウチと手を——」

「黙れッ!! 誰だ、お前ッ!? 誰がお前なんかと組むもんかッ!! いいから、引っ込んでろッ!!」

 喋っている途中で拒絶されて、ティミの頬がヒクリと引き攣った。

「ハァン?」

 あ、ヤバい。早めに謝った方がいいぞ、ココちゃん。

「よりにもよって、このウチに、随分とナメた口を利くじゃないか。ええ、お嬢ちゃん?」

「だから、うるさ——ッ」

 一瞬で間合いを潰したティミの右拳が、さながら片手剣の刺突のようにココの顎を捉えていた。

「ぐっ——」

 弾けるように仰け反ったココの背中を受け止めたのは、パクパだった。

 いたの、お前。

 存在感が無いから、直前まで気付かなかったぜ。暴走しがちなココのお目付役として充てがわれたってところかね。

 つか、ここだけヤケに人数多くない?

 さては、きっちり等分するのを面倒くさがりやがったな、ドゥツのヤツ。

「落ち着け、ココ。また悪い癖が出ているぞ。彼奴を倒す為に積んだ修行を思い出せ」

 朴訥な喋り方のパクパに諭されて、ココはやや恥じ入る表情を覗かせた。

「……分かってます。もう平気ですから」

 パクパの胸板を押して身を離し、ティミにはギロリと鋭い目付きを向ける。

「お前。これ以上邪魔をするなら、先に殺すぞ」

 えー、口にした内容が、全く落ち着いてないんですけど。

 おそらくココは、実際の年齢よりも見た目と声音がさらに幼い。

 だから、子供が一生懸命虚勢を張っているようにしか見えなかったんだろう。

 ティミは思わずといった感じで、プッと吹き出した。

 その瞬間——

『縮地』

 奇妙な違和感。

 一足跳びに間合いを詰めたように視えたココは、実際には跳び込んでおらず、それを認識した時には、やっぱりティミのすぐ目の前にいた。

 まるで、瞬間移動したように。

 元からの素早さと起こりを誤認させる幻視の併せ技か。

「チィッ!!」

 傾げたティミの首筋から鮮血が舞う。

 喉を狙ったココの抜き手を、辛うじて躱したのだ。

 反撃のティミの左拳は空を切っていた。

 文字通り、目にも留まらぬ体捌きで横に回り込んだココの手斧が、ティミの延髄を襲う。

「——ッ!?」

 ティミは不格好に前方の空間に身に投げ出した。

 床で前転をしながら、直前にココが居た場所から視線を外さず、すぐに立ち上がる。

 ココは、さらにその背後に居た。

「いちいち——ッ!」

 完全に相手の姿を見失ってる筈なのに。

 ティミは右拳を躰ごと後ろに振り回した。

「死角ばっか取ってんじゃないよッ!!」

 手斧を振り下ろさんとしていた肩口を横殴りに拳で打たれて、ココの小柄な躰が弾き飛ばされる。

「ハッ、やっと顔を見せてくれたね」

「……」

 悔しそうに歯噛みするココから目を離さずに、ティミはフゥマに語り掛ける。

「なにさ。アンタが言ってたより、全然やるじゃないか、このお嬢ちゃん」

「みたいだな。つか、前使ってたのと別の技だろ、ソレ? あれから大して経ってねぇのに、すげぇ修行したんだな。やるじゃんか」

 いつもの如く考え無しに、フゥマはニカッといい笑顔なんぞをココに向けてやがるが、いやお前、それはどうなの?

「そ、そうやって! また、人をバカにするなッ!!」

 ココが真っ赤な顔で文句を口にしているのは、果たして言葉通りに怒っているからだろうか。

 面倒な事にならなきゃいいが。

「ハン。もう飽きたとか言ってたクセに、ちょっとウズウズしてるじゃないか。ヤレヤレ、仕方ないね。血を止める間は、アンタらに勝負を譲ってやるよ」

 首筋を抑えながら、ティミが一歩下がる。

 いつのまに回り込んだのやら、背後のグエンがフクロから薬草を取り出しているのが視えた。

「ああ、いいぜ。アンタの仇は、きっちり討ってやるよ」

「ウチが負けたみたいに言うんじゃないよッ!!」

「そっちのアンタもな。一緒に掛かってきていいんだぜ」

 フゥマに手招きされても、パクパは組んだ腕を解かなかった。

「いや、オレはいい。ココが自らが貴様を打ち倒さなくては、意味がない」

「ふぅん。ま、気が向いたら来りゃいいよ」

「待ってください。これ以上やり合う必要ってあるんですか?」

 横から口を挟んだのは、シェラだった。

 思わず口出しをせずにはいられなかった気持ちが、俺にはよく分かる。

 なんていうか、図らずも一旦落ち着いたような雰囲気になってるもんな。

 決着をつける必要なんて——というか、そもそもやり合う必要すら無いように思えるよな、俺達には。

 だが、当然ながらフゥマは俺とは違っているのだった。

 不思議そうな顔をシェラに振り向ける。

「へ? 言ってる意味が、よく分かんないけど」

「だって、ここにはマグナさんも、フゥマさんの雇い主の人も、あのギアって人も居ないのに——そんなことより、他の人が突然居なくなったこの状況をどうにかする為に、いまだけでも協力した方がよくないですか?」

「いや、そういう話してないんで」

「え?」

「別に、ンな難しいハナシじゃなくて。すげー単純なハナシで、アッチのちっこいのがヤるって言ってて、オレ様もちょい相手する気ンなって。だから、やり合うって、そンだけスよ」

「でも——」

「そンだけだけど、そんなコト、じゃない」

「あ——」

 相手が大事に思っていることを軽んじてしまった、とでも考えたのか、シェラは申し訳無さそうな顔で押し黙ってしまう。

 いや、お前は全然間違ってないから。

 勝手な事ばっかホザいてるのはアホ共の方だから、安心していいぞ。

 脳筋共の世話役に取り残されたみたいになっちまって、可哀想によ。

 つか、せめてお前が擁護してやれよ、グエン。

 何にも言わねぇで黙ってるのは、下手にシェラの味方をして、またティミにからかわれるのが嫌だからだろ、あのヘタレ野郎。

「いつまで喋ってる。もう殺すぞ」

 痺れを切らせたココが、フゥマを睨み続けながら手斧を握り直す。

「逸るな」

 静かに諭す声は、パクパのものだった。

 明らかに入れ込みすぎていたココは、それで僅かに落ち着きを取り戻したように、大きくひとつ深呼吸をした。

「何度も言われなくたって、分かってる——この闘いを、我が父の魂に捧ぐ。勝利を以て、先の敗北を贖うことを大地と祖霊に誓わん」

 体の前で手斧を掲げて、なにやら込み入った事情を抱えていそうな重い言葉を、厳かな口調で宣誓するココ。

「いや、ここ船の上だから、大地ねーけど」

 フゥマは、余計なこと言わなくていいから。

 どうせ慣用句みたいなモンだろ。聞き流してやれよ。

「お前ェ……」

「なんだか知んねーけど、余計なモン無しで思いっ切り来いよ。オレ様も、さっき姐さんに技はイマイチみてーに言われちまったからな。そうじゃねぇってトコを見せてやるぜ」

「こっちこそ、お前なんかに躓いてられないんだよッ!!」

 微妙に噛み合わない会話を打ち切り、今度は左右両手に手斧を握ったココは、腕を交差させて地に着くほど身を沈める。

 そして、また違和感。

『縮地』

 ココの動きを追っていた俺は、先刻よりも更に困惑する。

 ティミの時と同様に懐に跳び込むかに見えたココは、実際はフゥマの斜め後ろに移動していた。

「獲った!」

 ココの手斧がフゥマの首を刈らんと横薙ぎに閃く。

 フゥマがふっと差し上げた手が触れたのは、その持ち手だった。

 ロクにそちらを向きもせずに重ねられた手首を支点として、ココの全身が側転の要領でぐるんと回転する。

「な——っ!?」

 ココは、そのまま床に打ち付けられなかった。

 手斧を離さず手を床についた逆立ちの姿勢で、両脚を振り回す。

「あ、いてっ」

 横っ面を蹴り飛ばされたフゥマが、顔を顰めた。

 蹴りの勢いでぴょんと躰の上下を入れ替えて着地したココは、握り直した手斧を下から斬り上げる。

「死ネ」

 フゥマの掌が、ココの手斧とほぼ平行に振られたように視えた。

 僅かに軌道を逸らされて、手斧は空振りした。

「この——ッ」

 その後も、同じだった。

 前に出ながら振るわれた手斧は、後ろに退がりながら掠める掌底に逸らされて、フゥマの躰に届かない。

 宣言通りの技の冴えだが、どんな大道芸だよ。

「クソッ……縮——!?」

 またあの奇妙な歩法で意表を突こうとしたのか、ココが一瞬動きを止めて躰を縮める。

 だが、次の瞬間、小さい頭がゴツい手で掴み止められていた。

「まだ一発芸だな。どうせアイツに教わったんだろうけど、もうちょい自分の武器に合わせて噛み砕けよ」

 偉そうに忠告しているが、いつも一発芸みたいなことばっかしてるのはお前フゥマの方だろうが。

「なん——」

 ココは文句を最後まで発声できなかった。

 思いっ切り背中を反らしたフゥマに、物凄い勢いで上から頭突きを喰らわされたからだ。

「~~ッ!?」

 床に倒れ込んだココは、頭を押さえて脚をジタバタさせて、声も無く悶絶する。

 一方のフゥマは、額が少し赤くなっている程度で、ケロリとした顔をパクパに向けた。

「そンで? 結局、アンタはやンねーのかよ?」

「止めておこう。己ではなおさら、及ぶ気がしない」

 ココに歩み寄りながら、パクパは小さく頭を振った。

「父親の無念に端を発するココの妄執は、ついにオレの持ち得なかったもの。それを糧に自らの限界を超え、あの方を追わんとする彼女の執念すらも遥かに及ばぬとあれば、己に出番などある筈もない」

