32. New Position

1.

 草木も眠る丑三つ時——

 とは使い古された表現だが、要するに誰も彼もが深い眠りに落ちてなきゃおかしい夜半過ぎ。

 こんな時間に他人の部屋を訪ねるヤツは、よっぽど特殊な用件でも無い限り、まずいない。

 だが、静かに——

 カーテンの隙間から薄っすらと差し込む星明りの元、蝶番の立てる微かな音すら憚って、ひどく慎重に、ゆっくりと俺の部屋の扉は開かれた。

 時ならぬ闖入者の目的は、果たして夜這いだろうか。

 蔭ながらひっそりと俺をお慕い申し上げていたメイドが、妄想でなく実在したとして。募る思いを抑えきれずに、とうとう人目を忍んで逢いに来たのだ。

 薄く開かれた扉から、するりと忍び込んだ人影は、既に夜目にも慣れているらしく、ベッドで微かに上下する毛布の元へと迷わずに歩み寄る。

 そして、毛布の中身が本当に眠っていることを確認するみたいに、しばらく凝っと息を殺して佇んだ。

 荒くなりがちな呼吸を、侵入者が無理に抑え込んでいるのが分かる。

 緊張しているのだ。

 どのくらい、そうしていただろう。

 やがて人影は、意を決したように懐をまさぐった。

 星明りを反射してきらめいたのは、小振りの剣——

 はいはい、分かってましたよ。夜這いな訳ねー。

 予定通りだ。残念ながら。

 大体、夜這いにしちゃ時間が遅すぎるもんな。前後不覚に鼾をかいてる相手に迫ったところで、寝惚けたオチが待ってるだけだ。

 叩いても起きないくらいに、相手がぐっすり寝込んでいた方が都合がいいのは、もうちょっと剣呑な用向きの場合だ。

 ぶるぶる震えながら振り上げられた短剣は、頂点で静止したまましばらく動きを止めていたが、やがて、その重さに耐え切れなくなったように振り下ろされた。

 刃に貫かれる寸前——

 いきなり毛布が跳ね上がり、懐剣を握った腕が、がしっと力強く受け止められる。

「ッ——ぐぅっ!?」

 あっという間に侵入者を組み伏せたファングは、部屋の隅っこで身を小さくして座り込んでいる俺を見た。

「お前の言う通りだったな」

「大したモンだろ?」

 投げやりに返してベッドに歩み寄った俺は、侵入者の顔を覗き込む。

 苦痛と屈辱に歪んだその顔は、俺の予想した通り——

2.

「——でも、あの時は、ホントにびっくりしちゃいました」

 妙に嬉しそうに、アメリアが言った。

「横で見てただけなのに、私までスゴくドキドキして、ぽ~っとしちゃいましたもん」

 離れの廊下で、ばったり出くわしたついでの立ち話だ。

「ああ、そう?」

 もういいじゃん、そのハナシは。と言わんばかりの俺のいい加減な相槌も、アメリアは気にした風が無い。

「はい、それはもうっ!とても真剣なお顔で、真っ直ぐにユーフィミアさんをお見詰めになって……スゴく、素敵でしたよ?ちょっと、憧れちゃいました」

 幾ばくか笑顔に混じったからかいの気分に、辛うじて救われる。

「あ、すみません、お引止めして——今から、そのお話をされに行くところなんですよね?」

 そのお話ってのは、当然アレだ。

『結婚しよう』

 俺がエフィに、そう言ってプロポーズした事件のコトだ。

 恋人役なんていい迷惑だってな態度を、ずっと崩さなかった俺に言われて、あの時はお嬢が一番呆気に取られてたな。

 まぁ、我ながら唐突だったとは思うけどさ。

『あなたは、今から私の恋人なんですからね』

 俺がお嬢に言われた時もいきなりだったから、これでお相子だよな。

「では、失礼します——ヴァイスさんが、これからどうされようとしてるのか、ジツは良く分かってないんですけど……頑張ってくださいね」

「ああ」

「ユーフィミアさんのお気持ちも、ちゃんと考えてあげないといけませんよ?」

 お姉さんみたいな口調で言い残して、頭を下げてすれ違う。いちおう、俺の方が年上なんですが。

 ホントは、どこまで分かってないんだかね、まったく。

 どうせこれから、ファングの世話でも焼きに行くんだろうな。ちぇっ、あの果報者め。

 離れを出て、屋敷へ向かう。

 相変わらず大時代的な雰囲気を醸し出している天井の高い廊下を抜けて、お嬢の部屋を訪ねると、控えの間からそばかす顔が覗いて俺を迎えた。

3.

「おはようございます、ヴァイス様。お嬢様が、先ほどからお待ちかねです」

「ああ、うん、おはよう——ちょっといいか?」

 早速、お嬢に取り次ごうとしたファムを呼び止める。

「はい、なんでしょう?——あ、先日は、お嬢様が危ないところをお守りいただいたそうで、ありがとうございました」

「いや……まぁ、別に」

 ジツは大した事をしてないので、言葉を濁して話題を変える。

「あのさ——あんたは、あのカイってのと幼馴染なんだろ?」

 ホントは、もうちょい当り障りの無い会話を交わして、気分をほぐしてから切り出そうと思ってたんだが、つい本題から入っちまった。

「はい?そうですけど?」

 ファムは細い目をきょとんとさせて、首を傾げる。

 メイドだから当然かも知れないが、化粧っけはまるでない。いや、そうじゃないメイドも、これまで割りと目にしてきたが——主に、アホの王様がいるお城とかで——耳の下辺りで短く切り揃えた黒髪といい、赤い頬っぺたに浮かぶそばかすといい、純朴な田舎娘そのものといった印象だ。

「えぇとだな……実際のトコロ、あいつはどんな人間なんだ?」

「どんな……と言われましても。立派な方ですけど」

 うん。そういう、判で押したような返事を聞きたい訳じゃないんだよね。

「あんたにゃ、見っとも無ぇトコ見られちまったから言うけどさ……」

 この前、カイと顔を合わせた際に、ファムはずっと傍らに居たので、やり取りの一部始終を見られている。

「俺とあいつは、言わばおじょ——エフィを取り合ってる恋敵ってヤツだろ?あいつの弱みを握りたいって訳じゃねぇけどさ、非の打ち所が無い立派な御仁が相手ってのも上手くない。だから、それこそ幼馴染しか知らねぇような、ヘンな話とか無いモンかと思ってね」

 こんな風に言えば、少しは口が軽くなるかと思ったんだが。

「いえ、私には分かりません」

 ファムは、あっさりそう答えた。

「いやいや、なんかあるだろ。完璧な人間なんて居やしねぇんだからさ」

「はぁ、そういうモノですか」

 なんだか、間の抜けた返事だ。

4.

「いやさ、あんたにしてみりゃ、ぽっと出のどこの誰とも分かんねぇ俺なんかより、幼馴染のあいつを庇いたい気持ちはよく分かるよ?けどさ、性格にしろなんにしろ、どっかに欠点の一つくらいはあるモンだろ。例えば、真面目過ぎて融通が利かなくて困る、とかでもいいからさ」

「いえ、それで私が困ったことはありませんから」

「だから、そういうこと言ってんじゃなくてさ……せめて、恥ずかしい失敗談とか無ぇのかよ。ガキの頃から、すぐソバで見てきたんだろ?」

「はい。昔から、よくしていただいてます」

 駄目だ、こりゃ。このままじゃ、無難な返答に終始されそうだ。

 ちょっと攻め方を変えてみますかね。

「……ははぁ。なるほどねぇ」

「はい?」

「いや、あんたさ——あのカイってのに惚れてんだろ?だから、あいつを悪く言いたくないってワケだ?」

 我ながら、かなり無茶言ってんな。

 しかし——

「はい」

「そりゃそうだよな。そんなご立派な男がすぐ近くにいたら、惚れねぇ方がどうかしてる——へっ?」

 煽り文句を続けるまでもなく、淡白に頷かれちまって、逆にこっちが拍子抜けする。

「えっと……ああ、そう。惚れてんだ?」

「はい」

 動揺を誘って口を滑らせようってな意図を、察知された風でもないんだけどな。どうも話が噛み合わない。

「それじゃ、複雑な気持ちだったんじゃねぇの?」

「と、言いますと」

「いや、だから。あんたはエフィの側仕えって立場なんだし、そのお嬢様とカイの結婚話が進んじまっちゃ、あんたの立つ瀬が無ぇっていうかさ——そうだ。俺を応援してくれれば、カイをエフィに取られなくて済むかも知れねぇんだぜ?」

「いえ。たとえ、あの方が誰か他の人間を好きになったとしても、私はあの方を嫌いになったりはしませんから」

「……ふぅん?」

「——ファム?さっきから誰と話しているの?もしかして、ヴァイスが来てるの?」

 奥の扉の向こうから、エフィの声が聞こえた。

「はい、お嬢様」

「え?ホントに来てるの?まぁ、ファムったら、なにをしているのよ?早く通しなさい」

「はい、申し訳ありません」

「あ——やっぱり、ちょっと待ってもらって!」

 奥からバタバタと忙しない音がした。

5.

 待たされている間に水を向けても、ファムは会話を続ける気が失せたようで、可もなく不可もない返事しか戻ってこなかった。

 ややあって、お嬢の部屋に通された俺は、ちょいと意表を突かれた。

 いや、ある意味イメージ通りなんだけどさ——ずいぶん、少女趣味でやんの。

 どれも金がかかっている事がひと目で知れる調度品が並んだ広い室内は、どこもかしこもお嬢が着ている服みたいにひらひらとしていた。

 ベッドの天蓋からひらひら垂れた薄絹越しに見えるのは、あれ、ぬいぐるみじゃねぇのか。

「ちょっと、人の部屋をじろじろ見ないでもらえる?失礼ね」

 しきりと髪を気にして撫でながら、お嬢はムッとした表情を浮かべた。多少の自覚はあるのか、照れ隠しのようにも見える。

 いやぁ、可愛くていいんじゃないですか。室内香が、ちょっと強過ぎる気もするけど——いや、いい匂いですよ、ホント。

 絵に描いたように女の子らしいエフィの部屋で、軽く打ち合わせを済ませて、一緒にラスキン卿の説得に向かう。

 説得ってのは、アレだ。

 なんとゆーか……だから、俺とお嬢の結婚のハナシだよ。

 昨日は、人攫い共をひっ捕らえたりなんだり、バタバタしてたからな。おおまかな意向だけは、お嬢に伝えてもらってあるんだが、改めてちゃんとした話を聞かせろと言われているのだ。

 父親であるラスキン卿にしてみりゃ、当たり前の要求だけどね。

 正直、気が進まねぇよ。

 胃が重い。

 けど、行かない訳にもいかないのだ。せめて、話の進め方を間違えないようにしないとな。

「あのファムってのは、昔っからあんな感じなのか?」

 放っておくと沈んでいく気分を紛らせようと、隣りを歩くお嬢に何気なく聞いてみた。

「どういう意味よ、あんな感じって?」

 お嬢の方には、まるで緊張とか無ぇみたいだ。むしろ、普段より明く見える。気楽なモンだね、まったく。

「いや、なんつーか……」

 いちおう友達らしいので、あんまり悪く言う訳にもいかず、返答に詰まっていると、お嬢は軽く溜息を吐いた。

「まぁ、言いたいことは分からなくもないわ。私も最近、あの子にちょっと距離を置かれてるのかなって気がしていたから……」

 無意識っぽい動作で、今日も見事な金髪を手櫛で梳く。

6.

