35. SHOCK-IT-TO-ME
1.
あまり時間も残されていなかったので、早々に酒蔵を後にした俺達は、タタラやクシナと合流して、今回の生贄に選ばれたヤヨイという女の家に向かった。
リィナの突拍子もない提案のお蔭で予定が狂っちまって、かなり行き当たりばったりな作戦しか思いつかなかったが、これ以上揉めてる時間も無い。不本意だが仕方ねぇ。
「キミ、だいじょぶ?重くて疲れたんじゃないの?」
道すがら、空の酒壷を背負ったファングに、リィナはそんな声をかけた。
言葉の上では気遣いだが、完全に揶揄する口調だ。
「ふざけるな。たとえ中身が酒で満たされていたところで、何ほどの事もない」
「ホントにぃ~?」
「くどい」
「あ、そう?じゃあ、こんなことしても平気だよね」
ファングの腰の辺りを足がかりにして、ひょーいと跳び上がったかと思うと、リィナはくるっと空中で一回転して、そのまま酒壷の縁に着地した。
相変わらず、軽業師顔負けの身軽さだな。
「おい、貴様!?なにをしている!?」
「へぇ~、ホントだ。全然バランス崩れないね。すごいすごい」
「……貴様こそ、奇妙な体術を使うな。人ひとり乗っているようには感じんぞ……おい、いいから、さっさと下りろ!」
「いいじゃん、別に。全然へっちゃらなんでしょ?」
縁から両足を離した途端、リィナの体は全身の関節が外れたみたいに折り畳まれて、すとんと酒壷の中に消えた。
「楽ちんだから、このまま運んでってよ。これも修行だよ、修行」
酒壷から肩口まで覗かせて、リィナはファングの頭をぺしぺしと叩いた。
「貴様……あまり調子に乗るなと警告したぞ?」
あ、マズい。ファングのヤツ、本気でキレかけてやがる。
リィナを嗜めるのを一瞬躊躇っちまったのは、やっぱり昨夜のことが頭にあったからだろう。
俺よりも先に口を開いたのは、姫さんだった。
「おお、よいな。わらわも、乗りたいのじゃ」
「ん?いいよいいよ、おいでよ、エミリーちゃん。はい、お手をどうぞ」
ファングの意向を全く無視して、リィナは身を乗り出して手を差し伸べると、エミリーをぐいっと引っ張り上げた。
2.
いくらエミリーが小柄とは言っても、さすがに二人がすっぽりと入れるほどの大きさじゃない。壷の中で立ち上がってエミリーに場所を空けたリィナは、目の上に手をかざして庇を作り、芝居じみた仕草で先を窺った。
「で、そろそろ、そのヤヨイって人のウチに着くのかな?」
「へぇ……んですだ」
リィナの馬鹿みたいな身軽さに唖然としたのか、振り返ったタタラは気の抜けた口調で答えた。もしかしたら、呆気に取られたのは、とりとめのない言動の方かも知れないが。
マグナ達が勇者様ご一行であることは、既に説明してある。勇者様のお供ともなれば、やっぱり普通の人間とは様子が違うんだな、とでも言いたげなタタラの顔つきだった。
一方のファングはといえば、背負った酒壷に姫さんまで乗っちまったので、渋々黙認することにしたらしい。こいつは案外、姫さんに甘いからな。
きっと苦虫を噛み潰したような顔をしてるに違いないが、二人分の重さ自体はまるで苦にならないようだ。体力馬鹿の面目躍如ってトコですかね。
並んで歩くアメリアが、姫さんと会話をしながら、さりげなくファングの腕に触れていた。
ちなみに先頭に立って案内をしているのが、もちろんタタラとクシナで、その後ろにファング達が続き、やや遅れて言葉少なにシェラが足を動かしている。
その背中を見ながら歩いている俺の手を、身代わりの生贄役を務める決心をしたエフィが、思い詰めた顔をして握っていた。
さらにずっと遅れて、しんがりをダルそうに歩くマグナ——今も、ついてきてる筈だ。少なくとも、ついさっき確認した時は、ちゃんと居た。
景色を眺めるフリをして誤魔化しちゃいるが、俺がいちいち後ろを気にしてるのは、エフィにはバレバレだろうな。
この状況は、俺が望んで働きかけた結果なのは、もちろん承知してるんだが。
正直、ちょっと胃が痛くなってきたぜ。
3.
近付くにつれて、ヤヨイという女の家は教えられなくてもそれと知れた。
家の中から、泣き喚く子供の声が聞こえたからだ。
タタラを先頭に中に入ると、今朝方見かけたヤヨイの恋人——サノオを含めて、家人の全員が葬式の真っ最中みたいな打ち沈んだ顔を突き合わせていて、異常に淀んだ空気をガキの泣き声が攪拌している。
大好きなヤヨイお姉ちゃんが生贄にされてしまうと知ったガキが、イヤだイヤだと駄々をこねているのだ。
黙って突っ立ってるだけで、こっちまで落ち込んじまいそうだったので、早速タタラに仲介してもらって、俺達に任せてもらえればヤヨイを生贄にしないで済むと話を持ちかける。
最初は半信半疑の顔をされたが、タタラが国外に助けを求めたことは周知だったし、さらにサノオからも今朝の話は聞かされていたらしく、最終的には縋る目をした家人全員に頭を下げられた。ガキだけは泣きっぱなしだったが。
悪い冗談としか思えないが、生贄の女はヤマタノオロチと添い遂げるという建前になっているらしい。まさしく、死が二人を別つまでって訳だ……うん、不謹慎だったな。
ともあれ、そんな理由もあって、生贄の女が嫁入り衣装で着飾る風習になっているのは好都合だった。頭にも被り物だか布切れだかを被せるそうだから、ぱっと見、入れ替わりが分からなくなる——かと期待したんだが。
「やっぱり、髪の色が問題ですね~」
襖を開けたアメリアが、奥の部屋のエフィを振り返りながら、そうこぼした。ヤヨイが着る筈だった衣装の着付けを手伝っていたのだ。
首を傾けて覗き込むと、暑苦しく何枚も重ね着をしたエフィが、正座をして俯いているのが見えた。
馬子にも衣装、という言葉がある。
その上、エフィは元から見た目が悪くない。
だから、思わず見とれちまって、こっちの部屋の隅っこで壁に背中を預けて片膝を抱えてるマグナに睨まれる……なんて展開になるのを恐れてたんだが、幸い杞憂で済んだ。
ここの連中にとっちゃ上等な出で立ちなのかも知れないが、なんというか、センスが違うっていうのかね——端的に言えば、俺はもっと体のラインが出る薄手の衣装の方が好きだな、うん。
4.
「そうですね……ちょっと、怪しまれちゃうかも知れませんね」
ぺたんと床に腰をおろしてガキを抱きかかえたシェラの控えめな表現は、顔に浮かんだ困った表情で裏切られていた。
ちなみにガキは、ずっとシェラにあやされていた甲斐あって、ようやく泣き止んでいる。
「お姉ちゃん、綺麗!!」
目を丸くして叫んだガキに、エフィは「ありがとう」と呟いて、強張った笑顔を返した。
ひどく緊張した顔つきだ。これから化け物の生贄にされようってんだから、無理もない。ガキは空気を読めないからアレだが、綺麗かどうかはこの際関係ねぇしな。
結い上げられたエフィの金髪は、頭に被せた布の内側に押し込められていたが、どうしてもいくらかはみ出ちまってる。
「ね~。お姉ちゃん、とっても綺麗だね~」
ガキをあやしながら、シェラがぽつりと漏らす。
「カツラでもあれば、いいんでしょうけど……」
瞳の色や顔立ちは、悲しげな素振りで目を瞑って俯いてりゃ誤魔化せるだろうが、シェラの言う通り髪の色はカツラでもない限り無理だな、こりゃ——
「カツラがあれば、いいだか?」
横から口を出したのは、それまで大人しくタタラの陰に隠れていたクシナだった。
「え——あ、はい。あれば助かりますけど……お持ちなんですか?」
アメリアの問い掛けに答えず、クシナは足早に奥の部屋に踏み込んだ。
そして、長い黒髪を片手でまとめ上げると、木製の化粧台から大きな鋏を取り上げる。
正直、俺はクシナが何をするつもりなのか、まるで予期していなかった——
「お、おい、おめ、なにするつもりだ」
唯一、タタラだけが声をあげたが、その制止は間に合わなかった。
じょきり。
小気味のいい音を立てて、クシナの黒髪が鋏に切断されるのを、俺はただぼけっと眺めていたのだった。
5.