 勝手に自分の事を語られた抗議のつもりか、未だに両手で頭を押さえつつ床の上で丸まったココが、むずがるように躰を揺らした。

「ふーん。なんだか知んねーけど」

 お前は、もうちょっと興味を持ってやれよ、フゥマ。

「ああ、それでいい。いちいち貴様に突っかかるのは、ココなりの所以ゆえんがあることを、僅かでも知って欲しかった己の勝手だ。度々手間をかけて済まなかったな」

「ま、なんでもいいよ。ヤらねぇってンなら、用もねぇし」

 頭突きの痛みに加えて、再度の敗北に打ちひしがれているのか、もはや身じろぎもせず蹲るココからあっさりと視線を外し、フゥマはティミを振り返って嬉しそうに笑う。

「そんじゃ、続きをやろうぜ、続きをよ」

 はぁ、とひとつため息をくティミ。

「アンタの頭にゃ、それしかないのかい、マッタク。さすがのウチも、ついていけるか心配になってきたよ。ていうか、どうなのさ。ホントにこのまま、他の連中と合流しなくて大丈夫なのかい、グエン?」

「そうだねぇ。確かに、兵隊である僕らだけで戦っても、あんまり意味は無いかもねぇ。できればギア様に指示を仰ぎたいところだけど——」

「だから、さっきからそう言ってるじゃないですか……」

 心底疲れたような、シェラの呟き声。

 だが、そうだ。

 他の奴らは、どうなった。

 それを意識した途端——

 視界は極彩色と無色を行き来しつつ、またしても巡るのだった。

2.

「——待って!」

 全く制御が効かないながらも、多少は俺の意の汲んでくれているのか、いないのか。

 巡り続ける視界がマグナの姿を捉えた途端、安堵と共になんとも名状し難い特別な感情が自分の裡に溢れるのを、俺は覚えていた。

 ああ、くそ、忌々しい。

 やっぱり俺、コイツのことが好きなんだな。

 どうしようもなく。

 まるで、呪いさながらに。

 ていうか、これはどういう状況だ?

 床に尻をついて倒れている黒装束を庇って、マグナがアルスの剣を受けているように視える。

「……?」

 蜻蛉を切って跳び起き、大きく後ろに退がった小柄な黒装束は、両手の裾から取り出した鉄針を振りかざしたところで動きを止めた。

 困惑の気配が伝わる。

 そりゃそうだ。敵である筈のマグナに助けられたんじゃな。

「どういうつもりだ、マグナ」

 アルスの声音に、咎める調子は無かった。

 ただ単に不思議だから問うている、といった風情だ。

「ごめん。あたしにも、よく分かんない」

 マグナは返事をしたが、内容は不可解だ。

 なにそれ、どういうことなの。

 こいつらはいつも、深いところで分かり合っている、みたいなテイで会話をするから、ハタから聞いてるコッチは訳が分かんねーんだよな。

「ただ、あのまま放っておいたら、アルスは殺してたでしょ、アイツのこと」

「ああ。敵だからな」

「それが、なんか嫌だったのよ」

 と、マグナ。

 そんなこと言われても、アルスだって困るだろ。

 俺にしては珍しく、いけすかない二枚目面に同情的な感想を抱いてやったというのに。

「なるほど」

 アルスは得心した様子で、顎を引いてみせるのだった。

 ハァ?

 また、コレだよ。

 思えば、初めて出会った時からそうだった。

 目が合ったその瞬間から、まるでお互いがお互いの心の奥底まで理解しているみたいな——

「だが、俺が魔物や他者を殺めるところくらい、一緒に行動していた時にさんざん目にして来ただろう」

「ううん、見てないわ。人間に手を掛けるところはね」

「そうだったか」

 アルスは呟いたが、そこには感情がほとんど含まれていなかった。

 単なる錯誤の確認に過ぎず、悔悟や動揺は見当たらない。

 否定も言い訳もない。

 おそらくソレが、マグナには気に喰わないのだ。

「……別に綺麗事を言うつもりはないのよ。いちおう気をつけてはいたけど、あたしだっていままで盗賊に襲われた時とか、一人も殺してないとは言い切れないしね。ただ——」

「ああ、分かるよ。マグナが人間に手を掛けたことがあるのかも知れないと思うだけで、何故だか俺も複雑な気持ちになる。それは、お前がする事じゃない」

 しばらくお互いの瞳を覗き込んでいた二人は、やがて示し合わせたように同時に剣を引いて、ゆっくりと距離を取った。

「だが、どうする? あの黒いのは、俺達を殺す気満々のようだぞ」

「そう? その割りには、話が終わるまで待っててくれたけど」

 マグナは切先を下げて黒装束に語り掛ける。

「どうなの? もしお金で雇われてるだけなら、倍額あげるから、こっちに寝返ってもいいわよ?」

 お前、めっちゃ気軽に言ってるけど、ロランに支払わせる気だろ、それ。

 後で聞いたら、「ちゃんと私財で払わせるつもりだったわよ」と返されたが、そういう問題か?

 小柄な黒装束は鉄針を構えたまま、僅かに覗く両目で用心深くマグナを睨み続ける。

「リィナの相手をしてた剣士の人と違って、ヒミコ様のかたき~! みたいに思い詰めてる訳でもないんでしょ? 何がなんでもあたしを殺すって感じじゃなかったもんね、最初っから」

 え、そうなの?

 容赦なく鋭い攻撃を仕掛けられていたように見えたんだが、あれで殺す気が無かったと思えるのかよ。

 ふところ深すぎない?

「……儂のお役目は、もともと正面切って戦うような野蛮な働きじゃないんじゃ」

 黒装束は鉄針を裾に戻し、口元の布を引き上げながら答えた。

 喋るところを初めて聞いたが、喋り方が古臭い癖に、想像以上に声が若い。

 実際の年齢は、もしかしてジミーとどっこいってトコじゃねぇのか。

「だろうな。間諜が本職で、誰かを手に掛けるとしても手段は暗殺といったところだろう」

 アルスの指摘に、小さく頷く。

「じゃが、ここで貴様らを見逃せば、任務を失敗したと見做されるじゃろ」

 それは絶対に御免だという確固たる矜持を言葉の端々に滲ませる。

「だから、アイツらとは別れたらいいじゃない。そしたら、失敗も何もないでしょ」

「マグナ、それは……」

 思わず、といった感じでアルスが口を挟んだ。

 また野郎に同調するみたいで業腹だが、こればっかりは俺も同じ気持ちだ。

 いくら深い懐でも、そうホイホイ簡単に敵対してるヤツを入れようとすんじゃねぇよ——いや、待て。

 よく考えたら、俺も同じようなことしてたわ。

 しかも、つい最近。

 ほら、エンゾをこっちに引き入れて、グレースに預けた件だよ。

 コイツは上手くねぇな。俺が反対しても、マグナは絶対にその件を持ち出すだろう——ていうか、まさか俺のやり口から着想を得たんじゃねぇだろうな?

「……彼奴等きゃつらと違って、儂は元々ジパングの生まれなんじゃ」

 訥々と、小柄な黒装束はそんな事を語りはじめた。

 彼奴等って、チョンマゲ頭達のことか。

 あいつら、やっぱり他所から来たのか。言葉が辿々しかったもんな。

「へぇ、そうなのね」

「彼奴等は彼方此方あちこちでヤマタノオロチに親を食い殺された孤児みなしごを拾うて、無理矢理手駒に仕立てるいうんをようやりよった」

「ふぅん?」

 黒装束の言葉を額面通りに受け取るならば。

 ヤマタノオロチが気の向くままに喰い散らかした人間の子供を、さらに搾取し尽くすような、恨まれて当然の所業だが。

 あるいは、天涯孤独の身となった孤児を保護していたという側面はなかったか。

 もしも、稀代の天才巫覡であったヒミコの元の人格が、一欠片でも残されていたならば。

 俺は、声に出さずに苦笑した。

 ここ最近の自分の思考が、ちょっとばかり魔物に寄り過ぎてる気がしたのだ。

 当たり前だが、奇妙な視界に映る面々は、そんな可能性など一顧だにしなかった。

「元からあいつらに、思うところがあったって訳ね。もしかして、渡りに船だった?」

「……じゃが、会ったばかりのお前をそこまで信用できん」

「それは、そうでしょうね」

 気軽な調子で相槌を打ちながら、マグナは何故か剣を構え直した。

「だから、改めてあたしと勝負しなさい。あたしが勝ったら、あんたはあたしの言う事を聞くのよ。変な説得より、こういう方が分かり易いでしょ、あんたみたいのは」

 余裕綽々で、不敵に笑ってみせるのだった。

 本人が言う通りに分かり易くて男前な発言に、黒装束が返事をするまで少し間が空いた。

 多少なりと考慮の余地はあったらしい。

 だが、口に出しては声を潜めて探りを入れる。

「……儂が勝ったら、何とするんじゃ」

「ふぅん? 思ったより、優しいのね」

「なんじゃと?」

「だって、あんたが勝っても、まだあたしは生きてるってことでしょ? その先の話をするっていう事は」

「……タワケたことを」

 よりにもよって、これからやり合う当人から、無意識だろうが殺すつもりが無かったことを気付かされた不覚に動揺したのか、黒装束は忌々しげに舌打ちをした。

「なら、もしお前がマグナに勝ったら、俺も手を出さずに見逃してやる」

 アルス、お前、止めないのかよ。

 意外だな。

 それだけ、マグナの実力を信用してるって事なのかね。

「ハッ、大した自信じゃな。そんながワシの利になる思うんか」

「なる筈だ。お前には、分かってるだろう」

 上から目線で何様なんだよ、お前アルスは。

 だが、残念ながら、言われた方も大言壮語とは受け取らなかったらしい。

「……えいじゃろ。つまり、此の場を切り抜けたくば、この女を斃せいう話じゃな。上等じゃ、確かに分かり易いわ」

「でしょ。あんた達の扱いに、最近やっと慣れてきたわ」

「何をもう勝った気でおるんじゃ。さっきまでの手合わせで、お前の力はよう分かったが、儂が手の内を全部見せた思うたら大間違いじゃぞ」

 黒装束の口振りには、どこかたのしそうな響きが含まれていた。

 コイツも、そっち側の住人かよ。

 だが、間諜を自称するだけあって、他の脳筋共よりは、いくらか自制が利いてる気はするな。

「それじゃ、いつでもどうぞ。ホラ、さっきみたいな曲芸を見せてみなさいよ」

 躰の前で剣を構えて、リィナの悪い影響を受けたみたいな挑発をするマグナ。

「お望み通り、見せたるわ!」

 腰の後ろに手を回した黒装束は、次の瞬間、前方に向かって何かを放り投げた。

 あれは、鎌か?