「仕方ないとは思うのよ。私もあのコも、いつまでも子供のままじゃないのだし、もうお互いに自分の立場を否応無く意識してしまう年齢だわ。

 だから、あのコが使用人としての言動に務めようとするのは、理解できない訳ではないのよ。あの頃のようには……昔みたいに接することが出来ないのは、分かるのだけれど——」

 髪を梳く手を止めて、眉をひそめる。

「でも、やっぱり……」

 二、三度かぶりを振って、続く言葉を途中で呑み込んだ。

「ううん、いいわ。なんでもない」

 自分とカイの縁談を気にして、ファムは無理に距離を置いているのかも知れない。

 口にしかけた内容は、そんなトコロかね。ファムがカイに惚れてるってことは、お嬢にも分かってる筈だからな。

 ふぅん。

 俺には、エフィに伝えていないことがある。

 それを知ったら、お嬢は俺を止めるだろうか。

「ん?——なによ、人の顔を凝っと見て」

 軽く俺を睨み上げたかと思うと、お嬢はふふん、みたいに笑った。

「……惚れたの?」

 してやったりの顔で、いつかの俺と同じ台詞を吐く。

「かもな」

「——えっ!?」

 一瞬、うろたえたお嬢だったが、すぐに軽口で切り返された事に気付いて、悔しそうな顔をする。

 ちょっと、可愛いじゃねぇか。

 確かにな。最初に会った頃と比べりゃ、お嬢に対してわだかまりは無ぇけどさ。

 お互いに距離を置く感じも、薄らいではいると思うし。

 けど——

 絶対に、俺を信じてくれる。

 そう思うことは、やっぱり出来なかった。

 だから、実際にその時がくるまでは、内緒にしておこう。

 いきなり知らされる事になるお嬢には悪いけどさ、それを知ってるのは、俺の他にはファングだけなんだ。

 姫さんもアメリアも、まだ知らない。エミリーには理解できるように説明するのが大変だし、アメリアの場合はあいつのドジで話が漏れたりするのが心配だ。

 それぞれ理由は違うけど、お嬢にだけ秘密にしてる訳じゃないんだぜ。

 だから、まぁ、大目に見てくれよな。

7.

 ラスキン卿の元を尋ねると、急な来客があったとかで、申し訳ないが少し待って欲しいとお付きの人間に頭を下げられた。

 なんとなく予感が働いて、客の素性を尋ねると、案に違わずカイだった。

 こいつは、願ったり叶ったりだ。

 この機を逃す手はねぇよ。

 なんとか、今すぐ中に入れるようにゴリ押ししてくれとエフィに頼み込むと、流石はお屋敷のお嬢様、程なく入室が許可された。

 部屋に入る間際、エフィに耳打ちをする。

「頼む。本気で説得してくれ」

「ちょっとやだ、近い——え!?あなたがしてくれるんじゃないの?」

「うん、最後はちゃんと、俺が請け負うから。だから、エフィも自分で説得するつもりでいてくれよ、頼むから」

「なんで、私が自分で……」

「お前の口から言えば、カイに結婚を諦めてもらういい機会にもなるだろ?」

「……分かったわよ」

 口ごたえをしている暇が無かったのが幸いした。エフィは渋々顎を引く。

「やぁ、二人共、おはよう」

 鷹揚に俺達を迎えたラスキン卿に、朝の挨拶——もう昼近いが——を返して、こっちを睨みつけているカイの向かいのソファーに、エフィと並んで腰を下ろす。

「エフィから多少は聞いているが、それほど急ぐ話なのかね」

 前と同じメイド服が、ソツのない所作で紅茶を淹れてくれたが、今日はこの娘にかまけている余裕は無い。

「来客中にすいません。いや、そこのカイさんにも関係のある話かな、と思いましてね」

 俺は見せつけるように、膝の上でエフィの手を握ってみせた。

 びっくりして、握られた自分の手と俺の顔を見比べるエフィ。馬鹿、そんな驚いた顔すんじゃねぇよ。

 突き刺すようなカイの視線が、より鋭くなった。

8.

「ほぅ。君には既に充分驚かせてもらったが、この上まだ何かあるのかね?」

「事によれば」

 人攫い共を一網打尽にした件は、全て俺の手柄ということにしてあるのだ。

 これからする話に説得力を持たせる為には、その程度の実績じゃ足りないくらいだ。

 手柄の横取りになっちまうけど、そこはほれ、ファングは細かいことを気にしない馬鹿だから、あっさりと了承済みだ。

「ジツはですね——」

 そんな目で睨むなよ、カイ。

 手前ぇが居合わせたお陰で、予定してた段取りを急に変えなきゃいけなくなっちまったんだぜ。

 ああ、胃が痛ぇ。

 まさか、俺が女の父親に、こんなことを言う日が来るとはね。

 つか、俺なんかが言っても、笑われるだけなんじゃねぇの。

 説得力無ぇだろ、俺みたいなゴロツキまがいがさ——

『とても真剣なお顔で、真っ直ぐにユーフィミアさんをお見詰めになって……スゴく、素敵でしたよ?』

 ホントだな?

 信じたぜ、アメリア。

 俺は、可能な限り真剣な眼差しで、真っ直ぐにラスキン卿の目を見ながら口を開いた。

「お嬢さんと——エフィと、結婚させて欲しいんです」

9.

 ラスキン卿は、それまでの鷹揚な態度を一変させて、ぽかんと呆けた顔つきになった。

 あれ?話は通ってる筈だろ?

 想像以上に驚かれちまって、俺は慌てて横のエフィに顔を向ける。

「え——な、なぁに?」

 なぁに?じゃねぇだろ、このお嬢。

 何を呑気に赤くなってやがんだ。

 さてはお前、「大事なお話があります」とかなんとか、そんな風に伝えてただけだろ、これ?

「い、いや……なんともはや——」

「ふ、ふざけるなっ!!」

 なんとか気を取り直そうと苦労しているラスキン卿の呟きを、ソファーから立ち上がったカイの怒声が遮った。

「昨日今日ぽっと出てきた流れ者が、こともあろうにお嬢様と結婚だと!?馬鹿も休み休み言うがいい!身の程を知れッ!!」

 いや、あんたがそう仰る気持ちは、よく分かるんですがね。

「いいえ。失礼ですけど、貴方は勘違いをなさっておいでだわ」

 隣りから落ち着いたいらえが聞こえて、今度は俺がびっくりした。

「ヴァイスは今の貴方と同じように、自分は結婚相手として相応しくないと言って、一旦は身を引こうとしたのです。それを、私が無理を言って翻意させたのですわ。だって、私……本当に、彼を好きになってしまったのですもの」

 えらく感情の篭った、しみじみとした口調だった。

 願ってもない助け舟だが、やっぱ、女ってスゲェな。しれっと嘘を吐きやがる。

「私が人攫いの事件で心を痛めていたことは、貴方もよくご存知でしょう?貴方も、そしてお父様も、ずっと手をこまねいてらしたのに、ヴァイスは本当にあっという間に解決してしまって……はしたない言い方をしますけれど、私、心底から惚れ直してしまったのですわ」

「これは手厳しいね。そう言われては、私も形無しだ」

 ラスキン卿が、場を取り成すように苦笑した。

 カイは、二の句が継げずにわなわな震えている。

「ねぇ、お父様。私も、いきなり結婚だなんて、そこまで無茶を言うつもりはなかったんですのよ。けれど、この度の件で考えが変わりました。これほど頼りになる人は、どこを探したって他に居ませんもの」

 お嬢も言うね——うぅ、首の下が痒い。

10.

「お父様が、色々なことを——もちろん、私の事も——懸案なさって、そちらのカイ様との婚約をお進めになっていたのは、よく分かってます。けれど——」

 お嬢はちらりと俺を見てから、ラスキン卿に視線を移した。

「やっぱり、結婚となったら、自分の気持ちが一番大切なのだわ。それに気付かせてくれたのが、ヴァイスなんです」

「いや、それは……私もお前の気持ちを出来るだけ尊重してやりたいと、いつも思ってはいるがね——」

 困惑しきりのラスキン卿に皆まで言わせず、エフィは嬌声に近い声をあげる。

「でしょう!?お父様は、きっとそう仰って下さると思ってましたわ!」

「これ、待ちなさい——」

「あら、何かご心配でも?家柄についてなら、以前に申し上げた通り、ヴァイスには何も問題ありませんわ。まさか、エジンベア人ではないことを、気にしてらっしゃる訳ではありませんわよね?それでしたら、カイ様も同じですもの」

「それは、そうだが——」

「そう、思えばつまらないわだかまりですわ。一度好きになってしまえば、その人がどこの人であろうと、そんなことは関係ありませんもの。そんな下らないこだわりよりも、自分の気持ちが一番大切なのだわ」

「これこれ。そんな風に、はしたない事を言うものではないよ」

「ごめんあそばせ、お父様。けれど、それを抜きにしたって、私の夫としてヴァイスほど相応しい人もいないと思いますのよ?だって、そうでしょう?今の私達にとって、一番の問題はなんですの?常に魔物の存在に脅かされている事、そうではありませんの?」

「いや、それは、もちろん——」

「でしたら、やっぱり私の夫として、ヴァイスは一番相応しい人ですわ。だって、その魔物を退治することにかけては、ヴァイスは専門家なんですもの」

「うむ……」

「ですから、私とヴァイスの結婚を、今すぐにでも発表して欲しいんです——そう、叶うのなら、明日にでも!」

 お嬢は、無茶な事を言った。

11.

