27. Soft and Wet

1.

「……ィス?」

 暖かなまどろみの中で。

「……ぇ、ヴァイスってば」

 優しく、俺を呼ぶ声を聞いた。

「も~、ホントに朝が弱いんだから」

 瞼の裏が白い。

 窓から朝日が差し込んでるんだ。

 眩しい。

 目なんて、開けらんねぇよ。

「ちょっと!」

 布団に潜り込もうとしたら、勢い良くひっぺがされた。

「う~……」

 我ながら不機嫌な声をあげて、手探りで掛け布団を探っていると——

 唇に、なにか柔らかいものが触れた。

 その感触で——

 自分の置かれた状況がまどろみの底から浮上し、今なにをされたのか思い当たって目を見開く。

「おはよ」

 眩しくてすぐに細めた目の隙間から、照れ臭そうな微笑みが覗いた。

「ひっどい顔——ほら、そろそろ起きて。もうすぐ、朝ご飯の仕度ができるから」

 ベッドに両手をついて、俺に覆い被さっていたマグナは、上体を起こしながらそう促した。

「ん、あぁ……うん」

「早くしないと、お昼ご飯になっちゃうでしょ」

「……もう、そんな時間か」

 あまり意味の無いことを呟きつつ身を起こし、唇に指先を当てる。

 すると、マグナの顔が面白いくらい、目に見えてぼっと赤くなった。

2.

「ちっ……違うのよっ!?だって、ヴァイス、起こしても全然起きないから……だから、その……スしたら起きるかなって、ちょっと思いついただけで……」

 なにが違うんだ。

「そしたら、やっぱりすぐ起きたじゃない……すけべ」

「自分からしたヤツの台詞かよ」

「うるっさいわねっ!!元はと言えば、すぐに起きないあんたが悪いんだからね!?……ちょっと、なに目、閉じてんのよ。気持ち悪い」

 気持ち悪いって、お前。

「いや、さっきは寝惚けてたからさ」

「……なにそれ。まさか、もう一度しろって言ってんの?」

「今度は、はっきり覚えとくから」

「……もう起きてるでしょっ!?イヤよ……ずかしい」

「じゃあ、また寝ちまうぞ?」

「あのねぇ、子供じゃないんだから……ホント、しょうがないわね」

 片目を薄く開けると、瞳を閉じた震える顔が近付いてくる。

 軽く唇が触れ合い、離れようとした頭を抱えて逃がさない。

「——っ!?」

 しばらく大人しくしていたマグナは、やがてじたばたしながら俺の胸を手で打った。

「ぁっ——いつまでしてんのよっ!?死んじゃうでしょっ!?」

「いや、別に息すりゃいいのに」

 こいつ、キスしてる間中、ずっと息止めてやがんの。

 ほとんど経験の無いマグナは、唇も固く結んだままだった。お陰で、舌を入れられなかったのが残念だ。

「——ばかっ!!」

 あいた。

 くそ、どうせ頭をはたかれるなら、唇くらい舐めてやりゃよかったぜ。

 顔を真っ赤にしたマグナは、口の辺りを押さえながら、ぱたぱたと小走りに玄関脇の勝手に戻っていく。

 でもまぁ、まんざらでもなさそうだ。

 気が付くと、顔がニヤけていた。

3.

 マグナと二人きりで、連れ立ってダーマを後にしたのが、なんだか遠い昔のように感じられる。実際は、そこまで日数は経ってないんだけどな。

 ダーマを抜け出した俺とマグナは、まず東へと向かった。

 目的地は決まってなかったが、目指す土地の条件はあった。第一に、誰もマグナを知らないことが望ましい。

 なので、これまで通ってきたバハラタの方面——つまり南や西は対象外だ。そして北は、世界地図で確認する限りでは山岳地帯が続いているばかりで、定住できそうな集落があるとは、あまり思えなかった。

 残された東の方面は、世界地図によれば山脈さえ迂回すれば平地が広がっているらしく、馬首は自然とそちらを向いた。

 それから、これは俺の考えだが——できれば、魔法協会の支部がある街は避けたかった。協会経由で噂が伝わらないとも限らないし、なによりルーラ一発で追いつかれちまうからだ。

 そんな訳で俺達は、まず東へと進み、山脈を迂回した辺りで集落を求めて進路を北に変えた。

 旅——というか逃避行の最中、マグナは塞ぎ込んでいることが多かった。

 特に最初の内は、まるで魂が抜けちまったみたいな様子で、しばらくしてようやく少しは喋るようになったと思った頃合に、間の悪い事件に見舞われた。

 肥満オヤジの腹みたいに余った肉を弛ませた醜い魔物に道中で出くわしたんだが、そいつがメダパニのような効果を持つ魔法を使ってきやがったのだ。

 その場はなんとか切り抜けられはしたものの、前後不覚に陥って俺を攻撃してきたマグナは、正気に戻ってから一層ひどく落ち込んじまった。

 俺はあえておどけたり明るく振舞おうと努めたんだが、二人きりの道行きでは、どうしても打ち沈んだマグナの様子に引き摺られがちになっちまった。

 正直に言って、リィナとシェラの存在は、思っていた以上に大きかったことを痛感せざるを得なかった。

 魔物との戦闘の場面ではもちろんのこと、お互いに押し黙った状態が長く続くと、今ここにあいつらがいればな、とか気付くと考えちまってた。虫のいい話だとは思うけどさ。

 そんな時は、やっぱりマグナもあいつらの事を思い出してしまうようで、タマに口を開けば、「シェラとリィナには、ヒドいことしちゃったよね……」とか、しおらしい声で呟くのだった。

4.

 そんな具合で、二人きりとはいえ、色気のある状況とはほとんど無縁だった。

 そういう空気じゃねぇっつーかさ。なし崩し的に、そういう方向に持ってけないこともなかったんだろうけど、ここまで来てそれは、なんか俺としてもイヤだったっていうか。

 それになにより、北に上るにつれて厳しさを増す寒さで、身を寄せ合って眠った時でさえ、それどころじゃなかったって話ですよ。

 二人きりの道行きは、襲いくる魔物共を退けるだけでも骨が折れ、蓄積していく疲労はマグナの愁いをさらに深めていくようだった。

 それでも——マグナは泣かなかった。

 マグナはまだ、ほんの十六歳の少女でしかない。いろんなことがあり過ぎた。疲れて、弱音のひとつも吐いて、泣きじゃくってみせてもよさそうなモンなのに、マグナは結局、一度も涙を見せなかった。

 改めて、こいつの強さを実感させられる——というよりも、ひと度その一線を越えてしまったら、もう二度と浮かび上がれないくらいに落ち込んでしまう事を畏れているのかも知れない。俺は、そんな風に想像した。

 困ったことに、腰を落ち着けるのに具合のいい集落はなかなか見当たらず、ますます調子づく冬将軍のご機嫌を伺いながら、俺達は北へ北へと進まざるを得なかった。

 やがて、地面は残雪に白く覆われはじめ、さらに進むと空から新しい雪が降り出した。

 はじめは然程の降りじゃなく、タマには雪景色ってのも気分が変わってオツなもんだ、とか軽く考えていたのがいけなかった。

 防寒着代わりになりそうな服なら用意があったし、なによりアリアハンでは豪雪に見舞われた経験なんて無かったから、その猛威について理解が足りなかったのだ。

 吹雪いてから、南に引き返そうと思った時には、もう遅かった。

 視界はあっという間に白一色に遮られ、自分達がどちらに進んでいるのかも分からない。

 これが普通の遭難なら、なるべくその場を動かずに救助を待つ手もあるんだろうが、俺達の場合はそうじゃない。俺とマグナがこんな場所に居る事を、誰も知らないのだ。

 助けが期待できる筈もなく、なんとか身を隠せそうな岩陰を見つけた俺達は、雪で壁を拵えて吹雪をやり過ごしながら、多少なりとも収まるのを待って、とにかく移動を続けることに決めた。

5.

