33. Diamonds and Pearls

1.

 それはおそらく、大して長い間じゃなかった。

 せいぜいが、ゆっくりと呼吸を十ほども繰り返すくらいしか経っていなかっただろう。

 だが、時間の感覚は消し飛び、さらには音や色、皮膚感覚までもが失せていたので、後で思い返して相対的に時間の経過を判断する術がなく、実際はどれくらいだったのか判然としない。

 おそろしく長かったような気もするし、ほんの一瞬だったようにも思える。

 俺とマグナは、互いにぴくりとも動かずに、ただ馬鹿みたいに、目の前の相手を見つめていた。

 やがて、周囲の景色が次第に色を取り戻し、普段は無意識に聞き流している自然の音を耳が再び捉え、風というには慎ましい空気の流れを肌が感じ始める。

 同時に、凍った氷が溶け出みたいに、とある感情が胸に染みていくのを、俺は覚えていた。

 ヤバい。

 俺——感激しちまってる。

 だって、マグナがすぐそこに居る。

 ちょっと歩み寄って、手を伸ばせば触れるくらい近くに。

 言葉にして思った途端、また訳が分からなくなる。

 これが現実の出来事だとは、とても思えなくて。

 白昼夢か、それとも何かのペテンか——

 だって、おかしいだろ、こんなの。

 こんなにあっさり——逢えてよかったんだっけ?

 いや、違う。

 そんな筈ねぇよ。

 俺のしたことは、そんなに軽くなかった筈だ。

 どれだけ追っても、もう届かない。

 それでもなお、追い続ける。

 せめて、そうあるべきだったんじゃねぇのか。

 なのに、やっぱり、どう見ても——

 マグナが現実に、目の前に居るんだ。

 ああ、ずいぶん髪が伸びたんだな。

 気の強そうな顔立ちは、だけど記憶よりも、いくぶん和らいで見えた。

 こいつ、もっとキツい顔してなかったっけ?

2.

 止せ——

 不意に浮かんだ言葉を、俺は脳裏から必死に掻き消そうと努める。

 馬鹿なことを考えるな。

 こんなの、単なる偶然だ。

 世界中の、ありとあらゆる場所の中から、ただ「ここ」で。

 お互いに、示し合わせた訳でもなく。

 同じ日、同じ時間に。

 たまたま居合わせたってだけの話じゃねぇか。

 こんな偶然って、あるのかよ!?

 うるさい、黙れ。

 止めろ。

 違う。

 信じたく——なっちまうじゃねぇか。

 運命——

 だから、そんな仰々しい言葉を、軽々しく思い浮かべるんじゃねぇよ!!

 頭の中で、喚き散らした。

 収まり切らなかった感情の名残が、長い溜息となって口から漏れる。

 それでようやく、俺は現実に追いついた。

「……んんっ……ぁ~、っん、あ~」

 自分の声が、思った以上に掠れていてぎょっとする。

「え~と……よかった。元気そうで」

 考えて口にした言葉じゃなかった。

 とにかく、俺から先に話しかけなくちゃと必死だったんだ。

 でも、いくら焦ってたにしても、これはねぇよな。

 辛うじて、自嘲するゆとりが戻っている。

 仮にも感動の再会を果した場面だぜ?

 もうちょっと、気の利いたこと言えねぇのかよ。

3.

 あ、違った。

 馬鹿か、俺は。

 元気でよかった、なんて、俺が口にしていい台詞じゃねぇだろ。

「あ、違くて、なんていうか、その、健康そのものっていうか……いや違う、そうじゃない。少なくとも体調が悪いようには見えないから、そのことは良かったって意味……だよ」

 思いもよらないことに、マグナはくすりと笑ったのだった。

「うん。ヴァイスも、元気そうでよかった」

 あ、くそ。

 あっさり返しやがったな、畜生。

 なんだか、不思議な感じがした。

 だって、えらい普通に話してるよ、俺達。

 いや、俺は見っともないくらいに慌てちまってるけど——

 芽生えかけた呑気な気分が、瞬時に冷める。

 俺は、こんなに動揺してるのに。

 もしかして、マグナは、そうでもないのか。

 そりゃ——そうだよな。

 こいつの中ではきっと、俺はもう過去の人間だから。

 感情の振り子が不安に揺れる。

 今さら、俺なんかが目の前に現れて、迷惑なんじゃないか。

 いや待て。

 そんなの、分かってた筈だろ。

 それでも追うって決めたんじゃねぇのか。

 だったら、冗談みてぇな偶然だろうがなんだろうが、会えて万々歳だろうがよ。

 素直に、その気持ちを口にすればいいんだ。

「会えて……嬉しいよ」

 言えた。

「えっ……?」

 マグナは、ちょっと目を見開いた。

 そして、それきり何も言わなかった。

 唐突だったかな。

 けど、ここで出会ったこと自体が、そもそも突然過ぎるんだ。

 とてもじゃないけど、落ち着いて、順序立ててなんて、会話を進める自信が無い。

 とにかく、思ったことから口にしていくしかねぇよ。

4.

 だが——

 一度降りた沈黙の帳は、気付かない内に俺の口を塞いでいた。

 あれ?

 次は——なんて言えばいいんだ?

 言いたいことは、山ほどあった筈なのに。

 頭ん中が真っ白で。

 全然出てこない。

 そうだ、まず謝らなきゃ——

「えっと……」

 だが、次に口を開いたのは、マグナが先だった。

「……あたし、人と待ち合わせてるから」

「あ、うん」

 間抜けなことに、俺は気が抜けたみたいに頷いていた。

「……じゃあ、ね」

 別れの合図のつもりか、ゆるゆると上がりかけたマグナの手が、力無くすとんと落ちた。

 そのまま、踵を返して立ち去ろうとする。

 えっ!?

 ちょっと待ってくれ。

 もう行っちまうつもりか!?

 イヤだ。

 駄目だ、そんなの——

 我知らず追い縋って、マグナの腕を掴んでいた。

 かくんとたたらを踏んだマグナは、顔を背けたまま腕を振った。

「離して」

「……イヤだ」

 力づくで声を絞り出した。

 一瞬、マグナの動きが止まる。

 だが、それは力を篭める為の準備に過ぎなかったのか。

 すぐに激しく、体ごと揺すって俺の手を振り解こうともがいた。

「離しなさいよっ!!」

「イヤだっ!!」

 俺達は、ガキが駄々をこね合うみたいにもつれあった。

5.

 意地になって、どうにかマグナにこちらを向かせた頃には、お互いに息が荒くなっていた。

「なんなのよ……」

 呼吸につれて、マグナの肩が上下する。

「なんであんたが、ここに居るのよ……」

 俯いた顔は、揺れる前髪に隠れて見えない。

「なんでって——」

「うるさいっ!!」

 そんな、理不尽な。

 てっきり、怒った顔で睨まれると思ったんだが。

 マグナが見せた苦しげな表情は、覚悟していた深さを遥かに超えて、俺の胸を抉った。

「なんなの、今さら……なんで、あたしがここに居るって分かったのよ!?」

 そうか——

 どうやってか、俺が足跡を辿って、自分を追いかけて来た。

 マグナは、そう思ってるんだ。

 無理もない。

 こんな偶然、普通はあり得ねぇもんな。

「いや……俺も、知らなかったんだ」

 その言葉は、つるりと俺の口をついて出た。

「……は?」

 気の抜けたマグナの呟き。

「偶然なんだ。お前と、ここで会ったのは」

 身も蓋もない言い草だと自覚していたが、見栄を張らずに素直に言えた自分に、どこかほっとしていた。

 もうこいつに、嘘は吐きたくねぇからな。

6.

「え?——なに、言ってるの?」

 呆けた顔に、半笑いが浮かぶ。

「信じられないと思うけど、ホントに偶然なんだ。でも、違う——」

 自分が喋ってるんじゃないみたいだった。

「俺——お前を追いかけるって、そう決めたんだよ」

 ほとんど無意識に、俺は両手でマグナの二の腕辺りを掴んでいた。

「そしたら、ここで会ったんだ。こんな偶然って、あると思うか!?」

「全然、分かんない……なに……言ってるの?」

「俺も、自分で何言ってんのか、よく分かんねぇよ。ホントにいきなりで、俺もまだ頭ン中ぐちゃぐちゃなんだ」

 言わなくちゃいけないことだとか。

 尤もらしい説明だとか。

 なんもかんも全部すっ飛ばして。

「だけど、俺……」

 結論だけ言おうとしてるよ、俺。

「マグナ、俺……お前と——」

 その時——

 まるでタイミングを見計らってたみたいに、マグナの背後で下生えを踏む音がした。

「そこにいるのか、マグナ?」 

 聞き覚えのある声に続いて、背の高い人影が姿を現す。

 それは、以前からずっとマグナが気にかけていた男——アルスだった。

7.

「リィナとシェラに言われた場所で待っていても、一向にお前が来る様子がないんでな。心配になって探しにきた——おや?」

 さして意外そうでもなく、アルスは俺を見て片眉を上げた。

 肩透かしをくらって呆然と立ち尽くす俺から、マグナは既に身を遠ざけている。

「話し声が聞こえたから、誰と一緒に居るのかと思えば……ずいぶんとまた、懐かしい顔を見るもんだな」

 懐かしい、に妙に力が篭められていた気がした。

「なんで、あんたが此処に?」

 二歩、三歩と後ろに下がったマグナに寄り添うように、アルスは立ち止まった。

 並んで立つ二人の様は、なんだか妙にしっくりと嵌まっていて——なんて、俺は思わねぇよ。

 気を取り直して、アルスを睨みつけてやる。

 相変わらず、いけ好かない二枚目面をしてやがる。

「そいつは、こっちの台詞だろ」

 こいつ、まさかとは思うが——

「つか、手前ぇ、今、リィナとシェラっつったよな?まるで、仲間を呼ぶみてぇによ?」

 頭の中で思った以上に、実際の喋り方は乱暴になった。

 まるで、どっかのチンピラが因縁つけてるみてぇだ。

 けど、自分でも御しきれない感情の塊みたいなモンが体の中で暴れていて、どうにも抑えられない。

「お察しの通り、俺はここしばらくマグナ達と行動を共にさせてもらっている。だから、まぁ、仲間と言えば、そうなるのかな」

「ちょっと、アルス——」

 マグナが何か言っていたが、耳に入ってこなかった。

 こいつが——仲間だと?

「手前ぇ、一体、誰に断って——」

 言いかけたところで、自分がそれを口にする資格が無いことを思い出す。

 勝手に固まった俺を、アルスは鼻で笑った。

「そう噛み付かれても、困るな。あんたこそ、ここで何してるんだ。まさか、マグナを追ってきたんじゃないよな?」

 前から、思ってたが。

 どうして、こいつは——

 俺を、こんなに苛つかせるんだ。

8.

「聞いてるよ。あんたは、自分からマグナの元を去ったんだろう?しかも、マグナが一番助けを必要としていた、その時に」

 視界を歪ませるほどの感情の矛先が、目の前のこいつか、それとも自分に向けられているのか、よく分からない。

「悪いが、ひと言いわせてくれ」

 アルスは、呆れ顔で続ける。

「どうして今さら、マグナの前に顔を出せるんだ、あんた?」

「ちょっと……どうしたの、アルス?あなたが、そんなこと言うなんて——」

 くそっ——

 ムカつく、ムカつく。

 何がムカつくって、全部こいつの言う通りだってことだ。

 言い返したいのに、反論できない。

 逃げ道の無い感情が頭の中で暴れ回って、どっかの線がまとめてぶち切れちまいそうだ。

「……誰?ヴァイスなの?」

 声が、聞こえた。

「……ねぇ、そこにいるの?」

 近付いてくる。

 すっかり忘れてた。

 茹で上がっていた頭が、血の気と共に瞬時に冷める。

 足音が近い。

 もうすぐそこだ。

 アルスが、そちらを見た。

 マグナも、振り向いた。

 木の陰から、ひょっこりとエフィが顔を出した。

「あ、いた!もぉ、なんで返事をしないのよ!」

 どこか嬉しそうに拗ねた顔を見て、俺はどうしたらいいか分からなくなった。

9.

