40. I'm Gonna Make You Love Me

1.

 アープの塔の内側に俺が滑り込むと同時に、フゥマが門を閉じて年季の入ったかんぬきを力任せに差し込んだ。

 鉄製の門扉の向こうからは、相変わらず屍人共が蠢いている気配が伝わって来るが、とりあえずはこれで凌げるだろう。

「やれやれ、助かったよ。礼を言わせとくれ」

 額の汗を拭いながら、いい体をした女がこちらに歩み寄ってきた。

 ここまで全力で逃げてきたと思しく、まだ息がやや弾んでる。

 近くで見ると、思ったより若いな。もしかしたら、俺とどっこいか年下じゃねぇのか、これ。

「咄嗟に考えたにしちゃ、大した機転じゃないか。アタイら見つけて、すぐに思いついたのかい?」

「まぁ、そんな大したモンでもないけどな。魔物退治が商売だから、慣れてるってだけだよ」

 曖昧に肯定しておく。

 もちろん実際は、襲われている人間がいることを姫さんから前もって教えられていたので、咄嗟じゃなくて俺には考える時間があった訳だが。

 ハッタリって、大事だからな。

 だが、そんな俺の思惑を越えて、いい体をしたバンダナ姉ちゃんは、一瞬間を置いてから、大袈裟なくらい目を剥いて、思いの外驚いてみせるのだった。

「へぇ! 魔物退治が商売って、そりゃスゴいね——もしかして、アレかい。話に聞く冒険者ってヤツかい?」

「あれ、知ってんのか。ああ、ここらだと、サマンオサにも導入されたんだっけか?」

 ファングをはじめて見かけた時、確かサマンオサの視察団に付いてきたって触れ込みだったからな。

「いや、残念ながら、そういう話はまだ耳に届いてないね。アタイはたまたま人伝てに聞いて、海を越えた他の国には、そういう連中がいるって知ってただけだよ」

 え、まだなのかよ。あれから、もう二年近く経ってるだろ。

「まぁ、それどころじゃないって言うかね——てことは、アンタらは他所モンだね? どっから来たのさ」

「……アリアハンだよ」

 ちょっと迷ったが、この程度なら教えても問題ないだろう。

「アリアハン! なんだい、冒険者の本場じゃないか!」

 あら。これまた、よくご存知で。

 ようやく落ち着いてきた呼吸を、最後にふぅと息を吐き出すことで整えて、バンダナ姉ちゃんはからかうような視線を俺に向けた。

「へぇ、そりゃまた——人は、見かけによらないねぇ」

 蓮っ葉な口調に、どことなく意図的な響きを感じてしまうのは、予想よりも年若い容貌とのギャップのせいだろうか。

「いや、見りゃ分かるだろ。力任せにぶっ飛ばすのは得意じゃねぇよ。俺は、魔法使いだからな」

「魔法使い! そういやさっきなんか唱えてたね。ちゃんと見ときゃ良かったよ——なるほどね。確かにアンタは、腕っ節にモノを言わせるよりゃ、頭を使う方が得意そうだ。さっきの機転も、アンタが考えたんだね?」

「まぁ、そうだけど」

 正面から持ち上げられると面映おもはゆくて、思わず話を逸らしたくなるな。

「あんたの方こそ、さっきはこっちの言うことを、良くすぐ聞いてくれたな」

 あの判断の速さは、なかなか見事だった。

「どこの誰とも知れないヤツの言うことなんか、ってかい」

「まぁな」

「そりゃ、悩んだって結果は変わりゃしないからね」

 なんでもないように言って、バンダナ姉ちゃんは肩を竦める。

「アタイらを目にした瞬間に、罠に嵌めちまおうだなんて思いつくようなド悪党が相手じゃ、どうせ何したってお終いじゃないか。だったら、アンタが見ず知らずの人間を放って置けないような、お人好しって方に賭けるしかなかっただけの話だよ」

 うん、俺はお人好しじゃねぇけどな。

「もっとも、そんなにパッと悪巧みを思いつくなんてのは、きっと神様にだって無理だろうけどね。だから、大して分の悪い賭けでもなかったさ」

「いや、だから、そういう判断を、よく瞬時に下せたなって話だよ、アンタの方こそ」

「そりゃ、判断が素早くなきゃ、死ぬことだって珍しかないからねぇ」

 サバサバした調子で言ってから、取ってつけたように付け加える。

「人生なんてモンはさ」

 いやいや、俺みたいな冒険者稼業ってんならともかく、普通に生活してたら、生死に関わる即断なんて、さすがに珍しい部類だろ。どんだけ物騒な人生送ってんだ。

 ていうか、引き連れてる野郎共のチンピラ具合からして、どう見てもカタギじゃねぇんだよな。

 連中の付き従ってる感じからすると、バンダナ姉ちゃんは、いずれどこかの賊の女幹部ってところかね。それにしちゃ若いのが引っかかるけど。

「ちょうど、ここ何日かで入り口近くの魔物は退治しといたからな。しばらくはこの辺りに居ても、そこそこ安全だと思うぜ」

 ここ最近、禁欲的な生活を続けている身には、生唾モノの良い体に未練はたっぷりと残っちまうが、姫さんの教育の為にも早めに別れた方が良さそうだ。

 だが、「それじゃ、達者でな」と言い残して立ち去ろうとした、こちらの気配を察してか。

「そりゃ、ありがたいね。ホントに何からナニまで世話になっちまって、こりゃどうあれ盛大にお礼をさせてもらわないといけないねぇ。おもての魔物が諦めてどこかへ行っちまったら、是非アンタらをアタイ達の船に招待させておくれよ」

 バンダナ姉ちゃんが、暗に引き止めるようなことを言い出すのだった。

 目聡い女だな。

「おっ、マジかよ。メシは? ウマい飯はあんのかよ?」

「もちろんあるさ。たらふくご馳走してあげるよ」

「いいじゃん。久し振りにガッツリしたモン食いてぇよ。表の魔物追っ払って、早く行こうぜ」

 物を考えずに喋っているフゥマには適当な返事をしておいて、俺は考える。

 アタイ達の船だと?

 口振りや雰囲気からして、船団を仕立ててるって感じじゃなさそうだ。

 こんな時代に、マグナ達以外にも単独で船旅をするような命知らずがいたのかよ。

 つか、船ってことはだ。

「もしかして、あんたら、ここら辺の人間じゃないのか?」

 バンダナ姉ちゃんは、ちょっと驚いたように、ピクリと眉を跳ね上げた。

「フン、思った通り、よく頭が回るじゃないか。いいよ、とっても——ただ、そろそろアンタじゃなくて、アタイのことはグレースって呼んでおくれよ。ホントはもうちょっと立派な名前なんだけどね、そっちは長ったらしいからさ、グレースで構わないよ」

 後から思えば、この時の俺は、初っ端から世辞を言われ続けて、我知らず気を良くしていたに違いない。

「グレースね。了解だ。俺はヴァイスってモンだ。こいつがフゥマで、こっちがエミリー」

「こりゃご丁寧に、すまないね。ウチの連中の紹介は——ま、追々おいおいね。なにしろ、数が多いからさ」

 バンダナ女——グレースは、ちらっと後ろの男共を振り返りながら言った。思い思いにざわつきはじめていた野郎共が、それでピタリと話をやめる。

 大した統率力だが、微妙に違和感があるな。少なくとも、居丈高に上から牛耳っているという感じじゃなさそうだ。

「ふぅん、こっちの強そうなコはフゥマってのかい。珍しい名前だね。強い男は嫌いじゃないよ」

 まずはフゥマを値踏みするように眺め回してから、俺の背中に隠れて顔だけ覗かせているエミリーの前にしゃがみ込み、グレースは改めて目を丸くする。

「それに、こっちの子の可愛らしさときたら! なにさ、アンタ、まさかどっかからさらって来たんじゃないだろうね?」

 なんで皆、姫さんを目の当たりにすると、まず俺にそれを確認するんだ?