「い、いや、お前、それは……」

「いいえ、とりあえず婚約という形でも構いませんのよ。とにかく私、なんだか気持ちが急いてしまって、もう我慢が利かないんです」

 お嬢は、含み笑いを父親に向ける。

「一刻も早く、彼と夫婦になるのだと、皆に認めて欲しいのですわ。それに、ひと度公になってしまえば、お父様も気をお変えになりようがありませんもの」

 たとえ無茶でも、日を置かずに婚約の噂を流布させる事が肝心なんだ。

 お嬢には、そう言ってあったよ、確かにさ。

 けど、ここまで熱心に父親を説得してくれるとは思わなかった。

 いや、助かるけどね。

 やっとのことで、カイが横から口を出す。

「ば、馬鹿馬鹿しい。誰が納得するというのです、そのような話。そんな、どこの馬の骨とも知れない——」

「あら、そんな仰りようってありませんわ。彼は郷に戻れば、決して貴方に劣らない立場の人間ですのよ?それに彼は、皆を震え上がらせていた人攫いを、あっという間に捕らえてくれた人ですもの。きっと皆、彼に感謝して、私達の結婚を祝福してくれる筈ですわ」

「そ、そのように都合のいい話があるものか!まったく、お話になりませんな!す、少しは落ち着いてお考えになるがよろしい——」

「まぁまぁ。確かに娘は少々気が昂ぶって、周りが見えなくなっているようだが、君も少し落ち着きたまえ」

 ラスキン卿の取り成しに、「まぁ、ヒドいわ、お父様ったら」とか言いながら、お嬢は頬を膨らませる。

「いずれにしろ、ここはひとまず、時間を置いた方が良いだろう。君との話も含めてね」

「なるほど……私は、お邪魔のようですね」

「いや、待ちたまえ。そのようなつもりで言ったのではないよ——」

 カイが離席する気配を察した俺は、お嬢に目配せした。

 俺からは切り出し辛いから、お嬢に言ってもらうように、さっき頼んでおいたのだ。

12.

「そうだわ、お父様。ヴァイスは私の婚約者ですもの。いつまでも他の人達と一緒に、あの離れに置いておく訳にはまいりませんわ。いずれはこの屋敷で暮らしてもらうとしても、準備が整うまでは、ひとまず彼だけ別棟に移ってもらうのがよろしいのではなくて?」

「いや、お前も落ち着きなさい、エフィ。そう簡単に言うがね、人の手配もあることだし——」

「ああ、結構ですよ。警護に人を回してもらったりする必要はないです。なにしろ、人攫い共は全員捕らえた訳ですから、危険も無いと思いますしね」

 と、俺。

「それに、側付きが必要でしたら、ファムに頼みますわ。私の方はなんとでもなるのだし、それにヴァイスは私の大切な人ですもの。一番信頼の置けるあのコに世話をしてもらえば、私も安心ですわ」

 打ち合わせた時は「どういうつもりなの?」とか渋っていたお嬢だったが、しれっと言いやがるね。

「いや、待ちなさい。そういう事を言っているのではなくてだね——」

 困り果てたラスキン卿の隣りで、カイは荒々しく席を立った。

「どうやら、本当にお邪魔のようだ。私は、これで失礼します」

 止める間もなく、ずかずかと足音荒く退室する。

 気の抜けた顔でそれを見送って、ラスキン卿はソファーに深々と腰を埋めると、溜息を吐きながら額に手を当てた。

「やれやれ。一体どういうつもりなのかね、お前達は」

 疲れ果てた様子のラスキン卿には気の毒だが、本題はこれからだった。

 そして、ラスキン卿は、こちらの申し出を断わらないだろう。

 結果的に、その読みが当たったことで、俺はとある確信を深めていた。

13.

 当たり前だが、俺とエフィの結婚話は、全部嘘っぱちだ。

 全ては、裏で人攫い共を利用していた人間を焦らせて、罠にかけるのが目的だった。

 下呂助を脅して聞いた話によれば、そいつはゴロツキ共の前で顔を見せたことはなく、普段は代理の人間が指示を伝えていたらしい。

 とはいえ、捕まった連中からボロが出やしねぇかと、気が気じゃなかった筈だ。

 だからこそ、様子を確かめる為にラスキン卿を訪ねたのだ。

 そこに偶然居合わせたのは、運が良かった。最初は、屋敷で働く下働きの女連中辺りから、町中に噂が流れるように仕込もうかと思ってたんだが、お陰で俺とお嬢の結婚が決まりかけていることを直接伝えられた。

 噂に頼っちまうと、そいつがソレを信じるまでには、どうしたって時間がかかる。状況への対処を考える暇を与えない、という意味でも、あれは大きかった。

 お嬢の勢いをあんだけ目の前で見せ付けられりゃ、そんな馬鹿なハナシがあるものかと思っても、もし本当に成立してしまったらと考えざるを得ない。

 今すぐに、なんとかしないと、取り返しのつかないことになる。

 お嬢との結婚を目論んでいたそいつに、少しでもそう思わせたら、こっちの勝ちだ。

 どこかに引っ掛かりを感じたとしても、今までの苦労を無駄にしない為にも、なんらかの手を打ってくる可能性は高い。

 だが、手を打とうにも、手駒は既に全員とっ捕まっている。

 改めて人を雇っている余裕も無い。

 ならば、どうする。

 自分でやるしかねぇだろ。

 そいつが取り得る手段で、最も効果的かつ一番手っ取り早いのは、俺という存在を消しちまうことだ。

 俺さえ居なくなれば、エフィとの結婚もへったくれも無いからな。

 つまり、暗殺だ。

 夜中に忍び込んで、ぶっ殺す。

 真っ先に自分が疑われるだろうが、証拠さえ残さなければ、なんとでも言い逃れはできる。流れ者がひとり殺されたくらい、すぐにほとぼりも冷める筈だ。そんな風に考えてくれれば、しめたモンだ。

 しかも、上手い具合に、無防備な別棟に移されることや、手引きしてくれそうな人間の存在まで、ご丁寧にほのめかされているのだ。

 出来るだけ考える時間を削って焦らせ、精神的に追い詰めた上で、やってやれないことはないと思えるだけの逃げ道を用意して誘導する。

 但し、その逃げ道の先に待ち受けているのは、俺と入れ替わったファングってな寸法だ。

 果たして、そいつはまんまと罠に嵌ったのだった。

14.

「貴方だったの——!?」

 後ろ手に縛られて、不貞腐れた顔で床に座り込んでいるそいつを見るなり、エフィは驚きの声をあげた。

 眠い目を擦りつつ駆けつけたのかと思いきや、後で聞いたら気になって眠れずに、ずっと起きていたそうだ。

 同時に呼びに行かせたラスキン卿も、エフィの背後で目を丸くしている。

「なんで……ヴァイスの話では、襲ってくるのは人攫いの黒幕の筈でしょう?なのに……どうして?」

 二人には——というか、ファング以外には、誰だか分からないがまだ黒幕が居るから、そいつを燻り出すという言い方をして、スットボけておいたのだ。

 とはいえ、ちょっと頭を働かせれば分かりそうなモンだけどね。

 まるで予想してなかった顔つきを見るに、やっぱり伏せておいて正解だったな。あらかじめ教えてたら、そんな筈は無いと反対されていたかも知れない。

 この土地の人間にとって、そいつは人攫い共の黒幕である筈がないヤツなのだ。

 そいつとは——もちろん、カイの事だった。

 いつまでも入り口で目を剥かれてても仕方ないので、ともあれエフィとラスキン卿を中に招き入れる。

 ちなみに、最初から隣の部屋に身を隠していた姫さんとアメリアは、既にベッドの上で仲良くぺたんと腰を下ろしている。

 どちらも事の次第がよく分かっていない顔つきだ。カイが何者かってことすらロクに知らない筈だから、無理もねぇけどな。

 ということで、今、この部屋にいるのは、俺とファング、それから捕まったカイ、姫さんとアメリア、俺の側付きを言いつけられていたファム、そしてエフィにラスキン卿の八人だった。

 いくら詰問しても、カイが俯いたままむっつりと押し黙っているので、痺れを切らしたエフィは俺を睨みつけた。

「これは一体、どういうことなの?説明してちょうだい」

「私も是非、聞かせて欲しいものだね」

 ラスキン卿にも重ねて言われて、俺は頭を掻く。

 やれやれ。ここでカイが、自分の企みについてぺらぺらと独白でもはじめてくれれば、俺としては楽なんだけどな。残念ながら、その気は無いらしい。

15.

 説明はお前の仕事だとばかりに、ファングは悠長に腕なんか組んでるし、アメリアはきょとんとしていて、姫さんはいつになく大人しい。

 いや、助け船を期待して、あいつらを見回した訳じゃないけどさ。

 なんにしろ、ここでもカイを捕らえたのはファングな訳だし、俺も少しはいいトコ見せておかないとね。

 面倒臭ぇけど、はじめますか。

「へいへい……ジツのところ、俺の考えはほとんど状況証拠から成り立ってるんでね。まぁ、いわゆる当て推量ってヤツだから、なんか間違ったトコがあったら、指摘してくれていいぜ」

 うな垂れたままのカイに向かって前置きしてから、話の組み立てを考えつつ口を開く。

「さて——さっきエフィが言った通り、人攫い共の黒幕は、このカイだった訳なんだけど……」

「だから、どうしてよ!?だって、彼は攫われそうになったコを助けた事だってあるし、それだけじゃなくて、町の皆の為に人を集めて捕まえようとしてたのよ?」

 と、エフィ。

 まぁ、待て。ただでさえ、どっから説明したモンか悩んでんだから、あんまり横から嘴を挟まないでいただけると助かります。

「うん、まぁ、そうなんだけどさ……それは、全部そいつのお芝居だったっていうか——」

「お芝居!?なんで!?何が目的で、そんなことするのよ!?」

「それは……アレだよ」

「アレ?って、何よ?」

 全然、順番に説明できねぇ。

 まぁ、いいか。

 お前は反論する気が無ぇみたいだから、俺が想像で説明しちまうぞ?

 それでいいんだな、カイさんよ?