 フクロに薪が残ってたのは、本当に幸いだった。

「ごめんね、あたしの所為で……」

 焚火で暖をとり、ありったけの服や毛布にくるまって身を寄せ合いながら、マグナがぽつりとそんなことを口にした。

 ただでさえ落ち込んでたところに、この状況じゃ無理ねぇけど、また随分としおらしくなっちまったモンだ。

 そう言ってからかっても、さっぱり反応が振るわないのだった。

「だって……あたしの所為で……あたしの我侭のせいで、ヴァイスが死んじゃったら……そんなの、ヤダよ」

「気にすんなよ。だって俺は、お前の目の届くトコに居なきゃいけねぇんだろ?」

 大して上手いことも言ってやれず、返事も無かったので、俺は言葉を重ねた。

「それにさ。俺だって、自分の知らねぇトコでお前が死んじまったら、そんなのイヤだからさ」

 マグナはなんとも答えなかったが、一層身を寄せてきた。

 吹雪が少し収まったのを確認して表に出ると、馬は動かなくなっていた。

 マグナはそれを、短い時間ではあったが凝っと見下ろしていた。

 申し訳無いが、供養してやる時間も体力も無く、俺達は徒歩でその場を後にした。

 いくらもしない内に、また吹雪に見舞われた。

 今度は、身を隠せそうな場所も見当たらないまま、日が落ちた。

 笑っちまうくらい、どうしようもなかった。

 右も左も分からないどころの騒ぎじゃないのだ。何も見えない状態で、吹き荒れる風雪にもみくちゃにされていると、世界の果てまでぎっしり雪に埋め尽くされていて、そのド真ん中に置き去りにされたみたいな心細さに襲われる。

 繋いだ手が、厚手の手袋越しに辛うじてマグナの存在を伝えてなければ、もう一歩だって動けなかったに違いない。

 いよいよ、ここまでかね。

 魔法協会経由でダーマの連中に情報が伝わって、すぐに見つかっちまうかもしれないが、ルーラでどこかの街に戻るしかない。

 マグナが死んじまうよりは、ずっとマシだからな。

 そう思って、俺はほとんどルーラを唱えかけていたんだが——

6.

「灯り——あれって?」

 俺の手を握ったまま、マグナが遠くを指差して、そう言ったのだ。

 断続的に吹雪に遮られて明滅して見える橙色の光が、俺にも見えた。

 どれだけ頼りなくても、それはこの上なく俺達を勇気付けた。世界は全て雪に埋め尽くされた訳じゃなかったのだ。暖かそうな光を放つ何がが、確かにそこに存在していた。

 荒れ狂う吹雪に掻き消されちまいそうな微かな灯りに向かって、俺達は必死に足を動かした。

 だが、思ったより遠かったんだ、これが。

 いくら雪を掻き分けても、一向に近付いたように感じられない。

 この頃には、俺もマグナも疲労困憊もいいところで、ともすれば途切れそうになる意識を、お互いに声をかけ合ったり体を叩いてなんとか繋ぎとめているような状態だったので、自分で思った程には足が動いてなかったのかも知れない。

 寒いってより痛かった全身は、それすらとっくに通り越して感覚を失っていた。意識が混濁をはじめ、なんかもう、逆に気持ち良くなってきた頃に、ようやく家屋の陰が窺えるところまで辿り着いた。

 そこで、ほっとしちまったのがいけなかったんだろう。

 俺は——多分、マグナもほぼ同時に——そこで、意識を失った。

7.

 次に目が覚めると、俺は暖かい部屋の中でベッドに横たわっていた。

 自分がまだ生きている状況が上手く呑み込めずに、ぼんやりしていたのも一瞬で、慌ててマグナの姿を探す——といっても、ほとんど体が動かないような状態だったので、首を動かすのがやっとだったが。

 隣りのベッドで寝息を立てているマグナを発見して、心の底から安堵する。

 やれやれだ。お陰で、最後までルーラを唱えなかった自分を恨まずに済んだ。

 介抱してくれたおばさんから聞いたところによれば、ここはムオルという村で、たまたま表に出ていた村の子供が、倒れていた俺達を見つけてくれたらしい。すぐに村長の家に運び込まれた俺達は、危うく九死に一生を得たという訳だった。

「あんた達を見つけたのは、ポポタってんだけどね。ポカパマズさんの時といい、なんだいあの子には、何かそういう妙な運でもあるのかねぇ」

 と、おばさんはよく分からないことを言った。

 この時は、なにしろ俺もヒドい有様だったので、前にも行き倒れたヤツがいたらしいなと思うくらいで、聞き慣れない名前の主を、それ以上気にかけることもなかった。

 何日か村長の家で養生させてもらった後、これからどうするのかと尋ねられた俺達は、出来ればここに住まわせて欲しいと持ちかけた。

 どの道、冬の間は村から出ていけそうになかったし、ここの住人達は、どうやら魔法協会なんて聞いたことが無いってのも好都合だった。

 ちょうど秋口に村を出ていった人間がいたそうで、空いている家が一軒あるから、よければそれを提供しようとまで言ってくれた。

 どうにか体が動くようになっていたこともあり、俺は早くマグナと二人きりになりたくて仕方が無かったので、一も二も無くその話に飛びついた。

 マグナも、多少なりともそう思ってくれていたようで、空家の主は独り者だったから、二人で暮らすには手狭かも知れないけれど、見たところ夫婦者だから問題ないだろう、と言われた時も、特に否定しなかった。

8.

 で、二人してこの家に移ってきたのが、つい昨日のことだ。

 なんにせよ、今朝になってマグナが、何か吹っ切ったみたいに明るくなってて安心したよ。

 村長さんトコで世話になってた間は、家人に気を遣っていたのか、それほど落ち込んだ様子は見せなかったんだが、二人きりになった昨夜は、ひどく塞ぎ込んでたからな。

 前の家主が独り者だったんで、ベッドもひとつしかなかったから、ジツは一緒に寝たんだけどさ。

 なんつーか、抱き締めてやるくらいがせいぜいで、手を出すとかそういう雰囲気じゃなくてな。

 まぁ、最後にとことん落ち込んで、気持ちを切り替えられたなら、なによりだ。マグナのことを誰も知らないこの村に、当分の間は腰を落ち着けられそうだってのが、いい方向に働いたのかね。

 それにしても、まさかキスで起こされるとは、夢にも思ってなかったけどな。

「どう?おいしい?」

 ついこの前までのヒデェ状況を考えれば、想像もつかないくらいのどかな朝食の風景。

 マグナは自分の皿には手をつけず、少し心配そうな、しかし期待の篭った眼差しを俺に向ける。

「ああ、うん。美味いよ」

 照れが喉を塞ぎかけたが、俺はなるべく間を置かないように答えた。

「よかった。そうよね、ちゃんと味見したし——食材とか調味料とか、知らないのばっかりだからちょっと心配だったんだけど、煮ちゃえばなんとかなるもんよね」

 にっこりと笑って、ようやくマグナも自分の匙に手を伸ばす。

 シェラと一緒に、マグナが料理をすることも度々あったからな。意外と料理ができるってのは、俺は前からよく知ってるし、それはこいつにも分かってた筈なんだが。

 柄にも無く不安げな顔つきをしてみせたのは、やっぱり自分が作った料理を、サシで向かい合って食べるって状況は、また気分が違うからかね。

 このスープもそうだけど、味付けはシェラよりちょっと濃い目かな。いや、嫌いじゃないぜ。悪くない。

9.