 と、ここでようやく、俺は自分の迂闊さにハタと気付いた。

 しまったノセられた

 アホか、俺は。

 呑気に名乗り合ってる場合かよ。そんなことしたら、もう見ず知らずの赤の他人じゃなくなっちまうじゃねぇか。

 だからこそ、やや強引にでも、バンダナ姉ちゃんは自己紹介なんぞをはじめやがったんだ。

 これ以上、この連中と関わるつもりがないのなら、俺はアホみたいに自己紹介を返したりしてないで、さっさと立ち去るべきだったのだ。

 俺が視線を向けると、グレースは含み笑いを浮かべて、こちらを見つめ返してきた。

 ああ、完全に計算づくだわ。

 見た目と言動のギャップすら、おそらく利用しているんだろう。実際に俺が油断しているのが、その傍証だ。

 多分、船の話題を出したのも、俺の興味を引いて食いつかせる為の撒き餌だったな、これ。

 こと対人関係のはかりごとに関しては、向こうが何枚も上手であることを、直感的に分からされていた。

「てことで、そんじゃ、俺達はこれで……」

 儚い抵抗を試みる俺。

「は? 助けた礼に、なんか美味いモン食わせてもらうんじゃねぇの?」

 黙ってろ、腕白坊主。今の流れで何で立ち去ろうとしてんの? みたいなキョトンとした表情を、お気楽に浮かべてんじゃねーぞ。

「そっちのコの言う通りだよ。全く、ツレないねぇ。命の恩人に、礼くらいさせておくれよ」

 しっかりと便乗しつつ、ここはアタイが取っただろう? と言外に含ませて、グレースが苦笑する。

「……そうか。わらわの料理は、それほど物足りなかったのじゃな」

 それまでの会話の流れを断ち切るように、不意に口にされた言葉は、姫さんのものだった。

 ふくれっ面をして、フゥマを睨めあげている。

 旅の途中で料理をしてくれたのは、主にエミリーだったからな。ようやく美味い飯にありつける、みたいなウツケの言い草が気に触ったらしい。

「それはお主に、悪いことをしたのじゃ」

「いや、別に悪かねぇけどさ。だって、姫さんが作るモンって、キホン味がうしぃじゃんか。タマにはガッツリしたモン喰いてぇよ」

 皮肉が通じた風もなく、無遠慮な感想を口にするフゥマ。

 お前、素直なら何を言っても許される訳じゃねぇぞ?

 でも、まぁ、確かに姫さんは自然派っていうか、味付けは淡白だから、ちょっとばかり物足りないのは事実——いや、それはどうでも良いとして。

 ちらりと俺を見上げた姫さんと、一瞬だけ視線が合った。

 そうだよな。やっぱり、急に話題の矛先を変えたのは意図的だよな。

 察しの良さじゃ、こっちだって負けてないね。さすがは森の賢者、そういうトコ、好きだぜ。

 他のヤツには分からないくらい微かに頷いてみせると、エミリーはグレースにねだるような視線を向けた。

「そのぅ……塩や香辛料を分けてもらうことはできるじゃろうか?」

 ん? あれ?

「なんだい、おチビちゃん、ヘンな喋り方して可愛らしいね。お姫様の真似事かい?——ああ、もちろんいいともさ。好きなだけ持ってくといいよ」

 いやいや、このまま別れようとしてる俺の意図が伝わってた訳じゃねぇのかよ。森の引き篭もりにゃ、生き馬の目を抜く俗世はまだ厳しかったか。

 くそ、しょうがねぇな。万が一荒事になったとしても、こっちにゃフゥマがいるから、まぁ、なんとかなんだろ。

 つか、グレースの言う通り俺達は命の恩人な訳だし、別にお礼をされてもおかしかねぇよな。また考え過ぎる悪い癖が出ちまったかね。

 と考えたことすら、もしかしたらグレースの掌の上だったのかも知れない。

「——分かったよ。招待はありがたく受けるとして、もうちょい奥に行こうぜ。馬がそっちに居るから心配なんだよ」

 俺と姫さんを、ここまで運んでくれた馬だからな。魔物の襲撃に巻き込まれないように、先に中に逃がしておいたのだ。

「馬って、何頭いるのさ——ああ、一頭だけなら問題ないよ。ちょうどこっちも、船から荷物を下ろしたところだからね。乗せてやれる空きがあって良かったよ」

「積荷を下ろしたってことは、やっぱこの近くに集落でもあんのか?」

 グレースの思惑にまんまと嵌っていることを意識しつつも、一旦開き直っちまうと、警戒するのが面倒臭くなってきた。

 率直に尋ねた俺に、グレースは満足げな顔をして答える。

「然程、大きい街じゃないけどね。アタイらはそこで、ちょっとした慈善事業をしてきたって訳なのさ」

「ふぅん?」

 何かの暗喩だろうか。

 グレースを含めて全員ほぼ手ブラだから、逆に集落を襲って略奪の限りを尽くしてきた帰りって訳でもなさそうだが、さて。

2.

 門扉の向こうの毒屍人共が諦めてどこかへ立ち去るまで待ってから、俺達はグレース一行に連れられて、連中の船とやらへ向かった。

 ところで、あの魔物共がどういう理屈に従って『諦める』という判断を下しているのかさっぱり分からないが——研究テーマとしては、割りと興味深い気がする。

「マジかよ! ずいぶんデケェな、オイ!」

 岩場の陰に係留された、想像以上に立派な帆船を目の当たりにして、フゥマはやや興奮気味だった。

 不覚にも、俺も同じような感想を抱いちまった。

 三本マストの船体は見上げるほどに大きく、無数の波浪に晒されてきたであろう年季が染み込んだ舷側には、確かに外洋を航海することも可能だろうと思わせる説得力があった。

「あっ、おかしらじゃねぇですか!」

 周囲を見張っていたのか、こちらに気付いた船員の一人が、船首楼の上から身を乗り出して手を振った。

「お疲れさんです!——おぅ、お前ぇら、お頭のお帰りだぞ!」

 他の船員に向かってかけられた声に続いて、迎え入れる準備が慌ただしくはじめられた気配が上の方から伝わってくる。

 ふぅん、お頭ねぇ?

 俺の視線に気付いたグレースは、さすがに少しバツが悪そうな顔をした。

「ヘンな目で見ないどくれよ。他に成り手がなくってさ、アタイが女だてらに仕方なく船長なんかやってるモンだから、皆フザケてあんな風に呼ぶんだよ」

 まぁ、とりあえずそういうことにしておこう。

 ともあれ、歓待してくれるというグレースの言葉に嘘は無く、準備が終わった日暮れ頃から、山ほど饗された料理や酒を囲んで宴の席が設けられた。

 甲板に直接腰を下ろしてのざっくばらん振りではしゃぐ厳つい顔をした船員達は、荒っぽくはあるものの、そこまでとんでもない悪人という印象は受けなかった。

 ただ、出された料理はフゥマお望みのガッツリ系だし、会話と言えば内輪話や女にまつわる下世話な内容が多かったので、姫さんはつまらなそうに俺のあぐらの上で丸くなっていたが。もしかしたら、最初に間違ってちょっとだけ舐めた酒が回ってるのかも知れない。

 フゥマの方は、どうやらここの連中と気が合うらしく、向こうでなにやら身振りを交えて喋りながら、ガハハとか笑い合っている。

「どうだい、やってるかい?」

 そこそこ酒の入った頃合いに、それまで姿の見えなかったグレースが、「お疲れさんです」と唱和する男達を掻き分けて俺の方に歩み寄ってきた。

 バンダナを外した長い髪を、頭の後ろで無造作にまとめて髪留めで抑えている。ほつれ髪が色っぽいな。

「ああ、疲れた——」

 そんなことを口にしながら、隣りに腰を下ろす。

「席を外してて悪かったね。帳簿を付けたりなんだりしないといけなくてさ。覚えてるウチにやらないと、すぐに忘れちまうんだから、困ったモンだよ」

「そんなことまで、アンタがやってんのか」

 そこら辺の酒やら料理やらを取り分けて渡してやりながら、何気ない風に探りを入れる。

「おっと、こりゃすまないね。アンタの方がお客だってのに——いや、船長の話と同じでね。他にやれるヤツがいないのさ。その辺りのことについて、ちょっとお願いしたいことがあるんだけどねぇ?」