「まぁ、なんつーか……あんたらエジンベア人から、この土地の人間の元に支配権を取り戻すのが、そいつの目的だったんだよ」

 パン屋のおばちゃんが言ってたろ、そういう考えの連中が居なくは無いってさ。

「は——?え?意味が分からないわ。どうして、そうなるの?」

 お嬢はまるで呑み込めていない顔つきだったが、ラスキン卿は察しがついたようで、「むぅ」と重々しい唸り声を上げた。

「そんじゃ……言い直してやるよ」

 危ね。「馬鹿にも分かるように」とか枕をつけそうになっちまった。どっかの誰かじゃあるまいし。

「カイの目的はな、エフィ。お前と結婚することだったんだ」

「はぁ……?」

 なにを今さら、みたいに、エフィは気の抜けた返事をした。

16.

「よく思い出してみろよ。お前とカイの結婚話が持ち上がったきっかけをさ」

「……あなた、さっきから何回も、あんたとかお前とか呼ばないでもらえる?」

 お嬢は憮然と俺を睨みつけた。

 そんなこと、今はどうでもいいだろうが。

「いいから、思い出してみろ。町で攫われかけた娘をカイが助けて、そんで礼を言う為に屋敷に呼んだのがきっかけだったんだろ?」

「そうだけど……え?ちょっと待ってよ!?」

「そういうことだ。裏で人攫い共と通じてれば、かどわかしの現場に『偶然』居合わせて、それを未然に防いでみせるくらい、朝飯前だろ?」

「だから……お芝居って?」

 にわかには信じられないのか、エフィは口に手を当てて、少し考え込んだ。

「……それは、本当の事なの?」

「いや、さっきも言った通り、俺の想像だけどね」

「想像って……!!」

「けど、そう考えるのが、なんつーか、一番自然なんだ。こいつがまんまと罠に掛かってとっ捕まってるのが、俺の想像が当たりだって状況証拠にはなるだろ」

「それは、そうかも知れないけど……」

 なんだ?

 思ったより、エフィはカイが犯人だってことを信じたくないみたいに見える。

「まぁ、黒幕って言い方はしたけどさ、それはカイが人攫いを指示してたって意味じゃなくて、実際は事件の発生の方が先だった筈なんだ。そうだろ?」

 話を振っても、カイは反応しなかった。

「なんで俺にそれが分かるのかっていうと、とっ捕まったゴロツキ共の事、俺は知ってるんだよね。あいつらバハラタの辺りで、元から人攫いを働いてた連中なんだよ」

「あ——」

 そういえば、とエフィは口の中で呟いた。バハラタで、グプタに聞いた話を覚えていたらしい。

「連中の親玉は、どっかに雲隠れしちまったみたいだけどさ。そいつらが場所を移して、同じことを繰り返してただけだと思うね、最初はさ。そもそも、カイの目的と人攫いってのは全然別の話で、こいつは単に領主一家に近付く為に、人攫い共に接触して利用しただけだと思うぜ」

 果たして、それは自分の意志だったのか——いや、先走るな。順番に行こうぜ。慎重にな。

17.

「まぁ、悪くない手じゃねぇのかな。元々、町では人攫いの事件を解決できない領主サマに対する不満が燻ってたみたいだし、そこにきて演じてみせた活躍だ。

 領主サマすら手をこまねいてるゴロツキ共に、一泡吹かせるとは大したモンだ、みたいな名声は得られるし、こいつを英雄扱いする空気が広まりゃ、領主サマとしても放っておく訳にもいかねぇだろ。無視したら、蔭で何言われるか分かったモンじゃねぇしさ。

 カイにしてみりゃ、遠からず目通りが叶う算段は立った筈だし、実際に呼ばれて目論見通りにお近づきになれたって訳だ」

 一石二鳥ってトコかね。

「フルってるのが、誠実ぶって領主一家に取り入ろうとするその裏で、ジツは人攫い共を囲ってる事を誤魔化す為に拵えた理由だよな。『人攫いを捕らえる為に、人を集めてる』ってんだから、傑作じゃねぇか」

 討伐の音頭を取ってるヤツがパトロンで、集めた人間は捕らえるべき人攫い共ときてる。そりゃ捕まるわけねぇわな。思ったより、知恵が回るじゃねぇかよ——

「なにが傑作なのよ!?」

 顔を顰めたエフィの叫び声で、はたと気付いた。

「……悪ぃ。不謹慎だった」

 ちょっとした皮肉のつもりだったんだが、実際に人が攫われてるんだもんな。誘拐自体はカイから出た指示じゃなかったとしても、目を瞑って利用してりゃ同罪だ。

 まぁ、でも、お前はここまで上手くやったと思うぜ、カイさんよ。

 実際にエフィとの縁談がまとまりそうなトコまで持ってきて、言わば穏便に支配権を取り戻そうとしてたんだ、滅茶苦茶非道な悪党って訳でもない。

 ある程度の名声を得たとはいえ、ラスキン家だってそれなりの尊敬を集めてるんだから、実力行使に踏み切らなかったのは、どちらに民衆が傾くか測りかねていた部分があったからなのかも知れねぇけどさ。

 ただ、異国の地に置き去りにされた他所者が、いつまでも支配権を握ってるのは不自然だとする考え自体は、土地の人間としちゃ割りと普通の感覚に思える。

 荒事に発展させることなく、エジンベア人達をも無理なく土地に同化させ得るカイとお嬢の結婚は、ここいらの連中にとっちゃ、むしろ「いい事」なんじゃねぇかと思えるくらいだ。

18.

 ただ、ファング辺りに感想を求めたら、多分こう言うぜ。

 やり方が姑息過ぎる、ってな。

 あと——

 それが、エフィにとっても「いい事」とは限らない。

 俺はさ、大勢の人間の世話を焼くような立場に居たことねぇからさ、やっぱり、自分に関わりのあるヤツの気持ちを優先しちまうんだよ。

 お嬢が全然知らないヤツだったら、見過ごしてたかも知れねぇけど——悪ぃね。

 という内心まで、全部口にした訳じゃないが、俺の話に納得しつつあるエフィの表情は、どんどん翳っていった。

「そう……そうなのね……」

 ちょっと迂闊だったかも知れない。

 カイが自分と結婚したかったのは、領主の座だけが目的だった。

 別に、自分を好きだった訳じゃないんだ。

 エフィにしてみれば、そんな気持ちに襲われても不思議じゃない。

 落ち込んだ顔を見るまで、その事に気付けなかった。

 ちらりとこちらを向いたエフィの瞳には、ひどく寂しげな色が浮かんでいて、少し胸が痛んだ。

 だって、結局のところ、俺も大して変わらないのだ。カイを罠にかける為に、エフィを利用しただけなんだから。

 どいつもこいつもフリばっかりで、自分を本当に好いてくれる人なんていないんだ。

 そんな風に、エフィが考えなきゃいいんだけどな。

 お前は、違うんだ。

 そんなことねぇからさ。町でも人気者だっただろ?

「……そんな訳で、カイは順調にコトを運んでたんだけどさ。そこに突然、俺っていう邪魔者が現れた訳だ。まさかカイも、良家のお嬢様がアリアハンまですっ飛んで、いきなりそこから恋人を連れてくるなんて、予想もしてなかっただろうからな。ずいぶん慌てたと思うよ」

 冗談めかして言っても、エフィはくすりともしなかった。

19.

「俺としては、その焦りにつけ込みたかったんだよね」

 ケダモノ兄弟とグエンの奴も予定外の要素には違いないが、あいつらは向こうに付いたからな。

 グエンの野郎は、お嬢をルーラでアリアハンまで連れ出した張本人な訳だから、もちろんエフィを取り巻く事情を、おおよそ知っていたのだ。

 だから、俺達の目的地は容易に想像がついた筈だし、先回りをして人攫い共と手を組んで、準備万端待ち受けることも出来た。

 また、お嬢が俺に惚れてるって芝居を抜きにしても、カイにとって俺達は目障りな存在になる可能性があった。事実、ファングは町に着くなり、早速人攫い退治に乗り出した訳だしさ。

 その邪魔者を排除してくれるってんだから、勝手にやらせて利用しようとカイが考えても、特に不思議じゃない。

 どっかの底が抜けた馬鹿のお蔭で、それは失敗に終わった訳だが。

 結果、手駒は全員捕らえられ、新たに誰かを雇っている余裕もなく、自分で動かざるを得ない状況に立たされたカイは、まんまと俺の張った罠にかかったのだ。

 そこまで説明して、俺はカイに念を押す。

「もう一度聞いておくけど、なんか反論はあるか?」

 カイは、ゆるゆると顔を上げて、力の無い目で俺を見上げた。

「……私は充分、用心していたんだ。連中の前では顔を見せなかったのに……奴等から、私の名前が出ることは無かった筈だ」

「うん、代わりに人をやって指示を与えてたそうだな。俺も、連中から直接あんたの名前を聞いた訳じゃねぇよ」

「なら、何故分かったんだ!?」

「そうね……たまたまじゃねぇの?」

 謙遜してる訳じゃなくて。

 この一年余りで俺が見聞きしたのと同じだけの事前情報を得ていれば、誰でも想像に難くなかったと思うね。

 この先の事まで含めてな。

「タッ、タマタマだとッ!?」

「いや、まぁ……他所から来た分、冷静に物事を見れたってことじゃねぇのかな」

 フォローしてやったのに、カイは余計に悔しそうな顔をした。

「くそっ……お前みたいな流れ者に……貴様さえ、横からしゃしゃり出てこなければ……」

 その台詞は、ホントはファングに言ってやるべきだと思うけどね。

「そうだな。俺達さえ来なきゃ、あんたは多分、目的を果たせたかもな」

 間を置くフリをして、少し深呼吸をする。

20.

「あんたは、結構上手くやったと思うよ。けどさ——」

 こっからが、本番だ。

「上手く事が運び過ぎた。そう思ったことはねぇか?」

 わずかに、カイの眉根が寄った。

「人攫いのチンピラ共を、堂々と町中まで引っ張り込んで、それでホントにバレねぇと思ったかよ?悪ぃけど、領主サマの手下が揃ってそこまで無能揃いだなんて、俺には思えねぇな」

「え——?何を言ってるの、ヴァイス?」

 何かを感じ取ったのか、エフィが囁いた。

「俺が説明したようなことってさ、ホントにあんたが全部、自分で考えたことなのか?」

「……何を言っている?」

 カイも、エフィと同じ言葉を繰り返す。

「自覚はナシか……」

 かと言って、自我が無いようにも見えねぇとは、思ったより厄介だな。

「そんじゃ、まるで誰かに、あらかじめ自分の選ぶべき道を用意されてるみたいだ、と疑ったことは?……無ぇか。それに気付くくらいなら、こうして俺の罠にハマってねぇよな」

「どういう……ことだ?」

「いやね。手前ぇが他人を利用してるつもりで、あんたも誰かに利用されてたんじゃないかってハナシ」

 うわ、居心地悪ぃ。

 みんなして、きょとんとした顔で俺を見るんじゃねぇよ。

「そうだ、ファング——お前には、覚えがあるだろ?これと似たような手口にさ?姿を隠して裏から操る、みたいな……ほれ、イシスとかで」

「いや、知らん」

 あっさり否定すんじゃねぇよ。

 お前、ちゃんと話を聞いてたか?

