26. Gett Off (後編)

1.

 なんであいつが、こんなトコにいやがるんだ?

 久し振りに目にする仏頂面を、記憶のそれと照らし合わせる。

 うん、やっぱ間違いねぇ。俺が、アリアハンで冒険者になる前に受けた、魔法使い向けの講義を担当していた、あの嫌味なクソ講師だ。

 相変わらず、意味もなく苦虫を噛み潰したような不景気なツラしやがって。

 つか、登場が唐突過ぎるだろ。

 まさか俺の度胆を抜く為に、みんなして裏で示し合わせてやがるんじゃねぇだろうな。どんだけ俺を驚かせれば気が済むんだよ、このダーマってトコは。

 しばし呆気に取られて、クソ講師の行動をぼんやり見送っていた俺は、野郎がマグナの部屋の扉をノックしようとしたところで、危うく我に返って駆け寄った。

「いや、おい、ちょっと待て——待てって!」

 なるべく声を抑えて怒鳴りつけても、全く反応しやがらねぇ。

 腕を掴んで力づくで制止すると、さしもの野郎もやっとこちらを振り向いた。

 黒ずんだ隈に縁取られた目が、俺をやぶ睨みする。

「なんだ——離さんか。誰だ、貴様」

 頬のこけた、いかにも不健康そうな血色の悪い顔に浮かぶ、怪訝のカタマリみたいな表情——うわぁ。コイツ、俺のこと欠片も覚えてやがらねぇよ。

「どうも、久し振りです。分かんないですかね、俺のコト?ほら、アリアハンで冒険者になる時に、あんたの講義を受けたヴァイスってモンなんですけど」

「知らん」

 舌打ちみたいに、短く吐き捨てられた。

 この野郎。人が下手に出てやってるのに、ムカつく態度は昔とちっとも変わらねぇ。

「あの——いや、だから、待てっての」

 腕を離した途端に、また扉をノックしようとしやがったので、急いでまた掴んで止めさせると、恐ろしく不機嫌な目つきで睨まれた。

「なんなんだ、貴様は。私は、この部屋に居るオルテガ殿の娘、マグナ嬢に用事があって来た。話も通してある。貴様に邪魔立てされる謂われはない。馬の骨は骨らしく、大人しくそこいらに転がって、野良犬にでも噛み付かれているがいい」

 しばらく振りに耳にする野郎の悪態——見ず知らずと思ってる人間に、こんなこと言うかね、普通——に言葉を失いかけたが、あいにくと黙って見過ごしてやる訳にもいかねぇんだ。

2.

「いやさ、あいつ——マグナは、今ちょっと落ち込んでて、話ができるような状態じゃねぇんだよ。ちょっかい出すのは勘弁してやってくれ。それより、ホントに俺のこと、覚えてねぇのか?」

 マグナの部屋の前で、あまり騒ぎたくない。

 俺は野郎の腕を掴んだまま、無理矢理引き摺って扉から離れた。

「貴様のような不埒で貧相な痴れ者など、知らんと言っている。いい加減に離さんか」

 邪魔くさそうに、俺の手を振り払う。

 貧相は手前ぇだろ。このやせぎすの顔面神経痛が。

「いや、あの、マジで覚えてねぇのかよ?結構、個人的に質問とかもしたんだけどな……つか、なんであんたが、こんなトコに居るんだよ?」

「貴様の知ったことか」

 取りつく島も無い偏屈な魔法使いは——そういや、こいつの名前なんてんだっけ——寄るな触るなの押し問答の末に、ようやくマグナの部屋に近付こうとするのを諦めた。

「一体なんだと言うんだ、貴様は——」

 人生にくたびれ果てた老人がするような、やたらと深い溜息を漏らす。

 それほど歳は喰ってないように見えるが、魔法使いのことだからな。外見上の年齢が、実際のそれと一致するかは分からない。

「口振りからして、マグナ嬢の関係者ではあるようだな——アリアハンで私の講義を受けたと言ったか——ああ、いたな。やたらと鬱陶しい馬鹿が。マグナ嬢のパーティの一員として、ルイーダの酒場に登録された大道芸人が、確かにヴァイスとかいう名前だったな」

 考えを巡らせ始めると、野郎の理解は早かった。

 そんなに直ぐ連想出来るなら、最初っから思い出す努力をしろっての。

「そう、そのヴァイスだよ」

 馬鹿じゃねぇし、鬱陶しくもねぇけどな。

「聞いているぞ。貴様等、『旅の扉』以外はルーラも使わずに、わざわざ陸路を辿ってここまで来たそうだな。全く、正気の沙汰とは思えんね。いつもながら、貴様等愚昧の取る行動は、理解に苦しむな」

 憎まれ口を叩いてないと、おっ死んじまう病気にでもかかってんのか、こいつは。

「フン、面倒だ。一先ず、貴様で我慢してやる。来い」

 横柄に命じて、せかせかと立ち去りかける。

3.

「——は?」

「なにをしている、愚鈍が。わざわざ間の抜けた顔をせんでも、貴様がマヌケということくらい、既に充分承知している。己を卑下する自己主張はそこそこにして、さっさと来んか」

「いや、意味分かんねぇんだけど……」

「分からなくていい。貴様は、何も考えるな。暗愚に真っ当な思考なぞ期待しておらん。貴様は黙って、私に付き従えばいいんだ。マヌケな上にノロマときては、目もあてられんな、このタワケが」

 相変わらず、すげぇこと言うな。

「いや、あのな。なんであんたに、そんな命令されなきゃいけねぇんだよ」

 すると野郎は、またふぅ~っと、この世の全てを嘆いているような仰々しい溜息を吐くのだった。

「いいか、私はマグナ嬢から話を聞く為に、ここを訪れた。それを、貴様が邪魔したんだ。仮令、底の割れた水桶程の役にも立たなかろうが、せめて貴様がマグナ嬢の代わりを務めるのが当然だと思わんのか。分かったら、欠損だらけの脳味噌を無駄に働かせていないで、さっさとついてこい」

 ……。

 久し振りだと、こいつの喋り方についてくのは、かなりキビしいな、これ。

「分かったよ。マグナをそっとしといてくれるってんなら、俺が代わりでもなんでもやってやるよ——けど、その前に聞かせろよ。なんであんた、ここに居るんだ?」

「貴様の知ったことか——と何度言い聞かせても、薄汚い鴉よりもなお執念深く、下らん問いをオウムに増して繰り返す馬鹿だったな、貴様は」

 三度、物凄い面倒臭そうに、深々と溜息を吐く。

「私がダーマを訪れるのは、なんら珍しいことではない。貴様等蒙昧の輩と異なり、アリアハンが衰退して以降も、我々魔法使いはダーマとの関係を保っている。主に研究目的だが、我々も魔法技術を提供している、言わば持ちつ持たれつの間柄だ」

「へぇ、そうなのか」

「尤も、貴様等常識知らずと違って、私はルーラでここを訪れるがね」

 うるせぇよ。俺は手前ぇより、よっぽど常識ってヤツを弁えてるっての。

4.

