53. Private Eyes

1.

「あなたは、人間の味方なの」

 ごとり、と言葉をその場に放り置くような。

 酷く非人間的な抑揚の無い喋り方で問いかける女に、俺は小さく頷いた。

「まぁ、そうだな」

 嘘や誤魔化しを口にする気にはなれなかった。

 以前、少しだけ伝え聞いた、この女の生い立ちが事実なのだとしたら、お為ごかしに意味は無いだろう。

 いま居る地域は季節が初夏に差し掛かろうとしている筈なのに、妙に底冷えのするひんやりとした船内で、俺は目の前の女ではない相手に対して、頭の中で必死に呼び掛けを続けていた。

『おい、ドゥツ。聞こえてんだろ? 返事しろって!!』

 だが、いらえはない。

 くそ、連中と来た日にゃ、俗世の出来事にはまるで興味がありゃしねぇから、いつだって物の役にも立ちゃしねぇんだ。

 マズいな。

 せめて、他の奴らの勝負の行く末だけでも確かめたいってのに、そっちを視る為に集中しているひまがない。

「どうして?」

 目の前の女が、再び口を開いた。

「自分から魔物の棲家に押しかけて殺すの、嫌いだって言ってた」

 いや、誰が言ってたんだよ。

 主語をはっきりさせろっての。分かり難いだろ。

 お前にそれを伝えたであろうフゥマもだけどよ。

「魔物を仲間に引き入れようとしてるのも聞いた」

 今度はニュズの話か。

 俺は、目の前の女の立ち位置を計り兼ねていた。

 こいつは一体——誰の味方だ?

「なら、魔物の味方でもいい」

 そう、魔物の味方だ。

「でも、ニンゲンの味方だって聞いた。変なヒト。なんでなの?」

 率直に。

 人間的な感情が欠落してるんじゃないかと思えるくらいに淡々と、女は俺に尋ねた。

「俺は別に、どの陣営の味方でもねぇよ」

 自分がヒドく苛ついているのを感じる。

 だって、立場が真逆なだけで、こいつの言ってることって、ニンゲンと大差無いじゃねぇかよ。

 なんで、二者択一でどっちか選ばせようとしやがるんだ。

 どいつもこいつも、勝手にカタに嵌めようとしやがって。

 俺にだって、考えるところくらいあるってんだよ。

「つか、ニンゲンだマモノだって、そんなデカいくくりで考えてねぇんだ」

 目の前の女に、まともに言葉が通じなかろうが、もう知ったことか。

「あんただって、いつも隣りにいるそいつらの事を、他の連中より優先して考えるだろ? 俺も、それと同じだよ。で、俺の周りには人間しかいねぇってだけの話だ」

「……なら、側にいるのが私達だったら、私達の味方、する?」

「かもな。つか、それなりの関係を築けるような相手なら、誰とだってそうするよ。逆に、話がまるきり通じねぇようなヤツなら、仮令ニンゲンだろうと味方する気は無いね」

「……ニンゲンが、それを許すと思えない」

「知ってるよ。誰がニンゲンに向かって、こんな話をバカ正直にするかよ」

 いや、この女は、いちおう人間だっけか?

 どこに属してるんだかよく分からない女は、ポツリポツリと言葉を続ける。

「危ないヤツって怒られて、敵だって怒鳴られて、殴られる」

「なんだそりゃ。お前自身の経験か? 悪ぃけど、身の上相談なら、また今度にしてくれ」

 畜生、あいつら、無事なんだろうな。

 とか言ってる俺が、実は一番ピンチなんだけどさ。

 俺の言葉を噛み砕いているのか、しばらく押し黙っていた女は、やがてゴトリと言葉を置いた。

「そう。分かった」

 またしばらく間を空けてから、口を開く。

「あなた、変わり者なのね」

 お前に言われたくねぇよ。

 しばし会話が途切れると、船体の軋む音がやけに耳につく。

 ゆっくりと揺れる床板は、あちこちが腐って脆くなっていた。

 俺が目の前の女——ルシエラと鉢合わせちまったのは、忌々しくもその所為だ。

「でも、結局、ニンゲンの味方だって言う」

 いつ合図をしたのか、それまでルシエラの後ろで大人しくしていた、小山のような影が低い唸り声をあげはじめる。

「なら、やっぱり殺しておく」

 ゴアァッ!!

 小山のようなゴリラの化け物が雄叫びをあげた。

 後ろには、フードを被ったホイミスライムも控えてやがる。

 ヤベェな、魔法使いの俺だけでどうにか出来る相手じゃねぇぞ。

 いまは幽霊船の船内に独りきりだから、無理でも自力で切り抜けるしかねぇんだけどさ。

2.

「——あたし 聞いちゃった。あなた田舎者なんですってね」

 華美なドレスを身に纏った少女は、衣装ドレスと同系統の臙脂色をした羽根扇子で口元を覆いながら、うふふと笑った。

 例の『乾きの壺』を譲り受ける為に、エジンベア本国を訪れた時の事だ。

 突然やってきた侍女に懇願されて連れ込まれた談話室で、いきなり失礼な言葉を面と向かって投げ付けられたエフィは、驚きのあまり固まっちまっている。

「見て、あのお召し物。まるで古典劇の役者さんみたいじゃない?」

 ようやく少女と呼ばれる年齢に達したばかりに見える、いかにも生意気盛りのその子供が、陽光を巧みに取り入れるように設計されたこの明るい談話室の中で、最も権力を有しているのは明らかだった。

 その証拠に、繊細な装飾の施されたお茶会のテーブルを囲む貴族の令嬢と思しき身形みなりの女達が、迎合するように次々と口を開く。

「本当ですわね。わたくし、はじめて目にするデザインですわ」

「どちらのオートクチュールかしら」

「デザイナーは、きっと魔女のようにお歳を召したご婦人に違いありませんわ」

「まぁ、皆様、失礼な事をおっしゃらないで。あの方は本物の役者さんに決まっているじゃありませんの」

「仰る通りですわ。でなければ、あのようなお召し物でお屋敷から出られる筈がありませんもの」

 示し合わせたように、令嬢達はクスクスと笑い合う。

 見たところ、お前ら取り巻き連中の方が随分と年嵩なんだから、子供が粗相をしたら諌めてやれよ。

 一方のエフィは、途中から顔を赤らめ恥じ入るように俯いて、白い長手袋を嵌めた手を体の前で握り締めていた。

 俺は、知っている。

 エフィが母国を訪れるに際して恥ずかしくないようにと、伝統に則った衣装をヒドく悩みながらも楽しそうに選んでいたことを。

 降って湧いた話ではあったが、エジンベア行をエフィがどれだけ楽しみにしていたことか。

 以前から、どれほど母国に憧れていたのか。

 ほんの一端に過ぎないとはいえ、俺は知っていたんだ。

 なのに、とうとう訪れた念願のエジンベアで、さっき目通りが叶った王様も同じだった。

 淑女として落ち度の無い立派な挨拶を述べたエフィに、興味の薄い困惑の眼差しを向けながらのたまったものだ。

『ふむ……余より前の代では、遥か東方の地を治める為に総督が任命されたことは、話には存じてはおるが……なんにせよ、はるばる遠方いなかからご苦労であったな』

 それきり興味を失ったように、二度と話し掛けられなかった。

 そりゃさ、遥かに離れた僻地で生まれ育ったエフィが、まだ見ぬ母国に日夜想いを馳せていたなんて、あんたらの知ったこっちゃねぇだろうさ。

 現在のエジンベアで、総督府がどういう扱いをされているのかも、おおよそ察しが付いたしな。いまさら、そんな過去の話を持ち出されても、困るのは分からないじゃねぇよ。

 だから、必要以上に優しくしてやれとは言わねぇけど、礼を尽くしている相手に無礼を働くのは、どうなんだよ。

 後悔が胸を満たす。

 エフィの為にと考えているようで、俺は結局、自分の気の済むようにしていただけだったんだろうか。

 浮かれて調子に乗って、こんなとこまで連れてきちまってさ。

 ごめんな。

 身の置き所がないように、悄然と立ち尽くすエフィが、なんだか独りぼっちみたいに頼りなく見えた。

 せめて後ろに庇おうと足を踏み出したところで、傍らから声が聞こえる。

「あたしから見たら、あんた達の格好も大時代的で、たいして変わらないけどね」

 マグナだ。

 腕など組んで、首を傾げながら令嬢達を斜めに見下ろしている。

「これで人が住んでる地域は、世界中ほとんど回ったことになるけど、流行の最先端って呼べるのは、やっぱりロマリアだわ」

 あまりに不躾ぶしつけな物言いに、思考が目詰まりを起こしたみたいに動きを止めたご令嬢方の中で、最初に言葉を取り戻したのは、やはりこの場のあるじである臙脂色の羽根扇子を手にした少女だった。

「……な、なんですって!? い、いくら勇者様でも、失礼じゃない!? あたしを誰だと思ってるのよ!?」

 大きな瞳は驚きに見開かれ、声は震えている。

 口答えなんて、殆どされたことないんだろうな。

「知らないわよ。いきなり、こんなトコに連れ込まれて、名乗りもしない失礼な人達に悪口を言われてるだけなんだから。逆にどうして、そっちがあたし達のことを知ってるのか不思議だわ」

 察しは付いてるだろうに、皮肉が上手くなったな、マグナのヤツ。

「まぁ、なんて失礼な方なの!?」

「このエジンベアで、シャーロット王女殿下をご存知ないだなんて!!」

「ご覧になって、あの立ち振る舞い。まるで男の方のようですわ!」

「この方が、本当に勇者様なんですの!?」

「普段から魔物のお相手なんてされている方は、やはり私達とは違いますのね!」

 ご令嬢方は、こんな粗暴な女がこの世に存在するなんて信じられない、と言った様子で、よく爪の磨かれた細い手で小さな口を覆ったりしながら、皆一様に目を丸くしている。

「フ、フン。ロマリアのお話はあたしも聞いているけれど、所詮は庶民の間の流行でしょう? 社交界の流行と一緒にしないで欲しいわ! 勇者様は平民の出だそうだから、お分かりにならないでしょうけど!!」

 気を取り直すように羽根扇子をバサッと開き、王女を名乗る少女は口元を隠しながら、懸命に胸を張ってマグナに蔑む視線を向ける。

 ていうか、ホントに俺達が勇者様御一行だと承知の上で、ちょっかいをかけてきたんだな。

 王様に謁見して帰るところだから、俺達の来訪は先触れで城中しろじゅうの人間が予め知ってても不思議じゃないけどさ。

 ワガママ姫様が、ちょっとした興味本位で侍女に命じて、噂の勇者様を呼びに行かせたってところか。エフィのことも、口さがない侍女連中辺りから話が伝わって、ハナからからかう積もりでいたんだろう。

 でも、気軽に手を出すには、ちっとばかし相手が悪かったな。

 マグナはしれっとした顔で、暴言を吐く。

「うん、全然分かんないわ。社交界に興味も無いし」

 本当は少し興味があるに違いないが、それをおくびにも出さない。

 マグナの言い草に、ご令嬢方がまたざわめいたが、本人はどこ吹く風だ。

「分からないのなら、黙ってなさいよ! あたしは、このエジンベアでその方がこれ以上、恥をかかないようにって親切で忠告してるんだから!」

「そうもいかないわね。あたしは、知り合いが目の前で侮辱されて黙ってられるほど、人間が出来てないのよ」

 俯いていたエフィが顔を上げて、意外そうな眼差しをマグナに向けた。

「また口答えして……勇者だかなんだか知らないけど、平民があまり調子に乗らないでちょうだい!? 不敬罪で牢屋に入れちゃうんだから!!」

 王女はまだ、本当に子供のようだった。

 教育はされているのだろうが、触れてきた世界も価値観も、まだ狭い。

 だが、それで忖度するマグナではなかった。

「どうぞ。囚えられると思ってるなら、好きにしたら?」

「言ったわね……ほら、そこの衛兵!! 早くこいつらを引っ捕らえなさい!!」

 扉の脇に控えていた衛兵達が、困惑した目配せを交わし合う。

 板挟みの立場は大変だな。

「早く!! 言うことを聞かないと、お父様に言いつけるわよっ!?」

 姫殿下に急かされて、まだ俺達の方が話が通じそうだと判断したのか、おそるおそる声をかけてくる。

「勇者様。申し訳ありませんが、此の場は、その、どうか……」

 だが、マグナは歯牙にもかけなかった。

「引っ込んでなさい。そもそも、この子がこんな風に育っちゃったのは、この国の人達が甘やかし続けて言うべき事を言って来なかった結果でしょ? そのツケを、こっちに押し付けないで」