 くいっと酒をあおってから、俺の肩に顎を乗せてしなだれかかるグレース。

 えー、すごい胸とか当たってるんですけど。

 薄手の白い開襟シャツ越しに、柔らかいが弾力のある感触が右の二の腕を包み込んでいる。

 やべーな、最近すげぇ日照り続きだったから、マジでマズいんだって、そういうの。

「お願いって、俺にか?」

「もちろんさ」

「ついさっき会ったばっかで、なんか出来ることがあるとは思えねぇけど」

「相変わらず、ツレない返事だねぇ。けど、そんなこたないさ」

 んふふ、とグレースは色っぽい含み笑いを漏らした。

「あんたの頭が良く回るのは、さっきちょっと話しただけでも、十分判ったからね」

「あんまおだてんなよ。褒められ慣れてねぇんだからさ」

 グレースがあまりにも体を密着させてくるモンだから、さすがに少し気まずくなって周りを見回す。

 だが、俺達を囲んで飲んでいる野郎共は、こちらにチラリと視線を向けはするものの、表情が動くのはホンの一瞬で、何故かすぐにどこか納得の表情を浮かべてそっぽを向くのだった。

 俺達の船長に手ぇ出すたぁ、いい度胸してるじゃねぇか、みたいな難癖つけられるのを待ってるんだが、そんな気配は微塵もない。

 ていうか、グレースからすげぇいい匂いがすんだけど。多分、これ、汗拭いてから体になんか塗ってきてるよな?

「褒められ慣れてないって、アンタがかい?」

「ああ。いっつも文句ばっか言われてるよ」

 特に、女連中にはな。

「そりゃまた、アンタの周りの女は、見る目が無いんだねぇ」

「いや、まぁ、ンなことねぇけど——そういや、アレだ。あんたが言ってた慈善事業ってのは、ありゃどういう意味だったんだ?」

 押し付けられたグレースの体の感触が気持ち良すぎて、俺は必死に話を逸らすだけで精一杯だった。

「ん? 言葉通りの意味だけど」

 グレースはまとめた髪に軽く触れながら、岸壁の先を見通すように陸地に向かって視線を投げた。

 ああ、いい体がちょっと離れちまった。

「ここら辺りの事情は、またもうちょっと複雑なんだけどね。ま、簡単に言や、こっから南の方にあるサマンオサって大国の影響が、ここいらでも強くってさ」

「む——」

 それまで俺の膝の上で丸くなっていた姫さんが、もぞりと動いて薄目を開けた。

「そこの王様が、何をトチ狂ったんだか、周辺小国の併呑なんて始めちまったモンだから——」

「え、こんな時期にかよ」

 思わず口を挟んじまった。

『なんなのよ……人間同士で、こんな事してる場合なの?』

 いつかのマグナの言葉が頭の中でリフレインして、俺は少し冷静さを取り戻す。

 危ないあぶない。いい体にまんまと惑わされるところだったぜ。

 グレースは軽く肩を竦めて、俺の言葉に同意してみせる。

「全く、どういうつもりなんだかねぇ。少し前までのサマンオサ国王は、いまとは正反対の穏健派だったんだよ。周辺の小国とも共栄圏を築いて仲良くやってたってのに、それが、今から二、三年くらい前だったかねぇ。急に、人が変わったみたいにサァ」

 蓮っ葉な口調に似つかわしくない、小利口な言葉をグレースは操るのだった。

「お陰で内乱だ戦争だって、サマンオサの国内はもちろん国外まで、その影響力が及ぶ範囲じゃ、庶民は軒並み生きていくのも難しいような暮らし向きを強いられてるんだよ」

「そりゃ迷惑な話だな」

「だろう? 戦争なんてバカなことを始めちまったら、モノもカネもたんまり必要だってのにさ」

「んで、どうせ働き盛りの連中は徴兵されたりしてんだろ? 重税を課された上にそれじゃ、庶民はたまったモンじゃねぇわな」

 ウチの田舎みたいなトコだと、なおさらだろう。

「つか、何が目的で、急に周辺小国の併呑なんてそんなことはじめたんだ?」

 話の内容に反して、何故かグレースはにんまりと笑って俺を見た。

「それが、さっぱり分からないんだよ」

「ハァ?」

 国のレベルで理由もなく、ヨソの国に喧嘩をふっかけたりはしねぇだろ。

「いや、ホントなんだってば。その上、仕掛け自体も、同時に何ヶ国も相手取るような滅茶苦茶なやり方でね。サマンオサ王がいま何を考えてんのか、誰にもサッパリ分からないんだよ。訳も分からず理由も説明されないまま、生きていくのが難しいくらい搾取されて、本当にみんなもう限界なんだ」

 そりゃキツいな。

 せめて分かりやすい大義名分でも掲げられていれば、無理に自分を納得させることもできるだろうが、それすらなくただ理不尽に搾取されるだけってんじゃな。

「それでなくたって、近頃の治世のヒドさときたら、ホントに目を覆わんばかりでね。歴史上の暴君なんて呼ばれた連中をごぼう抜きで超えちまうくらい、内政も不条理で溢れかえってんのさ」

「なんだそりゃ。そんなことしてたら、内乱とか起こるんじゃねぇの?」

「もちろん、起こってるよ」

 グレースは、あっさりと頷いた。

 そういや、さっき言ってたな。

「ただ、圧倒的な戦力差で片っ端から叩き潰されてるね、いまのところ。しかも、反逆者は一族郎党皆殺しみたいな容赦の無さだけど、各地に潜伏してる反乱軍の情報を密告したヤツにゃ、たんまり褒美を与えるってな具合に、裏切りを奨励するみたいな卑怯な手口も使っててね」

「うへぇ、恐怖政治の典型みたいなやり口だな。けど、さっきの話じゃ、昔は暴君て感じでもなかったんだろ? いくらなんでも、そんな風になっちまったキッカケくらい、なんかあったんじゃねぇの」

「それについちゃ諸説あるけど、どれも憶測の域を出てないね。なにしろ、側で仕える近習が片っ端から殺されちまうような有様だから」

「ハァ?」

 思わず、また素っ頓狂な声で返しちまった。

「言っとくけど、これも比喩なんかじゃないよ。サマンオサ王の側仕えに選ばれて生きていられるのは、いまや半月がせいぜいだって言われてんのさ。王様の側仕えなんて本来は名誉な筈なのに、近頃じゃすっかり死刑宣告も同然の扱いで、次に選ばれるのは自分じゃないかって、みやこじゃ皆、震えて暮らしてるよ」

「え、そんなこと有り得んのか? いちおう、世界中の国とも繋がりのある文明国の話だろ?」

 サマンオサっていや、俺ですらマグナ達と旅に出る前から知っていた、世界でも屈指の大国家だぜ。

 さすがにジパングみたいなド田舎の小国とは、事情が違うと思うんだが。

「それがなんと、有り得るみたいでさ」

 グレースの口振りには、嫌味がたっぷりとまぶされていた。

「って言われてもな……そんな状態で、誰も苦言を呈したりしねぇのかよ。王様の周りの連中とかよ」

 俺はなんとなく、ロマリアの偉丈夫とカクシャクとした爺さんを思い出していた。

 だが、グレースは小さく首を横に振る。

「王様の為を思って諫言した、最も信頼の置ける臣下まで放逐しちまったって話でね。いまじゃ誰も、何も文句を言えなくなっちまってるんだよ」

 はー。そりゃまた、処置なしだな。

「むしろ、そんな風に王様の不興を買ったり、何か粗相をして罰せられたってんなら、まだ話としちゃ筋が通るんだけどね。近習についちゃ話が真逆っていうか、気に入られた順に、ある日忽然と姿を消しちまうそうだよ。いまの国王が何を考えてるのか、伝える人間が片端から消えちまうモンだから、玉座の周りで何が起こっているのか、ハッキリしたこた外にはまるで伝わりゃしないのさ。そもそも、お呼びがかかった近習以外は、もう怖がって誰も近寄らないって話だしね」

 どことなく、話が怪奇譚じみてきやがった。

「アンタも知っての通り、いまのこの魔物が蔓延はびこる世界じゃ、ただでさえ情報の行き来なんて限られてるだろう? 国内どころか城内ですらそんな有様なのに、他国に漏れ伝わる情報量なんて、それこそ推して知るべしってなトコさ」

