25. Extraordinary

1.

「こっちでやるのは、久し振りだ」

 打ち捨てられた、いにしえの寺院の地下。

 石壁に囲まれた、ガランと殺風景な祭祀場で。

 手を当てて首を鳴らしたり、左右の肩を揉みほぐしながら、ニックはのんびりと口にした。

 俺は、まだ。

 状況をよく呑み込めていなかった。

「ど……どういうことなんですか、これ?」

 俺の心情を代弁するかのような、か細く震えるシェラの声。

「……実は武闘家だったって事でしょ、あの男が」

 スネてるみたいな、マグナの口振り。

 まるで、認めたくないみたいに。

「やめとけ……姐さん、死ぬぞ」

 リィナは当然、まだやるつもりだ。心身の準備を整えるように、軽く跳びはねるその姿を眺めながら、フゥマが言った。

 俺達から少し離れた床の上で、座り込んで親指を噛んでいる。

「お前……知ってたのか?」

 ニックの正体が、剣士じゃなくて武闘家だってことを。

 俺の問い掛けに、フゥマは一瞬こちらを向いて、すぐに視線を逸らした。

「話だけな……オレは、あそこまで行けなかった」

 フゥマじゃ、あのバケモンの化けの皮を剥がせなかったってことか。そうだろうな。こいつに二回ほど勝ってるリィナですら、『星降る腕輪』の力を借りて、ようやく引っ剥がせたんだ。

「大丈夫ですよね……リィナさんの方が、動きが速かったですよね?」

 縋るような、シェラの言葉。

 俺が内心で、必死に自分に言い聞かせている事と同じだった。

 元々、鎧には手を入れて軽くしてあったって話だし——剣や鎧を捨てても、あのスピードの差は覆らない。その筈だ。

 背丈だって俺とどっこいだし、変態カンダタみたいに筋肉隆々って訳でもない。つまり単純な力にしても、リィナを圧倒できるとは思えない。

 なのに、なんで——

 こんなに不安になるんだ。

「……大丈夫よ。リィナは、負けないわ」

 マグナが、さっきと同じ台詞を繰り返した。

 こいつも、自分に言い聞かせてるんだ。

 握られた手が痛い。

2.

「さて——」

 ゆっくりと、ニックがリィナに歩み寄る。

「すぐに死んでくれるなよ」

 本気で、そう思っている口振りだった。

「キミこそね。少しは、マシになるんだろうね?」

 俺は、驚いた。

 リィナ——お前まだ、そんな軽口叩けるのかよ。

 そうだよな、大丈夫なんだよな?

 こっちが拍子抜けしちまうくらい、あっさりぶっ飛ばせるんだよな?

 いつもみたいに——

 数歩の間合いを置いて立ち止まり、ニックは苦笑いを浮かべた。

「先刻の有様では、言われても仕方あるまいな。せいぜい頑張らせてもらおう」

 いや、頑張らなくていいですから。

 ほどほどにして、とっとと倒されちゃってください。

「ヴァイス——痛い」

 マグナがそう言ったのに気付くまで、しばらくかかった。

 強く握られるに任せていた筈の俺の左手は、いつしかマグナの右手を力一杯握り締めていた。

「あ、悪ぃ——」

 慌てて力を緩める。

 気付くと、シェラの細い肩も力任せに掴んでいた。

「あ——ごめん。痛かったか?」

「いえ——」

 痛くなかった筈はないが、シェラは言葉みじかに答えて、小さく首を横に振った。

 目を戻すと、リィナは爪先立ちの体勢で、軽く体を揺すっていた。

 いつ、どんな仕掛けにも対応できるように、全身が強張るでなく、ほどよく緊張しているように見える。

 一方のニックは——なんというか、ひどく適当に、ぶらりとその場に立っていた。

 弛緩している——そう表現していいくらい、力みが抜けている。

「どうした。俺から仕掛けていいのか?」

 ニックの挑発に、リィナは動かなかった。

 あるいは——動けないのか。

 ここまでの戦闘で、リィナは手の内を知られちまってるが、正体を現したこの男の出方は、まだ分からない。いくらリィナでも、慎重になったところで無理はない——

3.

「フン。多少は、何か感じているか?」

 俺は、目をしばたたいた。

 ずっと、見てたのに。

 俺は、目を離しちゃいなかった。

 それなのに——

 ニックがいつ、リィナの懐に入ったのか。

 まったく分からなかった。

 スピードじゃない。

 動きが速くて見失った訳じゃない。

 むしろ、動き自体は緩慢だった。

 その証拠に、記憶の映像を頭の中で再生すれば、ニックがどう動いたのか、はっきりと思い出せる。

 だが、ニックの挙動が、あまりにも自然で何気なく——

 気付いた時には、リィナは慌てふためいて——ほとんど転げまろびつ、必死に距離を取っていた。

 リィナらしくない、その余裕の欠片も無い逃げ方を目の当たりにして、俺ははじめてニックの動きを認識できたのだ——バカな。

「はぁッ——はぁッ——」

 攻撃を喰らった訳でもないのに、リィナの息が異常に荒い。

 床についていた膝を、そろそろと用心深く上げる。

 クク、とニックの口元から、笑声が零れた。

「いや、すまん。よく反応してくれた」

 ニックが口にしたのは、感謝の言葉だった。

「直ぐに終わらせることもあるまいに、俺も少々気が昂ぶっていたようだ。なにしろ、久方振りなのでな」

「びっくりした……いきなりだよね」

 気を取り直すように頭を振って、リィナは肺の空気を残らず搾り出すように、長く息を吐いた。

「これは、感謝しないとなぁ……前に体験してなかったら、きっとボク死んでたよね、今の」

 ぽつぽつと物騒なことを口にしながら、ちらりとこちらを向いた視線の意図は、俺には汲み取れなかった。マグナを見たようにも思えたが。

「ほぅ?覚えがあるとでも——」

「……ぜったいなるいち」

 掠れたリィナの呟きは、半分うわ言のように耳に届いた。

 ニックの眉が、ぴくりと跳ね上がる。

「貴様——なるほど、ヤツか」

「あのさ、ヘンなこと聞いていい?」

 ようやくいつもの口調に戻って、リィナは言った。

4.