「な、なんですってっ!? あ……あたしにそんな口を利くなんて……どこまで失礼なの、この野蛮人!?」

「どっちが失礼なのよ。人の上に立つ人間なら、もう少し自分を省みなさい。あんたの歳なら、幼さは言い訳にならないわよ。他の王家にはもっと小さい子だっていたけど、あんたほど我儘な甘ったれはいなかったんだから」

「し、信じられない……なんなの、このあたしに、こんな……認めないわ! こんな人が勇者だなんて、あたしは絶対に認めないんだからっ!!」

 王女は手にした羽根扇子を畳んでマグナに突き付けたが、怒りで手ごとブルブルと震えていた。

 一方のマグナは対照的に、薄っすらと人の悪い笑みを浮かべる。

「ふぅん。もしかして、あたしは勇者として相応しくないって言ってるの?」

 マグナのヤツ、意図的に失礼な口を利いてやがるだろ、これ。

 礼には礼で、無礼には無礼で返そうとするのはこいつらしいが、別の魂胆も透けてきた。

「当たり前じゃない!! あんたなんか、全っ然勇者に相応しくないわっ!!」

「そ、そうですわ!」

「こんな礼節も弁えない方が勇者様だなんて!」

わたくし共も、決して認める訳には参りませんわ!」

 令嬢方の、中身の無い追従が続く。

 まさか、これがマグナの思う壺だなんて、健気で憐れな彼女らに気付ける筈もない。

 弾劾された張本人は、ますますにっこりといい笑顔を浮かべて、深く頷いてみせるのだった。

「本当に、仰る通りです。分かりました。王女殿下のお言葉に従います。勇者に相応しくないあたしは、勇者を辞めさせてもらいますね」

「は……え?」

「お父様には、宜しくお伝えください。あ、もちろん、他の王家の人達にもね。あたしはもうあの人達に合わせる顔がないから、くれぐれも宜しく伝えてもらえるように、お願いするわ」

「えっ——えっ!?」

「あー、ホントよかった。自分で断って回る手間が省けたわ。これで結構期待されちゃってるから、いまさら勇者辞めますなんて言うのも気が重かったのよね。でも、エジンベアのお姫様のお墨付きなら、安心して辞められるわ」

 マグナは、わざとらしく伸びなどひとつしてみせる。

「な、なに言ってるのよ!? そんなこと、許される訳がないでしょう!?」

 慌てて言い募る王女に、マグナはいっそ親しみすら感じさせる気安い笑顔を向ける。

「どうして? あなたが許してくれたんじゃない。勇者なんて面倒臭い役目から開放してくれて、本当にありがとう。すごく感謝してるわ」

「えっ……ねぇ、貴女あなた、ほ、本気なの?」

 普通だったら、王女を窘める為に辞めるフリをして見せているってな所なんだろうが、マグナの場合は本気というか、上手くいったらめっけもんくらいには、絶対に思ってるからな。

 それが、声音や態度から伝わるんだろう。

 狼狽える王女に、マグナは苦笑してみせた。

「当たり前じゃない。まさか、あたしが好きで勇者こんなことしてると思ってたの? そんな訳ないでしょ、面倒くさいばっかりで、あたしに得なんて何もないんだから」

「だ、だって、そんな筈ないわ! どのお話でも、勇者様はそんなふざけたこと言わないもの!!」

「そうね。あたしは、物語の勇者様なんかじゃないもの。実際に生きてる、現実の人間だわ」

「だから、なんだって言うのよ!? 意味の分からないこと言わないで!!」

「そうね。あなたには、まだ早かったかもね。でも、あなたに分ってもらわなくたって、あたしは全然困らないのよ。じゃあ、後はよろしくね」

 あっさり背中を向けて、談話室を出ていこうとするマグナ。

 王女は助けを求めるように令嬢方を見回したが、全員視線を逸らせて押し黙ってしまう。

「ま、待ちなさいよ!」

 王女が必死に呼び止めると、意外なことにマグナは歩みを止めた。

「なに? あたしはこの国の人間じゃないから、あんたの命令を聞く義理もないんだけど」

「そっ……だ、だって……こんなの困る……じゃあ、どうしたらいいのよ!!」

 あーあ、混乱し過ぎて泣きそうになってるじゃねぇか。

 周りのご令嬢方もオロオロするばっかりで、自ら率先して取りなそうとする気配など、まるで感じられない。

「この辺りで、許してやったらどうだ?」

 つい、そんな言葉が口から漏れた。

「なによ、許してやれって。あたしが悪者みたいに言わないで」

 ギロリ、と俺を睨みつける目つきの鋭さは、悪役そのものですが。

「私からもお願いします。王女殿下は、まだお若いだけですわ」

 エフィにも言われて、マグナは呆れたように鼻から息を吐いた。

「そういう理由って、あんまり好きじゃないわ。だったら、相応しくない場所に口を出した粗相を、先に叱るべきでしょ。けど、苛められてた本人に言われちゃ、仕方ないわね」

 瞳に薄っすらと涙を浮かべている王女殿下を振り返る。

「少しは分かったでしょ。世の中、あんたの思い通りになることばっかりじゃないのよ」

「な、なによ……偉そうに……」

 睨み返されても、しゃくり上げながらじゃ迫力は半減以下だ。

「ううん、あんたは王女様なんだから、思い通りに行かないことの方が、きっとずっと多いのよ。正直、気の毒だわ」

 マグナの言い草を耳にして、王女の周りのご令嬢方が怪訝な表情を浮かべた。

 そりゃ、普通は王女様なんて、女性の憧れとも言える立場だもんな。

 言うに事欠いて、それを気の毒だなんて、納得できなくても仕方がない。

 ただ一人、当の王女を除いて。

「でも、だからって、周りの人を試すようなことをしなくてもいいのよ。あんたが王女に相応しければ、周りの人もきっとあんたをそういう風に扱うんだから」

「……」

「あんたが抱えてる不安を、誰もまともに取り合ってくれなくて、癇癪を起こしたくなる気持ちも分かるけどね。でも、そこまで他人に求める方が無理なのよ。多分ね。分かってくれる人なんて、ほとんど居ないわ、残念ながら」

「……なら、貴女あなたが話を聞いてよ」

 震える声で懇願する王女を、ご令嬢方が仰天に目を剥いて見詰めた。

 こんな王女の姿を目にしたのは、おそらく初めてなんだろう。

 正直、俺もこの展開には、あんまり付いていけてない。

「あたし? まぁ、時間のある時なら、別にいいけど。だったら、今度一緒にロマリアに買い物にでも行ってみる?」

「え……?」

 まさか、自分の要求が受け入れられるとは思っていなかったのだろう。

 王女はテーブルに落としていた視線を上げて、マグナを見た。

「どうせ、自分で買い物なんてしたことないでしょ? 好きな服を自分で選んだり、美味しいものを食べ歩いたりするのって、結構新鮮で気晴らしになると思うわよ。まぁ、王女様って立場もあるから、お忍びでもそう簡単にはいかないでしょうけど——」

 マグナに皆まで言わせず、王女は食い気味に身を乗り出した。

「お父様にお願いしてみる。貴女が案内してくれるのよね?」

「えぇ、まぁ——時間が合えば」

「きっと、約束よ? その時に、もっとちゃんとお話したいわ」

「構わないわよ。先に一言ひとこと、この人に謝って欲しいけど——って、王女様だから、そういう訳にもいかないのかしら」

「ううん。王女としてでなく、ただのロッテとしてなら平気よ。いじわるしてごめんなさい」

 年相応の喋り方でぺこりと頭を下げる王女の姿を、取り巻きのご令嬢方は信じられないものを見る目つきで凝視し続けるのだった。

「許してもらえるかしら」

「ええ。もちろんです、ロッテ様」

 不安気に問いかけるシャーロットに、エフィは柔らかく微笑み返す。

 良かったな、エフィ——って、なんだかすっかり和解した空気になってるが、どうしてこうなったんだっけ。

 少なくとも、俺はなんにもしてねぇな。

「それじゃ、もしあたしに用ができたら、ロマリアのロムルス陛下に言伝ことづてしてくれる?」

 と、マグナ。

 ロランの扱いの雑さがスゴい。あんなんでも、いちおう大ロマリアの国王陛下ですよ?

 まぁ、あいつにとっちゃ本望だろうけどさ。

「うん! きっとよ!?」

 嬉しそうにマグナに答えるシャーロットに別れを告げて、談話室を後にする。

「——庇っていただいて、ありがとうございました」

 談話室から少し離れた廊下で、エフィがマグナに頭を下げた。

「あたしが勝手に余計な口出ししただけだから、気にしないで。それより、あなたもこの後、ロマリアに寄ってくでしょ?」

「はい?」

「あなたも、買い物とかしてみたいんじゃないかと思ったんだけど。違った?」

 気のない口振りのマグナに、エフィは目を丸くする。

「え——よろしいんですの?」

「よろしいも何もないでしょ。一緒に買い物に行くだけなんだから」

「でも——」

「あそこなら、あたしも少しはお店を知ってるから、それなりに案内できるしね。それに、今日は都合よく荷物持ちも居ることだし」

 ニヤニヤしながら、ちらりと俺を振り返る。

 へいへい。この前、お茶会ごっこで怒らせたばっかりだしな。荷物くらい、大人しく持ちますよ。

 こんなことなら、フゥマも引っ張って来りゃ良かったぜ。謁見なんて堅苦しい行事には興味無さそうだからって、見逃してやるんじゃなかったな。

「行きましょうよ、ユーフィミアさん。色んなお店があって楽しいですよ」

 それまで一歩引いて控えていたシェラも、嬉しそうに同調した。

 その手が、別の小さな手に握られている。

「アタシも、一緒に行っていい……?」

 シェラの顔色を窺いながら、小声で不安そうに問い掛けたのは、リズだった。

 ほら、クラーケン退治を手伝って貰った、七人の魔法使いの一人だよ。

 俺はエジンベアを訪れた事がなかったので、イリアがルーラ要員として手配してくれたのだ。

『エジンベアと言や、リズだろ』

 とか言ってたが、なんでも祖先がエジンベア人らしい。どうでもいいけど。

 相も変わらず髪の毛をいくつも束ねてあちこちに跳ねさせる奇抜な格好をしてるので、謁見のあいだは別室で待って貰っていたのだ。

 さっきの談話室でのやり取りでも、廊下で待ってたみたいだな。

「はい、もちろん。いいですよね、マグナさん」

「ええ。別に構わないわよ」

 姫さんの時もそうだったが、可愛いものが大好きなコイツは、いまはシェラにべったりだ。

「ロマリアなら……アタシも案内できる……」

「へぇ、どっかいいトコ知ってるの? そうね、別の人の視点で選んだ店に行くのも面白そう。リズはセンスも良いし」

 マグナの言葉が信じられず、マジマジと見詰めちまった。

 えぇ〜……こいつ、センスいいの?

 身に着けているのは、なんだかよく分からない絵や文字が全体に描かれたみたいな幾何学模様の変な服だし、背負ってるのはヘタった耳を生やした兎を模したみたいに見える珍妙な背負い袋だぜ。

「……ウチの店にも、案内できる」

 マグナに褒められたからか、いつ見ても無気力なリズにしては珍しく、ムフーとか鼻息を荒くして得意げな顔をした。

「えっ、ロマリアに自分の店を持ってるの!?」

「うん……いま着てるのも、ジツはウチの商品」

「うそっ!? ホントですか!? すごい……ずっと可愛いなって思ってたんです!」

 シェラは握られていない方の手で口元を押さえて、きょろきょろと俺達を見回した。

「えっ、すごくないですか!? お店って、どの辺りなんですか!?」

 マグナとシェラに喰い付かれて、満更でもなさそうにウヘヘとか笑うリズ。

「大通り沿いじゃない……もっと奥まったところ……」

「へ〜、隠れ家的なお店ってわけね。確かに、そういう紹介でしか辿り着けないようなところって、あんまり知らないかも。じゃあ、よかったら、穴場的なトコに色々連れてってよ。もちろん、リズのお店にもね」

「ま、任せて……」

「え~、すごいなぁ〜、自分のお店なんて。どんな感じなんだろ、早く行ってみたいです!」

 嬉しそうに輝くシェラの顔を、可愛いもの好きのリズが腕に絡み付きながら、うっとりと見上げている。

 なにこれ。

「それで、あなたは行くの? 行かないの?」

 ふと思い出したようなマグナの問い掛けに、三人の姦しいやり取りに少々圧倒された面持ちだったエフィは、慌てて頷く。

「は、はい! 行きます!」

 既にその表情は、エジンベアを訪れる前の明るさを取り戻していた。

 ちぇっ、俺が元気づけてやろうと思ってたのにな。形無しだぜ。

リィナあんたも行くのよ。タマには付き合いなさい」

「え~。ロマリア行くなら、ボクは修練場に……」

 何故かリィナがちらりと見上げてきたので、小さく頷いてやる。

「……まぁ、別にいいけど」

 よし、助かった。

 荷物持ちを分担してくれ。

 とは、ヒド過ぎて流石に口に出来なかったが、リィナも分かっているとばかりに苦笑を浮かべていたので、気持ちは同じらしい。

 どの店を回るか楽しそうに話し合う女達の後ろについて、俺とリィナは肩を竦めて並んで歩くのだった。

 こういう息抜きも、偶には必要だよな。

3.