「そんな状態で、色々と回るモンなのか? その、まつりごとがよ?」

「逆だよ、逆」

 グレースは短く吐き捨てる。

「ただでさえ、理由もなくいつ殺されてもおかしくないような状況なんだ。不興を買ったり、粗相をしちまったら、まさしく命が無いからね。城の連中は、文字通り死に物狂いで仕事をこなしてるよ。王様の無茶な要求に完璧に応える為にね」

「はー、そりゃまた難儀だな。その結果が、庶民が生きてくのも難しい搾取ってんじゃ……つまり、あんたが言ってた慈善事業ってのは——」

 まるで水を得た魚のように饒舌だったグレースの相貌に、憂いの陰がかかる。

「話の通りが良くって助かるよ。まぁ、アタイのトコは、幸い少しばっかり余裕があるからね。焼け石に水かも知れないけど、必要な物資をアチコチ配って回ってるって訳なのさ」

「つまり、俺達ゃ義賊ってヤツよ!」

 すぐ後ろで飲んでいた男が、そう叫んでワハハと笑った。

「なんでぇ。お前ぇ、義賊なんて言葉を、よく知ってたな」

「そりゃ、当たり前ぇよ。なにしろ、お頭が言ってたんだからよ」

「ああ。どうりで、俺にも意味が分かると思ったぜ」

 なかなか緩い会話を繰り広げて、また周りとワハハと笑い合う。

「余計な口を挟んでんじゃないよ」

 はじめに叫んだ男の頭を軽くはたいたグレースは、俺の方に向き直り、何やらうっとりとした表情を浮かべてみせた。

「やっぱり、話がすんなり通じるってのは、楽しいモンだねぇ。どうだい、向こうで二人で飲み直さないかい。さっきも言ったけど、ちょいと話したいことがあるんだよ」

 俺も、グレースには少々興味を惹かれていた。

 いや、なんというか、いい体してるのとは別の意味でな。

 俺のことを頭が良く回ると評してくれたグレースだったが、むしろそれはこっちのセリフだ。

 言っちゃ悪いが、気立ては良くてもオツムの方はいまひとつに見える、配下の愉快なゴロツキ共とは似つかわしくない知性を感じさせる。

 周辺の情勢の把握にしても、そこいらの女が持ち得る認識とは思えねぇし、一体、何モンだ?

 ただ——

「うん、まぁ、俺は構わないんだけどさ」

 膝の上に視線を落としながら、曖昧に言葉を濁す。

「お嬢ちゃんなら、もう別に部屋を用意してあるよ。ホラ、可哀想に。こんなに眠そうじゃないか」

 グレースがフードの上から頭を撫でると、姫さんは俺にしか分からないくらい微妙に嫌そうな顔をした。

 子供扱いされるの、嫌いだもんな。

 だが、見た目は完全に子供なので、こういう時はエルフとバレないように我慢してくれるので助かっている。

 まぁ、後で俺が愚痴を聞かされる訳だが。

 ちなみに、フードの裏側にはアメリアお手製の隠しがついていて、耳を仕舞えるようになっているので、余程しっかり触らない限り、不審に思われることはない筈だ。

「だから、ねぇ? お願いだよ」

 至近距離に顔を寄せて、誘うように囁くグレース。

 参ったな。女日照りが続いてる身には刺激が強すぎて、勝手に反応したやまびこの笛が姫さんにバレやしないかとヒヤヒヤものだ。

 とりあえず、あぐらの上にエミリーを乗せてるこの体勢はヤバいな。

「分かったよ。エミリーも、先に眠っとくか?」

「むー……」

 姫さんは、眠気混じりの物凄い複雑な顔をして、ちょっと頭を上げて俺を見た。

 うん、あの、何をおっしゃりたいかは大体分かりますけどね。誘ってるのは向こうだし、歓待してもらってる手前、これは礼儀的にも仕方なくね?

「……勝手にするがよい」

 くたりと頭が落ちる。

 お許しが出ました。

「そんじゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「そうこなくちゃね。ふふ、楽しくなりそうだよ」

 改めて見ると、グレースめっちゃ色っぽいの。

 久しく忘れてたが、そういや俺の好みって、同年代以上の大人の女だったわ。

「おい、フゥマ——オイって。ちょっとグレースと、中で話してくるわ」

 俺は姫さんをお姫様抱っこして立ち上がり、フゥマに声をかける。

「あン? オレ様いかなくて平気かよ?」

 それまで興じていたバカ話を中断して問い返したフゥマに、俺は小さく頷いてみせる。

「ああ。問題ねぇよ。お前は、こっちで飲んでてくれ」

 そう言い残して、俺はグレースの後について、キャビンへと向かった。

3.

「ん~~~っ、やぁっと肩の力を抜いて話せるよ」

 大きな書斎机や書棚が置かれた、おそらく船長室と思しき一室で、上等なソファーに並んで腰を掛けたグレースは、盛大に伸びをしながら、そんなことを口にした。

 ちなみに、姫さんは別の部屋で既に寝かしつけてある。もうちょいゴネるかと思ったんだが、マジで若干酔っぱらっちまったらしく、気持ち悪そうにしていたので心配だ。いちおう寝息を立てるところまでは確認して、ベッドの枕元に水差しも用意してもらったが、早めに戻ってやらねぇと。

 と憂いつつ、俺は伸びをするグレースを横目で見る。形のいい乳してんのな。

「そんなこと言っていいのかよ?」

 連中、あんなに付き従ってる感出してるのによ。

 俺の揶揄する口調に、グレースは気にした風もなく返す。

「ん? ま、アタイにも色々あってね。アイツらの前じゃ、いっつも気を張ってなきゃいけないからさ。でもいまは他に人もいないし、少しくらい気を抜いたっていいだろう?」

 グレースが俺にしなだれかかることで否応なく押し付けられた乳は、ボリューム感も満点だ。いや、何言ってんだ。

 だから、禁欲生活が続いてるから、ヤバいんだっての。しかも、いい匂い。

「それで、俺に話したいことって、なんなんだよ」

「あれ、なにスネた顔してんのさ。もしかして、二人きりになった途端、もっと色っぽい雰囲気で迫られると思ってたかい?」

 にんまりと笑って、俺の鼻の頭を指でつつこうとする。

「別に。そんなことねぇけど」

 指を追い払って出た声は、我ながらぶっきら棒だった。こっちにだって、色々あんだよ。

「んふ、可愛いねぇ。安易にこっちの誘いに乗ってこないところも、新鮮だよ」

 グレースは、今度は俺の顎を撫でようとする。

「よせよ。襲っちまうぞ」

「いいや、アンタは頭ン中で考えたことを優先する性質タチだね。アタイが頼んだって、襲ったりしないさ。賭けてもいいよ」

 腕を絡めて、形の良い胸をさらに押し付けてくる。

「だから、アタイも安心して、こんなことが出来るんだけどね」

「いや、あのな。もし仮にそうだとしても、俺にも我慢の限界ってモンがあるからな?」

 マジで。

「そうなったらなったで、嬉しいけどね」

「だから、止せって。ジツはもう、とっくに限界超えてるくらいなんだからよ。それに、そんな話をする為に呼んだんじゃねぇんだろ?」

「アハハ、別に試してる訳じゃないんだ。だって、嬉しくってさ、色っぽい声を出す抱き枕じゃなくって、ちゃんと人間として見てもらえるのがね」

 さらっと重いセリフを吐くの止めてもらっていいですかね。

「ああ、いや、違う違う。普段から、アタイがそんな風に扱われてる訳じゃないよ。ただ、もう少し一般的な話っていうかさ、女ってのは、大抵どこでも学のない浅薄な考えなしで、色っぽい声を出すくらいしか能がないって思われてるモンじゃないか」

