49. Blazin' Heart

1.

「ホラ、もうちょい薬草飲んどきなよ」

「ああ……悪ぃ。助かるよ」

 ティミからつっけんどんに手渡された薬草で、ようやく動ける程度に回復した傷を更に癒やす。

 拷問で受けた傷自体はそれなりに良くなってる筈なんだが、多分、精神的な問題で、あまり治った気がしない。

 気持ちがビビって萎縮しちまってるのが、自分で分かる。

 いますぐ、この場でしゃがみ込んで、蹲っちまいたいくらいだ。

「もういいかい。さっさと行くよ」

「あ、ああ」

 相変わらず、容赦ありませんね。

 周囲が暗くてよく見えないことに、内心でほっとする。

 大して親しい間柄でもないティミに、さっきはガチ泣きを見られちまった気恥ずかしさで、しばらく顔をまともに見られそうにねぇからな。

 と——

 脇からぶつぶつとうわ言じみた女の呟き声が聞こえて、思わず悲鳴をあげかける。

「アタシ、知ってるのよ……魔物達がヒトに取り憑きはじめてるの……怖い……怖いわね……フフフ……」

 足音を忍ばせて通路を歩く俺達の気配に反応したのか。

 通気孔から僅かに零れる星明かりすら届かぬ鉄格子の奥の方、黒々とわだかまった闇から微かに漏れ伝わる声は、正気を失ったような響きを含んでいた。

 拷問を受けた直後の地下牢という舞台装置のせいもあるだろうか。

 まるで悪夢の中にさ迷い込んだような酩酊感に、足元が頼りなく歪んだ気がした。

 よろめきながら、女の声が聞こえた鉄格子に取り付く。

「ちょっと、何してんのさ」

 苛立ったティミの声。

 だって、聞き捨てならないじゃねぇかよ。

「いま、魔物がヒトに取り付いてるって言ったよな? あんた、なんか知ってるのか」

 暗がりに向かって囁きかけると、「ヒィ」と小さい悲鳴を最後に、それきり呟きは止んでしまった。

「ちょっと、いい加減にしなよ? なんか聞きたいことがあんなら、全部終わってから戻ってくりゃいいだろ。ホラ、行くよ」

 確かに、この場でまともに話を聞くのは無理そうか。

 仕方ねぇな。

 俺自身、一刻も早くここから立ち去りたかったこともあって、後ろ髪を引かれつつ鉄格子から身を離す。

 ティミの先導で、湿っぽい地下牢が左右に並ぶ石造りの通路を、奥へ奥へと向かうことしばし。

 ていうか、兵士に連れてこられた時に通った入り口と、真逆の方向に進んでる気がするんだけど。

 ホントにこっちで合ってんのか?

 不安に駆られて、前を行くティミに声をかけようとした、その時だった。

「誰ぞある」

 今度は向かう先の暗闇から、それなりに年齢よわいを重ねた男の声が聞こえた。

 思わず、と言った感じで振り返ったティミと目が合う。

「誰ぞあるか」

 左程大きな声じゃないが、はっきりと聞こえた。

 低く、よく通る、命令し慣れた声。

『そうそう、入れ替わりなんて妄想じみた思いつきの根拠らしきことも喋っていましたね。牢屋の番人をしてる知り合いが、彼の仕える人物そっくりの囚人を見かけたと言うのですよ』

 すぐさま連想した。

 まさか、地下牢に囚われてるっていう、この国の本物の王様じゃねぇだろうな。

 反射的に声の方に進みかけて、危うく踏み止まる。

 いま、ここで——考えなしに王様を助け出しちまっていいモンなのか?

 この国の奴らに知られたら、それこそ国を二分する戦争がはじまりかねない。

 疲弊し切った、この国で。

 いや——

 それが、この国の連中の選択だってんなら、俺はそれを尊重してやるべきなんだろ?

 なぁ、そうなんだよな?

 一瞬、誰にともなく向けられた投げやりな昏い嗤いが喉をついたが、どうにか堪えた。

 さすがに皆が皆、あのチンピラ共と同じように考えてる訳でもねぇだろう。

 それに、ここの連中の選択に任せるってんなら、王様を助けにくるところから自分達でやらせるべきだ。

 俺達は、ただ魔物がそこにいたから斃しに来たに過ぎない勇者様御一行に徹するべきで。

 結果的にせよ、俺達に救われるだけってのが気に喰わねぇなら、王様が地下牢に囚われてるって情報をさっさと自分達で確かめて、先に助け出すなりなんなりしろって話だ。

 ウチの勇者様だって、アッチコッチの王様達から頼まれてやってるだけなんだからさ、もう面倒臭ぇことは各々の都合で適当に消化して、勝手に解決してくれよ。

 全く無関係の事情で行動している他人に横槍を入れられるなんてのは、ありふれてる話なんだしさ。

 もう知ったことかよ。

——駄目だな。

 内心で自嘲する。

 あんなヒデェ目に遭った直後じゃ、さすがに冷静に物を考えられそうにない。

 ごく短い間とはいえ、同じく牢屋に囚えられていた身としては気の毒に思わないでもないが、やはりヘタな真似はしない方がよさそうだ。

 それに、いましがた聞こえた声からは、衰弱は窺えるが案外しっかりしている印象も受けた。

 多分、他の囚人のようには——俺のようには——むごい扱いはされていないだろう。

 俺の想像が正しきゃ、もう年単位で囚われている筈だし、あと何日か延びたところで大して変わらねぇだろ——

 気付くと、口元に手を当てたまま押し黙った俺を、ティミが不審げに睨み付けていた。

 悪い、もうちょっとだけ待ってくれ。

 確認しておきたいことがあるんだよ。

「国王陛下?」

 通路の先から、息を飲む気配が伝わった。

 ややあって、落ち着いた中にも期待を滲ませた声が答える。

「いかにも。儂はこの国の国王じゃ。其方そなたは?」

 マジで当たりか。

 いや、ある意味、ハズレかも知れないが。

「申し訳ありません、陛下。いまはまだ、お伝えしない方がよろしいかと」

「ム。何故なにゆえじゃ」

 そりゃ、そう返ってくるよな。

 申し訳ないが、こっちとしても不測の事態でね。

「陛下のご境遇は察しておりますが、実は我々がこの場に居合わせたのは偶然なのです。お救いできるだけの準備が、いまは整っておりません」

「……いまは、と申したな。いずれは異なると取って良いのか」

「はい。近日中には、必ずお助けにあがります」

 おいおい。必ず、なんてホザいちまっていいのかよ、と頭の中の別の俺が突っ込む。

 うるせぇな、雰囲気に流されて口が滑ったんだよ。虜囚の憂き目に遭った仲間意識も手伝って、つい感情移入しちまうんだっての。

「ムゥ……」

 不満の気配が通路の先から伝わる。

 そりゃそうだわな。

 が、申し訳ないついでに、必要なことだけは確認させてもらわねぇと。

「ところで、陛下。御身がこの場に囚われているということは、畏れ多くも何者かが陛下に成りすましているという噂は、真実まことだったのですね」

「然様じゃ。何者かが儂から『変化の杖』を奪い、儂に化けおった。おお、口惜しや……」

 それまで期待の色を滲ませていた声音が、恨み辛みに塗りつぶされる。

 ていうか、『変化の杖』だと?