「……どう?」

 期待と不安の入り混じった表情で、エフィが上目遣いに俺を窺う。

 口の中のソレを飲み下してから、俺は小さく頷いた。

「うん、美味いよ」

 よかった、と口の中で呟くエフィを眺めつつ、少しいじわるな事を考える。

 でも、シェラの作ってくれたクッキーの方が、もうちょっとだけ美味うまかったかな。

 とある昼下がりの、エフィの自室だった。

 細かい装飾の施された華奢なテーブルの向かいに腰掛けたエフィは、紅茶を飲みながら甘ったるいクッキーを頬張る俺に頷いてみせる。

「うん、そうよね。ファムに教えてもらいながら作ったんだけれど、自分でも、それは美味しくできたと思うの」

 例の事件の後、あの場に居合わせたラスキン卿が事情を承知していたこともあり、またエフィの嘆願の甲斐もあって、ファムは罪人として扱われることはなかった。

 とはいえ、あれから数日経った今でも監視をつけられて、自室で半ば軟禁状態に置かれている。

 いずれはエフィの側付きに復帰できるかも知れないが、しばらくは先のことになりそうだ。

 多分、菓子の焼き方を教わりに行ったというのは単なる口実に過ぎなくて、お嬢はそんなファムの心身を案じて、様子を見に行ったんだろう。

「まぁ、でも、エフィの具合も良くなってきたみたいで、安心したよ」

 ここ最近、エフィは体調がすぐれないとか言って、自室に篭っていることが多かった。

 本人によれば、あの事件は、直後よりもむしろ日が経ってからの方が堪えたのだという。

 暇潰しのお相手に、なにかと呼ばれることの多かった俺の目には、多少芝居がかって映らなくもなかったんだが。

「……そうでもないんだから」

 エフィはふくれっ面をして席を立つと、ふらふらとベッドの端に腰掛ける。

「今でも、思い出すと怖くて……」

 落ち着かなげに、ひとしきり手櫛で髪を梳く。

 壁の一面を占める大きな窓から差し込んだ陽光が、エフィのブロンドで跳ねて煌めいた。

「恐ろしくなってしまうから、なるべく考えないようにしているだけなのよ……だって、あの魔物がファムに化けていたってことは、その……私のすぐ側に、ずっと居たって事でしょう?それって、つまり……」

 ぶるっと体を震わせて、両手で抱える。

「私は、いつ殺されてもおかしくなかったのよね?」

10.

「……かもな」

 あのニュズって魔物に操られていた自覚がファムに無いことは、これまでの尋問で分かっていた。

 ただし、入れ替わっていた間の記憶が、すっぽりと抜け落ちてしまっている訳ではない。

 ニュズがファムに化けて行った言動が、魔物にとって都合の悪い——俺達にとっては一番知りたい——部分を巧妙に取り除いた形で植え付けられているらしいのだ。

 つまり、ファム自身は、毎日普通にお嬢様のお世話をしていたという意識しかなく、むしろ、どうして自分が軟禁されなくてはならないのかと、当初はひどく混乱していたという。

 カイの場合は、さらに厄介だった。

 俺もあれから少し会って話をしたんだが、あの間抜けは、いまだに全て自分の意思で行動したと信じているのだ。

 話を整理すると、この土地の支配権を奪い返す野心を元から抱いていたカイの前に、ある日、見知らぬ女がひょっこりと現れた。

 それは、もちろん正体を隠したニュズだった訳だが、奇妙な魅力を感じたカイが女とねんごろになるのに、大して時間はかからなかった。

 すっかり心を許して、自分の野心を愚痴交じりに吐露したカイは、領主の座はあなたにこそ相応しいとかおだてられて、まんまとその気になっちまった。

 女を介して人攫い共と渡りをつけたカイは、連中の隠れ蓑になる代わりに手駒として利用することを思いつき、さらに領主の娘の側付きという大変に都合のよろしい立場の幼馴染まで巻き込んで——実際は、それもファムに化けたニュズだった訳だが——今回の計画を実行した。

 というのは、あくまでカイの視点だ。

 端から見ると、常にニュズの主導で事が運んでいたのが丸分かりなんだが、あの間抜けは、まるきりそう思っていないのだ。

 偽りの記憶を植え付けられた訳でもなく、全て自分の考えに基づいて行動したと信じ込んでいる分、ファムの場合よりも性質が悪い。

 カイのことを、おめでたいヤツとコキ下ろすのは簡単だが、正直なところ、俺は薄ら寒い気分を覚えずにはいられなかった。

11.

 自らを評して慎重と言っていた通り、カイはどちらかと言えば小心者に属する部類だ。

 そんな男が、どう見ても得体の知れない、あんな女の口車なんかに、ホントだったら乗る筈がねぇんだよ。

 だが、本来ならば抱かなければおかしい違和感を自覚させることなく、思考を誘導するように巧妙に、ニュズはカイを操っていた。

 俺は、ウェナモンのことを思い出す。

 アッサラームで魔物に操られていたあのオッサンの場合は、もっと魂が抜けちまったような感じだった。

 つまり、あんまり考えたくもないが——

 奴らは以前より、人間を操る術に長けてきている。

 それは、魔物共がより深く人間を理解しているという事でもある。

 ニュズは、実験という単語を口にしていたが——なんの為に、魔物がそんなことをしているのか分からないところが、余計に不気味なのだった。

 俺には、魔物と人間が分かり合えるとは、どうしても思えないんだが。

 尤も、俺が考えているような意味で、魔物が人間を理解しようとしている訳じゃないのかも知れない。俺の考えは、まるで的外れだという可能性は高い。

 だから、これも単なる個人的な感想に過ぎないんだが。

 ニュズに、お嬢を殺す意思は無かったと思う。

 少なくとも、ラキスン家の断絶だとか、そんなのが目的じゃなかった筈だ。

 もしそうなら、とっくにそうしてただろうしさ。

 この土地が選ばれたのは、もっと単純で身も蓋も無い、例えば「別にどこでもよかったんだけど、此処でいいか」みたいな、明かされたら文句のひとつも言いたくなるような——要するに、人間にとって、すんなり納得できる理由じゃないって気がする。

 もしくは、お嬢が殺されなかったのは、単にニュズの気まぐれだったとか——魔物にも、気まぐれなんてモンがあるとしたらだが。

 まぁ、いくら考えたところで、あんまり意味はない。

 ニュズがどれほど上手く化けようとしても、人間として不完全だったように、人間である俺にも、魔物の「つもり」なんて完全には分かりっこないからな。

12.

「もうっ!!」

 お嬢の怒った声で、黙って考え込んでいた俺は我に返った。

「ホントにあなたって、気が利かない人よね!!」

「……はい?」

「いちいち言わないと分からないの!?」

 はぁ、すみません。

 何がお気に召しませんでしたでしょうか、お嬢様。

「あのね、私がこれほど怖がっているのよ?」

「うん?」

「だからぁ……そろそろ……その……」

 なんか知らんが、お嬢はじれったそうに、スカートの上からしきりと腿を撫でた。

「つまり……『大丈夫か?』って優しく聞きながら……その、そっと肩を抱いて安心させてくれたりしてもいいでしょう?」

 なんだ、そんなことして良かったのか。

「なのに、素っ気無く『かもな……』ですって!あ~あ、私って、全然大事にされてないのだわ」

 腰掛けたままベッドに両手をついて、スネた顔で空気を蹴る。

 最近分かってきた事なんだが、こいつ、案外淋しがり屋というか、甘えん坊なところがあるよな。

 俺は席を立ってベッドに歩み寄り、ゆっくりと隣りに腰を下ろした。

 一呼吸置いて、仕切り直す。

「悪かったよ」

 出来るだけ優しく言って、エフィの肩を抱いた。

「べ、別に、無理に今すぐそうしなさいって言った訳ではないのよ……?」

 自分で言っておきながら、俺の手が触れた瞬間、エフィはぴくっと体を固くした。

 こうして触れていると、エフィの体は外見よりもさらに華奢だ。

 いい匂いがする。

 はじめはキツく感じていた香水にも、ずいぶん馴れた。却って、気分が落ち着くくらいになっている。

「大事にされてない、なんて言うなよ。皆、エフィを大切に思ってるよ。そんなの、分かってるだろ?」

 声音も喋り方も、鳥肌が立つくらいに精一杯気取ったつもりだったが、エフィは満足しなかった。

13.

「そうじゃなくて……」

「うん?」

「みんな、じゃなくて……」

「……うん」

「だから……あなたは?」

 俯いていた顔を上げて、覗き込むように俺を見た。

「あなたは、どうなのよ……?」

「……皆と、同じだよ」

 悪い。ここが、ホントに精一杯だ。

「……ズルい言い方」

 エフィはぼそりと言って、俺の腿を抓る。

「いじわる」

『つい苛めたくなるのは、エフィが可愛いからだよ』

 そんな台詞が頭に浮かんだが、考えただけで鳥肌が立っちまって、口にするのはさすがに無理だった。

 いや、ホントごめん。ロラン辺りなら、もっと上手いこと夢見心地にさせてやれるんだろうけどさ。

 なんとなく、分かってる。

 多分、エフィは、恋愛気分を味わってみたいのだ。

 自分の気持ちが一番大事。

 やっと、それに気が付いた。

 いくら口ではそう言ってみせても、自分は結局、恋愛の末に結婚することはない。

 そういう立場の人間じゃない。

 家の事情が、相手を決めるだろう。

 こいつはきっと、それを自覚している。

 別に無理をして、自分に嘘を吐いて諦めてる訳じゃなくて。

 ちゃんと受け入れた上で、それを誇りにすら思っている。

 エフィのそういう部分に、俺は密かな尊敬を覚える。

 俺には、出来ないことだから。

 だから、ちょっとした火遊びがしたいっていうなら。

 せめて、恋愛気分を味わう真似事くらいなら。

 じきに居なくなると分かってる俺は、後腐れのないお相手として都合がいいと思うしさ。

 協力してやれなくもないのかな、と思ったんだけど。

 やっぱり、役者が不足してるみたいですよ、お嬢様。

14.

「お父様はね……私くらいの歳には、もうとっくに、色々な女の人とお付き合いしていたんですって」

 なんのつもりか、エフィは突然、そんな事を言い出すのだった。

「男の人って、ズルいわ。そういうことを沢山しても、はしたないだなんて言われないもの。咎められるどころか、むしろ嗜みだみたいに、まるでいい事のように見做されるでしょう?」

「うん、まぁ……女に比べれば、そういう部分はあるかもなぁ」

 つまり、俺もズルくていいのだと、そう仰ってるんでしょうか。

「……お母様は、知ってらしたのかしら」

 何故か、ぎくりとした。

「……もちろん、ご存じだったわよね。でも、ご結婚されてからは仲睦まじかったと聞いているし——それに男の人は、昔のことをあれこれと詮索するような女は嫌いなんでしょう?」

「まぁ、一般的には……そうかな」

 エフィは、にっと笑った。

「だったら、女だって結婚してから、昔のことで文句を言われる筋合いは無いわよね」

「……そうだな」

 こんな具合に俺達は、ある一線の上で綱渡りをしてるみたいな、微妙な関係を保っていた。

 多分、お互い意図的に。

 言ってしまえば、恋愛ごっこを楽しんでいたのだ。

15.

「いちおう、アイサツだけしとこうと思ってね」

 相も変わらず蓮っ葉な調子で、ティミはそう言った。

 客が来ているとメイドに告げられた俺が、はて、この町で客になるような知り合いなんていたっけかと首を捻りつつ表に出たら、すっかり旅支度を整えたこいつが待っていたのだ。

「アンタにゃ色々、世話になったしさ」

 捕らえた人攫い共から、グエンの話を聞き出す便宜を図ってやったことを言ってるんだろう。

 こっちこそ、姫さんとエフィの危ない場面を助けてもらったんだから、いいトコお相子なんだけどな。まぁ、本人は認めてねぇけどさ。

「なんだよ、もう行っちまうのか?」

「ああ。ここじゃこれ以上、大した情報も出そうにないしさ」

 グエンの足取りを追う為に、ティミは町でも色々と聞き回っていたようだ。

「けど、俺がアリアハンに送るって話は……ああ、もう意味ねぇか」

「そういうこと。さっさと追いかけて、あのバカをとっ捕まえないとね」

 それは大いに賛成なんだが。

「それで、なんか分かったのか?アテはあるのかよ?」

 ティミは、肩を竦めてみせた。

「まぁ、そうだよな……俺の方でも、もし見かけるようなことがあったら教えるよ——って、連絡の取りようがねぇな」

「いいよ、気ぃ遣わなくて」

「いや、別にそういう訳じゃないけど」

 単に、あいつの首に早く縄をつけて欲しいってだけなんだが。

 何を勘違いしたのか、ティミはにやっと笑って、俺の胸板を裏拳で叩いた。

 げほっ。

 だから、俺の体は、拳で語るようには出来てねぇんだっての。

「いいってば。アンタがお人好しなのは、もう充分わかったからさ」

 こいつにまで言われちまった。

 おかしい。俺は捻くれ者のロクデナシの筈なんだが。

「それにアンタは、ウチらなんかに構ってる場合じゃないだろ?」

「へ?」

 ティミは言い辛そうに視線を外し、だが、すぐに再び俺を見据えて口を開いた。

16.