「なんのつもり?」

 ココの投じる手斧のように、曲線を描いて旋回するでなく。

 自信満々に狙いの逸れた鎌は、マグナが身を躱すまでもなく、その横を通り過ぎていく。

「アホウめ——ッ」

 何も手にしていない黒装束が虚空を引っ張ると、なんと鎌がマグナ目掛けて戻って来たのだ。

 しかも、内向きに刃を向けて。

「えっ!?」

 寸前で察知したマグナが辛うじて剣で弾くと、鎌は吸い寄せられるように黒装束の元へ戻っていく。

「ほぅ、こんくらいは躱すんか。じゃが、ほんまはこんな馬鹿正直な仕掛けはせんのじゃぞ」

 黒装束の横の空間でヒュンヒュンと音を立てて縦に回転する鎌の動きは、小さく回されている右手に追従しているようにしか視えなかった。

 つまり、憶測になるが。

 目視出来ないくらい細いか、もしくは透明に近い紐が鎌の柄に繋がれているのだ。

「でしょうね。あんな合図までしてくれたんじゃ、誰でも躱せるもの」

「言いよるわ!」

 勝気なマグナの台詞に、喉を鳴らす黒装束。

「なら、これでどうじゃ!」

 ガインッ

 遠心力を利用して、恐るべき速度で振り回された鎌は、またしてもマグナの剣で見事に打ち落とされていた。

「まだまだじゃぞ!」

 見えない紐を器用に操り、横長の楕円を描くように、間断なく鎌を振り回す。

 そのことごとくを、マグナは弾き返してみせた。

 マジですげぇな、あいつ。

「こっちから行くわよ!」

 凄まじい速度で襲いくる斬撃の合間を縫って、マグナが前に出た。

「此処じゃッ!!」

 マグナに置き去りにされた鎌を、黒装束が体全体を使って、それまでよりも大振りに引き寄せたように視えた。

「お見通しよっ!」

 その時はじめて、マグナは不可視の紐があると思われる空間を剣で斬りつけた。

 紐を断つ最も効果的な瞬間を狙っていたに違いない。

 だが、見通せていたのはそこまでだった。

「嘘っ!?」

「かかりよったわ!!」

 マグナの鋭い斬撃で断ち切られるかと思われた不可視の紐は、常識外れの強度まで備えていたと思しく、剣を支点としてグルグルとマグナに巻い付いていく。

「くっ」

 先端の鎌の刃は、躰ごと拘束された剣で辛うじて受けたものの、マグナはバランスを崩して仰向けに倒れてしまう。

「ハッ、勝負アリじゃな! じゃが、儂の鎌とあそこまで打ちうたんは、お前が初めてじゃ。肝が冷えたわ」

 勝利を確信してか、黒装束はやや饒舌になっていた。

「約束通り、そっちは手ぇ出さんのじゃろうな?」

 黒装束の念押しに、アルスは肩を竦めてみせる。

「斃すというのは、横倒しにするって意味じゃなかったんだがな」

「なんじゃと?」

 黒い布の隙間から覗く鋭い目付きが、すっかり観念したように大人しく倒れているマグナを睨む。

「殺してええいうんか?」

 袖から飛び出させた鉄針を、黒装束は構えた。

「それは、本人に聞いてみたらどうだ」

 アルス、手前ぇ、無駄に煽ってんじゃねーよ。

 それとも、アルスが止めもせずに、こんな軽口を叩くってことは、なんか奥の手でもあるのか?

 くそ、その場に居ないんじゃ、身代わりの壁役にもなれやしねぇ。

 視えているだけという事実に、いまさらながらに臍を噛む。

 上半身を見えない紐でぐるぐる巻きにされた状態じゃ、いくらマグナといえど、何も——

 あ、いや、できるな。

「儂が殺せんとでも思うたか!? 舐めよって!」

 小柄な黒装束が鉄針を振りかぶった、その時。

『ラリホー』

 マグナが呪文を唱えていた。

「ッ!? なんじゃ……卑怯、じゃぞ……」

 多分、魔法をその身に喰らった経験など、殆ど無いに違いない。

 世界から忘れ去られたような、あんな片田舎の島国出身だからな。

 ロクな抵抗も出来ずに、黒装束はすぐにくたりと床に倒れ伏した。

「全く、肝が冷えたは俺の台詞だ。あまり考えなしに無茶をしないでくれ」

 マグナの傍らに膝をついて、不可視の紐を手探りで解いてやりながら、アルスは愚痴を零す。

「失礼ね。考えはあったでしょ、ちゃんと。最初っから、油断させてラリホーしか狙ってなかったわよ」

「……あんな騙し討ちみたいなやり口で、あいつが納得すればいいがな」

 ようやく拘束を解かれたマグナは、体のあちこちをパタパタはたきながら立ち上がる。

「納得するかどうかなんて、問題じゃないわ。だって、どう見たって、あたしの勝ちじゃない。ほら、こうして最後に立ってるんだから」

「と言い切れるほどの快勝とも思えんが」

「うるっさいな。あいつがアルスみたいにグダグダ文句を言うようなら、今度こそ力付くでぶちのめせばいいだけでしょ」

「実際にやってのける実力があるから、余計にタチが悪い」

 アルスは、割りと本気っぽいため息を吐いた。

「さてと、これで邪魔者は片付いたし——アルスは、あたしの邪魔なんてしないわよね?」

 口調こそ冗談めかしていたが、言葉の芯に昔のマグナのような頑なさが潜んでいるように聴こえた。

「……俺が自分の意思で、マグナに敵対することはないよ」

「そう願ってるわ。ホントにね」

 お互いを信頼しつつも、探り合うような言葉のやり取り。

 だが、少なくともいまこの場で、二人がやり合う事は無さそうだ。

 そう思って、気が緩んだのがキッカケか。

 アルスがフクロから取り出した縄で、眠り続ける黒装束を縛り始めたところで、再び酷い目眩を伴って視界が巡った。

3.