 なんで、その単語がここで出てくるんだ。

 まさかとは思うが——首謀者は魔物ではなく人間でした、なんてオチが待ってやしねぇだろうな。

「その『変化の杖』というのは——」

「アンタ、いい加減にしなよ。これ以上待たせるようなら、置いてくからね」

 恐ろしく苛立った口調で、ティミが怖い声を出した。

 放っておきすぎたか。

 相変わらず、おっかねぇの。

「陛下。御身をお救いした暁には、その『変化の杖』を恩賞としていただくことは——」

「チッ、もう勝手にしな。ウチは行くからね」

 分かった、ごめんて。

「ウム。もちろん其方の望む褒美を与えよう」

「ありがとうございます。必ずお救いに戻ります。いましばらく、ご辛抱ください」

 一瞬、勇者が助けにくるから安心してくれ的なことを言おうか迷ったが、説明している暇がない。

 下手に思わせ振りなことを言い残すよりゃいいか。

 慌ててティミの後を追う。

 マジで、容赦なく立ち去ってやがんの、こいつ。

 危うくはぐれるトコだったぜ。

「フン。ちったぁ自分のザマを考えなよ、アンタ」

 ちらりとこちらに視線をくれたティミに、小言を云われた。

 なんだかんだ気を遣ってくれてるのね。

 俺の見立てだと、ジツはいい奴だもんな。心配かけて、申し訳ない。

 やがて、見かけが少々不自然に思える、人ひとりがようやく通れるくらいの石壁に空いた狭い横穴の前で、ティミは立ち止まった。

「ちょっと灯りをつけるよ」

 横穴の先は天井の通気孔すら無く、壁が黒々といびつな四角に切り取られているようにしか見えない。

 灯りがないと、まさしく一寸先すら見通せないだろう。

 限界近くまで絞られた手持ちランプの灯りは、それでも闇に慣れきった俺の目を強烈に射た。

「まぶし」

「だね。ホラ、持って先に入ってな」

 手持ちランプを俺に押し付けて横穴の奥に押しやり、ティミはデコボコとした壁を手で探る。

「ああ、これか」

 ガチン、と石の奥で音が響き、驚いたことに石壁を模した扉がズズズと重々しい音を立てながらスライドして入り口を塞いだ。

「すげぇな。隠し扉か」

「ああ。昔からある王族用の抜け道らしいんだけどさ。マッタク、大袈裟なモンだよ」

 え、なんでお前がそんなことを知ってるんだ。

 開きかけた口が、周り中から圧し寄せる黒に塞がれる。

 石の扉が閉じると、ランプの灯りがぼうやりと照らし出す範囲以外は、完全な闇に塗り潰された。

 それは、上も下も右も左も、すべてを見失いかねないひどく心細い光景で、俺の心拍数はひとりでに上がっていく。

 だが、ティミはしれっとした顔をして、猫みたいに体を器用にくねらせると、ほとんど空いていない俺と壁の間をすり抜けた。

「ホラ、貸しな」

 俺からひったくった手持ちランプを掲げて、怖れげもなく真っ黒い穴の先へと歩を進める。

 普段と変わらないその様子に、どうにか俺の呼吸も落ち着くのだった。

「天井が低いから、頭打たないようにしなよ」

 ティミが声をかけてくれたように、ずっと中腰で歩かなくてはいけないのが、なかなか腰に堪えた。

 ギリギリ屈むことなく歩いている背中に、俺は問いかける。

「どうして、俺を助けに来てくれたんだ?」

 大っ嫌いなアリアハン人である、俺なんかを。

「頼まれたからに決まってるだろ。じゃなきゃ、誰がアンタなんか——説明が面倒だから、詳しいことはここを出てから本人に直接聞くんだね」

「頼まれたって、誰にだよ」

「だから、ウチは説明しないって言ってるだろ」

「いや、だって……つか、そもそも、なんであんたがこんなトコにいるんだ?」

「……ヒトの話聞いてんのかい? もう一度聞いたら、殴るよ?」

 ティミは拳頭の硬くなった拳を握りしめて、掲げてみせた。

 ご、ごめんなさい。

 せっかく傷が少し癒えたところなんで、勘弁してください。

 仕方なく、別のことを考えはじめて、ハタと気付く。

 地下牢に囚われたままなのが嫌すぎて、助かりたい一心で、後先考えずに逃げ出しちまったけど、朝になって俺がいない事がバレたら騒ぎになっちまうぞ、これ。

 あんな目に遭ってまで、苦労して回避しようとしていた騒動が起こっちまう。

 これじゃ、本末転倒だ。

 つか、俺を売ったチンピラ共も、邪魔者が居なくなったってんで、早速、明日にでも行動を起こしておかしくない。

 あれもこれも、猶予がせいぜい夜明けまでしか無い。

 マズいな、ただでさえ心身ともに絶不調だってのに、そんなにすぐ落とし所を見つけられる程、頭が働かない。

 え、どうすんだ、これ。

「なに独りでブツブツ言ってんのさ。気味の悪い」

 どうやら、独り言を口にしていたらしい。

 ティミに嫌そうな声で文句を言われた。

 だが、俺はと言えば、声をかけてくれたのを幸いに、耳を貸そうとしないティミに縋るようにして、これまでの経緯を掻い摘んで無理やり聞かせたのだった。

 他の誰でも、いまの俺よりゃマシな考えを思いつくだろう。

 頼むから、知恵を貸してくれよ。

「——フン。そんなくっだらないコト心配してんなら、アンタが牢屋に戻りゃいいだろ。それで、全部解決じゃないか」

 ティミから返ってきたのは、そんな御無体な答えだった。

 こいつらしいけどさ。

「すみません。どうかそれだけは、勘弁してください」

 もう二度と、あそこには戻りたくありません。

「自分から聞いといて、我儘言うねぇ」

「いや、だってさ……それに、俺が牢屋に戻ったところで、チンピラ共を止められないだろ。片手落ちじゃ、意味がないんだ」

「アッチもコッチも、全部救い上げなきゃ気が済まないってかい? アルシェ様じゃあるまいし、アンタにゃちょっと荷が重いだろ」

 ここでその名前が出るってことは、あのにやけ面にはそういう逸話があるんだな。

 くそ。

「……ていうか、信じらんないね。ひょっとしてアンタ、自分をハメた連中まで助けてやろうなんて考えてんじゃないだろうね?」

 ティミは、心底呆れたように吐き捨てた。

「いや、別にそういう訳でもないんだけどさ」

「お人好しも大概にしなよ。ウチがアンタだったら、まず真っ先にソイツラ全員ぶちのめす算段をつけてるところだよ」

 ご説ご尤もですけどね。

「マッタク、頭の良いヤツってのも大変だね。自分をこんな目に遭わせたクソ共まで、許してやらなきゃならないなんてさ」

「俺って、頭良いのかなぁ……」

「ハァ?」

 思わず漏れた俺の呟きに、ティミは頭オカシイんじゃないかみたいな素っ頓狂な声を出した。

「分かった、ウチが悪かったよ。アンタは馬鹿だ。救いようのない大馬鹿だよ。ウチが太鼓判押してやるから、安心しな」

 心身ともに弱り切っている俺としては反論する気力も無く、ただ頷く。

「うん。俺、馬鹿なんだ。だから、代わりになんか妙案を思いつかないか?」

 苦笑交じりのため息が、先を行く肩越しに聞こえた。

「だったら——夜明けまでに、その王様に化けてるって魔物をぶっ斃しちまうのはどうだい?」

「へ?」

 完全に意表を突かれて、言葉を失う。

「そういう分かりやすい話なら、乗ってやるよ。魔物退治ができるなら、ダーマの人間としても願ったりだしね」

 そうか。

 ともあれ、ぶっ斃しちまうって手があったのか——

 いや待て。

 ホントにあるのか、そんな手が。

 わざわざマグナに『ラーの鏡』を取りに行かせたのは、国王が魔物だって暴く為で——今となっては、地下牢に囚われてる本物の王様を助け出せば、それはどうにかなっちまう訳か。

 最善とは思えないが、他のいい手をすぐ思いつけそうにないのも確かだ。

 何より、分かりやすいのが有り難い。

 疲弊し切ってるから、ホントは難しいこと考えたくねぇんだよ。

 けど——

「さすがに、二人じゃ厳しくないか。国王に化けてるのって、多分だけど突然変異体とかいう、すげぇ強い魔物だぜ」

「アンタ、ウチをナメてんのかい」

 足を止めて振り返り、ティミは俺を睨みつけた。

「リィナにゃ出来ても、ウチには無理だって?」

 ティミも知ってたのか。リィナがほぼ単独で突然変異体を斃した話。

「いや、そうは言ってねぇよ。けどさ、せめて回復役くらいはいた方がよくねぇか」

 リィナと同様に、ティミも転職によって魔法を習得しちゃいるが、あんたが覚えてる魔法は僧侶じゃなくて魔法使いの系統だっただろ。

 俺と二人じゃ、傷を治す手段が薬草くらいしか無いじゃねぇか。

 だが、ティミは拍子抜けしたように、あっさりと返すのだった。

「ハン。何かと思えば、そんなこと。僧侶なら、ハナからアテがあるじゃないか」

 え、そうなの?

「そこらも含めて、ウチを寄越した雇い主と相談しな。このすぐ上に居るからさ。きっとアンタなんかよりゃ、よっぽどいい知恵を出してくれるよ」

 ティミは言いながら、石の天井をコンコンと指の関節で叩いた。

 いつの間にやら、目的地に辿り着いていたらしい。

 結構な重さだろうに、軽々と頭上の石板を持ち上げて横にズラしたティミは、身軽にひょいと地上に躍り出る。

 またたく星々が、そして玲瓏なる月が、石板の隙間から落とす明かりは、とても薄く儚げで。

 それでも、真っ黒い闇に塗り潰されていた世界が、光に満たされて感じるほど眩しく思えた。

 まだ痛む体を苦労して地上に引っ張り上げ、淀みくすんでいない清廉な空気を胸一杯に吸い込む。

 ああ、俺は、生きてあの地獄から戻って来られたんだ。

 ようやく、心の底から安堵のため息を吐く俺の横で、土を踏む音がした。

「生きておったか、莫迦者め。じゃから、あれ程気をつけろと言ったであろ」

 ああ、姫さんだったのか。

 そうだよな。

 いつだって、そうだった。

 俺を救ってくれるのは。

 いっそ懐かしく感じられる端正な顔立ちを目にした途端、嗚咽も何も伴わずに、ただ目から勝手に涙が流れた。

「ホントに……お主は、ヒトの話を聞かぬ、困ったヤツじゃ……」

 静かに泣く俺につられた訳でもないんだろうが、姫さんは言葉を詰まらせて、地面に膝をついた俺の頭を、ただ撫で続けた。

2.

 地下の横穴から這い出した直後は心地よく感じられた外気だが、よくよく見るとそれ程爽やかじゃない事実に気付く。

「ここ、墓地だったのか」

「うむ。この者らの眠りを妨げるのもなんじゃからな、歩きながら話すのがよいであろ。じゃが、その前に、まずは回復と着替えじゃな」

 血だらけの下履きしか身につけていない俺の格好を、眉を顰めて眺める姫さん。

 何度かホイミをかけてもらいつつ、宿の部屋から持ってきてくれたフクロから服を取り出して着替える。

「ホントにヒドい有様じゃな……気を失いそうじゃ。この、タワケ者め」

 まだ傷が生々しく残っているであろう俺の背中にそっと触れながら、ぽつりと姫さんが漏らす。

 薬草のお陰である程度回復してるのに、この言われようだからな。

 さっきまでの襤褸屑ぼろくずみたいな姿を見られなくてよかったぜ。

 ちなみに、すぐ近くにブレナンの墓があったんだが、この時の俺はまだ知らなかった。

 一通りの支度を整え、姫さんの後について歩きながら囁き声の事情説明に耳を傾ける。

 なんでも姫さんは、間抜けな俺が厄介事に巻き込まれる未来を見越して、何日も前から準備をしてくれていたらしい。

「それもこれも、ティミをこの街で偶然見かけなければ、成り立たなかった話じゃがな」

 すっかり知り合い然とした顔で隣りを歩くティミとは、三日ほど前に街中で再会したのだという。

 エフィの故郷で目にしたエミリーの顔を覚えていて、ティミの方から声をかけたのだそうだ。

 話の途中で改めて、なんでこの国に居るのかと尋ねたんだが、「アンタには関係無いだろ」とぶっきら棒に返された。姫さんとは打ち解けた風なのに、俺に対する当たりは相変わらずですね。