「あのさ……リィナのこと、よろしく頼むよ」

 はい?

「なんかさ……上手く言えないけど、どうせあのバカ、今もまだ、ちょっとヘンだろうからさ」

 待てまて。

「いや、俺によろしく言われてもなぁ。ほら、知っての通り、あいつらとは、その……袂を分かった訳だしさ」

「けど、今の仕事が終わったら、アンタは勇者様を追いかけるつもりなんだろ?」

 だから、どうして当たり前みたいな口振りなんだよ。

「あのな……俺、そんなこと言ったか?」

「へ?——そういや、言われてないね。いや、なんとなく」

 なんとなくかよ。

「けど、そうなんだろ?」

「まぁ、待てっての。仮にそうだとしてもだ。リィナはあいつ——マグナと、今も一緒に居るのかよ?」

「ああ——」

 ティミは、そういえば説明してなかった、とでも言いたげな顔つきをした。

「だと思うんだけどね。ウチは、さっさとおン出ちまったからさ、最後はどうなったか知らないけど、少なくとも勇者様は、そのつもりだったと思うよ」

「そうなのか?」

「上の方は上の方で、違うコト考えてたみたいだけどね。っても、これまでと同じ面子でなきゃ、魔王退治には行かないって勇者様に言われたら、認めるしかないだろ?」

「そんな交換条件を出したのか、あいつ」

「いや、ウチはホラ、勇者様には嫌われてたからさ。又聞きだけどね」

 ティミは苦笑した。

「……あんたにゃ、悪ぃことしちまったな」

「いいよ、今さら。とにかく、ウチの知ってる限りじゃ、そういう雰囲気だったよ」

「そっか……」

 ちょっと、ほっとした気分だった。

 あいつらは、今も一緒に居るんだ。

 マグナは、リィナを許したんだな。

 同じ面子ってことは、当然シェラも居る筈で。

 なんか、よかったよ。

17.

「ありがとな」

 自然と口をついて出た感謝の言葉は、ティミの顔を思いっきり顰めさせた。

「はぁ?別に、アンタに礼を言われるようなコトなんて、ナニもしちゃいないよ」

 このアリアハン人が!とか最後につかなかった分だけ、多少は扱いがマシになったのかね。

「ま、そういう訳だからさ。リィナのバカを、よろしく頼んだよ。ウチじゃ、何て言ったらいいか、よく分かんなくてさ。アンタがまた、偉そうな説教でもしてやってくれよ」

 根に持つね。

「……案外、お人好しってのは、あんたのことかもな」

「ハァッ!?」

「だって、そうだろ。グエンはともかく、口ではなんだかんだ言いながら、リィナのことまで、ずいぶん心配してるじゃねぇか」

 少し仕返しをしてやろうと思って、からかい混じりに言ってやると、案の定、ティミは顔を真っ赤にした。

「な、なに言ってんのさ!違うッての!!ウチは別に、リィナの心配なんかしちゃいないよッ!!」

「どの口が言うのかねぇ」

「ホントだっての!!殴るよッ!?」

 あうっ、すみません。

 勘弁してください。

「ただ……さ」

「ん?」

「さっきも言ったけど、あのバカ、どっかおかしいんだよ。ありゃきっと、ヘンにモノを考え過ぎてるね。考え無しがバカの強みだってのに、いつもみたいにモノ考えないで、ヘラヘラ笑ってりゃいいのにさ、ったく……」

 続く口調は、やけに断定的だった。

18.

「あのバカ、その内に負けて死ぬよ。今のままじゃね」

「……なんだ。やっぱり、心配してるじゃん」

 言葉を失いかけた俺は、ことさらにティミを茶化すことで、不安を振り払う。

「違うっての!!そンなんじゃないんだよ!!ウチはただ……」

「ただ?」

「だから……ウチはッ!!アイツが負けるトコなんて、見たくも聞きたくもないんだよッ!!」

「うん、そっか」

「違うッ!!勝手に納得すんじゃないよ!!ウチがアイツをケチョンケチョンに負かしてやるまではってコトだよッ!!ウチが勝った後なら、あのバカがいッくら負けようが知ったことかいッ!!」

「はいはい。そうだよな、ライバルだもんな」

「ッ……このッ!!」

 気付いたのは、風圧と共に視界を拳で塞がれた後だった。

 俺には全く反応出来ない速度で繰り出されたティミの拳は、鼻の頭に触れるか触れないかのところで、辛うじて寸止めされていた。

 全身の皮膚を粟立てている俺に向かって、ティミは舌打ちする。

「フン。本気で殴ったら、アンタなんてイッパツで死んじまうからね。さすがにそりゃアンマリだから、勘弁してやるよ」

 あ、ありがとうございます。

「これに懲りたら、二度とウチにナメた口利くんじゃないよ」

 俺の鼻を指で弾いて、背中を向ける。

 痛ってぇな、くそ。

「肝に銘じておくよ。そんじゃ、達者でな——早いトコ、グエンが見つかるように祈ってるぜ」

「大きなお世話だよ。アンタこそ、せいぜい頑張んなよ。そっちの方が、よっぽど大変なんだからさ」

 捨て台詞を残して、ティミは去っていった。

 やっぱり、お前の方がいい奴だと思うぞ。

 おっかねぇけど。

19.

 ラスキン卿が治める領内のあちこちから、魔物被害の報告が急増し始めたのは、例の事件から数日が経過した頃だった。

 時期的な符合からして偶然とは考え辛く、あのニュズって魔物が一枚噛んでると思われたが、実際のところは分からず仕舞いだ。

 それよりも問題は、話を聞いたファングが、勇んで魔物退治に出張っちまったことだった。

 事件の後始末に関しては、ほとんど俺に丸投げだったからな。よっぽど暇を持て余していたらしい。

 勝手にしゃしゃり出ちまったモンだから、当初はラスキン卿の配下とずいぶん揉めたようだ。なのに、いつの間にやら中心になって、討伐隊の指揮を執っていたのは、流石というかなんと言うか。

 今後の魔物対策についてラスキン卿から相談を受けていたこともあり、最終的には俺も手伝わなくちゃいけないみたいな流れになって、結局、魔物被害がひと段落するまでは、エフィの故郷を離れられなかったのだ。

 他にも、蔭ながらお慕い申し上げていたメイドがファングに言い寄る一幕があったり——おかしいだろ。これは、俺の役回りだった筈じゃねぇのか。

 すわアメリアと喧嘩になるぞと、期待に胸を踊らせつつ生暖かく見守ってたら、二人ともまるで動じないバカップル振りを見せ付けられて、逆にムカついたり。

 魔物討伐が長引いて、一日顔を見せなかっただけでお嬢がスネたり、お嬢がスネた理由を姫さんに問い質されて返答に窮したり。

 その姫さんは、毎日アメリアの買出しに付き合っていたからか、俺の知らない間に町で顔見知りを作っていた。

 正体がバレやしないかとヤキモキした末に、一度コッソリ後をつけ——存外に楽しそうな姫さんの様子を物陰から覗き見て、妙に淋しい気分に襲われたり。

 その他、細かい出来事がなんだかんだと色々あって、それでジパングから来たヤツの件は、ついつい後回しになっちまったのだ。

 忘れてた訳じゃないんだけどね。

 いや、ホントに。

20.

「どうかどうか、ヤマタノオロチめを退治してくだせぇ」

 魔物による被害もようやく落ち着いた頃合いに、俺とエフィで宿屋に話を聞きに行くと、タタラという若い男は歳に似合わない古臭い喋り方で、そう切り出した。

 聞けば、タタラの故郷のジパングでは、以前からヤマタノオロチという強力な魔物に人里が襲われて、村ごと無くなっちまったケースも少なくないのだという。

「近頃、摩訶不思議な神通力を身につけなさったヒミコ様が、オロチには生贄じゃと教えてくださらなんだら、いま頃は国ごとうなっとったかも知れん」

 ヒミコというのは、ジパングの女王みたいな存在のようだ。

 つか、神通力ってなんだ。そんなモン持ってるなら、そのヒミコがオロチとやらを退治すりゃいいじゃねぇか。まぁ、戦闘向きの能力じゃないのかも知れねぇけどさ。

 ともあれ、ヒミコの言う通りに生贄を捧げてみると、オロチによる被害はぴたりと止んだのだという。

 だが、それで目出度しめでたし、とはならない。代償に生贄を捧げてるんだから、人が喰われ続けていることに変わりはないのだ。

 しかも、ヒミコによれば、オロチの好物は若い女だそうで、そのお陰でジパングでは妙齢の女の数がどんどん減っているってんだから、もったいない——じゃなくて、痛ましい話だ。

 女達は、次は自分の番じゃなかろうかと毎日怯えて泣き暮らし、家族もひたすら手をこまねいて周章狼狽するばかりだという。

 もちろん、男達は何度もヤマタノオロチの討伐に向かったが、誰も帰ってこなかったそうだ。

 まぁ、それも無理はないんだが。

 タタラの話から推察するに、どうやらヤマタノオロチってのは、魔物の中でもとびきり強力とされている『竜種』みたいだからな。

 たとえ、結界による護りが無くてさえ、魔物が単独で人の集まる村や町を襲うことは、ほとんど無い。奴等にだって、野生動物と同程度の分別——と言っていいのかどうか分からないが、それが無茶だってことくらいは理解できるんだろう。

 だが、竜種となれば話は別だ。単体で人里を襲うこともあるかも知れない。それくらい強力な魔物なのだ。

 その上、ジパングの連中は魔物退治を生業にしてる訳でもない、言ってみりゃ単なる素人だからな。敵わなくて当然だ。

 だいたい竜種なんて、俺でさえほとんど出くわしたことねぇもんよ。

21.

 竜種の中では弱っちいとされるスカイドラゴンを、二、三度、隠れてやり過ごしたことがあるくらいだ——いや、そん時はマグナと二人きりの道中だったからさ。あんまり無謀な真似もできなくて、こっちが見逃してやったんだけどな。

 何にせよ、お嬢から話を簡単に伝え聞いてただけだったから、ジパングの状況がそこまで切羽詰まっているとは思わなかった。

 普通の——と言っちゃなんだが、この地における魔物被害と大して変わらない程度に考えていたからこそ、まずはこっちを先に片付けてから、みたいに、つい後回しにしちまったのだ。

 というか、話を聞いたら、余計に行く気が失せたんですが。

 重い気分を引き摺りつつ屋敷に戻り、ファングに話して聞かせると、案の定、馬鹿はすぐに出発しようとほざきやがった。

 そりゃあな。ここの被害は、ラスキン卿の配下だけで十分に対処できる程度には収まったし、元々ジパングの件で俺達は雇われたんだから、行かない訳にはいかねぇけどさ。

 でも、竜種の相手なんぞしたくねぇなぁ。

 思った以上の危険が待ち受けているようなので、俺としては、姫さんとお嬢は置いてくつもりだったんだが。

「嫌じゃ」

 話を切り出して間もなく、姫さんは唇を尖らせて俺を睨み上げた。

「わらわも、一緒に行くのじゃ」

「いや、あのな、エミリー。聞いた話じゃ、すげぇ強い魔物が相手らしいんだよ。だから、その……危ねぇだろ?なるべく早く、帰ってくるからさ」

「信用ならんのじゃ。そんなこと言って、またわらわを置いてきぼりにするつもりなのであろ」

 うぐっ。

 まぁ、言われても仕方のないトコロではあるが。

「置いてったりしねぇって。約束しただろ?一緒にあいつらを探しにいくってよ」

「ならば、今回も一緒に行ったところで、何も問題は無いのじゃ」

「へ?なんで?」

「お主と一緒にシェラ達を探す道中も、どうせ魔物に襲われるのじゃ。どちらも危険に変わりないのであれば、今回だけ連れていかぬと言うのは、えぇと……そうじゃ、りくつに合わぬのじゃ」

 そりゃ、言葉の上では、そうかも知れませんがね。

 危険の度合いが違うっつーか——

「ヴァイス。あなたまさか、私を置いていくなんて言わないでしょうね?」

 姫さんの説得を一旦諦めて、先にエフィに出発の報告をしておこうと部屋を訪ねたら、こいつも駄々をこねはじめるのだった。

22.