「お前、ダーマの僧兵なんだってな」

 おお、やった。リィナのところに戻って来られた。

 正直、勝負の行方が一番気になってたから有難い。

 リィナは右頬、ロンさんは顎の辺りが赤くなっているので、既にそれなりに手合わせは済ませた後のようだ。

「ボク達は、僧兵なんて言い方はしないけどね。ダーマの人間なのは確かだよ」

 頭を振り子のように左右に振って、首の調子を確かめるリィナ。

「つまり、アイツと同門ってことだよな」

「ふぅん。そのくらいは知ってるんだ」

「そりゃ、自分の流派をぶっ潰してくれたクソ野郎だからな。少しは調べもするさ」

 何やってんの、あのオッサン。

「それで? 何が言いたいの?」

 リィナは、薄ら笑いを浮かべながら問い掛けた。

「なんだと?」

「キミの流派がニキル様に潰されたのがホントだとして、それはキミ達の方が弱かったってだけでしょ。そんな理由なら、あの人を恨むのは筋違いじゃないかな」

「……言ってくれるな。事情も知らない癖によ」

「うん、知らないよ。けど、弱い武門なんて、なんの意味があるの?」

「黙れよ。ったく、ダーマってのは、揃いも揃ってお前らみたいな人でなしばっかりなのか?」

「ううん、そうじゃなくて。戦うのが苦手なら、他の事して暮らせばいいのにって言ってるだけだよ」

 二人のやり取りを視守りながら、俺は微妙な違和感を覚えていた。

 リィナは余計なことをすぐ口にしてしまう悪癖はあるが、それにしたって流石に煽り過ぎな気がしたのだ。

「……言っていい事と悪い事の区別もつかねぇのか」

 圧し殺した声音。

 ロンの目が据わり、身に纏う雰囲気が変わった。

 だが——

「そっちこそね。あの人とボクが同郷だって自分で言った癖に、その人を悪く言われてボクが良い気がするとでも思ってんの?」

 怒っているのは、リィナもだった。

 なるほど、そうか。

 俺にはこの世で一番おっかねぇオッサンとしか思えないけど、リィナにしてみりゃ、本来はずっと憧れていた目標であり、言ってみれば神様みたいな人だもんな。

「へぇ。意外だな。お前らは、今は敵対してるのかと思ってたぜ」

「もちろん、あの人を斃すのはボクだよ。キミなんかじゃなくてね」

「ハッ、そんだけ心酔しといて、平気でそれを言うか。コジらせ具合は、ウチのココに負けてねぇな、やっぱお前。ま、ゴタクはもういいだろ」

「自分から勝手に話し掛けといて、何言ってんの?」

「やかましい。アイツとやり合う時に備えて、せいぜい手の内を曝け出してもらうぜって言いたかっただけだよ。だから遠慮なく、ダーマの奥義だの秘術だのを堪能させてくれ」

「ダーマの秘術、ね」

 つい、と右手を上げて、リィナは中指を下唇と顎先の間に置いた。

「そりゃ、あるけど——そこまでボクをさらけ出せるかは、キミの頑張り次第だね」

 弄うように口にして、挑発的な目つきをロンに向ける。

 え、なんか、別の意味で挑発的に見えなくもないんだけど。

 どこまで意図的にやってるんだか、未だによく分かんねぇな。

「面白ぇ。我が一族が戦闘に不向きかどうか、その体に嫌ってほど教え込んでやるよ」

 ロンさんも、そんな買い言葉が云える人だったんですね。

 だが、勇ましい台詞とは裏腹に、ロンは腰だめに両の拳を構えただけの直立の姿勢で、静かに目を閉じた。

「馬鹿なの?」

 そんな隙を、リィナが見逃す筈もない。

 滑るように前に出たリィナが、ロンの鳩尾目掛けて前蹴りを放つ。

『竜氣開顕』

 恐ろしく強靭で弾力のある何かを蹴ったように、リィナの前蹴りは見事に弾き返されていた。

 多少、面食らった顔をして、リィナはその場から跳び離れる。

 離れた場所から視ているだけの自分の立場に感謝する。

 本当に、その場に居なくてよかった。

 近くに居たら、俺は無様に後退ろうとして、足をもつれさせてすっ転び、また足手纏いになっていたに違いない。

 視覚と聴覚しか繋がっていないにも関わらず、ロンから受ける圧力が明らかに変わったのが分かった。

 何をしやがったんだ。

「ふぅん」

「さてと……少しは抵抗してくれよ。アイツと実力差があり過ぎたんじゃ、対策にすらならんからな」

 強烈な速さ。

 それこそ、『星降る腕輪』を身に着けたリィナのような。

「ハァッ!!」

 リィナより遥かに大柄な体躯があっという間に間合いを潰し、颶風を纏う拳が打ち下ろされる。

 だが、リィナは躱していた。

 半身になったリィナの躰のすぐ脇の空気を、ロンの拳が音を立てて穿ち抜ける。

「舐めすぎ」

 躱した動きそのままに、リィナの左肘がロンの側頭部を襲う。

「ふんっ!!」

 絶対に躱しようのない攻撃を、なんとロンは自ら頭を振って迎え撃った。

 それで打点がズレたのか——いや、そんな説明をつけることすら馬鹿らしい。

 信じ難いことに、肘と額が衝突して、後ろに弾き跳ばされたのはリィナの方だった。

「出鱈目だね」

 くるっと逆回転して衝撃を逃がし、リィナが体勢を立て直す——それよりも速く。

「らぁっ!!」

 大気を断つ恐るべき蹴りは辛うじて躱していたが、振り上げられた踵がリィナの脳天目掛けて、さながら巨大な斧の如く振り下ろされる。

「だから——ッ!!」

 今度はリィナが踏み込んで、ロンの脚の付け根を肩口で受けつつさらに躰ごと前に出た。

「舐め過ぎだってばっ!!」

 躰全体で押し戻されて崩れた体勢から、踏ん張る脚を後ろに運ぶついでのように無理に放たれたロンの蹴りが、リィナの顔面を掠めていた。

 カクンと膝の抜けたリィナの目の前で、二、三歩後退っただけで踏みとどまったロンは、構えを取るでなく両腕を組んでリィナを見下ろした。

「ああ、舐めてるぜ。約束通り鼻っ柱をへし折ってやるから、好きにかかって来な」

 蹴りで口の中を切ったのか、リィナはベッと床に血を吐き捨てて手の甲で口元を拭う。

「じゃ、遠慮無く」

 床を蹴ったリィナの躰が、その場で縦に高速回転する。

「おっと」

 頭上から降り注いだリィナの踵を、ロンはなんと片手で受け止めて投げ返した。

 逆戻しに床に着地したリィナの躰が沈む。

 床と並行に振り回されたリィナの蹴りは、仁王立ちしたロンを刈り取ることなく、ただ突っ立っているだけの足に止められていた。

「なにそれ」

 すぐに立ち上がりながら、リィナの左拳がロンの鳩尾に添えられる。

「ふん」

 床を踏み抜いてしまうことを避けたのか、やや控えめな踏み込み音と共に岩をも砕くリィナの拳撃がロンの腹で炸裂する。

「——ッ」

 流石に、無反応とはいかなかった。

 少し前のめりにかがんだロンの顎を、リィナは遠慮無く蹴り上げる。

 頭を跳ね上げられたロンは、しかし後退ることすらなく、その場から動いていなかった。

 隙だらけのまま、ロンは顎に手を当てて軽くさする。

「さすがに、ちと痛ぇな」

 手を首に移してゴキゴキと鳴らすその姿には、信じ難いことに然程のダメージが見受けられなかった。

「けど、もう分かっただろ。お前に、いまの俺は斃せねぇよ。単純に、火力不足だ」

 淡々と事実を告げようなロンの言葉に、リィナは呆れた苦笑を返す。

「フゥマくんも、そうだけどさ」

「ん?」

「なんでキミ達って、すぐ力任せに捻じ伏せたがるのかな」

「あ? どういう意味だ」

「マグナがうんざりする気持ちも、ちょっとだけ分かるよ——ま、それはいいや。実際、すごいよね、ソレ。どうなってんの? 氣の運用っていうより、体質とか種族とかそっちの特性?——っていうかキミ、ホントに人間なの?」

「ヒデェ言われようだな。俺が化け物に見えるかよ」

「うん。そう呼んで欲しそう」

 リィナは、ふふっと含み笑いを漏らした。

「いいよ。もっと上手におねだりできたら、バケモノって呼んであげる」

 端からは劣勢に見えても、絶対に譲ろうとしない辺りは相変わらずだな、リィナ。

 胃が痛くなるから、ほどほどにして欲しいんだが。

「煽り文句だけは、マジで達者だな、お前。いいぜ。なら、こんなおねだりはどうだッ!!」

 微妙に格好悪いことを口にしつつ、ロンは踏み込みながら右拳を繰り出した。

 が、その踏み込みに耐え切れず、あっさりと床板が割れる。

「なっ——」

「はい、読み通り」

 横倒しの姿勢で宙に跳んだリィナは、大きく開いた両脚でロンの頭部を挟み込むように同時に蹴りを見舞った。

「構うかッ!!」

 腕力に三倍するとも言われる脚力——しかも、両方——で蹴られたにも関わらず、ロンは倒れることなく、床ごとリィナの脇腹を蹴り上げた。

 嘘だろ、無茶苦茶だ。

 頑丈過ぎるし、身体能力が高過ぎる。

「ぐっ」

 リィナの躰が、天井で跳ね返った

 落ちてくるリィナを、狙いすましたロンの追撃の拳が襲う。

 リィナは、辛うじて両腕を交差させて受けていた。

「無駄だッ!!」

 だが、その腕ごと破壊せんとロンの拳が打ち抜く。

 離れた床に全身を叩きつけられるリィナ。

 脳裏に——ごぼりと血を吐いて——痙攣する——嫌な記憶が甦る。

「すげぇな。あの手応えで、死んでねぇのか」

 だが、地下の陰鬱な記憶と、今の現実は異なっていた。

 よろめきながら身を起こすリィナの足腰は、あの時よりもしっかりしている。

 しかし、だらりと垂れた両腕は不自然な箇所で曲がり、手の先は見る間に赤黒く変色していく。

「けど、両腕イッたろ。悪ぃこた言わねぇから、ここらで負けを認めときな」

 足元の床板の破片を横に蹴って除けつつ、ロンは気安い笑顔をリィナに向けた。

 完全に格上の余裕を取り戻してやがる。

「……読み違えたのは認めるよ。このままでも、割りと余裕かなって思ってたんだけど」

 額どころか顔中に脂汗を浮かべたリィナの台詞は、ロンには強がりにしか聞こえなかったに違いない。

「思ったより往生際が悪ぃな。ここで意地を張っても、仕方なかろうよ」

「……そうだね。一本目は、ボクの負けかな」

「あぁ? 一本目もクソもあるかよ。まさか、そのザマでまだ続けるつもりじゃねぇだろうな?」

「うん。三本勝負にしてくれないかな」

「なんだと?」

「ホラ。三本勝負にしてくれたら、次はキミの見たがってたダーマの秘術を披露してあげるから」

「痛みで頭がオカシくなっちまったか? そんなザマで、いまさらなんの意味が——」

 おそらく、駄々っ子のように意地を張り続けるリィナと会話をするのが億劫になったんだろう。

「まぁ、いいぜ。死にたいってんなら、別に止めんよ」

 ため息混じりに、ロンは吐き捨てた。

「うん、ありがと。ホントにごめんね、恩に着るよ」

 感謝と謝罪を口にして、リィナは呪文を唱える。

『ベホイミ』

 リィナの負傷がみるみる癒やされていく。

「なんっ……はぁっ!? お前、武闘家だろ!? なんで、魔法を使ってんだ!?」

「秘密。でも、これで最後。キミ相手には、もう絶対、死んでも使わないから」

 文句を言いたげな顔のまま、しばらく絶句し続けたロンは、やがて腰に手を当てて俯き、鼻から長く息を吐いた。

「つまり、もう一回ぶっ倒せば、今度こそ負けを認めるんだな?」

「うん。回復できないように息の根を止められても、文句言わないよ」

「おっんじまったら、そりゃ文句も言えんだろうよ……」

 小声でぶつくさひとりごちるロンさん。

「しかし、ダーマの秘術ってのは、今の呪文のことか。正直、期待外れだな。回復なんぞできたところで、同じことを繰り返すだけじゃねぇか」

「あ、そっか。言われてみれば、ボクの呪文もダーマの秘術って言えるのかも」

 いまはじめて気がついた、みたいな口調で呟くリィナに、ロンは怪訝な顔をしてみせる。

「てことは、他にもあるのか」

「うん、もちろん。約束通り、今度は出し惜しみしないで見せてあげるから、期待してよ。ごめんね、こっちは使わないで勝てると思ってて。キミが、あんなにバケモノだって思ってなかったんだよ」