「ってことは、あんたはダーマの事情にも明るいのか?」

「当たり前だ。物を知らん貴様と同列に考えるな。不愉快だ」

「……マグナに話を聞きに来たって言ったな?俺で代わりが務まるってことは、旅の間の話をしてやればいいって事だよな?」

「馬鹿が、この世の秘密を言い当てたような、得意げな顔をするな。確認するまでもない」

 ……こいつの悪態は、聞き流すのが一番だな。

「ならさ、話を聞かしてやる見返りに、俺にもダーマについて色々教えてくれよ。ここに来るまで、なんも聞かされてなかったんでな。正直、分かんねぇ事だらけなんだ」

 そう持ちかけると、野郎は元々の渋面をさらに顰めた。

「すっかり思い出したぞ——貴様は、自分には理解出来ないという事すら理解出来ない程のタワケだったな。どうせ分かりもしない事を、延々と答えさせられて、私がどれほど徒労感を覚えたことか、タワケた貴様には想像もつくまい」

 そりゃ、どうもすいませんでしたね。

「面倒だが、醜怪な蛇に増して執拗な貴様と、ここで押し問答を続けるのは、さらに面倒だ。止むを得ん。無知に理解出来る範囲でなら答えてやるから、さっさとついてこい」

 そう吐き捨てると、俺が後に続いているかを確認もせずに、足早に歩み去る。

 まぁ、なんだかんだ言って、質問には割りと律儀に答えてくれるんだよな、こいつ。これで、要らない文句さえたれなきゃ便利な奴なんだが。

5.

 連れて行かれたのは、俺に提供されたソレよりも随分と広い、壁際に本棚がずらりと並んだ部屋だった。

「そんで、旅の間のどんな話が聞きたいんだ?」

 奥のデカい机に向かって、紙とペンを用意している野郎の背中に尋ねると、こちらを見もせずに答える。

「全部だ。マグナ嬢と出会ってからここまでの経緯を、細大漏らさず報告しろ」

「いや……だから、具体的にはどんなことをだよ。いつとか、どの辺りでの話とかさ——」

「私が全てと言ったら、全てだ」

 椅子の背もたれに肘をかけて振り返り、苛立ったように野郎は繰り返した。

「何が必要な情報で、どれが無用な情報か、貴様のウロに等しい脳味噌で判別出来るのか?判断は、全てこちらで行う。貴様は、思い出せる限りの全てを話せばいいんだ。

 何時、何処で、誰が何を何故どのようにして、そうするに至った経緯はもちろん、情景から思考の流れまで、包み隠さず、何から何までだ」

 いや、あのな。俺にも他人に知られたくない事くらいあるんですが。

 無駄だろうな、と思いつつ、試しにそう反論してやると、案の定、野郎はハンと鼻を鳴らしやがった。

「都合の悪い話を貴様が口にしない程度の事は、最初から折り込み済みだ。そこいらの洗濯女を前にしている訳でもあるまいに、私の耳を気にするなど無意味なことだがな。貴様の悪行やら特殊な性癖なぞに、下世話な興味は無い」

 いや、別にそういう意味じゃねぇよ——そりゃ、そういう事も、多少は含まれてっけど。

 つか、アホぬかせ。俺の性癖は、特殊じゃねぇよ。

「いいから、貴様は話せることを、とにかく洗い浚い話せばいいんだ」

「どんだけ時間かかんだよ……」

 せめてもの抵抗も、あっさり撥ね返される。

「どれだけ時間がかかっても構わん。喉が潰れても、強制的に治療してやる。馬鹿の考え休むに似たりという言葉すら知らんのか。いいから、無駄口を叩く暇があったら、さっさと報告しろ」

 無茶苦茶言いやがんな、しかし。

 まぁ、これ以上つっかかっても無意味なのは確実だったので、仕方なく、俺はマグナと出会った時の事から喋り始めた。

6.

 基本的に野郎はメモを取るだけで、黙って俺の話を聞いていた。相槌すらしやがらないので、喋り難いことこの上ない。聞いてるんだか、いないんだか——まぁ、時折口を挟んできたので、いちおう耳を傾けてはいるようだ。

 尤も、野郎の横槍は、意味不明なことも多かったが。

 例えば、シェラの話を聞いて俺達がダーマを目指すことになったくだりでは、「よく分からん理由だな。変化の杖がダーマにあるとでも思ったのか?」とか呟いていた。

 よく分かんねぇのは、こっちの台詞だっての。聞き返しても、先を急かすばっかで、ウンともスンとも答えねぇしよ。

 またそんで、こっちが適当にボカしときたいハナシに限って、まるで物陰からその情景を覗いてやがったんじゃねぇかという的確さで、何か言い忘れてないかとか、これこれこういう事が無かったかとか、底意地悪くツッコんできやがるのだ。

 お陰で、半ば誘導されるようにして、出来れば隠しておきたい事まで、ほとんど全部喋っちまった。ホント、ヤな野郎だよ。

 そんなこんなで、ようやく喋り終えた頃には、もうすっかり日が暮れていた。

 声はしゃがれてるし、喋り疲れてぐったりだ。

 つか、こっちは頼まれて喋ってやってんのに、こいつ、俺に椅子すら勧めねぇんだぜ。部屋の中に手前ぇの分しか用意してなくても、普通は他所から持って来させるなりなんなりするだろ。

 お陰で俺は、ずっと突っ立ったまま喋り通しだ。信じらんねぇよ。

「……それで、なんか役に立ったかよ」

 喋り終えれば用は無いとばかりに、俺の存在など忘れちまったみたいに物思いに深け込む野郎に声をかける。

 一度ではなんの反応も返されずに、何度目かでやっと「五月蝿い。黙れ」みたいな視線がこちらに向けられた。

「今の段階では、なんとも言えんな。まぁ、それでも二、三、気にかかる個所はあった」

 お前……あんだけ長々と喋らせといて、たった二、三箇所かよ。

「もう行っていいぞ。ああ、それからマグナ嬢を呼んできてくれ」

 しっしっ、と虫でも払うような仕草をしつつ、そんなことをほざく。

「は?」

 約束が違うじゃねぇか、この野郎。

 睨みつけてやると、珍奇な動物でも見るような目を向けられた。

7.

「何がだ?貴様の主観的な話だけで、なにをどう判断しろというんだ」

 こいつ……

「逐一記録を取っていた訳でもあるまいに、記憶のみに頼った口述など、せいぜい複数のそれを比較しなくては話にならん。貴様の当てにならない脳味噌とは違い、マグナ嬢の記憶力は人並み外れて優れていると聞いているから、丁度いい」

「いや、そういうコト言ってんじゃねぇよ。マグナは今、話なんて出来る状態じゃねぇっつったろうが。だから、わざわざ俺が代わりに来てやったんじゃねぇか。もう忘れたのかよ。あんたの記憶力こそ、どうかしてんじゃねぇのか?」

「タワケがタワケた事をぬかすのは仕方あるまいが、もちろん、そんな事は憶えている。しかし、あれからずいぶん時間が経っただろう。まだ邪魔をするつもりなのか?」

 駄目だ、こいつ。

 きっと妙な研究ばっかにかまけて、肝心な人の心ってのをどっかに置き忘れちまったんだな。

「あのな……マグナが大丈夫になったら知らせてやるから、しばらくそっとしておいてやってくれよ。大体あんた、まだ俺の質問にも答えてねぇだろ」

「ああ」

 そっちはすっかり忘れていたらしく、野郎はたった今、思い出したような顔をした。要するに、自分が興味あること以外は、どうでもいいんだな、こいつは。

「魔王バラモスの討伐が、全世界で何度試みられたか知っているか?」

 唐突に、野郎はそんなことをほざいた。

 いきなり、何言ってんだ。頭大丈夫か、マジで?