 ともあれ、俺がとっ捕まったことをルーカスに知らされた姫さんは、この街に来てから築いたツテを全て使って人を手配し準備を整え——とは姫さんの言で、詳しい内容は俺にも分からない——前もって言い含めておいた通りに、俺の救出をティミに依頼したのだそうだ。

「さすがに、こんな可愛い子の頼みを断れないだろ」

 と、ティミは諦め顔で肩をすくめた。

「っても、さっきの抜け道でもなけりゃ、さすがに断ってたけどね」

「そうだ。なんであんな抜け道を知ってたんだよ、エミリー」

 俺が問いかけると、いつものように服の袖を摘んだ姫さんが、歩きながら見上げてきた。

「うむ。その問いに答える前に聞かせるがよい。ヴァイスよ、お主はこの後どうするつもりなのじゃ。まだ、続けるのか」

 あんな目に遭ってまで、か。

「うん。それなんだけどさ」

 俺は、さっきティミにしたのと同じような話を繰り返す。

「——で、ティミに言ってもらったみたいに、今夜の内になんとかするしかねぇかなって思ってる——んだけど……あんたが言ってた僧侶って、姫さんのことだったのか」

 ティミに視線を移して尋ねる。

「ああ。おあつらえ向きだろ」

「……」

 なんとも答えない俺を、訝しげに睨み返すティミ。

「何を黙ってんのさ。悩むトコなんてないだろ?」

「……エミリーを、危険に巻き込みたくない」

「ハァ?」

 ティミは素っ頓狂な声を出した。

 だから、そんな「コイツ頭オカシイんじゃねーの?」みたいな目ぇして見ないでくれよ。

「やはりな。お主の考えそうなことじゃ」

 苦笑した姫さんは、斜めに俺を見上げる。

「じゃが、里を出た時から、危険は承知の上なのじゃぞ?」

「それでも、なるべく危険な真似はして欲しくない」

 この期に及んで何を、と自分でも思わないでもないけどさ。

 偽らざる、俺の本心だった。

「ハッ! 自分で危険に巻き込んどいて、何言ってんのさ、アンタ」

 心底呆れ果てた、みたいにティミが吐き捨てた。

 うん。それを言われると、辛いんだけどさ。

「アンタ、このコを馬鹿にしてんのかい!? ウチにゃ大した付き合いはないけど、それでもエミリーが大したタマだってのは分かるよ。いま力を貸りないで、どうすんのさ? アンタ、過保護もいい加減にしなよ?」

「俺だって、姫さんがすげぇ頼りになるのは分かってるよ。これが普通の魔物退治なら、是が非でも力を貸してもらうトコだけどさ……さすがに、今回は相手が悪過ぎるだろ」

 さっきも言った通り、おそらく突然変異体との戦闘になるんだぞ?

「それで、またわらわを置き去りにして、ヤキモキしながら待っておれと言うのじゃな」

「そういう言われ方すると、返す言葉がないけどさ……でも、俺自身、生きて戻れるか分からないくらい、危ねぇ相手なんだ。さすがに、簡単にうんとは言えねぇよ」

 ふと思い出して、違う方向から抗弁を試みる。

「それに、まだ迷ってるんだ。俺達だけで決着をつけちまっていいのか、ってさ」

「それはまた、随分といまさらじゃな。一体どういう心変わりなのじゃ」

 すっかり灯の消えた街中を歩きながら、月明かりに照らされた姫さんの呆れ顔が俺を見上げる。

「だって、この国のことだろ。この国のヤツがなんもしねぇまま解決しちまっていいのかって思ったんだよ——」

 あんな目に遭わされて。

 駄目だ、どうしても恨み節が出ちまうな。

 ところが何故か姫さんは、我が意を得たり、みたいな顔をするのだった。

「フム。そういうことなら、丁度よい。やはり、お主はわらわを連れて行くべきじゃな」

「え。話聞いてた?」

「当たり前であろ。馬鹿にするでない」

 おどけて見えるくらい大袈裟にムクれてみせる。

「まぁ、少し待つがよい。すぐに、わらわがいまのように言った理由と引き合わせてやるのじゃ」

 なにそれ、どういう意味?

 言を左右にしてはっきりと答えない姫さんの後について歩くことしばし、やがて王城の威容が迫ってきた。

 思わず、歩みが鈍る。

 頭蓋の内側が鈍痛で満たされ、呼吸と鼓動が早くなる。

 体が、行くなと言っている。

 正直、もう近付きたくないんだが。

「ああ、ラスロは上手く呼び出してくれたようじゃな。予め合図を決めておいた甲斐があったのじゃ——ム、どうした、ヴァイス。大事ないか?」

 袖を掴んでいた手を後ろに引っ張られて、姫さんが気遣う視線を俺に向ける。

 これから王様に化けた魔物を斃しに行こうってのに、いまから尻込みしてちゃ世話ねぇな。

「ああ、悪ぃ。なんもねぇよ」

 気力を振り絞って足を早め、いましがた姫さんが見ていた方に目を向ける。

 位置的には、ちょうど城門の反対側だろう。

 俺の身長の三倍はあろうかという城壁の傍らに、見覚えのある海賊面と並んで、マントについたフードを頭から深く被った小柄な人影が見えた。

「実はわらわも、お主とは別に大冒険をしておってな。その折りに知り合ったのじゃ」

 二人のすぐ側まで歩み寄った姫さんが、よく分からないことを言い出したのだ。

「心配性なお主に、『この国そのもの』とすら言える、わらわの友人を紹介してやろう」

「はじめまして、勇者様方」

 たおやかな仕草で、するりとフードを後ろにはだけると、亜麻色の直毛に縁取られた清楚なおもてが現れた。

「サマンオサ王国第一王女、アレクサンドラと申しますわ。以後、お見知り置きくださいませ」

 マントの下に身につけた、簡素だが仕立ての良さそうなワンピースの裾を軽く摘み、涼やかな声で王女を名乗った少女は、優雅にお辞儀をしてみせたのだった。

3.

 絶句する俺の間抜け面が滑稽だったのか、はにかみながら小首を傾げる。

「ですが、この場では、お堅い事は抜きですわ。どうぞ、お気軽にサーシャとお呼びくださいませ。響きが異国風で気に入っておりますの」

「——はぁっ!?」

 思わず大声を上げそうになって、慌てて口を押さえつつ、ぎこちなく姫さんの方を向く——ああ、いや、ウチの姫さんのことな。

「フフン、さすがに驚いたであろ?」

 そらビックリするよ。

「え? どういうことなんだ?」

 なにがなんだか、さっぱり理解できない。

 さっきのティミとの会話からこっち、相当アタマ悪くなってるな、俺。

「フム。ここで詳しく説明しているいとまもないが、そら、ライラの元で働いておる子供達がおったであろ?」

「あ、ああ」

「あの子らが、引き合わせてくれたのじゃ。はじめはまさか、お姫様とは思わなかったのじゃがな。こう見えてこの御仁、なかなかオテンバであらせられる」

 からかう口振り。

「もぅ、エミリーったら、そのことはいいじゃありませんの。意地悪なさらないでくださいまし」

 姫さんの肩口に触れながら、姫さんが優しくたしなめる。

 え、なんなの、この姫さま率。

 ここは、その——どこだよ。

 少し前までの地獄とのあまりの落差に、クラクラと目眩を覚える。

「さて、冗談はこのくらいにしてじゃな、ヴァイス。こちらの姫君は、この国の現状を大変憂いておられる」

 エミリーが視線を向けると、お姫様——サーシャは神妙な面持ちで頷いた。

「ええ。あんなに優しかった王様なのに……。姫には——失礼致しました。わたくしには、お父様が別人のように思えてなりませんわ」

 この感想を耳にして、思わずエミリーの方を見る。

「うむ。サーシャはこれ以上ない当事者じゃからな。お主に黙ってすまぬが、わらわが知っておることは、全て話した」

「お父様——いえ、国王陛下が魔物に成り代わられているというおぞましいお話は、真実まことなのでしょうか」

 胸元でか細い指を揉み合わせながら、不安げな表情で俺を見上げるサーシャ。

「……残念ながら、事実かと」

 迷ったが、ここは正直に答えることにした。

 こんな縋るような目をした少女を誤魔化す気になれないし、それに、アレコレ損得勘定が出来るほど思考能力が回復していない。

「まぁ……」

 サーシャは大きく目を見開いたまま、口に手を当てて怯えた表情を覗かせた。

 気が重かったが、地下牢で本物らしき王様と接近遭遇した件も伝える。

「お父様が……よく知らせてくれました。ご無事なのですね?」

「はい。お声もしっかりしてらしたので、今日明日にどうこうという事はないと思います」

 どうしてその場ですぐに救い出してくれなかったのですか、みたいになじられる心配をしてたんだが、まるきり杞憂だった。

「……偽者を放置したままでは、お父様を地下牢からお救いしても、却って民の間に余計な混乱を招きかねないと、貴方はお考えなのですね?」

「……はい」

 サーシャは怯えを体外に押し出すように深く息を吐き、真剣な眼差しで俺を見つめると、凛とした声を発した。

「それならば、なおのことですわ。この国の第一王女として、勇者様方にお願い申し上げます。どうか彼の卑怯千万なる魔物めを成敗し、この国をお救い下さいませ。我が父に代わり、重ねてお願い申し上げます」