「食べ物まで用意してくれてたんだから、村長さん達にはホントに感謝しなきゃね」

 まったくだ。いちおう、お礼は受け取ってもらったけどさ。

「でも、今日明日くらいしか賄えないから、後で買出しに行ってくるね」

 暖炉で爆ぜる薪。

 暖かい食事。

 終始どこか嬉しそうに微笑んでいるマグナ。

「ほら——おべんと」

 いつの間にやら俺の頬についていたパン屑を手を伸ばして抓み、マグナはそれを口に運んだ。

「前から思ってたけど、あんたって食べるの下手よね。すぐぽろぽろ零すし、ホントに子供みたい——って、なにニヤニヤしてんのよ」

 いや、だって、お前。そりゃニヤつきもするだろ。

「——ねぇ?」

 かいがいしく食後のお茶とか淹れて、再び俺の正面に腰を下ろしてから、マグナがなにやら少し甘えた声を出した。

「ん?」

 緩みっぱなしになりそうな頬を、引き締めるのに一苦労だ。

「あのね……明日がなんの日だか、覚えてる?」

 スプーンでティーカップの中身をかき混ぜながら、マグナは覗き込むように俺を見た。

「ああ、もちろん」

 唐突な質問だったからな。ホントは分かっちゃいなかったが、女がこういう事を尋ねてくる時ってのは、大抵相場が決まってる。

 俺は辛うじて、すぐに答えを連想できた。

「誕生日だろ——お前の」

 当然、ハナから知ってましたよ、という表情で返してやると、マグナはちょっと目を見開いた。

「覚えててくれたんだ……」

 いや、そんな嬉しそうな顔されると、若干胸が痛むんですが。

「でも、それだけ?」

 へ?

 まだなんか、他にあったっけ?

 今度は、内心が思いっきり顔に出ちまったようだ。

 マグナは苦笑を浮かべて、唇を尖らせた。

「も~。あたしの誕生日なんだよ?」

「うん?」

 だから、そう言ったじゃん。

10.

「つまりね——」

「つまり?」

「……ホントに分かんないの?」

「……悪ぃ」

 なんだっけ?

「謝ることないけど……だからぁ、あたしの誕生日ってことは、つまり、あたしとヴァイスがはじめて出会った記念日ってことじゃない」

 ああ、そうか。

 マグナが旅立ったのが、十六歳の誕生日だもんな——おめでとうくらい言ってやるべきだったかね、一年前の俺。

「あたしも昨日おばさんに、今が何日か確かめて驚いたんだけど……もう一年も経つんだね」

「そうだな……過ぎてみれば、早いモンだ」

 色々あったから、ホントにあっという間だったよ。

 生まれてからこっち、俺にとって最も密度の高い一年だったことは間違いない。

「ホントだよね。一年経ったら、こんなトコロでこんな風にしてるなんて、あの時は思えなかったな……」

 両手を添えたティーカップに視線を落としながら、マグナはしみじみとこぼした。

「しかも、ヴァイスと二人きりで、なんてね」

 くすりと笑う。

 やべ、また頬が緩んじまうよ。いや、別にいいんだけどさ。

「俺もだよ」

 こんな平凡な人間が、この一年で巻き込まれたみたいなご大層な経験をすることになるなんて、俺の方こそホントに思ってもいなかったよ。

 自分でも不思議なんだが、つまんない事をごちゃごちゃ考える割りに、俺は結構考え無しの行動を取っちまうところがある。じゃなけりゃ、一年前のあの日、いくら脅されてもマグナにほいほいついて行ったりはしなかっただろう。

 俺は多分——自分の将来とかそういうのに、あんまり興味が無かったんだ。というか、自分がどうなろうが、どうでもよかった。

 凡人の自分が辿る道は、そこら辺のいわゆる普通の連中を見ていれば容易に想像がついたし、きっとその通りに進んでいくに違いない。そんな風に諦観している部分があったんだと思う。

 でも、これからは将来だとかそういう事を、もうちょっとまじめに考えねぇとな。いわゆる普通の連中が、皆きちんと当たり前に考えているように。

 マグナの顔を眺めながら、そんな事を思う。

11.

「えっと……だからね?」

「ん?」

「その——日が変わったら、プレゼント交換するんだからね?あんたも後で、ちゃんと買ってきなさいよ?」

 ちょっと言葉を詰まらせてから、やたら早口でマグナはまくし立てた。

 きょとんとした俺のツラが気に喰わなかったのか、ぷくっと頬を膨らませる。

「なによ。イヤなの?」

「いや、そうじゃねぇけど……」

「けど?」

 そんな睨むなよ。

「もちろん、俺が物を贈るのは構わねぇけどさ……でも、明日はお前の誕生日だろ?俺がお前からなんか貰うのは、違くねぇか?」

「いいじゃない。出会った日なんだから、お互いの記念日でしょ!?」

 拗ねつつも甘えてるみたいな表情が、なんていうか……いや、なんでもない。

「分かったよ。そうしよう」

「なによ、そんな渋々みたいに……その気がないなら、別にもういい!」

「いや、渋々じゃないって」

「……」

 ジト目は止めろ。

「いや、ホント。俺も、マグナからなんか貰えたら、嬉しいしさ」

「……でしょ?何か残るモノがあった方が、いいよね」

 コロっと表情を変えて、嬉しそうに笑ったマグナは……いや、なんでもない。

12.

 その後、テーブルの食器を勝手に運びつつ、マグナが俺に声をかけた。

「じゃあ、ちょっと買出しに行ってくるね」

「ああ、分かった。今行くわ」

 当然ついていくつもりで、というか、てっきり荷物持ちをさせられると思ったので、一緒に表に出ようとした俺は、玄関のところでマグナに押し止められた。

「違うでしょ?ヴァイスは、来なくていいの!」

「へ?なんで?」

 聞き返すと、上目遣いに睨まれた。

「も~。さっき言ったこと、もう忘れちゃったの?相変わらず、人の話をちゃんと聞かないんだから」

 さっき言ったこと?

 ああ、そうか。ついでにプレゼントも買ってくるのね。先に中身を知っちまったら、交換の楽しみが半減だと、まぁそういう訳か。

「分かったよ。じゃあ、俺はマグナが帰ってきてから行くわ」

「よろしい」

 満足そうにトンと俺の胸を叩いたマグナは、だが、なかなか出て行こうとしなかった。

「ああ、皿洗いはやっとくよ」

「うん、お願いね」

 ぼけーっと突っ立っていた俺の服の裾を、くいくいっとマグナが引っ張る。

「ん?」

「行ってきます」

「うん?——行ってらっしゃい」

「だからぁ……もぅ、そうじゃないでしょ!?」

 恥ずかしそうに頬を染め、マグナは瞳を閉じて顎を上げた。

「ん」

 お前……キスのおねだりとか。

 危ねぇ、なんか笑いそうになっちまった。慌てて口元を手で押さえる。

 おはようのキスといい、記念日とか言い出したことといい。

 なんていうか、こいつ、こういう普通の恋人同士みたいなやり取りに、多分子供の頃から、ずっと憧れてたんだろうな。そういう空気が伝わってくる。

 今日になって、急に明るくなったからさ。ここまでは、いまいち調子を合わせきれてなかったけど、そっちがその気なら話は別だ。よろしい。ここらでちょっと、ペースを取り戻させてもらうとしますかね。

13.

 目を瞑って上を向いたままのマグナの額に、デコピンを喰らわせる。

「——いたっ!?」

 びっくりして開かれた口が閉じない内に、俺は素早く唇を合わせて舌を滑り込ませた。

「——っ!?」

 俺を突き飛ばして身を離し、マグナは両手で口を押さえながらこちらを睨みつける。

「いや、その、なんだ。口が開いてた方が、息がし易いだろ?」

「……ばか」

 いてぇ。拳骨で肩を叩くな。

「もぅ……いきなり、なんてことすんのよ……」

 くちびる——と囁きながら、またマグナが顔を寄せてきたので、今度は要求通り、素直に軽く唇を触れ合わせるだけにしておく。

「じゃあ、行ってくるね」

「うん、気をつけてな」

 小さく手を振ったマグナが、ぱたんと閉じられた扉の向こうに消えた途端、俺はせかせかと早足で奥の部屋に戻って、そのままベッドに身を投げた。

 布団を抱き締めて、じたばた身悶える。

 いやぁ、まいったね。

 やっべぇなぁ、あいつ——

 ああ、もういいや。認めちまおう。

 あいつ——すっげぇ可愛いよ。

 ああ、はいはい。そうですよ。ずっと前から、そう思ってましたよ。

 あーもうマジ可愛い。すっげぇ可愛いの。超可愛い。

 しっかしまぁ、まさかあいつの方から、ああいう素振りをしてくるとはなぁ。一年前からは想像もつかねぇ変化だよ、ホントにさ。

 でも、あいつって多分、元から根っこのところはすげぇ女の子っぽいんだよな、俺の見たところ。

 つか、あーヤバい。

 とある予感に、顔がニヤけっぱなしだ。

 アレですよ。

 これはいよいよ、来ちゃいましたかね。

 どう考えても、あいつもそういうつもりだと思うんだ。

 つまり、その——俺とマグナが、そういう仲になっちまう日が、とうとう来ちまったみたいですよ?

