28. So Blue

1.

「はにゃあっ!?」

 真正面から俺にぶつかってきた女が、間抜けな声をあげてよろめいた。

 その拍子に、視界を塞ぐほど詰め込まれていた買い物袋の中身が、端からぽろぽろと零れ落ちる。

「あわわ、大変……あ、ご、ごめんなさい——あああ、どうしましょ」

 女は落ちたパンやら果物やらを拾いかけ、やっぱり先に謝ろうとしたのか中途半端に俺にお辞儀をしたかと思うと、また忙しく落ちた物の方を気にかける。

 あまりの慌てっぷりに苦笑を誘われながら、俺は腰を屈めて拾うのを手伝った。

「あ、いえ、そんな——ありがとうございます——あの、結構ですから」

 どっちだよ。

 俺を制止しようとしたのか、はたまた先んじて地面の落し物を拾おうとしたのか、片手を前に差し出しながら前屈みになった女は、袋の中身をさらに景気良くぶちまける。

「ああ、もう、私ったら——!!いつも気をつけてるのに、どうしてこうなんでしょう?ホントに不思議——あ、すみません、あの、ぶつかった上に、お手伝いまでしていただいて」

「いいから、しっかり袋を抱えてなよ」

 渡したソバからまた落とされたんじゃ、いつまで経っても終わりゃしねぇよ。

 見かねた通行人に、二、三の果物なんかを手渡されて、女はぺこぺこと頭を下げる。だから、危なっかしいっての。もう動かねぇで、袋抱えて突っ立ってろ、あんたは。

 どういうんだろうね、こういうの。そそっかしいっつーか、どうにも絶望的なまでにドジっていうかさ。

 さっきもそうだ。分不相応な大荷物を両手で抱えて、この女が前からよたよた歩いてくるのが見えたから、俺は横に避けて道を譲ってやったんだぜ?

 そしたら、素直に真っ直ぐ歩いてりゃいいのに、同じ方に避けやがんだよ、この女。で、俺が避け直してやったら、向こうもまた同じ方向に進路を変える訳よ。

 そんなことが何回か続いて——

 そこまでだったら、まぁよくある話だわな。

2.

 普通なら、ぶつかる手前でお互いに足を止めて、ちょっと苦笑を見合わせてから、それじゃ、ぺこり、ってな具合にすれ違って仕舞いだろ?

 ところが、この女は何を考えたのか、足を止めずにあわあわ言いつつ直進してきやがったのだ。

 そんで、立ち止まってた俺にそのままぶつかって、往来のど真ん中で場違いな露店を開いてみせたという訳だった。

「これで、全部か?」

「あ、はい、多分——ありがとうございました」

 最後の果物を受け取りながら、女はにっこりと、照れ笑いではない朗らかな笑顔を浮かべた。少しは悪びれた顔をしてもいいんだぞ。

 歳は、俺より少し下に見える。紺色のシンプルなメイド服を着てるトコを見ると、どこぞのお屋敷の小間使いかね。

「あの、お手伝いいただいたご恩は……えと、一生忘れません」

 上手い表現が見つからなかったのか、女はそんな大袈裟なことを口にした。

「いいよ、別に。それより、もう落とさないようにしっかり抱えて、ちゃんと前見て歩きなよ」

「あ、はい。それはもう、大丈夫です」

 こんなに力強さと説得力が噛み合わない断言、はじめて聞いた。

 立ってるだけでもヨロヨロしてて、全く大丈夫そうに見えないんですが。

「それでは、失礼します——あわわ」

 深々とお辞儀をしかけて、また袋の中身をぶちまけそうになったりしながら、女はふらふらと歩き去った。ありゃ、もう一回か二回は同じことを繰り返すね、間違いなく。

 運ぶのを手伝ってやろうか——そんなことを考えちまったのは、女のおっとりとした顔立ちが悪くなかったからだ。ついでに言えば、胸もデカいし腰つきもいい。

 華奢な背中にかかった艶やかな黒髪を見送りながら、嫌な気分が胃の底に溜まっていく。

 まだあれから、何年も経った訳じゃない。つい最近だ。

 自分のしでかしたことを、忘れた筈もない。

 それなのに、他の女を見て浮かれている。

 そんな自分に、嫌悪感を覚えていた。

 この間まで、日がな一日、眠ってんだか酔っ払ってんだか分かんねぇような、ヒデェ有様だったクセによ。

 寝ても醒めても、悪夢にうなされて。

 何もする気が起きなくて。

 体中がダルくて、なんもかんもどうでもよくて。

 息してる以外は、死人と大して変わんねぇような状態だったのに——

3.

 俺は、アリアハンに戻っていた。

 本心では最も避けたい場所だったが、それを言い出したら、あいつと一緒に巡った街には、どこにも居たくない。

 だが、俺がルーラで移動できるのもまた、それらの街だけなのだった。

 つまり、どこに行こうがおんなじで、単に一番慣れてる土地に舞い戻ってきただけの話だ。

 それに、あいつと一緒だった思い出しか無い他の街と違って、ここなら、あいつに会う前から何年も住んでたし、その頃の記憶が少しは気分を紛れさせてくれるかと思ったんだ——結局、まるで期待外れだったけどな。

 戻ったはいいが、ルイーダの酒場だけは避けたかった。あそこにゃ顔を出せねぇよ。ルイーダ姐さんにあいつの事を聞かれたら、なんも答えられそうにねぇしさ。

 それに、知り合いの冒険者連中にも、何を言われるか分かったモンじゃねぇから、あんまり会いたくなかった。

 幸いにしてアリアハンの城下町は広いので、市街の反対側にある宿屋に引き篭もってりゃ済む話だ。この際、贅沢は言ってらんねぇ。

 あの阿呆が治めてるロマリアだけは、絶対に行きたくなかったしな。

 今にして思えば、あのロラン野郎、ハナから全部知ってやがったんだ。

 あんな阿呆でも、いちおう肩書きは国王だからな。魔法使い共の話はいくらでも聞ける、というより、黙っていても報告される立場の人間だ。

 だからこそ、あの阿呆は、あんなに自信満々だったって訳だ。

4.

『君は、マグナを不幸にする』

 あいつは、俺に呪いをかけたつもりだったんだろう。

 マグナに秘められた事情を知った俺が、ビビって惑うことを見越して、俺がマグナから離れていくように、そっと背中を押す一言を忍び込ませたつもりでいたに違いない。

『俺は、絶対にあいつを不幸にしたりしない』

 そう答えた俺に、野郎は言った。

『それでいいさ。いいか、絶対に彼女を不幸にするんじゃないぞ』

 なにが『それでいいさ』だ。ふざけんじゃねぇぞ。

 ああ、そうだよ。手前ぇの思った通りになりました。これで満足かよ、くそったれ。

 けどな、あいにくだが、俺は手前ぇに言われた事なんか、すっかり忘れてたよ。手前ぇとの賭けに負けたから、俺はあいつの元を去った訳じゃない。

 あいつに——マグナに別れを告げたのは、そんなんじゃねぇんだ。

 大体、手前ぇだけ裏っかわの事情を承知してるだとか、そんな不公平な賭けが認められるかよ。あんなモン無効だ、畜生め。

 まぁ——

 だから、どうだってんじゃないけどな。

 俺がマグナにしちまった仕打ちには、何の関係も無い。

 魔王退治に行くなら、絶対にダーマの連中と一緒の方がいい。

 そう思ったのは事実だよ。

 自分の感情を無視して客観的に考えれば、絶対にそっちの方が生き延びる確率が高いからな。

 魔物がはびこってるお陰で、世界中で毎日何人死んでんだか知らねぇけど、少しでも早く魔王を斃せば、それだけ犠牲は抑えられる。

 だったら、放っておく訳にはいかねぇだろ。

 そう思ったのも本当だ。

 あいつにしか、魔王を斃せないなら——

「無知が故に貴様の理解が及ばなかろうが、どれだけ突拍子も無い誤解をしようが、私の知った事ではないぞ」

 あの日、話を聞くまでは絶対に譲らないと思い詰めていた俺のしつこさに、とうとう折れたヴァイエルは、そう前置きしてから語り始めた。

5.

「とある二つの勢力が争う場合、その規模の大小に関わらず、どれだけ両者の戦力に開きがあろうとも、どちらか一方が『必ず』勝利を収めると断言することは出来ん。その程度は、理解出来るな?