「ニックって、ホントの名前なの?」

「なんの話だ」

「うん、あのね、ホントの名前はさ……」

 リィナは、そろりと口にする。

「まさか、ニキルっていうんじゃないよね?」

 リィナが口にした名前は、どこかで聞き覚えたあったが、この時点では思い出せなかった。

「フン。貴様の素性には、見当がついている。俺の古い名を知っていても、おかしくはなかろうな」

 肯定と取れる返事を聞いて、目を見開くリィナ。

 なんだ?こいつら、知り合いなのか?

 いや、どっちかといえば、リィナが一方的に知ってるみたいだが。

「ホントにそうなの?——そりゃ知ってるよ。伝説だもん。生きてたんだ」

「そのようだな」

「他の人達は?」

「知らんな」

「戻らないの?」

「何処にだ?」

 よく分からないまま、進んでいくやり取り。

 何度か深呼吸をして、リィナは息を整えた。

「まぁ、いいや。どんな事情があって、こんな事してるのか知らないけどさ……伝説の二の打ち要らず——ニキルさんと闘えるなんて、光栄だよ」

 ニックは、薄く笑った。

「頼もしいな。俺と知って尚、闘えるつもりでいるのか」

「当然。ボクも、いつか——」

 リィナは小さく首を振って、ニックに微笑み返した。

「ううん、丁度いいや。今ここで——そこまで辿り付く」

 一瞬、呆気にとられたニックは、愉快そうに声に出して笑った。

「よかろう、少し付き合ってやる」

 それまでの自然体から、腰を落として構えを見せる。

「ほざいたからには、その兆しなりと見せてみろ」

 リィナは、ぺろりと親指を嘗めた。

 足を前後に開いて、ぐっと腰を落とす。

「余裕だね——」

 呟きだけその場に置いて、リィナはニックの懐に跳び込んでいた。

5.

 またしても、瞬間移動したようなスピード。

 リィナが放った拳を、ニックが腕を回しながら絡め取るようにして捌いたところまでは、辛うじて確認できた。

 その先は——目も意識も追いつかない。

 両者の攻防は、ひどく距離が近かった。

 リィナがくるくると、ニックの周りをへばりつくように回って——間断無く流れるその動きは、まるで躍っているようだ。

 圧倒的にリィナが攻め立てて、ニックはそれを受け流すだけでやっとに見えた。

 ほら見ろ。

 やっぱりスピードでは、リィナに軍配が上がるんじゃねぇか。

「信じらんねぇ……」

 呆然とした呟きは、フゥマのものだった。

「なんで……あんなに躱せんだ?」

「——?なにがだよ?」

 声をかけると、フゥマは攻防に目を向けたまま、口に手を当てて応じる。

「いや……姐さんが今やってんのは、すげぇ高度な攻め方なんだ。虚実はもちろん、なんてんだ——分かってても喰らっちまうっていうか、こう来られたら躰が勝手にこう反応しちまう、ってのを逆手に取った、見えてるからこそ喰らっちまう攻め方っていうか……」

 おそらく、反射運動を利用した攻撃と言いたいんだろう。

「オレ様でも、初手から完璧に外す自信はねぇよ。それを、ああまで……くそっ、バケモンがっ」

 フゥマは、ぎりっと奥歯を噛み締めた。

 けど、そうは言っても、リィナの優勢にゃ変わりねぇだろ。

 今だって、ほら、惜しいのが立て続けに二、三コ続いて——当たりそうだ——もうちょい——

 いきなり、リィナが吹っ飛んだ。

 リィナの攻撃は、俺には一瞬でも途切れたように見えなかった。

 仕掛けの動作が、次の動作に繋がっていて、そこに隙があるようには思えなかった。

 だが、攻防の流れの中で、ひょいと適当に突き出されたニックの拳は、リィナの胸元を叩いていた。

 それだけで、リィナは五、六歩ほども離れた床に、突き刺さるようにして叩き付けられた。

「当たり前過ぎて、退屈だな。十手先まで読める」

 つまらなそうに、ニックが言った。

 床に伏したリィナが、ごぼりと血を吐いた。

 一瞬——気が遠くなった。

6.

 さっきまでも、不安は不安だったが。

 それは、リィナがあいつ「らしく」なかったからで。

 だって、前回負けたのだって、俺がヘマして足手まといになっちまったせいで——

 いつものノリを取り戻せば、なんとかなるんじゃないか。

 そう思ってた。

 でも、違う。

 こいつは——ヤバい。

 圧倒的だ。

 ケタが、違う。

「残らんように打ってやった。貴様は、下らん呪文が使えた筈だ。それを唱えて、さっさと立て」

「い……いや、だ」

 ぶるぶると震える腕を床について、リィナは起き上がろうとしていた。

「リィナ!!」

「リィナさん!!」

 喉の奥に詰まっていた不安の塊を吐き出すような、マグナとシェラの叫び声。

『ベホ——』

「駄目っ」

 シェラの呪文を、くぐもったリィナの声が制止した。

「お願い……手……出さないで……」

 リィナの口から、ぼたぼたと血が垂れている。

 目が、焦点を合わせる事を拒否した。

 耳鳴りがする。

「なんで——なんでですか……」

 涙混じりのシェラの声が、遠くに聞こえた。

「下らん意地だけは一人前だな」

 淡々としたニックの呟きが、わんわんと頭の中で反響する。

7.

「先刻の大口は、ただの法螺か。その様で、何をする気だ」

「やだ、な……ここ、からだよ」

 よろよろと、リィナが立ち上がった。

 ひゅーひゅーという、耳を塞ぎたくなる喘鳴。

 吐いた血が、胸元を染めている。

 ぶるぶると覚束ない足元——

 ニックの言う通りだ。

 お前、回復もしねぇで、そのザマで、どうする気なんだよ!?

「つまらん意地に付き合うつもりはない」

 必死に構えようとするリィナを無視して、ニックは俺達の方に向き直った。

「どいつか、殺すか」

 あ——

 俺は、後退るのを、辛うじて堪えた。

 いや、堪えたんじゃない。

 動けなかったんだ。

 全身の自由が奪われる。

 喉が凍りついたように、呼吸も出来ない。

 意識だけが、後ろに弾き飛ばされて、体から抜けちまったような感覚。

 ニックの殺気が、はじめて俺達に向けられていた。

 すげぇ。

 リィナ、お前、すげぇよ。

 こんなのまともに真正面から受けながら、闘ってたのかよ。

 いや、俺達に向けられてるのなんて、ニックにしてみりゃ、きっと漏れカスみたいなモンで——

 おそらく、この何倍もの殺気を受けながら、リィナはやり合ってたんだ。

 俺は——勘違いしてた。

 どんな強い相手だろうと、頭を捻って工夫したり、それでも足りなきゃ、経験を積んで力をつけりゃ、倒せなくはねぇだろう。

 そう思ってた。

 だって、実際そうだった。

 駆け出しの頃にゃ、手も足も出なかった魔物でも、それなりに経験を積む内に、ラクに倒せるようになったんだ。

 けど、そんなの——

 なんの根拠にもなってなかった。

8.