「え——っ!?」
「なにを——?」
悲鳴を呑み込んだアメリアやシェラにしても、予想の外だったろう。
「これで、代わりになるだか?」
お嬢が両手で口を抑えて見上げる中、クシナは己の黒髪をアメリアに向かって差し出した。
ひとつ呼吸を置いて、表情を改めたアメリアが顎を引く。
「……はい。助かります」
「なんてこと……どうして——?」
エフィの声は震えていた。信じられないといった口振りは、自分が髪を大事にしてるからだろう。
「ん?なんでってこともねぇだけど、ヤヨイじゃちっと長さが足んねぇだろうし……」
「そうじゃないわ!そんな、なんの相談もなく、あっさり……貴女にとっても、髪は大切でしょう?」
「いんや。こんでヤマタノオロチさ退治してもらえっなら、オラの髪の毛くらい安いもんだ」
クシナは、なんでもないことのように言うのだった。
「だからって……ごめんなさい。私が深く考えもせずに、身代わりになるなんて言い出したせいだわ……」
「なしてお前ぇさんが謝るだ?ホントはオラ達でなんとかしなきゃなんねぇのに、無関係なお前ぇさん達さ巻き込んで、申し訳ねぇのはこっちだよ」
「でも……」
クシナがあっさりと自分の髪を差し出したことは、エフィにとって余程ショックのようだった。
そして、俺もまた、多分お嬢とは異なる意味で衝撃を受けていた。
クシナの行為、それ自体がショックだった訳じゃないんだが。
ひと言でいえば、意外——そう。まるで予想できなかったという事実が、俺にあることをハタと気付かせたのだ。
俺は、クシナやタタラのことを何も知らず——知ろうとすらしてなかった。
自分の髪を差し出すくらいなんでもない。女がそう考えてしまう程、この国の住人達がオロチに追い詰められている状況について、俺はほとんど実感を覚えちゃいなかったんだ。
俺の興味は、偶然この地で再会したマグナ達にすっかり奪われていて——だからこそ、クシナが何をするのかなんて、全く予見できなかった。興味の外だったから。
多少は手強い相手かも知れないが、基本的にはいつもの魔物退治と大して変わらない。無意識の内に、その程度のつもりで構えていた俺は、ここの連中にとってオロチの脅威が文字通りの死活問題だという視点に、全く欠けていたのだった。
6.
こういう事って、きっと俺には山ほどあるんだ。
視角の盲点というか、目の前にあるのに気付かない、みたいなことがさ。
俺は一体、これまでどれくらい、気付かなくちゃいけなかったことを、気付けないままにして過ごしてきたんだろう。
そんな思いに囚われて、どこからか唐突に現れた誰かに横っ面を引っ叩かれたみたいに、不意打ちじみたショックを、俺は覚えていたのだった。
考えてみりゃ、クシナは家族を殺されてるんだもんな。オロチ憎しの念は、人一倍だろう。クシナの顔を改めて正面から見直せば、その情念がもたらす覚悟というか、自分に出来ることがあるならなんでもするという決意みたいなものは窺える。
そんなことすら、今まで分からなかった訳で。
俺は別に、全ての不幸にひたすら同情を寄せるような博愛主義者じゃない。
けど、オロチ退治を請け負って来た分際で、肝心の仕事に本腰が入ってなかったのは認めざるを得なかった。
魔物に襲われて人が死ぬなんて、大して珍しい話でもない。
こんな商売をしてると、それに慣れちまって、感覚が麻痺してた部分もあったかも知れない。
でも、ホントはそれって、やっぱり普通じゃねぇんだよな。
特に、俺達みたいにヤクザな商売をしてる訳でもなく、本来なら片田舎でのんびり畑を耕して暮らしてるような連中にとってはさ。
ちらりと視線を向けると、ファングも俺を見た。
こいつは最初っから、目的を見失ったりしてなかっただろう。
シャクに触るが、面構えでそれが分かった。
「気合入れてかからねぇとな」
そう声をかけると、やっと分かったか、と言うように、ファングは「当然だ」と答えてニヤリと笑った。
7.
クシナの黒髪を被り物から垂らして目鼻立ちを見え難くすることで、どうにかエフィはそれっぽく見えるようになった。
ホントは髪を結い上げるのが作法らしいんだが、まぁ、すぐに喰われちまう生贄の髪型なんて、運び役の兵士だか役人だかも大して気にしやしないだろう。
一緒に運ばれる酒壷の中には、リィナが潜むことになった。
ファングは自分が入る気マンマンだったんだが、筋肉質の図体には小さ過ぎて、すっぽり収まり切らなかったのだ。
酒壷役には、ある一定の時間、オロチと独りで渡り合って、致命傷を与えられないまでも、エフィを守ってもらう必要がある。
もちろん俺達もすぐに駆けつける予定だが、運び役の目を盗んで後を追うとなると、どうしたっていくらか時間差が生じるからな——ったく、生贄役がエフィじゃなけりゃ、もうちょいマシな手も打てたんだが。
ともあれ、竜種と独りでやり合うなんて非常識な芸当がこなせそう人材は、ファング以外にはリィナを置いて他になかった。壷にすっぽり入れるのは、既に実証済みだしな。
「あなた……ちゃんと、自分の役割を果たしてくれるんでしょうね?」
ところが、エフィは疑り深げな視線を、リィナに投げかけるのだった。
守ってくれるんでしょうね?と、はっきり言わなかったのは、意地を張ってるんだろう。
「んん~?さってねぇ、どうしよっかな~」
酒壷の中に立って、その縁で頬杖をつきながら、リィナはにやにやとエフィに視線を返す。
昨夜の件で、この二人の間には妙な確執が生まれちまったらしい。
やれやれ。
お嬢は、ヴァイスぅ~、と、当て付けるみたいな、妙に甘えた声で俺を呼んだ。
「ねぇ、この人選は、本当に間違いないの?私は、できたらヴァイスについてきてもらった方が、安心なんだけれど……」
「いや、悪いけど、俺もその中にすっぽり入るのは、ちょっと無理だ」
あと、竜種と独りで渡り合うのもな。
8.
「……でも、正直に言って不安だわ。本当に大丈夫なの、この人」
「さぁ~?どうだろうねぇ——」
「ああ、大丈夫だ」
茶化すリィナを遮って、そう断言することに、迷いはなかった。
「リィナは、必ずエフィを守ってくれる。絶対だ。俺が保証する」
それまでさんざん反りが合わなかったリィナとエフィは、一転して示し合わせたみたいに、同時に揃ってきょとんとしてみせた。
なんなんだ、お前ら、その意外そうな顔は。そんなに俺らしくない台詞だったか?
「それに、リィナは俺なんかより、全然強くて頼りになるんだぜ。だから、心配すんな」
「ま、まぁ……ヴァイスが、そう言うなら……」
狐につままれたような顔をして、不承不承つぶやくエフィ。
「リィナも、頼んだぜ。エフィは、俺達みたいに年がら年中魔物とやり合ってる人種とは、訳が違うんだからさ。なるべく早く追いつくつもりだけど、それまで守ってやってくれよな」
「ふぅん……ホントに、いいのかなぁ~?ボクに、そんなこと頼んじゃって。心配じゃないの、ヴァイスくん?」
リィナはニヤニヤとからかう表情を浮かべたが、悪いけど無意味だぜ。
「ああ。全然心配してねぇよ。よろしく頼んだぜ」
こんな風に言い切るのが俺らしくねぇのは、まぁ、自分でも認めるよ。
でも、これに限っちゃ本心だからなぁ。
「そりゃ……まぁ……その人に身代わりになってもらおうって言い出したのは、ボクだしね」
リィナは、バツが悪そうにぼりぼりと頭を掻いた。
リィナがエフィを守ってくれることについては、俺は一切の疑いを持ってない。
俺達が辿り着くまでの間、リィナ独りの手にオロチがおえない可能性はあるだろうが、リィナに無理なら、他の誰にも無理だ。もしそうなったら、誰が悪いかって、こんな杜撰な作戦を考えた俺の責任ってことになる。
とにかく、俺がついていくよりゃ、よっぽど安心なことは間違いない。
だから、俺が引っ掛かってるのは、それとは別の事柄だった。
9.
