15. Temptation

1.

「あなた方の望みは、エミリーから聞きました。『目覚めの粉』を持って、ノアニールの村に戻りなさい。詳しいことは、その子に聞くとよいでしょう」

 エルフの女王の声は、冷たさが和らいだ代わりに、どこか乾いて聞こえた。

 昨日、隠れ里に戻ってきた俺達は、その足で女王に面会を申し込んだのだが、あっさりと拒否されてしまった。そこで、憤るマグナを宥めつつ、アンの日記と『夢見るルビー』を渡してくれるよう、エミリーに託したのだ。

 今日になって女王が俺達を呼び出したのは、アンの日記に目を通したからだろう。

「こうなることが分かっていながら、私はあの子を止められなかった……」

 沈痛な面持ちで、女王は軽く握った手を口に当てた。

 それを見ながら、俺は想像する。

 大昔にも、人間に惚れてしまったエルフがいたのではないか。

 時の永きを共に歩むことの出来ない、アンと同様の悩みや苦しみが、『夢見るルビー』を生み出したのではないか——それは結局、両者の溝を埋めるには至らなかったけれども。

 さらに想像を推し進めるなら、女王が頑なまでに人間を嫌うのは、彼女もまた同じような経験をしていたから——そしてアンは、実はその人間との——って、そこまで行くと、完璧に空想だな。

 まぁ、別に確かめるつもりもない、単なる想像だ。

「お母様……」

「——なんでもありません。結果的には、我が子の我侭が、人間達に迷惑をかけてしまったようですね。あの子の親として、お詫びします」

 いや、俺達に謝られても困るんだが。

 呪いを解くのをすっかり忘れられて、そのまま放っておかれた村人達にとっては、とんでもない迷惑だろうな、実際。

「どうか、『目覚めの粉』で、ノアニールの人間達を解放してください」

「ええ。それは任せて」

 今日は大人しく、マグナが頷く。

 頷き返した女王は、口調を改めた。

「さて、あなた方が聞きたいもう一つの事柄と言うのは、『生まれ変わりの神殿』の話でしたね」

「何か知ってるのか?」

 俺は、身を乗り出した。

 シェラは——俯いている。

2.

「残念ながら、知らないと申し上げた方がよいでしょう」

「……そうか」

 なんだよ、期待させやがって。

「ですが、アンの消息を伝えてくれたあなた方に、せめて助言を与えることは出来るでしょう」

 エルフの女王は、遠くを見つめて、何かに耳をそばだてるような仕草をした。

 しばらく、間があった。

 風にそよぐ梢の音が聞こえた気がした。

「東へ……向かうとよいでしょう」

「東?」

「そうです……屹立する大山脈を越え……大陸を、さらに東へ……」

 女王は力無く椅子にもたれて、疲れたように息を吐き出した。

「今、申し上げたことが、あなた方の役に立つとよいのですが」

「なんか、よく分かんないけど……もうちょっと、具体的に言ってもらうことって出来ないの?」

「具体的なことは、私にも分かりません。私はそれを知らないのですから。今、私が申し上げたことを信じるも信じないも、あなた方の自由です」

「ああ、そう……まぁ、とにかく、ありがとう」

 微妙な表情で、マグナは礼を言った。

 なんとも雲を掴むような話だな。

 まぁ、雲の尻尾くらいは見えたと思うことにするか。

「それから、思い違いをなさらぬように」

 女王の声が、冷たさを取り戻した。

「はい?」

「私は考え方を変えた訳ではありません。エルフと人間は、やはり接してはならぬのです。あなた方に感謝はしていますが、どうぞなるべく早々に里から立ち去ってくださいますよう」

 ひくり、と顔を引きつらせたマグナが口を開く前に、俺は急いで答える。

「ああ、はい、そうですね。そうします」

 不貞腐れるマグナを引き摺って、俺達はエルフの女王の部屋を辞したのだった。

3.