 貴様等が運と呼ぶ要素が戦況を左右する場合もあるが、もっと極端な例を挙げれば、局地的な天変地異によって、戦力的に圧倒的優位に立っていた勢力だけが都合良く全滅するという可能性すら、いつだって皆無ではないのだ。

 ああ、いい。黙れ。貴様の分かりきった下らん反論など聞きたくない。

 そんなことはあり得ない。言いたければ、そう口にしても構わんがな。

 だが、それは無視しても問題が無い程度に限りなく皆無に近いという意味であって、およそ人間が想像し得る範疇を超えて、どんな事象であれ『絶対に起こらない』等ということは、それこそあり得ない。

 世界がいかに不確かであるかを理解していない、貴様ら無知共が絶対であると勘違いしているつまらん常識とやらに照らし合わせて、断じて起こり得ない筈の例外が発生した場合には、ちゃんと奇蹟という言葉が用意されている。

 聞いているのか?

 フン、いつでも止めて構わんぞ——離せ、腕を掴むな、鬱陶しい。

 つまりだ、不利な勢力が勝利を収める確率は、仮令それが一毛にすらまるで満たないほんのちっぽけな可能性であれ、常に皆無とは言えないのだ。

 むろん、普段から奇蹟とよばれる類いの例外まで考慮して、人間は行動しない。身動きが取れなくなるだけだからな。

 だが、あえて例外まで含めるとするならば、いずれの勢力も十全の確率で勝利を収めるとは言い難い以上、彼奴——バラモスは必ず勝利者となる。矛盾するようだが、それは必ずだ」

 頭の中で話を整理する時間をくれたつもりか、ヴァイエルはわずかに間を置いた。

6.

「何故なら、それがどれほど小さかろうと、彼奴は己が勝利する確率を選び取ることが出来るからだ。

 運命を司るもの——確率の支配者と、より俗っぽく言い換えても構わんが、膨大な議論と観察、そして遠征軍及び暗殺部隊を用いた検証を重ねた結果、アレはそのような存在であると我々は結論づけた。

 フン——?非難がましい目つきだな?

 だが、我々は彼等に何も強制していない。仮令我々が何かを仕組んでいたところで、彼等はそれを意識していなかったし、彼等は全く自己の判断に基づいて行動したのだ。

 そもそも、我々が何をしようが、何もしなかろうが、彼等の敗北は必然だった。

 まぁ、今はそんな事はどうでもいい。つまり、そうした存在であるからには、彼奴は広義の世界における主体であり、それを以って先日は便宜的に神と称した訳だな。世界そのもの、という貴様の誤解を助長する表現をとっても、私には一向に差し支えないが。

 但し、その神格は極めて低く抑えられており、加えて彼奴の歪な——ある意図の介在を疑わずにはいられない不自然な在り方——能力から、とある仮説が導き出される訳だが……これも、今の話には関係が無かったな。

 ともあれ世界とは、神々の単純にして複雑な——むぅ。とても一から説明する気にはなれんな——まぁ、つまり、なんだ。ひと言では言い表わせん支配率——でよかろう——から成り立っており、彼奴の支配できる世界は、いまだタカが知れている。

 そうだな。言わば、盗賊ギルド等と俗に称される組織に属す事なく、その目を掠めてコソコソと盗みを働くコソ泥といった風情か」

 野郎は上手いことを言ったみたいな顔をしたが、あまり正確な比喩とは思えなかった。

 なるべく俺に理解し易いように喋ってるのは分かるんだが、ところどころ却って分かり難い。

「とはいえ、彼奴に属する世界で人間が彼奴を討ち滅ぼすのは、およそ不可能だ。前にも言ったが、それが可能なのは、彼奴を支配出来るより上位の存在か、もしくはマグナ嬢だけだ」

 続いてつまびらかにされた野郎の理屈に、完全に納得した訳じゃないんだが——あまりに突飛な内容で、正否の判断も出来なかった。

 否定出来るだけの確信を得たくて、野郎のもとを訪ねた筈なのに、俺には無理だった。

 ひょっとしたら、そうなっちまう事を、俺は半ば予期していたかも知れない。

7.

 正しいかどうかは分かんねぇけどさ、思っちまったんだ。

 もし、本当だったら、どうするんだって。

 マグナにしか、魔王は斃せないとしたら——

 俺なんかがあいつを独り占めにして、たったひとつの可能性を握り潰すような真似しちまっていいのかよって。

 そんなの、俺には責任取れねぇよ。

 そう思ったのは、事実だよ。

 でもさ。

 ホントのところは、多分、そういうのも関係ねぇんだ。

 いまさらだしさ。

 だからそれは、自分を納得させる為の口実に過ぎなくて。

 根っこの部分は、もっとこう、なんていうか……

 俺とマグナの関係そのものが、このままでいいのかっていうか……

 上手く言葉にできないけど。

 ただひとつ言えるのは。

 俺は、無理をしていた。

 自分じゃ気付いてなかったけど。

 気付かないフリをしていたのか、それとも本当に気付いてなかったのか、自分でも分かんねぇけど。

 だってさ。

 俺は、他人の為に何かをするような——勇者なんかとは無縁の生活を、あいつに送らせてやるんだとか、そんな風に思い込んじまうようなヤツだったかよ?

 そんなご立派な人間じゃねぇだろ。

 そもそも、柄じゃなかったんだって。

 他人の事情に首を突っ込んで、苦労まで一緒に背負い込んで、自分がどうにかしてやろうだなんて、何より避けてきた行為じゃなかったのか。

 そんな俺がさ——この先ずっと守ってやるだとか、それが出来ると証明しなきゃならないだとか、肩肘張って力んじまってさ。

 そんな風に思い詰めちまったのは、俺とは全然違う筈のあいつに、ある意味で共感を覚えたから……今さら、言葉を取り繕っても仕方ねぇな。

 俺はきっと——あいつに、同情してた。

 どっちを向いてもどうにもならない、八方塞りに追い詰められた、あいつの寄る辺の無さに同情してたんだ。

 別にやりたい事も無い、この先なにをしたらいいのかも分からない、ただぼんやりと時間を浪費して生きていく将来しか思い描けなかった、つまんねぇ自分のよすがの無さと重ねちまった。

 独りぽっちの——自分と同じように——あいつを、放っておけなかった。

 ついでに言や、要するにあいつは、手を伸ばせば触れそうな身近に居た女だった訳で。

 つまるところ、俺が抱いていたのは、純粋な恋愛感情と呼べるような代物では、到底なかった。

8.

 そして、錯覚してたのは俺だけじゃない。

 マグナもだ。

 あいつはあいつで、普通の恋人同士みたいな間柄に憧れを抱いてたんだと思う。そしてそれは、ガキの時分から特別視されることで、抑圧を感じていたあいつが求めていた平凡さの象徴だった。

 きっとあいつは否定するだろうし、俺も本当は認めたくないけどさ——

 俺じゃなくてもよかった。

 ひた隠していた内心を、おそらくはじめて共有した、しかも唯一の身近な異性である俺に、あいつは錯覚を抱いちまっただけなんだ。

 体を壊して寝込んじまった時にさ、付きっきりで看病されたりすると、別になんとも思ってなかった相手でも、ついくらっときちまったりすることってあるだろ?

 それと似たような心理だったんじゃねぇのかな。

 おそらく本人も意識しないまま、本来向き合うべき事柄から目を逸らして、その錯覚に逃げ込んでいたんじゃないか。

 要するに——

 俺達はお互いに、欺瞞を抱えていた。

 そんな状態で、あいつと関係を続けていくのが、嫌だったんだ。

 いや、まぁ、さ。

 愛だの恋だのが、錯覚からはじまるってのは、よくある話だよ。

 言ってみりゃ恋愛感情なんざ、元から全部錯覚なのかも知れねぇし。

 別に、とっかかりとしちゃ悪くない。

 錯覚からはじまって、相手を知る毎に重ねられてく妥協を抱えながら、それでもそれなりの関係を築いていく——

 普通の女とだったら、それでいいんだ。

 なんの文句もありゃしねぇよ。

 実際、そういう付き合いをしてきたしさ。

 けど——

 なんでか知らねぇけど。

 あいつとは、それじゃイヤだったんだよ。

 だって、そんな関係で構わないんだったらさ。

 あいつじゃなくてもいいじゃねぇか。

 俺と何をしていようが、世の中にはなんの影響も与えない。そういう俺とおんなじ平凡な女と、よろしくやってりゃいいって話じゃねぇのかよ。

 よりにもよって、魔王を斃せる世界で唯一の女じゃなくてさ。

 いや、あいつが勇者と呼ばれる存在で、俺とは釣り合わねぇだとか守る自信がねぇだとか気後れしただとか、そういうのとも、ちょっと違うんだ。

9.