14.

 しかも、明日はマグナの誕生日だってよ。

 やっべぇなぁ。

 ってことはだよ。

 今夜、そういうことになっちゃうとするだろ?

 んで、日が変わった頃合に誕生日のお祝いとかして、プレゼント交換なんかをしてる内に、また気分が盛り上がってくる訳ですよ。

 そしたら、当然もう一回とかなる訳でして——要するにだな。

 十六歳最後のマグナと、十七歳最初のマグナを、立て続けにいただけちゃうってな寸法ですよ。

 うん、考えてることがおかしくなってきたけど、気にすんな。

 だってよ、この時のことを、これまで俺が妄想してこなかったとでも思ってんのか。

 何度も抱き締めてるし、下着姿も見てるし、あいつの体つきはよく分かってる。この一年で、胸もちょっと大きくなったみたいでさ——はいはい、そうですよ。細身でモロに俺の好みですよ。

 あとさ、ジツはあいつ、尻の形がいいんだよ。薄過ぎず厚過ぎず、横から見た時の丸みも後ろから見た時の腰つきも、かなり俺の理想に近いんだわ、これが。

 それをお前、今日はじっくり眺めたり、直に触ったりできるんだぜ。やっべぇよなぁ、オイ。

 あ、そうだ。外は寒いから、さっきは穿き物着けて出てったけどさ、夜中は暖炉にガンガンに薪くべて、暖かくしてスカート穿いてもらおう。

 そんで、下から覗き込んだり、手を差し入れちゃったりして——ああ、いかんいかん。

 あいつ、はじめてなんだもんな。

 こんな下品なことばっか考えてねぇで、優しくしてやらねぇと。

 まぁ、自然と優しくなるけどね。

 だって、こんなにあいつを可愛く思ってる。

 今すぐ抱き締めたいくらいに。

 だから、優しく、気持ち良くしてやらなきゃな。

 気持ち良くしてやれば、あいつもまたしたくなるだろうし——いや、違うって。することばっか考えてる訳じゃねぇよ。

 あいつの気持ちも、ちゃんと考えてる。もちろん、無理強いなんてしないけどさ——けど、まぁ、間違いなく、今夜はそういう事になるよな。

15.

 それにしても、なぁ?

 まさか、俺とマグナが、こういう普通の恋人同士みたいな関係になる日が、ホントにくるとはねぇ。感慨深いっていうか、なんていうか。

 でも、さっきも思ったけどさ。あいつ、こういう「いかにも」な間柄に、きっと憧れてたんだよな。

 ふと、腹の底でくすぶった違和感は、すぐに浮かれた気分に塗り潰された。

 誕生日のプレゼント、せいぜい奮発してやらねぇとな。

 贈って喜んでくれるような、なんかいいモンが見つかるといいんだが。

 この村、ド田舎の割りには小癪にも、そこそこデカい市場——というか商店街があったから、まぁ、なんかしら見つかるだろ。

 ベッドで悶々としている間に時間が過ぎていき、危うく思い出して皿洗いをちょうど終えた頃に、マグナの帰宅を知らせる扉の開閉音が耳に届いた。

 迎えに出ると、マグナは食材やらの入った籠を両手で下げたまま、ぼんやりした様子で玄関口に立ち尽くしていた。

「おかえり。声くらいかけりゃいいのに」

「え——ああ、ううん——ヴァイス、寝てるかもって思って……」

 すぐ脇の窓から差し込む光の加減か、一瞬だけこちらを向いた顔色が悪いように見えた。

「どうした?」

「え——?うん、ちょっと疲れちゃった……やっぱり、荷物持ちしてもらえばよかったかな」

 俯いたまま籠を下ろし、俺を扉へと押しやる。

「ほら、今度はヴァイスの番だから。いってらっしゃい」

「ああ。なんか、買い忘れたモンとかあったら——」

「ううん、無い。ありがと。ほら、早く行ってきなさいよ」

「おい、ちょっと——」

 締め出されるようにして、そのまま外に出されちまった。

 なんだなんだ。

 俺と同じように、今夜のことを想像しちまって、恥ずかしくて顔合わせらんないとか、そういうアレか。

 この時は、そんなバカなことを考えていたのだった。

16.

 昨日までちらほらと舞っていた雪は、今日になって止んでいた。

 商店街の通りには雪避けの屋根がついてるから、降っても買い物にはあんまり困らないけどな。

 さて、なにを買ってやろうかね。

 身につける物にしようと思うんだが、首飾りは前にやったし、違う物がいいよな。

 指輪は同じのを二人で一緒に選んだりしたいし、そもそも径が分からない。

 服は好みがあるしな。ちょっとした装身具——耳飾りとか腕輪辺りが無難な線だろう。

 とはいえ、こんなド田舎じゃ、そう大したモンは無いだろうけどさ。

 そんなことをあれこれ考えながら、屋根つきの通りを流しつつ店先を物色する。

 案の定、ピンとくる物はなかなか見当たらなかった。武器屋を覗いても仕方がないし、道具屋でもこれといった物は見つからない。

 さすがに宝飾品を専門に扱うような店は無く、はてさてどうすっかと思っていたら、通りの一番奥に雑貨屋を発見した。あそこなら、なんかありそうだ。

 模造品臭いが、腕輪やら耳飾りやらが多少は置いてあった。通りに向かって開けた店内を外からざっと見回した俺は、店のほぼ中央に、周囲の雑貨とはそれだけ趣きの異なる、とある一品を見つけて視線を止める。

 それは、かなり使い込まれた風の、やけに立派な兜だった。

 他には、武器や防具の類いは陳列されていない。なんでまた、ひとつだけ兜が飾られてるんだ?

「やっぱり、お兄さんも、その兜が気になりますか」

 奥から出てきたオヤジが、声をかけてきた。

「ああ、うん。まぁな……」

 こんだけ目立ってれば、誰でも目をとめると思うが。

「いえね、先程いらした娘さんも、いたくそのポカパマズさんの兜を気になさっていたのでね。お兄さんも、ここじゃ見かけない顔だ。あの娘さんの連れの方でしょう?」

 マグナも、この店を覗いたみたいだな。

「行き倒れてたって次第がよく似てるからでしょうかねぇ……しかも、見つけたのがポポタってトコまでおんなじだ。あの娘さんを見てたら、なにやらあたしも、ポカパマズさんを思い出しちまってねぇ」

「……そのポカパマズさんって、誰なんだ?村長さんのトコでも、名前を聞いたけどさ」

「いえね、だから、以前にあんた方と同じように、この村で行き倒れなさったお方ですよ」

 なんも情報が増えてねぇ。

17.