「そこまで極端じゃねぇと思うけど」

 少なくとも、俺の周りでは。

「ふぅん。アンタの故郷の女は、恵まれてるんだね。さすがはアリアハン、古くからの世界の中心だけあって、進歩的なモノの考え方が浸透してるって訳だ」

「いや、そんなこともないけどな。単に俺が変わり者って可能性の方が高いんじゃねぇの」

「だとしたら、なおさらだねぇ」

 グレースは、期待を満面に浮かべて、俺を見上げた。

「ねぇ、ヴァイス。ここに残って、アタイを手伝っておくれよ」

「は——? って、いきなりだな。話ってソレかよ。手伝うって、何をだよ」

「そりゃアンタ、全部だよ」

 グレースは両腕を広げて、ため息を吐いた。

「いや、もうホント大変でさ……ああ、違うんだ。ウチのバカ共は、本当にいい気の良い連中だし、アタイはアイツラのことが大好きだよ。ただ、まぁ、なんていうか……こんなことを言うと、生意気な女だと思われちまうんだろうけど、ウチの連中はモノを考えるってことが、その、少しばかり苦手でね」

 俺の肩に頬を乗せたグレースの視線が落ちる。

「アタイが女だてらに形の上じゃアイツラを率いてるのも、目端の利くヤツが他にいないからってだけの話でさ。なにしろ連中ときたら、明日のことにすら頭が回らないくらい、揃いも揃って脳天気なヤツらばっかりだからね。アタイがいなかったら、きっと先代が亡くなった途端に、全員とっ捕まってたんじゃないかねぇ」

「てことは、やっぱりアンタらは、捕まってもおかしくないような生業を営んでるって訳だ」

 グレースは失言に気づいてハッと顔を上げたが、すぐに悪びれた風もなく舌を出す。

「首尾よく二人っきりになれたモンで、気を抜きすぎちまったね。でも、まぁいいさ。どうせアンタは、とっくにお見通しだったんだろ? そう、お察しの通り、アタイらは海賊だよ」

 てか、本気で隠そうともしてなかっただろ。

「女のアタイが海賊のお頭だなんて、おかしいと思うかい?」

「うん」

「即答だね。ずいぶんハッキリ言ってくれるじゃないか。でも、安易に迎合しないトコロも、気に入ったよ」

 いやぁ、普段の俺は、割りと安易に迎合しがちな男ですけどね?

「おかしいっていうか、あんたさ、ホントは海賊のお頭なんて柄じゃないだろ。女がどうとか関係なく」

 グレースは多分、俺と出会ってからはじめて素の怪訝な表情を見せた。

「……どういう意味だい?」

 俺は、どう言ったものかと頭を掻く。

「ちょっと、悪ぃな」

 未練たらたらに、自分の体からグレースを引っ剥がして立ち上がる。

「本棚、見させてもらっていいか?」

「え、あ、うん……」

 部屋の奥の書斎机を挟むように、両側の壁に据え付けられた書棚には、海図やら航海日誌、航海術に関する書物の他に、少し古めの物語本や魔法協会で見かけるような小難しい学術書も並んでいた。

「これは、あんたが集めたのか?」

「あ、ああ。アタイらの獲物は、基本的に弱い連中から搾取してる金持ちだの横暴な貴族だのなんだけどさ、そういう連中のお宝を掻っ攫うと、中にはよく本だのが紛れ込んでるんだよ。放っときゃウチの連中に捨てられちまうだけだから、船長として箔をつける装飾品にいいかなって——」

「全部、読んでるのか?」

「……いや、さすがに全部は無理だよ。註釈の本が揃ってる訳でもないから、分かんない箇所も多いし。まぁ、せいぜいが半分てトコだね」

 それにしたって、独学なら大したものだ。

「グレース。あんたさ、普段の会話じゃ使わないような小難しい単語だの言い回しを、俺に対してわざと使ってるだろ?」

 海賊の女親分が、言葉に詰まるのが分かった。

「サマンオサ周辺の情勢を語るあんたは、やたら生き生きしてたぜ。海賊なんて荒事よりゃ、学生か役人の方が向いてそうな感じでさ」

「って言われても、ツテどころか身寄りすらない女にゃ、ハナからそんな道は無かったけどねぇ」

 それまで見せなかった、くらい自嘲を覗かせる。

「アタイはこれで、自分のことを物凄く幸運だったと思ってるよ。ホントなら、体を売るしかなかったような身の上だってのに、気づいたらウチの気の良い連中に守られて、ちょいと頭が回るからってんで、先代からも重宝がられてさ」

 はっ、と短く息を吐く。

「ただ、タマに疲れるのさ。アイツらは本当によくアタイを立ててくれるけど、言葉の裏やら含みまでは汲んじゃくれない。物事を上手く進めるにゃ、一から十まで全部噛み砕いてお膳立てしてやる必要があるんだよ。起こりうる可能性まで考えて、ひとりで、全部だよ!?」

 口を開きかけた俺を制するように、忙しなく言葉を続ける。

「ああ、アンタの言いたいことは分かるよ。もっと手下を信用して、ひとりで抱え込まないで頼れってんだろ。他の人にも言われたことあるよ。アタイだって、いまのやり方はどうかと思うんだけどさ……でも、下手しなくても、ヘマが死に直結するような稼業じゃないか。それを考えると、どうしても手を抜けなくてね……」

 なんで俺は、こんなところで見ず知らずの姉ちゃんのハードな生き様に耳を傾けているんだろう。

「脳みそが焼き切れるまで考えたって、アタイの立てた計画が妥当かどうか、判断してくれる人間は誰もいやしない。『お頭の考えた作戦なら、きっと上手くいきますよ!』って皆が言ってくれるのは、そりゃ自信にはなるけどね。でも、いまのアタイが欲しいのは、計画に悪いところがあったら指摘して、一緒に考えて直してくれる参謀役なんだ。だって、じゃないと、アタイがひとつ間違うだけで、アイツらが全員死んじまうじゃないか——」

 酩酊にも似たクラクラとした非現実感を覚えながら、俺は返す言葉を持たなかった。

「だからさ!」

 明るい顔に戻って、グレースはソファから真っ直ぐに俺を見上げる。

「アタイを手伝っておくれよ、ヴァイス。お願いだよ」

「……」

 いや、さすがに重いだろ。そんな風に言われて、すぐに頷けるヤツがいるのかよ。

 それに、俺には俺で、やるべきこともある。

「——悪ぃけど、手に余る。ご期待に沿えるとは思えねぇよ。そもそも、今日会ったばっかのヤツに頼むような内容じゃねぇだろ」

 俺がどういう人間で、何をしてきたかってことも、なんも知らないのに、よくそんなこと頼めるな。

そこは、大した問題じゃないさ」

 だが、グレースはにんまりと笑った。

 どこぞのアホの王様のセリフを思い出しかけたが、続くグレースの言葉は、俺の予測と違っていた。

「だって、アンタが少し言葉に詰まったのは、アタイの言ったことにちゃんと耳を傾けて、ちゃんと考えてくれたからだろう?」

 おお、そうくるのか。

「見ず知らずの人間から、いきなりこんな告白されたって困るだけなのは、アタイにだって分かるよ、そりゃ」

 ケタケタと笑う。

「でも——ホラ、アタイって、いい体してるだろ?」

「うん」

 色っぽくシナを作るグレースに、即答しちまった。

「アハハ、やっぱり正直だね。この体型を維持するのも一苦労だから、報われるよ」

 そうだろうなぁ。いつも自分をよく見せる努力を惜しまないそういうトコ、女って偉いと思うわ。

「つまり、こんな二人っきりでさ、我ながらいい体したアタイの方から迫ってるんだ。大抵の男は、この場じゃ適当に耳障りがいい言葉を囁いて、とりあえずアタイを喰っちまってから、後になって『そんなこと言ってない』だなんて、白を切ってトボけようとするのが普通ってモンだよ」

 まぁ、どっちかというと、俺もそんな男ですが。

「それとも、マァ、褒められた稼業じゃないのは分かってるからね。ヤバい連中にゃ関わりたくないって、敬遠されても仕方ない。アタイの言うことなんて聞き流して、尤もらしい説教でもくれてはぐらかしたって良かったのに、アンタはそういうことをしないんだ。ちゃんとこっちの言葉を聞いて、真剣に考えてくれてることくらい、アタイにだって分かるよ。そういうアンタだからこそ、こんなこと頼んでるのさ」