 体の前で手を重ねて、深々と頭を垂れる。

 いいのに、別に。そんなことしなくても。

 そういうのは、もっと価値の分かるヤツにやった方がいいぞ。

「どうじゃ、これで文句あるまい。お主の欲していた、この国そのものによるお墨付きじゃぞ?」

 エミリーめ、得意げな顔をしやがって。

 確かにこれで、期せずして大義名分まで手に入れたことになるのか。

 そんなこと、できる筈がなかったのに。

 ホント、敵わねぇな。

「頭を上げてください」

 俺の言葉に顔を上げたサーシャ目尻には、薄っすらと涙が光っていた。

 多分、姫さんと出会うまでは、変容していく自分の父親に対する恐怖に怯えながら、不安な日々を過ごしていたんだろうな。

 そんなことを窺わせる表情だった。

「では——」

「はい。ハナから、その魔物野郎をぶっちめる算段をつけてたところです。引き受けますよ」

 及ばずながら。

「ぶっちめ——? はい、あの、ありがとうございます。どうか……恐怖に苦しめられている此の国の人々を、どうかお救いくださいませ」

 祈りを捧げるように、サーシャは胸の前で両手の指を組み合わせた。

 俺なんか拝んでも、何も出ないっすよ。

 くすぐったい気分を誤魔化すように、ティミを振り向いて声をかける。

「ってことになったんで、悪ぃけど、さっき言ってくれた通りに力を貸してくれ」

「ハン、また随分と時間をかけたモンだね。ま、アンタの腹が据わったんなら、それでいいさ。前衛はウチに任せときな」

 え、味方だとすんごい頼もしいんですけど、この人。

「姫さんも——ああ、いや、エミリーも。さっきと言うことが変わっちまうけど、手伝ってくれるか?」

「わらわははじめから、そう言っておるであろ。いちいち聞き直すでない」

「そっか、ありがとな。なるべく後ろの方にいていいからさ。危ない時だけホイミかけてくれれば、それで十分だから。ほら、ランシールで練習しただろ、強い魔物に出くわした時は——」

「分かった、分かったのじゃ! マッタク、わらわもお主とそれなりに経験を積んできたのを、すぐ横で見てきたであろうに。心配し過ぎなのじゃ」

 だって、そりゃ心配するだろ。

「凄いわ、エミリー。本当に、貴女あなたも魔物と戦うのね」

 心の底から感心した口振りで呟き、サーシャは尊敬の眼差しでエミリーを見つめた。

「うむ。わらわは争い事など、本来は嫌いなのじゃがな。そうも言っておれぬであろ」

「なんて勇敢なの。とても信じられない。本当に、貴女は私の先生だわ。それに引き換え、私は不肖の弟子も良いところね——先ほどの私は、勇者様方にきちんとお願いできていたかしら、エミリー」

「もちろん。ご立派であられた」

「貴女やミハイル達のお陰だわ、私がこうして自分の意思で喋れるようになったのは——嗚呼、私にも、エミリーのように魔法が使えたらよかったのに! そうしたら、勇者様方をお手伝いして、自分でお父様をお救いにあがれるのに!」

 なにやら姫さま方にも、これまで色々あったらしい。

 ただ、ちょっと訂正させてくれ。

「あー……と。すみません。アレクサンドラ様?」

 呼びかけると、サーシャは可愛らしく俺を睨みつけた。

「まぁ、お気軽にサーシャとお呼びくださいと申し上げましたのに」

「えーと、それじゃ、サーシャ様」

「呼び捨てで結構ですわ」

「いや、そんな訳にも……まぁ、それは置いといてですね。その、申し訳ありませんが、ジツは勇者本人は、いまは別の用事で王都を離れて不在でして。ですから、その勇者様方ってのは——」

 看板に偽りあり、だ。

「けれど、勇者様のお仲間には違いありませんのでしょう? そのように、エミリーから伺っておりますわ」

「そりゃ、まぁ。嘘じゃないですが」

「でしたら、よろしいじゃありませんの。それに私にとっては、皆さま勇者様ですわ」

 にっこりと微笑む。

 うーん、それでいいのか?

「あ、恩賞についてご心配されていらっしゃるのでしたら、その必要はありませんわ。皆様のお望み通りに手配していただけるように、お父様に口添えさせていただきます。私の名誉にかけて、お約束しますわ」

「いやー、そういうことを心配してる訳じゃなくてですね……」

 そりゃ、貰えるものはもらいますが。

「分かり難くてすまぬな、サーシャ。ウチのヴァイスは、病的なまでの謙遜好きなのじゃ。勇者でもない自分が勇者呼ばわりされるのは、腰のすわりが悪いと言いたいらしい」

 横からエミリーが勝手に的確な解説を加えた。

「まぁ、そうでしたの。でも、この国では謙遜は美徳ですわ」

「美徳であっても、限度というものがあるであろ。この者のソレは、ほとんど強迫観念に近いのじゃ。わらわもいつも、手を焼いておる」

「まぁ、そんなに——お優しいのですね」

 にっこりと微笑まれて、思わず愛想笑いを返しちまった。

 なんの話をしてるんだよ、こんな時に。

「でも、貴女はいつも口ではそんな風におっしゃるけれど、なんだか楽しそうに私の目には映りますわよ、エミリー」

「そうなのか? 心配させられるばかりで、別に楽しくはないのじゃがな」

「いいえ、素敵ですわ。本来はどうしようもない筈の障害を乗り越えて、お互いを想いやるだなんて。憧れてしまいます。自分が思い悩んでいた壁なんて、すごくちっぽけに思えて勇気づけられるのです」

 んん?

 これ、エミリーのヤツ、さては自分の正体をバラしやがっただろ。

「もしかして、勘違いしておるのではないか? わらわとヴァイスは、別に恋仲でもなんでもないのじゃぞ」

「うふふ、そういう事にしておきますわ」

 姫様同士のきゃっきゃとした会話を聞いてると、なんだか自分が物凄い歳を取ったように感じられた。

 なんなの、この華やか空間。

「微笑ましくて、気が抜けちまうね」

 苦笑混じりに零したのは、ティミだった。

「ホントにな」

 けど、まぁ、お陰で随分と気は楽になったよ。

 色んな意味でさ。

4.

「それでは、我が王家に伝わる隠し通路を辿って、お父様——いいえ、邪智暴虐なる魔物の寝所まで、皆様をご案内致しますわ」

 行き方さえ教えてもらえれば、後はこっちでなんとかするって何度も申し出たんだが、王家の人間にしか使えない通路なのだと言い張られて、結局サーシャも同行することになっちまった。

 絶対、言葉で伝えられる程度のモンだと思うんだが。

 別に連れてってやればいいじゃん、みたいな俺以外の全員の態度に後押しされて、押し切られた格好だ。

 だからお前ら、考え方が雑なんだよ。

 お姫様になんかあったら、どうせ責任取らされるの俺じゃねーか、これ。

 くそ、海賊と脳筋に思慮深さを期待するだけ無駄だったぜ。

 ていうか、いくら人目を忍んで抜け出してきたとはいえ、サーシャもサーシャでお姫様としては、あまりにも無防備過ぎやしないかと訝しんだのだが。

 いくらなんでも、お付きの人間の一人や二人は連れてるモンだろ、普通。

 そう問いかけると、サーシャは悲しげに少し目を伏せた。

「いまの私は、空気のようなものですわ」

 城内の皆が皆、国王陛下のご機嫌取りに血眼で、聞き分けの良い大人しい性格なのをこれ幸いと、ほとんど放置されているのが実状なのだそうだ。

 だから、いくら自分の父親に対する違和感を周りに訴えても、体よくあしらわれてしまうだけなのだと、寂しげに語った。

「本来は無関係な勇者様方に不躾にお縋りするしかない、不甲斐ない私をどうぞお許しくださいませ」

 そう口にして、サーシャは再び頭を下げるのだった。

 逆に言えば、そんな状態だからこそ、こっそり城を抜け出して悪ガキ共と——引いてはエミリーと出逢ったりもできたんだろうが。

 ともあれ、仕方がないので、お姫様の護衛役としてラスロも連れて行くことにする。

「おひいさんを守る騎士ナイトにしちゃ、ずいぶんと頼りねぇけどな」

 自らをそう評価したラスロは、海の男だけあって体格はそれなりだが、魔物退治に関しちゃもちろん素人だ。

 なので、とにかくサーシャの安全だけに気を配れと言い含める。

 実は墓場からこっち、俺達に付いてきていたルーカスは、最悪でもマグナ達に状況を伝え残せるように、万が一の時はにがす必要があるので戦闘には参加させられない。

 まぁ、それでなくても、荒事に関しちゃ元から役に立たねぇのは、本人が常々口にしてる通りだけどな。

 こいつの使い所は、そこじゃないから、それでいいのだ。

「少々、お待ち下さい」

 さっき通った地下の横穴よりは多少マシ、という程度に窮屈な隠し通路の途中で立ち止まり——狭い上に途中で急勾配の階段を登ったりしたので、ここまで辿り着くのは結構大変だった——サーシャは壁面を掌で探りはじめた。