 姫さんが駄々をこねたので——あと、シェラがとても淋しそうだったので、その日はもう一泊してから、その翌日、俺達はエルフの隠れ里を去ることになった。

 見送りに出てきたエミリーは、ずっと拗ねた顔を隠さなかった。ついて行くとか言い出しかねない雰囲気だ。

「……わらわも、村まで一緒に行くのじゃ」

 ホントに言い出した。

「ダメよ、危ないから」

 マグナに冷たく突き放されて、ますますムクれてしまう。

「洞窟についていった時は、平気だったのじゃ」

「あら、またあたし達に、お守りをさせる気なの?」

 わざとらしく驚いた顔をしてみせるマグナを、鼻に皺を寄せてめ上げていたエミリーは、おねだりする目を俺に向けた。

「ダメよ、ヴァイス」

 マグナに機先を制される。

 うん、まぁ、確かにちょっとよろけそうになった。

「ついてきたって、ノアニールの村からはどうやって戻るつもりなのよ。帰りは、独りになっちゃうのよ?」

「……なんとかなるのじゃ」

「ならないわよ」

 言下に否定するマグナ。

「どうせその後も駄々こねて、飽きるまでついてくるつもりなんでしょ。だから、危ないからダメって言ってるの」

 う~、と唸って、エミリーは握ったシェラの手を、ぐいぐい引っ張った。

「シェラ。この者が、わらわにイジワルをするのじゃ」

 板挟みにされたシェラは、困ったように曖昧な笑みを浮かべてから、エミリーの正面に回った。

「姫様」

 少し腰をかがめて、エミリーの顔を覗き込む。

「なんじゃ」

「私も、姫様とお別れするのは、とっても淋しいです」

「そうであろ?じゃったら——」

 エミリーは顔を輝かせたが、シェラの顔は曇ったままだった。

「姫様は、この里の外に出てみたいって言ってましたね」

「そうなのじゃ。里におってもつまらぬのじゃ」

 視線を落として、唇を尖らせる。

「……お主らもおらぬし」

「でもね、姫様。外は、とても怖いところですよ?」

 シェラの表情が憂いを深くする。

4.

「いい人ばっかりじゃないです。乱暴な人や怖い人が沢山いて……姫様が言ってたみたいに、エルフを攫おうとする人も、きっと沢山います」

「……お主らと一緒なら、大丈夫なのじゃ」

 シェラは優しく微笑みかける。

「そうですね。もし、どうしても我慢できなくなって、外に出ることがあったら……必ず教えてくださいね。その時は、ご一緒します。姫様ひとりじゃ心配ですから」

「じゃから、それが今——」

「でも、私はエルフの里で暮らすのが、姫様にとって一番幸せだと思うんです」

 シェラにまで言われて、エミリーは泣きそうな顔をした。

「あ、泣かないでください」

 シェラは声を詰まらせて、もらい泣きを堪えるように、ちょっと上を向いた。

 すぐに顔を戻して、にこっと笑いかける。

「ここは、とっても素敵なところです。穏やかで、のんびりしてて、とても居心地が良くて……他のエルフさん達と仲良くなれなかったのは残念ですけど、私は大好きですよ?」

 そうだな。シェラの気質には合ってるかも知れねぇな。

 だが、エミリーの感想は違っていた。

「……シェラは、ここに住んでおらぬから、そのような事を申すのじゃ。ずっと暮らしておれば、きっと里を出たくなるに決まっておる」

「それは——そうかも知れません。でも、もしそうだとしたら、それは私がエルフじゃなくて、人間だからだと思うんです。上手く言えませんけど……今の姫様は、隣の芝が青く見えてるだけです、きっと」

「よく……分からぬのじゃ」

 顔をくしゃっと歪めたエミリーを、シェラはそっと抱き締めた。

「私も、姫様と一緒に居たいです。もっと沢山お話ししたいです。私だけでも、ここに残ってしまいたいくらいに……でも、女王様が言ってらしたように、エルフと人間は、あまり近づき過ぎない方がいいって、私も思うんです」

「……なんで、そんなこと言うのじゃ」

「だって……姫様がお姉さんと同じようなことになってしまったら、私はすごく悲しいです。一緒に居られないことよりも、もっと辛いです」

「……」

「だから、姫様。お願いですから、私の我侭を聞いてください。今はお別れしますけど、いつでも姫様のことを思い出した時に、あの素敵なエルフの里で元気に暮らしてるんだって、安心させて欲しいんです」

5.