 上手く言えねぇけど。

 つまり、さ。

 普通に女と付き合うみたいに、あいつとは付き合いたくなかったんだよ、俺。

 あのままだったら。

 ダーマの連中に見つからないまま、ムオルで一緒に暮らしてたら。

 きっと俺達は、普通の男と女がそうするように、いずれ普通に別れてたと思う。

 それが、嫌だったんだ。

 なんで嫌なのか、自分でもよく分かんねぇけど、とにかく堪らなく嫌だったんだ。

 あいつに似合わねぇっつーか……違うな。とにかく、なんか違うんだよ。

 ああ、そうだ。

 そうだった。

 俺と一緒に居ることが、あいつの為になるとは思えない。

 それに、気付いちまったんだ。

 まぁ——

 どんな理屈をコネようが、俺があいつにした仕打ちが許される訳じゃないけどな。

 俺はあいつの気持ちより、独りよがりの自分勝手な感情を優先させたんだ。あいつが一番して欲しくなかったであろう最悪の行動を、完全に意図して選択した。

 あいつ、泣いてたな——

 ホントに、最低だ。

 俺は、ロクデナシの甲斐性無しだ。

 でも、だって、無理だったんだよ。

 一旦無理だって思ったら、あのままの関係をずっと続けていくなんて、俺には考えられなかった。

 なんだかんだ言い訳してみても——

 結局のところ、俺はただ単にビビっちまっただけなんだろうな。

 だって、考えてみてくれよ。俺はなんの変哲も無い、しがない農家の小セガレで、自他共に認めるチンケな野郎ですよ。

 それが、世界をお救いになる勇者様のお供とか、どんな笑い話だっての。

 いや、まぁ、そういうベタな筋立て、ジツは嫌いじゃないぜ。何の来歴もロクな取り柄も無いそこらの凡人が、泥臭く頑張って最後には勇者様と一緒に世界を救っちまうとかさ。

 庶民の星だね。平凡な人間にも希望を抱かせる、いいお話じゃねぇの。

 ソイツが、俺以外の誰かだったらな。

 やっぱりさ。

 あいつは、俺とは違うんだ。

 ちょっとばっかり惑っちまっただけで、根っ子のトコじゃ、あっち側の人間だよ。

 あいつの父親と同じく、吟遊詩人の奏でる物語に主役として登場する側。

 俺はぼけーっと口を開いて、それを聴く方。

 だから、あいつはもう、俺との事なんて錯覚に過ぎなかったと気が付いて、とっくに立ち直ってる筈なんだ。

 そうだよな、マグナ——

10.

 アリアハンに戻ってから、何日経った頃だったか、よく覚えてない。

 部屋で寝てるか、宿屋の酒場で飲んだくれてるかのどっちかだった俺は、いつものようにお似合いの一番隅っこの席で酔い潰れながら、そんなような愚痴をテーブルの向かいに腰掛けた女にこぼしていた。

 以前パーティを組んでいた女僧侶が、いつから目の前に座っていたのかも記憶に無い。珍しく街のこちら側に足を運んだのは、知り合いを訪ねた帰りだからとか言っていたのを、辛うじてぼんやりと覚えている。

 尤も、俺の口はまるで呂律が回っていなかったし、頭の中で考えただけで口を動かすのが面倒になって、実際は喋らなかった箇所も多かったから、聞いてるナターシャには訳が分かんなかったと思うけどな。

 経緯も何も説明していないので、ああ、勇者のパーティから逃げ出したのか、と思うくらいがせいぜいだろう。

「なんていうか……あなた、びっくりするくらい、全然変わってないのねぇ」

 俺の愚痴が終わってから、しばらく黙ってグラスを傾けていたナターシャは、やがてくすりと笑った。

「……どうせ俺は、成長しないダメ人間ですよ」

「あら、別に悪い意味で言ったんじゃないのよ。あなたが勇者様のお供に相応しい、立派な人間になって帰ってきたら、そっちの方が気味が悪いもの。でも、私の知ってる朴念仁のヴァイス坊やのまんまで、ちょっと安心したわ」

「……坊やは止めろって言わなかったか」

「そうね。世間や常識なんてものには縛られずに自然体で生きる、洒脱な大人の男を目指してるんですものね」

「……勘弁してくれ」

 昔のことを知ってる人間ってのは、これだから始末に困る。

「あら、それとも少しは成長したのかしら。ヘンに悪ぶってみせても、自分はどうしようもないお人好しだってことに、少しは気が付いた?」

 色っぽく含み笑いを浮かべたナターシャは、グラスに残った酒を一息に空ける。

 後から来たってのに、確実に俺より飲んでるよな。あんたのうわばみ振りこそ、相変わらずじゃねぇか。

11.

「……気付いたのは、自分が救いようのねぇダメ人間だってことだけだよ」

 テーブルに突っ伏したままボソボソと漏らすと、苦笑が返ってきた。

「ホントに、よっぽど好きだったのねぇ。その勇者様のこと」

「そんなんじゃねぇよ」

「あら、そう?よっぽど盲目じゃなければ、あいつは普通の女とは違うだなんて、昔の女の前で言ったりしないと思うけど」

「……よく言うよ。ありゃ、あんたがそう仕向けて、いたいけな俺の貞操を奪ったんじゃねぇか」

「あ、傷つくわぁ。その辺は相変わらずだわね。そんな調子だから、変わり者が好きな変な女にしか相手にされないのよ」

「あんたも、変な女だもんな」

「そうよ~。こんないい女が、変わってない訳ないじゃない」

 俺は、ちょっと顔を上げてナターシャを見た。

 まぁ、異論はありませんけどね。

「それにしても、凄い入れ込みようだこと。きっと、ヴァイス坊やの初恋だったのかもねぇ」

「ンな訳ねぇだろ」

「だって、あなた、本気で誰かを好きになったことって無かったじゃない。あなたがしてきたのって、言ってみれば周りに合わせてただけのおままごとみたいなものでしょ」

「……まぁ、そうかもな」

「あら——ホントに、少しは変わったのかもね。昔のあなただったら、ムキになって反論してたところよ」

「前よりもっと、ダメ人間になったってだけだよ」

 のろくさと上体を起こして、グラス片手に背もたれにだらしなく寄りかかる。

「それに、今度のだって、なんも変わらねぇさ。本気なんかじゃねぇ。ごっこだよ、ままごと」

 そう。ごっこじゃ嫌だったからこそ、俺は——

 唇についた酒を舐めると、柔らかい感触を思い出す。

 もったいねぇことしたよな。さっさと押し倒しておきゃよかったぜ。

 そうすりゃ、世界をお救いになる勇者様と、最初に寝た男になれたってのによ。

 我ながら下卑た笑いが漏れた。

「まぁ、あなたがそう言うなら、別にそれでもいいけどね。それじゃ、私はそろそろ失礼するわね」

「なんだ、もう帰んのかよ」

 椅子から立ち上がったナターシャが浮かべた笑みの意味は、酔っ払った頭ではよく理解できなかった。

12.