「は?いや、まだ俺、なんも聞いてねぇんだけど」

「つまらん話を、拷問の如く延々と聞かされたんだ。貴様が知りたい事など、余程の馬鹿でない限り察しがつく」

 手前ぇが喋らせた癖して、なんて言い草だ。

「私の問いに答える以外は、貴様は黙って話を聞いていればいいんだ。断わっておくが、貴様の無知から生じた疑問になど、いちいち答えてやるつもりはないぞ」

 ああ、そうですか。

「そもそも、我々が扱う諸々は、共通語ではほとんど言い表わせん。意識の共有も出来ん貴様等に、いくら噛み砕いて話してきかせたところで、本来とはかけ離れていくばかりで、無益この上無いんだがな。まぁ、約束は約束だ。仕方なく付き合ってやる」

 仕方なくかよ——この野郎は、正直にも程があるだろ。

8.

 そりゃありがとうございます、とか口にしかけた皮肉をぐっと呑み込んで説明を待っても、野郎は一向に喋り出さないのだった。

 さっきの質問に対する、俺の返答を待ってるのか。そう気付くまで、しばらくかかった。

「——魔王討伐が試みられた回数か?そういう話は聞いたことあるけど、正確に何回かは知らねぇよ」

 すると、野郎は哀れ蔑む目つきを、俺に向けるのだった。

「半ば当事者と言えんこともなかろうに、自ら調べようとは思わなかったのか?」

「そんな暇——」

「無い訳がなかろう。何処の魔法協会の支部でも、その程度の情報は直ぐに調べがつく。フン、言っても無駄だったな——各国が個別に行った遠征が合計で十三回、それ以外に複数の国からなる連合軍が三度送られている」

 そんなに多いのかよ。

「軍隊による討伐が数度失敗に終わった時点で、少数精鋭の部隊を送り込み、首魁たるバラモスのみを討つ方向性も模索された。これは、バラモスこそが全ての元凶であるという、我々の仮説を各国が受け入れた格好だな。

 こちらは、ダーマから送られた部隊も含めて、これまでに二十七組失敗している。もちろん、訳の分からん在野のお調子者は省いた数だ」

 話がよく見えないので、半分流して聞いていたんだが——

「そして、彼等は全て、運悪く討伐に失敗したのだ」

 さすがに、この台詞は聞き逃せなかった。

「いや待て。運なのかよ」

「より正確に言うならば、『運悪く』としか表現出来ないという事だ」

 いや、そんな自信満々みたいに言われても。

「軍略的に負ける筈のない遠征は幾度かあった。また、魔王を斃すに充分な実力を備えた部隊も、何組か送り込まれた。彼らは、まさしく奇蹟としか表現できない不運に見舞われて、敗れ去ったのだ」

 俺は多分、半笑いを浮かべていたと思う。

 だって、そりゃそうだろ。なんだよ、それ。

 野郎はもちろん、そんな俺の困惑など、全く歯牙にもかけなかった。

「ひと度だけならまだしも、奇蹟も数度続けば、背景になにがしかの理由があると考えるのが当然だ。我々はかなり早期の段階で、とある仮説を提示したのだが、各国はしばらくそれを受け入れようとはしなかった」

9.

「我々の間でも議論が紛糾したほどの内容だからな。魔法使いでない人間には、なかなか納得出来んのも無理はないが、お陰でいたずらに犠牲が増した。まぁ、我々には関係の無い話だがね」

 犠牲の数など、本当にどうでもよさそうな口調だった。

「貴様がどう考えているのか知らんが——おそらく、法外に強力な魔物程度の認識だろうが——魔王バラモス。あれは、精霊崇拝、とここでは言っておくが、原始的な信仰にあっては、魔物というよりは神と称される存在により近しいのだ」

「神様なのかよ?邪神ってヤツか?」

「貴様が今、脳裏で思い描いた神とは異なる。わざわざ言葉を選んでやってもこれだから、貴様に話すのは無駄だと言うんだ——いや、どの道、理解は出来んか。そうだな、ソレで構わん。ルビスと似たような存在だとでも思っておけ」

 俺の思考を勝手に決め付けて、野郎はフンと鼻を鳴らした。

「要するに貴様は、自分が納得出来る答えを欲しているだけだからな。その方が話が早い——つまりだ。貴様に分かり易く言えば、我々はバラモスと呼ばれている存在を、運命を司る神と結論づけたのだ」

「そりゃ……随分、ご大層な神様だな」

「違う。貴様が今考えたような、遍く世界の運命を司るような神ではない。その能力の発露は形而下——それも、ごく限定された範囲に留まると考えられている」

 野郎は勝手に面倒臭がって溜息を吐いた。

「えぇい、部分的に正確を期したところで、全体として間違っていては、どうあれ無意味というものだ。貴様等無知共のよくする、なんとなくという理解で充分だろう——極めて正確でない平易な表現を用いるならば、バラモスと呼ばれる存在は、運命を選択できるのだ」

 いちいち余計な繰言を足さなくていいっての。

「……っていうと?」

 こいつ、とうとうはっきり舌打ちしやがったよ。

「例えばだ。極めて状況を限定して言うならば、相手方が軍隊であれ少数精鋭の部隊であれ、戦闘に際して最終的に自らが勝利する可能性を、結末として選択できるという事だ」

「……は?」

 何言ってんだ、こいつ。自分が勝つ結末を選べるだと?

「じゃあ、勝てないじゃん」

「だから、先刻からそう言っている。魔王を斃すのは不可能だという話を、貴様も道中で耳にしたのだろうが」

10.

 ウェナモンが言ってた話のことか——って、あれは、ホントに言葉そのままの意味だったのかよ!?

「彼奴を滅ぼすことが出来るのは、彼奴の能力に干渉し得る、より高位の存在か、もしくはマグナ嬢だけだ」

「——はぁっ!?」

 エラくスケールのデカい話の中で、いきなりマグナの名前を出されて、俺はしばし絶句した。

「センセイ、意味が分かりません」

「死ぬまで分からなくていい」

 なんて即答をしやがる。

「いや、あのな。だからなんで、そこでマグナが出てくるんだよ!?」

 すると、野郎は唇を歪めて、陰気な笑みを浮かべた。

「つい先程、貴様が自分で口にした事だぞ。マグナ嬢は、ルビスに選ばれし勇者であるが故に、魔王を滅ぼせるのだ。ダーマでは、そう信じられていると教わったのだろう?貴様のような浅学の輩には、実に分かり易い明快な理由だろうに、なにが不満だ?」

「いや、だから——じゃあ、なんでマグナが選ばれたんだよ!?」

「神の御心とは、まことに計り知れんものだな」

 やかましい。嫌味ったらしくニヤニヤしやがって。そりゃ冗談のつもりかよ、もしかして。全然面白くねぇんだよ。

「その口振り……手前ぇ、なんか知ってやがるな?」

「当然だ。ダーマの大僧正が『楽園』にあるルビスと交信可能な能力を代々有しているのは、とうの昔に検証済みだが、だからと言って貴様等じゃあるまいし、『神様がそう仰ったから』等という胡乱な理由を鵜呑みにする魔法使いなど存在しない」

 黙れよ。俺だって鵜呑みにしてねぇから聞いてるんだろうが。

「だったら——」

「だが、マグナ嬢に関しては、未だに我々の間でも意見が分かれる。今ここで話すつもりはない」

 野郎は小賢しく、そんなことをほざくのだった。

「……じゃあ、あんたの個人的な考えで構わねぇから、聞かせてくれよ」

「くどい。『じゃあ』の意味が分からん。話すつもりは無いと言っている」

「……とか言って、ジツはなんも分かってねぇだけじゃねぇのか?」

 鼻で笑ってやっても、野郎は顔色ひとつ変えなかった。

11.