「いい?これは私が最初に、タタラさんから頼まれたことなんですからね?その私が、人を雇ったらそれっきり、後はよろしくねだなんて任せ切りに出来ると思うの?」

 いやいやいや。

 お前は余裕で人を雇えるくらい金持ちのお嬢様で、俺達は魔物退治を生業にして金を稼いでる人間なんだから、役回りとしちゃ何も間違ってないと思うんですが。

「そんな無責任なこと、とても出来ないわ。私には、事の成り行きを見届ける義務があるのよ!」

 そんなおかしな義務は無いので、安心してください。

「とにかく!これは雇い主としての命令ですからね。私も一緒に連れていくこと。いいわね!?」

 そう仰られましてもね、お嬢様。

 どっちも素直に黙って送り出してくれそうになくて、困った末にファングを相談相手に選んじまったんだから、俺もよっぽど血迷っていたらしい。

「二人を守る自信があるなら、好きにしろ。自信が無いなら、置いていけ」

 それが、ファングの単純明快な答えだった。

 お前ね、そんな他人事みたいに。

 足手纏いを連れて行くことになるんだから、お前にも大いに関係のある話だって分かって言ってんのか?

 いや——

 こいつの場合は、そんなのとっくに承知の上なんだよな。

 心構えを確認されてるのは、俺の方か。

 返答に詰まった俺に、ファングは珍しく言葉を重ねた。

「俺は、どちらでも構わん。だが、お前はそれでいいのか、ヴァイス」

 どういう意味だ?

 と首を捻りつつ、妙に得心している自分もいた。

 あの二人すら守り切れないようで、その程度の心構えで、あいつの——マグナ達の後を追えるのか。

 そう問われている気がした。

 関係無いけど、そういやこいつ、俺を名前で呼ぶようになってるな。

 いつからだっけ?

23.

「……結論は、ちょっと待ってくれ」

 その場ではそう答えたが、俺の心は既に決まってたんだと思う。

 それでも尚、即答出来ないところが、俺の俺たる所以というか。

 だってさ、俺が覚悟を決めることと、姫さんやエフィの安全を慮ることは、本質的には全然別の問題じゃねぇか。

 よーし、俺が守ってやるぜ。任せとけ。

 みたいに、俺が勝手に思い込むのは簡単だけどさ、実際、確実に守ってやれるかって言ったら、そうじゃねぇと思うし。そんなの自己満足に過ぎないっていうか、絶対だなんて断言する方が不誠実なんじゃねぇかと、やっぱり考えちまうんだ、俺は——

 だからと言って、ファングが不誠実だとも、今はあんまり思わないんだけどさ。

 そう、なんかズレてる。

 ファングが俺に決断を迫ってるのは、実際に連れていくの置いていくの、守ってやれるのやれないのってことより、もっと手前の部分だよな。

 要するに、いつまで経っても落ち着かない、俺の腰の据わらなさについて指摘されてるんだろう。

 自分だけのことだったら、決断するにも気が楽なんだけどな。

 これから先は、そういう訳にはいかねぇと、つまりはまぁ、そういうことだ。

 あるいは、俺はファングの馬鹿さ加減に当てられて、流されちまっただけなのかも知れない。

 ほら、俺って流され易いから。

 シンが無いもんで。

 けど、いつまでも、それでいい筈がないよな。

 本気で、あいつを追いかけるつもりなら。

 この時は、そう思っちまったんだ。

 それで結局、姫さんとお嬢がついて来ることを認めちまった。

「本当に、いいんだな?」

 念押しをしたファングに、真面目くさった顔して頷いちまったのだ。

 まぁ、要するに、俺はいまだにアイツラのことになると、トチ狂っちまう俺のまんまだったって訳だ。

 自分じゃ気付いてなかったけど。

24.

 そして今、俺は自分の下した決断を、大いに後悔しているところなのだった。

 たとえ人生ってのが後悔の連続だとしても、さすがにこれは早過ぎるだろ。

 やっぱり、お嬢は置いてくるべきだった。

 そう思っちまうのを止められない。

 だってさ、神様じゃあるまいし、まさかこんな展開が待ち受けてるだなんて、予想できないじゃねぇかよ。

 こんな——世界の端っこにぽっつり浮かんだ島国で、俺を挟んでマグナとエフィがはち合わせるとかさ。

 なんの冗談なんだ、これは。

「もぅ、どうして探しに来てくれないの!?」

 ちらりとマグナ達の方を気にしつつ、エフィは小走りに俺に駆け寄った。

「振り向いても、どこにもあなたがいなくて……すごく、怖かったんだから」

 抱きつくようにして、腕を絡める。

「ちょっ……」

 今はヤバい。

 反射的に振り解きかけたが、俺を見上げるお嬢と目が合って力が抜ける。

「それで、この方達は、どなた?お知り合いかしら?」

 マグナはぽかんとして、こちらを見ていた。今なにが起こっているのか、まるで分かってないように。

 アルスは少し目を見開いて、二枚目ヅラに苦笑めいた——もとい。ニヤニヤとした薄ら笑いを浮かべた。

「でも、偶然こんなところで会わないわよね?——あ、もしかして、ここで待ち合わせをしていたの?」

 エフィは、意外なことを言った。

「その……私みたいな足手纏いを連れて来てしまったから、アリアハンから応援を呼び寄せたとか、そういう事なのかしら?だとしたら、ごめんなさい、ヴァイス。余計な手間を取らせるつもりはなかったのだけれど……」

 なるほど。

 偶然ばったり出くわした、ってよりは、よっぽどマシな解釈だな。

「でも、私だって、駄目と言われれば大人しく諦めたわ。ついて来いと言ったのは、あなたなんですからね?」

 こら待て、お嬢。俺はちゃんと、最初に駄目って言ったじゃねぇか。

「こういう事ならそうと、先に言っておいてくれなければ、私だって困るわ。びっくりするじゃない——ほら、なにをしているの?早く紹介してちょうだい」

「あー……うん」

 この時、マグナは既に顔を背けていた。

 そして、これ以降、マグナが俺を見ることは、一度も無かった。

25.

「いや、すまないな。どうやら俺は、誤解していたようだ」

 アルスの声は、やけに上機嫌に聞こえた——実際、そうなんだろう。

「こんなに可愛らしいお嬢さんと、一緒だったとはね。そういう事なら、マグナの後を追ってきた筈もないか」

「まぁ——」

 エフィは口元を押さえてはにかむと、あなたも立派で素敵だの、そちらの方もとても可愛らしいだのと、どうでもいいべんちゃらを口にした。

 嬉しそうにすんなよな。可愛いなんて、言われ慣れてる筈だろ。

 それともアレか。やっぱり、この野郎のツラがいいからか。

「でも、追ってきた……って、どういうことなの、ヴァイス?あなたが呼んだんじゃないの?」

 エフィとアルスがのどかに名乗り合うのを苛々と聞き流していた俺は、急に問い掛けられて、咄嗟に返事が思い浮かばなかった。

「いや……」

 俺が頭を働かせる間もなく、アルスが答える。

「申し訳ないが、それはこちらの勘違いだったらしい。俺達は、たまたまばったりここで顔を合わせた、というのが本当のようだ」

「ばったり……ですって?えぇと、お知り合い……なの、よね?そんなことって、あるのかしら?」

「まったくだ。信じられない偶然だな。だからこそ、俺も余計な気を回して、妙な勘繰りで彼を困らせてしまった。申し訳なく思っている」

 野郎は俺を見て、恩着せがましい薄ら笑いを浮かべた。

「とにかくだ。知った顔を、意外な場所で見かけたんでな、少し挨拶を交わしていただけで、俺達は別に彼に用事があるという訳じゃない。そうだろう、マグナ?」

「……ええ」

 マグナは顔を背けたまま、低い声で短く答えた。

「そうなの?なんだか、誤魔化されている気がするのだけれど……」

 エフィは不審げな眼差しで、俺とマグナを見比べる。

「とんでもない。心配なら、彼にも尋ねてみるといい。きっと、俺達に用は無いと答える筈だ」

 油断してたな。

 この野郎、思ったより弁が立ちやがる。

「……ヴァイス?」

 俺は、エフィを見れなかった。

 かといって、マグナの方も向けずに、明後日に目を逸らす。

26.

「ああ。ここで会ったのは……偶然だよ」

「そういうことだ」

 どうにか躱すつもりが、アルスが後を継いで台無しにする。

「俺の勘違いで、もし貴女あんたに誤解を抱かせてしまったなら、謝ろう。だが、俺達と彼は、別に貴女が疑ってるような関係じゃ——」

「もういいから」

 アルスの言葉を遮ったのは、マグナだった。

「……もういいわ、アルス」

「ん?ああ、すまない。柄にもなく、つい喋り過ぎたかな——マグナ?」

 顔を覗き込んだアルスを、マグナは突き飛ばした。

「……先に、戻ってるから」

 踵を返して、走り去ってしまう。

「待——っ!!」

 ちょっと待ってくれ。

 なんなんだよ、これは。

 なんで、こんなことになっちまったんだ。

 俺、まだお前に、何も言って——

 足を前に踏み出しても、腕だけがついてこなくて、エフィに掴まれていたことを思い出す。

「……悪い」

 エフィの手を握って、引き剥がした。

 なるべく優しくしたつもりだったが、乱暴になっちまったかも知れない。

 駆け出した俺の前に、アルスが立ち塞がった。

「どけよ」

「聞けないな」

 アルスは、俺の背後に視線を送る。

「いいのか。彼女を置き去りにして」

「うるせぇな。手前ぇにゃ、関係ねぇだろ」

「ヒドいことを言う。大きな声を出すと、彼女に聞こえるぞ」

 皮肉のつもりか、にたりと笑う。

「それに、関係が無くはないな。俺は、あんたに嫉妬を覚えている」

 黙れよ。

 のんびり手前ぇと話し込んでる暇は——

27.

「なにしろ俺は、まだマグナを泣かせたことがない」

 咄嗟に、何を言われているのか理解できなかった。

 え——?

 今、なんて言った?

 まさか——

 マグナは、泣いてたのか!?

「あんたは今、マグナの前に顔を出さない方がいい。余計に拗れるだけだ」

 馴れ馴れしく野郎に肩を叩かれたことも、あまりよく分かっていなかった。

「あいつのことは、俺に任せてくれ。どうしてだか、俺はあいつのことは、よく分かるんだ」

 アルスの台詞も、ほとんど耳に入っていない。

「もし会うにしても、お互いにもう少し落ち着いてからにした方がいい。じゃあな。マグナが心配だから、俺も失礼するよ」

 全身が脱力して、膝が抜けそうだった。

 俺は、また——

 あいつを泣かせちまったのか。

 アルスが完全に立ち去った後も、俺は動けずに立ち尽くした。

 我に返ったのは、脇の茂みから耳慣れた声が聞こえたからだ。

「うっわ~……なんだろ、これ。まさか、こんなコトになるとは、思わなかったよね」

「ちょっ……ちょっと、リィナさん!?」

 がさりと、茂みを鳴らして姿を現したのは——

「や!ヴァイスくん、久し振り!」

 久しく聞いていなかった、軽い調子。

 挨拶のつもりか、しゅたっと片手を上げている。

 リィナだ。

「あ……ど、どうも、お久し振りです」

 リィナの腰にしがみついたまま、もろとも引きずり出されたシェラは、俺に向かって頭を下げて、曖昧な笑みを浮かべた。

28.

「いや~、びっくりしたよ~。隠れてアルスの後をつけてたらさ、マグナとヴァイスくんが一緒にいるんだもん。思わず声が出そうになっちゃって、我慢するのに必死だったよ」

 妙な身振り手振りを交えてそう言って、リィナはアハハと笑った。

 軽いノリも、いつもの道着も変わらない。

 なんだか、ひどく懐かしい——

「ホントに、びっくりしました。今もまだ、ちょっと混乱してます」

 一方、ダーマで新調したのか、シェラの旅装は変わっていた。

 毛先で髪をまとめているからだろうか、面影も微妙に変化したように思える。成長期だもんな。

 つか、こいつ、やっぱ滅茶苦茶可愛いな。

 記憶ってのは、美化よりも劣化が普通なんだと、改めて思い知る。

「ヴァイスくん?お~い」

 リィナが、俺の目の前でひらひらと手を振っているのに、遅れて気が付いた。

「あ、ああ……うん、久し振り。元気そうだな」

「えっ、なにそれ」

 リィナは俺の唇の両端に指を当てて、無理矢理引き上げる。

「せっかく久し振りに会ったんだからさぁ、もうちょっと嬉しそうな顔とか出来ないかな」

「バカ、よせ……いや、違うって。もちろん嬉しいっての。けど、とにかく、アレもコレもいきなりだからさ——」

「ホント、そうだよね。びっくりだよ。なんでヴァイスくんが、こんなトコにいるの?」

「……そりゃ、俺が聞きたいんだが。っていうか、お前ら、また蔭から覗き見とかしてたのか?」

「へ?ああ、うん、まぁね~」

 リィナは笑って誤魔化した。

 そんな仕草も懐かしい。

 駄目だ——

 次から次に色んな事が起こり過ぎて、御し切れなくなった感情が溢れそうだ。

 目頭が熱くなって、俺は慌てて顔を伏せた。

「んん~?もしかして、感動しちゃって泣いてるのかな、ヴァイスくん?」

 覗き込んできたリィナから、必死に顔を背ける。

「……さっきの、お前らの仕業だろ」

 この時点では、話を逸らす意図だったんだが。

29.