準備が整ってほどなく、昼前に俺達を呼びに来た連中と同じ格好をした二人の男が、生贄を迎えにやってきた。
既に沈んだ太陽が、山の上を微かにあかく染めていた——もう、ほぼ夜だ。
「酒壷も、こっちで用意しときましただから」
あらかじめ家の外で待ち構えていたタタラの言葉を、特に訝る風もなく「ほう、気が利くな」とかなんとか言いながら、兵士達は両端に棒を渡した板の上に蓋をした酒壷を置き、生贄にも隣りに乗るように促した。
それはもちろん身代わりになったエフィであり、本来の生贄であるヤヨイは、俺達と一緒に身を隠しつつ、家の中から様子を窺っている。
ヤヨイの家族に軽く頭を下げて、終始俯いたエフィが板に乗ると、兵士達は前後から棒を握って持ち上げた。
「きゃっ!?」
板の上でバランスを崩しかけて、エフィが悲鳴をあげる。
ヤバい、馬鹿、顔を上げんな。ここの連中とは目鼻立ちがまるで違うから、しげしげと覗かれたら、さすがにバレちまうぞ。
肝を冷やしていると、不意にヤヨイの母親がおいおいと声をあげて泣き崩れた。
続いて、おそらく事情を半分も理解していないガキがつられて泣きはじめ、兵士達はうんざりとした顔を見合わせた。
「気持ちは分かるが、お主の娘は大変名誉なお役目を仰せつかったのだ。笑って送り出せとは言わぬが、あまり未練を残すものではない。娘も困るであろうし、なによりこれは、この国のもの皆の為なのだから」
用意してあった台本を棒読みするような口調で、兵士のひとりがヤヨイの母親を諭した。思うに、生贄を運ぶ際に繰り広げられる別離の光景は、毎回こんな調子なんだろう。
ともあれ、兵士達の注意がエフィから逸れたことに、俺は胸を撫で下ろしていた。
10.
「ええ……ええ、承知しております」
旦那に肩を抱かれながら、ヤヨイの母親が小さく頷く。それにしても、咄嗟にこんな機転が利くとは思ってなかったぜ。助かったよ。
「娘——なにか言い残すことはあるか」
妙な仏心を出したのか、もう一方の兵士がエフィに尋ねた。
余計なことしなくていいから。
「……いいえ」
蚊のなくような声で答えて、俯いたままエフィは首を横に振る。
「そうか……では、行くぞ」
訳も分からず泣き続けるガキが、上手い具合にいたたまれない空気を醸し出していた。
兵士達にしても、死ぬと分かってる娘を家族から引き離すなんて、気分のいいモンじゃないのは明らかだ。逃げるようにして、そそくさと生贄と酒壷を洞窟に向かって運び去った。
考えてみりゃ、あいつらも憂鬱な役目だよな。
あの分なら、途中で余計な詮索をされて、エフィの正体がバレる心配は少なそうだ。
いちいち生贄に感情移入してたんじゃやってられないだろうし、意識的に距離を置いて、言われた仕事を淡々とこなす。そんな態度だった。
「そんじゃ、行くか」
こっそり後をつけるべく、ファング達に声をかける。
「あの……よろしくお願いいたします」
そう言って、ヤヨイは深々と頭を下げた。
言いたいことは山程あるけれども、それしか言葉にならなかった、みたいな口振りだった。
「任せておけ」
俺が口にしたくて出来なかった言葉で、ファングが力強く答えた。
11.
生贄と酒壷を乗せた板をえっちらおっちらと運んでるので、兵士達の足取りはそんなに早くない。
遅れて出た俺達は、ヤマタノオロチが棲家にしているという洞窟に辿り着く前に、連中の後ろ姿を拝むことができた。
山間の道は森深く、気付かれないように身を隠す木陰には事欠かない。
「——お主らに感謝を」
それに、こっちには姫さんもいるしな。
かなり迷ったんだが——俺の提案で、姫さんとアメリアも一緒に連れて来ていた。
洞窟に危険が待ち受けているのは自明の理だ。二人はヤヨイの家で待たせた方がいいんじゃないかとは、当然のこと考えた。
俺の取り越し苦労で、余計な手間を増やすだけの結果になっちまうかも知れないが——とある気がかりを払拭できずにいた俺は、どうしても二人を無防備なまま置いていく気になれなかったのだ。
ざわめき始めた梢の調べが、俺達の足音をほどよく掻き消す。
風がほとんど吹いていない不自然さに気が付くだけの繊細さを、あの兵士達が持ち合わせてるとは思えねぇし、それでなくても、オロチの棲家へ向かっている恐怖心で気もそぞろな筈だ。
余程のことが無い限り、後をつけている俺達の存在に、連中が気付くことは無いだろう。
「これで、ある程度は、木々がわらわ達の姿も枝葉で隠してくれる筈じゃ。足元には気をつけるのじゃぞ」
姫さんが、そう注意した途端——
「あ——っ!?」
木の根に足を引っ掛けたアメリアが、わたわたと腕を振り回した。
「……お主に言っても仕方ないと分かっておるがな。少しは自重したらどうじゃ、アメリア。いま、言って聞かせたばかりなのじゃ」
バサリ、とすぐ脇の木の枝に受け止められたアメリアは、ファングに引き起こされながら情けない声を出す。
「すみませぇん……」
恐る恐る兵士達の方を窺うと、かなり距離を置いてたのが幸いして、こちらに気付いた様子は無かった。
やれやれだ。
「えっと……大丈夫ですか?」
気遣いを口にしたシェラの顔には、困惑気味の曖昧な笑みが浮かんでいた。
寸劇じみたやり取りに、本気で転びかけたのか、はたまたある種の冗談だったのか、判じかねている顔つきだ。
一方のマグナは、非難がましい目つきで俺をやぶ睨みしたが、視線を返すとつんと逸らす。
ホントに、余計な手間が増えただけかもな、これ。
12.
「あっつい!!」
苛立ち紛れのつぶやきが、久し振りに俺が耳にしたマグナの声だった。
まぁ、思わず悪態が口をつくのも分かる。
洞窟の中は、あり得ないほど暑かった。喋るのも億劫なくらいだ。
それもその筈。灼熱の溶岩が、地面のあちこちに口を開けている亀裂の遥か下方で、地獄の釜さながらにぐつぐつと煮えたぎってるんだからな。
内部は空間的にかなり広かったので、どうにか絶えられるくらいの気温におさまっていたが、用が無きゃまず入ろうなんて思わない、ひでぇ環境だ——つか、大丈夫なのかよ、これ。いきなり溶岩が溢れ出したりしねぇだろうな。
近くに寄ると、たちまち呼吸も困難なほどの熱気に襲われちまうので、なるべく亀裂から身を遠ざけつつ、俺達は地面に生えたグロテスクな溶岩石筍に身を隠し、生贄を運ぶ兵士達の後を追って、なだらかな勾配を下り続けた。
そうして下ってるだけでも、地獄の底へと向かってる気分に囚われちまうには充分な環境だったが、さらに不気味なことには——
ゴオオアアァァ……
「ひっ」
シェラが悲鳴を呑み込み、姫さんが首を竦めて辺りを見回す。
地響きともつかない不気味な重低音が、さっきから断続的に聞こえていた。
最初はなんだか分からなかったが、何度も耳にしている内に見当がついた。
これって、もしかしてヤマタノオロチの鳴き声じゃねぇのか?