「これがあんた、また大層立派な方でねぇ……あんな大丈夫は、世界中探したって見つかりゃしませんよ。

 ああ、そうだ。ちょうど今、二階にポポタが来てるから、あんたもあの子に話を聞くといい。郷に残してきた子供を思い出す、なんて言ってねぇ、ずいぶんポカパマズさんに可愛がってもらってたからさ、あの子は」

 ジツのところ、ポカパマズとやらに大した興味は無かったんだが、ポポタって子供の方には、村長の家で朦朧としてた時分に礼を言った記憶がぼんやりとあるだけだ。

 なにしろ、文字通りに命の恩人だからな。特にマグナを救ってくれたことには、いくら感謝してもしきれない。

 改めて礼を言っておくべきかな、と思った俺は、マグナが気に入ってくれそうな小振りの耳飾りを買った後に、オヤジの言葉に甘えて二階に上がらせてもらうことにした。

「やぁ、今日はなんと得難い日なんだろう。またしても、アリアハンからのまれびとがいらっしゃったよ」

 下に居る時から聞こえていた弦楽器の音色の主が、そう言って迎えると、室内にいた人間の視線が階段を上って姿をみせた俺に集中した。

「ああ、いえ——先程、お連れの娘さんが、こちらに見えましてね。あなた方がアリアハンの出身であることを伺ったのです。娘さんのお加減はいかがですか?」

 俺が怪訝な顔つきをしていたからだろう。髪の長い優男は、そんな説明をつけ加えた。

「ん?ああ——大丈夫だと思うけど」

「それは良かった。急に具合を悪くして帰られてしまったので、心配していたのですよ」

 床に腰を下ろした、いかにも生意気そうな小僧が、小指を立てながら俺を見上げた。

「なぁ、あの姉ちゃん、あんたのコレだろ?さっきのは、やっぱツワリってヤツか?」

 おいおい、このガキ、なんてこと言いやがる。

「これ、ポポタ!」

 おそらく、店にいたオヤジの奥さんだろう。隣りに座っていたおばさんが、ぺしっと小僧の頭をはたいた。

「いってーな!」

「そういう不躾な事を、人様に言うんじゃありません——ごめんなさいねぇ。この子ったら、ホントにやんちゃで……尤もねぇ、そういうやんちゃな子だからこそ、あの日も親の言いつけを聞かないで表に出て、あなた達を見つけられたのかも知れませんけどねぇ」

18.

「そうだぜ、オレ、こいつらの命の恩人ってヤツなんだからさ、別にどんな口利こうがいいじゃんか」

「これ!」

「そうだな。改めて、礼を言わないとな。俺達を見つけてくれて、ホントありがとな」

 悪ガキでも命の恩人には違いない。俺は素直に礼を言った。

 まぁ、大人の余裕ってヤツだ。

「え……べ、別に、大したこっちゃねぇけどさ……」

 ポポタは、急に目を泳がせて照れてみせた。

 こういう悪たれは、真正面から礼を言われたりするのに弱いんだよな。

「——なんだよ、あんたもコレが気になんのか?」

 傍らに置かれた握りのついた木筒に、何気なく俺が視線を落としていた事に気付いて、ポポタは助かったみたいな顔をして話題を変えた。

「いや、別に……そうだな。なんなんだ、それ?」

 どうやら自慢の一品らしいので、正直どうでもよかったが付き合ってやることにする。

「なに?分かんねーのかよ。さっきの姉ちゃんは、ひと目で分かったぜ?」

 馬鹿にしたように、ヘッとせせら笑う。ホントに生意気だな、このガキは。おばさんを挟んで反対側に座ってる、もう一人のガキは大人しそうなのによ。

「当ててみろよ。はい、さーん……にーい……いーち……」

 勝手に秒読みをはじめたポポタに、俺は考えるフリだけしてみせた。

「う~ん、分かんねぇや。教えて——」

「こういうモンだよ!」

 素早く木筒を取り上げたポポタが、握りの部分を押し込むと、先端に空いていた穴から勢い良く水が飛び出して、俺の顔面を直撃した。

 いきなりだったから、不覚にも水が鼻に入っちまった。むせ返る俺を見て腹を抱えたポポタが、またおばさんに叩かれる。いい気味だぜ。

「すげぇだろ。ポカパマズさんに作ってもらったんだぜ、これ」

 叩かれた頭をさすりながら、ポポタは誇らしげに鼻を高くした。もう一人のガキは、ポポタが手にした木筒を羨ましそうに眺めている。

 口振りから察するに、遊び道具それ自体よりも、ポカパマズとやらにもらったという点が重要なようだった。

 つか、だからポカパマズって、誰だよ。

19.

「お店での話し声は、少し聞こえていましたよ。なんでも、ポカパマズさんの事をお知りになりたいとか」

 吟遊詩人の優男が、胡坐をかいて抱えた弦楽器を爪弾くと、ポロロンといい音色が鳴り響く。

「私でよろしければ、かの偉大な英雄から直接伝え聞いた、驚くべき冒険の数々を語って聞かせましょう——ポポタ達は、さっきも聴いたばかりだから、つまらないかも知れないけどね」

「ううん、また聴きたい」

 と、大人しい方のガキが目を輝かせる。

「ポカパマズさんの話に、オレが飽きるワケないじゃん」

 悪ガキのポポタも、そんな可愛げのある口を利くのだった。

「……そんじゃ、ちょっとお願いしようかな」

 いや、まぁ、そこまでしてもらわなくてもいいんですがね。

 喉まで出かかった言葉を呑み込んで、俺は優男に頷いてみせる。

 だって、ガキ共がすげぇ聴きたそうにしてるからさ。あんまり長くなるようだったら、途中でおいとますればいいか。

 前奏の間にそこらの床に腰を下ろして、さしたる興味も無く聴くでもなしに聴いていた俺は、やがて優男の歌声に真剣に耳を傾けていた。

 だって、お前、これ——

 はじめて聴く旋律。節回しも、この吟遊詩人独自のものだろう。

 だが、その内容は——アリアハンに生まれた人間であれば、誰でも一度は耳にしたことのある物語。この上なく馴染みの深い英雄譚。

 こりゃ、お前——

「おや?どうされました?」

 演奏は止めずに唄だけ中断して、優男が尋ねてきた。

「先程の娘さんも、途中から同じような顔をされてましたが……そういえば、ポカパマズさんはアリアハンの出身ですものね。もしや、アリアハンでは有名な物語で、退屈させてしまったかな」

 有名も有名。だって、お前、そりゃ——

「……その、ポカパマズってヤツの、ホントの名前はなんて言うんだ?」

「おや、尋ねることまで娘さんと同じだ。本当の名前かどうかは存じませんが、そうですね。確かにアリアハンでは、ポカパマズという名前ではなく——」

 マグナも、ここで同じ物語を聴かされたのか。だから、帰ってきた時、様子がおかしかったんだ。

 なんで、こんな最果ての村まで逃げて来て——その名前を聞かされなくちゃならねぇんだ。

「オルテガ、と呼ばれていたそうです」

 こいつは一体、なんの呪いだ。

20.

 俺は別れの挨拶もそこそこに雑貨屋を飛び出して、駆け足で家へと向かった。

 くそっ、なんてこったよ——マグナが心配だ。

 さっき、あいつの様子を、もっと注意して見てやるべきだった。

 きっと、ひでぇショックを受けたに違いねぇのに——無理しやがって。

 ようやく吹っ切れて、明るくなってきたトコだってのによ。

『やっぱり、逃げらんないのかな……』

 記憶の中のマグナの台詞に、頷いちまいそうな自分を、必死に振り払う。

 くそったれ、なんだってんだ、これは。ふざけんじゃねぇぞ。

 オルテガさんよ、あんたも自分の娘が可愛くねぇ訳じゃねぇだろ。ちったぁ遠慮してくれよ、頼むから。

 市場を抜け出し、足元の雪を蹴り散らしながら、村外れにある俺達の家へと走る。

 やっと見えた。

 って、なんだ、ありゃ!?