「簡単に見透かされる挑発など、無意味どころか逆効果でしかないぞ。まぁ、馬鹿にも分かるように言っておいてやるが、もちろん個人的な仮説は立てている。遠からず、我々の見解は私の唱える仮説に収斂されるに違いないが、魔法使いの全てが聡明という訳でもないのでな」

 何をさりげなく自慢入れてやがんだ、この野郎。

「じゃあ、それでいいから教えてくれよ」

「だから、『じゃあ』の意味が分からんと言っている。なぜ貴様等は、そうまで傲慢になれるんだ?」

「は?」

 いや、そんな話してねぇだろ。

「分からないことがあれば、誰かが教えてくれると思っている。その割りに、聞いた話の妥当性を自ら検証しようともせずに、意に沿わなければ頭ごなしに否定する。

 つまり、貴様等にしてみれば、内容の正確性等どうでもよくて、自分が納得出来るか否かだけが重要なのだ。ならば、私から何かを聞き出す必要もあるまい。その貧弱な脳味噌で捻り出した、貴様にとって都合のいい事実とやらを信じていれば、それで充分だろう」

「いや、そんなこた——」

 聞いて納得出来たら、あんたの話も信じるっての——そう考えてから、気付く。

 ああ、ホントだわ。確かに、「自分が納得できるかどうかだけが重要」みたいに考えちまってるかも知れねぇ。

「……分かったよ。あんたの話を鵜呑みにしないし、頭ごなしに否定もしない。ちゃんと自分で材料揃えて判断するからさ、その個人的な仮説とやらを聞かせてくれよ——なんていうか、どう考えていいのか、とっかかりすらさっぱり見えねぇ状態なんだ」

 精一杯へりくだってやっても、野郎はにべも無いのだった。

「それは嘘だな。貴様は、マグナ嬢だけが魔王を滅ぼし得るとする仮説を否定したいだけだ。否定する為に、それを肯定する見識を欲しているに過ぎん。貴様のそんな個人的な心情に、私が付き合ってやる義理はない。

 自らの与り知らん処で、勇者という呼称に象徴される責務を負わされたマグナ嬢が、それを厭う心理は理解出来なくもないが——」

 マグナは、勇者としての自分を嫌っている。

 そこだけは、さっきの話でも必死こいてボカした筈なんだが、見透かしてやがんの——なんてヤな野郎だよ。

12.

「私の話を聞いて、魔王はマグナ嬢にしか斃せない。そう自分で納得してしまったら、貴様はどうするつもりだ?」

「へ——?」

「もしくは、都合のいい当て推量——とすら言えない戯言を積み重ねて、貴様の頭の中だけであれ否定に成功したとしてだ。貴様がマグナ嬢に望んでいるのは、人々が勇者にかける期待には一切耳を塞ぎ目を瞑り、無責任に使命を放擲して自らの手は汚さずに、他の誰かが魔王を斃してくれるのを、ただ座して待つ事か」

「それは——」

「——などという説教じみた事は、少なくとも私は言わんがね。何ぴとが魔王を斃すのか——それ自体は、本質的にはどうでもいい事だ。ただ、いわゆる世間が知れば、いま私が述べたように、貴様等を非難するだろうな」

「……そんな連中に、つべこべ言われる筋合いはねぇよ。連中だって、勇者が魔王を斃してくれるのを、ただアホみたいに口開けて待ってるだけじゃねぇか」

「貴様にしては珍しく、尤もな意見だな」

「つか、マグナが魔王退治に行く気が無いことを、わざわざ世間とやらに知らせてやるつもりはねぇよ。連中には、マグナが魔王退治に向かってると勝手に思わせておくさ——あんたさえ、黙っててくれればな」

「無論、伏して拝まれたところで、私がわざわざそんな事を喧伝する筈も無い。魔王が滅びようが滅ぶまいが、それ自体は、私にとってはどうでもいい話だからな」

 おいおい。

 さっきから聞いてりゃ、極端な野郎だな。

「どうでもいいのかよ」

「どうでもいいな。我々が注目しているのは、そこではない」

「つってもよ——世界が魔王に滅ぼされたら、あんたらも無事じゃ済まねぇだろ」

「貴様等と同じ意味で、我々が滅びる事はない」

 ケッタイな魔法を使って、自分達だけ生き延びるって寸法かよ。

「我々魔法使いに、人類という種の保全を期待しているのなら、とんだお門違いだな。世界が滅ぼされるという表現も正しくない。人類が死滅したところで、世界が滅ぶ訳ではない。ただ、在り様が多少変化するだけの事だ」

「……ずいぶんとまた、他人事みてぇな言い草だな。自分達さえよけりゃ、それでいいのかよ」

「それこそ、貴様に言われる筋合いではないな」

 ああ、うん。まぁ、それは仰る通りですがね。

13.

「それに、その表現も間違っている。我々の生き死に自体、どうでもいい事だ。ただ、この世界における観察者の不在については、多少残念に思わないでもない」

 ダメだ。こいつらの考え方は、俺にはよく分からねぇ。

「あんたにとっちゃ、この世はどうでもいい事だらけなんだな——マグナが特別かどうかってのも、ホントはどうでもいいハナシなんじゃねぇのか?」

「それも違う。貴様が思っているような意味で、彼女が特別なのではない」

 また「違う」のかよ。こいつ、ただ単に俺の発言を否定したいだけじゃねぇのか。

「彼女は肉体的にも精神的にも、いわゆる普通の人間となんら変わる処の無い、極ありふれた存在だ。勇者や英雄と聞いて貴様等が連想する、『彼の者は他の人間とは異なる特別な存在だ』というイメージ——共通語で上手く表現する言葉が無いのでな。ここでは仮に存在力とでも言っておくが、存在それ自体が周囲に及ぼす影響力という観点からすれば、彼女の父親であるオルテガの方が余程稀有で強力だ。あれ程の人物は、歴史を見渡してもそうそう登場していない」

「だったら、なんでオルテガじゃなくて、あいつが選ばれたんだよ?あいつの何が特別なんだ?」

「だから、特別では無いと言っている——あえて言うならば、マグナ嬢の特殊性は、彼女に内在するのではなく、彼女の在り方そのものだ」

 は?