いや、鳴き声なんて可愛らしい表現は相応しくない。
咆哮だ。魔竜の咆哮——
煉獄じみて熱い空気に流れる汗を拭う。
地の底から響き渡る呼び声に誘われ、ゆるやかに下る地面を黙々と踏み締めていると、なんとも重苦しくて嫌な気分に精神が蝕まれる。
「チッ……やられたな」
ファングが小声で漏らしたのは、先を行く兵士達と距離を置きつつ、何度目かの横道を通り過ぎた時だった。
ジツは、俺はこの時、地上の地形と現在位置を頭の中で照らし合わせるのに必死だったので、反応したのは姫さんの方が早かった。
13.
「なんのことじゃ?」
「いや……タタラが言うには、この洞窟にも魔物は出るという話だったんだがな。まるで出くわさんのは、どういう訳だ?」
「元々、それほど数が多くなかったのではないか?なにしろ、こんな場所じゃしな」
姫さんは、汗で額にぴったりと貼り付いた前髪を、うっとおしそうに掻き上げた。
「ならよかったんだが……どうも、違うらしい」
「まるで、誰かが露払いした後みてぇだって言いたいのか?」
個人的な気がかりは一旦置いといて、そう指摘してやると、ファングは苦笑を浮かべた。
「そういう事だ。ついでに言うと、そいつらに退路を塞がれた。どうやら連中は、俺達を生かして洞窟から出す気は無いらしいぞ」
「え?」
シェラが、ちょっと目を見開いた。
「今しがた通り過ぎた横道があっただろう。あそこに潜んでたんだ。おそらく、村で俺達を監視していた連中の同類だな」
「……全然、気付きませんでした」
「だろうな。迂闊なことに、俺も気付けなかった。今度は本気で隠れていたと見えるな。間諜の類いだけあって、さすがに陰形には長けている。遅まきながら気付けたのは、俺達を袋のネズミにして、奴等が僅かに油断したお蔭か——」
ファングの言ってることが正しければ、俺達は後をつけられてたってことか——いや、洞窟に入る前の森の中で、姫さんが尾行に気付かなかったとは考え難い——それに、これってどっちかと言うと待ち伏せだよな——とすると、やっぱり——
「いや、気配を隠す必要が無くなったと見た方が無難か。仕掛けてくるつもりかも知れんぞ」
俺が考えをまとめる前に、ファングは足を止めた。
「お前は先に行け、ヴァイス」
「……は?」
「背後からチョロチョロとちょっかいを出されるよりは、ここで迎え撃って片付けておいた方が、後が楽だ。とはいえ、全員揃って足止めを喰らう訳にもいかんしな。だから、ここは俺が持つ」
「いや、でも、お前——」
アメリアと姫さんも一緒なんだぜ。いくらなんでも、面倒見きれるのかよ。
14.
「いいから行け。急がんと、ユーフィミア達を見失うぞ」
「あ——だったら、マグナさんも先に行ってください」
シェラまで、そんなことを言い出すのだった。
「ちょっと、シェラ——」
「ああ、それでいい。こっちは僧侶が残ってくれれば十分だが、あっちはヴァイス独りじゃ、応援としては心許ないからな」
ニヤリ、じゃねぇよ。勝手に話を進めんな。
「いや……どっちかっつーと、回復役が必要なのは向こうなんじゃねぇのか?」
「大丈夫ですから」
思いがけずに自信たっぷりにシェラに頷かれて、次の言葉に詰まる。
いや、その、何の根拠も無く大丈夫って言われましてもね。
「でもさ……」
姫さんとアメリアの方に、ちらりと視線をくれる。
ファングの馬鹿は心配するだけ無駄だとしても、シェラは足手纏いを抱えながら戦ったりできねぇだろ——
俺の不安を見透かしたように、シェラはもう一度力強く頷いた。
「私なら、大丈夫です。ちゃんと、姫様とアメリアさんを守ってみせますから」
らしくない言い草に、俺は意外な表情を浮かべたらしい。
シェラは、軽く俺を睨みつけた。
「少しは信用してください。言いましたよね?私、成長したって」
いや、それは聞いたけどさ。
「ほぅ。聞いたか、ヴァイス?お前よりも、余程頼りになりそうだぞ」
当てつけがましく、唇を歪めてみせるファング。うるせーよ。
「いいから、ここは俺達に任せろ。ぼやぼやしてると、本当に見失うぞ」
ちょっと待てって。
マジで、これでいいのかよ——
「履き違えるなよ、ヴァイス。お前には、分かっている筈だ」
考えをまとめ切れない俺に、ファングはそんなことを言うのだった。
15.
「俺達は、何の為にここに来たんだ?今、お前が優先すべきことはなんだ?」
自らの髪を切ったクシナの姿が、脳裏をよぎる。
はいはい、そうでしたね。
分かってますよ、こン畜生め……けどな。いいか、全面的にお前の言うことが正しいと思ってる訳じゃねぇからな。ただ単に、咄嗟に代案が思いつかねぇから、お前の意見を汲み入れてやるって、それだけだかんな?
お前こそ、そこンとこ履き違えんじゃねぇぞ。
「……分かったよ。そんじゃ、ここは頼んだぜ」
「ああ、任せておけ」
ちっ、自信たっぷりに言い切りやがって。
分かってんだ。
どうせお前に任しときゃ、アメリアや姫さんは元より、シェラの安全まで確実だろうよ。
ホントは、ハナっから心配なんぞしちゃいねぇんだ。
アホめ、誰がお前の心配なんかしてやるモンかよ。
この先、別行動を取ることになる俺の無事の方が、よっぽど不安なくれーだっての、くそったれ。
「そっちは頼んだぞ、ヴァイス。俺達も、すぐに追いつく」
なにやらファングが拳を向けてきたので、俺も拳を握ってゴツンと殴ってやる——いってぇ。石かよ、お前のゲンコツは。硬ぇんだよ、畜生、涼しい顔しやがって。骨にヒビ入ってねぇだろうな、これ。
くそっ、どうも釈然としねぇ——俺はいつから、こいつをここまで信頼するようになっちまったんだ。
ふと気が付くと、アメリアが物凄い嬉しそうな顔をして、ニコニコと俺とファングを見比べていた。
なんなんだ。
「さっさと行け。あっちの勇者まで見失うぞ」
ファングに促されてそちらを見ると、マグナは既に走りはじめていた。
お前な。ちょっと待てよ、コラ。
「マグナさんとリィナさんをお願いします!気をつけて!」
慌ててマグナに続いた俺の背中を、シェラの声が追ってきた。
「……任せろ!」
言ってやった。
調子に乗って、肩越しに親指まで立てちまったよ。
こっ恥ずかしい気持ちを持て余しながら、曲がりくねった洞窟をマグナを追って走る。
「さて、貴様等。そろそろ出てきたらどうだ——」
遠ざかるファングの啖呵は辛うじて聞こえたが、ほどなく開始された筈の戦闘の音は、先刻から洞窟の壁で反響している地鳴りのような咆哮に紛れて、俺の耳には届かなかった。
16.