 仮令たとえエジンベア国王と言えども、列強国主の威光を背負った勇者様から、魔王退治の為に必要なのだと要請されては、強硬に突っぱねる訳にもいかない。

 首尾良く『乾きの壺』を手に入れた俺達は——せめてもの嫌がらせのつもりか、試練と称した大岩を使った奇妙なパズルを解かされたりはしたが——ロマリア観光を一緒に楽しんだエフィを実家に送り届けると、早速グリンラッドの好事家を訪ねて『船乗りの骨』と交換した。

 そこから先は、俺の出番だ。

 リィナが怪談噺で耳にしたように、紐に吊るしてみたところ、なんと実際に特定の方向を必ず指し示したのだ。ホネが。

 これは、どういう理屈なんだろう。なんらかの魔法的な仕掛けが施されているのは明らかだが、俺達より上手うわての競争相手が二組もいる以上、残念ながらヴァイエルの元に戻って詳しく調べている時間はなさそうだ。

 ついでにレーベの様子も確認しておきたかったんだが、また今度だな。

 ともあれ、ルーラであちこちに跳んで、ホネが指し示す方向を記録して、マグナが持っている世界地図で照らし合わせてみたところ、いくつかの線が重なる地域を特定できそうだった。

 ロマリアとイシスに挟まれた内海だ。

 先行してポルトガまでマグナ所有の船を戻しておいたのは、結果的に大正解だったな。

 ちょうど数日前に入港したばかりのマグナの船で、そのまま内海へと出帆する。

 各国から派遣されていたお目付役連中が、入れ違いで既に自国への帰途についていたのは運が良かった。

 ただし、身の振り方を決めかねて、港でグズグズしていたノルブとジミーのダーマ勢には捕まっちまったが。

「こうして再びまみえましたるは、まさしくルビス様のお導きでありましょう」

 遥か異郷で放り出されて、どうせ途方に暮れていた癖に、ノルブが偉そうな態度を崩さないのは流石だった。

 リィナはさぞかし渋い顔をしたかっただろうが、「お会いしたかったです!」とか子犬くんに嬉しそうに纏わりつかれては、そうもいかない様子だ。

「どうしてもって言うなら付いてきて構わないけど、そっちの面倒までは見ないわよ。自分の事は、自分達でなんとかしなさい」

 リィナの立場を慮ってか、マグナは驚くほどノルブに譲歩してみせた。

「無論です。むしろ儂らは、勇者様のお役に立つ為におるのです。如何様なご用でも、なんなりとお申し付けくだされ」

「必要だったら、そうするわ」

 つれない返事に気を悪くした風もなく、ノルブはまるで正式な勇者様御一行であると認められたかの如き我が物顔で、船内では振る舞うのだった。

 おそろしく面の皮が厚いというか、このくらいでないと組織の中で出世なんて出来ないのかも知れない。と、ある意味で感心させられる。

 ジミーは相変わらず、俺を敵視していた。顔を合わせるたびに睨みつけてくるので始末に悪い。

 おまけに、こっちが頼んで連れてきたフゥマにまで噛み付くのだった。

「リィナさん、こんなヤツと稽古をしてはいけませんよ。ダーマの拳は門外不出。僕らの技を盗もうとしているに決まってます」

「え、門外不出だったの? でも、そしたら人前で戦えないじゃん」

「いえ、あの、門外不出というくらい、大切なものという意味で……」

 なんだよ、勝手に言ってるだけかよ。

 対するフゥマはどこ吹く風というか、ジミーは眼中にない様子だった。

 あれで、ダーマの戦士だからな。それなりに腕が立つとは聞いてるし、試しとばかりにフゥマの方から仕掛けてもおかしくなさそうだが、そんな気配は微塵もない。

「ん〜? いや、なーんか違ぇんだよなぁ、あのガキ。別に弱かないだろうけど、まるきしソソられねぇってかさ」

 さっぱり興味無さそうに、そんなことを言う。

 拳で語る人種にも、好みってのがあるらしい。

「ジミーくんはねぇ……タマに、ちょっと怖いんだよ」

 リィナはリィナで、そんな感想を口するのだった。

「そんなにしつこく付き纏われてるのか?」

「う~ん、そういうんじゃないんだけどね。普段は普通に可愛いんだけど……どう言えばいいんだろ。思い込みが激しいところがあるっていうか、そんな感じかなぁ」

 敵視されている俺としては、どんなヤツだか気にならなくもないんだが、どいつに聞いても掴みどころのない話しか返ってこない。

 まぁ、実際は、そこまで気にしてる訳でもないんだけどさ。

 船の上ではまるで女王然と振る舞うマグナに妙に納得させられたりしつつ——どっちかというと、船員達が必要以上に持ち上げているように見えたが——ときおり昏い顔を覗かせるシェラの様子の方が、俺には気に掛かっていた。

 もちろん、シェラを気にする事にかけては、俺以上のヤツがいた訳で。

 ある日、フゥマが船員の一人を突然殴り飛ばしたという騒ぎが、俺の耳に飛び込んできた。

 最初はてっきり、無理矢理手合わせでもして力加減を間違えたのかと思ったんだが。

「私がその人を避けていた事に、気付かれちゃったんです」

 よくよく聞いてみると、予想より遥かに胸糞悪い話だった。

 フゥマがブチのめしたという船員に、以前シェラが襲われかけたというのだ。

「マグナさんには、言わないでくださいね」

 事情を説明された後、シェラに努めてなんでもない口調で頼まれて、俺は眉を顰めざるを得なかった。

「……そういう遠慮は、もうしねぇって約束した筈だろ」

 また、悪い癖が出てるぞ。

 俺の一言で、取り繕っていたシェラの表情が剥がれ落ちる。

 脳裏に蘇るは、アッサラームの手前で盗賊団に襲われた夜の情景。

「だって……あの頃とは、事情が違うじゃないですか」

「違わねぇよ」

 言下に切り捨てると、シェラは言葉に詰まる。

「けど、ごめんな。お前が昔みたいに振る舞わなきゃ、やっていけなかった原因は、俺にあるよな」

 シェラに面倒事を全て押し付けて逃げたようなモンだからな。

「そんなこと……ないですけど」

「まぁ、昔みたいに信用してくれなんて、都合の良いこた言えねぇけどさ。ここしばらくで、シェラが背負わされてた厄介事の面倒を、俺にも分けてくれよ」

 じゃなきゃ、なんの為に戻ってきたんだか、分かりゃしねぇからな。

 あれ、なんとも答えないで俯いちまった、シェラのヤツ。

 やっぱり、手前勝手な寝言をほざいてるようにしか聞こえないかね。

「ていうかさ、シェラ。お前、もっと自分の魅力を、ちゃんと認識した方がいいぞ?」

 聞く耳持たれなくても、これだけは言っておかねぇと。

 いや、改めて注意しようとは、前から思ってたんだよ。

「はい?」

 なんで、そんなに不思議そうな顔するんだよ。

 ホントに分かってねぇんだな。

「自分が物凄く可愛いって事実を、もっと自覚しろっつってんの」

「また、そんな……気を遣ってもらわなくても、大丈夫ですよ」

 右手で左腕を掴みながら、再び視線を落とすシェラ。

「だから、そうじゃねぇんだって」

 俺は首筋を掻きながら、なんと言ったものかと頭を悩ませる。

 いい加減、自己評価の低さに周りを付き合わせんなよ——これって、グレースに俺が言われた内容まんまだな。

 そう、本人には、なかなか信じ切れないんだよ。

 だから、飲み込むまで言ってやらねぇと。

「マジで最近、謎に色気とかあってヤバいからな、お前? あの船員じゃなくても襲いたくなるぐらい魅力的なんだから、ちゃんと気をつけろっつってんの。いや、実際に襲うバカは論外だけどさ」

「私だって、いちおう気を付けてたつもりだったんですけど……」

 あれ、なにやら不満気な口振りだな。

「だったら、全然足りなかったってことだな」

「そんな……それに、私のことを知ったら、どうせ相手にされなくなりますから」

「ンなことねぇって。実際、そうじゃねぇヤツが、お前のすぐ側に居るだろうがよ」

「……でも、怒らせちゃいましたから」

 うん。いま、フゥマが恐ろしく不機嫌なのは知ってるよ。

「だからさ、自分なんかどうなってもいいみたいな、そういう捨て鉢っぽい態度がよくないんだって。強引に迫ればどうにでもなりそうに思えちまうんだよ、男から見ると」

 いまひとつピンと来ていない困惑顔で、シェラは首を傾げた。

「そんなこと言われても……じゃあ、やっぱり、私が悪かったんでしょうか」

「いや、悪くねぇよ。別にお前が間違ってるとか、そういうことを言ってるんじゃねぇんだ。ただ単に、心配になるんだって」

 お前には、あんまり上手く伝わってないみたいだけど。

「フゥマのヤツがあんなに怒ってるのも、シェラのそういうトコじゃねぇのか?」

「よく、分かりません……そういう理由、なんですか?」

 シェラが声を震わせる。

「すごく……怒らせちゃったんです。いま、ほとんど口も利いてくれなくて……すっかり呆れて、私のことなんて、もうどうでも良くなっちゃったのかも知れないです……」

「ンなことねぇから」

 マジで。

「そんな風に言ってやるなよ。そんくらいで見限るようなヤツだと思われてるなんて知ったら、きっと落ち込むぜ、あいつ」

 あーくそ、自分の言葉が、すげぇ身につまされるんですけど。

 シェラが自信を持てない気持ちは、俺にも痛いほどよく分かる。

 だが、自己評価はさておき、そろそろシェラには客観的な評価を、もう少し正確に認識してもらわないとダメだろ。じゃねぇと、俺の場合と違って、実際に身に危険が及ぶからな。

「あいつの為にも、もっと自分を大事にしてやれよ。俺の為にも、頼むよ。マグナも、リィナもだ。一番は、もちろん自分の為だけどさ」

「……はい」

 戦闘中にロクに呪文も唱えられなかった昔と違って、最近は色んな場面で実際に役に立ってる筈なのにな。

 普段のいかにも有能な立ち振る舞いは、あくまでよそ行きのお仕着せで、シェラというひとりの人間は、いまだに自信を持ち切れないままなんだろう。

 そうだよな。人の根っ子なんて、そう簡単に変わらないよな。

 でも、まるきり変わってないと言い切れるほど、変わってない訳でもなくて。

 だから、このままゆっくりでいいから、いい方向に変わってくれればと思っちゃいるが。

 今回の件は、さすがにそこまで悠長なことも言っていられない。

 結局、シェラに不埒を働こうとした例の船員は、マグナの判断で船倉に閉じ込めた上で、今回の航海が終わり次第、ポルトガに返されることになった。口には出さなかったが、自分の船でこんな問題が発生した事に対して、マグナには思うところがあったに違いないので、これでもひどく穏便な処分だっただろう。