「ん?なにが?」

「マグナとあいつのことだよ。どうせまた、お前らが妙な御膳立てしてたんだろ」

「あーうん。いや、その……」

「いえ、あの、違うんです。えっと……マグナさん、あれからずっと元気無くて……それで、アルスさんだったら、元気づけてあげられるかなって、その……」

 言い辛そうなシェラの後を、リィナが受ける。

「だってさ、あの二人って、端から見ててじれったいんだよ。ボク達に遠慮してるのか知らないけど、お互い意識してるクセに、船の上でも妙に距離置いちゃってさ。だからもう、無理矢理二人きりにしちゃおうって、シェラちゃんと相談して……」

 リィナが屈み込んで、下からまた俺の顔を覗き込んだ。

 どうにか目頭の熱さも引いていたので、今度は顔を逸らさなかった。

「……ごめんね。ヴァイスくんには、悪いと思ったんだけどさ……でも、ほら。マグナにフラれちゃったら、またボクが慰めてあげるし、なんて——」

「そうじゃねぇよ」

 俺の語気は、自然と強くなった。

「俺が聞きたいのは、そうじゃなくて……なんでアルスの野郎が、仲間ヅラしてお前らと一緒に居るのかってことだよ」

 少し、間が空いた。

 シェラが何かを言いかけたが、答えたのはリィナだった。

「うん。別に聞かせてあげてもいいけどさ——その前に、教えてよ」

 俺の背後にいるエフィを指差す。

「あれ、誰なのさ」

 だよな。やっぱり、それを聞かれるよな。

 エフィはリィナの指を避けるように回り込んで、後ろから俺の腕にしがみついた。

「ふぅん……やっぱり、そうなんだ?」

「いや、ちょっと待ってくれ——」

 エフィが、俺の服の肩口を引く。

「ねぇ、ヴァイス、この方達もお知り合いなの?なんだか、何がどうなってるのか、私——」

「そりゃね、ヴァイスくんは、もうボク達とは別れちゃったんだから、誰と何をしようが勝手かも知れないけどさ……でも、これはナイんじゃないの?」

 リィナは腰に手を当てて、俺を睨む。

「あれからマグナが、どんな気持ちでいたのか分かってる?分かってる訳ないよね?だったら、こんな風に、マグナの前に出てこれる訳ないもんね?」

 お前まで——

 あの野郎と、同じこと言うなよ。

30.

「見損なったよ、ヴァイスくん」

 深い溜息。

 いや、言われても仕方ないってのは、分かってる。

 けど、違うんだ。

 今、お前が勝手に納得してるのは、違うんだよ。

「いや、あの——隠れて覗いてたんなら、聞いてただろ?俺だって、ここであいつと会うなんて、思ってなかったんだよ」

「だから、なに?」

 リィナの強い視線に出会って、言葉が詰まる。

「そういう事じゃないよね?ボクが言ってるのって、そうじゃないでしょ?」

 そうだけど、お前が思ってるのも、そうじゃないんだ。

「ボク、ヴァイスくんのこと、ホントに見損なってたよ。これでもさ、信じてたんだよ?ううん、ボクだけじゃなくて、シェラちゃんも、マグナだって、きっと……今は離れてるけど、最後はちゃんと戻ってくるって——」

 徐々に伏せられた瞳が、また俺を射る。

「でも、そうだよね。ヴァイスくんは元々、無理矢理付き合わされてただけだもん、別れちゃえば、ボク達のことなんて、どーでもいいよね」

 否定の言葉を口にしたいのに、絶句しちまって喉から出て行かない。

 リィナは、自嘲するみたいに薄く笑った。

「馬鹿みたい。なんで気付かなかったんだろ。ヴァイスくんは今ごろ、ボク達と別れてせいせいしてるとか、すっかり忘れちゃってるとか、なんで全然思わなかったんだろ……」

 だから、勝手に話を進めるなって。

 そんな風に、思ってる訳ねぇだろ——

「あまり、勝手を言わないで」

 一瞬、自分の口が無意識に動いちまったのかと思った。

 それは、エフィの声だった。

「この人は、そんな風に思ってないわ。いつも淋しそうな顔をして……そうよ、あなた達のことを考えていたんだわ。あなた達とヴァイスがどういう関係なのか、よく分からないけれど……この人が、ずっと悩んでいたことは、私には分かるもの」

 思いがけないところからの反論に虚をつかれたリィナの顔に、やがて見た覚えのない皮肉らしい笑みが浮かぶ。

「へぇ……いい人見つけたんだね、ヴァイスくん。楽しく暮らしてるみたいで、なによりだよ」

「いや、お前な……」

 俺は、何言われても仕方ねぇけど……そういう言い方はねぇだろ。

31.

「私は、そんなつもりで言ったのではないわ。ただ、あなたがあまりにも一方的に、この人を責めるから——」

「うん、黙っててくれる?悪いけど、キミには話してないから。っていうか、だからキミ、誰なのさ?キミに、ボク達の何が分かるっていうの?」

 冷たいリィナの声音に怯えたように、エフィはぎゅっと俺の腕を掴んだ。

「それは……あなた達のことは、全然聞かされていなかったし、だから、何がどうなっているのか、今でも何がなんだかよく分からないけれど、でも、私は——」

「何も知らないんだったら、黙ってなよ!!」

 たじろぎながらも、健気に言葉を続けようとしたエフィの手をぽんと叩く。

 ごめんな。お前が怒鳴られるようなことなんて、何もねぇのにな。

「この人、ボク達のこと、全然聞かされてないって言ったよね!?それってつまり、ヴァイスくんはボク達のことなんて忘れちゃってたってことでしょ!?すっかり忘れて、その人と楽しく暮らしてたんだよね!?ボク達のことなんて、やっぱりどうでもよかったんだ!?」

「待てって……ちょっと落ち着こうぜ」

 こんなに取り乱したリィナを見たのは、はじめてだ。

 そうだよな。俺がしたことが、そんなに軽い訳ねぇんだよな。

「なにが!?ボクは、全然冷静だよ!?」

 だが、リィナは落ち着かなかった。

「なにやってんのさ、ヴァイスくん……なにやってんの!?こんなの……マグナが可哀想だよ!!」

 声を詰まらせて、ぎろっとエフィを睨む。

「なんでそんな、ボクの知らない女の人と一緒にいるのさ!?ヴァイスくんは、マグナと一緒じゃなきゃダメなのに!!」

「……ちょっと待てよ」

 何を言われても仕方ない。

 そう思ってたのに——アルスの野郎のツラを思い出しちまった。

「たった今、マグナとあの野郎をどうにかしようとしてたお前が、それを言うのか?」

「え……?」

 リィナは、気勢を殺がれた顔をした。

32.

「だからさ、お前は、マグナとあの野郎をくっつけようとしてたんだろ?つまりだ——お前の理屈で言や、そっちだって俺のことなんてすっかり忘れて、どうでもいいって思ってたってことじゃねぇのかよ?」

「あ……違——」

 気付いてなかったのか、思った以上にリィナはうろたえた顔をした。

「違くねぇよ。そういう事だろうが。自分のしてることを棚に上げて、俺だけ悪いみたいに言うなよな」

 マズい。これじゃ、売り言葉に買い言葉だ。

 そう思ってるのに、アルスを前にしていた時から、ずっと言い返せなかった反動なのか、口が止まらない。

「大体な、さっきから黙って聞いてりゃ、お前だって、俺がどんな気持ちでいたのかなんて、まるで分かっちゃいねぇじゃねぇか——いや、それはいいんだけどさ。関係無ぇから黙ってろとか言いながら、こいつにまで八つ当たりするなよな」

 ちらりと目を向けると、エフィは申し訳無さそうな顔をしていて、自責の念が思いがけない言葉を俺に続けさせる。

「なんか……お前って、そんなヤツだったか?」

 息が詰まったみたいに口をわなわなさせて、リィナは大声を出した。

「なんだよっ!!ヴァイスくんなんか、なんにも分かってないクセにっ!!」

 こっから先は、もう怒鳴り合いだった。

「ヴァイスくんのバカッ!!分からんちん!!もう、大っ嫌いっ!!」

 激しく地団駄を踏む。

「あ~も~、全っ然ダメッ!!マグナだって、アルスとくっついた方が全然いいよ!!」

「ああ、そうかよ!!そうだろうよ!!だったら、勝手にすりゃいいだろ!?」

「あ!!やっぱり、そうなんだ!?もうボク達のことなんて、どうでもいいんだ!?」

「そりゃ、お前が言ってんだろ!?ああ、どうせ、俺は何言われたって反論なんてできねぇからな!!なんでも勝手に言いたい放題言って、そう思ってりゃいいじゃねぇか!!」

「~~~っ!!」

 激しく顔を歪めて溜めた言葉を、リィナは盛大に口から吐き出した。

「ヴァイスくんのバカッ!!死んじゃえっ!!」

 リィナだけに、駆け去るのもあっという間だった。

 まさか、リィナに「死んじゃえ」なんて言われると考えたこともなかった俺は、衝撃を受けて却って素に戻る。

 追い討ちをかけるように、深々とした溜息が聞こえた。

33.

「……子供じゃないんですから、ヴァイスさん」

 えらく冷静にシェラに言われて、急に恥ずかしくなる。

「ああ、うん……そうだな。悪かったよ」

「私に謝られても仕方ないです。でも……ヴァイスさんって、そんなでしたっけ?」

 さっき自分が口にした言葉を、そのまま返された。

 なるほど。これは、かなり堪えるな。

「なんだか……がっかりです」

 うわ、そんな真面目な顔して、なんてこと言うんだ。

「いや、お前、そんな……」

「な・ん・で・す・か?」

 一音ごとに区切るように口にして、シェラは俺を睨みつける。

 それで、俺は口の中でモゴモゴ言うだけで、反論できなくなっちまった。

 なんかこいつ、しばらく見ない内に、ずいぶんしっかりした気がするぞ。

 以前のシェラだったら、オロオロするだけで、こんなこと言えなかったと思うんだが。

「あの……ごめんなさい、ヴァイス」

 おそるおそる、といった感じで、エフィが気遣わしげな声を出した。

「私が、余計なことを言ってしまったから……何も分からないのだから、黙っているべきだったのよね……」

「いや……気にすんな。エフィは、なんも悪くねぇよ」

「そうですね。悪いのは、全部ヴァイスさんです」

 まぁ、そうだけどさ。

 お前、そんなはっきり言うヤツだったか、シェラ。

 よっぽど腹に据え兼ねてるのか——あるいはアレか、反抗期か。

「あのですね、ヴァイスさん。なんでリィナさんが、あんなに怒ってたのか、ちゃんと分かってますか?」

「へ?いや、そりゃ……」

「マグナさんのことだけじゃないんですよ?そういうの、ちゃんと分かってるんですか?」

「ああ、うん。まぁ……」

「これだから、男の人って……」

 俺の内心を見透かしたみたいに、呆れた口振りで呟いた。

 これも、以前のシェラなら言わない台詞だったと思う。

 だが、自分でも不思議なんだが——さっきのリィナと違って「らしくない」とは、俺には感じられないのだった。

34.

「自覚がないみたいだから、私が言っておいてあげます。ヴァイスさんは、何も分かってないです」

「……何が、分かってないんだよ」

「私からは、説明しません。自分で分からないと、意味無いですから」

 ツンと顔を逸らす仕草が可愛くて、つい誤魔化されそうになったが、さっきからかなりキツいこと言ってるぞ。

「ちゃんと、考えてくださいね。じゃないと、そのひとにも悪いです」

 シェラに視線を向けられて、エフィは少し困ったような表情を浮かべた。

「ああ、うん……そりゃ、考えるけどさ——」

「アルスさんは、マグナさんのこと、すごいよく分かってますよ?端で見てて、怖いくらい……」

 シェラは、ちょっと頭を振った。

「いえ——とっても丁寧に、マグナさんのことを考えてあげてます。だから、こんなんじゃ、私にもアルスさんと一緒の方がいいとしか思えないです。マグナさんにとって」

 シェラはきっと眉を顰めた。

「大体、ヴァイスさんはですね——」

 途中で言うのを止めて、また溜息を吐く。

「もういいです。とにかく私も、今のヴァイスさんには、納得できないですから」

 しばらく、なんとも言えない目をして俺とエフィを眺めていたシェラは、ふいとリィナの後を追って歩き出した。

「え——いや、ちょっと待ってくれ」

「……なんですか?」

 振り向いたシェラの顔は、すごいムッとしていた。

 それでも可愛いく見えるんだから、どんだけ可愛いんだろうな、こいつは。

「いや、あの……できれば、もう少し落ち着いて話をだな——」

「お断りします」

 覚えがないくらいきっぱりと、シェラは答えた。

「今は私も、冷静にお話しする自信、無いですから。これで、失礼します」

「なら、今じゃなければ……また後で、落ち着いてからだったら、話できるか、な?」

「……お答えできません」

 シェラは、ちょっと目を伏せて、何事かを呟いた。

35.