「さらに言えば、彼女の受胎に際して、何らかの神的な影響力があったことは、複数の魔法使いによって確認されている。教義に関わるので、教会は絶対に奇蹟認定などしないがね」

 皮肉らしいくらい笑みを浮かべたが、意図が掴めない。

「いや、意味分かんねぇんだけど」

「無知に分かるように話していないからな。余計なことを喋りすぎた。もうよかろう。これ以上、無駄な会話を続けるつもりは無い。さっさと出ていけ。邪魔だ」

 野郎はまた、虫を払うようにしっしっと手を振った。

 ホントに、なんてヤな野郎なんだ。

 言われるままに大人しく出て行くのもシャクなので、ダーマについてリィナの話で不鮮明だった個所を、しつこく食い下がって聞き出してやった。

 とうとう追い出された時には、もう夜がかなり深かった。

14.

 通路に灯された明かりは、ひどく間隔が離れていて心許なかった。

 どこを通って野郎の部屋まで連れていかれたのか記憶も曖昧なのに、こう暗くちゃ様子が分かりゃしねぇよ。

 かといって、野郎に尋ねに戻って、また馬鹿にされるのも業腹ごうはらだ。

 誰か道を聞けるヤツがその辺にいないかと、周囲をきょろきょろ見回していたら、こちらに歩み寄る人影が通路の先にぼんやりと見えた。

 呼びかけようとして、口篭もる。

 ありゃ、グエンとかいうヤツじゃねぇか。あいつに聞くのも、なんか嫌だな。

「おや?そこにいるのは、ヴァイス君じゃないか」

 躊躇ってる間に、向こうから声をかけてきやがった。

 背に腹はかえられねぇ。こいつで我慢してやるか。

「さっきは、どうも。上手く逃げられたけど、君の言ってた強さとやらを、またいつか見せて欲しいねぇ。ところで、なんで君がここに——まさかとは思うけど、ヴァイエル様の部屋に居たんじゃないだろうね?」

 いや、ヴァイエルって誰だよ。

 はじめは会話が噛み合わなかったが、どうやら例のクソ講師のことを言っているらしかった。あいつ、ヴァイエルって名前だっけか。そういや、講義のはじめに聞いたかもな。完全に忘れてたけど。

「信じられないなぁ……なんで君みたいな人が、ヴァイエル様に気に入られてるんだい?」

 いやいや。とても気に入られてるとは思えないんですが。

 そう返すと、グエンは何故だかちょっと拗ねたように続けるのだった。

「ヴァイエル様は、興味の無い人間とはひと言すら口を利いてくださらないよ。この僕でさえ、ほとんどお言葉をかけていただいたことが無いんだからねぇ。なのになんで、君みたいなヤツに……きっと、名前が少し似てるからだねぇ。うん、きっとそうに違いないよ」

 アイツは、ンなタマじゃねぇと思うけどな。

 ともあれ、俺達は仲良く立ち話をするような間柄じゃない。

 手短に部屋までの道順を聞き出し、背中に絡みつくグエンの視線を振り切るようにして、その場を立ち去った。やれやれ、俺も嫉妬の対象になっちまったかね。

15.

 ルビスやらいう神様も、ずいぶんと酷な真似をしなさるモンだ。どうせなら、魔王退治に行きたくてウズウズしてる、グエン達みたいなダーマの連中に白羽の矢を立ててやりゃいいのによ。

 まぁ、世の中ってのは、とかくかように上手くいかねぇのが常だけどな。

 自分の部屋へと戻りながら、あの野郎——ヴァイエルに聞いたダーマの話を、頭の中で整理する。

 神代が薄暮を、ヒトの世が黎明を迎えた頃の、ずっと昔の話。

 当時、隆盛を誇っていた大帝国には堕落と退廃が蔓延し、爛熟した文化は人々を神から遠ざけ、そして彼らはついに神々の怒りに触れた。

 帝国を大陸ごと海の底に沈めんとした神々の決定に、ひとり異を唱えたのがルビスだった。

 せめて心ある人間だけでも救おうと、ルビスは『楽園』を創り出し、彼等と共にこの世界から去ってしまった。

 ルビス信者とは、要するにその心の清らかな人々の住まいし素晴らしき『楽園』とやらに招かれることを夢見る連中であり、帝国の崩壊からのがれて他の大陸で生き延びた連中の間にも、割りと数多く残されていたという。

 まぁ、分かり易い救済観だからな。庶民に人気が出るのは分からないでもない。

 だが、彼らはやがて、アリアハンの世界制覇と共に影響力を強めた、神と言えばいわゆる『神』しか認めない教会の弾圧に怯えることになる。

 教会の勢力圏を逃れて、とんでもない山奥——このダーマまで、『楽園』からのルビスの呼びかけを頼りに信者達を導いた当時の指導者の子孫が、例の大僧正やらいう爺さんなんだそうだ。

 この世界に残されたルビス信者ってのは、ルビスのお眼鏡に適わなかった、いわばダメ出しをされた連中の子孫な訳だから、少しでもマシにならなくては『楽園』に招かれる筈がないと考えて、己を高める修行に余念が無かった。

 加えて、当時の教会勢力——つまりアリアハンから治安維持の名目で差し向けられる軍隊に備える為、という実際的な側面も手伝って、ダーマにおいて尚武の気風が形作られるまで、そう時間はかからなかった。

 その後、ダーマそのものはアリアハンの衰退に伴い世界から存在を忘れ去られたものの、そんなこととは関係無く、いつか『楽園』に招かれることを信じて、信者達はせっせと研鑚を積み重ねた。

16.

 ところが、ある日、ダーマの存在意義を根底から揺るがす御神託が告げられる。

 時の大僧正いわく、『楽園』が『闇』に包まれようとしているというのだ。

 抽象的過ぎてよく分かんねぇが、『楽園』と呼ばれる世界になんらかの危機的な状況が訪れたという意味らしい。

 ルビスの声がさらに遠くなったこの頃から、ダーマにおける尚武の意味合いが変質した。自らを高めて『楽園』に招かれた後、ルビスの戦士として『闇』を払うという目的が付け加えられたのだ。

 魔法使い共の協力もあり、冒険者の原形がこの地で作られたのも、この時期らしい。

 なんつーか、すでに『楽園』が楽園とか呼べる場所じゃなくなってる気がするんだが、そんな状況になっても、信者達の目的は、あくまで『楽園』に招かれることであり、魔王バラモスがこの世界に出現した後も、それは変わらなかった。

 彼らの戦うべき相手は『楽園』を蝕む『闇』であり、バラモスに対しては無関心を通していたのだ。

 バラモスを滅するのはルビスの意に適うことであり、『楽園』に通じる道でもあると大僧正が認めたのは、同じくルビスの声を聞くことが出来たというオルテガの説得によるものであるのは、大体リィナの語った通りだった。

 なんだかね。

 ダーマの連中はあいつらで、色々と重ねてきた労苦を伴う歴史もあれば、信じてる事やら目的もあるんだろうけどさ。

 それをマグナに押し付けて、あいつの意思を無視していいってことにはならねぇよ。

 俺の気持ちも変わらない。多少、事態はややこしくなっちまったが、どうにかしてあいつに、勇者なんかとは無縁の生活を——

 そんなことを考えていたからか、はたまた、ひと度はシェラの問題から先に片付けちまおうみたいに考えちまった罪悪感の所為か、ヴァイエルの野郎に拉致される前の予定とは異なり、俺は無意識にマグナの部屋の前で立ち止まっていた。

 今さらシェラの部屋に移動するのもなんだし、少し逡巡してから扉をノックする。

17.