「勿体ぶるじゃねぇか。何かあんなら、さっさと見せてみな」

「うん。見た目はちょっと似てるけど、キミのズルと違って、ボクのはちゃんと修行の成果だから」

「あぁ?」

「これはダーマでも、ほとんど実践した人がいないくらい秘中の秘だよ。ある一定以上の力は出せないように、普段はずっと自分に負荷をかけ続けるように心身を作ってくれてるっていうか——ホラ、ダーマって、そういうの得意だから」

「知らんよ。御託はいい。かかって来い」

「うん。行くよ?」

 さっきのロンのように、リィナは無造作に突っ立った姿勢で、小さく呟く。

『等級制限時限開放』

 リィナはちょっと目を見開いて、きょろきょろと自分の体を見下ろした。

 そして、何かを確かめるように、両手を握ったり開いたり、その場で軽く跳ねたりしてみせる。

「どうだろ。掛けてから、まだそんなに経ってないから、よく分かんないな」

 言葉通り、特に何かが変わったようには見えないが。

「おいおい。折角待ってやったのに、随分と頼りねぇな」

「あ、ううん。分かんないって言ったのは、どのくらい強くなったのか分かんないって意味だよ。キミ相手に使うつもり無かったからね」

 足場の強度を確かめるように、二、三度床を蹴る。

「だから、キミ、これから負けちゃうけど、気にしないでね。さっきも言った通り、そっちが一回勝ってるから」

 開いた脚の膝に手を置いて、顔だけ正面に向けて左右に上体を捻りながら、リィナはにんまりと嗤った。

 呼応するように、ロンの笑みも獰猛さを増していく。

「ついさっき成す術もなかった割りにゃ、エラい強気だな」

「いいから、来なよ。怖いの?」

 お前から行くんじゃなかったのか。

 俺が聞いてすら身勝手なリィナの言い草に、ロンの頭の血管がブチ切れる音が聞こえた気がした。

「上等だッ!!」

 気付いた時には、先程リィナを破壊せしめた恐るべきこぶしが間近に迫っていた。

 リィナはなんと、さっきと同じく腕を交差させて受けようとする。

 だから、お前は負けん気が強すぎだっての。

 耳を塞ぎたくなる、嫌な音。

 だが今度は、リィナは殴り飛ばされも腕を折られもせずに、その場で受け切っていた。

「〜〜っ!! さすがに、ちょっと痛いね」

 意趣返しも忘れない。

「なにっ!?」

「で、ほいっと」

 受けた手がロンの腕に絡み付き、ぐいと引いて前のめりに体勢を崩す。

 その横っ面を、リィナの後ろ回し蹴りが打ち下ろし気味に捉えて、まるで何かが破裂したような音が響いた。

「ぐっ——」

 さっきまであれほど優勢だったロンが、無様に床に打ち付けられていた。

「あしいったっ。でも、思ったより、いいね」

 蹴った方の脚を上げて、膝から下をぷらぷらさせながら、リィナは床に伏したロンを見下ろした。

「……ってぇ。こんだけ痛ぇのは、アイツとやり合った時以来だぜ」

 血を流した口元を、ロンはぐいと親指で拭う。

「ホントに? だったら嬉しいけど、ホントはもっと時間かけて研ぎ澄ましたかっ——」

 リィナの言葉を、俺は最後まで聞けなかった。

 俺の意思とは無関係に、視界が急速に転換したのだ。

4.

 視界に映る景色が切り替わった途端、俺は猛烈な失墜感に襲われた。

 さっきの起き抜けの比じゃない。

 だって——なんだ、これ——上空——?

 海の上か!?

 俺の視界は、一面が霧がかった海原に占められていた。

 それが、遥か下方に見える。

 風を切る音が耳にうるさい——落ちる!

 だが、いつまで経っても海面が迫って来ることはなく、俺はどうにか冷静さを取り戻す。

 落ち着け。

 必死で寝台のシーツを握る。

 実際の俺は、船の中に居るんだ。

 遥か上空から、海面に叩き落とされる筈がない。

 だが、この視点は、一体。

 風を切って流れる視界の端に、自分の体の一部を捉える。

 あれは、鳥の翼か?

 おそらく、海鳥を経由して視界を維持しているのだと思い至る。

 海猫だ。

 マグナの船は陸地に沿って航海していたので、海猫が居ること自体は不思議じゃないが、自然の生き物というよりはドゥツの使い魔か何かだと考えた方がよさそうだ。

 視え方は人間のそれと変わらないので、鳥の眼球を乗っ取ってる訳でもなさそうだが、ホントにどうなってんだ、これ。

 興味は惹かれるが、考察は後回しだ。

 旋回して飛ぶ視界は、宙空に浮かぶ二つの影を捉える。

『ココデ ヨイカ』

 頭の中に響く、奇妙な喋り方。

 俺はパニックに陥りそうな意識を必死に繋ぎ止めた。

 アイツだ。

 カンダタ共と最初にやり合った時に遭遇した——イシスの王城で望まぬ再会を果たした、あの黒マントの魔物だ。

 フードの奥深くでゆらめく二つの昏い炎。

 俺の本体の呼吸が浅く速く、胸が苦しくなる。

「問題ない。感謝する」

 そして、その傍らに浮かんでいる、見覚えのある面長の精悍な顔立ち。

 ニックだった。

 なんで、お前までいるんだよ。

 俺の心にデカい傷を負わせた二大巨頭が揃ってるじゃねぇか。

『デハ イクガイイ』

「ああ」

 ふっ、と吊り下げていた紐が切れたように。

 ニックの躰だけが落ちていく。

 俺達の居る幽霊船目掛けて。

「ふん」

 接地の瞬間、付近の甲板が爆発さながらに吹き飛んだ。

 実際に起こっているとは信じ難い、絵空事のような光景。

 だが、次の瞬間に巨船全体を襲った衝撃に、馬鹿馬鹿しい現実である事を思い知らされる。

 その振動のせいか、空を飛んでいたもう一つの視界が途切れて、俺はドゥツの部屋の寝台の上にしか居なかった。

「うん?」

 さすがに気になったのか、普段の視界の中でドゥツが天井を見上げたのが見えた。

 俺は空回りする思考を、必死に何処かに引っ掛けようと頭を働かせる。

 とにかく、ここで視てるだけじゃ話にならない。

 まずは合流しねぇと。

 誰からだ。

 決まってる。

 見つかったヤツからだ。

「ちょっと様子を見てくる」

 ドゥツに言い置いてベッドを下り、扉に急ぐ。

「ああ、接続が切れたのか。仕方無い。出て行くまでは、再接続できるようにしておいてやる」

 親切で提案してくれているようにも聞こえるが、魔法使いこいつらがそんなに殊勝な筈はない。

 俺には分かっている。実際は、単に面倒事を俺に丸投げしてるだけなのだ。

 だが、魔法使いらしく、何が起こっているんだとこっちを問い詰めもしなければ、全く取り乱しもしないところは有難い——どうせ、心底興味が無いだけだろうけどさ。

「恩に着るよ」

 遠隔視を引き続き使わせてくれる礼を告げると、ドゥツは不可解そうに顔を顰めた。

 なんで嫌そうなんだよ。

 ホント、なに考えてんだかよく分かんねぇな、こいつら。

 ともあれ今は、これ以上ドゥツに構っている暇はない。

 まずは遠隔視で近くにいるヤツを探して——いや、ちょっと待て。遠隔視で誰かの姿を捉えたとしても、そこが船内のどこだか俺には分かんないじゃねぇか。

 あれ、どうすんだ、これ。

 どっちに行くべきだ。

 つか、通路に角があるのはまだいいが、曲がった先にまた通路が延々と続いてるのは、おかしいだろ。

 なまじ船全体を俯瞰して位置関係を想像すると、頭がおかしくなりそうだ。

 悪い夢を見てるみたいだぜ。

 単純に空間が拡張されているにしては、いくらなんでも広すぎる。

 いま見えてる通りの広さじゃないだろ、これ。

 実は空間的には環状に繋がってるとか、もしくは船内の空間が不規則に繋がってるとか——

 小走りに駆けていた俺は、きっと周囲への注意が散漫だった。

 身の周りの状況を小言と共に伝えてくれる姫さんは、もう側にいないのに。

「え——」

 気付いた時には、数歩前まで見えなかった足元の穴に踏み出していた。

 体ごと空中に投げ出される。

いってっ!!」

 刹那の墜落感を経て、一階層下の通路で見っともなく床に投げ出される。

 くそ、痛ぇな。

 すぐに大きく体を動かさないように注意しながら、手首、足首、その他の怪我をし易い箇所を順番に確認する。

 咄嗟に転がったのが功を奏したのか、膝関節と肩がすげぇ痛いが、致命的な負傷はなさそうだ。

 だが、不幸中の幸いというには、不幸の割合が大きすぎた。

 近くに巨大な何かが存在していることに、すぐに気付く。

「あなた」

 抑揚のない声。

 通路の先で唸り声をあげているゴリラの魔物の陰から、ルシエラがこちらを振り返って、ガラス玉のような瞳で俺を見つめていた。

5.

 というのが、俺がルシエラと愉快な仲間達と独りっきりで対峙するハメになった経緯いきさつだ。

「なら、やっぱり殺しておく」

 ゴアァッ!!