「え?」

「なんでもないです!とにかく、私の一存じゃ決められないですから」

「じゃあ、せめてさ……どこに泊まってるのかだけでも、教えてくれないか」

 しばし逡巡してから、シェラは諦めたように口を開く。

「……教会で、お世話になってます。でも、無理に押し掛けたりしないでくださいね」

「ああ、うん、分かった。もちろん」

 もう一つ、いつ頃まで滞在する予定なのか、聞こうとした時だった。

「……っちじゃ、アメリア!早くするのじゃ!」

「待ってくださぁい……急にどうしたんですかぁ、姫さま。もうちょっとゆっくり——っ!?」

 続いて、どさりと人が倒れる音。

「うぅ……痛いですぅ」

「なにをしておる。あれほど足元に気をつけろと言ったであろ。ほれ、早く立つがよい。もうすぐそこなのじゃ」

「でもぉ……」

「なんじゃ」

「やっぱり、お邪魔ですよぅ……」

「ヴァイスとユーフィミアのことを言うておるのか?確かに、さっきまではあやつらを探しておったのじゃが、今は違うのじゃ!!ここの者達によればじゃな——」

 出来のいい彫像みたいに動きを止めていたシェラは、見開いた瞳を俺に向ける。

 俺は、大きく頷いてみせた。

 ほどなく、木陰から小さな人影が勢いよく飛び出して——

「やっぱりじゃ!!」

 満面に笑みを浮かべた姫さんは、真っ直ぐシェラに向かって駆け寄ると、体当たりするみたいに跳び付いた。

「シェラ!!」

「——っ!?」

「ははっ——本物じゃ!!まさかと思うたが、木々達によれば、お主にしか思えなかったのでな!!」

「姫さま……どうして?」

 何歩か後ろによろめきながら、どうにかエミリーを抱き止めて、シェラは呆然と呟いた。

「まぼろしではないな?消えたりしたら、しょうちせぬぞ?ん~~~っ!!会えて嬉しいのじゃ!!」

 ひとしきり顔をすりすりと押し付けてから、姫さんはシェラを見上げて不思議そうに尋ねる。

「……それにしても、どうしてお主がここにおるのじゃ?」

「それは——私が聞きたいです。どうして姫様が、こんな処にいるんですか!?」

 問い返されたエミリーは、途端にびくりと身を縮めた。

36.

「……怒っておるのか?」

「え?」

「じゃって……あの時、わらわはシェラに、里で待っておれと言われたのじゃ」

「あ——」

「わらわが約束を破ったことを、怒っておるのか?でも……我慢できなかったのじゃ!!なんじゃ!!先にわらわをおいてきぼりにしたのは、シェラの方であろ!?それなら、わらわが怒るのが先なのじゃ!!」

「えっと、あの——ごめんなさい」

「ふむ。仕方ない、許してやるのじゃ。だから、シェラもわらわを許すがよいぞ」

 こんな際だが、姫さんの言い草に、思わず苦笑しちまった。

「はい、姫様。というより、私、全然怒ってないですよ?すごく、びっくりはしましたけど」

「ホントか?」

 不安げなエミリーに、シェラはようやく戸惑いを振り払った微笑みを向けた。

「もちろんです」

「……わらわと会えて、嬉しいか?」

「はい、とっても」

「そうか……そうじゃな?わらわも、嬉しいぞ!」

 改めて、エミリーはシェラに抱きついた。

 しかしまー、なんつう絵面だ。

 どっちも可愛らしいと言うに及ばず、あまりにも微笑ましくて、さっきまでの出来事を、少しの間だけ忘れていた。

「でも、姫様。どうしてここに?」

「おお、そうじゃ、紹介せねばな。シェラ、この者はアメリアと言うてじゃな、あとファングというのがひとりおるのじゃが、その者達に、わらわは里から連れ出してもらったのじゃ」

 目が合ったシェラとアメリアは、軽く会釈をし合う。

「ファングさんって、もしかして、サマンオサの勇者様の……?」

「そやつじゃ。なんじゃ、知っておるのか」

「いえ、あの、ちゃんとお会いしたことはないですけど」

「そういえば、ヴァイスとも顔見知りじゃったな。ところで、姿が見えぬが、リィナや、あのイジワル女も一緒なのであろ?そうじゃ、皆でわらわ達のところに来るがよい。そこで、ゆっくり話をするのじゃ」

「あ……はい、えと、それは……」

 姫さんの背中に回していた腕を解いて、シェラは恨みがましい視線を俺に投げつけた。

37.

「ごめんなさい、姫様。今は、その——」

「今は——なんじゃ?」

 エミリーは、小首を傾げる。

「あの、後で——また後で、必ず会いに行きますから」

 ここに至ってようやく、最前までこの場に淀んでいた空気に、エミリーは気が付いたようだった。

「姫様のお顔を見れて、とっても嬉しかったです。ホントに、とっても……あの、今度はリィナさんとマグナさんも、一緒に会いに行きますから」

「……なんで、そんなこと言うのじゃ」

 さっきまでの元気はどこへやら、姫さんはひどく落ち込んだ声を出した。

 フードに隠れて見えないが、きっと耳もしおしおと垂れているだろう。

「お主まで、ヴァイスと同じことを言うのじゃな」

「え?」

「また、わらわをおいてきぼりにするつもりなのであろ」

 ああ、うん。

 アリアハンで再会した時、そういや一緒に行けないとか言っちゃったな、俺。

「そんな、姫様……」

「違うというのであれば、今すぐあやつらを呼んでくればよいではないか!!何故、駄目なのじゃ!?」

「……ごめんなさい。今はあの、一度に色んな事があり過ぎて……」

 姫さんは、なにやら周囲を見渡した。

「全然、分からん——いや、分かっておるのじゃぞ?今しがた気づいたが、この木々の怯えには覚えがある。どうせ、ヴァイスとあのイジワル女が、また喧嘩したのであろ」

 むぅ、意外と鋭い。

 喧嘩の相手がマグナと言っていいかどうかはともかく。

「じゃが、まるで分からんのじゃ!!会いにくると言うておきながら、全然会いに来なかったのは、お主らの方ではないか!?口では会えて嬉しいと言いながら、お主らはいつもわらわをおいてけぼりにしようとするのじゃ!!そんなの、全然分からないのじゃ!!」

「姫様……」

 困り果てたように、シェラはその場に立ち尽くした。

「あ~……その、なんだ」

 見かねて、横から嘴を挟んじまった。

「エミリーは、しばらくシェラ達のところに行ってるか?姫さんだけなら、そっちに行ってもいいだろ?」

「えっ!?」

 最後の問い掛けはシェラに向けたものだったが、先に声をあげたのはアメリアだった。

「あ、はい、それは……その……」

 言い淀むシェラと、胸の前で両手の指を組み合わせているアメリアを交互に見て、エミリーは難しい顔をした。

38.

「……もうよい。勝手にするがいいのじゃ」

「姫様……」

「また会えるのであろ?だったら、もういいのじゃ。シェラがわらわに、二度も嘘を吐くとは思わぬ」

「……」

 姫さんは、皮肉で言ってる訳じゃない。

 逆に、困っているシェラを気遣っているように思えた。

 エミリーも、成長してるんだ。というか、俺達人間と行動を共にすることで、物事の捉え方が自然と変化しているのかも知れない。

 エミリーにとって、それが良いか悪いかは、まだ分からないが。

「はい……また、ゆっくり……」

 シェラは未練を残した瞳を伏せて、ぺこりと頭を下げた。

「……お休みなさい」

「うむ。お休みなのじゃ」

 とぼとぼと歩き去る途中で足を止めて、俺を振り返る。

「ヴァイスさんにも、色々事情があるのは分かりました。マグナさんとリィナさんにも、私からそう言ってみますから」

 エミリーとのやり取りで、何か思うところがあったのか、シェラはそんなことを言った。

「でも、あんまり期待しないでくださいね。それから、私もまだ、納得した訳じゃないです」

「ああ、分かってる。ごめんな。シェラにはいっつも、こんなことばっか頼んじまって」

「いえ……いいです。できることをやるしかないですもんね」

 肩を落としたシェラの後姿を見送りながら、俺は申し訳ない気分に襲われる。

 俺さえ一緒に来てなきゃ、姫さんとシェラは、もっと素直に再会を喜べた筈だもんな。

 いや、考えても仕方ねぇけどさ。

「……先に戻りましょう、姫さま?」

 アメリアが気遣わしげに声をかけても、エミリーはしばらく動かなかった。

 やがて、ぎゅっとつぐんでいた口を、大きく開く。

「やっぱり、全然分からん!!お主らの好きや嫌いは、わらわにはさっぱり分からぬのじゃ!!」

 スネた口調で言い捨てて走り去る姫さんの後を、アメリアが慌てて追いかける。

 ホントにな。

 俺にも、何がなんだかよく分かんねぇよ。

 こんな筈じゃなかったのに。

 あいつらとの再会は、こんな筈じゃなかったんだ。

 そりゃ、簡単に許してもらえるとは思ってなかったけどさ。

 それにしたって、もうちょっと、こう——

39.

「……私達も、戻らない?」

 エフィの口調は、平素とあまり変わらなかった。

 今の一連の出来事に対して、こいつは何を感じて、どう思ったんだろう。

 表情からは、上手く読み取れなかった。

 それでも、少なくとも俺は、エフィのことをロクに考えてやれてなかったよな。

「ああ、そうだな」

 ゆっくりとした歩調で、俺達は元来た道を引き返した。

 さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに、周囲はとても静かで、隣りを歩くエフィの足音がやけに大きく聞こえる。

 俺はもう少し、こいつのことを、ちゃんと考えてもいいのかも知れない。

 ぼんやりと、そう思った。

 だってさ、俺は別に、勇者としてのマグナに協力しようと思ってた訳じゃないんだ。

 マグナっていう、ひとりの女の子を支えてやりたかっただけで。

 その女の子がさ、言葉は悪ぃけど、もう他に男を作ってよろしくやってるんだったら、俺の出る幕なんてどこにも無いじゃねぇか。

 改めて、思い知る。

 俺が居た場所は、もうアルスに獲られちまって——

 あいつらの間に、俺が戻れる場所は、もう無いんだな。

 その考えは、足元の地面が崩れるみたいに、俺を不安な気持ちにさせた。

「ちょっと、どうしたの?大丈夫?」

 よろめいた俺を、エフィが支えた。

「ああ、うん、なんでもない。ごめんな——いや、眠くってさ。ついよろけちまったよ」

「そうね。私も、すっかり眠くなってしまったわ」

 エフィは口に手を当てて、少しわざとらしいあくびをした。

 俺は意識的に、こいつと向き合おうとしてなかったよな。

 もう、そうしてもいいんだ。

 別に、すぐにエフィとどうこうとか、そんな風に考えてる訳じゃなくて。

 エフィにしたって、本気で俺と深い仲になろうと思ってる訳じゃねぇんだしさ。

 けど、恋人ごっこのお相手に過ぎないとしても、せめて、もうちょいエフィが満足してくれるように振る舞ってもいいんだよな——

『ヴァイスさんは、何も分かってないです』

 さっきのシェラの台詞が、不意に頭の中でリフレインする。

 うん、まぁ——

 色々、分かってねぇんだろうな、とは思うんだけどさ。

 何が分かってないのかも、よく分かんねぇんだよ。

40.

「ヴァイスが、マグナって呼んでたあのひと……」

 隣りを歩くエフィが、ぽつりと呟いた。

 来る途中で見かけた、大きな赤い木組みの建造物を通り越した辺りだった。

「恋人なの?」

 冗談めかして、エフィは笑っていた。

 少しだけ、間が空いた。

「……ああ」

「やっぱりね」

 からかい混じりの苦笑。

「昔の、な」

 考える前に、そう言っていた。

「そう」

 短くいらえて、エフィが立ち止まる。

「なら、私は?」

 俺は、二、三歩遅れて足を止めた。

「あなたにとって、私はなに?」

 俺は、振り向かなかった。

 苦笑が、再び耳に届く。

「もちろん、婚約者に決まってるわよね」

 囁きが続ける。

「……嘘の、ね」

 俺は、聞こえなかった振りをした。

「ほら、早く戻って、もう寝ちまおうぜ。眠くて堪んねぇよ」

 俺が歩き出すと、エフィは遅れたままついて来た。

 タタラの家に着くまで、俺達の間に出来た距離は変わらなかった。

41.