「私はあなたと違ってお人好しじゃないから、そんな目をされても慰めてあげたりはしないのよ。じゃあね、ヴァイス。顔を出し難いのは分かるけど、いつまでも飲んだくれてないで、その内ルイーダさんのところにも顔を出しなさいな」

 保護者みたいな口調でナターシャに言われたが、俺はその後も変わらず引き篭もり生活を続けたのだった。

 飲んだくれたまま、何日くらい経っただろうか。

 突然、どかどかと酒場に闖入した兵士に引っ立てられて、俺は宿屋から連れ出された。

 ああ、やっぱり俺のした事って、捕まっちまうほど悪い事だったんだな。

 一切の抵抗を放棄してだらしなく引き摺られながら、ぼんやりとそんなことを考えていた俺が連れて行かれたのは、まるで見覚えのない小ぢんまりとした屋敷だった。

 てっきり牢屋に放り込まれるモンだと思い込んでいたので、さっぱり訳が分からずきょとんとする俺の前に、ほどなく苦虫を噛み潰した仏頂面が現れて、こう吐き捨てた。

「貴様、私との約定を反故にするとは、いい度胸をしているな。せいぜいこき使ってやるから、覚悟しておけ」

 どうやらナターシャ経由で、俺の潜伏場所がヴァイエルに伝わったらしかった。

 そういや、なんでもひとつ言うこときくって約束したんだっけ。

 貴様が私に提供出来るものが、労働力以外に何かあるのか?とかなんとか言われて、その日から俺は、ヴァイエルの屋敷で働かされることになった。

 市街の端っこにあるヴァイエルの屋敷では、使用人をほとんど雇っていない。いつも息を押し殺しているみたいな、恐ろしく影の薄い女がひとり、気付かない内にタマに出入りしているだけだ。

 聞けば、無償で偏屈魔法使いの様子を見てやっているのだという。まだ若いのに、奇特この上ない女だ。

 ともあれ、そんな有様だったから、あらゆる雑事が俺の役割だった。

 せめて助手やら執事やらの肩書きをもらえれば、それなりに格好もついたんだけどさ。要するに、下働きの雑用係だ。

13.

 とはいえ、野郎はひとりで部屋に篭っているか、いつの間にやら外出している事が多かったので、実際にはそこまで忙しくなかったが。

 チリンチリンと野郎が呼び鈴を鳴らした際に、急いでお側に馳せ参じて、アレを取ってこいだのコレを買ってこいだの偉そうに命じられた用事をてきぱきと済ませれば、それ以外の時間は割りと自由に過ごせた。

 まぁ、「文句ばかり垂れてないで、呼んだらすぐに来んか、この愚鈍が」と「貴様よりも昆虫の方が、余程効率的に仕事をするな、この能無しが」は、口にしている時の表情まで、すぐに脳裏に描けるくらい嫌ってほど耳にしてるけどな。

 ともあれ、最近の俺は空いた時間を利用して、読書に勤しんだりしている。

「用事を言いつける度に、赤子に言葉を教え込むように一から説明しなくてはならんのでは、余計な手間が増すばかりで役立たずよりも性質が悪い」

 などとぬかして、野郎は俺の目の前に、どさりと本の山を積み上げたのだった。

 せめて、この程度は暗記するくらい熟読しておけということらしい。無茶言いやがる。

 でもまぁ、どうやら俺は、読書が嫌いな方ではなかったようだ。

 田舎に居た頃は、農家に本なんて置いてある筈もなかったから、それこそ全く無縁だったが、王都に出て魔法使いになってからは一般人よりゃ読んでたと思うし、読書自体はさほど苦にならなかった。

 それに、なんかやる事があった方が、気が紛れるしさ。

 普通の人間にも閲読可能な体裁をとった書物は、魔法使い共にとっては奴等以外の社会との関係を円滑にする為——国から援助を受けたり、変に敵視されて異端扱いされない為に、申し訳程度に記されたものでしかないそうだ。

 だから、連中にしてみれば読み返すのも馬鹿馬鹿しい基礎の基礎しか書かれていないという話だが、それでも俺には恐ろしく難解で、そして案外面白かった。

 辞書やら辞典やらを引きつつ、注釈に導かれていくつもの文献を渡り歩く内に、俺もはじめの頃よりは、ずいぶん読みこなせるようになってきたと思う。

14.

 ヴァイエルの野郎は、いつでも用事を言いつけられるように俺を横に控えさせて、調べ物をすることがある。そして、手を伸ばせば届くような本を、俺に取らせたりするのだ。

 その際に、独り言みたいに何事かを呟くことがよくあるんだが、タマに俺への問い掛けとしか聞こえない場合があり、うっかり答えようものなら「誰が無知に物を尋ねるか。黙っていろ、このタワケが」とか罵られるのだった。

 そうかと思って黙っていると、「少しは物を考えて、なんとか答えんか。どうせ使わん脳味噌ならば、そこらに捨ててしまえ。その方が頭が軽くなって快適だろう」などと舌打ちをされたりする。どうすりゃいいんだよ。

 俺が読書に勤しんだのは、少しは野郎を見返してやろうという気持ちが働いたからだ。

 やがて、ヴァイエルの呟きの一部をなんとなく理解出来ることが増えはじめ、仕入れた知識で相槌が打てそうだったので、試しに一度口にしてみたことがある。

 ところが野郎は、これ以上無いくらいのしかめっ面をして、フンと小馬鹿にしたように鼻で笑ったのだった。

 なんでも、俺に渡された書物の多くは、核となる本当に重要な部分は暗号化されていて、普通に読んだだけでは意味を為さないのだそうだ。そんなの言われなきゃ分かるかよ、くそったれ。

 中には一冊まるまる、表面上は無関係な内容で構成されている書物もあるそうで、どうりで場違いな料理の本とか含まれてると思ったぜ。俺に料理を覚えろと、遠まわしに言ってるんじゃなかったんだな。

 尤も、こいつが何か物を口に運んでいるところを見たことがないんだが。得体の知れない草を煙管でふかしているのを、タマに見かけるくらいだ。

 まぁ、そんな感じで、毎日小言を聞かされながら、俺はヴァイエルの屋敷で世話になってる——つか、放っておくと生活がままならなさそうな野郎の世話をしてやっているのだった。

15.

 あのまま飲んだくれてたら、俺は廃人まっしぐらだったろうから、酒場から連れ出してくれた事はありがたく思ってやってもいいけどさ。

 あんまり感謝する気になれないのは、どう考えても俺の意識が無い間に人体実験をされたとしか思えない発言を、時折聞かされたからだ。幸いにして今んとこ、何処も具合が悪くなったりはしてないが、知らない内に何されてるか分かんなくて、怖ぇよ。

 全く、魔法使いなんぞの世話になるもんじゃない。

 今日も今日とて、野郎に偉そうに命じられて怪しげな品物を引き取りに、俺は街外れの道具屋まで足を運んでいるのだった。

 ルイーダの酒場が近くにあるから、街のこっち側にはなるべく来たくないんだけどな。ヴァイエルにそれを言っても、「それは貴様の都合であって、私には関係が無い」とか吐き捨てられて終わりだろう。やれやれだ。

 道具屋で受け取った小さい包みを隠しにしまい、誰か知り合いが通りかかっても見咎められないように、俯き加減に元来た道を帰りかけて——

 俺はふと、足を止めた。

 ここからじゃ、建物に遮られて見えないが——

 あいつの実家って、確かこの辺りだったよな。

 しばらくそちらを向いていた俺は、唇を歪めて苦笑した。

 我ながら、女々しいね。

 さっきは、自分があいつの事を忘れかけてるんじゃないかと嫌な気分に襲われたクセして、実際はまるで吹っ切れてねぇみたいだ。

 もちろん、これ以上は近づけない。お袋さんにも、合わせる顔が無いしさ。よろしく頼まれてたってのに、やっぱり人選ミスだったみたいですよ。

 ちくしょうめ。

 俺はただ、思い出さないようにしてただけなんだ。

 落ち込んじまうに決まってるから。

 溜息を噛み殺す。

 脳裏を過ぎった追憶が、記憶を励起したんだろうか。

 なんだか無性に、エルフの姫様に会いたくなった。

 脚の間にちょこんと腰掛けた姫さんの綺麗な髪を、のんびりずっと撫でていたい。

 考えてみれば、あそこは他に人間もいねぇしさ。隠遁するには、いい場所だよな。

 あ——ダメだ。

 俺は今、独りなんだった。

 エルフの隠れ里にはルーラじゃ行けないから、ノアニールから歩くしかないんだが、あの距離は独りじゃ無理だわ。

 そこまで考えてから、自嘲が喉を突く。

16.