 立ったまま寝てたんじゃねぇだろうな?

「まぁ、いいや……俺が言ってること、あなたなら分かるんじゃないですかね、ラスキン卿?」

「えっ!?わ、私かね?」

 お前ら、いきなり先生に指名された出来の悪い生徒じゃないんだからさ、いちいちびっくりすんなよな。

 なんか、独りで浮いたことを言ってる気分になってきたぜ、畜生。

21.

「ちょっと、ヴァイス!?あなたまさか、お父様が本当の黒幕だった、なんて言うつもりじゃないでしょうね?」

 エフィが、俺を睨みつける。

 いや、そうなんだけど。

 少なくとも、なんらかの形で関わってる筈なんだ。じゃないと、事が上手く運び過ぎてる。

 カイの計画がバレても、ラスキン卿は知らんフリして切り捨てるだけで傷つかない。痛くも痒くもない立ち位置にいるのが、却ってアヤシイ……とか思ってるんですが。

 ラスキン卿の驚きは、芝居には見えなかった。

 返事に窮していると、さらにエフィに詰め寄られる。

「本当にそうなの!?どうして、そんな馬鹿なことを思ったのよ!?目的は何!?お父様が人攫いに協力して、なんの得があるっていうの!?」

 おかしいな。ここは、俺がキメる場面の筈だったんだが。

 ああ、もうしょうがねぇ。

 ちょっと自信が揺らいでるけど、当初の予定通り——

「ああ——ッ……うん、目的ね……」

 そちらに目を向けて、一瞬絶句した。

 やっぱりだ。

 途中はどうあれ、最終的なトコロでは、俺は間違ってなかった。

「それは……あんたが説明してくれるんだよな?」

「は?」

 怪訝な顔をしたエフィが、俺の視線を追い——

 俺に集まっていた注目が、そちらに移動して——

 その場に居たほぼ全員が、同時に息を呑んだ。

22.

「キャハハハハハハハハ」

 女の哄笑が、室内に響き渡る。

「ファング!!」

 俺が言うより早く、ファングはアメリアと姫さんを庇って位置を変えていた。

「こっちへ!!」

 俺はお嬢の腕をひっ掴んで抱き寄せ、ラスキン卿に声をかける。

「キャハッキャハハハハハハハハハハハハハハッ」

 ひとりしき響いた耳障りな哄笑は、はじまった時と同様に、ぴたりと唐突に止んだ。

「アァ、面白かったァ——アレ?これッて、面白い、でイイんデショ?だよネ?」

 声は、ついさっきまでファムが居た場所から聞こえていた。

 だが——

 そこに、ファムは居ない。

 見知らぬ女が、奇妙に人を不快にさせる笑みを湛えながら、覗き込むようにして俺を見詰めていた。

 見かけ上の年齢は、ファムと同じくらいだろうか。だが、容姿はまるで違う。

 ゆるく波打った艶やかな黒髪は、明らかにファムよりも長かった。

 その顔つきも、似ても似つかない。純朴さを演出していたそばかすは、透けるような白い肌のどこにも浮いておらず、どちらかというと平坦だった目鼻立ちも、彫りの深い派手な印象に変貌している。

 そして、女の出現と入れ替わりに、ファムの姿はどこにも見えなかった。

 部屋の扉は、さっきからずっと閉じられたまま、一度も開いていないのに。

 つまり——

「なに?なんなの……誰なのよ?」

 うわ言のようなエフィのつぶやきが、背中に聞こえた。

 俺が応えるより先に、紅をひいたように赤く濡れた唇が蠢く。

「ネェネェ、アナタがヴァイス君なんデショ?だよネ——?」

 黒い線で縁取ったみたいにくっきりとした、睫毛の長い大きな瞳が俺を覗き込む。

 焦点が合っていないような、妙に人を不安にさせる視線。

「惜ッしい、ケド、ザァンネン。アナタ、考え過ぎィ~」

 クスクス笑う。

「そのヒトには、都合の悪いコトに目を瞑ってモラッタけどサァ、それダケなのに、キャハッ、おッかシィの」

 女はラスキン卿を指差しながら、そう言った。

23.

「ケド、チョット面白い。ネェネェ、ドウしてアタシの正体が分カッたの?」

「しょ、正体って?」

 俺の服の背中を、エフィは強く握り締めていた。

「魔物か」

 ファングが呟いた。

「キャハッ、今サラ何言ッテんの、アンタ達!?コイツらアッタマ悪いヨ?ニッブいよネェ、ヴァイス君?」

 俺に同意を求めんな。

「な、なんなのよ……気味が悪い。あなた、どこから出てきたのよ!?」

 エフィは、俺の服を引いた。

「ううん、そんなことより……ねぇ、ファムは?ファムはどこに行ったの、ヴァイス?」

 エフィの口調には、ある種の予感が含まれていた。

「……あいつが、化けてたんだ。ファムに」

「——そんな事って……」

 予感が的中したのだろう。言葉とは裏腹に、エフィの声音には得心の気配があった。いや、信じられないが、そうとしか思えない、といったところか。

「本物のファムは、どうした?」

 ファムに化けていた女——魔物は、ひどくつまらなそうな素振りを見せた。

「ドウデモいいデショ、そんなコト。ソレより、ネェネェ、聞カせてヨ?」

「こっちの質問に答えるのが先だ」

「フゥン?」

 あれ、なんだ?

 声が震えないようにするのに一苦労だ。

 急に部屋が狭くなった気がする。

 息苦しい。

 ニックとの戦いの時に感じた殺気とは違う、もっとねばりつくような不気味な気配——名付けるならば、妖気。

 目の前の魔物が振り撒いているソレが、圧力となって全身を襲う。

 見た目より、強力な魔物なのか。

「んッ……はッ」

 喉が痙攣したようなエフィの呼吸を、背中越しに聞いた。

 うまく息を吸ったり吐いたり出来ないことに混乱している気配が、握られた服越しに伝わる。

 ファングは——流石に、平然としてやがんな。

 馬鹿が自信満々なら、アメリアが不安を抱く筈もない。

 お?姫さんまで、臆した様子もなく、気丈に魔物を睨みつけてるじゃねぇか。

 やれやれ、頼もしい連中だね——知らず気圧されかけていた俺は、平静を取り戻した。

24.

「ドォしたッけナァ……ナンチャッテ。ヴァイス君には、分カッてるんデショ?」

 人攫い共に売っ払われた他の被害者と、同じ運命を辿ったってのか。

 エフィの手前、口に出すのを躊躇っていると、魔物はまた甲高い笑声をあげた。

「キャハハッ、まァた考え過ぎてるデショ?ザァンネン、今度もハッズれェ。今ゴロは、自分の部屋でノンキに寝てる筈だヨ。アタシがズット化けてた訳じゃァなくッて、タマに入れ替わったりシテタからネェ」

「なんだと?——なんでだ?」

 いや、本物のファムが無事なら、それに越したことはないんだけどさ。

「分カッテるクセにィ。ジッケンだヨ、ジッケン」

 実験——その言葉は、妙に腑に落ちた。

「ソレより、ネェネェ、聞かせてヨ。アタシはサァ、上手く化ケてたツモリだったんだケド?ファムってコの記憶も覗イテ、頭もちょっとイジってサァ、入れ替ワッテも、ソコのアッタマ悪い女ハ、全ッ然気付かナカッたんダヨ?ナノニ、ナンでヴァイス君には分カッたの?」

「いや、なに。この件に魔物が絡んでることは、ハナから分かってたんでね」

「ヘェ——?」

「だってよ、あの人攫い共がバハラタの辺りを荒らしてた時から、連中のお得意様は、あんたら魔物だったんだろ?」

 ロマリアでアホの王様の頼みを聞いて、『金の冠』の奪還に向かった際に初めて遭遇した頃から、カンダタ共は既に魔物とツルんでいた。

 そして、ポルトガで出会った、まるで魔物の——そう。実験材料として使われたみたいな、昼夜で入れ違いに動物に変化してしまう男女の件。

 目的はどうあれ、魔物の中には人間を理解しようとしている連中がいるんじゃないか。

 そんな俺の疑念は、イシスで再開を果たした、あの黒マントの魔物によって——彼我の絶望的な隔絶を痛感させられたのと同時に、何故か——もたらされたものだった。

『野郎でもオイボレでも、ガキや女と同じカネで買ってくださる、そりゃぁ太っ腹なお大尽がいなさるんでよぉ』

 だから、バハラタ近くの寺院跡で下呂助がそう言った時に、ピンときたのだ。

 そしてここでも、連中の上得意が魔物だったことは、この前、同じ下呂助を脅して確認してあった。

25.

「カイとの連絡を仲介してたのは、男好きのする若い女だって、一味の一人が言ってたぜ。俺の考えだと、それはファムがする筈の役回りなんだけどさ——」

 お嬢と一緒になんとかいう島国から来たってヤツに会いに行く道すがら、ファムとばったり出くわしたことを思い出す。あの時も、俺達の動きを連中に伝えてたんだと思う。

「けど、ファムはどう見たって、『男好きのする』なんて形容が思い浮かぶタイプじゃねぇ。だから、こりゃあどっかで絡んでる筈の魔物が化けてんのかね、と当たりをつけてたんだよ」

 尤も、俺は下呂助の意見にゃ頷けねぇけどな。

 目の前の魔物は、確かに美人で艶っぽいと言えなくもないんだが——どうも、不自然なんだ。

 人間の仕草の外面だけを正確になぞってるというか、こういう感情を他人に向かって表現したい時は、このように表情を形作るんだ、というのを知識としてお勉強しただけというか、外見と中身が一致していないというか。

 精巧に作られた操り人形か、はたまた動く死体か——ともあれ、躰の持ち主ではない他の誰かが動かしている、そんな風に感じさせる不気味な違和感。

 おそらく本人は、これでも大真面目に「人間らしく」振る舞っているつもりなのだ。

 だが、そうであるほど、違和感はより一層くっきりと浮かび上がっちまうみたいに思えた。

「エッ!?理由ってマサカ、ソレだけなの?」

 魔物は、少し大袈裟なくらいに目を剥いてみせた。

 ファムに化けていた時よりも、今の方がひとつひとつの仕草は自然に映るのに、より強い違和感を覚えるのは何故だろう。

 多分——他人の真似をすることは出来ても、自分自身を人間としてどう表現していいのか、分からないのだ。

 そりゃそうだ。人間じゃねぇんだから。

「まぁな。悪いかよ」

 実際は、確信していた訳じゃない。

 俺に迷いを捨てさせたのは——

『いえ。たとえ、カイ様が誰か他の人間を好きになったとしても、私はあの方を嫌いになったりはしませんから』

 どこかで耳にしたような、あの台詞だった。

「ひとつ、忠告しといてやるよ」

 まるきり当てずっぽうだったと思われてもシャクなので——いや、まぁ、そうなんだけど——俺は、つい口を滑らせた。

26.