 明けて翌日。

 朝から訪ねてきたサノオという知り合いと、タタラは暗い顔を突き合わせていた。

「そうか……スセリも生贄に……」

「ああ……近頃は、間がどんどん短こうなっとる……ほんに、このままでは子っこを産む女子が居のうなってしまう勢いじゃ」

 タタラよりも男前の顔立ちを悲痛に歪めて、サノオは溜息を吐いた。

 こいつも若いクセに、喋り方がやたらと古臭い。ここが島国で、アリアハンの衰退以降、外部からの影響を受け難かったのが関係してるんだろうか。

「すまんのぅ……オラが、もう少し早くこん人らば連れて戻っとれば……」

 それについては、ホントに申し訳ない。

 タタラの口振りは揶揄する風ではなかったが、俺は思わず心の中で頭を下げた。

「それで、次の生贄がヤヨイに決まったいうんは、ホンマなんか?」

 ぎりっ、とサノオが歯噛みする音が、俺のところまで届いた。

「ああ……もう今晩には、連れてかれてしまうじゃろ……」

 話の流れからすると、ヤヨイというのはサノオの恋人らしい。

「おまんが帰って来なんだでも、一か八かじゃ。オレがオロチめば倒してやっかいと思うとったじゃが……」

「止めておけ」

 横から口を出したのは、ファングだった。

 土壁に背中を預けて、腕組みをしながらサノオを見下ろす。

 ちなみに、タタラやサノオ、そして俺は、イロリとかいう——これは、なんて言うんだ?かまどと暖房の役割を兼ねてるんだと思うが、信じ難いことに部屋のど真ん中に焚き火をする場所があって、それを囲んで座っている。

 部屋が狭いこともあって、女連中は隣室に居るが、間仕切りが木枠と紙で出来た薄っぺらい引き戸だけなので、お互いに声が筒抜けだ。

 これって、夫婦が夜の営みをする時とか、どうするんだろうな。ガキが居たら丸聞こえだと思うんだが。

 昨夜は、隣室から響くファングの鼾にうなされながら、そんな余計な心配をしたりもした。

42.

「結果的に、俺達が間に合ったんだ。後は任せておけ」

「そいでも……そうじゃ、オレも一緒に連れてってくれ。オレにもなんぞ、手伝わせてくれろ」

「要らん。足手纏いだ」

「じゃけんど、凝っと待ってなどおれんのじゃ。オレの命を、どう使ってもらっても構わん。オトリやら盾くらいの役には立ってみせるじゃけ……」

「命を賭して構わんと言うなら、なぜさっさとオロチ退治に向かわなかった」

 淡々としたファングの問いかけに、サノオは唇を噛んだ。

「いや、責めている訳じゃない。それで当然だと言っているんだ。敵わんと分かっていながら立ち向かうのは、蛮勇でしかないからな」

 あれ?

「せっかく、これまで自重したんだ。今になって駄々をこね出したところで仕方なかろう。それに、貴様が死んでしまっては、たとえ助かったところで女が悲しむんじゃないのか?それが分からんとは言わせんぞ」

「むぅ……」

「分かったら、大人しく任せておけ。その為に、俺達は此処に来た」

 どうしたんだ、ファング。俺の時と違って、ずいぶん優しげな台詞をほざくじゃねぇか。

 俺なんか、出会って早々に負け犬とか罵られたのによ。

 フン。別に拗ねてねぇけどな。

「それよりも——」

 ファングは背中で勢いをつけて壁から身を離し、土間の方を見た。

「誰か来たようだぞ。複数……二人か。足音からして素人ではなさそうだが、心当たりはあるか」

「へぇ。いんや——」

 すぐに、俺にも重なり合った足音が近付いてくるのが聞こえた。

 タタラとサノオが、顔を見合わせる。

「まさか、ヒミコ様の——」

「じゃけんど、早過ぎやせんか——」

 二人が結論に達するより早く、足音は家の前に辿り着き、乱暴に叩かれた立てつけの悪い木戸がびりびりと震えた。

43.

 訪ねてきた二人の男は、この国を治めるヒミコの使いということだった。ファングの言葉を信じるならば、どうやら兵士ってトコだろう。

「そのケッタイなナリからして、まず間違いあるまい。お主ら、外からやって来た人間であるな?」

 ヒミコ様がお呼びだから、今すぐ馳せ参じろと、兵士の一方が居丈高に命じた。

「それにしても、外の連中は、皆そのように奇矯ないでたちをしておるのか?情けないのぅ」

 もう一方の兵士が、俺とファングをじろじろ見回してこき下ろす。

 まさか、ここの人間にケッタイなんぞと言われるとは思わなかったぜ。

 手前ぇらこそ、なんのつもりか、男のクセして伸ばした髪を両耳の辺りで結んでるじゃねぇか。そっちの方が、よっぽどおかしいっての。

 他所者は全員来るように言われたものの、どう見ても友好的な空気じゃない。

 女連中は置いていきたいところだったが、主にアメリアの立てた物音と声で、奥の部屋に居るのがあっさりバレちまった。

 まぁ、あいつらだけ留守番に残しても、それはそれで心配だしな。

 サノオとだけ別れて、素直に全員で向かうことにした。

44.

「ヒミコ様は外の人間がお嫌いじゃで、なんぞお咎めを受けるかも知れん」

 道すがら、タタラは青い顔をしてそう言った。

 お前な、そういうことは、先に教えとけよ。

「いや、わざわざお召しがあるとは……しかも、これほど早くとは、思うとらんかったんじゃ」

 それは、まぁ、分からなくもない。

 特にこそこそしてた訳でもねぇから、隣近所のヤツがご注進に及んだのかも知れねぇが、それにしても対応が早過ぎる気はする。俺達がこの地に辿り着いたのは、つい昨日の夕方で、今はまだ昼前なのだ。

「ヒミコ様は神通力をお持ちじゃで、オラ達のすることなど全てお見通しなのかも知れん」

 と、タタラは不気味なことを言った。

 俺のイメージでは、そういう得体の知れない真似が出来るのは、女王様じゃなくて鷲鼻の魔女の方がピッタリくるんだが。

 奇妙な女王に治められた国。風変わりな格好で、古臭い言葉を喋る住人。

 木と土で造られた見慣れない家々が建ち並ぶ風景は、どこか色味に欠いて見える。

 それら全てが相俟って、なんだか昔語りの世界に迷い込んじまったような錯覚を覚えた。

 こんな気分に陥ったのは、エルフの里以来だ。

 アメリアに背中を預けて歩いている姫さんは——どうでもいいが、二人とも歩き難そうだ——昨夜はさっさと寝ちまってたので、まだロクに話をしていない。

 マグナ達とのことを、後でちゃんと説明しておかねぇとな。

 姫さんにずっとスネた顔されてるのは、淋しいからさ。

45.

 昨晩見かけた、そこだけ鮮やかに色が浮き上がって見える赤い柱——トリイとか言うらしい——の先に、ヒミコが住んでいる屋敷があった。

 その大きさにも驚かされたが、よく見ると全てが木造りだと気付いて、二度びっくりする。

 よくもまぁ、こんなデカいモンを木だけで建てやがったな。

 縦はそこまでじゃないが、規模としては俺の知る石造りの城と、然したる遜色が無い。

 いわば王城ってトコだろうが、何本ものぶっとい木の柱で支えられた内部は、やはり薄っぺらい引き戸で間仕切りがされているだけで、城という表現は感覚的にそぐわない気がした。

 ともあれ、中に連れていかれた俺達は、とある一室に押し込められて、しばらく待つように告げられる。

 そして、そこには先客がいた。

「あれ!?ヴァイスくん!?」

 マグナ達だ。

 外から来た人間に用があるのなら、こいつらも呼び出されておかしくない。

 全く予想してなかった訳じゃないが、出来れば外れて欲しかったな。

 同時に呼ばれたってことは、こいつらがここに着いたのも、つい最近だろう。

「なんで——」

 普通に喋りかけたリィナは、はたと口をつぐんで、プイっと顔を背けた。

 シェラとエミリーの間でも会話が交わされかけたが、結局どちらも言葉を発しなかった。

 アメリアはぎゅっと姫さんを抱き抱え、エフィが後ろから俺の服を握る。

 マグナは——こちらを向こうともしなかった。

 ファングは特に驚きもせず、きょとんとしたタタラに「お知り合いかのぅ?」と聞かれて、「まぁな」などと頷いていた。

 き、気まずい。

 昨日の今日だけに、さすがに空気が重いです。

 誰も口を利かずに、無言のままねっとりと時が過ぎる。

 自分でもよく分からない焦燥感に駆られて、会話のきっかけを探していた俺は、シェラが申し訳無さそうに目くばせしているのに気が付いた。

 ああ、うん。

 説得してくれたけど、駄目だったんだな。

 気にすんな、というつもりで、俺は軽く片手を上げた。

 あいつにばっかり、苦労をかけらんねぇからな。

 そもそも、俺の問題なんだし。

 重苦しい空気の所為で長く感じたが、実際は大して待たされなかったと思う。

 やたらと髪の長い女が呼びに来て、俺達は気重い空気を淀ませたまま、ぞろぞろと連なってヒミコの前に通された。

46.

 通された筈なんだが、閑散とした室内に、ヒミコの姿は見当たらなかった。

 部屋の奥にすだれのような物が垂れていて、向こう側に灯された明かりが影を映し出している。

 その影が、ヒミコのようだった。

「へぇ」

「ほぅ」

 感心した風な呟きが、ほとんど同時に聞こえた。

 リィナとファングだ。

 二人の視線は、すだれの影ではなくこちら側、主人を護るように脇に佇む男に向けられている。

 割りと若い。俺より、少し上くらいか。

 見事な卵型をした顔に、鋭いツリ目が乗っている。

 外で見かけた住人とは異なり、頭頂部で結んだ髪を垂らしており——後で聞いた話では、チョンマゲと呼ばれているらしい——前で合わせて帯で留めるタイプの服を着流していた。

 腰には、やけに細身の剣を差している。刀身が反っているところは同じだが、アッサラームの盗賊共が手にしていた幅広のソレとも異なる、見たことのない剣だった。

 ファングとリィナが二人して注目するってことは、相当な手練れなんだろうな。

 そういう目で改めて見直すと、確かに独特の雰囲気を感じた。

 周囲の空気すら拒絶しているような、張りつめた緊張感を身に纏っている。おかしな真似をしたら、たちどころに斬って捨てられそうだ。

「よくぞ参った、とは申さぬぞえ。妾の許しなく、日出ずる我が国へ這入りし蛮族めら」

 不意に女の声が、すだれの向こうから、いんいんと反響して不気味に響いた。

 途端に、タタラが虫みたいに這いつくばって、へへぇと恐れ入りながら床に額を押し付ける。

 他には誰一人、控えもしなければ応じようともしなかった。

 お前らね、いちおう女王様の御前ですよ?

 全然、そんな感じがしねぇけど。

 しかたなく、俺が口を開く。

 自己紹介とか、した方がいいんだよな?

「えぇと、どうも。俺——私はですね、アリアハンから来た……」

「申さずともよいわ」

 あっさり遮られた。

47.