 おいおい。冒険者でもねぇノアニールの爺さんですら、命を懸ければ辿り着けた場所じゃねぇかよ。それを無理って、お前は普通の村人以下ですか。

 情けねぇにも程がある。こんなダメ人間がエルフの姫君に癒しを求めようだなんて、図々しいったらありゃしねぇ。

 頭を振って踵を返したところで、正面から思わぬ衝撃を受けてよろめいた。

「きゃっ——!?」

 尻餅をついた女を目にして、心臓がどきりと跳ねる。

「ちょっと、人が歩いてる道を、いきなり塞がないでくれる!?」

 なんで俺は——

 この女を、マグナと見間違えたんだろう。

 全然、似てないのに。

 瞳は碧眼だし、顔の造りもまるで違う。長い金髪も、似ても似つかない。

 あいつを彷彿とさせるのは、せいぜい気の強そうなところと年齢くらいだ。

 ちょっとした病気かもな、俺。

「なんだっていうのよ、もぅ!ホントにこの街は、人が多くて歩き難いったら——なに妙な目つきで見てるのよ。失礼ね。ほら、早く起こしなさい」

 片手を差し上げて、女は居丈高に命じた。

 下手に口答えすると余計に絡まれそうだったので、大人しく引き起こしてやる。

 それにしても、今日はよく人とぶつかる日だな。

「これからは、周りに気をつけなさい」

 フンとばかりに顔を逸らして立ち去りかけた女は、振り向いて俺に一瞥をくれた。

「あなた、小さい女の子を見かけなかった?多分、こう——こんな感じで、すっぽりフードを被ってたと思うんだけど」

「知らね」

 身振りを交えた説明を、面倒臭そうに短く返されて、女はカチンときたらしかった。

「なんなのよ、その返事は?少しは考えるフリくらいしてみせたらどうなの?不親切な人間しかいないのかしら、アリアハンって」

 黙ったままの俺が気に喰わないのか、エラい目つきで睨まれた。

 厄介なのに絡まれちまったな。

「大体、なんで私が探さなくちゃいけないのよ……ちょっと、あなた。人探しを手伝いなさい。いいわね?」

 はぁ?と声に出さずに表情だけで返してやると、女は頬を膨らませた。

17.

「だって私、この街には不案内なんですもの。手伝ってくれたら、ぶつかって謝りもしない無礼は、それで許してあげてもいいわ」

 いや、ぶつかってきたのは、あんたの方ですが。

 女は腰に両手を当てて、俺を覗き込む。

「それに、困っている貴婦人レディーを見かけたら、助けてあげるのが紳士の嗜みでしょう?まぁ、あなたはとても紳士には見えないけれど」

 貴婦人ねぇ。確かに、身に着けてるひらひらしたドレスっぽい服は、仕立ては良さそうだけどさ。ただ、ロマリアどころかアリアハンにあってすら古臭く目に映る。

 どこぞの田舎貴族のご令嬢ってトコかね。その割にゃ、お供の姿が見えねぇけど。

「仰る通りだね。俺は紳士とやらじゃねぇから、遠慮しておくよ」

 なんだか、この女とは関わり合いになりたくなかった——全然、似てねぇんだけどな。

「ちょっと!?待ちなさい!人を押し倒しておいて、なんてヤツなの——あら?」

 背後から近づいてくるバタバタと忙しない足音には、少し前から気付いていた。

 そちらに目を向けた田舎女が、なにやら驚いた顔をする。

「あ——わっ!?あわわわわっ!?」

 駆け足の音が止んだと思ったら、腕をぐるぐる振り回しながら、メイド服が視界の端に滑り込んできた。

 派手な音を立てて、ロクに受身も取らずに地面に激突する。うわ、痛そ。って、アレ、もしかして行きがけに俺と正面衝突したメイド服じゃねぇのか?

「なにをしとるんじゃ、アメリア」

 メイド服と並んで走っていたらしい、フードを被った小柄な少女が、舌足らずな喋り方に似合わない言い回しで呆れてみせた。

「え——?」

 思わず、口から呟きが漏れた。

「うぅ……痛いですぅ」

「転び慣れとるじゃろ。平気じゃ、大事無い」

 薄情に言い置いて、フードの少女がこうべを巡らせる。

「お主が突然現れおったから、アメリアがびっくりして転んでしまったんじゃぞ、依頼人の人間よ。こんなところで、何をしておる——」

 少女は、俺を認めて目を見開いた。

 造り物めいて整った、その可愛らしい顔立ちを見紛う筈も無い。

18.

「ヴァイス!!」

「おっ、ちょっ——おい、姫さん!?なんで——?」

 首ったまに跳びついてきたエルフの姫君——エミリーを、どうにか受け止めて抱きかかえる。

 遥かに遠い森の匂いを嗅いだ気がした。

 つか、相変わらずびっくりするくらい軽いな。

「会いたかったぞ、ヴァイス!!——じゃが、積もる話は後じゃ。とりあえず、あのケダモノ共をなんとかしてくれぬか?」

「は?」

「あぁ?ヴァイスだぁ?」

 またしても、聞き覚えのある声だった。

 嫌な予感と共に振り返ると、そこにはゴリラとネズミが生意気にも人間の服を身に着けて立っていた。

「へぇ、ホントに野郎だぜ、兄貴」

「手前ぇ、どのツラ下げて、俺達の前に顔出しゃあがった、このトンチキが!!」

 以前、俺とパーティを組んでいたチンピラ兄弟だった。最後に顔を合わせたのが——あいつと出会った日だから、もう一年以上前になるのか。

 ご兄弟におかれましても、全くお変わり無いようで、なによりです。

「なんだこりゃ——よく分かんねぇけど、あいつらとモメてんのか?」

 そう問い掛けると、俺にお姫様抱っこされた姫様エミリーは、チンピラ兄弟に向かってびしっと指を突きつけた。

「そうなのじゃ!!あやつら、ヒドいのじゃぞ?わらわを捕らえて、人買いとやらに売り飛ばそうとしておるのじゃ!!」

「そりゃお前ぇ、そんなめっずらしい生きモン、ふんづかまえて売り飛ばさねぇ手はねぇだろうよ」

「全くだぜ、兄貴。エルフなんて見たこともねぇや、幾らンなるか分かんねぇよ」

「……うん、まぁ、大体分かった。なんだって、ああいうバカに正体バラしちまうかね」

 バレないように、わざわざフードを被ってるんだろうに。

「違うのじゃ!わらわだって、気をつけていたのじゃぞ?じゃが……これを被っておると、そのぅ、耳が擦れてなんかヘンな感じになって嫌なのじゃ!!」

「嫌ってもさぁ——」

「だから、違うのじゃ!!わらわは、ちゃんと先にアメリアに聞いたのじゃ!取ってもよいかと尋ねたのじゃぞ?そしたら、ちょっとだけなら構わぬとアメリアが言うから……」

「すみませぇん……まさか、こんなに騒ぎになるとは思わなくて……」

 立ち上がって、ぱたぱたと服をはたきながら、メイド服のアメリアが申し訳なさそうに謝った。

19.

 派手に転んだように見えたが、どうやら怪我は無いようだ。慣れちまうくらい日常的に転ぶほどのドジってのも、どうかと思うけどね。

「だって、姫様は姫様じゃないですかぁ。なんで皆さんびっくりされるのか、よく分からないですぅ……」

「それはわらわにも良く分からぬが……とにかく、もうアメリアの言うことは信用しないのじゃ!」

「そんなぁ……」

 アメリアは、情けの無い声を出した。

 いやまぁ、エルフって以前に、こんだけ可愛ければ、それだけで人目を引くとは思うけどね。

「ゴチャゴチャくっちゃべってンじゃねぇッ!!」

 ゴリラ兄が一喝すると、ひっと悲鳴を漏らしてアメリアは首を竦めた。

「手前ぇ、ヴァイス、あの猿女はどうしやがった?どっかその辺にいやがんのか?」

 そう言って、ゴリラ兄は辺りをきょろきょろと見回す。

 猿女って——もしかして、リィナの事か?