「……そんな言い方は、ズルいのじゃ」

 エミリーの涙声に、シェラも鼻を詰まらせながら苦笑する。

「また、時々遊びに来ますから。それくらいなら、いいですよね?」

 シェラはマグナに振り向いた。

「え、ええ。別に……構わないけど」

「遊びに来るくらいなら、女王様も許してくださると思いますし……ね、姫様?」

「……きっとじゃぞ」

 シェラの胸に顔を押し付けたまま、エミリーはしゃくり上げる。

「もちろんです。必ず、また大好きな姫様に会いに来ます」

「約束するよ」

 俺は、後ろからエミリーの頭を撫でた。なかなか筋がいいって誉めてくれたよな。

「今度は、おみやげ持ってくるよ」

 いつもと同じく朗らかに、リィナがそう言った。

 しばらく、姫さんが泣き止むのを待つ。

 正直なところ、俺もかなり別れ難い気分だった。ずいぶん懐いてくれてたからな。もう、そのちっこい体を抱っこできないかと思うと淋しいぜ。なんか、収まり良かったしさ。

 ちょっと前までのシェラのお陰で、足手まといと一緒に旅をするのは慣れてることだし、連れてっちまっても構わないんじゃないか、とか思わないでもないが、やっぱり、そういう訳にはいかないよな。

 シェラが諭してくれた通りに、エルフと人間は、あまり近づき過ぎない方がいいんだろう。互いが互いを気に入っているなら、なおさらだ。アンの辿った結末を、一緒に確かめた姫さんも、頭では分かっているんだと思う。

 それに、アンが居ない今となっては、エルフにとって唯一の姫様だもんな。里から連れ出しなんかしたら、攫われただのなんだの騒がれて、人間が今よりもっとエルフに恨まれちまうよ。

「じゃあね、姫様」

 立ち去る寸前、そう口にした途端に、またエミリーが泣き出してしまい、「我慢してたのに~」とか言いながらシェラまでぽろぽろと涙を流して抱き合ったりして、マグナがオロオロする一幕があってから、俺はノアニールに向けてルーラを唱えた。

 シェラの瞳には、まだ少し涙が滲んでいた。

 うん、偉かったな。シェラがしっかり言い聞かせてくれて、助かったよ。俺はどうも、ああいう雰囲気は得意じゃないからな。

 膝に乗った姫さんの重みと体温が、半ば実感を伴って思い起こされる。

 きっとまた会いに来よう、と思った。

6.

 ノアニールの村に戻った俺達は、早速、村人達の呪いを解く準備に取り掛かった。

 幸い井戸は枯れていなかったので、シェラの提案に従って、まずは水洗いをしてやることにする。

 目を覚ました途端に、自分が埃まみれってんじゃ、ちょっと気の毒だからな。

 ちなみに、例の中年魔法使いは、分けてやったひとつまみの『目覚めの粉』を調べるのに夢中で、部屋に篭もったきり出てこない。ったく、これだから魔法使いって人種はよ。

 半日がかりで水洗いを済ませると——面倒臭くて、途中で投げ出しそうになった——俺達は手分けして、村人の呪いを解いて回った。

 目を覚ました村人は、皆一様に、忘我の一拍をおいてから、身を震わせて驚きの声を上げた。全く訳が分からない様子で目を白黒させり、よろよろと後退ったり、中には尻餅をついて腰を抜かす者までいた。

 まぁ、それも無理はない。

 ホントに時間が止まってたんだとしたら、こいつらの感覚的には、いつも通りの見慣れた風景が、一瞬にしてボロボロの廃村に切り替わったように見えただろうからな。

 着てる服も、ヒドい有様だしさ。呪いをかけられたのが何時頃だか知らないが、太陽だっていきなり傾いたように見えたかも知れない。

 いちいち個別に説明していられないので、動きを取り戻した村人には、村の中心に集まるように告げて回る。いったい何事が起こったのかと、しつこく尋ねてくるヤツもいたが、とにかく皆が集まってから説明すると繰り返して追いやった。