 といった具合に、全く波風が立たなかった訳じゃないが、幸いにして天候には恵まれ、俺達を乗せた船は『船乗りの骨』が示す先を目指して航海を続けた。

 そして、ポルトガを出港して半月ほど経った頃だろうか。

 それまで、雲ひとつ無い晴天の元を順風を背に進んでいた船が、いつの間にやら十歩先も見通せないような深い霧に包まれたのだ。

 あまりに唐突な気象の変化に、船員達がざわめく。

「ゆ、幽霊船だぁっ!!」

 霧の中から聞こえた叫び声の方を向くと、こちらの船よりも遥かに巨大な何かが、視界を覆う微細な水滴の膜に影を落としていた。

 なんだ、こりゃ。

 こんな馬鹿げた図体をした巨船が、一体どっから出てきやがった。

 意味が分からん。

 ほとんど前触れもなく——

 つか、マジで『船乗りの骨』が指す先に居やがったよ。

 いや、いまさら何言ってんだって話だけどさ。

 なにしろ、見るも無残なボロボロの帆を朽ちかけのマストに絡みつかせた、絵に描いたように不気味な幽霊船なのだ。なにか超常的な、それこそ呪いのような力で『船乗りの骨』を引き寄せたのだと言われたら信じたくもなっちまうが。

 俺は、そのようには考えていなかった。

 ここまで、道具立てが揃ってるんだ。さては、この船——

「おっし! そんじゃ、乗り込もうぜ!」

 殆どぶつかりそうな程、間近に迫った幽霊船の威容を見上げながら、フゥマが右拳で左掌を打った。

 なにバカみたいに明るい声を出してんだ。お前はもうちょい、気味悪がってもいいんだぞ。

 そのフゥマが着ている黒っぽい道着が、新しくなっていた。ジツは、言われるまで気付いてなかったんだが、なんでも俺達がエジンベアを訪れていた最中に、にやけ面がエフィの故郷まで来て置いていったらしい。

『なんか、これ着て、後で感想聞かせろって言われててよ。よく分かんねーけど、防御力とか上がってるらしいぜ』

 とか大雑把なことをほざいていたので、試用でもさせられているんだろう。言われてみれば、確かに前に着ていた道着より、しっかりとした厚手の布が使われているようだ。

 にやけ面の野郎、只じゃ貸し出さない辺りは、ちゃっかりしてやがるぜ。

「向こうの方が、ずいぶん背が高いねぇ」

 こちらは以前と変わらぬ道着姿のリィナが、右手で目の上にひさしを作って幽霊船を仰ぎ見る。

「シェラちゃんとヴァイスくん用に、梯子かなんか掛けてあげた方がいいかも——」

「要らねぇよ、ンなモン! シェラさん、軽ぃんだから」

 言うが早いが、フゥマはお姫様だっこでシェラを持ち上げた。

「きゃっ——えっ!?」

「しっかり掴まって。行くぜッ!!」

「うそっ——まっ——い、きゃああぁぁぁっ!!」

 シェラを抱えたまま助走をつけて幽霊船の舷側に跳んだフゥマは、何度か壁を蹴って甲板まで登り切る。

 あの野郎、役得だな。シェラにしがみつかれたかっただけだろ、お前。

 折角あれから仲直り出来たっぽいのに、シェラにぽかすか叩かれながら怒られてやんの——くそ、仲良いじゃねぇか。

「ヴァイスくんも、抱っこして運んであげよっか?」

 船べりにぴょんと跳び乗って、リィナはにへらっと笑う。

「勘弁してくれ。後からのんびり行くから、お先にどうぞ」

「遠慮しなくていいのにぃ~。マグナは?」

 どうするの? と目で問いかけられて、マグナは肩を竦めた。

「あんた達じゃあるまいし、そんなピョンピョン跳んでいける訳ないでしょ」

「そっか。そんじゃ、おっさき~」

 こちらを向いたまま船べりでぐっと身を沈めたリィナは、助走すらつけずに後ろに跳ぶと、自分の身長の倍以上もあろうかという距離を躰を捻りながら一息に跳び越え、二、三度足を掛けただけで幽霊船の側面を登り切った。

 もはや身軽とかそういう表現じゃ、とてものこと追いつかない。

「それでは、ノルブ様。行ってまいります」

「うむ。しっかりと務めるがいい」

 背後でそんな会話が聞こえたと思ったら、俺のすぐ横を風を巻き起こして何かが駆け抜けた。

 ジミーだ。

 え、お前まで跳び移るの?

 船べりで思いっ切り踏み切ったジミーの爪先は、どうにか幽霊船の舷側に届いていた。

 だが、フゥマやリィナと違って、二、三度壁を蹴ったくらいじゃ、まるで上まで到達しない。

 あれ、これ落ちるんじゃねぇの。

 そもそも、腰に剣も吊るしてるんだから、お前はフゥマやリィナと同じ事しちゃ駄目だろ。

 だが、上昇から下降に転じかけたその瞬間、ジミーの手をリィナが握っていた。

「なんでキミは、自分に出来ないことまで真似しようとするかな」

「ありがとうございます、リィナさん! お手を煩わせてすみません!」

 引っ張り上げながらリィナは呆れてみせたが、あっけらかんと嬉しそうなジミーの声音は、反省したようには聞こえなかった。

 なんだろう。

 単なる能天気と評するには、レベルが何段か違う気がした。

 行動の結果を想像する能力に、全く欠けてるのか?

 悪い意味で、見ていて不安になる。

 誰に聞いても、奥歯に物が挟まったような人物評しか返ってこなかった理由が、少し分かった気がした。

「船長、向こうにロープを渡して、その上に梯子をかけてくれる? リィナ! ロープをそっちに投げるから、どっかに結んで!」

「へい、すぐに準備しやす!」

「はいよ~」

 マグナが指示を与えるのを聞きながら、俺はこれから自分が強制されるであろう曲芸まがいの行為を思い、陰鬱な気分に包まれていた。

 綱渡りなんて、およそ魔法使いのやることじゃねぇぜ。

 どこぞの本物の魔法使いには、貴様にお似合いの大道芸だとか陰気に笑われそうだけどさ。

4.

 結論から言うと、俺は奇跡的に、生きたまま幽霊船の甲板まで辿り着くことが出来た。

 渡っている最中は、正直、この世に生まれたことを後悔するくらい、滅茶苦茶怖かった。

 マグナの船と幽霊船の間にロープを張って梯子を渡しただけだから、すんげー揺れるし、遥か下の海面まで丸見えだし、俺だけ残るって何度言いかけたか知れない——というか、実際に何度も喚き散らした。その度に、マグナに秒で却下されたけど。

 幽霊船の甲板に辿り着いた頃には、最早疲労困憊で、すっかりひと仕事終えた感に肩まで浸かりながらへたり込んでいたんだが。

「それじゃ、行きましょうか。ほら、どっちに行けばいいのよ、ヴァイス」

 マグナの無慈悲な号令で、しょうことなしに腰を上げる。

 だって、呆れ果てたことに、こいつは立って梯子の上を歩いて渡ったんだぜ?

 なのに、俺だけいつまでも情けなく腰抜かしてらんねぇっていうか、どういう度胸してんだよ、マジで。

 俺? 俺はもちろん、四つん這いで死ぬほど時間を掛けて渡ったっての。どうして自在に宙に浮く魔法くらい、冒険者の為に用意しとかねぇんだよ、魔法使いヴァイエル共はよ。ホント、役に立たねぇヤツらだぜ。

 唯一、俺の気持ちを理解してくれそうなシェラを見ると、気の毒そうな微笑みを返された。

 お前は、フゥマに連れてきてもらって正解だったよ。自力じゃ絶対、無理だったと思うぜ。

「ヴァイス! 何やってんのよ! さっさとしなさいよ!」

 分かってるよ、うっせぇな。

 春先だってのに不自然にひんやりとした気味の悪い空気だとか、そこかしこに転がってる髑髏しゃれこうべだとかに怖がってみせろよ、お前マグナは少しはよ。

 マグナに急かされて、俺は腰のフクロから『船乗りの骨』を取り出して、括り付けたあった紐の端を摘んで垂らした。

 骨の先が、斜め下を指す。

「船倉かどっかを指してんのか?」

 誰にともなく呟くと、リィナが小首を傾げる。

「ていうか、何を見つければいいんだっけ?」

 うん、それだ。

「そりゃ……オリビアとエリックの思い出の品とか?」

 ジツは、よく分かってねぇんだよな。

 オリビアの呪いの噂から連想しただけの『船乗りの骨』が、当初の予想を超えて正解っぽかったから、それが指し示す方に来ちまっただけで。

 だって、他に手掛かりなんて無かったんだから、仕方ねぇだろうがよ。

「頼りないわね、こんなトコまで連れて来といて」

 マグナに文句を言われたが、別に俺の一存で決めた訳じゃないんですがねぇ。

 いまさらツベコベ言ってんじゃねーよ、と言い返してやりたいが、文句を言われるのが今の俺の仕事みたいなトコもあるからな。

「とにかく、下に降りてみようぜ。俺の考えが合ってりゃ、どうにかなる筈だから」

「どうにかって、どうなるのよ」

「まだ分かんね」

「何よ、それ。また、いい加減なこと言ってるんじゃないでしょうね?」

 だから、うるせぇな。

 こんだけ材料が揃ってんだ、何者の意思も介在してない訳が無ぇだろうが。

「いいから、行くぞ」

「……偉そうに」

 ブツクサ言うマグナは放っておいて、俺は向こうに見えるキャビンの入り口へと歩き出す。

「なんか懐かしいね、この感じ」

 後ろではリィナが、呑気なことをほざいていた。

「あ、分かります。私も、同じこと思ってました。なんだか嬉しいですよね」

 シェラまで、そんな事を言う。

 俺がマグナに文句を言われてる姿が、見ててそんなに落ち着きますかね。

「お二人とも、不謹慎ですよ。これは人々を苦しめている魔王の討伐に繋がる大事な使命なんですから、もっと真面目に取り組んでください!」

 生真面目に二人を諌めたのは、ジミーだった。

「ごめんごめん」

「そうですね。すみません」

 慣れた調子の謝り方が、いつも小言を繰り返されている関係性を窺わせる。

 煙たがられても、自分じゃ気付かないタイプだな、ありゃ。

「別にちょっとくらい良いんじゃねぇの。いちいちそんな堅っ苦しく考えてたら、疲れちまうよ」

「お前が言うな! 僕はまだ、お前を認めた訳じゃないぞ!」

 キャンキャン吠えんなよ、耳に来るから。

「黙りなさい、ジミー」

 意外な方向から、俺を擁護する声が聞こえた。

 マグナだ。

「これだけは言っておくけど、ヴァイスはあたしが選んだ正式な同行者パーティメンバーよ。それに文句があるなら、向こうで待ってなさい。そもそも、付いて来いともなんとも言ってないんだから、あなたには」

 冷淡に告げて、元居た船を指し示す。

 まさかジミーは、俺を庇うような発言をマグナにされるとは思っていなかっただろう。

 マグナからぞんざいな扱いを受けている俺の姿しか、ここまで目にしてないからな。

 何を言われているのか理解できないようにポカンとしたジミーは、不思議そうな表情のまま棒読みで詫び言を口にする。

「申し訳ありません、勇者様」

「分かればいいわ。それじゃ、行くわよ」

 全然分かっていなさそうな声音だったが、マグナもそれは承知の上といった態度だった。

 それにしても、いつも勝手に付いて来ておいて、自分がここに居るのはさも当然みたいな顔して振る舞っているのだとしたら。

 ノルブもそうだが、心臓に毛が生え過ぎてるんじゃねぇの。

5.

「なんだよ、殴れるヤツも居るじゃんか! 幽霊みたいにスカスカしたのばっか出てきたらどうしようかと思ったぜ!」

 この先の段取りを話し合ってる間は、どーでもよさそうな顔を隠さなかったフゥマが、いまは嬉々として骸骨の魔物を殴り付けている。

 俺には幽霊も動く骸骨も大して変わらないように思えるんだが、コイツにとっては殴れるかどうかが重要なんだろう。

 つか、お前さ。その骸骨共が、この船の乗組員の成れの果てだったらどうしようとか、そういう情緒的な心配は一切しないのな。

 まぁ、俺がこれまでに魔法協会やなんかで触れてきた研究成果からすると、多分、死んだ人間が魔物化することは無いと思うんだけどさ。魔物ってのは、おそらく、そういうモノじゃない。

「ゲッ。よく見たら、あの腐った毒のヤツまでいるじゃんか」

「いや、この人は毒持ってないんじゃなかったかな? だから、叩いてもだいじょぶだよ、知らないけど」

 曖昧で頼りないことを口にしながら、リィナが腐った屍体を蹴り倒す。

 あっちは、フゥマとリィナに任しときゃ、問題無さそうだな。

 それより——

「ヴァイスさん。此処ここ、なんだかおかしくありませんか?」

「ああ。明らかにな」

 不審げなシェラの問いかけに頷いてみせる。

 キャビンから階段を降りた先の船内が、不自然に広すぎた。

 外から眺めた時も、マグナ所有の大型帆船よりさらに二回りくらいは大きく見えたが、それにしたって広過ぎる。

 船内だというのに、何故か靄に覆われた見通しの悪い船倉を進んでも、ちっとも端に辿り着かないのだ。

 これじゃ、まるで魔法使い共の小部屋だぜ——

 待て。まさか、そうなのか?