 ちなみに灯りは、すぐ後ろに立ったティミが掲げた手持ちランプだ。

「ありました」

 囁きながら、右手に嵌めていた指輪をサーシャが小さな窪みに押し当てると、壁の中でゴコン……と何かが外れるような音がした。

「魔法装置による鍵だと聞いています」

 俺達の物言いたげな雰囲気を察したのか、問われる前に解説してくれるサーシャ。

 へぇ、どこぞの魔法使いの手による物かね。『ラーの鏡』の件と言い、この国に縁の深い魔法使いでもいそうだな。

「この壁を横に引いてみてください。おそらく、動くと思うのですが……」

 やや自信なさげなサーシャの言葉を受けて、ティミがすぐ後ろの俺にランプを押し付ける。

「持ってな」

 うん、ここは力自慢——かどうかは知らんけど、あんたの出番スよね。お願いします、姐御。

「フッ」

 鋭い呼気と共にティミが踏ん張ると、両掌をつけた壁が僅かに動いて見えた——

 と、それがすぐに止まる。

「シッ」

 威嚇するような音を発して、俺達が口を開く前に黙らせたティミが、サーシャに囁く。

「ちょっと離れたところに、誰かいるね。心当たりは?」

「え——? そんな筈は……」

 困惑した口振りで続ける。

「最近では、こんな夜更けに城内を歩き回る者はいない筈ですわ。見回りの衛兵ですら、近頃は神隠しを怖れて巡回を放棄しておりますもの」

 なんで、城の中で神隠しなんて怖れるんですかね。

「フン、なら何者かね。ま、確かめりゃいい話か——あんた、灯りを体で隠してな」

 居丈高に俺に命じて、ゆるゆると音を立てないように壁をスライドさせたかと思ったら、ティミは頭が通る程度の僅かな隙間から体をクネらせて外に出る。

「——っ!?」

 一瞬だけくぐもった声がして、続いてティミの囁きが聞こえた。

「いいよ。出てきな」

 俺とルーカスとラスロの三人がかりで壁の隙間を広げて城内の廊下に出ると、そこには後ろ手をティミに捻り上げられた人影があった。

 廊下の片面を覆う大きな硝子窓から降り注ぐ星明かりに照らされた、その顔を目にした途端、俺は自分の心臓がドキンと大きく脈打つのを感じた。

 だって、それはいま、この場に居る筈の無い人間だったのだ。

「こんなトコで、何やってんだ?」

「なんだい。まさか、知り合いってんじゃないだろうね?」

「痛っ」

 ひょいとさらに後ろ手を捻り上げられて、細身の人影は苦悶に顔を歪める。

「ああ。そのまさかだよ」

「よかった、ヴァイス! 無事だったのね!?」

 痛みを堪えながら、見慣れたその顔——ヘレナが健気なことを口にした。

 いや——ちょっと待ってくれ。

「……どうしてお前が、こんなトコに居るんだ?」

 俺の口からは、ようやく困惑しか出てこない。

 だが、ヘレナの返事は淀みなかった。

「マテウスさんに、聞いたの。あなたが捕まって、お城に連れていかれたって。だから、私、心配で——」

 救い出そうとしてくれたってのか?

 この国の人間が?

 この俺を?

 そんな事——あり得んのか?

 サマンオサで経験した出来事が奔流のように脳裏をよぎり、俺は知らず口元を右手で覆っていた。

「どうやって、ここまで入って来られたんだ?」

 頭の中で自明の問いをいくつかすっ飛ばした俺の問いかけは、やや唐突に聞こえたかも知れない。

 少なくとも、言葉を詰まらせながら懸命に口を開こうとするヘレナの気持ちを慮るだけの余裕は、持ち合わせていなかった。

「え——その、私、厨房の裏にある勝手口の鍵を渡されているの。よく、足りなくなったものを買いに行かされたり、最後に掃除を任されたりしているから」

 ああ、なるほど——整理しきれない情報が揺蕩たゆたう頭の中で、とある仮説が浮かび上がる。

 この情報は、あの兵士ブルーノがヘレナに近づいた理由のひとつだったりするのか、もしかして。

「その鍵を使って、ここまで忍び込めたって訳か」

「ええ……あっ、もちろん、普段はこんなことしないわ! 鍵を使って黙って入ったのなんて、今回がはじめてよ!?」

「ああ、分かってるよ。けど、なんでこんな上の階に居るんだ。俺が捕まったって聞いたんなら、普通は地下牢の方に行くんじゃねぇのか」

「それは、その……あっちには見張りの兵隊さんがいて、忍び込めそうになかったから……それに、馬鹿な女の浅知恵と笑われるかも知れないけれど……その、近頃お城の中で忽然と人が消えてしまう事件がよく起こってて……それは、その、王様が食べてしまうからだって……だから、貴方が心配で……もしかして、私を何か疑っているの?」

 こっちの顔色を伺うような、ここ何日かですっかり見慣れた上目遣いを向けられて気付く。

 命の危険まで覚悟して、身を案じながら助けにきた相手に疑いの眼差しを向けられたら、そりゃ傷つくよな。

「いや、違う。悪ぃ、疑ってるんじゃなくてさ……」

 登場がいきなり過ぎて、どう扱ったらいいのか分からないのだ、単純に。

「その方がおっしゃるような噂を城内で耳にするのは、本当です。いまのわたくしには、内容までもが事実であるとしか思えません」

 気を回してくれたのか、それまで黙っていたサーシャがヘレナに口添えした。

 人間を頭からボリボリと貪り喰らう、漠然とした魔物のイメージが脳裏に浮かぶ。

 そんなモノを父親だと思い込まされていた気分は、一体どういうものだろう。

「で? ウチは結局、この女をどうすりゃいいんだい?」

 気のない口振りで尋ねてきたティミに、頷いてみせる。

「うん。大丈夫だと思うから、離してやってくれ」

「……ハッ」

 言葉にこそしないももの、あからさまに気に食わない素振りで、ティミはヘレナを解放した。

 捻られていた腕を擦るヘレナを横目に見ながら吐き捨てる。

「性懲りもなく、また女をたらし込んでんのかい、アンタ。勇者様は、このことをご存知なんだろうね?」

 はぁ?

 なんでお前にまで、そんなことを訳知り顔で、いきなり問い詰められなきゃならねぇんだ——

 と思ったが、コイツの視点からすれば、俺とマグナの痴情のもつれに巻き込まれて、勇者様のお付きになる栄誉を妨げられたようなモンだったな、そういえば。

 その張本人たる俺が、エフィの時といい今といい、別の女とよろしくやってるように見えたら、そりゃ文句のひとつも言いたくなるか。

 でも、こっちにだって事情があるんだよ。

「たらし込んでねぇし、あいつだって承知の上だよ」

「ハン。どうだかね」

「勇者様って……?」

 あ、しまった。

 ヘレナには聞かせてねぇ話なんだから、ティミも迂闊なことを口にすんなよな。

 まぁ、もう隠してる意味もねぇけどさ。

「分かんねぇことだらけだろうけど、全部、後で説明するよ」

「……分かった」

 おそらく言いたいことを飲み込んで、ヘレナは小さく頷いた。

 相変わらず、こっちが心配になるくらい聞き分け良いな。

 つか、サーシャが物凄い事情を聞きたそうに、チラチラとエミリーに視線を送ってるんだが。

 姫さんも、また誤解を招くような中途半端なことを、他所よその人間にホイホイ言いふらすんじゃねぇぞ。

「でも、本当に良かった。もう仲間の人に助けてもらっていたのね。そうよね、私なんかが来たって、何も出来ないのに。馬鹿みたいね」

 薄く笑いながら、ヘレナがそんなことを口にした。

「ンなことねぇよ。助けにきてくれて、嬉しかった」

 話の流れでそう聞こえないかも知れないが、嘘じゃない。

 さっきは突然過ぎて困惑が勝っただけで、落ち着いて自分の気持ちを振り返ると、やっぱり嬉しかったんだと思う。

「そう? なら、良かった」

 実際は脱獄の役に立った訳でもないので、だからどうしたって話ではあるんだけどさ。

「それで、王の寝所とやらは、もう近いのじゃな?」

 仕切り直すように、エミリーがサーシャに確認した。

「ええ。すぐそこに見える、あの扉の向こうですわ」

「フッ、それにしても——」

 不意に、前髪のウザそうな無駄にいい声がした。

「まさか、このような隠し通路が存在したとはな。エミリーに頼まれて事前に調べていた時は、そこに見える小塔から王の寝所のテラスに跳び移るしかなさそうだと思っていたんだが」

 前髪に隠れていない方の目で、窓の向こうの小塔を眺めながら呟くルーカス。

「近頃は衛士や侍従も詰めておりませんもの。そんな危ないことをせずとも、ここまで辿り着いてしまえば、後は堂々と正面から入ればよいだけですわ」

「あ……う——はい……」

 誰にともなく言ったつもりが、よりにもよってお姫様に返されて、ルーカスは消え入りそうな声で呻いた。もちろん視線も合わせないので、サーシャに怪訝な顔をされてるじゃねぇか。

 フォローのつもりじゃないが、代わりに語りかけつつ頭を下げる。

「案内していただいてありがとうございました、殿下。ここまで見咎められずに来られて、助かりました」

 サーシャと呼ばなかったことに、姫殿下は不服そうな表情を浮かべた。

 気付かない体を装って、この先の段取りを考えつつ口を開く。

「ラスロは、殿下を部屋までお送りしてくれ。丁重にな。ヘレナは——もし一人で帰るのが怖いようなら、ルーカスと一緒にここで待っててもらうしかねぇけど、ルーカスは俺達に何かあったら、自分が逃げ延びる事を最優先に行動してくれ」

「まぁ。わたくしのことまで、ご勝手にお決めにならないでくださいませ」

 そう言って口を挟んだのは、サーシャだった。

「私も共に残りますわ。お邪魔になってはいけませんもの、戦いをご一緒させていただくのが無理なことは分かっておりますけれど、せめて部屋の外で待たせてください」

「いや——」

 そんな危険を冒す意味はねぇだろ。

 口にしかけて、あやうく踏みとどまる。

「勇者様方に何かあれば、いずれにせよ私もただでは済みません。危険は覚悟の上で、この場におります」

 真っ直ぐに向けられた、真剣な眼差し。

 姫さんを横目で見ると、したり顔で小さく頷かれた。

 まぁ、そうだな。

 覚悟が出来てるってんなら、そうしたもらった方が、こっちとしても助かるか。

「分かりました。では、殿下はこの国の代表として、俺達のすることを見届けて、証人になってください」

「ええ、もちろんですわ。承りました」

 サーシャは自分に出来ることがあることを喜ぶように、やや緊張した面持ちで微笑んだ。

「わ、私も残るわ!」

 それよりもさらに思い詰めた表情で、おそらく訳も分からないままヘレナも言い募る。

「うん。じゃあ、一般人代表ってことで、ヘレナも頼むよ」

 っても、別に何をしてもらうって訳じゃねぇけどさ。

「任せて!」

 それでも、ヘレナはひどく意気込んで返事をするのだった。

 だが、その表情には隠しようのない怯えが滲んでいる。

 それは、ルーカスやラスロも同じなのだ。

 何故なら、ホールを挟んで奥に見える扉から、あからさまな妖気がさっきから漏れ漂っているのだ。

 魔物と縁の薄い連中ですら、何かを感じ取らずにはいられないくらい。

 以前にヤマタノオロチの妖気を体験していなければ、俺もビビって回れ右をしていたかも知れない。

 それくらい強烈だった。

 これはマジで、かの邪竜と同格くらいの化け物が、扉の奥で待ち受けていてもおかしくなさそうだ。

「そんじゃ、行くぜ。ティミ、エミリー」

 自分を鼓舞するつもりで、あえてなんでもない口調で促すと、さすがのティミは緊張した風もなくしれっと返す。

「ハン、待ちくたびれたよ。さっさとぶっ倒して、いまのウチがリィナに劣らないってことを証明してやるよ」

「お主こそ、今度は無茶するでないぞ」

 エミリーからは、逆に釘を差された。

 いや、ちょっとは無理しないと、突然変異体みたいな化け物は斃せないと思うんですけど。

5.