 思い違いもいいところだ。

 この世には、本当に強いヤツってのが存在して——

 そいつの前では、俺はまるきり無力だった。

 どれだけ頭を捻ろうが、この先いくら修羅場を潜り抜けようが、まるで及ぶ気がしない。

 勝負にならない。

 真っ暗な虚空に投げ出されたみたいな、この絶望感——

 ふたつ、覚えがある。

 ひとつはエルフの森で、にやけ面がイオナズンを唱えられると気付いた時の、あの動悸。

 もうひとつは、イシスの王宮で黒マントの魔物を前にして覚えた——あの感覚と、同じだ。

 いや、あの時より、もっとずっと直接的で分かり易い、皮膚に突き刺さるような、はっきりとした実感を伴った恐怖。

 怖ぇ。

 こいつ、おっかねぇよ——

「させ……ない……」

 たどたどしいリィナの声が、俺を現実に引き戻す。

 ニックの殺気が逸れて、やっとのことで息をつく。

「なら、止めてみせろ」

 ひと息つけたのも、一瞬だった。

 またすぐに、ニックの殺気に金縛りにされる。

「その様で、出来るのならな」

 よせ。

 こっち来んな。

 来るんじゃねぇよ——

『ベホイミ』

 リィナの呪文が聞こえた。

 俺達とニックの間に立ちはだかるその動きは、やられる前の素早さを取り戻していた。

「フン。はじめから、素直にそうしていろ」

 ニックの殺気を、再びリィナが引き受けてくれて——情けないことに、俺は心底ほっとしちまった。

 体の調子がおかしい。

 呼吸はうまく出来ないし、全身が熱っぽいのに妙に寒気がして、力が入らなくて、その場に崩れ落ちそうになる。

 それまで自分の呼吸音しか捉えなかった耳に、ようやくマグナとシェラの息遣いが届いた。

 二人とも、俺に劣らず荒くて早い。

9.

「小器用なだけでは、愚にもつかんな」

 素っ気無い、ニックの口振りだった。

「付き合ってやる気が失せる。せめて全力で来い」

「……そうするよ」

 背中を向けているので表情は窺えないが、リィナのいらえはひどく悔しそうだった。

 捻りながら沈んだリィナの躰が、発条仕掛けみたいな勢いで、きりもみしながら跳ね上がる。

 空中で放った後ろ蹴りは、ひょいと首を傾げてニックに躱されたが、体の中心線を軸にして、ぐるんと回転しつつ逆の脚が襲いかかる。

 それも避けられたが、リィナの回転も止まらない。

 後ろに逃げた頭を追って、螺旋に回転した勢いで振り回された、最初の蹴り足が吸い込まれる。

 カスった。

 まともに当たっちゃいないが、頬を掠めた。

 たたらを踏むニック目掛けて、着地するなり跳び込むリィナ。

「フッ——!!」

「とと」

 リィナの拳は、ニックの腕に絡め取られて流された。

 その後は——当たらない。

 さっきのへばりつくような攻防よりも大振りだが、その分勢いを増した颶風のようなリィナの攻撃は、ことごとくニックに捌かれた。

「フン——大して変わらんな」

 ニックの拳が、リィナの脇腹に突き刺さった。

 弾けるようにきりもみして、床に叩きつけられるリィナ。

 ごぼっと、また血を吐いた。

 手加減はしてるんだろうが、死んだら死んだでそれまで。多分、その程度だ。

 力無く床に伏して痙攣するリィナを、ニックはなんの感慨も無い目で見下した。

「いつまで寝ている。さっさと呪文を唱えろ」

 無茶言うなよ。

 あいつ、意識はあるのか?

 ひでぇよ、死んじまうよ。

『ベホイミ』

 唱えたのは、シェラだった。

 ぴくり、と上体を起こしたリィナは、ぺっと口の中の血を吐き出して、シェラを見た。

10.

「シェラちゃん……」

「だって……だって……」

 しゃくり上げながら、シェラは言う。

「もう、見てられませんっ……」

「あはは……」

 一旦、俯いて頭を掻いたリィナは、立ち上がりながらニックに視線を戻すと、あはははは、と大声で笑った。

 乾いた声だった。

「スゴいね。もーホントびっくり。さすが、伝説の武闘家だね」

「なんだ。この程度で、もう観念したか」

「冗談でしょ。まだまだ、これからだよ」

 俺の感情は、呆れや感心を通り越す。

 虚勢だとしても——いまだに、そう口に出来るのがすげぇよ。

「言ったでしょ。ボクも『そこ』まで辿り付くって——」

「今のところ、法螺にしか聞こえんな」

 だが、ニックの返答はすげなかった。

「さて、どうしたものか——俺は人に物を教えるのが苦手でな。どうすれば貴様がマシになるのか、よく分からん」

 奇妙なことに、ニックは少し戸惑っているように見えた。

「なまじ、そこそこやれるだけに、その辺の魔物を相手にしたところで、最早貴様には大した意味はなかろうしな——ああ、そうだ」

 ニックは、何か思いついた顔をした。

「覚えておくがいい。そこらの魔物など下らんばかりだが——そうでないのも、中には居る。彼奴は『突然変異』とか言っていたか。姿形は大して変わらんが、中身は別物だ。そいつらは、存外愉しめる。貴様では死に兼ねんから、相手取るにはもってこいだろう」

 こいつが「愉しめる」なんて言う魔物かよ。

 絶対、出くわしたくねぇよ。

「ご親切に、どうも」

 リィナは、皮肉を口にした。

「そんなの教えてくれるってことは、やっぱりボクは、ここでは死なないんだね」

 虚を突かれたニックの表情は、すぐに苦笑に取って代わられた。

「尤もだ。俺も、どうかしている——ここで死ぬ貴様には、縁の無い話だったな」

 やっぱり——ニックは口で言うより、リィナを気に入っている。

 それをなんとか、突破口に出来ないモンか。

 だってよ、見逃してもらう以外に、ここから全員無事に逃げられる気がしねぇよ。

11.