 手前ぇはゴリラの癖しやがって——ヤベ、ちょっと面白い。

「さぁな。だったら、どうだってんだよ」

「ケッ、あの猿女にも、いつか礼をしなきゃなんねぇってこったよ。だが、まぁ、今日のトコロは、そのエ——なんだかいうメスガキさえ渡しゃあ、手前ぇは見逃してやろうってんだ。ありがたく思いやがれ」

 こいつ、相当リィナを恐れてやがるな。まぁ、あんなにあっさり倒されたんだから、無理もねぇけどさ。

「そいつはありがたいな——なんて言うとでも思ってんのか?」

 あえて一年前と同じ台詞を使ってやったが、エルフの三文字すら覚えられねぇゴリラ頭に伝わる筈もねぇか。

「うるせぇッ!!いいからさっさと、そのガキ渡しゃあがれッ!!」

 恫喝の声を荒げたのは、ネズミの方だった。

 いつの間にやらアメリアの背後に回り込んで、首筋にナイフを突きつけている。チビだから、デカいのの陰に隠れて、つい存在を忘れちまうんだよな。

 それにしても、ホントに進歩ねぇな、こいつら。

「おお、でかした、弟よ。ほれ、とっとと渡しな、このトンチキが」

「卑怯者!!」

 田舎女が睨みつけても、ゴリラはにやにや笑うばかり。

「あの……困ります」

 人質となったアメリアの表情は、あんまり困ってなさそうだった。

20.

「お止めになった方がよろしいですよ?」

 なんだ、この余裕。ジツは武道の達人とか言わねぇだろうな。

「ああ。ヴァイスの手を煩わせるまでもなかったようなのじゃ」

 姫さんも、慌てた様子もなく、そんなことを言う。

「手前ぇ、動くんじゃねぇッ!!」

 アメリアが普通に振り返ろうとしたので、ネズミは慌ててナイフをさらに首筋に近づけた。

 その腕が、いきなり横から出てきた何者かに掴まれる。

「いっ……ぎゃあッ!?」

「何をしているんだ、アメリア。買い忘れた野菜ひとつ買うのに、いつまでかかっている」

 痛ぇ痛ぇ放せ放せと喚きつつネズミが暴れても、握られた腕はびくともしない。

 いとも簡単にアメリアを開放した顔にも、見覚えがあった。サマンオサの喧嘩好きな勇者——ファングだ。

「お——あ?誰だ、手前ぇ!?弟を放しやがれッ!!」

「貴様、アメリアに刃物を向けたな?」

 ゴリラの誰何を完全に無視して、ファングはネズミの腕を握ったまま、思いっきり顔面を殴りつけた。

「うわっ……あやつはホントに、容赦ないのぅ」

 ゴッ、といかにも痛そうな音が響いて、エミリーは俺の腕の中で顔をしかめた。

 鼻血を流してぐったりしたネズミをそこらに放り捨て、ファングはゴリラに歩み寄る。

「なっ——手前ぇ、なにしてくれてんだコラァッ!?」

 ゴリラの拳を、ファングはあっさり片手一本で受け止めた。

「フン。その図体は見掛け倒しか」

「ッ——!?」

 またしても一撃。

 顔面をしこたま殴られて後ろに吹っ飛んだゴリラは、横たわったまま呻き声をあげて起き上がれない。

「大丈夫か?」

 ファングがそちらを見ると、アメリアは大きな胸の前で両手の指を組んで、にっこりと微笑み返した。

「はい。ファング様が来てくださると信じてましたから」

「いや、そうじゃなくてだな……その、怪我は無いか?」

「はい。怪我をする前に、必ずファング様が助けてくださいますから」

「うん。あまり、心配をかけるな」

 はい、と答えるアメリアの語尾には、ハートマークがついて聞こえた。

 照れもせずに往来で見詰め合う二人を、通行人がいくらか立ち止まって眺めたりしている。

 なんだ、このバカップルは。

21.

「あやつは、いつも颯爽としておるのぅ——わらわも、少しは分かってきたのじゃ。乱暴なところはいただけんし、それほど容姿が整っとる訳でもないが、ああいうのを人間は、男前と呼ぶんじゃろ?」

 と、姫さん。

 ああ、そうですね。

 結局ボクは、何もしませんでしたし。

 それに、姫さん基準じゃ不細工でしょうけど、人間にしちゃツラもそこまで悪くないですよ。

「ところで、シェラはどこじゃ?シェラやリィナは、どこにおるのじゃ?」

 地面に下ろしてやると、姫さんは周りをきょろきょろと見回した。

「いや、ちょっと待ってくれ。あのさ、なんで姫さんが、こんなトコに居るんだ?」

「あやつらに連れてきてもらったのじゃ」

 ファング達の方を見ながら、エミリーは答えた。

「連れてきてもらったって……ンなあっさり言われてもな」

「なんじゃ、その口振りは?お主らがいけないのじゃぞ!?また会いにくると言うたクセに、全然来ないではないか!!」

「あ、ああ。悪ぃ、色々あってさ……でも、エルフにとっちゃ一年やそこら、あっという間だろ?」

「それはそうなのじゃが……お主らと会ってから、なんだかよく分からぬが、そうではないのじゃ!!なんじゃ、ヴァイスはわらわに会えて、嬉しくないのか?」

 泣きそうな目で、エミリーは俺を見上げた。

「わらわは嬉しいぞ?ヴァイスは、そうではないのか?」

 フードがはだけそうになったので、慌てて直してやりながら答える。

「い、いや……そりゃ、嬉しいけどさ」

「そうであろ?ならば、何も問題は無いのじゃ!」

 ころっと表情を変えて浮かべた笑顔の、なんとまぁ可愛らしいこと。

 それだけで、思わず納得しそうになっちまうよ。

22.

 野次馬が集まりはじめたので、とりあえずその場から退散することにして、歩きながら交わした会話によれば——

 ファング達がエルフの隠れ里を訪れたのは、大山脈を挟んで大陸のロマリア側をほぼ一周してしまって、他に行くところが無かったからだそうだ。

 以前から耳にしていたエルフの話を、ファングは噂に過ぎないと捨て置いていたが、アメリアに会ってみたいと請われて向かうことにしたのだという。仲のよろしいことで。

 とはいえ、実際に会えるとはそれほど期待しておらず、軽く辺りを巡って一旦サマンオサに戻るつもりでいたらしい。

 ちょうどその頃、隠れ里の周囲に異常発生した魔物が、エルフ達を震え上がらせていた。そこにやってきたファングが、そいつらをあらかた屠ってしまい、その働きによって、ファング達は人間禁制の隠れ里に足を踏み入れることを許されたのだそうだ。

 手引きをしたのは、例によって姫さんだ。

 俺の非難がましい目つきに気付いたエミリーは、「違うのじゃ!わらわだって、あれから気をつけておったのじゃぞ?ちゃんと悪人かそうではないか見極めてから、声をかけたのじゃ!」と反論したが、どうだかね。

 結果オーライなことばっかしてるから、今日みたいな危ない目に遭うんだよ。実際は、里を出るきっかけが欲しくて、後先考えずに行動したって辺りが正解だろう。

 それにしても、あのエルフの女王様が、よく外界に出ることを許してくれたもんだ。

「お主らの事があってから、お母様もほんの少しだけ考えを改められたようなのじゃ」

 だから、近隣の魔物を苦も無く平らげちまうファングみたいな丈夫が共連れなら、里から出ることを認めてくれたってんだが、どこまで信用していいものやら。単なる家出じゃないといいんだが。

 姫さんが人間の世界にやってきたのは、嬉しい事に俺達と会うのが目的だった。

 アリアハンに行こうと提案したのも姫さんで、どうやら俺達の故郷を見てみたかったらしい。なんらかの足取りが掴めるかも知れないという目算もあったようだ。

「じゃが、まさか今日ここで会えるとは思わなかったぞ」

 再び俺にお姫様抱っこで運ばれながら、姫さんは嬉しそうに笑った。

23.