 小山のようなゴリラの化け物が雄叫びをあげた。

 さて、どうするか——どうするも何も、非力な魔法使いが単独で出来る事なんて知れている。

 普通なら、逃げの一手だが。

 少しばかり閃いた。

 最近覚えたばっかの呪文アレの使いどころかも知れねぇ。

 博打に近いが、背中を見せてもたくさ逃げ出すよりゃ、生き残る確率が上がりそうだ。

 そうと決まれば、先手を打つに限る。

『メダパニ』

 どうにか、振りかぶった拳を魔物が振り下ろす前に間に合った。

 覚えたてのこの呪文は、脳みそだか精神に干渉して強烈な幻覚を強制することで、対象を混乱状態に陥らせる——ほら、旅をはじめた頃のナジミの塔で、宝箱の罠に引っ掛かった時の俺達と同じような状態に陥らせるのだ。

 思い返すと、あの時の俺はマグナに剣を向けられそうになったんだよな。

 きっちり罠に対応して、正気を保っていたリィナが、俺達を気絶させてくれなかったらと思うと、今更ながらに背筋が寒くなる。

 当時のリィナは、独りだけ事情を把握した立場に置かれて、色々と気苦労も多かったろうな——

 って、いまは追憶に浸っている場合じゃない。

『グ……』

 いつだかのロマリアの闘技場で、勝利が確実だと思われたフロッガーに人面蝶が毒牙の粉を降らせて惑わし、まんまと俺の賭け札を只の木板にしてくれた事からも分かるように、魔物にも混乱攻撃は有効だ。

 どのように作用しているのか、魔物にも精神があることの証左なのか——興味は尽きないが、流石にいま考える事じゃない。

 狙い通り、ゴリラの魔物の挙動が目に見えておかしくなった。

 牙を剥いた口角から泡を垂らしつつ、敵を探すように周囲を見回す。

『オガァッ!!』

 魔物の巨大な拳が、咄嗟に身を躱したルシエラを掠めて床に打ち付けられた。

 冗談みたいな破壊力だ。

 ルシエラ達どころか、少し離れた俺の方まで、足元の床が崩壊する。

「嘘だろ——」

 ここまで目論見以上の成果は求めてなかったんだが。

「ンだぁっ!?」

「きゃあっ!?」

 いってっ!!

 さらに一階層下の床に投げ出され、今度こそ着地をしくじって足首を捻っちまった。

「え、ヴァイスさん!?」

 聞き慣れた声に振り向くと、シェラを抱えたフゥマがその場に立っていた。

 運良く合流できたのか——いくらなんでも都合が良すぎないか——いや、もしかして、左右だけじゃなく上下にも妙な具合に繋がってるのか。

 ひょっとしたら、船内は目に見えているより広くない——というより、外から見たまんまの空間しかないのかも知れない。

 もちろん、そんなことを考える余裕があったのは、ホンの一瞬だ。

『ゴアァッ!!』

「チッ! こんなデカブツが、どこに隠れてたのさ!」

 ゴリラの魔物が振り回す丸太のような腕を避けながら、ティミが叫ぶ。

「一緒に落ちてきた女の手駒らしいよ! 邪魔なら排除して構わないってギア様に言われてるから、遠慮無くやりなよ、ティミ!」

「気軽に言ってくれるね!? ていうか、手駒ってどういうことさ!?」

『バイキルト』

 グエンは答えずに、呪文を唱えた。

 コイツはさっきから補助魔法しか唱えていないが、こんな船内で派手な攻撃呪文を使う訳にはいかないから、仕方ないのだ。

 つまり、俺がここまで大して役に立っていないのも、仕方の無いことなのだ。

「ったく!!」

 魔物の豪腕を掻い潜り、ティミは右の拳で脇腹を抉るように突き上げた。

 だが、全く効いたように見えない。

 よろめきすらしない。

「こりゃマズいね」

 言葉とは裏腹に、ティミはその場で拳を押し当てたまま少し腰を落とした。

 その姿がブレて見えたと思ったら、周囲の靄が渦巻く。

「ふんっ」

 メキッと音がして、足元の木板に亀裂が入る。

 だが、辛うじて床は抜けなかった。

『ボアッ!?』

 一寸遅れて、ゴリラの魔物が血を吐いた。

 ティミの打撃が通っている!?

「ンだよ、さっきまでそんな技使ってなかったじゃんか! ずっけぇぞ!」

「馬鹿言ってんじゃないよ! こんなのんびりしたモン、対人で使う訳ないだろ!!」

『ゴアアァァッ!!』

 激痛に身を捩らせて、滅茶苦茶に振り回される巨大な腕を躱しながら、ティミとフゥマはまたしても言い合いをはじめたりするのだった。

 飽きないね、君ら。

「ヴァイスさん、よかった、無事だったんですね。これって、どうなってるんですか!? 他の人達は!?」

 フゥマに床に下ろされたシェラが、小走りに駆け寄りながら尋ねてきた。

「多分、全員まだ無事だ。どこに居るのか分かんねぇけど、なんとか合流してトンズラするぞ」

「愛の思い出は見付かったんですか?」

 一瞬、シェラが何を言ってるのか分からなかった。

 何を場違いな事を——いや、違う。

 ニック登場の衝撃が強すぎて頭からすっ飛んでたが、ローラの呪いを解く何かを俺達は探しに来たんだった、そういえば。

「いや、まだだ——」

「オラァッ!!」

 ゴリラの魔物が打ち下ろした拳を、正面から自分の拳で迎え撃って、フゥマが壁に吹き飛ばされた。

 何やってんだ、お前。遊んでんなよ。

『ウゴアァッ!!』

 だが、予想に反して、苦悶の呻き声をあげたのは魔物の方だった。

 よく見ると、ぶっとい中指がおかしな方向に曲がっている。

『ホイミ』

 ルシエラの脇に控えた小柄なフード姿——ホイミスライムが回復呪文を唱えると、ゴリラの魔物の負傷が癒えていく。

 それを目にして、ティミが顔を顰めた。

「あのちっこいのは僧侶かい? こりゃ、部位破壊は無駄っぽいね」

「ちっ、ソイツがいんの忘れてたぜ。つか、ルシエラ。お前いま、そのゴリラ操れてんのかよ?」

 木製の壁に半分くらい埋まっていた躰を抜きながら、フゥマがルシエラに問いかけた。

「ない。あの人の呪文のせい」

 ルシエラは、一直線に俺のことを指差すのだった。

 ああ、うん。確かに、俺のせいですね。

「ちょっと、アンタら知り合いかい!? っていうか、操ってるってなにさ!?」

「あのルシエラって女は、魔物を操れんだよ」

「ハァ!? なにさソレ、そんなの聞いたことないよ!? マッタク、何がなんだか——ッ!!」

『ゴアアァァッ!!』

 暴れ回るゴリラの魔物の攻撃を避けながら、フゥマはティミに怒鳴る。

「さっきのもう一回もっかいやってくれ!!」

「——なら、アンタが動きを止めな!」

「おうよッ!!」

 相手が何を考えているのか、詳しく説明しなくてもなんとなく通じるらしい——脳筋同士は話が早い。

 フゥマは通路の端に駆け寄って壁を蹴った。

「オラァッ!!」

 ゴリラの魔物の顎に横から飛び蹴りを喰らわせる。

『ガ——』

 派手に頭を揺さぶられた魔物の動きが、僅かに鈍る。

 その隙に、ティミが正面から懐に入り込んでいた。

「ふ——吽っ」

 ゴリラの腹をかち上げた掌打に、ティミは捻りを加える。

『ゴ——』

 空気を求めるように大きく口を開け、ゴリラの魔物は動きを止めた。

 素早くティミが身を離すと同時に、フゥマが再び床を蹴る。

「うっしゃあッ!!」

 背中を逸らせて跳び上がったフゥマは、ゴリラの頭を上から思いっ切り殴りつけた。

 重々しい音を立てて倒れ伏す巨体。

 向こうの回復は、まだ間に合わない。

「よくやった! どいてなよ、ティミ! 僕の呪文に巻き込まれないようにねぇっ!!」

 それまで比較的安全な後方に控えていたグエンが、ティミを押し退けて前に出た。

 いや、何おいしいトコ取りしようとしてやがんだ、この野郎。

「オイ、勝手なコトすんなよ。もう大人しくさせたじゃんか」

 フゥマに続いて、勝手に口が動く。

「そうだ、待てよ。とどめを刺す必要はねぇだろ」

「はぁ? 何言ってるんだい、ヴァイス君? またすぐ暴れ出すに決まってるじゃないか」

 そんなこた、俺だって分かってんだよ。自分の言ってる事がおかしいのもな。

 ちらりとルシエラを横目で見る。

 無表情な事に変わりはないので分かり難いが、普段と顔付きが違う気がした。

 くそ、とにかく動けなくすりゃ文句はねぇだろ。

「だから、ちょっと待てっての——シェラ、眠らせてくれ!」

『ラリホー』

 俺の指示に即応してシェラが呪文を唱えると、フゥマの馬鹿力で殴られて気を失いかけていたゴリラの魔物は、すぐに鼾をかきはじめた。

 これで寝ている間に、俺がかけたメダパニの効果も切れる筈だ。

「……何のつもりなんだい?」

 間に入ったティミの肩越しに、グエンは険のある目付きで俺を睨み付けた。

「邪魔しないでくれるかなぁ、ヴァイス君? どうしてキミが、魔物の味方なんてしてるのさ?」

「別に味方してる訳じゃねぇよ」

「僕の邪魔をしておいて、どの口が言うのかなぁ? ああ、そっか。そういえば、君は全人類の敵だったよねぇ。だったら、魔物側についても当たり前っていう訳だぁ? 何も知らないクセにさぁっ!!」