「まだ……まだ、やるんですか……」

 シェラが両手で顔を覆う。

「もう……イヤです……見てられません……」

「ダメよ。ちゃんと、見てなさい」

 固い、マグナの声だった。

 俺の手を握ってない方の手が、剣の柄にかけられている。

 いざとなったら、割り込む気か。

 そうだよな。あいつ独りを、先に死なせる訳にはいかねぇよな。

 だから、どんなに目を背けたくても、そうする訳にゃいかねぇんだ。

「あるいは逆か?背水の陣など反吐が出るが……いつでも回復出来るというのも、締まらない話ではあるな」

 ニックは、ゆっくりとシェラに視線を向けた。

「僧侶には、魔法を封じる呪文があったな。それをあいつに唱えて、お前は死ね」

「ヒッ——」

 しゃっくりをするみたいに、シェラの息が止まる。

 後ろに倒れて俺に寄りかかった体は、棒みたいに固まっていた。

「ちょっと待ってよ!?相手はボク——」

「貴様は、少し黙っていろ」

「——っ!?」

 慌てて跳びかかったリィナの耳の辺りから顎にかけて、ニックの掌が撫でるように掠めた。

 くたり、とその場に崩れ落ちるリィナ。

「さて——さっさと呪文を唱えろ」

 ニックが、歩み寄ってくる。

 シェラは、空気を求めて口をぱくぱくと開閉するばかり。

 マグナも、剣に手をかけたまま動けない。

 いざとなったら、割って入る——固めかけた俺の覚悟は、霧散していた。

 何をしても無意味に思えて、何も出来ない。

 見逃してくれるかも——そんな甘い事を考えた自分が、無性におかしかった。

 そんな訳ねぇじゃねぇか。

 羽虫を潰すくらい気楽に、こいつは俺達を殺せるんだ。

 無理だ。

 さっきより、さらに深い絶望感。

 腰が抜けそうなのに、へたり込むことすら出来ない。

12.

「『スカラ』だ!!さっさとしろッ!!」

 俺達の前に立ちはだかった人影は——フゥマだった。

「シェラさんは『ピオリム』を!!早く、オレにかけて!!」

 絶叫に近い大声で、辛うじて体の自由を取り戻す。

「あ、ああ——」

「さっさとしろ!!死にてぇのかッ!!」

 焦りまくったその声に、急かされるように——

『スカラ』

『ピオリム』

 俺とシェラは、呪文を唱えていた。

「よし——ま、気休めだけどさ、ねぇよりゃマシだろ」

 呪文の効果でスピードと耐久力が上がったとはいえ、自ら漏らした通り、あのバケモンに届くとは到底思えない。

 フゥマは振り返ってシェラを見て——何か言いた気な視線を、俺に移した。

 なんだ?

 これ以上、俺に何が出来るってんだよ?

「おらあッ!!」

 数歩の距離を一足飛びに跳んで、フゥマは拳を突き出した。

 パン、とやたら軽い音が響いた。

 フゥマの拳は、ニックの左手一本で、あっさり受け止められていた。

「フン、手の甲が砕けたか」

「離しやがれっ!!」

 拳を握られたままフゥマが放った回し蹴りは、ニックの逆の手に打ち落とされた。

「うがっ」

 脚が、ヘンな方向に曲がってる。

「愚かしくはあるが——なるほど、死に物狂いも、案外侮れんな」

 続けて、鳩尾のあたりに拳を打ち下ろされて、フゥマはぐしゃりと潰れるように床に沈んだ。

 ヤベェ、死んだんじゃねぇのか、あいつ。シェラはまだ、ホイミを唱えらんねぇぞ。

『ベホイミ』

 リィナが頭を振りながら、起き上がっていた。

13.

「フン。もう目を覚ましたか」

 ニックがリィナに顔を向ける。

 その隙に、くたばる寸前から回復したフゥマは、跳ね起きて距離を取った。

 また、振り返って俺を見る。

 なんだよ?

 何が言いてぇんだ?

「お礼は言うけどさ——フゥマくん、引っ込んでなよ」

「ヤなこった。シェラさんは——オレが、守る」

 告白するように、宣誓するように、フゥマはきっぱりと言い切った。

 おお——ちくしょう、手前ぇ、この野郎。

 なんか、カッコいいじゃねぇかよ。

「やれやれ。興が殺がれたな」

 ちょっと感動しちまった俺とは対照的に、ニックはなんら感銘を受けなかったようで、むしろ面倒臭そうに漏らした。

「もういい。次から、即死させるぞ」

 即死はヤバい。ホイミの意味が無くなっちまう。

「上等だよ——」

 三度、俺を振り返り——フゥマは、ニックに突っかけた。

 ちょっ——お前、無茶すんな。死ぬぞ。

 そんな、まるで時間稼ぎみたいな——

 時間を稼がれたところで、俺に何が出来るってんだよ!?

「うらぁッ!!」

 フゥマの拳を、今度は受けずにニックは避けた。

 急停止したフゥマが、無理矢理そのまま蹴りを放つ。

 また打ち落とされるかに見えた蹴りを強引に途中で止めて、フゥマは踏み込みながら拳を突き出した。

 その躰が、いきなり横に弾き飛ばされる。

 迎え撃ったニックの拳は、虚空を貫いた。

 フゥマに飛び蹴りを喰らわせたリィナが、前に突き出されたニックの右腕を空中でぱしっと掴むと、着地と同時に引き込みながら肘を出す。

「フ——ッ」

 ズシン、という地響きがして、ニックの躰は立ったまま、後ろに数歩ほど滑った。

「ちっ」

 舌打ちをして、リィナの肘を受けた左手を、ぷらぷらと振る。ダメージは、それだけだった。

 あんた、そっちの手の甲、砕けたんじゃなかったのかよ。

14.