先を行くマグナに並ぶ前に、洞窟が二又に分かれているのが目に入った。
困ったことに、兵士達の姿は既に無い。
マグナは俺を振り返ろうともせずに、左を選んで走り続ける。
迷いの無いその様子に、先行していたマグナには、連中がそっちに行ったのが見えていたんだと思いきや——
しばらく進むと、俺達は地割れに行く手を阻まれた。
俺の身長の五倍はあろうかという亀裂は、とても跳び越せる幅じゃねぇし、下の方では例によって溶岩がぐつぐつと煮えたぎっている。
つまりは、行き止まりだ。
マグナは無言のまま回れ右をすると、俺と視線を合わせることなくすれ違い、さっさと元来た道を引き返した。
あのな、お前——
ついつい文句が口をつきかけて、危ういところで自制した。
兵士達が左右どちらに向かったのか、マグナにも確認できていなかったんだとしたら、いくら考えても確率は二分の一のまま動かない。
下手に悩んで時間を無駄にするよりは、とにかくどっちかに進んで、間違いだったら大急ぎで引き返して違う方を選べばいい。
結果的には、それが一番手っ取り早い方法だってのは、俺にも分かる。
だから、自制したんだけどさ——ひと言くらい、なんかあってもいいんじゃねぇのか。なんの相談も無く、お前が勝手に山勘で選んだんだからよ。
ったく、溜息を堪えるのに苦労するぜ。
さっきの分かれ道まで戻って、今度は右を選ぶ。
下り勾配が続く洞窟を、俺達は無言でひたすら駆け続けた。
それにしても、暑い。
全力疾走を続けるのは、とても無理だ。小走りに毛が生えた程度の駆け足なのに、それでも走るのがしんどい。小刻みに息をしても、体の熱が全然逃げていかない。冷えた空気を、肺いっぱいに吸い込みたいぜ。
汗は全身からダラダラと流れ続けてるし、このままだと脱水症状でぶっ倒れちまうぞ。
まだ追いつかねぇのかよ——やっぱり、さっき道を間違えたロスが大きかったのか——いや、言っても仕方ねぇけどさ。
その時、マグナが突然足を止めて、俺を振り向いた。
内心の不満を見透かされた気がして、思わず挙動が不審になる。
そんな俺を胡乱に睨んだマグナが次に取った行動は、完全に予測の範疇を超えていた。
いきなり、抱きついてきたのだ。
17.
「ちょっ——!?」
そのまま体を押し付けるようにして、石筍の陰へと俺を連れ込む。
え、なにこれ。
どんな展開ですか。
唐突過ぎるだろ。
今さっきまで、口を利くのも嫌だってな態度を取ってた癖に、お前、急に、こんな——
これはやっぱり、アレですかね。
今までのツンケンした態度は必死に自分の気持ちを偽ってただけで、溢れ出さんばかりの俺への想いがとうとう抑えきれなくなったとかなんとか——
「マグナ——」
瞬間的に幸せな妄想を思い描いた俺の口を、マグナの手が塞ぐ。
手の内に豆はあるが、それでも小さくて柔らかい——触れた肌から、顔全体にこそばゆい感覚がじんわりと広がっていく。
「黙って」
体が密着した状態で、マグナが小さく囁いた。
洞窟の奥の方を気にしている。
それで、俺もようやく気がついた。
小走りの足音が二対、こちらに近付いてくる。
エフィを運び去った、あの兵士達だ。
洞窟のさらに奥から、魔竜の咆哮が轟いた。
「ひぃ——っ!!」
「急げよ」
「ああ。こっちまで生きたまま喰われるのは御免だからな」
「まったくだ——くわばらくわばら」
息を切らせて小声でやり取りしつつ、兵士達は石筍の陰でぴったりと身を寄せている俺達に気付く様子もなく、懸命に足を動かして通り過ぎていった。
充分に連中が離れたのを見計らって、ひと息ついた俺は——とんでもないことに気が付いた。
オイ、ちょっと待て!?
なんだよ、これ、洒落になんねーぞ!?
慌てふためいて、マグナから跳び離れる。
カンベンしてくれよ……マジで、信じらんねぇ。
そんなつもり、全然無かったのに。
ヤベェ、気付かれてねぇだろうな。
密着してたっても、服の上からだし……大丈夫だよな?
18.
「……何?」
マグナが、怪訝な目つきを俺に向けていた。
表情から察するに、どうやらホントにヤバい方はバレちゃいないらしい。
訝しんでいるのは、いきなり跳び離れた俺の行動の唐突さだ——いや、それはそれでマズいか。
「待て待て、違うんだ。えっと、別にくっついてるのが嫌だった訳じゃなくてだな……むしろそれは、望むところっていうか——違くて。いや、違わないけど、そうじゃなくてだな……」
物凄い勢いで墓穴を掘っていることを頭の片隅で意識しつつ、自己嫌悪が胸を満たす。
なんなんだ、俺は……
つまり、その、なんだ。
さっき、マグナとぴったりくっついてた時にさ。
自分でも気付かない内に、えぇと、その、なんつーか……
下半身の、とある一部分がだな……
だから、まぁ、なんというか。
要するに、その……元気になっちまってたのだ。
それも、これ以上ないくらいに。
……。
いやいやいやいや。
我ながら、これはねーよ。
悪ぃけど、俺が自分で一番驚いてるから。
だってさ、一緒に旅してた頃だって、こんな経験無かったぜ?
いや、そりゃ、さ……元気になっちまうことはあったよ。割りと。
けどさ、年がら年中そんなことばっか考えてるガキじゃあるまいし、それはそういう気分になった時であって、全然そんなこと考えてもなくて、自分でも全く意識せずにってのは、ちょっと記憶に無い。
そういや——昨日は、どうだった?
まさか、知らねぇ内に前を膨らませたりしてなかっただろうな!?
うわ、怖ぇ……駄目だ。俺、すげぇテンパってたから、思い出せねぇ。
くそっ……なんなんだ、俺は。
今この瞬間も、エフィは迫り来る恐怖に震えているだろうし、リィナは命懸けの戦いをはじめてるかもしれない。残してきたファング達は、あの黒づくめ共と戦闘の真っ最中だろう。
そんな差し迫った状況で、たまたまマグナと二人きりになって、ちょっとひっついただけで、コレなのかよ。
あらゆる意味で、そんな場合じゃねぇだろ!?
うわ、ダメだ、自分が信じらんねぇ。
サイアクだ。
マジで、なんなんだよ、俺は。
でも、ホントに勝手に元気になっちまったんだから、しょうがねぇだろ!?
19.
「いや、その……ホントにごめん」
「なに謝ってんの?」
俺のうろたえ振りは、余程滑稽だったに違いない。
マグナは、呆れたようにくすりと笑った。
本当に度し難いな、俺は。
明らかな苦笑でしかなかったのに、なんだか嬉しくなっちまってる。
昨夜からこっち、マグナが俺との間に拵えていた分厚い壁が、ホンの少しだけ綻んだような気がして。
自分の心の働きに、我ながらビックリするよ。
そんなほんわかしてる状況じゃねぇだろっての。
「っていうか、あんたも、言われなくてもアレくらい気付きなさいよね」
さっき通り過ぎた兵士達のことか。
「ちょっとは周りに気を配りなさいよ……どうせ、あの人が心配で浮っついてるんでしょうけど」
「悪い。気をつけるよ」
「……まぁ、どうでもいいけど」
マグナは小さく溜息を吐いた。
「ほら、さっさと行くわよ。リィナは心配要らないけど、あんたが心配してるのは、そっちじゃないんでしょ」
ふいと顔を逸らして、マグナは再び先に立って走り出す。
やれやれ。ホントに、もうちょっとしっかりしねぇとな、俺。
無節操に前を膨らましてたことを、マグナに気付かれずに済んで、胸を撫で下ろしてる場合じゃねぇぞ。
ありがたいことに、しばらく行くと地割れは別の方向へ伸びていき、気温が多少下がった。
引き返してきた兵士達と鉢合わせたということは、今度こそ道は間違っていない筈だ。
その筈だったんだが。
行く手には、またしても分かれ道が待ち受けていた。
道なりの正面がもっとも幅広く、左右のソレは脇道に見える。
マグナはわき目も振らずに、真っ直ぐに走り続けた。
俺は、大人しくマグナに従った。
考えたって分かる訳じゃねぇし——それに、今回は俺も正面の道が正解だと思ったからだ。
そして、それは間違いじゃなかった。
やがて、視界の先に開けた空間が広がり、奥のどん詰まりに設置された祭壇らしき人工物が目に入る。
その上で、篝火に揺れる人影は——エフィだ。
20.
「ヴァイス!!」
涙声が、俺の名前を呼んだ。
走り続けて疲労した体に鞭を打ち、駆け寄った祭壇に跳び乗ると、必死にしがみついてくる。
「よかった……来てくれて……怖かった……」
「遅くなって悪かったな。無事でよかったよ」
抱き締め返すと、エフィの体は異常なくらい細かく震えていた。
まぁ、無理もねぇか。
頭を軽く撫でてやる。
横手で、トンと音がした。
マグナが祭壇に乗った音だろう。
このままエフィと抱き合ってるのは、色々とマズいよな。
けど、今にもへたり込みそうなこいつを突き放す訳にもいかねぇし、どうしたモンかね。
あえてマグナから視線を逸らして、そんなことを考えていると、しゅりんという擦過音が耳に届いた。
イヤな予感がした。
そろりそろりと、そちらを向くと——
俺達に向かって、マグナが抜刀した剣を振りかぶっていた。
「おい——っ!?」
「ひっ」
俺につられて、顔を上げたエフィが息を呑む。
待て待て待て待て。
お前、なんのつもりだよ!?