 集中する為に口元を手で覆い、試しに呼びかけてみる。

『おい、この船って、誰か魔法使いの棲家だったりするか? 俺は、ヴァイエルんトコのヴァイスってモンだけどよ』

 だが、反応は無かった。

 くそ。絶対、誰かしら魔法使いが関わってやがると思うんだが。俺如きが呼び掛けても、応答してくれねぇか。

 考えていた内容を告げると、マグナも気のない素振りで頷いた。

「確かに、魔法使いでも関わってないと、こんな変な幽霊船の存在なんて説明つかないわね」

 なにしろ、出現の直前まで雲ひとつ無い晴天だったからな。アレの受け売りそのままの言い回しで恥ずかしいんだが、別位相から霧を伴って出現したとでも考えないと、帳尻が合わない。

 などと当てずっぽうな推論した事を野郎に知られようものなら、絶対に『その理解は間違っている』と苦虫を噛み潰されるに違いないが。

 それにしても、サマンオサでのバスケスとのやり取りでも感じたが、マグナも随分と魔法使い共の扱いに慣れてきたと見える。勇者として活動をはじめてからは、連中と接する機会も多かっただろうしな。

「あれ、ジミーくんは?」

 ふと見ると、周囲にいた魔物は全て斃されており、リィナがキョロキョロと辺りを見回していた。

「そういえば、いませんね」

 と、シェラ。

「まだ上に居るんじゃない? あの子なら、勝手に追いついてくるでしょ。それより、ヴァイス。さっさと道案内して」

 マグナの口振りは、冷たく切り捨てるというよりは、心配する必要を感じていないといった風情だった。

 その上、リィナはまだしも、シェラまでさして案じる様子がない。

 へぇ。そこまで腕が立つのか、あの子犬くん。人は見かけによらねぇな。

 ともあれ、マグナの言う通り、さっさとお宝を頂戴してズラかるに限る——

「ぁあン?」

「んん〜?」

 フゥマとリィナが、同時に天井を仰ぎ見て奇声を発した。

 今度はなんだ。

「誰か、上の甲板に跳んで来たっぽい?」

 尋ねるような視線が集まる中、辛うじて疑念を口にしてくれたのはリィナだった。

 フゥマなんて、放っておいたら何も言わねぇからな、コイツ。

「跳んで来たって……まさか、ルーラでか!?」

「うん。だと思うけど。いきなり出てきたから」

 我知らず、俺はフゥマを睨みつけていた。

 だが、ルーラのマーカーも遠話装置も、両方とも取り上げて俺のフクロの中にしまってある。

 外界から隔絶されたフクロの中の空間にる限り、どちらも機能しないことは実験済みだ。

 なら、まさかシェラが渡された遠話装置か——いや、あれもフクロの中だな。

 つまり、にやけ面にしろ誰にしろ、ルーラでこの幽霊船に跳んで来たのだとしたら、それを可能にした理由は別にある。

 それは、なんだ?

 ちっ、フゥマのアホが。いつもながらに、俺は関係ねーけど、みたいなお気楽な面をブラ下げやがって。

 だが、こいつが何も知らないのは事実だろう。

 知った上で嘘を吐いて俺達を騙せるほど、器用なヤツじゃない。

「あ」

 はたと思いついて、思わずフゥマの方に手を伸ばしかける。

 まさか、こいつの新しい道着か?

 マーカーの核自体は、そんなに大きいモンじゃない。平べったく成形できるのだとすれば、裏地にでも縫い付けられたら、見ただけじゃ分かんねぇぞ。

 後で確かめて——いや、既に後手だ。理由探しをするには遅すぎる。

「どうしたの?」

 内心が顔に出ちまったのか、リィナの気遣う声が聞こえた。

 くそっ、やられた。

 甲板に跳んで来た連中は、どうせにやけ面共だろ。

 あの野郎、俺を使いやがったな!?

 きっと連中は、いまに至るまで幽霊船の位置を特定できていなかったんだ。

 だから、高級キノコを探す豚よろしく、俺に引き綱つけて探させやがった——迂闊にも、独自に情報を掴んでるようなことを匂わせちまったからな——いや、違う。俺はなんも言わなかったのに、あいつが勝手に察しやがったんだよ。

 というか、おそらく俺は保険の一種だ。にやけ面は幽霊船の探索に方々手を尽くしたに違いない。その方々の内のひとつが、俺だっただけの話だろう。

 道理で、フゥマをあっさり貸してくれた訳だよ。

 畜生、なんて嫌なヤツだ、にやけ面。

 してやられたなんてモンじゃない。対等に渡り合えていると勘違いしていた過去の自分をぶん殴りてぇよ。

「だいじょぶ、ヴァイスくん?」

「……跳んで来たのは、多分、にやけ面共だ」

「お、マジかよ。誰が来てんだ?」

「あのロンとかいう人がいたら、ボクが貰うから」

「あぁン? いくら姐さんの頼みでも、そりゃ譲れねぇな。アイツとやり合うのは、このオレ様だっての!」

「キミの事は、きっとココちゃんが逃してくれないと思うよ」

 そんな会話が、右から左に耳を通り抜けていく。

 悪ぃけど、お前らのお気楽な希望を叶えてる場合じゃねぇんだわ。

「どっちも、今回は諦めろ。連中と鉢合わせる前に、お宝かっさらってトンズラすんぞ」

「えー。だいじょぶだよ、そんな急がなくても。もし追いつかれちゃっても、ちゃんとすぐ終わらせるから」

「そうだぜ。アイツラとヤリ合えるっつーから付いて来てやったのに、逃げるとか冗談だろ。つまんねーよ、そンなん。つか、オレ様、あんたの言うこと聞く義理ねンだけど」

 黙れよ。

 彼奴等あいつらとやり合ったって、こっちにゃなんも得が無いだろうが。

 いいから、たまには大人しく言うこと聞いてくれよ。

「あたしは、ヴァイスに賛成。わざわざやり合う必要が、どこにあるのよ」

 擁護の声は、またしても意外なところから聞こえた。

 おお、マグナ。分かってるじゃん。

「そうですよ。それに、フゥマさんは、私を護る為に来てくれたって言ってたじゃないですか。それなのに、あの人達と手合わせするのが目的って……私に言ってくれたのは、嘘だったんですか?」

 シェラが問い詰めると、フゥマは視線を泳がせる。

「い、いや、嘘じゃないスよ。ただ、まぁ、途中であいつらとヤリ合えるかなって思っただけで」

「戦いを避けられるなら、それが一番安全じゃないですか」

「そりゃ、そうですけど……」

 シェラは冗談めかして自分の意見を通せるようになっているし、対するフゥマも不満を素直におもてに表すことができるようになっている。

 えー、なんか、どんどん気心が知れてるみたいな関係性を見せつけられるの、すごい複雑なんですけど。

 とか喋っている間にも、俺は『船乗りの骨』を手に足を動かし続けており、フゥマやリィナも渋々ながらについて来てくれている。

 そうして、歩くことしばし。

「ヴァイスくん——!!」

 急に手を後ろに引かれて、俺は危うく転びかけた。

「うぉっ!? なにすん——っ!」

 文句を口にする途中で気付く。

 靄がかって見通しの悪い通路の先に、黒い影が幾つか見えたのだ。

 間を置かずに耳に届く、鋭い擦過音。

「おらァッ!!」

 後ろにたたらを踏んだ俺と入れ替わりに前に出たフゥマが、殴り付けた床板を引っ剥がして掲げると、木材を断つ小気味の良い音と共に下半分が足元に落ちる。

 って、ちょっと待て。

 いまの技は——

「よっとぉっ」

 リィナが高々と振り上げた足を、気の抜けた掛け声と共に振り下ろすと、その踵には短刀を手にした黒尽くめの人影が踏み付けられていた。

 まるで理解が追いつかないが、壁だか天井だかを蹴って身軽に急襲した黒衣の影を、リィナが迎撃したらしい。

 つか、この黒尽くめって、やっぱりジパングで見かけたヤツの同類だよな?

 てことは——

「ふぅん。短距離強制転移——いや、複合位相転換か。こちらが仕掛ける前に発動されたのが気に喰わないが、マァ、いいサ。誰の支配下だか知らないけど、この僕を不用意に懐に招き入れたことを後悔させてやろう」

 不安の的中を告げる、この声は。

「あ、ギア様だ」

 ついこの前、顔を合わせたばかりのリィナが、呑気らしくその名を呼んだ。

 そうなのだ。靄の向こうに居並ぶは、ギアの一味だ。

 てっきり、登場するのはにやけ面共かと思ってたのに——なんで、こいつらがここに居るんだ!?

「ヤァヤァ、元気だったかい、端役の羽虫クン。君がブンブンうろちょろと飛び回ってくれたお陰で、まんまとここまで辿り着けたよ。あの忌々しい勘違い馬鹿を出し抜いてね。鬱陶しいだけで無益な小虫でも、僕が使ってやれば少しは役に立つことが証明されたのは喜ばしいね」

 靄のカーテンを搔き分けて前に進み出た小柄な影は、愛くるしい顔立ちに不釣り合いな大人びた笑みを浮かべて、いつもの憎まれ口を叩いた。

「お褒めに預かり光栄だよ。ご褒美に、回れ右して帰ってくんねぇかな」

「とは、随分とまた高望みをするじゃないか。分を弁えない欲望は身を滅ぼすよ。この僕のようにね——君の延命を延長してあげるから、それで我慢し給え。というか、『なんでお前らがここに!?』だとか、端役らしく周章狼狽して喚き散らしていいんだよ?」