「ヴァイ——ッ!!」

 俺の名を呼びかけたマグナの口が、手で塞がれる。

 俺達の家の扉は、力づくで破壊されていた。

 きっと、マグナの腕を後ろ手に捻り上げている女の仕業だ。

「やぁ、お帰り、ヴァイス君。待ってたよぉ」

 聞き覚えのある、ねちっこい口調。見るなりぶん殴りたくなるニヤニヤ笑いが、俺とマグナの間に立ちはだかる。

 ダーマでやたらと俺にカラんできた魔法使い——グエンが、何故かそこにいた。

「アンタが何をこだわってんのか、理解できないね。放っときなよ、こんな素人のアリアハン人なんか」

 マグナを捕まえている女——ティミが吐き捨てた。

 マグナは身をよじってどうにかティミの手を振り払おうとしているが、まがりなりにもリィナとそこそこやり合えた女だ。自力で逃れるのは難しいだろう。

「まぁまぁ。そう言わないで、もう少しだけ付き合っておくれよ——良かったねぇ、間に合って。もうちょっとで、勇者様にお別れも言えないところだったよぉ。君が帰ってくるまで、僕が引き止めておいてあげたんだから、感謝して欲しいなぁ」

「……なんで手前ぇらが、ここに居る。どうしてバレた?」

「いや、バレたって言うかねぇ……そりゃ、勇者様が突然いなくなったら探すでしょ、普通。ダーマの皆が総出で探して、見つけたのが僕達だったってだけの話だよぉ」

 総出って……なんだ、こいつら。

 そこまですんのか。

 そこまでして——どうしてもマグナじゃなきゃ、いけねぇのかよ。

21.

「いやぁ、僕って運がいいよねぇ。正直なところ、一番可能性の低い方面に回されちゃったと思ったし、途中で挫けそうにもなったけどさぁ、頑張ってここまで北上して、ホントに良かったよぉ。やっぱり、諦めないって大事だよねぇ」

 ぬかせよ。手前ぇのはただ、粘着質ってだけだろうが。

「それにしても、まさかこんな遠くまで逃げてたなんてねぇ。ヴァイス君も、ホントにご苦労様だよねぇ。結局は、無駄な努力で残念でしたぁ、ってトコだけどさぁ。アハハハハ」

「……いいから、マグナを離せよ」

 グエンは笑いを止めて、ぴくんと眉を跳ね上げた。

「止めときなよぉ。君はただ、勇者様が連れ去られるのを、自分の無力を噛み締めながら、黙ってそこで眺めてればいいんだからねぇ。それ以外の事をしたら、どうなっても知らないよぉ?」

「黙れよ……」

 手前ぇなんざ、眼中にねぇんだよ。問題は、ティミの方だ。なんとか不意を突いてマグナを開放して、ルーラでトンズラこいてやろうじゃねぇか。連続で移動して撹乱すれば、振り切れねぇこたねぇだろう。

 とりあえず、手前ぇはこいつで大人しくしとけ。

『メラ』

 メラミじゃねぇだけ、ありがたく思いやがれ。

 一瞬、遅れて——

『メラ』

 爆音が轟いた。

 腕で顔を庇って、熱波を避ける。

 嘘だろ。

 信じらんねぇ。

 粘着質の野郎、俺のメラを自分のメラで撃ち落しやがった。

 そんな事、出来んのかよ!?

 残された衝撃の跡を目にして息を呑む。

 雪の表面は、こちらに向かって抉られていた。

 つまり、野郎のメラの方が、俺のそれより威力が上だったって証拠だ。

「やれやれ……君がそのつもりなら、仕方がないよねぇ」

 わざとらしい溜息。

「ちょうどいいや、先延ばしになってた勝負といこうよねぇ。どっちが早く、次の呪文を唱えられるか競争だよぉ?」

 弄うような口振り。

 阿呆が、誰がそんな勝負受けるかよ。

22.

 だが、どうする。

 力づくで、ティミからマグナを取り戻すのは、まず無理だ。

 呪文も、まだ使えない。

 くそっ、今ここに、シェラがいてくれれば。

 あいつなら目配せをするだけで、俺の意を汲んでラリホーを唱えて、奴等を眠らせてくれただろう。

 それでなくても、リィナさえいれば。

 苦も無くマグナを奪い返してくれたに違いない。

 だが今、俺はひとりだ。

 ひとりで、この場を切り抜けなくちゃいけねぇんだ。

 それが出来るって、証明しなきゃならねぇ。

 俺はひとりで、この先ずっと、あいつを守っていくんだから。

 だが、どうする。

 どうするよ?

 考えがまとまらないままに、恐ろしく速く時間だけが流れていく。

 駄目だ。答えを出すのは、きっと間に合わない。

 呪文が使えない状態のグエンは、とりあえず放っておいても問題ねぇだろう。

 遮二無二跳びかかってティミの体勢さえ崩せば、マグナが自力で逃げ出す隙を作れるかも知れない。

 とにかく、動け——

「はい、ざぁんねぇん」

 嬉しそうなグエンの宣告。

 ちょっと待て、冗談だろ?

 俺より呪文を唱える間隔が短いったって、ここまで違うのかよ!?

 俺の方は、感覚的にまだ三分の一は残ってる——

『メラ』

 避け——無理だろ、こんな速ぇの。

 野郎、これを狙いすまして撃ち落したってのかよっ!?

「うがっ——!!」

 くそっ、熱っちい!!

 多少は身を躱せたが、脇腹に喰らっちまった。

 避けた勢いで、俺は雪の上に飛び込むみたいに倒れ込んだ。

23.

「——ヴァイス!!」

 口を塞いでいたティミの手を、頭を振ってはらったんだろう。マグナの悲鳴が耳に届く。

「離しなさいよ!!離して——」

「失礼します」

 鈍い音がした。

「ほら、これで気が済んだだろ。さっさと行くよ」

 あのクソ女、マグナに当身を喰らわせやがったな。

 くそったれ——早く立ち上がりやがれ、俺。

 早く!!

「やれやれ、ガッカリさせるねぇ、ヴァイス君。君の言ってた強さって、こんなものなのかい?お側にいながら勇者様を守れない強さなんて、まるで無意味だよねぇ。そう思わない?」

 痛ぇな、くそ……

 なんで、立ち上がれねぇんだ。

「これで分かったでしょ?君は、なんの強さも持たない、つまらない人間なんだよぉ。何を勘違いしたのか知らないけれど、君なんて、元から勇者様には相応しくなかったんだよねぇ」

 なんで俺は、立ち上がらねぇんだ。

「本当は君、ここで殺されたって文句は言えないんだよぉ?なにしろ、勇者様をかどわかした大罪人——いや、違うなぁ。そんな生易しいものじゃないよねぇ。言ってみれば、いまや君は、人類全体の敵なんだからねぇ」

 力が抜ける——言ってる場合かよっ!?

 額を雪に押し付けて、なんとか立ち上がろうともがく。

「だって、そうでしょお?この世でただ一人、魔王を斃す事が出来る勇者様をさらって逃げるだなんて……この世の人間がみんな、魔王に滅ぼされても構わないって言ってるも同然だよねぇ?一体、何をどう勘違いすれば、そんな大それた真似ができるんだか、僕にはホントに理解が出来ないよ」

 うるせぇ。うるせぇよ。

 痛いトコついてやった、みたいな得意げな声出しやがって。

 ンなこた、ハナから分かってんだよ。

 そんなこたどうだっていいんだ、くそったれ——なんで立てねぇんだ、俺!!

24.

「ま、後の事は僕等に任せてさぁ、君はさっさとアリアハンの田舎に引っ込んでなよぉ。優しい僕は、何の力も持たない哀れでつまらない無害な君を、見逃してあげるからさぁ。ああ——眼中に無いって言った方がいいのかなぁ」

 アハハハハハハハ。

 心底愉快そうに、グエンは笑った。

 こいつ——俺が勇者のお供をしてたのが、そんなに気に喰わねぇか。それとも、俺がクソ講師に目をかけられてたのが、そこまでプライドに障ったかよ。

「じゃあねぇ、ヴァイス君。もう一生会うことも無いだろうけど、下らない人生をどうか無難に過ごしておくれよ」

「ま……てよ」

「ああ、ごめんねぇ。勇者様、気を失われちゃったみたいだから、お別れの挨拶が出来なかったねぇ。僕じゃ代わりにならないかも知れないけどさぁ、それじゃあ、さ・よ・う・な・ら」

 嘲笑に続いて、ルーラが聞こえて——

 やっと立ち上がった時には、マグナの姿はどこにも無かった。

 俺は。

 何も出来なかった。

 地面を掻いた拍子に手の中に残された雪を力任せに握り締めると、指の間からぼろぼろと零れ落ちた。

25.