 最後の一人をそちらに送って、後からついていくと、既にマグナ達の姿も揃っていた。

 村人達は興奮して、変わり果てた村を様子を窺いながらざわめき合っている。

 俺は、マグナに視線をくれた。

 こういう時は、やっぱリーダーの出番だろ。

 マグナは仕方無さそうに溜め息を吐いて、ぱんぱんと大きく手を打った。

「はい。ちょっと聞いてください。今から、何が起こったのか説明します」

 まだざわざわしながらも、村人達は一斉にマグナの方に目を向ける。

 その人数が醸し出す迫力に、俺は思わず腰が引けたが、マグナにたじろいだ様子はなかった。

7.

 マグナとはじめて会った日のことを思い出す。

 ルイーダの酒場で、大勢の荒くれ共の視線を一身に受けながら、堂々と振舞っていたマグナ。

 あの時と、同じ顔をしていた。

 久し振りに目にする、勇者している時のマグナだった。

「皆さんは、突然変わり果てた村の様子に、さぞ驚かれたと思います。一体何が起こったのか、私が知っていることを今から話します。信じられない内容かも知れないけど、とにかく聞いてください——」

 声を張って、マグナは語り出す。

 村人達にとっては一瞬にしか感じられなくても、実際は数年の時間が経過していること。そんな怪異に村人達が見舞われた、その理由。

 アンやロバートが、なるべく悪者にならないように、内容に気を遣っているのが分かった。

 村人達からは、絶えず困惑の声があがったが、マグナは構わずに喋り続ける。

 あらかた説明が終わった頃、集まった村人達の一角から、こんな声が漏れ聞こえた。

「あの娘さんの言ってることは、本当なのかい?」

「信じられねぇだけど、この村の有様さ見ると、まったくの嘘とも思えねぇだな」

「それにあんた、自分の格好を見てごらんよ。本当に、まるで何年も外でほったらかしにされたみたいな、ヒドい格好じゃないか」

「だども、あの娘っこの言っとることが本当だとしてだ。誰がこの村さ救ってくれたんだ?」

「そりゃ、あの子達じゃないの?」

「違うよ、まだ子供じゃないか。きっと、あの方だよ」

「そうそう。そんな凄いことが出来るのは、あの方に違いないよ」

「ああ、あの方!!」

「そんだ。ついこないだまで、この村には勇者様がいらしたでねか」

「オルテガ様!!」

「勇者様だ!!」

「オルテガ様が、この村さ救ってくだすったんだ!!」

「オルテガ様は、どこだ!?」

 その声は、あっという間に村人全体に広がって、オルテガ様、オルテガ様といううねるようなざわめきが、ひとつの唱和になっていく。

 やがて、前の方に立っていた村人の一人が、マグナに歩み寄った。

「そんで、あたしらを助けてくだすったオルテガ様は、今どこに居なさるんだい?お姿が見えんようだけんど」

 マグナは——真っ青な顔をしていた。

 さっきまでの凛々しい勇者の表情など、見る影も無い。

8.

「……知りません。ここには、いません」

「いや、ついこないだまで、そこの宿に泊まってらしたんだよ。あ、ついこないだっても、もう何年も前なのか。ややこしいな。けんど、オルテガ様が戻ってきて、その『目覚めの粉』ってのを取ってきてくだすったんだろ?」