イシスの武闘大会で、俺を罵倒しながら剣を振るっていたマグナの姿が、不意にフラッシュバックする。
まさか、エフィに斬りかかるつもりとは思わないが——
こいつ、いきなり無茶しやがるから——
「動かないで」
淡々としたマグナの声に、エフィの体がびくっと震えて硬くなる。
「いや、お前、待て、ちょっと落ち着けって——」
俺の制止に構わず、マグナは剣を振り下ろした。
21.
鋭い剣閃は、エフィの背中を掠めて足元の祭壇を打った。
石を打つ音に混じって、耳障りな金属音が聞こえた。
よく見ると、エフィの右足は鎖で祭壇に繋がれていた。
生贄が逃げ出すのを防止する目的だろう。考えてみりゃ、当たり前の話だ。
マグナの剣は、その鎖を断ち切ったのだった。
そうだよな。いくらなんでも、マグナが本気でエフィに剣を向ける訳がねぇよ。
一瞬でも疑っちまった自分が情けない。
けど、せめて先にひと声かけてくれても良かったんじゃねぇのか?
寿命が縮むよ、まったく。
「それで、リィナは?」
剣を鞘に戻しながら、マグナは視線を合わせることなくエフィに尋ねた。
そうだ、リィナはどこに居るんだ——いや、忘れてた訳じゃないですよ?
それに、ヤマタノオロチらしき魔物の姿も、どこにも見当たらない。
「あ、ええ……それが——」
ひときわ大きな魔竜の咆哮が、エフィの返事を掻き消した。
これまで耳にした中で、一番デカい。
「ひぃっ」
体を竦めたエフィが、両手で耳を塞ぐ。
洞窟の壁が、ビリビリと震えていた。
これ、ヤマタノオロチの鳴き声……なんだよな?
とても生物が発する音とは思えない。どこか洞窟の隙間を風が吹き抜けている、みたいな自然現象と考えた方が、まだしも納得できるぞ。
正直に言うと、俺も結構ビビり入ってますけど。
ただ、これまでは洞窟内で反響していたせいで、どこから聞こえてくるのか方向を特定できずにいた咆哮が、今は袋小路にいるお蔭で、俺達がやってきた方から響いてるのがはっきりと分かった。
22.
「リィナは?」
再びエフィに問い掛けたマグナの口調は、落ち着いたままだった。
お前、ずいぶん冷静だな。
「え、ええ……あの人は、邪魔だから私はここに居ろって……ヤマタノオロチがこっちに来る前に倒してしまうからって言い残して、独りで行ってしまったわ……」
「そう」
短く呟いて、元来た道を戻ろうとするマグナの背中に、エフィは慌てて言い募る。
「で、でも——あの人、なんだかやる気が出ないようなことを言ってたのよ!私にはよく分からないけれど、相手は物凄く強い魔物なんでしょう!?それなのに、あんな……」
「……あのバカ」
小さい舌打ちが聞こえた。
「だから、は、早く、助けに行かなくちゃ——」
「そんなこと、言われるまでもないわよ」
マグナは終始こちらに背中を向けたまま、振り返ることなく走り出した。
後に続きかけた俺の腕の中で——エフィが、カクンとよろめく。
「ご、ごめんなさい……」
重心が、片側に寄っている。
見ると、足枷が嵌められた辺りの皮膚が擦れて、血が滲んでいた。
「大丈夫か?」
「ええ……ごめんなさい」
なんで謝るんだ?
「だって……なんとか抜け出して、早くヴァイス達を呼びに行こうとしたのだけれど……逆に、迷惑になってしまっているんですもの」
済まなさそうな顔をする。
「いや、別に迷惑じゃねぇけどさ……」
足枷から無理矢理、足を引っこ抜こうとしたのか。無茶すんなよな。
23.
「エフィは、ここで待ってるか?そっちの方が——」
「嫌っ!!」
ひしっとしがみついてくる。
「イヤよ……ごめんなさい。足手纏いなのは分かっているのだけれど……でも、こんな場所で独りで待つだなんて、もう本当に耐えられないの……大丈夫。自分で歩けるわ。だから、お願い。一緒に連れて行って」
取り残されていた間、余程心細かったのだろう。
顔面を蒼白にしたエフィは、縋る目つきで俺を見上げた。
「分かったよ。置いてきゃしねぇから」
俺がそう言うと、エフィはひどく嬉しそうに顔をほころばせた。
こんな顔されたら、置いてく訳にもいかねぇよな。
「走れるか?」
「ええ、平気。これ以上、お荷物になりたくないもの」
そうは言っても足が痛むのか、俺に支えられながら祭壇を降りたエフィは少し顔を顰めた。
「さ、早く行きましょ」
だが、すぐに表情を取り繕って俺を促す。
無理しやがって——
そうなんだよな。
エフィは案外、可愛げがあったりするんだよ。
まぁ、美人と言っても差し支えねぇしさ。
今となっちゃ、それを認めるにやぶさかじゃない。
日頃から噴き付けている香水が肌に染み込んでるのか、側に寄るだけでいい匂いがするしさ。
体の発育の方だって、なかなかのモンだ。
だけど——
エフィの手を引いてマグナを追いながら、俺は考える。
抱き締めて体を寄せていた間中、俺が慌ててエフィから身を離さなくてはならない瞬間は、結局一度も訪れなかったのだ。
24.
さっき途中で通り過ぎた左右の脇道を、先を行くマグナが左に折れた。
「俺から離れんなよ」
と声をかけるまでもなく、エフィはまるで命綱を握るみたいに、しっかりと俺の手を掴んでいる。
逆の手で衣装の裾を持ち上げてるから、いかにも走り難そうだったが、俺が抱えるよりは速いしなぁ。
足も痛むだろうが、もう少し頑張ってくれ。
脇道を少し進むと、祭壇があった場所とは比較にならないくらい広大な空間に出た。
天井は地上近くまで届いてるんじゃないかというくらい高く、左右や奥行きはちょっとした城ならすっぽりと収まりそうなくらい広い。
そして、床面のほぼ全域が、地底湖さながらに灼熱の溶岩で満たされていた。
足元の地面からは両端が消え失せて、まるで橋みたいな形で残されている。
幅がエラく広いから、端に寄らない限り落ちることはまず無いだろうが、かなり物騒だ。
どことなくエルフの洞窟を思い起こさせる地形だったが、寒いくらいだったあっちに比べて、こっちは馬鹿みたいに暑い。
それに、向こうの終着点に待ち受けていたのは幻想的な巨木という平和な光景だったが、今、視線の先にいるのは——
橋の先で、リィナと対峙している魔物を目の当たりにして、我知らず息を呑む。
なんだよ、アレ。
滅茶苦茶デカいぞ。
これまで出くわした魔物の中でも、飛び抜けて巨大だ。そこらの民家一軒分より、全然大きい。
ヤマタノオロチの名に相応しく、八つに分かれた竜頭を蠢かせ、いくつかの口に蓄えた炎を吐き出す機会を窺っている。
しかし、まぁ、なんて迫力だ。
圧倒的な質量——ぶっとい首をうねうねとくねらせる巨大なトカゲの親分は、実際に目の当たりにしていても、悪い夢か冗談にしか思えなくて、虚ろな笑いが漏れそうになる。
歩みを止めたエフィに腕を引かれて、後ろにつんのめった。
「なに、あれ……無理よ、あんなの……」
うん。
俺も、できればお相手は御免蒙りたい。
「リィナ!」
だが、リィナを呼んだマグナの声は、特に臆するでなく、ごく普通の調子だった。
「あ、来たんだ?」
轟っ。
ちらりとこちらに目配せをしたリィナ目掛けて、オロチが火炎を吐く。
寸でのところでそれを避け、リィナは俺達の方に駆けてきた。
25.