 すっかり、夜が更けていた。

 日が落ちた頃から降り出した雨は、次第に激しさを増している。

 植え込みというには手入れのされていない繁みに身を潜め、俺はただひたすらにマグナを待っている。

 すぐ脇には、巨大なダーマの神殿がそそり立つ。

 なるべく何も考えないようにして、俺は凝っと蹲っている。

 考えることなら、昨日済ませた。

 一睡もしないで、延々と考え続けたんだ。

 だから、もう何も考えるな。

 昨日、グエンとティミにマグナを連れ去られた後——俺は、ルーラでアリアハンに飛んだ。

 奴等の行き先はダーマに決まってるが、すぐに後を追おうにも、俺には不可能だったのだ。

 俺はダーマで魔法協会に顔を出していなかったので、ルーラでひとっ飛びという訳にはいかなかった。

 それに、正面からのこのこ押しかけても、門前払いならまだマシで、勇者様をかどわかした罪でとっ捕まっちまう可能性が高い。

 アリアハンに飛んだ理由は、それだけじゃなかった。

 もう一度マグナと会う前に、どうしても確かめなきゃならない事がある。

 俺は、そう思い込んでいた。

 アリアハンの魔法協会で尋ねると、思惑通りに野郎はこっちに戻っていた。

「どこの浮浪者かと思えば、また貴様か——なんだ、その小汚い、死にかけのナリは」

 クソ講師のヴァイエルは、俺を見るなりそうほざいた。

 八割程度の確率で賭けに勝つ自信はあったが、居てくれてよかったぜ。野郎の仏頂面を拝んで喜ぶ日がくるなんて、考えたこともなかったけどな。

「まぁ、大体の察しはつく。貴様が考え無しに連れ出したマグナ嬢が、見つかったという報告を受けたのでな。ちょうど今から、ダーマに向かおうとしていたところだ」

 危ねぇ。やっぱ、ギリギリだったかよ。

 それにしても、言いたかねぇが流石だな、こいつ。誰が魔王を斃そうがどうでもいい、そう口にした通り、俺のやった事をガキの悪戯程度にしか気にしてなくて助かるぜ。

 だから貴様の相手をしている暇はない、とか吐き捨てて、すげなく俺をあしらおうとするヴァイエルを、力づくで引き止める。

 いくら不機嫌な顔されても、罵倒されても、こっちも必死なんだ。

「今度は、あんたが何を言おうが答えてもらうぜ。どうしてあいつじゃなきゃ、マグナじゃなきゃ魔王を斃せないのか、その理由をな——」

26.

 魔法使いの格好をしてフードを深く被り、ヴァイエルのお供のフリをして、俺がダーマに忍び込んだのは、その翌日——つまり今日になってからだった。

 野郎の部屋の窓から外に抜け出して、しばらくそこで待っていると、やがてリィナが姿を現した。

 ヴァイエルに繋ぎを頼んでおいたのだ。なんでもひとつ言うことを聞くからという、俺の提示した条件に、野郎は全く興味を示さなかったが、渋々であれ頼みは聞き届けてくれたようだった。

 ついでに部屋を空け渡してくれれば、もっと良かったんだが。そこまでしてやるつもりはないと、あっさり断わられた。

 まぁ、部屋まで貸そうもんなら、また俺が攫って逃げたら言い逃れできない完全な共犯者だもんな。俺があいつでも断わるだろう。

 というか、リィナに言伝をしてくれただけでも、野郎にしては奇跡に近いくらいの力添えだ。

「なんか、久し振りだね」

 顔を合わせるのは、実際に久し振りだ。何故だかリィナは、少し照れ臭そうにはにかんでいた。

「ああ、そうだな。シェラは、どうしてる?」

「元気だよ。あ、そっか。一緒に来ればよかったね。呼んでこようか?」

「いや、とりあえず、今はいいよ。よろしく言っといてくれ」

「うん、分かった」

 挨拶を交わした後、なんとなくお互いに黙っちまった。

 多分、リィナは俺に、言いたいことが色々あったと思う。

 黙ってマグナと姿を消した事に文句のひとつも言いたいだろうし、俺がマグナを連れ出した事で、ダーマでのこいつの立場が悪くなっていても不思議じゃない。

 きっと、ずいぶん迷惑をかけたんだろうな。

 だが、リィナは繰言じみたことを何も言わなかったし、俺も余計なことは口にしなかった。

 どうにかマグナと会わせて欲しいと頼み込むと、予期していたのだろう、リィナは小さく頷いた。

「分かった。夜まで待ってくれるかな。なんとか、連れ出してみるよ」

「悪ぃ。恩に着る」

「……ひとつ、聞いていいかな?」

「ああ。もちろん」

「会って……どうするつもりなの?」

 当然の質問だった。

「いや……とにかく、会って話がしたいんだ」

 こんな答えで、満足してくれた筈もない。

「……うん。分かった」

 だが、リィナはやはり、それ以上問い質そうとはしなかった。

27.

 神殿に戻りかけたリィナの背中に、ひと言つけ加える。

「……よろしく、頼むよ」

 振り向いて、リィナは妙な目つきで俺を見た。

「ヴァイス君、キミ……」

 言いかけた口を、リィナは途中で閉じた。

「ううん。やっぱ、いいや……ボクは、何も言わないよ」

 そうしてリィナと別れたのが、日が落ちる前のことだ。

 あれから夜が更けて、ずいぶん経つ。

 俺が身を潜めている繁みは、例の馬屋よりもさらに奥まった場所に位置していた。ここなら、滅多に人が来ないからと、リィナが教えてくれたのだ。

 分厚い雨雲が月も星も隠して、辺りは真っ暗だ。

 枝葉が多少は遮ってくれているものの、冷たい雨が容赦無く体を打つ。

 寒い。

 歯の根が合わなくなってきた。

 こんなところで、何をやってんだろね、俺は。

 自嘲じみた、惨めな気分が心を蝕んで——

 ふと、思ってしまった。

 俺は、ここに来ない方がよかったんじゃないのか、と。

 今になって、はじめて思い当たった自分の迂闊さにほぞを噛む。

 そうだ。

 なんで、俺はここに来ちまったんだ。

 なにも、わざわざ——

 雨のすだれの向こうに、ゆらゆらとゆらめく灯りが見えた。

 マグナだった。

 マントで手持ちランプを庇いながら、こちらに近付いてくる。

 その姿をはっきりと目で確認できるまで、俺は結局、その場から動けなかった。

 左右をきょろきょろと見回して、マグナが俺を探している。

「ここだよ」

 繁みから這い出して、冷えた体を震わせながら、俺はマグナに声をかけた。

 思ったよりも、ちゃんと声が出た。

「ヴァイス!!」

 嬉しそうに俺の名を呼んで、ばちゃばちゃとしぶきを上げて駆けてくるマグナから目を逸らす。

28.