「いってぇ~……」

 リィナに蹴り飛ばされたフゥマが、ぼやきながら立ち上がる。

「感謝しなよ、フゥマくん。ボクが蹴らなきゃ、相打ちじゃなくて死んでたよ、キミ」

「……ッかってるよ」

 フゥマは、口をへの字に曲げた。

 つか、マジかよ。

 リィナとフゥマの二人がかりでも、死なねぇようにするのがやっとなのかよ。

 そんな相手に、俺が何を出来るって——

 俺の手を離したマグナが、抜刀しかけたのを目にして、気が動転した。

「バッ——お前まで、なにしようってんだ!?」

「なによ。あたしだって、居ないよりはマシでしょ!?これ以上、黙って見てらんないわよ」

 バカ、よせ——

 絶対、お前は死なせねぇからな——

 あ——

 唐突に、俺はフゥマの目配せの意味を理解した。

 リレミトだ。

 あの二人が、ニックを抑えてる間にリレミトを唱えれば。

 少なくとも、シェラと——マグナは、助けられる。

 どうせ俺には、そんくらいしか出来やしねぇんだ。

 出来ることがあっただけでも、御の字じゃねぇか——

 そうだ——

 助かる——

——って、ふざけんなっ!!

 心底ほっとしちまった自分を、ぶっ殺したくなる。

 やっぱり俺は、この程度だ。

 分かってるよ。

 ホントに強ぇ敵が出てきたら、ビビるばっかで、なんの役にも立ちゃしねぇんだ。

 そもそもマグナが、魔王を斃しに行こうなんて真面目な勇者様だったら、ハナからついて来ちゃいねぇよ。

 でもな——そんな俺でも、命の恩人を見捨てて逃げられるかよ!?

 前回リィナは、命懸けで、俺を助けてくれたんだ。

 無駄だろうが、なんだろうが。

 今度は俺が、なんかしてやるべきだろ!?

15.

 自分を勢いづけるつもりで、二、三度地団太を踏んだ。

 くそ、やってやろうじゃねぇか——

「まぁ、もうなんでも構わん」

 ニックの言葉の響きが、微妙に変わっていた。

「せいぜい抵抗してみせろ」

 そもそも、リィナに付き合っていたのが気まぐれで。

 それも面倒臭くなったみたいに——どうやら、俺達全員を殺すことに決めたらしかった。

「お前ら、離れてろ」

 俺は、マグナとシェラの肩を掴んで後ろに引いた。

「なに言ってんの!?」

「イヤです——」

「いいからっ!!」

 背中に叩き付けられた拒否の声を、俺は怒声でさらに拒否する。

「頼むよ」

 お前らが死ぬトコ、見たくねぇんだよ。

 マグナが勝手なことしない内に、早くしねぇと——

「リィナ!!」

 呼びかけると、リィナはするりと前に出た。

 さすがだよ、お前。

『メラミ』

 ぎりぎりまで火球を背後に隠し、リィナはニックの直前で素早く身を躱した。

 左右どっちに避けても、リィナの追い討ちが当たる筈だった。

 だが、ニックはメラミを避けようともしなかった。

 直撃だ——

 寸前、ニックが大きく息を吸い込んだのが、ちらりと目に入った。

『フッハァッ!!』

 ドシン、と床が揺れた。

 ニックの全身を包んだ火炎が、渦を巻いて立ち昇り——

 上昇して、掻き消えた。

 そんな、バカな——

 なんなんだ。

 なんなんだ、こいつは。

16.

「うがっ——」

 メラミが直撃した隙を突いて飛び掛った筈のフゥマが、逆に弾き飛ばされる。

『ベホイミ』

 シェラのベホイミは、フゥマが床に叩きつけられるより早かった。

「ぐっ……」

 床に伏したまま、フゥマが蠢いた。起き上がれそうにないが、なんとか生きてる。

「フン。浅いか」

 僅かに道着に燃え移った炎を手で払いながら、何事も無かったようにニックが言った。

 その目が、俺を向く。

「下らんことを。俺に仕掛けるつもりなら——メラゾーマ、だったか。とにかく、もう少しマシな呪文を唱えられるようになってからにしろ」

 ちょっと睨まれただけで、息が詰まった。

 蛇に睨まれた蛙ってのは、こういうのを言うんだろうな。

 カッコつけてみたけど——やっぱ、なんも出来ねぇや。

 笑っちまうくらい、俺は無力だ。

 おお、手が震えてる——こりゃ、死んだろ。

 ああ、望むところだよ。まずは、俺から殺しやがれ。

 余計なことしないで、大人しくしててくれよ、リィナ。

 マグナも、前に出るんじゃねぇぞ。

 頼むから、俺を一番先に死なせてくれ。

 否応無く死を確信させられている所為か。

 幸い、死ぬのはあんまし怖かねぇ。

 怖いのは、お前らが死んじまうことだ。

 怖いのは——目の前の、この男だ。

 怖ぇ。

 こいつ、怖ぇよ。

「その辺にしておいて下さいよ、ニックさん」

 いつから、そこに居たのか。

 フードを被ったにやけた男が、扉の脇に立っていた。

17.

「彼らは、有望な若者なんですから」

 なんで、こいつがここに——

 これは、助かったのか?

 それとも——このにやけ面も、所詮はバケモンの一人だ。

 イオナズン一発で、この場の人間を全滅できる。

 生き残れるのは、同じバケモンのニックだけだろう。

 俺達は、さらに追い詰められたのか?

「貴様か」

 ニックの口振りは、にやけ面の事を知っている風だった。

「貴様の戯言など、聞く耳持たんな」

「そう言わずに、ここは私の顔に免じて、見逃してあげてくださいませんか」

 にやけ面は、ニックに向かって拝む仕草をしてみせた。

 呑気らしい言動に、場の空気が緩む。

 なんか知らんが——いいぞ。

「阿呆が。貴様の締まりの無い面に、何か価値があるのか?」

 だがニックは、そんなツレない事を言うのだった。

 頑張れ、にやけ面。

 もっと一生懸命頼んでくれ。

 お願いしますから。

「相変わらず、口の悪い人ですね。そう言わずに、お願いしますよ。彼らの中には、少々気になる方も居ますのでね。今ここで殺されてしまっては、私としても困るんですよ」

 俺達を見回しながら言ったので、にやけ面の言葉が誰を指しているのかは分からなかった。

「知らんな。俺には関係無い」

「またまた、よく仰る。先程から拝見させていただきましたが、貴方にもお気に入りがいらっしゃるようじゃありませんか」

「覗き見か。貴様こそ、下劣な趣味は変わらんな」

 ニックは、舌打ちをした。

「だが、聞けんな。アレは、ヤツの弟子だ。俺が気にしているように見えたなら、それが理由だろう」

「ヤツ?ああ——」

「そいつが、よりにもよってこの俺に大口を叩いたんだ。吐いた唾は飲み込めんだろうよ」

「ボクも、このまま終わらせるつもりはないよ」

 リィナが、二人の会話に割って入った。

 バカ、どうしてお前はいっつも、そういう余計な——

18.