 ちっとは話を聞けよ、この野郎。

 つか、ギアの配下なんだから、お前の方こそ魔物の味方をするべきじゃねぇのかよ。

「なら、君もここで死んじゃいなよぉ。お仲間の魔物と一緒にさぁっ!!」

 グエンはティミの肩を掴んで、後ろに投げ飛ばした。

 嫌な予感がした。

 状況や後先より、自分の力を俺に見せつけることを、グエンが優先する予感。

 初対面から精神的優位性を取ろうとしていたグエンの言葉を思い出す。

『ボクはねぇ、イオラはとっくに覚えててねぇ、多分、もう少しで——』

 シェラを通路の奥に突き飛ばしながら叫ぶ。

「全員、俺から離れろっ!!」

『ベギラゴン』

 この野郎、マジで唱えやがった。

 俺を中心に通路一杯が地獄の業火で埋め尽くされる。

 だが、さすがに一瞬で死ぬ訳じゃねぇ。

『マヒャド』

 熱波を吸い込む寸前で、呪文を発動できた。

 瞬間的に上昇した気温が、急速に下がっていく。

 お互いの呪文が相殺し、目に見える効果は靄をより深くする霧が発生して、それを掻き乱す風が出鱈目な方向に吹いたくらいだった。

 あと、ちょっとむわっとした。

「ば、バカなっ!!」

 見ると、グエンは目を見開いてわなわな震えていた。

「な、なんで君が、そんな呪文を……」

 ンな驚くなよ。

 お前の前でヒャダルコを唱えてみせたのは、もう一年くらい前の話だろうが。

 使える呪文くらい、少しは増えてるっての。

 お前の中の俺は、きっと全く成長しない人間なんだろうな。

 まぁ、確かに大して成長してませんけどね。人間的には。

「いいから、全員いったん落ち着け。こんな事してる場合じゃねぇんだよ。ルシエラも、さぞかしムカついてるだろうが、いまは矛を収めろ。いいな?」

 俺は誰の返事も待たずに続ける。

「あいつが——ニックが来た」

「は——? え、マジかよ!?」

 真っ先に反応したのはフゥマだった。

 少し離れた通路の壁際で両膝に顔を埋めていたココも頭を上げる。

「冗談で、こんなこと言うかよ。さっき、すげぇ船が揺れただろ。ありゃ、ニックが上から降ってきた所為だ」

「ちょっと、待ちなよ。上から何が降ってきたって? ていうか、降ってきたってどういうコトさ?」

 話についていけないティミの横で、グエンが震える声で俺に叫ぶ。

「う、嘘だ! ギア様は、何も仰られていなかったぞ! キミの言う事なんて、信じられるもんか! なんでニキル様が、こんなところにいらっしゃるんだよ!?」

「はぁ? ニキル様?——って、まさか、今度は『絶拳』だなんて言い出すんじゃないだろうね?」

 冗談めかしたティミの問い掛けに、青褪めた顔で微かに顎を引くグエン。

「は? え——いや——生きて——って、ギア様が生きてるんだ、不思議じゃないか……」

 そうか、ティミは初遭遇か。

「やっとだ……今度こそ、借りを返してやるぜ……」

 フゥマが握り締めた拳に視線を落とす。

「ちょっと、アンタ。まさか、やり合おうってんじゃないだろうね?」

「当然だろ。オレ様、この時の為に強くなったんだ」

「いや、だって『絶拳』だよ!? 勝つとか負けるとか、そんな相手じゃ——」

「関係ねぇよ。オレ様は、今日ここでオッサンを超える」

「いや、アンタが強いのは認めるけどさ、ソイツはちょっと……ゴメン。ウチ、頭がついていかないんだけど——ッ」

 突然、ティミが怯えたように後ろを振り返った。

 その視線の先、靄の向こうに、唐突に二つの影が出現する。

「ヤァ、上手く繋がったな。有能な方の旧友に感謝し給えよ」

「貴様は、本当に相変わらずだな」

「当然だよ。不変こそが、僕にかけられた呪いの最たるモノだからね」

 そこに居たのは、それまで姿の見えなかったギアと、そして——

「フン、いくらか見えない顔がいるようだな」

 面長の精悍な顔立ち。

 鋭い眼光。

 今日は最初から武闘家の道着を身に纏ったニックが、靄の向こうに立っていた。

 ヒュッ、と息を吸い込む音に振り返ると、シェラが真っ蒼な顔で石みたいに動きを止めていた。

 あの時の絶望を思い出しているのだろう。

 気持ちは滅茶苦茶良く分かるぜ。

「いえいえ。もう一人の旧友も、捨てたものではありませんよ。お目当ての相手を連れて来る程度には有能です」

 声は、シェラのさらに背後から聞こえた。

 白いローブ姿のにやけた男の後ろに、リィナとロンの姿が見える。

 お互いの道着に赤黒いモンが付着してるが、大丈夫かよ。

「あれ、ホントに居た。ホンのさっきまで、もっと遠かったのに」

「……どうなってやがんだよ、この船はよ」

 いつも通りケロリとした顔のリィナと違い、ロンはどこか気まずそうな表情に見えた。

 つか、マジでなんだ、コレ。

 期せずして、伝説呼ばわりされてる四人の内の三人まで揃っちまったじゃねぇか。

 残る一人の娘の姿が見えねぇけど、ちゃんと無事なんだろうな。

「さって! そんじゃ早速、オレ様からヤらせてもらうぜ!」

 腕をグルグル振り回しながら、フゥマがニックの方に一歩踏み出した。

 いや、お前。問答無用かよ。

「すみません、フゥマさん。仲間になっていただいた時のお約束で、このような状況では、最初にロンさんに戦っていただく事になってるんですよ」

 片手を上げてフゥマを拝みながら、にやけ面は呑気らしくほざいた。

「あァ!? 知らねーよ、ンなコト。オレ様にゃ関係ないね」

「フン。ようやく、俺の前に顔を出したか。それで、準備とやらは済んだのか?」

 ニックは、ロンに語りかけているようだった。

 無視された格好のフゥマが鼻白む。

「オレ様を……」

 一足跳びに間合いを潰し、思い切り殴り掛かる。

「無視すんじゃねぇッ!!」

 全く音がしなかった。

 フゥマの拳は、体を捌いたニックの掌に無音で受け止められていた。

「案ずるな」

「——ッ」

 拳を強く握られたのか、フゥマが顔を顰める。

「ここにいる全員、相手をしてやる」

 いえ、俺は遠慮しておきます。

「俺はどいつからでも構わんのでな、覚悟が決まらんようなら後にするか?」

 淡々としたニックの問い掛けに、ロンは頭をひとつ振って自分の両頬を手で叩いた。

「……いや、俺からでいい。アンタが万全じゃなきゃ、意味が無いんでな」

 いつでも余裕が服を着て歩いていたロンの顔が、緊張に強張っていた。

「別に何番目だろうが、変わらんと思うがな」

「だといいけど。この人、結構強いから気を付けてね」

 そう言いながら、立てた親指をロンに向けたのは、もちろんリィナだ。

 前回と違って、ニックを前にしても、いつもの調子を保ってるように見えた。

「フン。貴様こそ、あれから少しはマシになったんだろうな?」

「もちろん。この人の強さも、さっきやり合って大体分かったしね。まだ見れてないキミの本気くらいは、引き出してくれると思うんだよね。つまり、キミの為に用意したモノサシって訳」

 おお、リィナ、お前、ホント凄ぇな。

 前にニックから云われた言葉で煽り返すとか。

 この余裕は、自信の現れだと思いたいが。

「誰がお前の物差しだ——って訳で、すまんな。ここは譲ってくれ」

 リィナの軽口で気が紛れたのか、はたまた覚悟を決めたのか。

 ロンの声音はやや落ち着きを取り戻していた。

「チッ」

 力任せにニックの掌を振り払い、フゥマは掴まれていた右手を何度か握って開いた。

 まだ顔を顰めているところを見ると、相当に痛かったらしい。

「よかねぇけど、痺れが取れるまでは譲ってやるよ。さっさと負けていいぜ」

「悪いが、お前まで回らんよ。最初ハナっから全力でいかせてもらうからな」

 ロンは両手を握りしめて、裂帛の気合を放つ。

『竜氣開顕』

 実際に自分がその場に居るので、今回はひしひしと感じられた。

 ロンから受ける圧力が、明らかに増している。

 本来ならば数倍、数十倍の大きさの生命を、無理やり人間の形に圧し縮めたとでもいうような、尋常で無い存在感。

「ホゥ、珍しい。アレ、竜人だろう? あんな希少種を、どこで拾ってきたんだい?」

 圧倒されている俺の耳に、ギアの興味深そうな声が届いた。

「さて。彼はニックさんの紹介なので、私はよく知りませんね」

「誰がお前にモノを尋ねるなんて愚行を冒すんだ。黙ってろ、この道化め」

 にやけ面の事が余程嫌いなのか、やたらと当たりの強いギア様なのだった。

 俺にも同じくらいキツいので、もしかしたら同じくくりにされているのかも知れない。嫌だなぁ。

「……会ったのは、確か北の方だ」

 仕方なさそうに短くいらえるニックに、ギアは苦笑する。

「また、大雑把なことを。マァ、君らしいが。アレの生き残りは、それなりに貴重なんだ。出来れば殺さないで欲しいね」

「そのつもりだ。ヤツには、やらせる事があるのでな」

「ヘェ。君が誰かに期待するなんて珍しいな。天地でもひっくり返すつもりかい?」

「お喋りは——」

 気付いた時には、ロンはニックの至近で拳を引いていた。

 さっきのリィナ戦でも見せた、爆発的な身体能力。

「そこまでだッ!!」

 槍で突き貫くが如きロンの右拳は、なんとニックに受け止められていた。

 いや、俺が驚いたのは、ロンの攻撃が防がれた事じゃなくて。

 ニックが両手を重ねてロンの拳を受け止めるという、まともな防御行動を取った事に対してだ。

 あのオッサンが、あんなにちゃんと防御してるトコ、はじめて見た。

 それどころか、衝撃を殺しきれずに、両足をつけたまま数歩分、後ろに床を滑り退がる。

 リィナのように両手の骨を砕かれこそしなかったものの、追撃の回し蹴りを打ち落とそうとした肘も弾き飛ばされていた。

 驚異的なロンの身体能力——

「むぅ」

 脇腹に当てた蹴りをきっかけに、ロンはニックを攻め立てる。

「どうしたッ!? そんなモンかッ!?」

「フン」

 存在しない間隙を、ロンの顎目掛けて打ち上げられたニックの掌底が縫っていた。

「グッ」

 跳ね上げられた顎に構わず、ロンは拳を打ち下ろす。

「阿呆が」

 捌く動作そのままに背中をぶち当てられて、ロンはニックに弾き飛ばされる。

 だが、二、三歩退がっただけで堪えていた。

「心得違いをしおって」

 ニックはつまらなそうに、ロンに吐き捨てる。

「なんだと?」

「以前の貴様が、会得さえすれば俺を斃せるとほざいてみせたのは、その珍奇な芸か」

「……」

「くだらん。興醒めだ。俺が貴様に求めているのは、そんな下らん芸ではない」

「くだらねぇだと……」

 怒りの滲む、押し殺した声。

 普段は余裕の微笑みを湛えるロンの顔が、憤怒に歪んでいた。

「我が一族の誇りを踏み躙って尚、その言い草か……だからこそ、だ。だからこそ、俺は一族のこの力で、貴様を斃す!!」

 あのニックが、殴り飛ばされるまで動けなかった。

 突き刺さるように床に叩きつけられる。

 とんでもない強さだ。

 ギアは竜人とか呼んでたな。

 そもそもが、純粋な人間じゃねぇのか?