「ウチが先に入るから、アンタらは後からついてきな」

 言うが早いが足を動かして、気付くとティミは奥の扉に張り付いていた。

 正直、迷う暇が無くてありがたい。

 後方のサーシャ達に頷いてみせてから、足音を殺しつつエミリーと後を追う。

 身長の倍はあろうかという馬鹿デカい樫扉かしどを慎重に薄く開き、するりとティミが中に消える。

 予想してはいたが、ホントに鍵とかかかってねぇんだな。

 ニンゲンなんぞは警戒するに値しない、とでも言わんばかりの部屋の主の傲慢さが透けて見える。

 扉の隙間から覗く白く浮いた手が、俺とエミリーを手招きした。

 誰もいない控えの間を抜け、ティミの先導でさらに奥へと這入り込む。

 そこには、部屋とは思えないほどだだっ広い空間が待ち受けていた。

 十人は並んで眠れそうな馬鹿デカいベッドが部屋の真ん中に鎮座ましましてるんだが、広すぎてぽつんと寂しげに見えるほどだ。

 部屋の奥一面が大きな窓になっており、整える者とて居ないのだろう、折り重なった分厚いドレープとレースカーテンが中途半端に開いているお陰で、闇に慣れた目には室内の様子が月明かりで十分に窺えた。

 つか、外に居た時から気になってたんだが、やたらいびきがうるせぇな。

「フン、気付く様子もないってかい。余裕だね。誰が暗殺に来ようが、どうせ殺せやしないって、ナメきってやがんのさ」

 吐き捨てながら、ティミはベッドに跳び乗って、人の形に盛り上がったシーツを跨いで仁王立ちした。

 つか、流石に展開が早すぎなんだけど。

 お前、もうちょっと、段取りってモンが——

「これ喰らっても鼾かいてられるか、試してやるよッ!」

 うわ、躊躇なく顔面を殴りやがった。

 足場がベッドで腰が入ってないから死にゃしないだろうが、お前、そいつが魔物じゃなかったらどうするつもりなんだ。

 シーツの隆起が、もぞりと動いた。

「——ッ」

 動物じみた素早さで身を翻し、ベッドから跳び下りるティミ。

 だが、まるで寝惚けているような緩慢さで、シーツはもぞもぞと動いただけだった。

「……誰じゃ、儂を起こすのは……明日にせい、明日に……」

 緊張感の無いその声音に、俺達は思わず顔を見合わせる。

「なんなのさ、コレ。緊張感無いね」

「まさか、人間——じゃないよな」

「さすがに、この妖気でニンゲンはないじゃろ」

「だよな」

「まだ煮え切ってないのかい、アンタ。呆れるねぇ。この期に及んでさ」

「分かってるよ。ちょっと言ってみただけだ」

 小声で軽口こそ叩き合っちゃいるものの、いますぐ逃げ出したいくらいの強烈な妖気が部屋中に充満しているのだ。

 さすがの俺も、こいつが人間とは言わねぇよ。

 近くにいるだけで、動悸が激しくなって、視野狭窄に似た感覚に襲われる。

 これは、誰も近付かなくなっても仕方ないわ。

 つか、ハナから正体隠す気ねぇだろ、こいつ。

「チッ、このままお見合いしてても、ラチ明きゃしないね」

 舌打ちをして、警戒するのが面倒臭くなったのが丸分かりの口調で吐き捨てるティミ。

 次の瞬間。

『メラミ』

 止める暇とてあらばこそ。

 こいつ、今度は魔法をぶっぱなしやがった!!

 つか、メラミ使えんのかよ、お前!?

 隆起したシーツを中心に巻き起こった爆発から、姫さんを庇いつつ距離を取る。

「お前、さすがになんか言ってからやれよ!」

「無茶苦茶じゃな!」

「ハッ、そりゃ悪かったねぇ! けど、アレの気付けにゃ丁度いいだろ!?」

 気付けっていうか、そのまま気絶っていうか、絶命してんじゃねぇの。

 そんな希望的観測を打ち消すように、爆煙を脱ぎ捨てて、ゆっくりと立ち上がる影があった。

『バイキルト』

 思わず、ティミに強化呪文を唱えちまってた。

 体の中心を、氷より冷たい何かが貫く。

 これは——ヤバい。

 それまで向けられていなかった殺気が、わずかばかりこちらを向いただけで、見事なまでにブルっちまった。

 まるで、ニックと対峙した時のような寄る辺なさ。

 いや、あの時と質はまるきり違うんだが、感じる殺意の量はこちらの方が上かも知れない。

『何ジゃ、貴様ラ』

 くぐもっているせいか、幾重にも重なって聞こえる奇妙な声を、影が発した。

 焼け焦げたベッドの上に立っていたのは、見事な白髭をたくわえたガウン姿の初老の男だった。

 上背こそあるものの、顔や体つきはこれと言って変哲もない老人のそれだ。

 だからこそ、異常だった。

『何ダ、こノ騒ギハ——ヤツメ、何カイッテたカ?』

 よろめくこともなくしっかりとした足取りでベッドの上を歩き、軽く跳躍して俺達の前に降り立つ。

『憶エとランな。貴様ラニモ、見覚エガなイ。マァ、ニンゲンの顔ナド、区別ツカンが』

 目の前の老王が強烈な妖気を発していることは置いといて、この短い間にボロ出しすぎだろ、こいつ。

 これほど隠す様子すら無い有様なのに、正体がおおやけには未だにバレてない理由は、ひとつしか考えられなかった。

『サてハ、新シイ餌か……ナンデもいイ。エぇと……死刑』

 そう。阿って媚びへつらう連中以外は、全部殺して喰っちまったからだ。

「こっちのセリフだよッ!!」

 この国の王として扱われている何かの顔面を、ティミの回し蹴りが容赦なく襲う。

 だから、こいつもこいつで、思い切り良すぎだろっての。

『クカカ。活きガ良イな』

 魔法で威力が倍化された筈の、しかもダーマの武闘家の蹴りを、あっさりと腕一本で受け止めて、老王は嗤った。

「チッ」

 舌打ちを残して、俺達のところまで跳び離れたティミがボヤく。

「なんだい、ありゃ。気色悪い。目で見えてるのと全然違うじゃないか。調子狂うね」

 確かに、異常だ。

 距離を置いたティミを追い、拳を掲げて殺到する姿から放たれる圧力は、老人のソレとはとても思えない。

 見た目と皮膚感覚のあまりの違いに、脳が混乱する。

「離れてなッ!!」

 俺達を庇うように前に出たティミが、交差させた両腕で老王の拳を受け止めた。

 すげぇ嫌な音がしたぞ、大丈夫か。

 思わず顔を顰めながら、邪魔にならないように姫さんの手を引いてその場から離れる。

『ホゥ?』

「いっ……たいねぇッ!!」

 交差していた両腕を素早く下ろして腰溜めに構え、ティミは絶叫する。

『イオ』

 閃光と爆発が老王を包み込む。

 多分これは、直接的なダメージを狙ったんじゃなく、目くらましだ。

 ティミは爆煙が晴れるのを待たず、息を呑む勢いで連撃を叩き込む。

 ココの打撃よりも速く、リィナの打撃のように重い。

 え、滅茶苦茶強いんだけど。

 これ、このまま斃しちまうんじゃねぇの——

『フゥム』

 無造作に腕を掴まれて、ティミの連撃が止まった。

『活きガ良スギる。大人シくしロ』

「ぎっ」

 強く腕を握られたティミが、呻き声を上げた。

 あんな枯れ枝みたいな腕のどこに、そんな力があるというのか。

 そして、魔物が化けている筈の老王が次に取った行動は、にわかには信じがたいものだった。

『ルカナン』

——ッ!?

 莫迦な、魔法だとッ!?

 いや、確かに魔物が魔法を使うこと自体は、決して珍しくはないが——待て、そうだ、それこそが——って、呑気に考え事してる場合じゃねぇよ!