「もう、やめてくださいっ!!」

 シェラが叫んだ。

「なんでですか!?もういいじゃないですか!?何回も死にかけて……もうイヤです、私、こんな……これ以上……」

 リィナは、答えなかった。

『リィナ——』

 俺とマグナの声は、見事に重なった。

 重なって、立ち消えた。

 次の言葉を思いつく前に——

「ごめん。このまま終わらせるくらいなら、死んだ方がマシ」

 リィナは俺達の方を向いて、きっぱりと言い放った。

 そこまで——なのかよ。

 そこまで、覚悟を決めちまってるのか。

 なんで——

 俺は言葉を失ったが、マグナは違っていた。

「ダメよ。死ぬ気なら、許さないわ」

 こちらも断固としたマグナの声音に、リィナは苦笑する。

「あ、ううん、今のは言葉のアヤっていうか……だいじょぶ、死ぬつもりは無いから」

「ホントなんでしょうね?」

「うん……お願い、これで最後だから——えっと、つまり……こんなわがまま、これで最後にするからさ」

 眉を潜めて口を開きかけたマグナに、リィナは慌てて言い繕うように続ける。

「だって、ボク、あの人に一発も入れてないんだよ?このまま、終われないよ」

 いや、一発も入れてないこたねぇだろ——マトモに入ったのは、ニックが鎧を脱ぐ前か——けどさ——

 ぱんぱん、と手を打ち鳴らす音で、思考が途切れた。

「では、こうしましょうか。もう一度、リィナさんとニックさんが立ち会って、見事リィナさんが一撃を加えられたら、ニックさんは彼らを見逃してあげて下さい。もし駄目なら——まぁ、その時は、なるようになっちゃいますか」

 にやけ面の提案に、ニックは顔を顰めた。

「貴様が口を出すな」

「いいじゃありませんか。貴方も、彼女には期待してるんでしょう?——そういうことで、どうでしょう?」

 にやけ面に振られて、マグナが俺とシェラを振り返る。

 正直、考えがまとまらなかった。

 なんとか隙を見つけて、リレミトで脱出した方がいい。そうは思うんだが。

19.

 リィナを見る。

 ああ——そうだった。

 確かに、分の悪い賭けだけどさ——

 信じてるって、言ったんだもんな。

 そうだな。

 今さら、嫌はねぇだろ。

 一発入れるくらい、あいつならなんとかしてくれる。

 思いの他あっさりと、俺は頷いていた。

 シェラは何かを言いたげに幾度も口を開きかけたが、仕舞いにはぎこちなく無言で頷いた。

「分かった。それでいいわ」

「結構です。私としては、リィナさん以外の方は、無条件で見逃してあげて欲しいんですが……」

「気が向いたらな」

 どうでもよさそうな、ニックの口調だった。

 リィナは、なにやら不服そうな顔つきをしていた。

「見逃してあげるっていうのが、気に入らないなぁ……ま、一撃で倒せばいいんだけど」

 ニックから距離を取りながら、リィナは親指をぺろりと嘗める。

「最初から、そのつもりだったし」

「貴様には、無理だな」

「無理かどうか、すぐ分かるよ」

『ベホイミ』

 呪文が聞こえてそちらを向くと、シェラがフゥマを抱え起こしていた。

 フゥマはそれほど回復してなさそうな苦しげな表情で、バツが悪そうにシェラから顔を背ける。

「どんだけ全力出しても、受け止めてくれるんでしょ?」

 さらにニックから離れながら、リィナが挑戦的に言った。

「逃げないでよね」

 くるっと振り返って、握り拳を眼前に掲げてみせる。

「今のボクの全部で、一瞬だけでも『そこ』まで駆け上がる」

「フン。やってみせろ」

 ニックは深く腰を落として、開いた左手を前に突き出し、右拳を後ろに引いた。

 二人の間合いは、エラく離れていた。いくらリィナでも、一足飛びに詰められる距離じゃない。

 ひょっとして、助走する為なのか?

 まさかお前、真っ正面から突っ込むつもりじゃねぇだろうな?

20.

「マジかよ……オレを蹴っ飛ばしときながら、自分は相打ち狙いなのかよ」

 フゥマの呟き。

 やっぱり、そうなのか!?

 避けないようにニックを挑発したのは、その為か。

 マグナと目が合った。

 止めるべきか——だが、間に合わない。

 ぴょんと軽く真上に跳んで、着地した瞬間、リィナは既に駆け出していた。

 その姿が掻き消えて見えたほど、異常に速い。『星降る腕輪』の効果だ。

 あのバカ、ホントに真っ正面から突っ込みやがった——

「阿呆が」

 ニックに躱すつもりが無い以上、真っ向からぶつかり合うしかない。

 確かにこれなら、相打ちには持ってけるかも知んねぇけどさ。

 一発入ったところで——お前が死んだら、意味ねぇんだぞ!?

「フン——ッ」

 数歩手前で踏み切って跳び込んだリィナの胸元に、ニックの拳が吸い込まれる。

 拳が触れた刹那——

『ベホイミ』

 リィナが、呪文を唱えていた。

 打撃の相殺をベホイミに任せ切り、身を躱す力すら惜しんで——

「ああ——っ!!」

 破壊と同時の回復——無茶苦茶だ。

 だが、リィナの拳も届いてる。

「あああああぁっ!!」

 躰ごと突っ込んだリィナの全力の拳が、ニックの胸板を打ち抜いた。

「むぅっ」

 拳を突き出した姿勢のまま、ニックは壁際まで床を滑った。

 リィナの躰が弾かれたみたいに後ろに回転して、頭から床に落ちる。

 わずかに遅れて、ニックもガクリと膝をついた。

 胸のど真ん中に、リィナの拳の跡がくっきりと残っている。

 ごふっ、と吐血した。

 俺がニックの方を見ていたのは、そこまでだった。

21.