 反応は、何も無かった。

 どこかに出掛けてるとも思えないんだがな。

「マグナ、いるんだろ?」

 中に声をかけながら、扉と壁の合わせ目に耳を押し付ける。もちろん、周りに人が居ないことは確認した。

「俺だ。ヴァイスだけど——大丈夫か?」

 ベッドの中でもぞもぞ動いたような音が、微かに聴こえた気がした。

 だが、返事はない。やっぱり、まだダメか。

「あのさ、すぐ左隣りが、俺の部屋だから。なんかあったら、いつでも来いよな。鍵は開けとくし、もし寝てても、叩き起こしていいからな」

「……分かった」

 ほとんど聞き取れないくらいのか細い声を、辛うじて耳が捉える。

 ちょっとギクリとした。

 ひどく憔悴しているというか、全く張りが無くて全部なにもかもどうでもいいみたいな——こんなマグナの声、はじめて聞いた。あの焚き火の夜より、もっと全然ヒドい。

「きっとだぞ。なんかあったら、絶対言ってこいな?」

 声をかけても、それきりいらえはなかった。身じろぎも止めたのか、物音すら聞こえない。

 しばらく待って諦め、扉から身を離して考える。

 リィナの話が、頭の片隅に残っていたんだと思う。

 マグナは強いから——どこかで、そんな風に考えて、ある程度立ち直ってるんじゃないかみたいな楽観が、多分俺の中にあったんだ。だから、あいつのこの上なく落ち込んだ声を聞いて、ギクリとさせられた。

 強いばっかじゃないって、分かってた筈なのにな。

 夜が明けてもマグナが訪ねてこなかったら、無理にでも部屋に押し入って様子を確かめよう。

 後ろ髪を引かれつつ、俺はシェラの部屋の前に移動した。

18.

 正直に言って、ちょっと参ったなという気分だった。

 きっと、シェラはひどく気落ちしてるだろうしさ。連続して落ち込んだ声を聞くのは、少しばかり気が重い。

 って、何を情けねぇことを考えてやがんだ。ダーマでのアレコレに、なんのダメージも受けてねぇ呑気な立場の俺が、元気づけてやらなくてどうすんだ。

 とはいえ、なんて声をかければいいんだろ。無責任に励ましても、余計に傷つけちまうかも知れねぇし——まぁ、いつまでも、扉の前で考えてても仕方ねぇよな。

 覚悟を決めて、扉をノックする。

「——あ、はーい」

 いらえは、すぐにあった。

 あれ?

 なんか——

「あ、俺、ヴァイスだけど。ちょっといいか?」

 ギィと開いた扉から覗いた顔は、予想と異なりまるきり普通だった。

「どうしたんですか?何かありました?」

「いや、その——シェラは、どうしてるかな、と思って」

「特に何も。日記をつけてただけですよ。あ——心配してくれたんですよね。ありがとうございます」

 そう言って微笑んだ顔は、いつもに増して可愛らしく見えた。

「でも、私なら平気ですよ?」

「ああ、うん、そっか。なら良かったけどさ……俺には気ぃ遣わなくていいんだぞ?」

 また、いつかみたいに無理させちまってるんじゃないかと危惧したんだが。

「そんな事ないですよ?ヴァイスさんこそ、どうしたんですか。声がすごいガラガラですけど」

「ああ、いや。ちょっとな」

 多少の旅疲れこそ窺えるものの、シェラの顔には見慣れた普通の表情が浮かんでいて、なんだか拍子抜けしてしまう。

「俺の事はいいよ。お前は、ホントに大丈夫か?また無理してないか?」

「そりゃ、全然ショックじゃなかったとは言えませんけど……」

「……だよな」

「あ、ううん、違うんです。ここが、私が思ってたような場所じゃなかったのは、すごくとっても残念ですけど、なんて言うか……ああ、やっぱりなって納得してる部分も、自分の中にあって……」

 強いて思い込もうとしている風でもない、率直な感想に聞こえた。

「元々、どうなるか分からなかったじゃないですか?私が、ホントに、その……女の子になれるかどうかなんて。そんなことって現実にあり得るのかなって、やっぱり半信半疑なところはありましたし……」

19.

 そりゃそうだよな。とか思っちまう俺も、いい加減調子いいね。

「それに——」

 俺を見上げたシェラの表情は、通路の薄明かりが濃く落とす陰影にも関わらず、とても明るく見えた。

「皆と——マグナさん、リィナさん、それにヴァイスさんと旅してる内に、なんだか、そういうこだわりが、昔より無くなったっていうか……」

「うん?」

「はじめは、ですね。すっごい期待してました。占い師のお婆さんからお話を聞いた時は、ホントにもう、これしかない!みたいな……溺れる者はなんとやら、じゃないですけど、それこそもう、これが叶わなかったら生きてても仕方ないみたいな、祈るような気持ちだったんです」

 わざわざ、似合いもしない冒険者にまでなったくらいだ。相当、思い詰めていたであろうことは、想像に難くない。

「でも、さっき言ったみたいに、いくら信じ込もうとしても、どこかで自分でも疑ってたんだと思います。だから、余計に追い詰められたみたいな気分になっちゃって、全然気持ちに余裕が無くって」

「うん」

「でも、皆と旅して、色々あって……そういうの、少しづつ薄らいじゃったみたいです」

 シェラは照れたように視線を落として、恥ずかしそうに続ける。

「なんだか……私、このままでもいいのかなって」

 その仕草と声音に、なんか知らんが胸の奥がきゅっとなった。

「ううん。良くないのは分かってるんです。こんな私を認めてくれる人って、ほとんど居ないんだろうな、とは思うんですけど……このままでいいって、おかしくなんてないって言ってくれる人も、居ない訳じゃないって分かりましたし……」

「いいに決まってる。おかしいだなんて、俺は思わねぇよ」

 思わず、そんなことを口走っていた。

 いいさ、何回だって言ってやるよ。

 だが、今のはもしかして、俺だけって訳じゃなくて、マグナやリィナ——というか、主にフゥマのヤツが念頭に置かれた発言だったんだろうか。口にしてから思い当たって、一気に顔に血が昇る。

 うわ、もしそうだとしたら恥ずかし過ぎる。

「ありがとうございます。ヴァイスさんがそう言ってくれたの、とっても嬉しかったです」

 必死に狼狽を押し隠す俺をなだめるような声音で、シェラは上目遣いに、いたずらっぽく微笑むのだった。

 何歳も年下の子に、内心を見透かされまくってんな、俺。

20.