「ン?なにカシラ?」

「あんた、自分で思ってるより化けるのヘタだから、気をつけた方がいいぜ?」

 言葉の意味が分からなかったように、少し間を置いてから、魔物はニィッと紅唇の両端を吊り上げた。

「ンフッ……いいヨ、ヴァイス君。サスガ、お父サマが顔を覚えたニンゲンだよネ……」

 舌がちろりと唇を舐める。

 ヤバい、喰われる。

 そんな思いが一瞬脳裏を過ぎったが、魔物はしなりと片手を前に差し出して、誘うように自分に向かって指を折り曲げただけだった。

「折角、お勉強に来たッてユウのにサァ、アレもコレもカンタンに上手く行き過ぎちゃッテ、ニンゲンってアッタマ悪いのバッカなのかと思ッちゃうトコだったヨ」

 ふらり、とカイが立ち上がった。

「デモ、アタシ、ソンナに化けるのヘタかなァ?」

 魂が抜けたみたいなカイの足取りは、ひどくゆっくりとしていて、誰かに何か危害を加えるような動きではなかった。

「ソンナこと無いデショ?」

 ファングと目配せを交し合うだけで、ついつい口も手も出しかねている内に、カイは魔物の元に辿り着いてしまう。

 魔物の指がカイの戒めにかかったかと思うと、いとも簡単に解けていた。

 爪で縄を切ったのか?

「ンフッ……」

 艶然とはこういうものだ、みたいな微笑みをこちらに向けて、魔物はカイの首に両手を回す。

「ジャァさァ……コレなら、アタシ、ニンゲンっぽく見えるデショ?」

 紅い舌がカイの顎を這い、唇に吸い込まれた。

 くちゃっくちゃっと、舌が絡み合う音がする。

「アハァ……ンッ……」

 室内は、異様な雰囲気だった。

 蕩けるような魔物の吐息の熱さと、呆気に取られた俺達の間に出来た温度差が凄い。

 唐突に眼前で繰り広げられた卑猥な光景から、唖然として目を離すのを忘れていた。

「アメリア、キスじゃ!キスしておるぞ!?」

 妙に嬉しがってる風なひそひそ声が、横から聞こえた。

 ベットにぺたんと尻を乗せて、後ろから姫さんを抱き締めているアメリアの膝が、ぱしぱしと叩かれる。

 キスという行為を知っていることを得意がってるみたいなエミリーの様子に、思わず噴き出しそうになった。

 いや、姫さん。ここは、そういう反応を示す場面じゃねぇだろ。

27.

「ハァッ……ネェ……もっとォ……」

 いつの間にやら、カイは後ろから魔物を抱きかかえていた。

 魔物は顔を後ろに向けて、カイの唇を貪り続けている。

 ブラウスのボタンを外した魔物がカイの手を握り、自分の胸へと誘う。

 カイの逆の手がスカートをたくし上げ、丸見えになった小さな下着の奥へと滑り込む。

 背後から嬲られる格好で、魔物は自らも胸を揉みしだき、もう一方の手でカイの股間をまさぐった。

 むぅ。やっぱり、目が離せん。

 だって、ファムに化けてた魔物が身に着けてるのは、いまだにメイド服のままなんだぜ。

 どちらかというと清楚な印象を抱かせる服装と、喘ぎながら魔物が見せる痴態の隔たりが、淫靡な空気をことさらに強調してるっつーか。

「んァッ……キモチイイョオ……」

 猫が鳴くように、魔物が嬌声をあげた。

 カイが弄っている下着の中から、くちゅくちゅと音が溢れ出す。

 これは、いかん。

 姫さんの教育上、よくねぇな。

 俺は、二、三度頭を振って、すごい頑張って目を逸らした。

 いいか、姫さん。本物の人間の女は、こんなにすぐ、あんなに音がするほど濡れねぇんだからな?

「ファング」

「……ああ」

 少し遅れて返事があった。

 ファングは急に我に返ったように、びくっと俺を振り返る。

「なんだ?」

 おやおや?

「……何をニヤニヤしている」

「いやぁ?べっつにぃ?」

 憮然とした表情で、ファングは俺を睨みつけた。

 怒ってみせても、顔が赤いぜ、ファング?

 いやぁ、お前も男なんだねぇ。

 なんか知らんが、ちょっとホッとしたよ。

28.

「ンフッ……ネェネェ……アタシ、ニンゲンみたいデショ?」

 媚態を見せつけながら、魔物が色っぽい声を出した。

 今や、服の前は完全にはだけて、しっとりと吸い付くような肌をカイの手が這い、柔らかそうな胸が揉まれる都度に形を変えている。

「アハァッ……アソコ、オッキクなっちゃったデショ?」

 魔物は後ろ手にカイのソレを触りながら、ねっとりとした視線で俺とファングを見比べる。

 うむ。否定はしねぇよ。俺はな。

「まぁな——」

 服の背中が引っ張られて、「いやらしい」とかいう呟きが聞こえた。

 いや、違くて。

「さっきは、ああ言ったけどさ。確かに、ここまで人間っぽい魔物には、はじめてお目にかかったよ」

「ンッ……アハァ……デショ?……ダッテ、アタシ、第三世代ってヤツだモン」

「第三世代?」

「よくシラナイ……ネェ、ソレヨリ、アナタ達もシテ欲しいデショ?」

 ゴクリ……うわっ、だから、背中を引っ張るんじゃねぇよ。

 また、横から姫さんのひそひそ声が聞こえる。

「アレは、何を『する』と言っておるのじゃ、アメリア?」

「えっと……それは、ですね……」

「アメリア!!姫に余計なことを教えんでいい!」

「は、はいぃっ!!」

 真っ赤な顔をしてモジモジしつつも、魔物とカイの絡みをマジマジと見詰めていたアメリアは、ファングに怒鳴られてびくんと背筋を伸ばした。

 顔を覆った片手の指の隙間から、やはりしげしげと覗いていたエフィも、同時にわたわたと慌てて視線を逸らす。

 いや、もう遅いから。

 カイから奪った短剣を握り締めて、ファングが一歩足を踏み出した。

「ンンッ……ハァ——ナァニ?最初は、アナタから?」

「黙れ。そのふざけた真似を、今すぐ止めろ」

「ヴァイス君も、一緒でイイヨ……タクサンされるの、スゴい好キ……アハァッ……キモチイイから……」

「……素っ首落としてやる」

 ちょっとからかわれたくらいでムキになるとは、案外可愛いな。

 ファングがもう一歩踏み出すと、魔物はするりとカイの背後に隠れた。

「ヤァン。アタシ、乱暴なのキライ。助けてェ、カイ」

 どん、とカイの背中を、ファング目掛けて突き飛ばす。

29.

「む——?」

 カイにしがみつかれたファングが、一瞬動きを止めた。

 どう見ても肉体派じゃないカイが、ファングの馬鹿力に拮抗している——ように見えたが、それはホンの僅かな間だけだった。

「すまんな」

 すぐにあっさりと、カイは床に投げ捨てられる。

 だが、それで充分だったのだ。

「ちっ!!」

 すかさず振るわれたファングの短剣は、間に合わない。

「きゃぁっ!!」

 悲鳴をあげたのは、エフィだった。

 一瞬の隙をついて、魔物が手足を使って異常な速さで足元の床を這い抜けたからだ。

 続いて、ガシャンと窓硝子の割れる音が響く。

 え——?

 逃げんのかよ!?

「何をやっている、ヴァイス!!」

 ファングの怒声が響く。

 悪い。ぼんやり見てたわ。俺、すげぇ役立たずだな。

 窓の縁に足をかけて、魔物は振り返った。

 メイド服のスカートがめくり上がって、また中が見えそうだ——いや、そうじゃなくて。

「ファングとか言ったネ?ヨクモ、アタシの顔に傷ツケテくれたジャナイ……」

 魔物の頬が切れて、そこから血が流れていた。

 白い肌と赤い血の見事な対比に、妙にドキッとさせられる。

「アタシ、殺サレるの大ッ嫌イ」

 シィッ、という威嚇音のような音が、魔物の喉から漏れた。

 ファングを睨む目には、強い光。

 それまでの、どこか借り物のようだった感情表現とは違って見えた。

「ソレに、女ノ顔に傷ツケルのは、トッテモイケナイコトなんデショ?許セナイ……アンタのコトも、覚エテおくヨ」

 長い舌が紅唇からぬるりと這い出して、己の血をゆっくりと舐め上げた。

「ダカラ、ヴァイス君も、アタシのコト、覚えててネ」

 どういう理屈だ。

 造作はどう見ても人間なのに、ひどく非人間的な笑みを俺に向けたまま、魔物は窓から外に身を乗り出した。

「アタシ、名前がツイテるんだヨ?スッゴいデショ?」

 にんまりと笑う。

「アタシの名前、ニュズって言ウの。今度は、アナタにもバレないヨウニ上手くバケてみせルから、楽シミにしててネ」

 鋭く空気を切り裂いて、短剣が室内の明かりを照り返して軌跡を描いた。

 ファングが魔物目掛けて投げつけたのだ。

 危ねぇな、この野郎。

 だが、わずかに早く細身の姿は夜の闇へと消え失せ、軌跡は虚空を貫いた。

30.