「おみごとです」

 短い拍手は、にやけ面が立っていた辺りから聞こえた。

「まさしく、死中に活の体現ですね」

「馬鹿を言え。およそ考え付く限り、最も愚かしいやり方だ」

 吐血に濁った声で、ニックが吐き捨てた。

「つくづく、素直じゃありませんねぇ、貴方も。ま、そういう処が、可愛げがあって私は好きなんですけどね」

「黙れ。気色悪い」

「ええ、黙りますとも。貴方が、約束を守ってくださるのなら、喜んで」

 ニックの舌打ちが聞こえた。

「俺は貴様のそういう処が、昔から気に食わん」

「おやおや、それは残念です——さて、カンダタさんの御守も辞められたようですし、一緒に来ていただけるんでしょうね?」

「……好きにしろ」

「立てますか?回復して差し上げましょうか?」

「要らん」

「おや、そうですか?もらったのは、正に会心の一撃とお見受けしますが、意地を張ると、いくら貴方でも死んじゃいますよ」

「巫山戯るな」

「おお、怖い。そんな目で睨まないで下さいよ。はいはい、分かりました。貴方のお陰で、私にも大分事情が飲み込めてきましたしね——それでは、皆さん。またいずれ、お会いしましょう」

 にやけ面が、リレミトを唱えたのが聞こえた。多分、誰もそっちを見てなかったと思う。

 恐る恐る側まで歩み寄って——とりあえず、安堵する。

 リィナは、生きていた。

 ごろりと仰向けに寝転がって。曲げた両腕で顔を覆って。

「また……負けた……」

 泣いていた。

「腕輪も……呪文も……使えるズル……ぜんぶ使ったのに……」

 しゃくりあげる。

「全然……届かない……」

 かける言葉が見つからないまま、俺とマグナは顔を見合わせた。

「ここしか……ボクには……これしか……ないのに……」

 悲痛な声が、心臓を鷲掴む。

 そんな——淋しいこと、言うなよ。

 だが、俺はこの時、リィナの涙の真意を理解していなかった。

 押し殺されていたリィナの嗚咽が、やがて石壁に囲まれた室内に大きく響いた。

22.

 前回と同様に、ニックの打撃はホイミだけじゃ回復しないらしく、リィナとフゥマは自分じゃ動けないような有様だったが、バハラタまではリレミトとルーラですぐに戻れた。

 こんな時だけお役に立てて、まったく嬉しい限りだね。

 こちらはホイミですっかり傷の癒えたグプタに、宿屋までフゥマを背負わせた。空腹で倒れそうになってたが、こんくらいさせても罰は当たらねぇだろう。

 俺はもちろん、リィナを背負った。

 このバカ、ホントに無茶しやがって。まぁ、前回と違って意識があるだけマシだったが、眠りに落ちる前に宣言した通り、一旦寝入ったらその後は丸一日ベッドから起きなかった。

 どっちかと言えば、フゥマの方が状態は深刻だった。バハラタに着いた時は、既に気を失っていて、再び目を覚ますまで三日を要した。

「フゥマくんは、内功の練りが甘いんだよ。ボクは前回やり合ってから、ずっと練り上げてたから——まぁ、役に立たなかったけど」

 リィナによれば、そういうことらしかった。俺には、よく分かんねぇけど。

 リィナとフゥマが療養している間に、俺とマグナは例の店にタニアとグプタを訪ねた。ちなみにシェラは、看病でフゥマにつきっきりだ。

 爺さんと近い将来の孫娘夫婦は、うんざりするほど感謝の言葉を繰り返したが、俺はほとんど何もしちゃいなかったので、正直、尻の座りが悪いだけだった。

 やっとこさで黒胡椒を貰い受けて、グプタに神殿について尋ねると、カンダタがアジトにしていた石窟寺院より、もっと北の山奥にあるらしいと返された。

 あの占い師の老婆が、この街に居ついた頃に聞いた話だそうだ。その頃は、今よりゃもうちょっとはマトモだったらしい。

 店を後にして、俺はマグナと二人で、その辺をぶらぶらしてみたんだが、なんだか気が抜けちまったみたいに、お互いあまり口を利かなかった。

「あたし……なんにも出来なかった」

 広場のベンチに並んで腰をおろし、しばらく無言の時が過ぎてから、マグナがぽつりとそんなことを口にした。

「俺もだよ」

 全く同感だったので、前置きが無くても、なんの事かはすぐに分かった。

 リィナとニックがやり合ってるのを眺めてただけで——ホントに、なんにも出来なかったな。

23.

 マグナが舞台と表現したように、役者でなかった俺達は、ハナから蚊帳の外だったんだろうけどさ。

 特にニックが正体を現してからは、俺は何も出来ないどころか、考えることすらままならなかった。

 オロオロするばっかで、舞台の流れについていけず、裏方らしく陰から支えることも出来なかったし、かといって観客の拍手みたいに後押しすることすら出来なかった。

 ひたすら部外者だったので、まるで思い通りにならない悪夢みたいに、実のところ思い返しても現実感に乏しい。

「なんにも言えなかった……これでいいのか、自分でも分かんなくて……納得できてないのに、判断もできなくて……でも、目の前の状況は、どんどん進んでくの……すごい、気持ち悪い」

 お前の性格だと、そういう感想になるのかな。

 マグナも無力感を覚えていたのは、よく分かった。

「あたしは……止めるべきだったのかな?あのコがなんて言っても、止めるべきだったと思う?」

 マグナに不安げな目を向けられて、俺は返答に窮した。

「……悪ぃ。俺にも、分かんねぇよ」

「あのね……あたしは止めたかったんだ。何度も止めようと思って、ヴァイスの魔法で逃げればいいやって……でも、止めちゃダメなんだって思う、あたしも居たの。どっちの自分が正しいのか、分かんなくて……」

 それはきっと、マグナにとって、これまであまり無かった経験なんだろう。だから、「気持ち悪い」んだ。

「……シェラが、羨ましかった」

 マグナは、目を伏せた。

「でも、こんなこと、リィナが生きてたから言えるんだよね……あのコが死んでたら、あたし……」

 小さい溜息。

「すごい、後悔してたと思う」

 後悔しかねない選択を自分がしていたことに、しかも能動的でなく受動的にしていたことに、おそらくマグナは戸惑っている。

 でも、リィナが死んでたら、俺達もあっさり殺されてた筈だから、後悔なんてしたくても出来なかったと思うぜ。

24.