「むぅ——?」

 よろめく姫さんを視界の端に捉えつつ、俺の全身も恐ろしい倦怠感に襲われる。

「チッ、離しなッ!!」

 掴まれた腕をくるっと回転させて、ティミが怪老の手を振りほどいた。

 だが、やはり呪文の影響か。

 隙を突いて殴りかかる逆の拳に反応し切れない。

『スカラ』

「ぐぅッ!?」

 無理矢理唱えた防御呪文が、なんとか間に合った。

 腹を殴り飛ばされたティミは、くるっと後ろに回転してすぐに立ち上がった。

『ホイミ』

 続いて唱えられた姫さんの呪文で、ダメージはほとんど回復しただろう。

 だが——

「チッ、見た目とまるきり違い過ぎて、シン喰いやしない。やり難いったらないね」

 思わず漏れたティミの呟きに、内心で深く頷く。

 なんというか、こいつ——とりとめがないのだ。

 てっきり、ニュズと一緒にスーで目撃された、粗野な男の魔物が化けているんじゃないかと見当をつけていたんだが。

 まさか、魔法を使うような相手だと思っていなかった。

 その癖、言動はニュズより知能が発達しているとも思えない。

 印象にまとまりがなくて、捉えどころがないのだ。

 だが、困惑しているのは、どうやらこちら側だけではなかった。

『ム……? コんナ面倒な餌ハはジメてダ。ヤツメ、何ノつモリだ』

「ハッ、まだ餌だなんて言い張るなんざ、ナメられたモンだねぇ。ウチが大人しく喰われるタマか、思い知らせて——」

『控エヨ』

 発されたのは、暴力的なまでの妖気。

 ティミの言葉を、途中で止めるほどの。

 ニュズのものより遥かに強烈で、質量を伴っているかの如き妖気。

 まるで、怖ろしく巨大な掌に上から抑えつけられているようだ。

『デ、合ってイタか。言葉ハ』

 何言ってやがる、こいつ。

「ヴァイス……」

 それ以上は言葉にならないような不安げな声で、姫さんが俺の名前を呼んだ。

 その手を握ったまま、さらに部屋を回り込んでできるだけ距離を取る。

 俺達が近くにいたら、ティミの邪魔になるだけだ。

「ハッ、ワケ分かんない魔物だね。けど、強いは強い——ひょっとしたら、あの森喰いより」

 ティミは半身になって、リズムを取るように小刻みに躰を揺らす。

「そうこなくちゃね——見ときなよ、師匠。コイツを斃して、ウチはリィナを追い越したって証明してみせるから」

 この状況で不敵に笑ってみせるんだから、味方にするとホント頼もしいな。

『ン? 貴様、イま魔物ト言ったカ?』

 だが、老王に化けた何かは、まるで関係ないことを口にした。

『ソれハ、儂ノこトカ』

「は? アンタ以外に、誰がいるってのさ」

『何故、ソれヲ知ってイル。違ウ。儂ハ、魔物デハなイ。ソレだケハ、知ラレてハナラんとイワレたのダ』

「はぁ?」

 なんだ、その言い回しは。

 誰かに教えられたことを、ただ繰り返しているだけみたいな。

「フン。そんなこと言われても、ウチらはもうアンタが魔物だって知っちまったよ。だったら、どうするんだい?」

 ティミが前に出した左手で手招きしながら挑発する。

 お前、気軽に煽んなよ。勝算はあるんだろうな。

 だが、返ってきたのは予想外の言葉だった。

『……ヘンな事ヲ聞くナ。そノ答エハ、教わッテなイ』

「はぁ?」

 片眉を跳ね上げたティミは、一転してにんまりとした笑みを浮かべた。

「アンタが魔物だってのは、秘密なんだろ?」

『ソウダ』

「秘密を知ったヤツは、どうしろって言われてんのさ?」

『全テ殺ス』

「だろ? だったら、アンタはウチらを?」

『殺ス』

「はい、よく出来ました。コイツは、ご褒美だよッ!!」

 言い終わる前に肩から突っ込むティミ。

 老王の胸部を左肩で打つと同時に体を入れ替えて右掌で突き飛ばし、空いた距離を利用して左回し蹴りを顔面に叩き込む。

 その躰が沈み込んだと思ったら、ほとんど四つん這いで猫じみた動作で跳び離れる。

 次の瞬間、直前までティミが居た空間を、力任せに振るわれた拳が風切り音を立てながら通り過ぎた。

 どう考えても、あの老体で繰り出せる打撃じゃねぇぞ。

「ダメだね、こりゃあ。普通にやったんじゃ、効きゃしない」

『ルカニ』

 ティミのボヤきを予期していたように、姫さんの呪文が発動し、老王の躰が薄く発光した。

「へぇ」

 感心の呟きを残し、呪文の効果でさっきの俺達以上の倦怠感に襲われている筈の老王の脇を、ティミは回転しながら回り込む。

「シッ!!」

 回転した勢いを加えて振り回されたティミの右脚が、背後から老王の延髄を叩く。

『ムゥっ』

 ありとあらゆる国民から狂王と恐れられる老人の体躯が、はじめてよろめいた。

「ハッ、いけちまうね、コイツは!」

 叫びながら、ティミは左右の拳を痩せた背中に叩き込む。

『ルカナン』

「ッ——」

 膝が抜けたようによろめいたティミを、振り向きざまに殴りつける狂王。

 躰を床に投げ出して辛くも身を躱し、ティミは跳ねるように起き上がりつつ距離を取る。

「マッタク、面倒ったら。おひいさん、マホトーンは!?」

「すまぬ。わらわは、まだ使えないのじゃ」

「だろうね。ベホイミ使えないって言ってたもんね」

 呟きながら、ティミがちらっとこちらを振り向いた。

「アンタ、ちょっとだけ時間稼ぎしなよ」

「へ?」

「聞こえただろ? ちょっと溜めが要る攻撃するから、その間アイツを引きつけときな」

「いや、無茶言うなよ」

「無茶だろうがなんだろうが——チッ!」

 こちらの会話などお構いなしに襲い来る老いた細い豪腕から、ティミは辛うじて身を躱す。

 確かに、無理だのなんだのと言ってる場合じゃねぇな。

「どのくらいだ!?」

「ッ——三十数えるくらいでいいよ!」

 思ったより長ぇな。

「それで確実に、ぶっ斃せるんだろうなっ!?」

「斃せなきゃ、ウチもアンタも死ぬだけだよッ!!」

 振り回された拳が、ティミの顔のすぐ横を抜けて、冗談みたいにあっさりと壁に穴を穿つ。

 回り込んだティミが再び延髄に蹴りを叩き込んでも、今度は痩せ枯れた老体はびくともしなかった。

「姫さんは、入り口の方まで離れてろ」

 小声で指示すると、さすがに反論もせず小さく頷いて、エミリーは足音を忍ばせて扉に向かった。

「ティミはそっから離れろ!」

「頼んだよ!」

 頼まれても困るんだが、仕方ねぇな、くそ。

 ベッドの残骸から焦げた枕を拾い上げて、位置を変えつつ白髭の老人に向かって投げつける。

「オラ、来いよ、バケモン。こっちだ。来ねぇなら、いますぐ外に出て、手前ぇがニセモノだって大声で叫び回ってやっからな?」

『ヌ……』

 どうにか言葉が通じたらしい。

 あんまり嬉しくないけど。

 壁に腕を刺したまま、狂王はぐるんと首を回して、おそらくはじめてまともに俺を見た。

 一瞬で、全身から嫌な汗が吹き出す。

 ヤベェ、死ぬぞ、俺、これ。

 飢えた野獣を前にした時以上の、圧倒的な死の予感。

 壁から腕を抜いた狂王の躰がこちらを向いた時には、堪えきれずに呪文を唱えちまってた。

『ボミオス』

 呪文の効果が発現したことを表す淡い光が老人の体を——包まない!?

 抵抗された!?

 マズい、詰んだ。

 せめて素早さを奪いでもしない限り、俺があいつの攻撃を避けるのは不可能だ。

『ピオリム』

 俺の体が、薄く発光した。

 姫さんだ。

 偉いぜ、俺よりよっぽど機転が利きやがる。

『死ネ』

 繰り出された恐るべき打撃を、魔法で引き上げられた瞬発力に任せて、なりふり構わず横に跳んで躱す。

 怖っ!!

 掠めた拳が空気を裂く音が、耳元で聞こえたぞ。

 みっともなくすっ転びながら、それでも俺は生きていた。

 マジで、どう見ても爺さんなのに、感じる圧迫感とのあまりのギャップに、脳みそが混乱しっぱなしだ。

 コオオォォォ——

 這うようにしながら逃げ惑い、もう一度なんとか攻撃を躱した俺の耳に、人間が発したとは思えない音が届いた。

 腰を落として両手をゆっくりと前に突き出しつつ、息を吐いているティミの姿を横目に捉える。

 まだか?

 なぁ、まだかって!?

 ベッドの残骸を挟んで必死で逃げ回ってんのに、すぐ追いつかれちまう。

 ちったぁ素早くなってる筈なのに!

 ああ、死ぬ。

 死んじまう。

 せっかく、あんな地獄から助け出してもらったのに。

 すぐまたこんな目に遭ってるとか、俺の人生って一体なんなんだ。

 いや、人生について悩んでる場合かよ!?

 ヒィッ!!

 あっぶね、奇跡だ、奇跡が起きました。

 三度まで躱してやったぜ、こン畜生!!

 でも、もう無理。

 マジ無理です。

 死ぬ。

 マジ死んじまう。

 もういいよな!?

 もう無理だぞ、マジで!!

「正面に連れてきな!」

 くそ、この上、まだ無茶を言いやがる。

 分かったよ、やりゃいいんだろ、やりゃ。

 どうなっても知らねぇからな——俺が。

 魔法で素早さが上がってる筈なのに、もどかしいほど脚が動かない。

 いまにも背中から胸まで拳で貫かれそうで、恐怖で全身から力が抜けそうになる。

 息がうまく吸えない。

 視界が狭まる。

 もうちょい——間に合うかも。

 おら、連れて来たぞ。

 え、ティミ、お前、目ぇ瞑ってんじゃねぇか。

 大丈夫なのかよ。

 知らねぇぞ、俺、もう無理だから!!

 頭から滑り込むように、ティミの脇を抜けて床に身を投げる。

ッ!!」

 床を踏み鳴らす音と、何かが爆ぜたような音がほぼ同時に響き、直後に重い何かが猛烈な勢いで壁に激突する音が聞こえた。

 やられたのは、どっちだ!?