「あのですね……私、この一年くらい、背がほとんど伸びてないんです。だから、このままいけば、あんまり大きくならないと思うんですよね。それは、すごく良かったなぁって思ってるんです」

 確かにシェラは、俺より頭ひとつは背が低い。女にしても小柄な方で、体つきも華奢なことが、整った顔立ちと相俟って、小さな可愛い女の子という印象を助長している。

「それに——ほら、私って、今のままでも……その、充分、あの……えと……可愛いじゃないですか?」

 ひどく恥ずかしそうに照れながら、シェラが妙なシナを作ってみせたので、俺は思わず吹き出してしまった。

「あぅ……笑うなんて、ヒドいです」

「あ、いや、悪ぃ。そうじゃなくてさ」

 さんざん口篭もったことからも分かるように、シェラは別に自慢したかった訳じゃない。俺に余計な気を遣わせまいとして、冗談のつもりで無理をしている様が微笑ましくて、ついつい笑っちまったのだ。

 事実なんだから、そんなに恥ずかしそうにすること無いのにな。

「あ、もちろん、女の子になれるならなりたいですよ?それは今でも、とてもすごく」

 自分の発言を打ち消そうとするみたいに、体の前でぱたぱたと両手を振って、シェラは強引に話題を切り替えた。

「ホントに私が女の子になっちゃったら、どうします?」

 仕返しのつもりか、なにやら挑発的な目つきを俺に向ける。

「うん?」

「ヴァイスさんを、誘惑しちゃうかも知れませんよ?」

「そりゃ——嬉しいね」

 咄嗟に、そんな返ししか出てこなかった。

 うろたえる俺の様子を目にして、ちょっと満足げにくすっと笑ったシェラが、なんというか——破壊的に可愛いくて。

「嘘です、冗談ですよ」

 ぺちぺちと俺の腕を叩く。

 ああ——なんか俺って、こいつのこと、ずっと見損なってたのかも知れねぇな。

 ホントは今みたいな感じが、こいつの素なんじゃないだろうか。

 普通に冗談とかも口にする、朗らかという表現がぴったりな——いくつかの場面が、脳裏に蘇る。

 メイドの格好をして、俺の部屋に世話を焼きにきた時のこと。ノアニールの宿屋で、元気に掃除を手伝っていた時のこと。マグナとアルスの逢引き現場を隠れて覗き見ていた時のはしゃいだ様子。隊商の洗濯やらを楽しそうにしていたこと。

21.

 もちろん、俺達と旅をしている間の、毎日の飯の仕度とかでもそうだった。

 自分の性に合った場面では、シェラはいつも生き生きとしていた。

 最初に出会った頃の、終始オドオドとしていた印象が強すぎて、その弱々しいイメージを引き摺ったまま見てたけど——

 こいつは、俺が思っていたより、よっぽど強いのかも知れない。

 だってさ。

 周り中から自分の性質を否定されて、色々と傷つけられる言動もされてきた筈なのに。

 こいつは今でも、こんなに「いいヤツ」なんだ。

 良く考えたらさ。俺なら絶対、もっとヒネくれてるって。元々の性根がよっぽど健やかで強くなきゃ、こうはいかねぇだろ。

 充分に理解していたつもりで、俺は全然こいつの事を、分かってなかったのかも知れねぇな。

 いや、シェラだけじゃない。

 リィナの事もまるで分かってなかったし、一番理解してるつもりだったマグナにしても、さっきは思い違いをしていたし——

「——ヴァイスさん?」

 また、ぺちぺちと腕を叩かれて、俺は我に返った。

「えと、冗談ですよ?そんな固まっちゃうほど、ビックリさせちゃいましたか?」

 うん、別の意味でな。

「悪ぃ。いや、シェラがさ、あんまり可愛いモンだから」

 するりと口が滑る。こういうやり取りも大丈夫なんだわ、多分、こいつ。

「も~……本気にしちゃいますよ?」

 肌が白いので、頬が赤らんだのが良く分かる。しかしまぁ、キメの細かい綺麗な肌をしてやがるよ。

「でも——だから私、皆に申し訳なくて」

「へ?なにが?」

 急に声のトーンを変えたシェラについていけず、俺は間抜けな返事をした。

「だって、ダーマまで来ちゃったのは、私の所為じゃないですか。私の願いを叶えてくれようとして……さっき言ったみたいに、そういう気持ちは少しづつ薄れてたから、私はホントに旅のついででよかったんですけど……」

 シェラは、ちらりと左に目を向けた。マグナの部屋の方だ。

「途中でマグナさんから話を聞いて、旅の目的は特に無いんだって分かって、だからついでじゃなくなっちゃって……でも、私がちゃんと、もういいですって言うべきだったんです。そうすれば、ここまで来ることも無かったかも知れないし……」

22.

「いや、そりゃどうかな」

 そうしていたら、リィナはどういう行動を取っていただろう。

 分からないが、今よりもさらに板挟みに苦しんだであろうことは間違いない。

「やっぱり私も、全然期待してなかった訳じゃないですし……それに、皆との旅が終わっちゃうって思ったら、もういいですって言えなかったんです……だから、マグナさんには、ホントに申し訳なくて……」

「別に、シェラが悪い訳じゃねぇよ。まさか、こんなコトになるなんて、ダーマに来るまで思ってなかったろ?」

「それは、そうですけど……」

「俺だって、まるきり予想外だったしさ。分かんなかったんだから、どうしようもねぇよ。シェラが気に病むことじゃねぇさ」

「だけど……マグナさん、すっごい落ち込んでます。落ち込んでるっていうか、どうしていいか分からなくなってると思うんです。だから——」

 シェラは、俺の腕を軽く握った。

「マグナさんのこと、お願いします。私もなんとかしたいと思ってますけど、きっと、ヴァイスさんが一番いいと思うから……」

 お前も、リィナと同じことを言うんだな。

 まったく参るよ、お前らには。自分達だって大変だろうによ。

「ああ。分かってる」

 不安げなシェラの顔に、出来るだけ力強く頷いてみせる。

 こいつのことも、なんとかしてやりてぇなぁ——はたと、思い出す。

『よく分からん理由だな。変化の杖がダーマにあるとでも思ったのか?』

 さっき聞いた、ヴァイエルの呟き。耳にした時は、聞き流していたが——

「シェラ」

 いきなり両手で肩を掴まれて、シェラは吃驚して俺を見上げた。

「は、はい?」

「お前の願い——なんとかなるかも知れねぇ」

「え?」

 いかん、言い過ぎたかな。

「あ、いや、まだ未確認なんだけどさ……もしかしたら、って話だから、あんま期待しない方がいいかも知れねぇけど……」

 アホか、俺は。

 期待させといて、またガッカリって結果になっちまったら、どうすんだよ。

「悪ぃ。ホント、思いつきみたいなモンだから……なんか分かったら、すぐ知らせるよ」

 曖昧なことを言われて訳が分からなかっただろうに、シェラはくすりと微笑んだ。

「はい。期待しないで待ってます」

 逆に気遣われて、ちくりと胸が痛む。

 早速、明日にでも、あの野郎を問い詰めてやらねぇとな。

23.