「寒かったでしょ?大丈夫?」

「まぁ、なんとかな」

 マグナが、俺の手を握ろうとする。

「——?」

 それを避けて手を引っ込めると、マグナは少し不思議そうな顔をした。

「迎えに来てくれると思ってた。さ、行こ。ヴァイスも、早くあったまらないと——どうしたの?」

 体を寄せてきたマグナから、俺は一歩下がって身を離す。

「いや、あのさ……」

 昨日、野郎の話を聞いてから、寝ないでさんざん考えたってのに——上手く言葉が口から出ていかない。

 懐から包みを取り出して、マグナに手渡す。

「その……誕生日、おめでとう」

 何やってんだ、俺は。

 もう考えんな。予定通りに振舞えよ。

「うん……ありがと——なによ、そんな顔して?どうしたの?」

「あのさ……俺、お前を迎えに来たんじゃねぇんだよ」

 ややあって、マグナの顔に半笑いが浮かぶ。

「え?なに、それ?どういうこと?」

「だからさ……お前、やっぱり、魔王を斃しに行った方がいいよ」

「……え?」

 降り頻る雨に濡れて、額に張り付いたマグナの前髪。

 指で掻き分けてやりたい。

 頭の中で、全然関係無いことを考えている。

 揺らぐなよ。

 最後までちゃんとやり切れ、屑らしくよ。

「なんていうかさ……やっぱり、らしくねぇよ。似合わねぇよ。なんもかんも放っぽり出して逃げるなんて、お前にはさ」

「っ……——」

 手持ちランプの炎が、動きを止めたマグナの表情に陰影を躍らせた。

 分かってる。

 お前が言いかけたこと、よく分かってるんだ。

「お前はさ、色々あって、ただちょっと疲れちまってただけなんだ。それで、たまたま傍にいた俺に寄っかかりたくなっただけで……」

「なに……言ってんの?」

「——それに、ほら、憶えてるだろ?バハラタに向かってる途中で会った、隊商の連中。あいつら、魔物に襲われて全滅してさ……ああいうことが、今も世界のあちこちで起きてる訳だろ?」

 俺は、卑怯者だ。

 マグナが気にしているのを知った上で、喋ってる。

29.

「全ての元凶である魔王を斃せるのが、お前だけだとしたらさ——」

 せめて俯くなよ、俺。

「やっぱり、そうするべきなんじゃねぇのかな」

 いいんだ、これで。

 だから、下を向くんじゃねぇよ。

 地面を叩く雨音と。

 体内で刻まれる心臓の音が。

 同期した気がした。

 飛沫となって跳ねる、無数の雨粒。

「……分かった」

 罵られる覚悟をしてたのに。

 どれだけなじられても、仕方ないと思ってたのに。

 思いがけない返事を聞いて、俺は我知らず顔を上げていた。

「あたしもね……ちょっと、思ってたんだ」

 急に遠ざかる雨音。

「やっぱり、逃げらんないのかなって」

 囁くようなマグナの声が、やけに大きく耳に届いた。

「だって、あれだけ逃げたのに、そこでもあの人の話を聞かされるなんて、ちょっと普通じゃないよね——ううん、ホントは絶対イヤよ?イヤだけど……」

 杭で刺されたみてぇに、心臓が痛い。

「ヴァイスが、そう言うなら……」

 息が出来ねぇ。

「ヴァイスが傍に居てくれたら、あたし、もうそれでいいや」

 マグナの顔には、なんとも言えない微笑みが浮かんでいた。

 ああ、やっぱりだ。

 俺は、こうするべきなんだ。

 ようやく、決心がついていた。

 雨音が、うるさい。

30.

「駄目——」

 表情の変化で気付かれたのか。

 あるいは、マグナにも予感があったのか——激しさを取り戻した雨音にかき消されがちな、マグナの制止の声。

 俺は、止めなかった。

「違うんだよ——」

「黙って」

「俺は……ここまでだ」

「黙りなさいよ」

「ここで、お別れだ」

「黙ってってばっ!!」

 マグナが、俺の方に倒れこむ。

 地面に落ちたランプが、足元で転がった。

「お願いだから、黙ってよ……聞きたくない。許さない——そんなの。あんたは、あたしの目の届く場所にいなきゃいけないんだから……そうでしょ!?そう言ったでしょ!?」

 これ以上喋らせまいとするように、力一杯、マグナがしがみついてくる。

 俺も、加減無しにマグナを抱き返していた。

「ああ、そうだな」

 ずぶ濡れで冷え切った体に、マグナの体温が暖かい。

 ちぇっ。

 結局、最後までヤれなかったな、そういや。

「でもさ、それはマグナが魔王を斃しに行くつもりがないって事がバレないようにする為の方便で——もう、そんな必要ないだろ?」

「それは——」

「それに、分かってるだろ。俺じゃ、お前を守れない」

「そんなの——」

「昨日、そいつは証明されただろ?俺は、ここの連中に、あっさりお前を連れ去られちまった。俺じゃ、お前を守れないんだよ。魔王を斃すなら、お前はここの連中と一緒に行った方がいい」

「さっきから、なに言ってんのよ……ばっかじゃないの……」

「その方が、生き残れる確率が高いんだ。俺なんかと、一緒に行くよりさ」

「違うでしょ!?そういうこと言ってるんじゃないでしょ!?」

 莫迦だ、俺は。

 やっぱり、ここに来るべきじゃなかった。

 昨日、あのままマグナの前から消えてればよかったんだ。

 ちゃんと別れを告げるべきだとか考えて——違う。

 自分では意識してなかったけど。

 きっと、単に俺は、もう一度会いたかっただけなんだ。

 最後にひと目なんて——おこがましいにも程がある。

31.

「なんで急に、そんなこと言うのよ!?なにまた、勝手に自分で決めちゃってんの!?いい加減にしてよっ!!あんた、全然変わってないじゃない!!」

 全くだ。

 全然、何も変わっちゃいねぇ。

 だから、言うぜ。

「頼むから、分かってくれよ。俺はさ、お前に死んで欲しくねぇんだよ。前にも言ったろ。俺が頼りにならないせいで、お前が死ぬなんてことになったら、そんなの耐えられねぇんだよ」

「だったら——それなら、あたしだってあの時、言ったでしょ!?頼りにしてるって?大体、誰と行ったって、絶対安全なんてこと無いじゃない!!それだったら、もし死んじゃうとしても、あたし、ヴァイスとだったら——」

「無理だよ」

「え——?」

 僅かに力の抜けたマグナの腕を解いて、身を離す。

「無理って……何よそれ?どういう意味?」

「それじゃ、駄目なんだ——イヤなんだよ」

「なに……言ってるの?意味分かんない。ちゃんと、話してよ」

 地面に落ちた手持ちランプの硝子の中で、炎はまだ燃え続けていた。

 案外、消えないモンだよな。

 俺は身を屈めて取っ手を握り、ランプを立たせた。

 傘がついてるからな。こうしておけば、マグナが持って戻るまで、炎が消える心配は無いだろう。

32.

「なにしてんのよ……そんなのいいから、さっさと答えなさいよっ!!」

「……じゃあな、マグナ。魔王なんて軽く斃して、婆さんになるまで、ずっと生きるんだぞ」

「待って——ねぇ、本気なの?卑怯じゃない、そんな、自分が言いたいことだけ言って、もう喋らないなんて——なんなのよ、急に、そんな……」

「風邪ひいちまうから、なるべく早く中に戻れよな」

「ちょっと、待ってよ……あ、分かった。そうよ……どうせまた、嘘ついて……からかってるんでしょ……ダメ……よ……もう、引っか……からない……だから……」

 来るんじゃなかった。

「イヤだよ……ヴァイス……傍にいてよ……」

 来なければ。

 こいつの泣き顔を、一度も見ないままでいられたのに。

「ばかぁ……」

 こんなに雨が降っていて。

 こんなにずぶ濡れなのに。

 案外、はっきり分かっちまうんだな。

 泣いてるのって。

「ずっと……一緒にいてくれるって……言ったクセに……」

 一歩、二歩と、マグナから身を遠ざける。

「嘘吐きぃ……ゆる……さない……だからぁ……」

 しゃくりあげて、途切れ途切れのマグナの声。

 踵を返して、駆け出した。

 背後で、ばしゃりと水溜りに膝をつく音。

「ばかぁっ!!嘘吐きっ!!」

 俺は、逃げるようにルーラを唱えた。

「ヴァイスの、嘘吐きいぃっ!!!!」

 微かに届いたあいつの叫び声が鼓膜を貫いて、いつまでも耳に残っていた。

前回