「汝等の名なぞ、とうに心得ておる。なれはヴァイスとか申すのであろう。ファングにアメリア、エミリー、ユーフィミア……やれ、言い難い。汝等はリィナにシェラ、マグナと申したか。揃いも揃って、珍妙な名前よの」

 うわ、なんだこいつ。

 なんで、俺達の名前を知ってやがんだ、気持ち悪ぃ。

 例の、摩訶不思議な神通力とかいうヤツか。

 俺が怖気をふるっていると、横からファングの苦笑が聞こえた。

 なんか知らんが、リィナもニヤニヤしている。

「妾の前にありて頭の高い蛮族めらに、端から礼儀なぞ期待しておらぬわ」

 ヒミコがそう言うと、迎えに来た髪の長い女が慌てふためいて俺達を座らせ、頭を下げろと小声で必死に繰り返した。

「構わぬと申したであろう。所詮は蛮族よ。もうよいから、下りやれ」

 ははぁ~と畏まって、女は座ったままずりずりと後退って部屋から出ていった。

「はて、全き欠けることなく連れて参れと申しつけた筈なれど……汝等はそれで、皆揃っておると、そう申すか」

「ええ。こっちは、これで全員よ」

 答えたのは、マグナだった。

 それではじめて、アルスの姿が無いことに気付く。

 さっきは空気が重くて、それどころじゃなかったとはいえ、うっかりし過ぎだな。

「こちらも、全員揃っている」

 俺より先に、ファングが答えた。

 すだれの向こうから、ヒミコが俺達をじろじろと眺め回している気配があった。

 こちら側からは影しか見えないが、向こうからは俺達が見えているのかも知れない。

「ほほ……まぁよいわ」

 ヒミコは、全てお見通しだぞ、というような、含みのある呟きを漏らした。

「して汝等、如何なる由ありて、日出ずる我が国を訪れしなりや。海を渡りて来し稀人まれびとは凶兆であるが故、妾は厭うておる。なんぞ申し開きあらば、さえずりやれ」

「俺達は、この国を脅かしているヤマタノオロチという魔物を退治する為に来た」

 今度も、答えたのはファングだった。

「ほほほ。これはまた途方も無き戯言よ……さては、そこな愚か者に唆されおったか。無知とは哀れなものよな」

 ヒミコの言葉に、タタラは小さくしていた身をさらに縮めた。

48.

「身の程を知るがよい。早々に立ち去るが汝等の身の為よ。妾は、慈悲の心から申しておる。あれな化生は、汝等の手におえる代物ではないわ」

「お言葉は聞いておく」

 ファングは短く、しれっと返した。

「所詮は蛮族、妾の慈悲は伝わらぬか……して、汝等も等しき由かえ?」

 ヒミコは、俺達とやや離れて座っているマグナ達に問いかけた。

「違うわよ。そんな、なんとかいう魔物の事なんて、知らないわ」

 マグナはつっけんどんに、そう答えた。

「ほぅ。然らば、如何なる由ありや?」

「オーブよ。あたし達は、この国にオーブがあるって聞いて来たの」

「オーブ、とな?」

 なんだ、それ。

 俺も、聞いたことが無い。

 分かってたけど——俺の知らないところで、あいつらが旅を続けている事実を、改めて突きつけられたような気がした。

「光る玉よ。どうせ、あんたが持ってるんでしょ?」

「……はて、面妖な。そのような物、妾はとんと存ぜぬが——」

「いいから、出しなさい。オーブさえ手に入れたら、お望み通りさっさと出ていってあげるわよ。それでなくたって、あたしはもう、こんなトコには一秒だって居たくないんだから」

 やっぱりそれは、俺の所為ですかね。

 無礼を通り越したマグナの言い草に、お付きの男が身構えたのが視界の端に見えた。

「ほほほ。よいよい、蛮族の女童の申すことよ。多少の狼藉なぞ、目を瞑りやれ」

 男は素直にヒミコの言葉に従い、腰の剣から手を離して、再び背筋を伸ばした。

「妾が存ぜぬは、我が国にあらぬということ。観念して、立ち去るがよい」

「いいわよ別に、勝手に探すから。邪魔だけはしないでよね」

「そうもいかぬ。稀人は凶兆と申したであろう。早々に日出ずる我が国より立ち退きやれ。汝等を参らせたは、それを申し渡さんが為よ」

「用が済んだらな」

 と、ファング。

「右に同じ。話は、それだけ?じゃ、失礼させてもらうから」

 マグナが、さっさと腰を上げる。

「ほほ、まっこと愚者とは度し難いものよな」

 ヒミコの声の調子が変わっていた。

「いずれ、妾の慈悲を知ることになろうぞ」

 奇妙にかすれた声は、不気味さを増して俺の背筋をぞっと舐めた。

49.

 ヒミコの元を辞した後も、俺達とマグナ達の間に会話は無かった。

 ミシミシと床板を踏み鳴らす音だけが、廊下に響く。

 出口が見えても、俺は会話の糸口すら掴めずにいた。

 だが、幸か不幸か、そのまますんなり別れる、ということにはならなかった。

 出口の手前で、俺達の行く手を阻んで、男が立ちはだかっていたからだ。

 どうやって先回りしたのか、それはさっきヒミコの脇に控えていたチョンマゲの男だった。

 既に、腰の物に手をかけている。

「ほぅ」

 進み出ようとしたファングを、リィナが手で制した。

「引っ込んでなよ。キミ、武器持ってきてないでしょ?っていうか、アレ、ボクのだから」

 舌舐めずりをするみたいな表情を浮かべていた。

「おい、勝手に決めるな」

「うるさいな。別に、キミでもいいんだよ?」

「なんだと?」

「キミから先に潰してもいいって言ってるの」

 ファングを見るリィナの目つきは、尋常じゃなかった。

 まるで、ニックを前にした時みたいな——ジツは、さっきヒミコのところに居た時から、そうだったのだ。

 爛々とした目をして、ずっとあの男の方を見詰めていた。

「面白くもない冗談だな。貴様、俺に勝てるつもりか」

「もちろん」

 あっさりと、リィナは頷いた。

「なんなら、今ここで証明してあげよっか?」

「……そこまでいくと、冗談に聞こえんな」

「だから、冗談じゃないってば」

 二人の間に、俺にも分かる、はっきりとした殺気が渦を巻いた。

 この馬鹿共——本気じゃねぇか。

『あのバカ、どっかおかしいんだよ』

 俺は、ティミの言葉を思い出す。

 なるほどな。昨夜も多少は感じたが、今のリィナは、確かにどっか普通じゃない気がする。

 ここまで見境なく好戦的なヤツじゃなかった筈だ。

50.

「いけません、坊ちゃま!!」

 アメリアがしがみつくようにして、慌ててファングを止めた。

「だから、坊ちゃまは止めろと——分かっている。安心しろ、アメリア。本気じゃない」

 嘘吐け。本気だったクセに。

 ともあれ、ファングの気を逸らしてくれて、助かったぜ、アメリア。

 この二人の対決は見てみたい気もするが、本気でやられても困るしな。

「ま、キミとはまた今度ね、坊ちゃま

 冷やかすように言い捨てて、リィナはチョンマゲ男に向き直った。

 らしいっちゃらしい言い草だけど、どうもやっぱり、なんか違和感があるな。

「それで、キミはなんの用かな?ヒミコサマに無礼を働いたボク達を、斬って捨てるつもりとか?」

「お屋形様に、危害を加えるのであれば」

 男は、変な喋り方をした。

 ややたどたどしく、そして抑揚がおかしい。

 俺達と同じ言葉を、生まれた時から話していればあり得ないような、ここの住人のものとも異なる、ひどく耳慣れない抑揚だった。

 一瞬、魔物が化けてるんじゃないかという疑念が脳裏を過ったが、あいつらの喋り方とも違うんだよな。

 そもそも気配が魔物っぽくないから、人間だとは思うんだが。

「フン」

 ファングが後ろを振り向いて、鼻を鳴らした。

 そちらに目を向けて、ぎょっとする。

 いつの間にやら、黒づくめの人影が三人、俺達の退路を断つように姿を現していた。

 リィナの道着にも似た形の黒一色の上下を纏い、目だけを残して頭巾とマスクで顔を覆っている。そして、三人が三人共、背負った剣に手をかけていた。

 待てまて、お前ら、どっから湧いて出た。

 天井の板が外れていることに気付く。

 そこから、音も無く跳び降りたってのか?

 なんなんだ、この国は。得体の知れねぇ連中ばっかじゃねぇか。

「だったら、危害を加えるってことにしよっかな」

 一方、リィナは挑発する気満々だった。

「マグナさん……」

「いいわ、放っときなさい。いつもの事でしょ」

 シェラとマグナの会話にも、そこはかとない違和感を覚える。

 つか、誰も止めないのかよ。

51.

「え~と、ちょっといいか?俺達は別に……」

「ヴァイスくん、黙って!」

 俺の口出しは、途中でリィナに遮られた。

 やれやれ、止まりそうにねぇな。

 まぁ、リィナのことだから、大丈夫だとは思うが。

 アメリアはファングに任しときゃ心配ねぇし、いちおうお嬢と姫さんにとばっちりがいかないように、気をつけておきますかね。

「なんなの……怖い、ヴァイス」

 しがみついてきたお嬢の手を、軽く叩いてやる。

 エミリーは、凝っとリィナの方を見詰めていた。

「抜かなくていいの、そのカタナ?」

 男は答えず、鞘に納めた剣——刀の柄に手をかけたまま、より深く腰を落とした。

「ふぅん」

 リィナはすたすたと、ある程度まで歩み寄ったところで足を止めた。

「あと二歩ってトコかな?」

 リィナが言った瞬間だった。

 両足の裏を床につけたまま、男が前方にズレたように見えた。

 鋭い擦過音。

「あっぶな……もうちょい近かったら、真っ二つだね」

 互いの距離を固定したまま、リィナの立ち位置は、さっきより後ろに退がっていた。

 男はくるりと刀を翻して、流れるような動作で鞘に納める。

 って——ちょっと待て!?

 お前、いつ抜いた!?

 結果からして、目にも止まらぬ速さで鞘から抜き放たれた斬撃を、リィナが辛うじて躱したらしいことは分かる。

 けど、俺にはまるで経過が見えなかったぞ!?

「まぁ、でも、もう間合いも分かったし」

 呑気らしく口にして、するりとリィナが前に出る。

 そんな無造作な。

 今度は、そのつもりで目を凝らしていたお陰で、なんとか視認できた。

 鞘走って閃いた斬撃は、また後ろに躱される。

「よっと」

 刀が律儀に鞘に納められた瞬間を狙って床を蹴り、リィナは足の裏で柄の頭を踏み押さえた。

 危うく刀を取り落しかけた男は、続くリィナの蹴りを寸でのところで躱して後ろに引く。

52.

「駄目。全然、足んない。おっかしいな、そんなんじゃないよね?」

 リィナは蹴り足を投げ出すように、くるっとその場で一回転して、気の抜けた声を出した。

 つまらなそうな口振りからして、わざと蹴りを外したようだ。

 なんかこいつ、また強くなってねぇか?

 男は、答えなかった。

 黙したまま、再び腰を落として刀に手をかける。

 所作こそ同じだが——今までより、空気がさらに鋭く張り詰めていく。

「うん、そうそう。本気出してよ」

 リィナはまた、ひょいと間合いを詰めた。

 抜き打たれた刀は、三度空を斬る。

 二度目と違うのは、躱した後に、リィナが前に出なかったことだ。

 キン、と鍔鳴りの音が響いた。

「秘剣、『隼』」

 男が淡々と呟いた直後——

 がくりと、リィナが膝をついた。

 よく見ると、手で押さえた道着の腹に血が滲んでいる。

 え——?

 斬られたのか!?

 俺には、躱したように見えたぞ!?

 二撃目より、むしろはっきりと。

「むぅ」

 腑に落ちないと言いたげな、ファングの唸り声が聞こえた。

 こいつにも、躱したように見えたんだ。てことは、俺の見間違いじゃないらしい。

 駄目だ、理解が及ばねぇ。

「警告した。死にたくなければ去ね」

 たどたどしく言って、男は構えを解いた。

 警告ってことは、最初から殺すつもりはなかったのか。

 それはつまり、本気になれば斬れたと言ってるも同然だ。

53.

 床板の上を滑るような妙な歩き方で、男はリィナの脇を抜ける。

「……やっと見つけた」

 腹を押さえて蹲ったまま、リィナが呟いた。

「キミには、ボクの踏み台になってもらうから」

 斬られてなお嬉しそうな声音が、俺をひどく不安にさせた。

 男は一瞬立ち止まりかけたが、特に何も言い返さずに、ヒミコの部屋の方へ戻っていった。

 そういえば、黒づくめ共の姿も、いつの間にか消えている。

 目で尋ねると、ファングはちらりと天井に視線を向けた。

 また音も無く、そこに消えたってのか。

 なんなんだ、ここは。

 アレか、びっくり屋敷か。

「もぅ……っ!!どうして無茶ばっかりするんですか、リィナさん……」

 リィナの傍らにしゃがんだシェラが、ホイミをかけていた。

「あはは。ごめんね、シェラちゃん、また心配かけちゃって。でも、ほら、浅く斬られただけで、見た目ほどヒドくないし——」

「そういうこと言ってるんじゃないです!!」

 シェラの声は涙交じりだったが、以前は無かった厳しさも感じさせた。

 リィナは、しゅんと項垂れる。

 やっぱりシェラの奴、随分しっかりしたみたいだな。

 苦労もしてそうだけどさ。

 だが、別れ際に向けられたシェラの瞳を見て、俺は少し考えを改めた。

 そこには、以前のような頼りなげな光が浮かんでいた。

 そして、マグナは結局、一度も俺を見ようとしなかった。

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