「違います……取ってきたのは、私達です」

「えっ、オルテガ様でなく?」

 村人は、きょとんと狐につままれたような顔をした。

「ホントかい。そりゃ、また……」

 後ろを振り返って大声を張り上げる。

「おーい、違うってよ。村を救ってくだすったのは、オルテガ様でなくて、この娘さん達だってよ!」

 ざわめきの色が変わっていく。

「オルテガ様じゃないの?」

「本当なのかい」

「あんな子供が?」

「それが本当なら、あんなに若いのに、大したもんだねぇ」

「じゃあ、あの子が勇者様ってことかい」

「まぁ、村を救ってくれたんだ。勇者様には違ぇねぇやな」

「そうなのかい。なんだか、話がまだ良く分かんねぇんだけんど」

「あたしもだよ」

「とにかく勇者様には、きちんとお礼せにゃならんなぁ」

「もっとちゃんと話も聞きてぇし」

 今度は、勇者様勇者様というざわめきが広がっていく。

 おそらく、マグナは無意識の内に、この状態を怖れていたのだ。

 自分達の手柄に聞こえないように、過度に感謝や賞賛を受けないように、なるべく主体をぼかして、客観的な経緯や事実だけを伝えていたマグナの語り口は、しかし結局無駄になった。

「あの!お礼とか結構ですから!元々そんなつもりじゃなかったし——私、勇者でもなんでもないですから!!」

 マグナの悲鳴は、逆効果だった。

9.

「そういう訳にゃいかねぇだよな」

「ぅんだ、お礼もできねとあっては、村の恥だ」

「にしても、さすがに立派なこと言いなさるわ」

「おら達、みんな助けてもらったんだろ?」

「そうそう。そんだけのことしといて、なかなか謙遜できるもんでねぇだぞ」

「やっぱり勇者様だわなぁ」

「でも、村がこんな有様じゃあ」

「とにかく、村さ立て直すまで、勇者様にゃしばらく泊まってもらってだな……」

 じわじわと押し寄せる村人達から身を翻して、マグナは口を押さえて俺にしがみついた。

「ヴァイス……お願い、今すぐルーラでどこか違うところに連れていって!」

「あ、ああ」

「お願い、早く!!」

「わ、分かった」

 俺は素早く周囲を見回す。

 シェラはすぐ側に居るが、リィナは少し離れて村人と何事か話していた。

「早くっ!!」

 マグナの悲鳴が急かす。

「悪ぃ。リィナのこと、ちょっと頼むわ」

 俺はシェラに声をかけると、マグナの手を握って駆け出した。

 怪訝な声をあげる村人達から距離を置いて、ロマリアに向かってルーラを唱える。

10.

 ロマリアに着いても、マグナは一言も口を利かなかった。

 顔面を蒼白にして、両手で俺の袖を強く握り締めて、へたり込みそうになるのを必死で堪えながら、覚束ない足取りで歩く。

 放っておけるような状態じゃなかったので、俺は宿屋までマグナを送った。

 それにしても、オルテガって……やっぱり、あのオルテガだよな。

 マグナの父親だ。

 まさか、こんなところまで来て、その名を聞かされるとは思わなかった。思いがけずに、という意味では、マグナの方がよほど強烈な衝撃を受けたに違いないが。

 宿屋の手前で立ち止まって、マグナは口元を手で押さえた。

「気持ち悪い……」

 押さえる手が震えていた。

「大丈夫か?」

 マグナは残った手で自分の体を抱えて、立ったまま背中を丸めた。

「なに、これ……」

「どうした?」

「……寒いの?……分かんない……体の周りが……空っぽになったみたい……」

「マグナ……」

「お願い、ヴァイス……ぎゅってして……震えが……止まらないの……」

 人通りの多い往来だが、それを気にしてる場合じゃないな。

 俺はマグナの背中に手を回して、少しづつ力を込めた。

 本当に、全身が細かく震えている。

「なんで……」

「ん?」

「ここの人達……あたしのことなんか……知らない筈なのに……」

 か細い声も、震えていた。

「なんで、なにかする度に……ゆう……んて言われるの?」

 勇者。マグナが捨てた筈の称号。

「気にすんなよ。どうせ、深い意味なんてねぇんだからさ。人がそう呼びたくなるようなコトを、たまたましちまっただけだよ」

 本当に——たまたまか?

 そうに決まってんだろ。それ以外に、何があるってんだ。

 俺は、意味深長な目つきをするロランの顔を、頭から追い払った。

「それに……なんで……なんで、あの人が出てくるのよ……ずっと…………癖に……なんで今さら……邪魔するのよ……なんで……こんなところまで……来たのに……」

 マグナの声は、うわ言のようだった。

 俺は、マグナを包む空隙を少しでも埋めようとして、さらに腕に力を込めた。

11.