 アリアハンに戻ったら、ちょっと調べてみるか。

 生きてこの場から帰ることが出来ればの話だが。

「なんで、こうなるんですか……」

 俺の背後でシェラが放心気味に囁いたのは、問答無用でニックとの戦闘がはじまっちまった事に対する困惑だろう。

 正直、俺にも似たような感情はあるが、ニックが姿を現した以上、どうあれやり合わずに済ませるのは無理だろうな、という諦めもある。

「だから貴様は、阿呆だと言うんだ」

 ムクリ、とニックが上体を起こした。

 殴られた口元を拭いもせず、普通に立ち上がる。

 流石に、一発でくたばるタマじゃねぇか。

 とはいえ、二人の立ち合いは終始ロンさんが優勢に見えるんだが。

「貴様にしか使えん強さなど、どうでもいい。そんなものは間に合っている」

「……なに?」

「そもそも、貴様自身には大して期待していない」

「只の人間が、随分な大口を叩くじゃねぇか……」

 ロンは獰猛な顔付きで、拳を握り直す。

「クク、違いない。このままだと負けちゃうんじゃないの、君」

 緊張感で張り詰めた空気を、茶化す声で台無しにしたのはギアだった。

「巫山戯るな」

「だって、流石に縛り過ぎでしょ、君。だから、やり過ぎだって忠告したのにサ」

「……」

「なんだい、その不思議そうな顔付きは。真逆、忘れちゃいないだろうね? その昔に僕が掛けてあげた制限を、自分じゃ解除出来ないことを」

「えっ……?」

 驚きの声をあげたのはリィナだった。

 言われた本人は、記憶を探るように眉根を寄せる。

「……だったか?」

「君、ホントに忘れてたね?」

「使う機会がなかったのでな」

「ヤレヤレ、君らしいよ。ケド、良かったじゃないか。とうとう君の制限を突破できる猛者が現れたことを、もっと素直に喜び給え。どうせまた忘れるだろうから、今後は自分で制御できるようにしておいてやろう」

「……面倒な」

 嫌そうなニックの口振りに、ギアは苦笑を誘われる。

「他ならぬ自分のコトだっていうのに、仕方のない人だよ。どれ、昔のよしみで今日までは僕が面倒を見てやろう」

 パチン、とギアが指を鳴らす。

『等級制限無期限開放——壱つ』

 何が起こるのかと身構えていた俺は、結果的に肩透かしを喰らった。

 なんだ?

 何か変わったのかよ?

 それとも、ニックが本気を出しても、普段通りに息を吸って吐くことくらいは、俺が出来るようになったんだろうか。

 恐ろしさの余り、なりふり構わず逃げ出したくなるんじゃないかと危惧していたんだが、これならその心配は無さそうだ。

「またあの人は、余計なことを——日を改めませんか、ロンさん。貴方をここで失う訳にはいかないのですが」

 だが、いつもヘラヘラしているにやけ面の口調には、珍しく苛立たしげな素の感情が滲んで聴こえた。

「日を改めたところで、アイツには勝てないらしいぜ?」

「そんな事はありませんよ。貴方はまだまだ強くなります」

「アイツよりか?」

「さて、そこまでは分かりませんが」

 ロンさんは、ふっと力をぬいて、ひどく落ち着き払った顔をした。

「信用ないんだな。安心しろよ。アレはもう、ソコの跳ねっ返りに見せてもらったからな。奥の手であの程度なら、俺が勝つよ」

 いつも通りの、頼り甲斐のありそうな笑顔を浮かべる。

 リィナは「あの程度って、ボクが押してたじゃん」とかブツクサぼやいていたが。

「……分かりました。ですが、無理だと思ったら、降参してくださいね。非常に珍しく、命までは穫らないつもりらしいので」

「そいつは向こうに言ってやれよ」

 多少の強がりは含まれていたとしても。

 ロンは余裕を感じさせる笑みを、ニックに向かって浮かべることができていた。

「聞いてたろ。降参したきゃ、いつでも言ってくれ」

「フン。そこまでの闘いになればいいがな」

「なるさ。一族の誇り、いまこそ取り戻させてもらうぜ」

 ぐっ、とロンの躰が沈み込んだ。

 その姿が掻き消えて、足元の板切れが舞う——

 遅れて、いくつかの音を意識が認識する——

 五感が追いつかない。

 槍どころか弩と化したが如く、全身で放たれた恐るべき突きをいなし切れず、ニックは躰を半分持っていかれて体勢を崩す。

「矢張り、この程度か——ッ」

 その後の、靄が渦巻き空気を振動させる攻防も、ロンが優勢に見えた。

 ただ、普段よりも身体能力が大幅に向上した影響か、ロンの動作がいつもより大振りに感じられる。

「ぐっ——」

 攻撃を受けるのではなく数度躱して、ニックの拳がロンの鳩尾に突き刺さっていた。

 ロンは構わず右拳を振るって反撃する。

 危うくそれを避け、ニックは数歩分距離を取った。

 殴られた辺りを手で押さえつつ、ロンはニヤリと優位を確信した表情を浮かべる。

「耐えられるぜ。これなら、俺の勝ちだ」

 さっきリィナとやり合っていた時と、同じ理屈か。

 信じ難いことに、ロンの防御力が、ニックの攻撃力を上回っている。

 だが、ニックはロンを見ていなかった。

 渋い顔をギアに向ける。

「どういうことだ。まるで戻っとらんぞ」

 ギアは、軽く肩を竦めてみせた。

「そりゃ、まだひとつしか開放してないからね。だから言っただろう、念入りに封じ過ぎだって」

 ニックは憮然として返事をしなかった。

「ちょっと待って、それって——いくつ、封じてるの?」

 代わりに震える声で問うたのは、リィナだった。

 少し前までとは一転して、顔どころか唇まで真っ蒼だ。

 ギアの口が、酷薄な三日月を描く。

「五重だよ」

「ごっ——」

 リィナは、絶句した。

 ちょっと記憶にないくらい、愕然とした表情。

 前回やり合った時ですら、ここまでの絶望は浮かべていなかった。

 その場にへたり込まないのが不思議なくらい、衝撃を受けているように見える。

「面倒臭い人だよ、ホントに。丁度いいから、この際もうひとつくらい外しておき給え——弐つ」

 パチン、と指を鳴らす音。

 嘘だろ。

 まだ強くなんのかよ。

 俺には特に何かが変わったように感じられないのが、余計に空恐ろしい。

 底が見えなさ過ぎる。

 計ることすら許されない。

「其れが……」

 ギリッとロンが歯を食いしばる音が、俺まで届いた気がした。

「なんだってんだッ!?」

 先程と同様に目にも留まらぬ弩の如きロンの突きは、あっさりと躱されていた。

 子供が殴りかかったのを、ひょいと避けるように。

阿呆あほうが」

 代わりにニックの拳が、またしても鳩尾に突き刺さる。

「あ……が……」

 こちらは、先程と同様とはいかなかった。

 腹を両腕で抱えたまま、ロンは床に膝をつく。

「フン、下らんことに時間を費やしおって」

 ニックはロンに冷めた一瞥をくれた。

「だから、貴様の伸びなど知れていると忠告をくれてやったんだ。頭の凝り固まった貴様に、己の限界は超えられん」

 額を床に付けて躰を丸めたまま、ロンは呻き声すら発せない。

「だが、貴様の人に物を教える能力には、少し期待をしている。俺はそこがからきしなのでな。せいぜい、拾って来た連中を育ててやるがいい。貴様が俺を斃すのであれば、その道しかあるまい」

 恐ろしく、手前勝手な言い草だった。

 どこまでも、自分本位だ。

 まるで、いまの戦闘など、ただの戯れに過ぎなかったみたいに。

 言われた相手がどう思うかなど、どうでもいいように。

 断られるかどうかすら、大した興味も無いように。

 一方的に、自分の都合だけを口にしていた。

「クク。他者の痛みが分からない人非人に目を付けられて、君らも災難だな」

「流石のニックさんも、貴方にだけは言われたくないでしょうね」

「全くだ」

 軽口を叩き合う伝説的な三人の会話が、ひどく遠くに聞こえる。

 同じ場所に居る筈なのに、まるで異なる層に居るみたいな隔たり。

 すぐそこに居るのに、手を伸ばしても決して届かない。

 三人の他には誰も声すら発せずに、俺達の間にはただ沈黙が靄と同化したように漂っていた。

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