 ここまでの会話の最中、つまらなそうな顔をして端っこを歩いていた田舎女は、やはり地方領主のご令嬢という話だった。

 と言っても、アリアハンのことじゃなく、俺がしばらく前に居たあっちの大陸の東側、地理的にはムオルからずっと南に行った辺境を治める田舎領主らしい——くそ、ムオルなんて地名、思い出したくもねぇってのに。

 詳しく話さねぇし、俺も聞く気が無かったからよく分かんねぇが、なんでも地元で起こったゴタゴタを解決する為に、アリアハンの冒険者を雇いに来たのだそうだ。

 あれから一年。冒険者制度は世界中に広まりを見せており、まだ人も制度もこなれていない他所の国の方が、稼ぎ易いしデカい顔が出来るとあって、アリアハンから出稼ぎに行く連中もぽつぽつ現れているという話は耳にする。だから、話自体は分からなくもねぇけどな。

 ま、なんでもいいんだが——よんどころない家柄のお嬢様にしちゃ、従者のひとりもいないのはおかしいんじゃねぇのかと、話を引き伸ばす目的で突っ込んでみると、自分では素晴らしい思いつきだと確信したのに、家人みんなに反対されたのだと言う。

「でも、本当に困って我が家を頼ってきた人が、実際に居るのに!それを見捨てるだなんて、上に立つ者のすることじゃないのよ」

 要するに、他所から来た人間が持ち込んだ厄介ごとの面倒なんぞ見る余裕なんてありゃしない田舎領主のご息女が、独りで勝手に暴走しちまったって事らしい。どこぞの誰かを思い出しそうになる無鉄砲振りだね。

 アリアハンへは、たまたま領地を通りかかった魔法使いに、ルーラで連れて来てもらったそうだ。というか、その魔法使いが通りかかったからこそ、こんな無謀なことを思いついたという話の流れらしかった。

 ところが、話に聞いていたアリアハンの冒険者は、会うヤツみんなゴロツキばっかりで、世間知らずのお嬢様は愕然としたって訳だ。

 物語に出てくる騎士みたいな上品な人間が、こんなヤクザな商売する筈ねぇのは、ちょっと考えりゃ分かりそうなモンだけどな。

 厳しい現実に出くわして目眩を隠せなかった田舎領主のご令嬢は、ルイーダの酒場でサマンオサのご立派な勇者様を発見して、他に当てもなく依頼を持ちかけたという顛末だった。

24.

「それで、シェラはどこにおるのじゃ?あとリィナと、ついでに、あのイジワルな女はどこじゃ?」

 腕の中のエミリーに屈託の無い笑顔を向けられて、俺は返答に窮する。

 姫さん達の事情は、ほぼ聞き終わっちまったしな。これ以上、引き伸ばすのは無理かね。

「楽しみじゃ。シェラはわらわを見て、喜んでくれるかのぅ」

 急に不安げな色が瞳に混じる。

「それとも……里で待っておれと言われたのに、こんな風に追ってきてしまって、怒られてしまうじゃろか?」

「いや、とりあえず、その心配は無いと思うぜ」

 仕方ねぇ。観念するか。引き伸ばしたところで無意味だしな。

「そうか!?やはり、そうじゃな!?」

「ああ……つか、ジツは俺、今はあいつらと一緒じゃねぇんだよ」

 エミリーは、きょとんとした。

「どういう事じゃ?」

「どうもこうも、あいつらは、ここには居ないんだ。だから、怒られる心配もねぇよ」

「ふむぅ?よく分からぬぞ。では、シェラ達はどこに居るのじゃ?」

「さぁな。俺も、知らねぇよ」

「知らぬ訳はなかろう……?」

 首を捻ってしばし考え、エミリーは不審げな眼差しを俺に向けた。

「もしかして、たもとを分かったと言うておるのか?」

 俺は、「あぁ」とも「うぅ」ともつかない、呻き声みたいな返事をした。

「何故じゃ?——そうか、あのイジワルな女に、とうとう嫌気が差したのじゃな?ふむぅ、お主の気持ちも分からぬではないが、じゃからと言って、なにもシェラとまで——」

「矢張りな」

 横から口を挟んだのは、ファングだった。

「アリアハンの勇者が魔王を斃したという話も聞かぬのに、あの時、傍らにいたお前をここで見かけるのは、おかしいと思っていた」

 ファングは、淡々とした目つきで俺を見た。

「お前——逃げたな」

 我知らず、歩みが止まっていた。

 立ち止まった俺を見上げて、エミリーが気遣い半分、いぶかり半分の声を出す。

「……ヴァイス?」

「さっきから気になっていたが……お前の、その顔つき」

 続く言葉を聞きたくなくて耳を塞ぎたかったが、エミリーを抱えているので、それもままならなかった。

25.

「それは、負け犬の顔だ」

 今度は、息が詰まった。

「大方、己には魔王討伐など荷がかち過ぎると、今になって怯えて逃げ出したのだろう。情けないヤツだ。俺の一番嫌いな種類の人間だな」

 ッ——!!

 うるせぇ、うるせぇよ。

 俺だって、手前ぇなんざ好きじゃねぇや。

 そもそも手前ぇみてぇなご立派な勇者様に、俺の何が分かるってんだよ。

 くそっ——なんも反論できねぇ。

「なんだ、その目は?負け犬にいくら睨まれようと、痛くも痒くも無いぞ。多少なりとも恥じ入る気持ちがあるのなら、黙ってないで負け犬らしく、せめて吠えてみせたらどうだ」

「坊ちゃまっ!!」

 たしなめるような大声は、アメリアだった。

 ファングが苦虫を噛み潰す。

「坊ちゃまはせ」

「いいえ、止しません!他所様の事情も分からない内から、そんな風に決めつけるだなんて、アメリアは坊ちゃまをそんな風に育てた覚えはありませんよ!?」

「いや、共に育ちはしたが、お前に育てられた覚えは……」

「めっ!いけませんっ!坊ちゃまの心得違いを正すのも、世話係りである私の役目です!よろしいですか、坊ちゃま。こちらの方は、先ほど不注意でぶつかってしまった私を快く許してくださって、荷物まで拾ってくれたお優しい方なんですよ?」

「なんだ、お前、また人とぶつかったのか。だから、道を歩く時は気をつけろと、いつもあれほど言っているだろうに」

「い、今は、そんな話をしているのではありません!つ、つまりですね、その……この方にも、何か止むに止まれぬ事情があったかも知れないじゃありませんか」

「そうじゃぞ。ちょっとヒドいぞ、お主。ヴァイスは、そこまで腰抜けではないのじゃぞ?」

「とても、そうは見えん」

「なんじゃと!?わらわが嘘を申しておるというのか!?よいか、こやつは、あの時だって身を呈して——そうじゃ、誰ぞひとり魔法使いを雇おうと話しておったじゃろ。丁度よい、ヴァイスを連れて行くがよいぞ。そうすれば、お主にも……ヴァイス?」

 ゆっくりとエミリーを地面に下ろして、力無く微笑みかける。

「いや、そいつの言う通りだよ。俺は、負け犬なんだ」

 我ながら、最悪の台詞だった。

26.

「……何を言うておる?お主、あんな事を言われて悔しくないのか?わらわ達と共に行って、見返してやればよいではないか」

「よしてもらえる?そいつ、私にぶつかって謝りもしなければ、あなた達を探す手伝いを頼んでも無視しようとしたのよ?そんなヤツ、役に立つとは思えないわ」

 田舎女が、的確な告げ口をした。

 返す言葉もありません。まったく同意するよ。

「イヤなのじゃ!!わらわは、ヴァイスがいいのじゃ!!」

 独りで興奮しているエミリーの頭を、軽く撫でる。

「ごめんな。俺は、一緒には行けねぇよ」

「また、そんなことを言うのか!?お主はまた、わらわを置いてきぼりにするのか!?」

 キツい——

 自分では気付いてないだろうけどさ、姫さん。

 その言葉は、胸に刺さり過ぎる。

 そりゃ、俺だって——

 いや、やっぱそういう訳にはいかねぇよ。

「姫さんのこと、よろしく頼むぜ。ちゃんと、無事に里に帰してやってくれよな」

「負け犬に案じてもらわずとも、承知している」

 ファングの返答は、自信満々だった。実際、こいつは強いし、いかにも頼り甲斐がありそうだ。まぁ、心配ねぇだろう。

「じゃあな。機会があったら、そのうち里の方に顔を出すよ」

「ヴァイス……」

 姫さんが声を詰まらせて、それ以上引き止めようとしなかったのは、俺がよっぽど惨めなツラをしていた所為だろう。

 ホントに、どこまで情けねぇんだろうな、俺は。

 くそったれ。

27.