「わざわざ俺から確かめなくても、いまアンタがご丁寧に匂わせてくれたじゃねぇか。それで十分だよ」

「ヘェ。その程度の事は分かるのか。小賢しいね」

 いや、心の中では『なんで、こいつらがここに!?』とか、喚いてましたけどね。

「なに? どういう事なの、この変な顔触れは」

 ここで、マグナが割って入った。

 靄越しに顔が判別出来る程度の距離を置いて、俺達は相対している。

 リィナに踏み付けられている黒装束を除いて、マグナも向こうの全員と面識はある筈だ。

「特に貴方あなたなんて、ダーマの魔法使いでしょ?」

「……お久し振りです、勇者様」

 ギアの斜め後ろで、グエンが表情を隠すように頭を下げた。

「ティミも、そんなトコで何やってんの?」

 率直なリィナの問い掛けに、名指しされたティミは大いに慌ててみせる。

「う、うるさいね! ウチにだって、色々と事情があるんだよ!!」

「その人達の手伝いするのが、グエンを連れ戻す条件とか?」

「——っ!! アンタいっつも、ほんっとズケズケとムカつくんだよっ!!」

 どうやら図星らしい。分かり易すぎるだろ。

「うん、リィナにムカつく気持ちは、良く分かるわ。貴女ティミに事情がありそうなのもね」

 マグナの口振りには、ひどく実感が篭もっていた。

「えー。ボクにムカつく気持ちは分かって欲しくないんだけど」

「それじゃ今回、貴女ティミはあたしに敵対するって事で、いいのね?」

 リィナの反論を一切無視しつつ、何気なくそう口にして、マグナは腰の剣に軽く手を掛けた。

 そろり、と殺気を発する。

 その瞬間、リィナに踏みつけられたままの黒尽くめがビクリと身を震わせ、フゥマとチョンマゲ頭が素早く腰を落として身構えた。

 特にフゥマは、ちょっと唖然としてマグナを凝視している。お前は、最近のマグナの本気を見てないもんな。

「——申し訳ありません、勇——マグナ様」

 ティミの顔面は、そのまま死んじまうんじゃないかってくらい、真っ蒼だった。

「謝らなくていいわ。あなたが自分で決めた事なんでしょ? それに、様づけで名前を呼ぶのは止めてよ」

 短い苦笑に、ティミは一瞬だけ縋るような表情を覗かせる。

 だが、そんな甘えを一切許す気が無いマグナの瞳と出会って、さらなる絶望に表情を塗り潰すのだった。

 それでも、前言を翻したり、言い訳をしない辺りは、流石だな。

「成程ナルホド。先日の邂逅ではあまりに刹那で分からなかったが、確かに面影がある。懐かしいね」

 一方のギアは、興味深そうに覗き込むようにしてマグナを眺めていた。

「これは嬉しい誤算だな。このまま成長するのなら、方向性のひとつとして残しておいても良さそうじゃないか」

「だから、あんたは誰なのよ」

 対するマグナは、若干の苛つきを顔に浮かべて続ける。

「リィナはギアって呼んでたっけ? まさか、ダーマで聞かされた伝説の四人の一人じゃないでしょうね」

「ホゥ。まさか、君のような年若い子がご存知とは。尤も、伝説を冠するべき存在は、もっと別に居るけどね」

「自分こそ子供みたいな見た目しといて、何言ってんのよ。ていうか、ホントにそうなの?」

 マグナは、リィナを振り返る。

「だったら、なんであたしに敵対するような行動を取ってるのよ。あのニックってのといい、あんたのトコって、ホントどうなってんの?」

「いや~、それはボクに言われても。なんか、みんなダーマとは縁を切ったみたいな?」

「僕は元々、あの穴ぐらには恨みしかないからね」

 マグナは、小さく溜息を吐いた。

 面倒臭さが勝った時に吐くヤツだ。

「……ま、別になんでもいいわ。あんた達の事情なんて、どうだっていいもの。とにかく、あんたはあたし達の邪魔をする為に、いま立ち塞がってるのね?」

「結果的には、そうなるかな。君等が求めるものが、僕等と同じく『愛の思い出』である限りは」

「あいのおもいで」

 耳慣れない異郷の言葉を聞いたように、マグナは復唱した。

「あたし達が探してるのって、そんな名前だったの?」

 今度は、こっちを振り返る。

 いや、俺も初耳ですがね。

「呼び方までは俺も知らなかったけど、要するにオリビアの呪いを解く何かだろ?」

 ギアに視線を向けると、失笑を返された。

「君という愚物は、本当に眼の前に在る枝葉の事しか分からないんだナァ。全く、どういう壊滅的な知性なんだい? 流石の僕も、気の毒に思えてきたよ。もう大人しく僕等に全てを任せてみたらどうだろう? 後は上手くやっておいてあげようじゃないか」

「お断りよ。あんた達みたいな怪しげな集団に、何ひとつだって任せられる訳ないでしょ」

「クク、成程。仮令、どれほど意に沿わぬ押し付けだろうが、手を抜く発想がまるで無い辺りは、確かに良く似ている。とはいえ、ソッチがその気なら、コッチもそれなりの対応をせざるを得ないケド?」

「出会って早々に攻撃してきた連中が、いまさら何言ってんのよ」

「ふん、尤もだ。なれば、これより先は言葉よりも血と鉄と骨と拳が物を言う、野蛮な狂想曲に身を委ねるとしようじゃないか!」

 ギアの芝居がかった宣言と同時に、リィナに踏みつけられていた黒尽くめが海老のように躰全体を使って地を滑り、その勢いで立ち上がる。

「ふぅん。あの人、他の黒い人と、ちょっと違うかも」

 ポツリとリィナが呟いたのが聞こえた。

「グエン、援護しな!」

「君は年下の癖に、いちいち僕に命令するんじゃないよ!」

「あの女、我が、斬る」

「分かってるよ、ウチにだって都合ってモンあるんだ。あっちの知らない男にしといてやるよ——グエン、さっさとしな!」

『バイキルト』

 物凄く不満げに呪文を唱えたグエンの馬鹿は、どうせ俺と同じく後方支援だから放っておくとして——こんな密閉された船内じゃ、大規模な呪文は仲間や目的である『愛の思い出』とやらまで巻き込みかねないからな。

「へぇ。イイね、ヤリそうじゃんか、あの女。ソソられるねぇ」

 ティミの相手は、舌なめずりをせんばかりに目を輝かせているフゥマになりそうだ——お前、もう少し言葉には気を付けろよ。シェラが冷めたジト目で睨んでるぞ。

「キミとの勝負は、もうついてるから、ボクはあっちの黒い人の方がいいんだけど。あれってきっと、前に居た偉そうな黒い人の代わりだよね。ひょっとして、代替わりしたのかな?」

「黙れ。ついて、おらぬ。勝負」

 頭頂部で棒みたいに髪を結い上げたチョンマゲ頭は、短く言い捨てて腰を落とす。

 途端に、着流し姿の周囲の空気が、まるで刃の如く研ぎ澄まされていくように感じられた。

「それじゃ、あたしはあの黒いのの相手をすればいいってことね」

 マグナは腰から剣を抜いて、ゆるりと構える。

「ちょこまか素早いのって、面倒だから嫌いなんだけど」

 あくまで面倒なだけで、手に負えない訳じゃない。

 マグナの口振りからは、そんな自信が窺えた。

 ふぅむ。この対決。

 前衛は決して見劣りするモンじゃねぇが、後衛に著しい差があるな。

 シェラとグエンは同格としても、俺とギア様の格差が半端ない。

 そこをどう誤魔化すかが、勝負の分かれ目となるだろう——なんだよ、シェラ。昔みたいに服なんか引っ張ったりして。

「このまま、ここではじめちゃって大丈夫ですか? さっきリィナさんが言ってた人達にも、追いつかれちゃうんじゃ……」

「まぁ、そうなんだけどさ」

 多分、そっちは大丈夫じゃねぇかな。

 にやけ面は性格が悪いから、俺達がやり合ってる場面に出食わしたら、手を出さずに隠れて様子を見る事を選択するに違いない。

 そうして俺達に潰し合いをさせて、漁夫の利を得ようとする筈だ。

 だから、両者を同時に相手取るような最悪の事態には、おそらく陥らないだろう。

 それに——

「おらぁッ!!」

 突っかけたティミを、フゥマの廻し蹴りが迎え撃つ。

「チッ」

 肩で受けたティミの躰が、そのまま二、三歩ほど弾き飛ばされた。

「ったく、大した力自慢だね。こっちはバイキルトかけてんだよ?」

「あんたも、まさか受けられるとは思わなかったぜッ!?」

 体勢が崩れたところに突き出されたフゥマの追撃の拳が、ティミの流れるように円を描く腕に絡め取られる。

「ッ——とぉっ!?」

 腕を引かれて逆に体勢を崩したフゥマの横っ腹に、ティミの目にも止まらぬ連撃が叩き込まれた。

かったっ!」

いってぇなっ!!」

 フゥマが水平に振り回した拳を避けて、ティミは後ろに跳び退る。

「マッタク、なんて腹筋してんのさ。参ったね、惚れちまいそうだよ」

「くっそ、マジ効いた。あんた、強ぇな。気に入ったぜ!」

 なにやら脳筋同士、通じるものがあるらしい。

 愉しそうな顔を見合わせちゃって、まぁ。この様子だと、どの道ここでひと当てしておかないと、こいつらが納得しねぇだろ。

 つか、俺の隣りでシェラがどんどん無表情になってるから、フゥマはマジでいい加減にしろよ。

「ティミはキミより技は冴えるから、気を付けてね、フゥマくん」

 のほほんとした忠告は、リィナのものだ。

「技は、ってなんだい、技はって!!」

「ふざっけんな! オレ様、技でも負けてねぇよ!!」

 二人の息の合った反論を、チョンマゲ頭の剣士と対峙しているリィナは完全に聞き流す。

「へぇ……キミも、ちゃんと修行してたみたいだね」

「当然。貴様を、斬る、為に」

 相変わらず、たどたどしく単語を連ねるような喋り方で剣士は応じた。

 剣の修業にゃ勤しんでたとおぼしいが、こっちの言葉の勉強は放ったらかしていたらしい——どっから来たんだか知らねぇけどさ。

 腰を落として刀の柄に手をかけた剣士の周りに、まるで空気が吸い寄せられていく錯覚を感じた。

「御屋形様の、仇」

 一体、いかなる歩法なのか。

 腰を落とした姿勢のまま、剣士が前方に滑るように移動して、リィナとの距離を詰めた。

「飛燕抜刀——旋廻つむじ

 鋭い擦過音が、此度は連続した。

 刃の反射した光が、剣士の周囲に燦めいて見える。

 つまり、俺の目には留まらない。

『バギ』

 大きく後ろに跳び退りながら、リィナが咄嗟に呪文を唱えると、両者の間で空気の抜けるような音と共に裁断された靄が渦巻いた。

 同時に、何かを裂くような音。

 そうか。

 ベホイミを使えるんだから、リィナは僧侶の攻撃呪文であるバギも使えるんだ。

 けど、あいつが魔法に頼るなんて、珍しいな。

「ずっる——切り返しが超速い上に、斬撃二回飛ばしてくるとか、さすがに卑怯じゃない?」

 言葉とは裏腹に、どこか嬉しそうにリィナは嗤う。

「攻撃魔法は使わないって決めてるのに、屈辱だよ」

「よく言う。見切る、とは」

 一方の剣士は、口惜しそうに歯噛みした。

 リィナを想定して編み出したであろう魔技を、あっさりと打ち破られたら、そりゃ恨み言のひとつも言いたくなるだろう。

「無傷って訳じゃないけどね」

 よく見ると、リィナの肩口がぱっくりと裂けて、流れ落ちた血が指先から床に滴り落ちている。

『ホイミ』

 俺が気付いた時には、既にシェラが回復呪文を唱えていた。

 リィナは微妙な表情をシェラに向けて、血で汚れていない方の手で耳の下辺りを掻く。

「あー、うん。シェラちゃん、ありがと。でも、こっからはボクには回復かけなくていいから。その分は、他の人に回してあげて」

 このリィナの言動に、シェラは呆れた顔を隠さなかった。

「もぅ、またですか。じゃあ、ギリギリまでは放っておきますけど、死にそうになったら問答無用で回復しますから。それが嫌なら、今日は死にかけないでください」

「……キミも、言うようになったよね」

「リィナさんが、全然言うことを聞いてくれないからですよ」

 まるで妹を窘めるような、シェラの口調だった。

 間違いなく、俺達の中で一番成長してるよな。戦闘中にホイミも唱えられなかった最初の頃が、嘘みたいだ。

 それとも、成長の度合いで言えば、或いはあいつの方が上かね。

「この環境って、あんたにすごく不利だと思うわ」

 死角から忍び寄る黒い影の短刀を、マグナは振り返りざまに打ち落とす。

 跳び離れた黒衣の影は、すぐさま方向転換して脇を抜け、さらに惑わすように真横に跳躍しつつ短刀を振るう。

 しかし、マグナはそれすらもあっさりと剣で受けてみせるのだった。

「相手を撹乱するのがあんたのやり方なんでしょうけど、この靄で来る方向が丸分かりだもの」

 そうなんですね。

 俺には全然分かりませんが。

「……」

 一旦、距離を置いた黒衣の影は、無言のまま懐から鉄針を指の間に挟んで抜いたかと思うと、続け様にマグナに投じた。

「うん、そっちの方がいいかもね。見え難くて面倒だから——っ!!」

 鉄針を剣で弾きつつ、マグナは黒衣に殺到して袈裟懸けに斬り付ける。

 切っ先が黒衣を掠めただけで危うく逃れ、黒尽くめはさらに距離を取り直した。

「ホゥ。実際にこの目で見ると、思ったより遥かに素晴らしいな。これなら、彼女のふたつ名を継ぐ日すら、そう遠くはなさそうじゃないか」

 マグナの戦い振りを眺めながら、思わずといった感じで呟かれたギアの感想が聞こえた。

 なんの話だ?

 俺の表情に気付いたギアは、人の悪い笑みを浮かべてみせる。

「オヤ、その顔は、真逆知らなかったのかい? クク。では、さっきの褒美の追加だ。哀れな物知らずに、この僕自らが有り難くも教えてやろう」

 憎まれ口を叩きながら、何故かギアはまるで声を漏らすまいとするように、口元を手で覆うのだった。

「彼女の母親こそが、その昔『剣姫けんき』と恐れ称された、ミーフォンその人だよ」

 その声は、俺だけに聴こえるように、すぐ耳元でそっと囁かれた。

 離れた場所から音を伝えるギアの手妻に驚けばいいのか、話の内容に驚けばいいのか——内容の方が勝った。

「……マジで?」

 マグナの母親って、マーサの事だろ?