 気絶したカイを人を呼んで運ばせると、なんだか一気に疲れに襲われた。

 というか、気が抜けたのかね、こりゃ。

「君には、礼を言わねばならんのかな?」

 ラスキン卿が、いまだに困惑した口調で、俺に話し掛けてきた。

 あの魔物は、都合の悪いことに目を瞑ってもらっただけ、とか言ってたな。見た限りでは、その自覚すら無いらしい。俺の考えがとんだ勇み足で、ラスキン卿は黒幕の一人なんかじゃなかったとしたら、混乱するのも無理はない。

 正直、いきなり魔物なんぞに出て来られて、何がなんだか分からなかっただろう。

 こっちこそ失礼な勘違いをしてまして、とかしどろもどろに返してから、改めて自分の考えを説明しようとしたんだが、どうにも上手く頭が働かなかった。

 さっきのニュズとかいう魔物がもたらした動揺が、俺にもまだ残っているらしい。

 だから、要領を得ない俺の話しっぷりを見かねたラスキン卿が、もう夜も遅いし、詳しい事はまた明日にしようと提案してくれたのは、有り難かった。

 エフィは、ラスキン卿と一緒に本邸に戻らなかった。

 ずっと黙りこくって、いまだに俺の服の裾を握り締めている。

 また怖がらせちまったかね。俺でさえ、ちょっとビビったくらいだもんな。

 と思ったんだが、どちらかというとスネた顔つきだ。

「えっと……大丈夫か?」

「私はね。なによ……あんな、気味の悪い……いやらしい」

 ごにょごにょと口の中で呟く。

 何を言っとるんだ、こいつは。

 疲れているので、無視することにする。

「部屋に戻らないのか?ずっと起きてたんじゃ、もう眠いだろ」

 もう一度声をかけると、じろりと睨まれた。

「……ヴァイスが、部屋まで送ってちょうだい」

「へ?」

「聞こえたでしょ?」

 睨まれたまま、苦労して微笑みかける。

「ああ、うん。喜んで」

「そ。じゃ、行きましょ」

 ふっと険のとれた顔で応じると、エフィは俺の服を握ったまま扉に向かって歩き出した。

 引き摺られながら、ちょっと送ってくると姫さんに言い置いて、一緒に部屋を出る。

31.

「あ——ちょっといい?」

 道すがら、エフィはずっと黙りこくっていたが、途中でようやく口を開いて俺に尋ねた。

 返事を待たずに服を引っ張って、屋敷の中でも足を踏み入れたことの無い方へと俺を連れて行く。

 多分、使用人の部屋が並んでいる一角なんだろう。とある扉の前でひとつ深呼吸をして、俺の服を握り締めたまま、エフィは恐る恐る押し開いた。

 中を覗き込むと、狭い室内のベッドの上で、見覚えのある顔が寝息を立てていた。

 ほぅ、と安堵の溜息を吐くエフィ。

 魔物の言葉に偽りはなく、ファムは無事なようだった。と言っても、魔物に操られてた訳だから、しばらくは監視をつけて様子を見る必要があると思うけどな。

 まぁ、その魔物は既に逃げちまったことだし、とりあえず今はいいか。

「行きましょ」

 静かに扉を閉じたエフィに、また服を引っ張られて歩き出す。

 次にエフィが口を開いたのは、自分の部屋まであと少しというところまで来た時だった。

「……ねぇ」

「ん?」

「もしかして……あなたには、はじめから全部分かってたの?」

 はい?

「最初から、全部分かってたから……初対面のカイにも、あんな失礼な態度で接してたの?」

 いや、そんな訳ねー。俺は神様か何かかよ。

 あの時は、単にムシャクシャしてたから——

「……まぁな」

 やっちまった。

 なんで俺はこう、見栄を張っちまうのかね。

 いや、だってさ。ホントのところは、ほとんどがファングの手柄な訳ですよ。それなのに、折角過大評価してくれてんだからさ、その尻馬に乗らねぇ手はねぇっていうか、そういう事にでもしておかねぇと、俺って何もしてないことになっちまうっていうか——

「そうなんだ……凄いね」

 エフィは囁くように、そっと呟いた。

 何かの皮肉だったら心も痛まないんだが、この声音はそうじゃねぇな。

 あんまり感心しないでくれよ。

32.

「お父様よりも先に、私こそお礼を言わなくてはいけないわね。あなたが、あの魔物の正体を見抜いてくれなかったら、大変なことになっていたかも知れないんでしょう?」

 まぁ、そうなるのかな。

 エフィの気持ちを別にすれば、カイとの結婚はそれほど無茶な話じゃなかったと、今でも思ってはいるけどさ、それが魔物の主導だってのは、流石にマズいだろう。

 それにしても、聞き出す前に逃げられちまったが、あの魔物は目的はなんだったんだ?

 まさか、本当にニンゲンのお勉強が目的だったってのかね。

「本当は、私が最初から、お父様にはっきりと気持ちを伝えてお断りするべきだったんだわ。それを代わりに、ヴァイスに解決してもらったようなものだものね」

 エフィは立ち止まって、小さく溜息を吐いた。

「でも……何故だか、言えなかったのよ。私の立場を考えれば、この土地の人と婚姻関係を結ぶのは、悪い話ではなかったわ。だからこそ、お父様もご検討なさっていたのだし……私だって、そのくらいは分かっているのよ?」

「うん」

「でも……今回の縁談で、はじめて自分の気持ちに気付いたって話、したでしょ?」

 自分の子供にも、自分と同じ髪や目の色でいて欲しいってアレか。

「お断りするにしても、理由を尋ねられて、そう答える自信が無かったのよ。だって……お父様は、きっと私の気持ちを分かってくださるから。だからこそ……ね。私達が、偏見を持っていると認めてしまう気がして、嫌だったのよ」

 なんと答えていいか分からずに、俺は「そっか」とか適当な相槌を打っていた。

「でもね……」

「うん?」

「なんだか、今になってみると、ずいぶんつまらないことに拘っていたんだなって、そんな気もするの」

 エフィの声は、少し明るくなった。

「そうじゃないのよ。私が嫌だったのは、そういう事じゃなかったんだって」

 伏目がちだった瞳が、俺を見上げた。

「あなた、言ったでしょ?重要なのは、相手の事を好きかどうかだって。それが最初だって」

 マズい。

 そんなに深く考えて言った台詞じゃないんだが。

 思いがけずに、自分の言葉が相手に重く受け止められちまって、冷や汗をかいている俺の内心とは裏腹に、エフィの顔には控えめな笑みがこぼれていた。

33.

「その通りなんだと思うわ。私は結局、自分が好きでもない人と結婚するのが嫌だっただけなのよ。でも、自分の立場を考えると、それは悪い話ではなくて……だから、自分が納得できるような、もっともらしい理由を、自分で考え出してしまっただけなんだわ」

 ちょっと、照れたような素振りを見せる。

「だって、これでもね……私も、女の子ですもの。す、好きな人との、その……す、素敵な恋愛に、憧れたっていいでしょう?」

「あ、ああ、うん。なんも、悪くねぇよ」

「でしょう!?私……大好きな人とだったら……お父様の前で言ったことは、その場凌ぎの嘘じゃなくて、私の本心だったんだわ。自分の気持ちが、一番大切なのよ。それに気付かせてくれたことにも、本当に感謝しているの」

 困ったな。

 そんな大層なつもりじゃなかったのに。

 けど、今まで立場を慮って自分の気持ちを抑えていた反動と若さが相俟って暴走してるだけだ、なんて言えねぇしな。

 最後にきゅっと俺の服を握ったエフィの手が、するりと離れた。

「ありがとう……ヴァイス」

 殊勝なことを言って、可愛らしくはにかむ。

 俺は——視線が泳がないようにするだけで、精一杯だった。

 ひどく居心地が悪いんだが、ずっとツンケンされていたエフィに素直に礼を言われて、悪い気がしない自分がいるのも分かって、それが俺を余計に落ち着かない気分にさせる。

「送ってくれて、ありがとう。ここでいいわ」

 なんとも反応できない俺に、エフィはそう言った。

「おやすみなさい」

「ああ——おやすみ」

 思いの外あっさりと歩き出したエフィは、二、三歩進んだところで、くるりと振り向いた。

「そうだわ」

「ん?」

「……お休みのキスでもする?」

「へっ!?」

 迂闊にも、呆気に取られちまった。

 エフィは、今度こそしてやったり、という笑顔を浮かべた。

「嘘よ。冗談に決まってるでしょ。ふざけないで。誰が、あなたなんかと」

 ふふっと笑って、背中を向ける。

「それじゃ、また明日」

「ああ、うん……また明日」

 エフィはもう振り返ることなく、自分の部屋に入っていった。

 それを見送ってからも、俺はしばらく阿呆みたいに立ち尽くしていた。

 なんだか、惨敗した気分だった。

34.

 欠伸をしながら扉を開けると、エミリーは既にベッドで丸くなっていた。

 さっきカイを引っ掛ける為に使った部屋ではなく、昨日まで寝泊りしていた元の部屋だ。

 静かに毛布の裾を上げて隣りに潜り込むと、姫さんが身じろぎをした。

「……あやつは大事なかったか、ヴァイス?」

「あれ、起きてたのか。うん、まぁ、心配ねぇだろ」

「……そうか」

 いらえは、かなり眠そうだった。もう明け方近いもんな。

「そういや姫さん、今日はずいぶん大人しかったな」

 いつもみたいに、もっとなんだかんだと嘴を突っ込んでくるかと思ってたんだが。

「……じゃって、話がよく分からなかったのじゃ」

「ん?ああ、そっか」

「いや、話の内容は、ちゃんと分かったのじゃぞ?」

 瞼を懸命に持ち上げて、俺を見上げる。

「馬鹿にするでない。お主らが喋っておった言葉の意味くらい、ちゃんと分かったのじゃ……じゃが、なんと言うのじゃ?あやつがケッコンしたくない理由もよく分からぬし、そもそもなんで好きな者同士でない者をケッコンさせようとするのかも、よく分からぬ」

 欠伸を噛み殺す。

「……掟によってケッコンが許されぬ、というのなら、まだ分かるのじゃがな。それとは、まるで逆であろ」

「……まぁな」

「人間の好きや嫌いを理解する良い機会じゃと思っておったのじゃが……分からぬ上に分からぬりくつを重ねられて、なんだかさっぱり分からなかったのじゃ。さっきアメリアに尋ねても、どうにも要領を得ぬしな」

 ああ、そうなんだ。

「なんというか……ひどく離れた場所から芝居を見せられておるようで、口を出そうにも、まるで現実味が無くてな——」

 姫さんは、急に顔を顰めた。

「じゃが、あの魔物は別じゃぞ!?わらわも、近くで魔物を見たことは何度もあるが、アレは特別イヤな感じがしたのじゃ。わらわは、あやつは嫌いじゃ」

「うん。俺も、もう会いたくねぇなぁ」

「……じゃが、お主には、また会いにくるようなことを言っておったぞ?」

 揶揄する口調だった。

 止めてくれ。願い下げだね。

 これ以上、厄介事を抱えたくねぇよ。

35.