「まぁ、なんにしてもさ——全員、生き残ったんだ。とりあえず、それでよしとしようぜ」

 状況に流されるなんてこた、俺にはよくあるこったからな。

 こちとら戸惑いなんて、まるきりありゃしねぇよ。

 なんて割り切った風を装ってみても、自分の言葉が空しく耳に届いた。

「うん、そうだよね……でも……それにしても……」

 何故か、マグナは笑った。

「おっかしいよね……」

 ひどく自嘲的な笑い方だった。

「こんなあたしに、なんで……あたしなんて……」

 結局、その先をマグナは口にしなかった。

 なんとなく察しがついて、俺も何も言わなかった。

 大丈夫だ。もうじき、お前には普通の暮らしを送らせてやるよ。出来れば、もうちょい暖かい内に、どっかに落ち着けるとよかったんだけどな。

 もう、すっかり冬だ。

 手を重ねると、マグナの手はひんやりとしていた。

 どちらともなく、暖め合うように指を絡める。

 ふと俺を見上げたマグナの瞳には、頼りなげな色がゆらめいていた。

25.

 なんとか動けるくらいまで回復すると、フゥマはすぐに俺達の元から立ち去った。

「今のオレじゃ、シェラさんを守れなかった。きっともっと強くなって、戻ってきます」

 だから、もうしばらくシェラさんを頼む。そう言い残したフゥマだったが、お前、勘違いすんじゃねぇぞ。別にシェラは、お前から預かってる訳じゃねぇんだからな。

 まぁ、あんなバケモンに出くわさない限り、腕っ節は充分だと思うけどね。悔しそうな顔してやがったから、我慢できねぇんだろうなぁ。

 でもな、強さってのはさ、腕っ節のことだけじゃないんだぜ。と、貧弱な俺なんかは思う訳ですが。

 バケモンを前にしてビビってるだけだった俺が言っても、説得力ねぇわな。ま、頑張れよ、少年。

 にやけ面やニックとの関係について、結局シェラはフゥマに問い質さなかったらしい。言い辛そうな素振りに、それ以上聞けなかったそうだ。

「自分から話してくれた時は、聞きますけど」

 そう言ったのは信頼の現れか、それとも、どんな事情があるにしろ「悪い人の仲間」には違いないと諦めた末の見限りか。シェラの微笑みからは、どちらとも読み取れなかった。

 己の不甲斐なさを噛み締めるようにして姿を消したフゥマとは対照的に、リィナは体が回復し切らない内から、やたら明るかった。

 連敗をくらって、てっきり落ち込んでるモンだと思ってたので、これはちょっと意外だった。

 ただ、最後に泣いてた事に触れようとすると、全力で誤魔化して照れ隠しをしたが。

 何日かバハラタに留まって疲れを癒してから、神殿を求めて旅立った後も、リィナは空元気に思えるほど、不自然に明るかった。

 実家に遊びに来た親戚のガキが、もうじき帰る間際の数日、懐いてた兄貴にやたら興奮気味にまとわりついていた事を、俺は何故か思い出していた。

 今の俺達は馬に乗っているので、森を回り込んで街道を東へ進む間は早かった。

 だが、残念ながら北へ向かう道は無く、森に分け入ってからはエラい難儀した。

 足元が均されてる訳じゃないし、木が密集してる中であんまり速度も出せねぇし、鬱蒼とした繁みに出くわせば、馬を下りて道を拓きつつ手綱を引かなきゃならねぇし、俄然足取りは重くなった。

26.

 先へ進むほど、山は高く険しくなった。

 ホントに、この先に神殿なんてあるのかよ。こんな山奥にあったんじゃ、誰もその存在を、ロクに知らねぇ訳だよな、全く。

 なんてことを思いながら、多分誰も通ったことが無いような道なき道を、じりじりと進む。

 この頃から、リィナの口数が少なくなった。

 どこか悄然としたその横顔は、やはり帰る前日の親戚のガキを、俺に思い起こさせた。

 そして、やがて——

 目を疑うような光景が、俺達の眼下に現れた。

 切り立った崖に端の方が融合してるから、どっかから石を運んで積み重ねた訳じゃなく、おそらく削り出したんだと思うが——

 よくもまぁ、こんな山奥で、これほど馬鹿デカいモンを削り出しやがったな。

 分かり易く言えば、城が丸々岩から削り出されていた。入り口のトコだけ外に出ていた、カンダタ共がアジトにしてやがった、あの石窟寺院とは比較にならない規模だ。

 いや、もちろん全部が全て削り出された訳ではなく、自然の地形を利用していたり後から建てられた箇所も多いにしろ、とにかくスケールが途方も無い。造りは異なるが、大きさで言えば、俺がこれまでに目にしてきた城と遜色が無い。

 岩山を削って出来たアホみたいに広い窪地に、ドカンとデカい神殿が建っていて、その周りを小さい建物が囲んで集落を形成していた。呆れたことに、畑や用水路なんかも備わっていて、窪みの中で世界が完結している。

 眼下に広がるその威容は、まるで要塞のようにも見えた。

27.

「すごい……」

 シェラは呟いたきり、言葉を失った。

「なによ、コレ……」

 呆れたような、マグナの口振り。

 深い自然の中に、突如として出現した壮大な人工の風景に、俺達はしばし圧倒された。

 いつもなら真っ先に感想を述べそうなリィナは、特に何も口にしなかった。

 勾配を削ったらしく、最初に俺達が森を抜けた辺りでは、神殿の建つ地面は遥か下の方に見えていたんだが、端の方まで行くと、窪みはかなり浅くなっていた。それでも、俺の身長より高かったが。

 俺達から見て一番遠くて浅い縁の部分に、左右を崖に囲まれたみたいな、外に続く細い道が見えた。そこが、唯一の出入り口のようだ。

 馬首を巡らせ窪みに沿って山を下り、その細い道に辿り付く直前のことだった。

「シェラちゃん、ちょっとお願い」

「あ、はい——」

 シェラに手綱を任せて、リィナがひょいと馬からとび降りた。

「みんな、ちょっと、そこで止まってくれるかな」

 俺達に言い置いて、トコトコと神殿の方に歩いて行く。

「どうしたの?」

 馬を止めたマグナの問いには答えずに、十歩ほども遠ざかった辺りで、下を向いたままこちらを振り向いた。

「えっと——」

 こりこりと頭を掻く。

 やがて、意を決した表情で顔を上げ、にこっと微笑んで両手を広げた。

「ようこそ——ボクのふるさとへ」

 ずっと探し求めていた、あるかどうかも分からなかった筈の神殿を前にして——

 リィナの笑顔は泣き笑いに近く、俺の目に映った。

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