 え、あの人が、ダーマで伝説の四人の一角だったのかよ?

 ああ、そうか。だから、リィナはあんなに熱心に——

 名前が違うのは、アリアハンに移り住んだ時に正体を秘匿したとか、そういう事なんだろうか。

 そういえば、ニックも名前を変えてるしな。

 ギアは口元に当てていた手を下ろし、まるでマグナに聞かせるように声に出して続ける。

「全く、オルテガなんかと出会ったせいで、何を血迷ったか賢者に転職したと聞いた時は、気でも触れたんじゃないかと呆れたけどね。娘がこれなら、彼女も報われようってものじゃないか」

『母さんに嫌ってほどしごかれたから、剣にはちょっと自信あるんだからね!』

 出会った直後のマグナの勝ち気な啖呵が、脳裏に蘇る。

 確かに、ニックやギアと比肩しうる実力者に鍛えられたなら、そりゃ自信があってもおかしくねぇな。

「なに? 母さんの知り合いなの?」

 俺だったら一瞬で喉を掻き切られているであろう黒衣の短刀を易々と躱して逆に斬り返しながら、マグナが尋ねた。

「ああ。昔、少しだけね」

 もしかして、母親がダーマの人間だった事を、マグナも知らないのか。

 そうだよな。ダーマで受けた衝撃の大きさからいって、一年前まで知らなかったのは確実だし、この前の実家でのやり取りを思い出す限り、いまもまだ知らないままだろう。

 知られたくねぇな。

 あんなに仲が良い母親にまで、裏切られたと思い込みかねない。

 知られるにしても、それはマーサ自らが伝えるべきだ。

 もしかして、ギアが妙な伝達手段を用いて俺に伝えてきたのは、マグナに気付かれまいとして——いや、マーサに気を遣ったのか?

 だとしたら、人を気遣うとか出来たんですね、ギア様。

「ルイーダさんとあの人と一緒に、世界を旅して回ってた時期があるって聞いてるから、その頃の知り合い? まぁ、あの人はダーマとも縁が深かったみたいだし——それはどうでもいいけど、やっぱり母さんって、凄い剣士だったのね」

 いや、まぁ、黒衣の尋常じゃなく鋭い攻撃を、話しながらいなし続けてるお前も、相当凄いけどな。

「そうだね。僕の知る限り、最高の剣士の一人だったよ」

「最近なんだか、分かってきたのよ。昔、母さんから厳しく——そりゃもう、ほんっっっと厳しく教え込まれた事が、色々と。あの頃は、きっとこの人は実の母親なんかじゃなくて、どっかからあたしを攫ってきた鬼に違いないって思ってたけど、今となってはなんだかまるで、あたしの実力が上がるにつれて理解できるように、先回りで仕込んでくれてたみたいに感じるの」

 実際、そういう部分はあるのかも知れない。

 ていうか、お前、父親だけでなく母親も伝説級とか、血筋だけなら世界でも有数じゃねぇのか。

「勝手に強くなってる感じって言うの?——って、あのコもよく、あたしがなんにもしないで強くなってるみたいに言うけど、実際はそういう昔からの積み重ねとか、ちゃんとあるんだからね!? 今だって、暇な時に剣を振ったりはしてるし」

 マグナは一瞬、リィナの方をジロリと睨みつけた。

 黒衣がその隙を見逃す筈もなく、直角に折り曲げた両腕を振り上げた勢いで袖から飛び出した鉄針を、そのまま床に振り落とす。

 投じた時に妙な捻りでも与えられていたのか、床で跳ねた鉄針が向きを変えてマグナに襲い掛かる。

 さらに黒衣は前蹴りを繰り出した——気が逸れたところへの、三方からの奇襲だ。

「——ッ」

 神速と呼べる斬撃で鉄針を薙ぎ払ったマグナは、剣を斜めに振り下ろした体勢で脇腹に黒衣の前蹴りを受けた。

 小柄な黒衣の体重が軽かったお陰か、はたまたマグナが蹴られる覚悟を決めて身構えていたからか。

 どうにか踏み留まり、横薙ぎの剣で黒衣を追い払う。

 身軽に跳び離れた黒衣は、顔を下半分を覆っている黒い布を指で引き上げつつ、忌々しげに足元の床を踏み鳴らした。

 木造りの床でなく、もっと硬い材質だったら、自分の攻撃は遥かに効果的にマグナを追い詰めた筈だと言いたげな素振りだった。

 布の隙間から目元が覗いてるだけで、顔がほとんど隠されているからよく分からないが、案外若そうだな、こいつ。

「気を付けなよ、マグナ。その人、キミが油断できるほど弱くないよ」

「分かってるわよ、言われなくたって! あんたこそ、一度に勝った相手に、いつまで掛かってんのよ!」

「えー、こっちの人も、かなり強くなってるんだけど……でも、そうだね。そろそろ、もういいかな」

 ひどく気楽な調子で、リィナはのたまうのだった。

 そんな風に言ったら怒るぞ、チョンマゲの人。

巫山戯ふざけ、るな」

 剣士はそれまでよりもさらに腰を落として上体を思い切り捻り、ほとんど上を向いた鞘に収めた刀の柄に手をかけた。

 防御のことなんて全く考えていない、とにかく刃の届く範囲の者を必ず斬り伏せるとでも主張しているかのような構え。

 周囲の空気が、さらに研ぎ澄まされていく。

 だが、それを台無しにしたのは、あろうことか剣士の雇い主であろうギアの台詞だった。

「フン、舞踏会パーティに遅刻しかけて、余程慌てふためいたと見える。思ったよりお早いご到着じゃないか」

「あれ、残念。やっぱりバレちゃいましたか。どうも、お久し振りです、ギアさん」

 声はすれども姿は見えず。

 いつも通りの、にやけ面のご登場だった。

「生意気にも、この幽霊船の奇怪極まりない空間構造を利用したのかい? 相変わらず、他人ひとの創造物の上澄みを小賢しく利用する手管にだけは長けた道化者だよ」

「いやぁ、お褒めにあずかり恐縮ですが、こちらに接続できたのは偶々ですね。運が良かったです」

「どうせ、そうだろうサ。物事の本質を理解できないお前に出来るのは、『なんとなく運任せにやってみる』事だけだからな」

「試行錯誤と言って欲しいですね」

「いいから、そろそろ姿を現せ。僕の前で、無礼だぞ」

 ギアがパチンと指を鳴らすと、靄の向こうに白いローブ姿が出現した。

「そちらこそ、相変わらず無粋ですね。秘め事は不用意に暴くものではありませんよ」

「黙れ。この世の全ての秘め事を暴くのが、この僕だ。お前如きが、僕に何かを隠し通せると思うなよ」

 久闊を叙する場違いな会話を遮って、嬉しそうな声が響く。

「おっ、もうはじまってるじゃねぇか! 今日は思いっ切りやっちまって構わないんだろ!?」

 にやけ面の背後に現れたいくつかの人影が、すぐに判別できるほど寄ってくる。

 見覚えのある道着姿のロンさんは、記憶より二段階くらい獰猛な笑みを浮かべて修羅場を眺め回した。

「ええ。遠慮なく暴れていただいて構いませんよ」

「そうこなくっちゃな。さって、どいつからイワしてやるか……」

 ゴキゴキと音をさせて、両の拳を握ったり開いたりする。

「また強そうなのが出てきたね。ウチもちったぁは強くなったと思ってたけど、コリャまだまだ先は長そうだよ、マッタク」

 フゥマとやり合っている最中にできたのか、額に青痣を浮かべたティミがため息を吐いた。

「おっ!! 来やがったな!! そう、アイツも強ぇんだよ! アレも入れて、三人でヤろうぜ!?」

 こちらは頬を腫らしたフゥマが、ひどく嬉しそうに提案する。

 あのバカが目移りしないとは、よっぽどティミが気に入ったんだな。

 つか、さっきからお前の発言、いちいちギリギリなんだけど。卑猥な意味にも取れちゃうから、もっと言葉を選んでくれる?

 シェラの表情筋が、また死んでるだろ。

「やっと見付けた……ころすコロス殺す……」

 ロンさんの陰から姿を現した小柄な少女——ココが、フゥマを視線で射殺さんばかりに睨みつけながら、ブツブツと独り言を繰り返した。

 いや、怖いから。

 ヒュゥ、と短い口笛。

「なにさ、随分とモテるじゃないか、アンタ」

「えー。アイツはもういいよ。相手すんの飽きたし」

 からかうティミに、クズ男みたいな返事をするフゥマ。

「ッ……もう、絶対コロス」

 うわぁ。魔物も裸足で逃げ出しそうな形相になってるぞ、ココちゃん。

「……フゥマさん、楽しそうですね」

 ボソリ、と横から低い声が聞こえた。

 ホントだよな。なんであいつがモテモテみたいな感じになってんだよ、マジ納得いかねーんだけど。

 割り切れない思いを抱えつつ、シェラの背中をフゥマ達の方へ、そっと押す。

「え——?」

「いや、向こうは頼むわ」

 気になってるだろ。

 それに、俺達から見て一番遠いトコでやり合ってるから、下手に分断されても困るしさ。

「なんですか……ヘンな気を遣わないでください」

 シェラは、スネた顔も可愛いな。

 何度か躊躇った挙げ句、俺の方を振り向きながら、結局向こうへ歩き出す素直なところも好きだぜ。

「アルスも来てたの。それで? あたしの邪魔をするの?」

 そうなのだ。

 なんか知らんが、アルスの野郎までいやがるんだよ、けったくそ悪い。

 ちなみにマグナとやり合っていた黒衣は、唐突に登場した新手の意図を計り兼ねているのか、距離を置いて身構えたまま静観している。

「いや、そんなつもりはない。というか、今回マグナ達とは共同戦線を張っていると、俺は聞いていたんだが?」

 全身を黒っぽい鎧で包んだアルスに鋭い視線で睨まれて、にやけ面は締まりのない笑顔を返した。

「ある意味では、そうと言えなくもないかも知れません」

「また胡乱なことを……それより、マグナは結局、あいつが戻って来ることを認めたんだな」

 ちらりと俺に一瞥をくれて、アルスはマグナに問いかけた。

「別に……アルスには、関係無いでしょ」

「そうだな。だが、心配くらいはさせてくれ」

 君ら、痴話喧嘩は後にしてもらっていいですかね。

 つか、どうすんだ、コレ。

 このままやり合ったら、乱戦過ぎて収集つかねーぞ。

「おや、ルシエラさん達が見当たりませんね」

 え、あいつらまで来てんのかよ。

 にやけ面が後ろを振り返り、それにつられたのかギアとグエンもそちらを見て、他の連中は目の前の相手を牽制し——おそらく、誰も俺のことなんて見てなかったと思う。

 その瞬間を、襲撃者は靄に紛れて虎視眈々と待ち構えていたのか。

 唐突に後頭部に受けた衝撃を感じる暇もなく、俺の意識はブツリと途切れた——

6.

「フゥ……気がついたか」

 ひどく覚えのある、だが懐かしさを微塵も感じさせない空気の悪さ。

 半覚醒状態で、自分が今どういう体勢かも分からず、唐突に宙空に放り出されたような墜落感を覚えて、思わず身を固くする。

 だが、一瞬後には、背中の下で自分の体をしっかりと受け止めている何かの存在に気付き、みっともなくジタバタと手探りでそれを確かめた。

 どうやら俺は、寝台で横になって寝かされているらしい。

「……ぐ」

 意識が覚醒する途中で、後頭部に鈍痛を感じて呻き声をあげる。

 頭痛ぇ。

 身を起こそうして果たせず、俺はもぞりと寝返りを打った。

「気がついたなら……ハァ……さっさと出ていってくれないか……」

 さっきから、やたらと景気の悪いボソボソとした話し声が聞こえるな。

 恐る恐る目を開けると、まず薄暗い船室が見えた。

 声の主を求めて視線だけ巡らせると、離れた場所で椅子に腰掛けている、声に負けず劣らず景気の悪い顔に、ぼんやりとしていた視界が徐々に焦点を結ぶ。

「あんたが……助けてくれたのか?」

 どうでもいいが、目の下のくまが凄ぇな。アレといい勝負だ。

「まぁ……僕の船の中で……君が死んで……そんな些事で……彼に嫌われても……困る……それだけ……分かったら……出ていってくれ」

 一句毎に、ため息を挟む。

 どういう事だよ、他人に向かってこんな喋り方をする人類がいるのかよ。

 こんな浮世離れした——ああ、もしかして、ホントに浮世離れしてるのか?