 ここしばらくの平穏が嘘のような一日は、まだ終わりを迎えていなかった。

 ヴァイエルの屋敷のすぐ近くまで戻った俺は、とぼとぼとした足取りで門から離れる人影を認めて目を細める。

 最初は、あの影の薄い女かと思ったんだが——他に、あの野郎を訪ねる変わりモンなんて、いやしねぇからな。

 だが、すぐに人違いだと分かった。

 ひょろっと細い人影は、俺に気付いて一瞬足を止めてから、ゆっくりと歩み寄る。

「おやぁ?これはこれは、ヴァイス君。奇妙な場所で会うじゃないか」

 顔を引きつらせてそう言ったのは、ここに居る筈の無いダーマの魔法使い——グエンだった。

「へえぇ、ヴァイエル様のお屋敷で、君がお世話になってるって話は、本当だったんだねぇ」

 なんでこいつが、こんなトコに居やがるんだ?

「んん?ここで僕と会ったのが気に喰わないのかい?残念でした。僕らダーマの魔法使いは、ルーラを覚えたら真っ先に、上の人に連れられて各地の魔法協会を巡るから、その気になればどこへだって行けるんだよねぇ」

 辺りに蔑むような視線を投げかける。

「まぁ、のんびり市街を見て回るのは、これがはじめてだけどさぁ。大昔の大帝国の首都だなんて言っても、やっぱりアリアハンなんて大したことないよねぇ。貧相でつまんない、君にお似合いの街だよ」

 ぬかしやがれ。手前ぇんトコの山奥よりゃ、よっぽど都会だよ。

「……何しに来やがった?」

「はぁ?自惚れないでくれるかなぁ?僕がわざわざ、君に会いに来たとでも思っているのかい?君なんか、ホンのついでだよ、ついで」

「……ああ、そうかよ」

「おやぁ?勇者様のこと、聞かないのかなぁ?真っ先に聞かれるモンだと思ってたけど……ああ、そうかぁ。君には、もう関係無い話だもんねぇ」

「……」

 グエンは、唇を歪めてククと笑った。

「聞かれても、教えてあげないけどねぇ」

 なんだ、こいつ。

「まぁ、勇者様のお供を辞めたと思ったら、今度は意地汚くヴァイエル様に取り入って弟子入りを果たした君には、今さらどうでもいい話だよねぇ。ホントに、なんで君ばっかり……」

 元からウゼェが——

 俺を見る目つきが、尋常じゃねぇぞ。

28.

「僕が君に劣っているところなんて、なにひとつありゃしないのに!!どうして僕じゃいけないんだっ!!」

 なんだ?

 おそらくこいつは今さっき、ヴァイエルに門前払いをくらったばかりなんだろう。

 だが、それで俺に嫉妬してるだけが理由じゃないような——

「フン。まぁ、君のお零れを掠めようなんてつもりは、元からさらさら無かったけどねぇ。最初から全然、興味なんて無かったよ……なんだよ、なに見てるんだよ」

 いや、意味分かんねぇから。

「その顔つきも気にいらないんだよっ!!僕の事なんて、まるきり気にしてないみたいな……違うだろ!!君は僕に見下される側で、そんな顔つきをしていいのは僕の方なんだっ!!」

 いや、ちょっと待ってくれ。

 俺、お前になんかしたか?

 どっちかっつーと、恨まれるような真似したのは、お前の方だろうが。

 普通は立場が逆なんじゃねぇのか、これ。

 なんなんだ、この野郎の思い込みの激しさは。

「ほら、どけよ!邪魔だよ!ホントに君は、道端に落ちた邪魔っけな石コロそのものだよ!!けつまずいたら、なんでこんなツマンナイ物にって、人を苛立たせるところもソックリだ!!」

 ドンと俺を突き飛ばして、グエンはせかせかと足早に立ち去った。

 俺は呆気に取られて何も言い返せずに、ただぼんやりとそれを見送った。

29.

 それから二、三日の間、俺の日常は平穏を取り戻した。

 ヴァイエルの野郎に悪態を吐かれながら、こき使われるのを平穏と呼ぶのなら、だが。

 ところが、その平穏は、意外なところから綻びをみせるのだった。

「貴様、バハラタへはルーラで行けるな?」

 いつものように呼び鈴で横着に俺を呼びつけたヴァイエルが、そんなことを尋ねてきた。

 反射的に頷いちまってから、後悔しても時既に遅し。

「サマンオサの勇者殿が、バハラタに転移可能な魔法使いを探しているらしくてな。貴様、ちょっと行ってこい」

「……勘弁してくれよ。他にいくらでも、魔法使いは居るじゃねぇか。ルーラでバハラタに飛ぶくらい、あんただって出来る筈だしさ」

五月蝿うるさい。黙れ」

 偉大なる魔法使い様は、そんなつまらない雑事を引き受けたりはしないのだ。

 言外を解説すると、そんなところだ。

「大道芸人共にしても、バハラタに転移可能な者は皆無ではないが、数が少ない。手透きは貴様だけだ。どうせ貴様がここに居たところで、私に余計な手間を増やすばかりだ。つべこべぬかさず、黙って従わんか」

「いや、あのさ……俺の事情は知ってるだろ?」

「貴様、何か勘違いをしているな?現在の貴様は、私の奴隷だ。主人が奴隷の都合を考える必要など無い」

「おいおい……俺は下働きどころか、奴隷だったのかよ」

「認識を正確に改められて重畳なことだな。犬猫程度には物分りが良くなったようでなによりだ。私の躾けの賜物だな」

 あんた、犬猫って。

 いや、まぁ、虫以下呼ばわりよりはマシですけどね。

「ついでに、貴様には用事を申し付ける」

「はぁ」

「我々の中にも、他の魔法使いとの関わりを断って、独自に研究を進める類いの変人がいるのだがな」

 まるで、自分は変人じゃないような口振りだ。

「その多くは単なる心得違いで、益体も無い素人の民間学者に毛が生えたようなのがほとんどだが、ごく稀に閉鎖的な環境が他の者には考えつかぬ成果を生み出すことがある。いつか貴様に話して聞かせた『変化の杖』も、そうした成果のひとつなのだがな、先日ちょっとしたことを思いついた」

「はぁ」

「出来ることなら、手元に実物を置いて調べてみたい。面白い物が作れるかも知れん——ということで、貴様は『変化の杖』を手に入れるまで、帰ってくるな」

「いや、あのさ——」

 今さら、どのツラ下げて、連中の前に顔出しゃいいんだよ。

 と思ったが、これはひょっとして、偏屈な魔法使いの魔手から逃れるチャンスかも知れない。

 このままここに居座っても、眠ってる間に何をされるか分かったモンじゃねぇし、奴隷生活から開放してやると向こうから提案してくれてるんだ。

 言うこと聞くフリして、トンズラかましゃいいんじゃねぇの?

「——承知しました、ご主人様」

「下らん嫌味をぬかすな。言っておくが、貴様の浅墓な考えなど、隅から隅まで完全に筒抜けだぞ。今後、貴様が取るであろう行動も、全てお見通しだ。その上で命じていることを忘れるな」

「……いちおう、承っといてやるよ。んで、その魔法使いは、何処に居るんだ?何処に行きゃ、その『変化の杖』とやらは手に入るんだよ?」

「知らん。他の魔法使いと関わりを断っていると言っただろうが。ほんの少しばかり前の会話も覚えとらんのか、貴様は」

「いや、あのな。じゃあ、どうやって手に入れるんだよ?」

「知らんと言っている。短期間とは言え、私の元に居たのだ。貴様の不自由な脳味噌も、小指の先程度にはマシになった筈だ。少しは自分で考えて、せいぜい気張って探すことだ」

 無茶苦茶言いやがる。

 だが、それに慣れてきている自分を発見して、俺はなんだか妙な物悲さを覚えた。

30.

「バハラタまで運んでもらえれば、別にどいつだろうが構わん」

 興味無さげに、ファングはそう言った。

「まぁ、他に居ないんじゃ仕方ないけど……あなた、ホントに役に立つんでしょうね?」

 疑り深い眼差しで、田舎女が俺を睨みつける。

 やかましい。

 俺がトンズラこかないで来てやったのは、何もお前らの為じゃねぇっての。

 俺はただ、姫さんの喜ぶ顔が見たかっただけだ。

「どちら様じゃったかの?」

 俺を見ようともせずに、エルフの姫君は薄い唇を尖らせた。

「お主のような薄情な人間など、わらわは知らぬのじゃ」

 その後、機嫌を直した姫さんが、脚の間にちょこんと腰掛けて髪を撫でさせてくれるまで、俺はさんざん謝り倒さなくてはならなかった。

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