「あれ、マグナ達だけ?」
「とりあえずね。シェラ達は、いま足止めされてるわ」
「あー……やっぱりね。足止め役の人達とか、いたんだ?」
俺には理由がよく分からなかったが、リィナの声は残念そうだった。
顔は黒ずみ、何箇所も服が焼け焦げ、あちこち火傷を負っているヒドい有様だ。
「まぁ、でも、ちょうど良かったよ。ちょっと前に、ベホイミが切れちゃってさ」
リィナの台詞に臍を噛む。
ほらみろ。やっぱり、シェラを連れてきた方がよかったじゃねぇか。
ところが——
「そいじゃ、お願いするよ」
「はいはい、分かってるわよ——『ホイミ』」
へっ!?
「ありがと。うん、まぁ、とりあえず充分かな」
リィナは回復具合を確かめるように、手足をぶらぶらとさせた。
いやおい、ちょっと待て——
あれ?
「マグナ……お前——」
「なによ?」
ギロリと不機嫌に睨まれた。
「いや……なんでもないです」
こいつ、俺の知らない間に、まともに魔法を使えるようになってやがる。
だからシェラは、あんなに自信満々にマグナを送り出したのか。
やっぱり——こいつらにも、色々あったんだな。俺の想像以上に。
「いや~、参っちゃうよね。あんだけ頭がいっぱいあると、死角がまるっきり無いみたいでさ。溜めが要る攻撃とかできなくて、ちょっと困ってたんだよ」
「リィナ。あんた、真面目にやんなさいよ?」
リィナの言い訳を一蹴して、マグナはご無体なことを言った。
独りでアレの相手が出来てただけでも、十分スゴいと思うんですが。
「分かってるよ……マグナ達も来たことだし、こっからはもうちょっと真面目にやるよ」
だが、まるでマグナの言葉が正しいみたいに、リィナは頭を掻いて悪びれてみせた。
「そうしなさい」
なんだか、すんごい頼もしいこと言ってますが。
お前ら、あのとんでもない化け物を前にして、ちょっとは怯むとか竦むとか無いのかよ。
26.
「じゃあ、ボクが時間稼ぐから、マグナはアレお願いね」
「分かった。さっさと終わらせるわよ」
完全に、俺が無視されてますけど。
立場ねぇな。
そうこうしている内にも、火炎を口に蓄えた巨大な魔竜が、地響きを立ててゆっくりとこちらに近付いてくる。
「さてと。そいじゃ、いきますか」
お気楽に言ったリィナが、再びオロチへ駆け寄るのに合わせて、俺は呪文を唱える。
『ヒャダルコ』
強烈な冷気が発生して、オロチの巨躯を包み込んだ。
相手はでっかいトカゲな上に、火を操るみたいだからな。ちっとは効くだろ。
「へぇ」
リィナが感心したように呟いた。
レベルアップしてるのは、お前達だけじゃねぇんだぜ。それを、少しは証明できたかね。
だが、俺の呪文がオロチの動きを止めたのは、わずかな間だけだった。
八つある頭のひとつが、業火の渦巻く口腔をがばっと開く。
炎が吐き出される直前にオロチの元に辿り着いたリィナは、疾走した勢いそのままに跳び上がって、下顎を蹴り上げた。
力づくで閉じられた口の隙間から、火炎があらぬ方へと撒き散らされる。
着地したリィナに、他の首が襲い掛かった。
「よっと」
ひとつ目から身を避けたリィナは、その首を足場にして跳び撥ね、ふたつ目を躱す。
その後も、ちょこまかとオロチの攻撃から逃れつつ、リィナは僅かな隙を縫って蹴りや拳を当てていくが、オロチもさるもの目立ったダメージは感じられない。
やっぱり、会心の一撃を喰らわせるには、もうちょい大きい隙を作んねぇと無理か。
地獄の業火を宿したようなオロチの眼が、苛立ちでさらに赫く燃え盛った。
俺も呪文で援護したいところだが、唱えられるようになるまで、まだもうちょっとかかる。
つか、なんでマグナは加勢しないんだ!?
27.
縦横無尽に跳ね回るリィナを追い立てながら、オロチの首のひとつがこちらを向いた。
大きく開かれた口の奥で、ちろちろと炎が踊っている。
ふいごのような音を立てて、赫々とただれたオロチの腹が大きく膨れ上がった。
結構距離があるのに——ここまで、炎が届くってのかよ!?
背中に庇ったお嬢が、俺の服の裾をぎゅっと引いた。
「ちぇっ」
他の首を足がかりにして、オロチの巨体を駆け登ったリィナが、炎を吐く寸前の頭を上から両足で踏みつける。
お蔭で、俺達は助かったが——八つの頭を持つオロチに対して、それは隙になった。
別の首が吐いた火炎が、リィナを襲う。
「——っと」
足元の頭を蹴って宙を跳び、リィナはなんとか避けようとしたが、わずかに躱し切れなかった。
「っぁ——っ!!」
ごろごろと地面を転がって炎を払う。
すぐに身を起こしたところを見ると、深刻なダメージは負ってないみたいだが、ヒヤヒヤさせるぜ。
「マグナ、まだ~?」
どことなくやる気の感じられないリィナの問い掛けに、マグナは頷いてみせた。
「お待ち遠さま。いいわよ、リィナ」
「はいよ~。そいじゃ、こっちで合わせるから、いつでもよろしく」
何やら合図を交わし、リィナは腰を落として身構えた。
一方、マグナは天に向かって右手を高々と差し上げる。
なんだ?
何をするつもりだ?
オロチの八つの首が、再びリィナを襲うべく蠢いた。
なんでもいいから、早くしろって!!
マグナの右手が、勢い良く振り下ろされた。
28.
『ライデイン』
バリッ
空気の爆ぜる音がした。
これは——呪文なのか!?
直後、強烈な閃光が網膜を焼く。
魔法使いの俺が知らない攻撃呪文だと!?
轟く雷鳴。
地底の洞窟に突如として出現した雷光が、神速の槍となってヤマタノオロチを貫いた。
電撃に打たれて動きを止めた巨体の懐に、リィナが易々と潜り込む。
「せぇのっ」
どん。
豪快な地響きと共に、オロチの巨体が後ろにズレた。
これまでに犠牲となった数多の生贄の血がこびりついているような、赫くただれたオロチの腹が陥没している。
会心の一撃をとうとう喰らったオロチの八つ首は、うねうねと悶え苦しみながら吐瀉物を撒き散らし、次々と地面に落ちて地響きを立てた。
「ま、こんなトコかな」
つまらなそうに呟くリィナ。
奇妙なことに、その口調からは勝利を喜ぶ響きが、まるで感じられないのだった。
「念の為に、首を全部切り落として、完全に息の根を止めといた方がいいかもね」
物騒な発言をするマグナ。
「溶岩に落としちゃった方が早いんじゃないかな——あ、シェラちゃん達も追いついたみたいよ」
リィナの視線に促されて後ろを振り向くと、思ったよりも近くにファング達の姿が見えた。
手を振っていた姫さんやシェラがぎょっとして固まったのは、俺達を挟んでその先に倒れているオロチの巨体が目に入ったせいか。
アメリアも、なにやらあわあわ慌ててるが——ともあれ、全員無事みたいだな。
「おいっ!!」
全力疾走でこちらに駆け寄りながら、ファングが大声をあげた。
抜刀しつつ、あっという間に俺達の脇を抜ける。
目で追うと——オロチの頭のひとつが、静かに鎌首をもたげていた。
「うわっと」
リィナを突き飛ばしたファングは、丸呑みにせんと襲いかかったオロチの喉元を剣で切り裂いた。
返り血を避けつつ、返す刀でさらに斬りつけようとしたファングを、他の首が吐き出した炎が襲う。
「ちぃっ!!」
地面を転がって身を躱したファングに背を向けて、オロチは怨嗟の唸り声と地響きを振り撒きながら、洞窟の奥へと逃げ出した。
29.