 そう言って、グレースは真面目ぶった顔つきで、俺を見つめるのだった。

 あ、くそ、マズい。

 これも、グレース一流の人心掌握術だろうか。

 いつも、その場凌ぎのいい加減なことしか口にしない。

 そう評され続けて、自分でもそう思い込んできた人間にとっちゃ、なかなか胸をつくセリフだ。

 コイツは俺のことを分かってくれる、そんな風に錯覚しかねない。

「それに、アンタからは学問のにおいがする」

 立ち上がったグレースは、棚の端っこに置かれていたグラスにワインを注いで手に持った。

「悪ぃが、それこそ見当違いだよ。俺はマッタクがくねぇぞ」

「嘘。そんな人間が、さっきみたいな質問をするもんかい」

 チラリと書棚に視線を向ける。

 いや、嘘じゃないんだが。変な期待をさせちまったみたいで、なんだか申し訳ない。

「アタイもさ、ホントはちゃんとした学問ってヤツを学んでみたかったんだ。子供の頃は、それでオヤジを困らせたこともあったっけ——でも、ヒトは生まれを選べないだろう?」

 まぁ、いまの世の中、呑気に学生なんてやってられるのは、お貴族様の子弟くらいなモンだからな。

 実際、グレースが聡明であろうことは、喋っていれば分かる。

 彼女のような人間が、望んでも学ぶ機会を得られないのはもったいねぇ話だとは思うが、うっかりしたことも口にできなかった。

 コイツの人生に、俺はなんの責任も負えねぇからな。

 ただ、せめて俺と同程度の情報に触れられるくらいには、必要とした時に口添えできたら——なんてことを考えはじめている自分を発見して、意外な思いに打たれる。

 そんな柄でもねぇだろうに。

 まぁ、でも、アレだ。俺って、はみ出し者の味方だからさ。海賊稼業を営んでるグレースは、立派なはみ出し者には違いねぇだろ?

「——選べねぇよな。俺もド田舎の農村の生まれだから、学問なんてご高尚なモンにゃ、ついぞ縁がなくってね」

 だが、口に出してはそう言った。

「フフ、はぐらかすねぇ。でも、そんな言い回しを使ってちゃ、否定したって詮無いってモンだよ」

 すぐ傍らまで歩み寄ったグレースは、俺にピッタリ体を寄せて、手にしたワイングラスを俺の口にあてがった。

「アンタはそうでもなさそうなのが癪に障るけど、アタイは今日は楽しいよ、ヴァイス。アタイの仕掛けにイチイチ気付いて反応してくれるところまで含めてね。いつもは何したって、誰も何も気付きゃしないからさ」

 アレもコレも、みんな見透かされている気分になってくる。

 確かに聡いわ、この女。

「ねぇ、アタイのモノになっておくれよ、ヴァイス。一緒にウチの一家を切り盛りしていこうじゃないか。いまなら漏れなくアタイがついてくるんだ、そんなに悪い話でもないだろう?」

 耳元で熱い吐息混じりに囁きかけられる。くすぐってぇ。

 確かにな。押し付けられた体の豊満さは、俺なんぞを買ったところでたんまりお釣りが出る——って、止せ、グラスを傾けてワインを無理矢理飲ませるんじゃねぇよ。

「ごほっ」

 飲み切れずにムセちまった、見っともねぇ。

「悪ぃけど——」

 二、三度咳き込んで口元を拭いながら続ける。締まらねぇな。

「俺、やることがあるからさ。いま旅してるのも、その途中なんだわ」

「……女かい?」

 含みのある視線を俺に向けながら、グレースはワイングラスをクイッとあおる。

「……まぁな。だから、お誘いは光栄だけどよ——」

 俺に皆まで言わせず、グレースは体を預けて唇を重ねてきた。

 合わせた口唇の隙間から、ワインが流し込まれる。

「フフッ、分かったよ。アンタは自分から首を縦には振らなさそうだ」

 グレースは取り出した手巾を口に当てて、丁寧にワインを拭き取った。

 俺は、口内のワインを飲み下してから尋ねる。

「——ひとつ、聞いといていいか?」

「なんだい、改まって」

「……なんで、俺なんだ?」

 短く問うた。

「フフッ、単なる勧誘って言えば、アンタは安心するかい? 使えそうなヤツには片っ端から、声を掛けてるだけってさ」

 短くしか言葉を発せなかったのだ。

「お前こそ——先客……なきゃ、考えたけどよ……」

 膝をつく俺を見下ろすグレース。

「……俺は、お前のモノにゃ……ならねぇ——」

「何か盛られてるって半分解ってても、アタイに恥をかかせないようにワインを飲んでくれるアンタのそういうところ、好きだよ、ヴァイス」

 遠くにグレースの呟きを聞いた。

 なんでそこまで分かるんだよ。マジでよっぽど相性いいのかね。

「きっと、アタイのモノにしてみせるさ。その為に、手段は選ばないよ」

 眠い——

 睡魔に敗れた俺の意識は、そこで途絶えた。

4.

 で、起きてみたら、もうこの有様だったのだ。

 つまり、俺達はいま、とある海賊船の船長室で、後ろ手に縄で縛り上げられて、床に膝をついて並ばされている。

「それじゃ、答えを聞かせてもらおうじゃないか」

 曲刀の切っ先を俺の顔面に向かって突きつけながら、グレースは問いかけた。

 俺の横では、姫さんが非難がましい目つきでこっちを睨んでいる。うぅ、ごめんなさい。

 フゥマは——何を考えてるのか、よく分かんねぇな。コイツが大人しく捕まったのも、どういうつもりなんだか良く分からない。興味無さそうな素振りで、あくびを噛み殺している。