 怖くて、しばらく顔が上げられない。

 それ以上音がしないことを確認してから、おそるおそる首だけ振り向けて背後を覗く。

 立っていたのは、ティミだった。

 右の拳を前に突き出したまま、動きを止めている。

 身を起こしながら視線を巡らせると、反対側の壁際にくずおれた怪老の姿があった。

 思わず、盛大なため息が口から漏れる。

「やったのか?」

「ああ。手応えはあったよ」

 ようやく構えを解いて、ティミはぐったりと壁に背をあずけた老人に歩み寄る。

「ったく、とんでもない爺さんだったね。見た目通りじゃないのは分かってるけどさ——ッ!?」

 ティミは、油断してなかったと思う。

 老王の様子を慎重に窺いながら、近付いていた筈だった。

 その体が、唐突に宙を舞う。

 反対側の壁まで、物凄い勢いですっ飛んで叩きつけられた。

 警戒していようが関係無い力づくで、蹴り飛ばされたのだ。

「ぐっ——」

 ドサリ、とティミが床に落ちたのと対照的に、老王はゆっくりと立ち上がった。

『貴様ラ、餌ジャなイノか。オレ——儂ヲ、殺シにキタのカ』

 いまさらかよ。

 ようやく、俺達を敵と認識したってのか。

 これまでは、生き餌をしめる程度のつもりだったとでも言うのかよ。

『ホイミ』

 姫さんのホイミで多少回復したのか、ティミがピクリと蠢いた。

「オイ、大丈夫か。まだいけるか?」

「——ったり前だろ」

 勇ましい言葉とは裏腹に、弱々しい咳混じりの声で、床に伏したままいらえる。

 ティミはすぐに立ち上がれそうにない。

 今度こそ詰んだろ、これ。

「エミリー。外の連中と逃げてくれ」

「嫌じゃ。さすがに聞けぬ」

「頼むよ。言い争ってるヒマないんだって」

「ふむ。それは好都合じゃったな」

 声震わせながら強がりやがって。

 仕方ねぇ、やるだけやってみるけどさ。

『メラミ』

 ティミのそれよりは大きな火球が、無造作に突っ立っている老王を襲う。

 直撃。

 轟音。

 だが、爆煙が晴れた後には、大したダメージを受けた様子もない老人の姿が、相も変わらずそこにあった。

 うん、知ってた。

 どうせ、一発じゃ斃せねぇだろうとは思ったよ。

「ルーカス!! 自らに課した誓約に偽りがないのなら、見事姫君をお護りしてみせろ!!」

 出せる限りの大声で怒鳴る。

 大サービスで、お前がやる気出しそうなセリフを吐いてやったんだ。姫さんだけは頼んだぜ。

 ティミが倒れた今、こちらにもう抗う術がないのを理解しているのか。

 老王はゆっくりと歩み寄る。

 いくら攻撃しても斃れない爺さんとか、ホント怖すぎて悪い夢に出てきそうなんだが。

 まぁ、もう夢なんて見れないだろうけど。

 枯れた手が、俺の喉に伸びる。

 掴まれそうになった刹那、俺は隠しから手を抜きつつ、逆に老王に向かって倒れ込んだ。

 手に握るは『どくばり』。

 刺しどころさえ良ければ、そこらの魔物なら、おおよそ八回に一回くらいは即死させるって代物だ。

 統計的には、なんと一割以上斃せるんだぜ。

 引けよ、俺!

 タマには運が良くたっていいだろ!?

 頼む、効いてくれ——

 全ての体重を預けて、老王の躰に『どくばり』を突き刺す俺の首根っこを、後ろから物凄い力が掴んだ。

 ダメか。

 俺みたいな持ってない人間が、土壇場で運に縋ろうなんて、ムシが良すぎたな。

 ぐるっと体が回転させられたと思ったら、怖ろしく強力な枯れ枝のような腕が首に巻き付く。

「ぐっ——」

 いかん、これ、すぐイッちま——

 薄れゆく意識の中で、金属が微かに光を反射する軌跡を見た。

 嫌な音を立ててナイフが突き刺さり、老王の腕が僅かに緩む。

 その瞬間、俺は文字通り死物狂いで体を捻って、老王の魔手から逃げ出した。

 だが、そこまでだった。

 脚に力が入らない。

 すぐにフラついて、ホンの数歩で支えを失ったみたいに床に倒れ込む。

 視線だけ上げると、部屋の入り口で姫さんを後ろに庇いながら、ルーカスがナイフを投じた姿勢のままブルブル震えていた。

 お前、そのザマで、よくもナイフなんぞ投げやがったな。

 ちょっと手元が狂ったら、俺に刺さってたじゃねぇかよ。

「フ、フン。ひ、姫君をお助けする、つ、ついでだ」

 俺の視線に気付いたのか、何も言ってねぇのに、ルーカスは勝手に言い訳をした。

 正直、助かったよ。

「……行け」

 首を締められていたせいか、思った以上に声が出なかった。

「嫌じゃ、ヴァイス!」

 叫びながらこちらに手を伸ばす姫さんを抱えて、ルーカスが踵を返す。

 頼んだぜ。

 苦労して首を曲げて背後を見ると、テラスに続く壁一面の窓から覗く空が白んでいた。

 そろそろ夜明けか。

 逆光で黒々として見える狂王が、腕から抜いたナイフを床に落とす。

「ヒィ……やめ……来るな」

 どうにか上半身だけ起こし、我ながら情けない声をあげて、尻で後退る俺。

『クカカ……ヤッと、餌らシクなッタか」

「よせ……頼む、助けてくれ。あんたの正体は、誰にもバラさねぇよ」

 涙と鼻水を垂れ流しながらの、心からの命乞いだった。

 そのくらい、追い詰められている。

『正体……ソゥ。秘密ヲ知った貴様ラ、生きテ帰スわケニはいかヌ』

 やっぱり、誰かにキツく言い含められてるんだな、これ。

 最優先事項って訳だ。

 お陰で、こんな死にぞこないでも、こっちに注意を引きつけられたぜ。

『メラミ』

 拳に先行して放たれた火球を追うように。

「くたばれェッ!!!」

 死角から直撃した爆発を掻き分けて、まるで捨て身みたいに体ごと狂王に殴りかかる影があった。

 ティミだ。

 さっきの仕返しさながら、老王の枯れた体躯が逆の壁に叩きつけられる。

「ケリつけてやるッ!!」

 駆け寄り様に、顔面に前蹴りを叩き込む。

 嫌な音を立てて、怪老の頭蓋が壁で跳ねた。

 その後は、目にも止まらぬ連撃だ。

 だが、さすがに最初よりは速度も威力も落ちている。

『調子ニ乗るナッ!!』

 老王は細い豪腕で、力任せにティミを突き飛ばして立ち上がった。

『ギザマラ、モう許サん……アイつの言うコトナドどうでもいい……』

 それまでと異なる口振り。

 何者かに仕込まれていた仮面が外れて、素が出かけているとでもいうような。

 嫌な予感がした。

 温度の異なる空気が老王を中心に球状に膨れ上がったように、物理的に感じるほどの圧力に襲われる。

 これは——まさか、自ら擬態を解いて正体を現そうとしているのか。

『ゴロじデヤる』

 魔物本来の姿を取り戻そうとしているのか。

 ヒミコがヤマタノオロチとして顕現したように。

 これ以上、まだ強力になるってのかよ。

 その時だった。

「駄目ぇっ!!」

 部屋の入り口で、叫ぶ声がした。

「ヴァイス、無事!?」

 ヘレナ!?

「馬鹿、なんで戻って来たッ!?」

 さっき逃げた筈だろ!?

 なにやってんだ!!

「貴方だけ置いて逃げるなんてできない!」

 細い声で必死に叫ぶ。

 マジで、そんなこと言ってる場合じゃねぇんだって。

「いいから、さっさと逃げろッ!!」

「嫌よ、私も戦うわ!」

 いや、無理だろ。

 よく見ると、後ろから姫さん達までこっちに駆けてくるのだった。

 ルーカスもラスロも、何やってんだ!?

 糞ッ、揃いも揃って馬鹿共が。

「来たぞ、ヴァイス!! 戻ってきたのじゃ!!」

 姫さんまで、何を頓珍漢なことをほざいてやがるんだよ!?

「だから、戻ってくんなって!! マジで、何やってんだよッ!?」

 あんな命懸けで逃したのに、これじゃ全部無駄じゃねぇか。

 なんかもう、色んな感情が混ざりまくって、泣きそうだ。

「違うのじゃ!! 戻ってきたのじゃ!!」

 だが、同じ言葉を繰り返す姫さんへの苛立ちは、次の台詞で瞬間的に霧散する。

「マグナ達が、戻ってきたのじゃ!!」

 は——?

 え?

 だって、早くてもあと三日は戻ってこない筈じゃ。

 困惑する俺の耳が、大人数の立てるざわめきを捉える。

 姫さん達の、さらに背後。

 大勢の兵士達を引き連れて。

 マグナが先頭を、颯爽と歩いていた。

 まるで、物語の勇者のように。

『ググ……』

 呻き声に振り向くと、狂王はまだ老人の姿を辛うじて保っていた。

「間に合ったみたいね」

 姫さんを追い越して、マグナが部屋に入ってくる。

「ついて来いって言ったけど、証人はこんなに要らないわ。偉い人から順番に、何人かだけ入りなさい」

 後ろを振り向いて兵士達に指示を与え、再びこちらに向き直る。

 俺の酷いザマを認めて、少し苦笑した。

「お待ちどおさま。よく保たせたじゃない」

 あまりの安堵に、全身から力が抜ける。

 これは、現実か?

 まるで夢みたいだ。

 ああ、なんだか。

 これで、いつも通りで。

 もう大丈夫だって。

「さてと。あんたが、この国の王様に化けたっていう魔物? 早速だけど、正体を現してもらうわよ」

 腰の剣をすらりと抜いて構える、マグナの凛々しさときたら。

 まるきり、英雄譚の一場面だ。

「違う違う。マグナ、これこれ」

 横から進み出たリィナのツッコミで、半ば陶酔しかけていた気分から我に返る。

 その両手に抱えられた、中央がくすんだ鏡状になっている、丸い宝石がいくつも象嵌された円形盾のような物。

 いちいち説明されなくても、分かる。

 それは、『ラーの鏡』だった。

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