「逃がすかよ」
すぐに跳ね起きて、後を追おうとしたファングを、オロチが置き土産に残した道幅一杯の炎が阻む。
ふぅん。敵から逃れる為に壁を作るなんざ、トカゲの親分にしては随分と分別臭い行動だな。
ひとつ舌打ちをして剣を鞘に納めたファングは、リィナをジロリと睨みつけた。
「え~……ありがとね。ちょっと油断してたよ」
半笑いを浮かべて、言い難そうに礼を述べるリィナ。
「フン。もう少し出来るヤツかと思っていたがな。俺の買い被りか」
「——っ!なんだよ……油断してたボクが、そりゃ悪いけどさ……恩着せがましいの」
唇を尖らせたリィナを見て、眉根を寄せるファング。
「……なにさ?」
「いや、いい」
ふいと顔を逸らして、ファングは俺に歩み寄った。
後ろにちらりと視線をくれて、小声で俺を問い詰める。
「おい、ヴァイス。なんだ、あいつの、あの緩み具合は?よく無事だったな?お前がどうにかしたのか」
「いや、まぁ、なんつーか……」
すいません。
任せろとか言っておいて、俺、ほとんど何にもしませんでした。
トドメこそ見誤ったものの、オロチはおおむねリィナが斃したようなモンだと伝えると、ファングはますます苦虫を噛み潰した顔になった。
「フン。まぁ、いい。それより、オロチを追うぞ」
ヤマタノオロチが残した炎は、既に地面をちろちろと舐める程度におさまっていた。
30.
だが、天然の橋を渡って、洞窟をさらに奥へと進んだ俺達は、すぐに行き止まりにぶち当たった。
もちろん、オロチがその巨体を隠せるような場所は、どこにも見当たらない。
なのに、まるで神隠しにあったように、オロチの姿は忽然と消えていたのだった。
いや、正確に言うと、そこは全くの袋小路じゃなかった。
どん詰まりの少し手前に、小さな横穴が上向きに続いている。
だがそれは、とてもじゃないが、あの馬鹿デカいヤマタノオロチが抜けられるような大きさではなく、人ひとりがやっと通れそうな幅しかない。
「なんだ、これは?どこに消えた?」
ファングが、苛立った呟きを漏らした。
他の連中も揃ってきょろきょろと辺りを見回す中、呑気な声が耳に届く。
「——ところでさ、シェラちゃん達を足止めしてたのって、やっぱりあの黒い人達だったの?」
リィナが、そんなことをシェラに尋ねていた。
「あ、はい。ファングさんが、ほとんど倒してくれましたけど」
「ふぅん。ま、それは別に聞いてないけどさ……それで、あのチョンマゲの人も、一緒に居たのかな?」
声音が、微妙に変わっていた。
「いえ、そういえば……居なかったです」
「うん、だよね。そうだと思った。一緒だったら、あのヒトが勝てるとは思えないもんね」
ちらりとファングを見て、嫌味を言う。
この時点ではまだ、ファングは聞く耳持たずといった感じで、黙々とオロチの姿を探し続けていた。
「あ~あ。でも、チョンマゲの人がいなくても、ボクもそっちがよかったな~。あの黒い人達相手の方が、まだ面白そうだしさ。魔物はいっつも相手してて飽きちゃったし、ワザとピンチ作っても、やっぱりなんか違うんだよね~」
頭の後ろで手を組んで、リィナがボヤく。
ここで、ファングがピクリと反応した。
31.
「ま、黒い人達も、あのヒトがほとんど倒せちゃったんなら、思ったほど強くなかったのかも知れないけどね」
「そんな……リィナさん!」
つかつかとリィナに歩み寄るファングを目にして、シェラが嗜めた。
「あれ、怒った?」
頭の後ろで手を組んだまま、にやにやと笑って振り向いたリィナの頬を、ファングはいきなり引っ叩いた。
ゆっくりと頭から手を下ろして、頬を押さえるリィナ。
「……なにすんだよ」
「貴様、なんのつもりでここに居る」
「なにって、そりゃ——」
「俺達がなんの為にここに来たのか、分かっているのか。遊びのつもりで腑抜けるのも、いい加減にしろよ?」
「遊びってなにさ。ボクは、そんなつもりないし、大体、そっちに頼まれたから手伝ってるのに——」
「それでも、断らずに来ることを選んだのは貴様自身だろう」
「そりゃ——そうだけど」
「フン。そっちの方が面白そうだと?自分の気に入った相手でなければ、本気を出せないとでも言いたいのか。何様のつもりだ。言っておくが、これは身勝手な貴様の修行の機会でもなんでもないぞ。何も分かってないな、貴様は」
俺自身、少し前まで分かってなかったから、偉そうなことを言えた立場じゃないが。
実際にオロチに苦しめられている人間が、ここには沢山いて——
『大会まで残って優勝者と試合をしてくれるよう引き止めたのですが、あまり興味を持ってもらえませんでした。あの者にとっては、己の力添えを必要とする者の元に駆けつけることの方が、余程大切なのでしょう。立派な人物でした』
なんとなく、俺はイシス女王が語ったファングの評を思い出していた。
魔物を征伐すべく旅を続けている者——大真面目に、そんな自己紹介をして恥じることのないファングにとって、どこかやる気が無いように感じられる今のリィナの態度は、腹立たしくあったらしい。
「情けないヤツだ。多少は使えるか知れんが、のぼせ上がるのもほどほどにしておけよ?」
「なんだよ……何も知らないクセに、勝手なこと言わないでよ。そんなんじゃないよ。そんなこと言われなくたって分かってるから、だからボクは——」
「無駄かも知れんが、忠告しておいてやる」
リィナの言葉を遮って、ファングは淡々と続けた。
32.
「いいか。貴様は、ここに居る誰よりも弱い。ヴァイスや貴様の仲間はもちろん、姫やユーフィミア嬢よりもだ」
突然、自分の名前を出されて、姫さんやエフィはびっくりしてファングを見た。
いやいや、お前、それは言い過ぎだろ。
俺はリィナより、全然弱ぇっての。
リィナはびくんと震えて、表情を強張らせた。
その顔はみるみる顰められて、強くファングを睨みつける。
「なに言ってんの……?えっらそうに、キミこそ何サマだよ……分かった。ちゃんとやればいいんでしょ。ボクが弱いかどうか、こっからちゃんと見せてあげるよ」
押し殺したリィナの声を、ファングは鼻で笑った。
「フン。どうだかな」
「……全部片付けたら、最後はキミだから」
あからさまな殺気が、リィナから発散される。
飲み込もうとした唾が、喉に引っ掛かった。
「そんなことは、どうでもいい」
だが、ファングは涼しい顔で受け流して、俺を見た。
「それで、ヴァイス。この奇妙な状況がどういうことなのか、何か分かるか?」
へ?
あ、ああ、ヤマタノオロチがどっかに消えちまったハナシね。
いきなり話題が変わって、一瞬、何言ってんだか分かんなかったぜ。
「うん、まぁな」
かなりの急勾配で上へと伸びる横穴を指差す。
「オロチは多分、この上だな」
不可解な状況が、逆に俺の推測を補強していた。
あいにく頭ん中で描いてた地図は、とっくにおしゃかになっちまってたが、外に出てみりゃ分かることだ。
「え、でも……」
疑念を口にしかけたのはシェラだったが、他の連中も頭の上にも、揃って疑問符が浮かんでいる。
不審がって当然だわな。どう見ても、あのトカゲの大将が通れる道幅じゃねぇし。
「確かなんだな?」
「ああ。まず間違いねぇな」
「そうか。なら、いい」
だが、ファングだけは軽く念を押しただけで、あっさりと頷くと、先頭を切って横穴を上り始めた。
ホントは、俺に確証を求められても困るんですけどね——でもまぁ、俺の想像は間違っちゃいない筈だ。ちょっと前に出くわした事件を思い返してもな。
しんがりを務める為か、はたまたファングと距離を置きたかったのか——リィナは最後まで残って、ぶすっとしたまま一番後からついてきた。