「答えって、なんのだよ」

「もちろん、アンタがアタイのものになるかどうかって話だよ」

 これを聞いた姫さんが、小さくため息を吐いた。

「また、女子おなご絡みか。ホントにお主は懲りぬヤツじゃな」

「いや、違うって、そういうんじゃないっての。大体、またってなんだよ、またって。俺は別に、誰にも手ぇ出してねぇだろうが」

 こんだけ女日照りが続いてるってのによ。

「お主がそう思うのなら、そうなのじゃろうな」

 え、なにその言い草。さすがにカチンと来るんですけど。

「まさか、この前の飼育係の姉ちゃんのこと言ってんじゃねぇだろうな。あれこそ、姫さんのせいでなんにも出来なかったろうがよ」

「大きな声を出すでない。ならば、エフィのことは、どうなのじゃ」

 え、ああ、うん。

 いや、アレこそ、そういうのじゃないと申しますか。

「だから、違うっての。大体、昨日だって、俺はちゃんと、この姉ちゃんのモノにはならねぇって断ってんだからな?」

「それはそれは、ご立派じゃな。そもそも、なんでそんな話になっておるのかということに目を瞑ればじゃが。前から思っておったが、お主、隙がありすぎなのではないか?」

 なんで、こんなすこぶるつきの美少女に、そんな女の子がされるような心配をされなきゃいけねぇんだ。

「おぅ、お前ぇら、いい加減にしろよ!? お頭が聞いてんだろうが!」

 しびれを切らした後ろの海賊が恫喝するのを、軽く手を上げて制するグレース。

「緊張感の無い連中だねぇ。こんな物騒なモンを突きつけてる甲斐がないってモンだよ。自分の立場が分かってんのかい?」

 ああ、うん、ごめんなさい。

「ところで、これ、俺がもう一回断ったら、どうなるんだ?」

「そんなの、分かってるだろう?」

 グレースは、ヒュンヒュンと曲刀を振り回す。

 いや、姫さんもいるんだから、止めろって。危ねぇだろ。

「それって、質問じゃなくて脅迫だよね」

「手段は選ばないって言ったろう?」

 勝ち誇った笑みを浮かべるグレース。

 またしても、小さな嘆息。

「ハァ。不幸か厄介事しかもたらさないというお主の師匠の言葉は、まさしく金言じゃったな」

 えー、いまそんなこと言うの。

 ていうか、最近、姫さんの俺に対する当たりが強くて辛いんですけど。

「フフッ、本当に文句ばっかり言われてるんだね、ヴァイス」

 と、グレース。

 分かってもらえますか。

「ま、それを受け入れてるのはアンタだけどね。でも、アタイなら、文句じゃなくて愛を囁いてあげられるよ?」

 ホントに、そっちの方がいいかもなぁ。

「ンで? オレ様、そろそろ暴れちまっていいのかよ?」

 それまで大人しかったフゥマが、あくびをしたついでみたいに口を開いた。

 ああ、いちおう俺と姫さんに気を遣ってくれてたのね。

 ひとりで暴れて、俺達が人質に取られたら厄介だもんな。案外と気が回るヤツだ。

「やめとけよ。お前ぇのこた気に入ってんだ。悪ぃこた言わねぇから、大人しくしてな」

 後ろに控えた、頭にバンダナを巻いた禿頭とくとうの海賊が、子供に対するような口調で諭したが、フゥマはキッパリかぶりを振った。

「いや、オレ様、自分より強ぇヤツの言うことしか聞かねぇから」

 傲然と言い放つ。

「ァン? 手前ぇ、そのザマで何ホザいてやがる。縛られてんのが分かってんのか?」

「いや、こンなん、別になんの問題もねーけど」

 本当になんでもなさそうに答える。

「このガキァ、優しくしてりゃつけ上がりやがって」

 指を鳴らしながら近寄る海賊に、フゥマはニヤリと笑いかける。

「アンタこそ、止めとけよ。一緒に飲んだ仲じゃねぇか。あんま殴りたくねーんだよ」

「てめ——ッ」

 拳を振りかぶって殴りかかった海賊が、真後ろにふっ飛ばされる。

「だから、蹴るわ」

 大振りな拳よりも素早く立ち上がったフゥマが、後ろ手に縛られながら前蹴りを放ったのだ。

「おい、あんた。メラくれよ、メラ」

 俺に背中を向けながら、フゥマが要求する。

「へ? あ、ああ」

 縄を焼き切れって言ってんのか。

 お前、そんな火を貸せみたいに。まぁ、いいけどよ。

『メラ』

 なるべく威力を抑えた火球が、重ね合わせて縛られたフゥマの手首辺りに命中する。

「あっチッ!! 姫さん、ホイミ」

「しょうことないの」

 荒事が嫌いな姫さんは、渋い顔で回復魔法を唱える。

『ホイミ』

「おし、あんがとな。ンで? オレ様、自由になっちまったけど?」

 手足をプラプラさせながら無邪気に問うフゥマに、グレースは曲刀を書斎机の上に置いて両手を上げてみせた。

「はいはい、分かった、降参だよ。できれば、もうちょいと待って欲しかったけどねぇ」

「回りくどいのは、あんま好きじゃねぇよ。意味分かんねぇし。大体、縛ったっても、脚が自由じゃ意味ねぇじゃんか」

「普通は、後ろ手に縛っときゃ充分なんだけどねぇ」

 苦笑するグレースに、フゥマはきょとんと返す。

「ぜんぜん充分じゃねぇけど? オレ様、あのままでもこの船の全員ぶっ飛ばせたからな」

 フゥマの不遜な物言いに、さすがに一瞬怒気を漲らせたグレースの表情が、すぐ自嘲に変わる。

「大した自信だね。これじゃ、ヴァイスが慌ててくれないのも無理ないか」

 いや、まぁ、ここまであっさりとは思いませんでしたが。

「う……いってぇ……」

 バンダナ禿頭の海賊が、呻き声を上げながら身を起こす。

「いや、そんな痛かねぇっしょ。オレ様、思いっ切り手加減してやったからな」

「あ? 手前ェ、ナメたこと抜かしやがって、アレで手加減だぁ——?」

 腹を押さえてフゥマを睨みつけた海賊の語尾が、小さく消える。自分の発言になんの疑問も持っていない眼差しを目の当たりにして、フゥマが本当にそう思っていることを理解したのだろう。

「要するに、本気で脅すつもりはなかったってことだよな」

 フゥマに縄をほどいてもらいながら、グレースに確認する。

 つか、痛って! お前、解き方が雑すぎんだよ。

「いや? ウマくいったら儲けモンくらいには思ってたよ?」

 しゃあしゃあとのたまうグレース。

 少しは悪びれてもいいんだぞ。

「ソッチの手はあんまり使う気なかったけど、アンタ、お嬢ちゃんの安全には厳しそうだったしさ」

「それやってたら、完全に逆効果だったぜ」

 エラくドスが利いた声が出て、自分でびっくりした。

 ただ、今回はそう酷いことにはならないだろうと踏んで、それが的中したから良かったものの、俺は本来、もう少し慎重でなければいけなかった。少なくとも、姫さんを預かっている間は。

「——ッ、そんな怒んないでよ、ちょっとした冗談じゃないか。ホセも、済まなかったね。アタイらの見立てより、この連中はちょこっと上手うわてだったみたいだよ」

「頼ンますぜ、お頭ァ。これじゃ、俺ァいい面の皮だ」

「ゴメンってば。でも、願ったりだろ?」

「そりゃそうスけど……」

 まだ腹をさすりながら、ホセと呼ばれた海賊は愚痴をたれる。

「そんで? オレ様達に頼みたいことって、なんなんだよ?」

 さっきまでの会話を聞いていたのかいないのか。

 姫さんの縄も解こうとして、俺にシッシと追い払われたフゥマは——お前はガサツだから駄目だ——腕組みをして仁王立ちで正面からグレースに問いかけた。

「やれやれ、ウチの連中と同類かと思ってたけど、ここまで腹芸が通じない人間も珍しいね」

 うんうん、と深く頷く俺と姫さん。

「ジツは、ちょいと魔物退治を手伝って欲しくてねぇ」

 え、俺のこととは別に、ホントに頼み事があったのか?

 そんで、フゥマの方が、それを察してたっていうのかよ。

 なんか俺、すげぇ自意識過剰の恥ずかしいヤツみたいになってるんですけど。

 姫さんを戒めている縄を解きつつ——くそっ、なかなか解けねぇな——密かに顔を真っ赤にしている俺を置き去りに、魔物退治の話は続く。

「へぇ、どんな魔物よ?」

「クラーケン、って知ってるかい?」

「聞いたことねぇな? 海の魔物だったら、さすがのオレ様もあんま知らねぇし」

「ていうか、アンタが言ってる魔物とは、ちょっとばかし訳が違うかも知れないんだけどさ——」

「魔王が出現するより昔からある、伝承の方の話か」

 よし、やっと解けた。

「うむ、大義で——ありがとう。わらわも単語だけは、いつじゃったか里で耳にしたことがあるな」

 言いながら、姫さんは手首の辺りを擦った。結び目はそこそこ固かったけど、締め付けはゆるゆるだったから、痕が残ることもないだろう。

 ちらっとグレースに視線を投げると、ちゃんと気を遣っていただろう? と許しを請うような、冗談に紛らせようとする苦笑いを返された。

「そりゃ、話が早い。いや、アタイらが勝手に、そう呼んでるだけなんだけどね。普通の——っていったらおかしいけどさ、海で良く出くわすような魔物にも、バカでかいイカ大王イカだの気味悪い色したその親戚だのはいるんだけど、どうも、そいつらとは厄介さが全然違うんだよ」

「もっと強ぇってことか?」

 フゥマが瞳を輝かせる。

 俺は、うんざりしますが。

「段違いだね。デカいイカの魔物だったら、ウチの連中はもちろん、他のヤツらでもなんとかなってたんだ——ああ、こっから南の辺りじゃ、いまより魔物が少なかった頃は、もっと沢山海賊が蔓延はびこっててさ。海上の流通もまだ盛んだったから、海軍だの海賊だので、そりゃ賑やかなモンだったよ」

「お頭は、こんっなちっけぇガキでしたけどね」

 ホセが茶々を挟む。

「余計な口を叩くんじゃないよ。けど、ある時から、急に船が行方不明になる事件が増えはじめてね」

 わざとなのか、おどろおどろしい声音を作りつつ、グレースは語り続ける。

「船どころか、船団が丸ごと消えちまうことだってあったんだ。中には、羽振りがよかった強力な海賊団も居たりしてさ、最初は商売敵が減って都合がいいなんて笑ってたアタイ達も、終いにゃなんだか怖くなってきてね」