 自分の部屋に戻った俺は、夜中になっても、なかなか寝付けなかった。

 やたらと固い石造りのベッドに横になって、あれこれと考えるでもなく思考を弄んでいると、ギィと蝶番の軋る音が耳に届く。

 俺は、ビクリと身を起こした。

 背後から差し込む通路の薄明かりが、無言の人影を影絵のように切り取っている。

 つか、ノックするか、せめて声くらいかけろよ。ビビるっての。

「あ、閉めるのちょっと待ってくれ」

 人影が扉を閉じる前に、慌てて室内のランプに火を灯す。照明無しじゃ、顔も分かんねぇくらい真っ暗になっちまうからな。

 ゆらめくランプの灯りが、沈んだマグナの顔を照らし出した。

 後ろ手に扉を閉じたマグナは、旅装のまま着替えていなかった。

 黙したまま、扉の側を離れようとしない。

 凝っとその場に立ち尽くす。

「え~……っと、どうだ?少しは落ち着いたか?」

 マグナは、何も答えなかった。

 こいつの顔を見りゃ、気持ちの整理がついてない事くらいは丸分かりだ。我ながら、間抜けな質問をしちまったもんだ。

 俯き加減のマグナに向かって、再び声をかける。

「そんなトコ立ってないで、こっち来て座れよ」

 だが、やはりマグナは動かなかった。

 後から思えば、マグナは迷っていたんだろう。この先、実際に口にされた言葉を、言うべきか言わざるべきか。

 そこまで分かってなかったが、ともあれ俺はベッドから下りてマグナに近寄った。

「マグ——」

 正面に歩み寄った俺が、何かをするよりも先に、マグナは体をあずけてきた。

 俺の胸に額を当てて、脇の辺りの服を掴む。

「ねぇ……ヴァイス……」

「ん?」

 また、しばらく間があった。

「どうした?」

 水を向けても、マグナはまだ迷っていた。

 喋り易いように何か言ってやるべきだと思ったが、かける言葉を見出せずにいる間に、やがてマグナが口を開いた。

「……一緒に——逃げよう?」

 か細く震える声。

 俺は、咄嗟に返事が出来なかった。

 何故なら——

24.

「もう……ヤダよ……」

 予想外だったからだ。

 全くの。

 マグナらしくない——そう思っちまった。

 こいつが、ここまではっきりとした弱音を吐くなんて。

 そのことに、違和感を覚えていた。

 馬鹿だな——まだ、こいつは強いってイメージに囚われている。

 そうじゃない、そればっかりじゃないって、分かってた筈じゃねぇか。

「……もう、ここに居たくない」

 きっと——マグナが言う『ここ』ってのは、ダーマの事だけじゃなくて。

 こいつを取り囲んで、こいつをこいつでなくそうとする全て——マグナが勇者であることを知る世界の全てだ。

「ああ。そうしよう」

 俺は、頷いていた。

 考え無しだとは思わない。

 こいつに、勇者なんかとは無縁の、普通の生活を送らせてやるって誓ったんだ。

 ちょうど、リィナも連れ出そうと思ってたしな。

「そうだな……早速、明日にでも——」

「違うの」

 胸に押し付けられた額から、マグナの震えが伝わる。

「え?」

「もう——イヤなの。一秒だって、ここに居たくないの……」

 それって——

「今すぐ逃げようってことか?」

 マグナは、無言で頷いた。

「いや、そりゃ——ああ、分かった」

 マグナの追い詰められた声を聞いて、俺は首を横に振れなかった。

 シェラの事は、後で俺だけあの野郎に会いに行って、話を聞くって手もあるしな。

「けど、シェラの部屋はすぐそこだけど、リィナはどこで寝てるんだか——」

「違うの」

 俺の台詞は、再び途中で遮られた。

 瞬間的に意図を把握出来ずに、少し返事が遅れた。

25.

「……二人で、ってことか?」

 ようやく聞き返す。

「俺と、お前の」

 何も言わずに、ただ頷くマグナ。

「……やっぱり、許してやれねぇのか、リィナのこと」

「違うの。そうじゃない——」

 マグナは顔を上げて、部屋に入ってからはじめて俺を見た。

「リィナを嫌いになんて、なってない。なれっこない。今でも好きよ。でも——これ以上、一緒に行っても、余計にあのコを苦しめるだけじゃない……」

「そう……かもな」

 リィナの素性が判明した今となっては、あいつを連れて逃げることは、ダーマを裏切れ、これまでの自分を捨てろと強いるに等しい。それが出来なかったから、あいつはあんなに悩んでたんだ。

「シェラも——あのね、さっきヴァイスが来る前に、声をかけてくれたの。自分の事は、ここでなんとかしてもらえるかも知れないから、気に病まないでくれって」

 リィナが提案した、意識を体に合わせるとかいう例のアレか。

 そりゃ、嘘じゃねぇけど——マグナを少しでも安心させる為に、たとえその気が無くても、あいつならそう言うかもな。

「だから、今すぐあのコを連れてく訳にはいかないでしょ?」

 縋りつくようなマグナの瞳。

「でも……あたしはもう、ここに居たくないの……」

 俺は、何も言えなくなった。

 自分では分からなかったが、ずいぶん無言でいたらしい。

 気が付くと、マグナはまた顔を伏せていた。

「ごめん……あたし、どうかしてるね」

 自嘲するような、自棄になっているような口振り。

 肺の内側を、冷たい何かが撫で下ろす。

「そんな訳にいかないよね……分かった。もういい」

 俯いたまま身を離し、踵を返して扉に手をかけようとする。

 こいつ——独りでも、逃げ出す気だ。

「待てよ」

 後ろから抱き止めた。

「分かった——逃げよう、一緒に。今すぐ」

「……いいの?」

 即答しようと思ったのに、どうしても一瞬の間が空いた。

26.

「——ああ。もちろんだ」

「……ありがと」

 がらんどうの世界のど真ん中でたった独り、ぽつんと立ち尽くしてるみたいな、頼りないマグナの様子。

 駄目だ。悪ぃ。やっぱり俺、こいつを放っておけねぇよ。

 都合のいい思い込みなんだろうが。

 脳裏に浮かんだリィナとシェラは、分かってると言うみたいに小さく頷いてくれたように思えた。

 手早く旅支度を整えて、薄暗い通路に滑り出る。

 神殿を抜け出すと、外は雨が降っていた。

 月も星も雨雲に隠れて、辺りは恐ろしく暗い。仕方なく、手持ちランプに火を灯す。

 ランプをマントで隠して、なるべく周りに気付かれないように、前方だけに光を逃がしながら、預けた馬が引かれていった方へと、ぬかるみを歩く。

 土砂降りとまではいかないが、かなり強い雨足も、ランプの灯りを遮るのを助けてくれている筈だ。見咎められる可能性は低いだろう。

 少し迷いつつ、なんとか馬屋に辿り着く。

 道すがらと同様に、馬屋にも人は見当たらなかった。

 ここは、文字通り閉じた世界だからな。住人は皆知り合いばっかで、泥棒に対する備えなんざ、考える必要すら無いんだろう。俺の実家もド田舎だったので、そういう感覚はよく分かる。

 馬屋の端に置かれていた鞍を、二人で黙々と取り付ける。

 マグナも俺も、部屋を出てからずっと、ひと言も口を利いていなかった。

 ザーザーと地面を叩く雨音に掻き消されがちな、ブルルという馬の低いいななきだけが、命ある音の全てだった。

 馬具の取り付けを終えた俺達は、目で頷き合う。

 手綱を握り、ゆっくりと馬を引く。ダーマから出るまでは、馬は引いていった方がいいだろう。

 一層激しくなった雨音が、俺達が残す全ての音と足跡を掻き消した。

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