「……お主も、早く寝るがよい。わらわは、もう眠いのじゃ」

「ああ、悪ぃ。おやすみ」

「うむ。おやすみ」

 再びもぞもぞと丸くなった姫さんに倣って俺も目を閉じたが、眠いのに何故だか寝つけなかった。

 こんな時には、止めようと思っても、勝手に思考を弄んじまうのが、俺の悪い癖だ。

 やっぱり、アイツラとは違うんだよな。

 ふいに、そんな文句が頭に浮かぶ。

 すっかり忘れかけていた感覚だが。

 ファングやアメリア、そしてエフィと行動を伴にして、俺は思い出していた。

 コイツラは、いいよな。

 ぼんやりと、そんなことを考えている。

 コイツラは、世の中に逆らっていない。

 世の中にちゃんと立ち位置があって——少なくとも、コイツラの考え方や行動は、周りから後ろ指をさされるような代物じゃない。

 ファングはもちろんのこと、エフィだって、ちゃんと自分の家柄や立場に誇りを持っていて——それはエフィの生きている世間においては肯定されるものだ。

 お嬢様として慕われてるし、その立場をエフィは嫌ったりしていない。

 いや、もちろんさ。生きてりゃ世の中の理不尽に出くわすこともあるだろうし、コイツラだって、それを不満に思う場面もあるだろう。今回のエフィみたいにな。

 けど、そうじゃなくて、もっと根っ子の部分っていうか——

 きっと、コイツラが自ら望んで歩む道は、世の中に邪魔をされない。

 向いている方向が、おおよそで一致しているというか。

 コイツラにとって、世間や常識は敵対するものじゃなく、だからこそ、自分の一番根っ子の土台の部分を、世界中から否定されるみたいな、ひとりぼっちの気分を味わうことも、きっと無いんだ。

 わざわざ自分を否定することもない。

 そういうのって、無意識の安心感があると思うんだ。

 それは、皆と同じだから、という安心感とは少し意味が違っていて——特にファングなんて嫌でも目立っちまうヤツだし、周囲に埋没するようなヤツじゃねぇから、それはそれで、あいつなりの苦労もあるとは思うんだけどな。

 ただ、なんていうか。

 世界と自分の、どっちが間違っているのかなんて、馬鹿げたことを疑う必要がない。

 けど——

 アイツラは、そうじゃない。

 シェラはもちろん、リィナだって——

 そして、あいつも——

36.

 俺か?

 俺は——何も無い。

 世間がよしとすることを、そのまま素直に受け入れるのはシャクだが、かと言って面と向かって逆らう根性も無い。それに取って代わるような、自分を支えるべきものも、何ひとつ自分のうちに築けていない。

 何も無い、がらんどうの、薄っぺらい、単なるへそ曲がり。

 それが、俺だ。

 簡単に言や、つまはじき者だよ。

 まぁ、でも、だからこそ、さ。

 せめて、俺みたいな人間くらいは、アイツラの味方になってやりたいじゃねぇか。

 俺はぼんやりと、そんなことを考えていた。

「なぁ、エミリー」

「……む~?」

 寝言みたいな返事が聞こえた。

「次の仕事が終わったら、一緒にあいつらを——」

 俺は気付かれないように、そっと唾を呑み込んだ。

「——マグナ達を、探しにいくか?」

 久し振りに口にした名前は、予想以上に俺の気持ちを波立てた。

 だが、悪い気分じゃない。

「……本当じゃな?」

「ああ。本気だぜ」

「……よかったのじゃ……頑張ったのじゃな、ヴァイス……わらわも……うれし……」

 頑張った?って、どういう意味だ。

「約束……じゃぞ……」

 もぐもぐと口を動かして、それが姫さんの限界だった。

 もう、すっかり眠っちまってる。

 この調子だと、夢と区別がついてないかもな。

 まぁ、いいか。

 綺麗な銀髪を撫でながら、俺も妙に嬉しかった。

「ああ。約束だ」

 今度は、目を瞑れば、すぐに眠れそうだった。

37.

 そして、今——

 俺達は、例の厄介事をエフィの元に運んで来た男に連れられて、とある島国に足を踏み入れている。

 ジパングとか言うらしい。

 俺達がエフィの故郷を出発したのは、あれから半月ほども経ってからだった。

 まぁ、色々あってさ。

 事件の後始末もあったし、それを終えてからも、なんだかんだあったんだよ。

 暇を持て余したファングの馬鹿は、近辺の魔物掃除を手伝うとか言い出すしさ。

 それに、島国に辿り着くには当然のこと海を越える必要があって、それにも時間を喰われちまったし。

 そんなこんなで、あれから結局ひと月余りが経過していた。

「ねぇ、ほら、ヴァイス。見てよ、あの大きな赤い柱。あれは、なんの為に建ってるのかしら?」

 絡めた腕を引っ張って、エフィに無理矢理そちらを向かされる。

 何の目的で建っているのか見当もつかない、馬鹿デカい柱の周りでは篝火が焚かれていて、夜の闇を照らしていた。

 灯りを受けて、エフィの髪が煌めいている。

 そうなんだよ。

 お嬢も、ついてきちまってるのだ。

 あと、ついでに言えば、姫さんも。

 もちろん、俺は二人とも、あの町で待っててもらうつもりだったんだけどさ——

「ホントに、不思議な国ねぇ。着てる物も風変わりだし……アリアハンに行った時は、ここまで違いを感じなかったわ。こっちの方が、よっぽど近いのにね」

 下から覗き込むように俺を見上げて、ふふっと微笑んだ。

 まったく、人の気も知らねぇでさ。

「なんだか、不思議……世界はとても広くて、私の知らないことなんて、まだまだ沢山あるのね」

「……そうだな」

 気の無い返事に怒ったのか、エフィはぷくーっと頬を膨らませた。

「なによぉ。もう、ヴァイスったら、まだ私がついてきたことを怒ってるの?」

「いや、そういう訳じゃないんだけどさ」

「嘘。だったら、なんでさっきから上の空なのよ」

「ああ、悪ぃ」

 自分がないがしろにされていると感じると、すぐスネやがるんだ、こいつ。

 なんだかんだで、俺はエフィと一緒にいることが多かったから、ここんトコ意識的に注意してたんだけどな。ちょっと気を抜いてたわ。

38.

 なんかね。アメリアが姫さんまで巻き込んで、余計な気を回してやがるようにも思えるんだよな。

 いや、別に嫌な訳でもないし、俺もあえて目を瞑ってた部分もあるんだけどさ。

「なによ、もぅ!せっかく……りなのに」

 ごにょごにょと口の中で呟くと、エフィは絡めていた腕を解いて、俺から離れた。

「ホンット、相変わらず気が利かない人ね!いいわよ、私が居ない方がいいんでしょ!?もぅ、知らないから!!」

 小走りに、林のように木が連なっている方へ走り出す。

「おい、危ねぇぞ」

 声をかけると、振り返って「いーっ」と歯を剥き出された。

 そのまま、林の中へと姿を消してしまう。

 思わず、苦笑が漏れた。

 ホント、最初に会った頃とは、ずいぶん変わったよな。

 そもそも、こうして二人で外をほっつき歩いてるのだって、お嬢に誘われたからなんだぜ。

 この村に辿り着いたのは、つい夕方の事だ。例の助けを求めてきたヤツの家で、とりあえず俺達は世話になることになったんだが、夜になってエフィが辺りを散策しようと言い出したのだ。

 ついて来たそうな顔をした姫さんに、アメリアがじゃれついてる間に、急かされるみたいにして連れ出されちまった。

 アメリアのヤツも、なに考えてんだかね。あいつだって、俺みたいなゴロツキまがいが、いいトコのお嬢様とどうにかなるとは思ってねぇだろうによ。

 けど、なんというか——このひと月余り、なにかと理由をつけて構ってくるお嬢に対して、俺もまんざらでもない気分になっちまってたりするのが困りものなのだ。

 改めて、そういう目で見ちまったっていうか、そしたら存外に悪くないことに気付いちまったっていうか。

 エフィにも前みたいには嫌われてないと思うし、上手いコト立ち振る舞えば次期領主の座も夢じゃねぇかな、とか。ペテンだったとはいえ既に結婚話も出てることだし、そういう流れが無い訳じゃねぇよな、とか。チラッとは考えたよ、そりゃ。

 いや、本気じゃないけどね。

 あくまで、勘違いと自覚した上での冗談だ。

 領主サマなんて、まるきり俺の柄じゃねぇし、そんなに身の程知らずでもねぇよ。

 それに、エフィにとっても——

 それがいいことだとは、俺にはとても思えなかった。

39.

 さて、と。

「……るせぇな。分かってるよ」

 呟きながら、頭の中で馬鹿が何かを言う前に、脳裏から掻き消してやる。

 どっちみち、このままお嬢を放っておく訳にはいかない。

 篝火のお陰で周囲はそこそこ明るいといっても、もう夜中だ。明かりが届かないほど奥まで行っちまって、迷子にでもなられたら大変だ。

「……ス?……るの?」

 林に少し足を踏み入れたところで、微かに女の声が聞こえた。

「ああ、そこにいたのか」

 もうちょい先まで行ってたと思ったんだが。

「悪かったよ、ぼんやりしてて。ほら、暗くて危ねぇから——」

 脇の繁みががさりと音を立てて、人影が姿を現した。

「戻ろう……ぜ……」

 俺は、呼吸を忘れていた。

 目の焦点が合わなくなった。

 立ちくらみをしたみたいに、いつの間にやら体が傾いていて、慌ててその場でたたらを踏むことで、我に返った。

「え——?」

 なんだ、これ。

 信じらんねぇ。

 俺達は、お互いに穴が空くほど、まじまじと見詰め合って——

 すごく長い時間が、あっという間に過ぎた。

「ヴァイス……?」

「マグ——ナ……か?」

 ほとんど無意識に、喉から声が絞り出されていた。

 見紛う筈もない。

 今、俺の目の前にいるのは——確かに、マグナだった。

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