 少し身をかがめて、恐ろしげな表情を姫さんに向ける。

「幽霊船にあの世へ呼ばれたんだ、なんて噂もよく流れたモンだよ」

「その幽霊船とクラーケンとやらは、どう繋がるのじゃ?」

 姫さんが全然怖がらないので、グレースはつまらなそうに腰を伸ばした。

「いや、幽霊船の噂があるのはホントだけど、そっちはまた別の話だよ。話を逸らしちまって、すまなかったね——とにかく、不意に船が消えちまうようなことがしばらく続いて、恐ろしく大きいイカだかタコだかクラゲだかの化物を見たっていう目撃情報やら、運良く生き残った連中の体験談なんかをかき集めてる内に、どうやら普段から相手にしてる魔物とはちょっとばっかし毛色の違うバケモノが、アタイらの海には棲んでるんじゃないかってことが分かってきたのさ」

 グレースは少し遠くを見るように、視線を宙に彷徨わせた。

「特にウチのオヤジは、ここいらを『俺の海』だって言って憚らない人だったからね。海軍は、アタイらみたいな善良な海賊を追いかけ回すばっかりで、航海の安全の為にバケモノを退治しようなんてつもりは——ていうか、バケモノの存在自体、ハナから信じちゃくれなかったし。だから、こりゃ俺がひと肌脱ぐしかねぇなって、オヤジはいつも口癖みたいに言ってたんだ」

 色々ツッコミたかったが、話の腰を折らないように、あえて聞き流す。

「ただ、アタイらは、まだそのバケモノと遭遇したことがなかった。噂にしても伝説に紛れ込んじまうような微かなモンでね、情報を集めてたアタイらにとっても、ずっと雲を掴むみたいな話でしかなかったんだ。だから、『グレース。お前ぇの賢い頭なら、少ない情報からでも、なんかの兆しってモンを読み取れねぇか』ってオヤジから頼まれた時は、そりゃ困ったもんさ」

 グレースは、過去を懐かしむように苦笑する。

「そっから色々頭を働かせて、情報をかき集めて繋ぎ合わせてさ、バケモンが決まったコースを周遊してるって仮説を立てるまで、何年もかかった」

 グレースの声が沈む。

 その顔は、ひどくしかめられていた。

「オヤジは、『よくやった、グレース。お前ェは、俺の自慢の娘だ』って褒めてくれて、アタイもすっかり調子に乗っちまったけど……まったく、あんなこと思いつくんじゃなかったよ」

 後悔の念がありありと窺える口振りと表情から、姫さんも察したようだった。

「それは……正解だったのじゃな?」

「ああ、そうさ。アタイが割り出した場所と時期に——まぁ、一週間くらいは網張って待たされたけどね——ヤツが現れたんだ。その頃は、ウチもいまより羽振りが良かったから、三隻で船団を組んでさ。『グレース、お前ぇはこの作戦の大将だ。いっとう後ろから状況を把握して、指示を出してくれ。頼んだぜ』ってオヤジに言われて、アタイの船だけ離れたトコに配置されたんだ。もしかしたらオヤジは、なんか予感してたのかも知れないね」

 そこで、グレースの語りが止まった。

 顛末は聞くまでもなく、俺と姫さんは先を促すことも出来ずにいたが、この男は違っていた。

「ソイツがクラーケンってヤツか。そんなに強かったのか?」

 場違いに瞳を輝かせるフゥマを目の当たりにして、悲嘆に暮れているのが馬鹿らしくなったみたいに、グレースは思わずといった感じで少し吹き出した。

「ああ、そりゃもう。アタイら以外の二隻は、あっという間に沈められちまったよ」

「マジかよ。そっちも、この船くらいデカかったんだろ? スゲェな、どうやってやられちまったんだ?」

「それが、襲われたのが、ちょうど真夜中でね。アタイらの船は少し離れてたこともあって、ほとんど影しか見えなかったんだよ。ただ、海で良く出くわすでっかいイカの魔物がいるだろ? 多分、アレと姿形は似てたと思うんだけどさ、普段相手にしてるのより全然大きかったね。っていうか、大きすぎたよ……海の中から絡みつかれて、本当にあっという間に引きずり込まれて……予め取り決めてあった信号弾で、オヤジが最期に逃げろって……」

「そりゃ、逃げて正解っしょ。そのまま居ても、一緒に沈められて終わりだったじゃんか、話聞いてると」

 おお、フゥマ、お前すげぇな。

 お前の中に「行かない」っていう選択肢はねぇのかよ。

「でも! アタイはオヤジを見殺しに……しちまったのに——いつまでも敵も討てないで……」

「いや、逃げたからこそ、いまオレ様に逢えてる訳じゃんか」

 フゥマは自信の塊みたいな顔をして、親指で自分を指し示した。

「オレ様と——まぁ、あっちのアイツも、魔物退治に関しちゃ専門家プロだからな。仇を討つ為に、そういう人間を探してたんじゃねぇの?」

 あっちのアイツって、俺のことか。お前、また俺の名前を忘れたんじゃねぇだろうな。

「そりゃ、まぁ——」

「だったら、話は順調じゃんか。こうして、オレ様がここにいるんだから」

「あ、あぁ——」

 グレースは狐につままれたような顔をして、困惑混じりに頷いた。

 あれ、おかしいな。

 なんか、フゥマがカッコ良く見えるんだけど。

「ンで? どうやって斃す?」

 俺の方を向いて、気楽に尋ねるフゥマ。

「いや、お前。そこを俺にぶん投げるのかよ」

「だって、アンタ、なんか心当たりあんだろ?」

 ホントこいつ、戦闘に関する勘だけは鋭いのな。

 確かに、グレースの話を聞きながら、俺には思い出していることがあった。

『覚えておくがいい。そこらの魔物など下らんばかりだが——そうでないのも、中には居る。彼奴は『突然変異』とか言っていたか。姿形は大して変わらんが、中身は別物だ。そいつらは、存外愉しめる。貴様では死に兼ねんから、相手取るにはもってこいだろう』

 打ち捨てられた、いにしえの寺院の地下。

 石壁に囲まれた、ガランと殺風景な祭祀場で呟かれた、本物の化物バケモノの台詞。

 くそ、姿形すがたかたちは同じでも、大きさはまるで違うみたいじゃねぇか。頼むぜ、ニックさんよ。

「心当たりっても、別に戦う上で役に立つようなことじゃねぇよ。つか、海の魔物なんて、お前もあんまりやり合ったこと無ぇだろ。どうすんだよ」

「な? 楽しみだよな?」

 なに嬉しそうな顔してやがんだ。

 馬鹿じゃねぇの、コイツ。

 いや、知ってたけど。

 その時、くつくつと笑う声が聞こえた。

「マッタク、頼もしい限りだねぇ。アタイらにも、ようやく運が向いてきたみたいじゃないか」

「そうッスね」

 なにやら、頷き合うグレースとホセ。

 やべーな、このまま流されたら、リィナを圧倒したあの化物ニックすら満足させ得る、超強力な魔物と戦わされる羽目になっちまいそうだ。

 しかも、不慣れな海の上で。

「よし、分かった。フゥマ、お前は協力してやれよ。修行にもなんだろ」

「当然っしょ。謎の超強ぇ魔物退治なんて、スゲェ燃えるじゃんか」

「てことで、コイツを貸し出すから、俺と姫さんは遠慮させてもらう方向で……」

「ずいぶんと冷たいことを言うじゃないか、ヴァイス」

 フゥマに狂わされた調子を取り戻しつつあるのか、グレースはニヤニヤしながら俺を見た。

「でも、そりゃ許可できないね。この船はもう、ヤツの周回コースに向かってるところなんだ。アンタには残念だろうけど、この船の船長は、途中下船は認めてないよ」

 うん、知ってた。

 目を覚ましてからずっと、この船揺れてるもんな。

 もうとっくに出帆してるの、分かってた。

「つまり、最初っから断る選択肢が無かったってことだよね、これ」

「手段は選ばないって言ったろう?」

 グレースは、さっきと同じ台詞を繰り返した。

「ハァ……」

 姫さんのため息が、横から聞こえる。

 えー、これ、俺のせいなの?

「おっし、マジ燃えてきた! 作戦立てようぜ、作戦」

 うるせー、バカ、黙ってろ。

 いや、ホントにどうすんだよ、これ。

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