 こいつが口にしたって、つまりアレヴァイエルのことか。

「悪ぃ、ちょっと待ってくれ。こっちは意識を取り戻したばっかで……」

 後頭部の痛みを堪えながら、どうにか上体を起こし、何度か強く瞬きをしてから、ゆっくりと周りを見渡す。

 起き抜けにも思ったが、すげぇ埃っぽいな。

 どうやらヴァイエルの知り合いってことで、間違いなさそうだ。

 壁全面を埋め尽くす本棚にも書物にも、薄っすらと埃を積もらせなきゃいけないという、意味不明なこいつらのしきたりを、きちんと守ってるもんな。

 もちろん、嫌味だが。

「痛ぇ~……くそ、誰だよ、俺を後ろからぶん殴りやがったのは」

 恐る恐る後頭部に手をやると、立派な瘤ができていた。

 記憶にある最後の場面を思い返しても、犯人は杳として窺い知れない。

 そういえば、ルシエラが見当たらねぇとか、にやけ面がほざいてたな。

 まさか、ルシエラの操る、あのゴリラみてぇな魔物に、後ろから一発喰らわせられたか?

 いや、違うな。だったら今頃、俺がこうしてのんびり呼吸できている筈がない。

「君を襲ったのは……子供、だ」

 分かったら、さっさと出て行ってくれないか。

 先程から繰り返されている言葉を発する手間すら惜しんで、目の前の景気の悪い顔が途中で口を閉じたのが分かった。

 どんだけ、俺と喋りたくねぇんだよ。

「子供って、ジミーのことか」

「そう……」

 さすがは魔法使い。「子供の名前なんて、僕が知る訳ないだろう」とは言わねぇんだな。

 つか、マジか。あのガキ、とうとう実力行使に出やがった。

 ずっと俺を排除したがってたもんな。

 なんて物騒なヤツなんだ。

 だが、今は他の事の方が気にかかる。

「まぁ、そっちは後でいいや——それより、俺はどのくらい気を失ってた?」

「……すぐ……起きた」

 それほど時間は経ってねぇってことか。

 ようやく意識がしゃっきりしてきた俺は、堪えきれずに性急な早口で陰気な魔法使いに尋ねる。

「他の連中は? 俺と一緒に居たヤツらは、あれからどうなった?」

「適当に……分けた……」

 本来はもう一言も喋りたくないのだと主張するような、ため息混じりの短い返事。

 いや、それじゃ、なんも分かんねぇよ。

「どういうことだ?」

「君……彼の配下だろ……」

「彼って、ヴァイエルのことだよな? いちおう、そうだけど」

「その……君の知り合い……別に死んでもいいけど……後で……彼が怒ると……困る……だから……分けて隔離した……後は君がやれ……どうでもいい……本当に……」

 いや、もう少しちゃんと説明してくれませんかねぇ。

 俺はお前らみたいに、意識の共有が出来る訳じゃねぇんだからよ。

 とはいえ、こいつにしてみれば、十分に長々と説明してくれたつもりなんだろう。疲れ切った顔しやがって。

 とりあえず、必要最低限のことだけ確かめておくか。

「どういう単位で分けた?」

「……近くにいた、かたまり

 塊て。

「あと、それぞれの様子を俺が確認できる方法ってあるか?」

「?……勝手に視ろ」

「いや、悪ぃ。どうやって見ればいいのか分かんねぇ。いちおうヴァイエルの配下って事にはなってるけど、俺は単なる職業魔法使いなんだよ」

 こんな事くらい、お見通しの筈なんだが。

 男は何故か、景気の悪い顔をさらに昏くして不審がってみせた。

「……何を、言っている? 君のソレ……彼の処置だろ……?」

 そして、唐突に相好を崩す。

「まさか、認識すらしていなかったのか……フフ、彼らしい」

 何が面白いのか、さっぱり分かんねぇ。

 目の前の不景気な面が、急に生き生きとした——いや、それまでと比較してって話で、十分昏い顔でボソボソ喋ってんだけどな。

「遠隔視、千里眼、天眼通、霊視、透視、第三の眼。時や場所によって呼び方は異なるが——そもそも我々以外がそれを口にする時は、単なる勘違いでしかないことがほとんどだが、そういった呼称に代表される遠隔地の像を受信する機能が、君には組み込まれている」

 いや、組み込まれているて。

 俺は、ヴァイエルの家で厄介になっていた頃の事を思い出す。

 俺を使って人体実験をしたとしか思えない発言を、ちょくちょくされてたんだよ。恐ろしい事に。

「流石だ……非常に独創的で興味深い……どれ、僕の手持ちの『監視の眼』と繋いでやろう……フフ……まるで……彼との共同作業……みたいだ」

 俺には意味不明の理由で上機嫌になったらしい陰気な面——そういや、こいつ、名前はなんてんだ。

「先に、あんたの名前を教えてもらっていいか。俺はただの一般人だから、呼び方が分かんねぇと不便なんだよ」

「……ドゥツとでも……呼べ」

 本当はもっと文句を言いたいけど、俺と肉声による会話をする面倒が勝った、みたいな顔をして、ドゥツは短く答えた。

 なんとも呼び難い名前だが、どうせ偽名だろうから、なんでもいいか。

「ホラ……視えた、ろ」

 ドゥツがそう言った途端、恐ろしい密度の情報が積み重なって俺の視界に——というか意識に——まさしく雪崩れ込んだ。

 あががががガガガ。

「いやいやいやいや、無理無理無理無理!! 一箇所ずつだ! 一箇所ずつ頼む!!」

 頭がおかしくなるわ!

「?……まさか……非同期の並列処理も……出来ないのか……不便、だな」

 また、ハァ、とため息を吐きつつ、椅子から立ち上がる。

「いくら……彼の配下でも……何故、こんな面倒、を……」

 前触れもなく顔面に向かって掌を突き付けられて、ビクッと身を竦める。

「動くな」

 命令されて動きを封じられた俺のこめかみを、ドゥツは跨ぐようにして掴んだ。

 いてててて。

 力は大して強くねぇが、指が細いから皮膚に喰い込んで痛ぇ。

 と、脳みそを掻き回されたみたいな、ぐるんと空中で振り回されたような酩酊感を覚えて、思わず寝台に倒れ込む。

「ホラ……これで……切り替えられる、だろ」

 おいおい、何をされたんだ。

 お前ら、気軽に人の中身を弄るんじゃねぇよ——え、なんだこれ!?

 同時に雪崩込む情報を制限されたお陰なのか、ようやく俺にも認識できるようになっていた。

 いま視えてるのは、マグナ達だ。

 ひどく靄がかった通路でマグナと対峙しているのは、さっきの黒装束と——アルスか。

 大丈夫か、あいつ。

 アルスとも、ちゃんと戦えるんだろうな。

 構図としては、アルスが黒衣を牽制し、それをマグナが脇から眺めている形だ。

 やや膠着して見える様子から、しばらく動きはなさそうだと判断した途端——

 考えるともなく、視界が巡る

 次に視えたのは、リィナ達だ。

 こちらは、瓜実顔の剣士と相対しているリィナを、腕組みをしたロンさんが見物している。

 つか、どうなってんだ、これ。

 俺の肉眼に映ってる実際の景色も、見えなくなってる訳じゃないんだよ。

 半透明に重なって見えている訳でもない。

 どちらの景色も同時に視えている

 それを意識した途端、処理が追いつかなくなったみたいに目眩がして、またしても倒れかける。

「馬鹿め……集中しろ……同時に他に割けるほど……資源……無いんだろうが……」

 忌々しげに吐き捨てて、それきり興味を失ったように、元の場所に戻ったドゥツは椅子を巡らせて俺に背を向けた。

 喋り方はアレだが、言われた内容は尤もだ。

 別の事を考えながらじゃ、制御できそうにない。

 改めてリィナ達の様子に集中し直すと、なんと声まで聴こえてくる。

「——先にそっちの決着を付けてもらって構わねぇけど、さっさと終わらせてくれよな。この前オアズケ喰らったままで、こっちはウズウズしてるんだ」

 遠話装置と似た仕組みで実現できそうだが、こりゃ便利だ。

 ドゥツが言ってたみたいに、これで何箇所か同時に視られるだけの能力が俺にあればなぁ。

 まぁ、無い物ねだりをしても仕方ねぇか。

 いまは、一箇所ずつ確認できるだけでも、十分に有り難い。

 リィナは目の前の剣士に視線を据えたまま、ロンさんを挑発する。

「こっちの台詞だよ。今日はトコトン相手してもらうから」

 それにしても、こいつら、他の連中の姿が急に消え失せた異常事態に対して、特に狼狽えたりしねぇのな。

 そんなことよりも、目の前の相手を上回る方が、よっぽど重要らしかった。

 脳みそまで筋肉で出来てる人種には、世界が単純シンプルで羨ましいね。いや、ホントに。

「邪魔、だ」

 不意に動き出した剣士が向かったのは、対峙しているリィナではなかった。

 二人が互いに気を取られている状況を利用して、虚を突くタイミングで床を滑るようにロンさんとの距離を詰める。

「そう来ると思ったぜッ!!」

 あるいは、リィナに意識を向けて見せていたのは、誘いだったのか。

 回避行動を取るどころか、ロンさんは逆に前に踏み込んだ。

 硬い金属音。

 ロンさんの前腕は、剣士が抜き放った細身の刀を躰の前で受け止めていた。

「——莫迦なっ!?」

 いや、よく見ると、取っ手のついた鉄の棒のような物を両手に握って、それで受けたのだ。

 ゴトンゴトンと鉄棒が床に落ちるに任せ、ロンさんは自由になった左手で素早く剣士の襟を掴む。

「呼ッ」

 そして、引き寄せながら右掌で剣士の鳩尾を打ち上げた。

「ガぶっ」

 一瞬宙に浮いた剣士の躰が、ロンさんの蹴りでさらに打ち上げられる。

 下降に転じた剣士の頭を、ピンと天に向かって振り上げられたロンさんの踵が打ち落として踏み抜いた。

 脆い木の床に頭部をめり込ませた剣士の四肢は、もはやピクリとも動かない。

「ひえぇ。まさか、ぶった斬られるとはなぁ」

 ロンさんの言葉通り、俺の手首くらいの太さはありそうな二本の鉄棒は、信じ難いことにそれぞれ真ん中辺りで断ち切られていた。

「せっかく用意しといた奥の手が、いきなり台無しだ。おっそろしい剣士も居たもんだぜ」

 飄々とうそぶくロンさんの両腕から、血が滴り落ちていた。

 剣士の刃は、ロンさんの肉にすら届いていたのだ。

『ホイミ』

 有無を言わさず、リィナが呪文を唱えた。

「なんだ。随分とお優しいな」

 皮肉らしく唇を歪めるロンさんに、リィナはつまらなそうに言い返す。

「ていうか、勝手に怪我しないでよ。それを負けた言い訳にされても、困るんだよね」

「……そりゃ、失敬」

 ロンさんの笑みが、さらに獰猛さを増した。

「ていうか、その剣士の人の得意技って、あんな力任せなのと相性サイアクなのにさ。雑な戦い方で台無しにされちゃって、その人の方こそかわいそ」

 処置無しといった按配で、小さく首を振ってみせるリィナ。

「……相手の得手を封じて勝つなんてのは、基本中の基本だろうがよ」

「そりゃそうだけど。余裕が無いっていうかさ。格上ぶってる癖に、必死だなーと思っただけ」

 滅茶苦茶煽りやがるな、リィナのヤツ。

 前回、あの町でのやり取りが、よっぽど消化不良だったと見える。

「意外なくらい、舌が回るじゃねぇか。こりゃ、こっちに物を言わせた方がよさそうだ」

 ロンさんが握り拳を掲げてみせると、リィナはにんまりと、とても嬉しそうに微笑んだ。

「どっちでも、同じだよ」

 口でも拳でも、どっちでも勝つってか。

 一触即発だ。

 マズいな、他の連中も気にかかるが、目が離せない——

 と考えた途端、またしても俺の視界は吐き気を伴ってぐるりと転換するのだった。

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