「駄目……なのかな」

 マグナは、ひどく心細い声を出した。

「なにが」

「やっぱり、逃げらんないのかな……」

 勇者というくびきから。

 逃れて、ここまで来た筈なのに。

 どこまでも追ってくる。

 まるで逃れてなどいなかったのだ。

「そんなことねぇよ」

 腕の中で、マグナがぴくりと動いた。

「親父さんは、世界中を旅して回ってた人だろ?俺達だって旅してるんだから、親父さんの足跡にぶち当たるコトくらい、そりゃあるさ。当たり前の話で、特別な意味なんて何もねぇよ」

 俺は、マグナの背中をとんとん、と軽く叩いた。

「今日は、たまたま親父さんの名前を聞かされた上に、たまたま勇者呼ばわりされたもんだから、そんな気分になっちまっただけだ。錯覚だよ」

 そう。偶然が見せた錯覚に過ぎない。

「大丈夫だ。俺がちゃんと、勇者なんかとは無縁の生活を、お前に送らせてやるから」

 ロランとの賭けもあるしな。

「だから、大丈夫だ」

「……うん」

 マグナは、小さく呟いた。

 なんか今、誤解されるようなコトを言っちまった気もするが、別に構いやしない。

 本心ではある訳だしな。

 俺は、マグナの頭を撫でる。

 しばらくそうしていると、かなり震えが治まってきた。

「ありがと……もう大丈夫」

 俺の胸をそっと押して、マグナは身を離した。

「なんか……いきなり、ごめんね」

 俯いたマグナの表情は、垂れた前髪に隠されて窺えない。

 肩を落としたその姿は、ひどく小さく見えた。

「ホントに、大丈夫か?」

「うん。あたしは、もう平気だから……二人を、迎えに行ってあげて」

 お前はそう言うけどさ。

 俺には、今のお前を放っておけそうにねぇよ。

12.

「部屋まで……」

 送るよ。

 そう口にしかけて、少し迷った。

 今のマグナと、部屋で二人きりになるのは——マズい気がして。

 けど、もういいや。

 何かあったら、その時のことだ。

 勢い任せとか、いい加減な気持ちでそう思ってる訳じゃない。

 俺はただ、こいつが心配で——

 思い切って、再び口を開こうとした時だった。

「おっと」

 宿屋から出てきた男の肩が背中に触れて、マグナがよろめいた。

 慌ててマグナの腕を掴んで支えながら、男を睨みつける。

 男は、俺に向かって目で会釈をしてから、マグナに声をかけた。

「すまない。不注意だった」

「いえ、あたしも——」

 顔を上げたマグナの目と、男の目が合った。

 その瞬間に、二人はぴたりと動きを止める。

 ん?

 あれ?

 なんだ、この空気。

 これは——何だ?

 二人は、凝っと見詰め合う。

 他の物など、何も目に入っていないように。

 お互い以外の存在が、この世から消え失せたように。

 まるで突然、運命の人に巡り合ったみたいに——って、いやいや。

 そんなバカな。

 そんなこと、ある訳ねぇだろ。

 こんな、いきなり——

 あれだろ。この野郎が、ちっとばっかし見てくれがいいからって、見とれちまってるだけだろ、マグナ?

13.

 急激に頭が冷えていくのを自覚しながら、俺は男を値踏みする。

 外見的にはマグナと同年代に思えたが、その身に纏った雰囲気が、男を大人びて見せていた。

 茶色がかった短い黒髪。意志の強そうな顔立ち。旅装に包まれた体躯は、歳の割りにはがっしりしている。背も高い。

 どことなく野性味のある——男前だ。

 はいはい、確かにカッコいいよ。いい男だよ。俺なんかより、ずっとな。

 でもな、だからってお前、いつまで見詰め合ってんだ。

 大体お前は、今の今まで真っ青な顔して震えてたじゃねぇかよ、マグナ。

 それが、ぽっと出てきた男に、なにいきなり見とれてんだ。

 なんなんだ。

 どういうことだよ、これは。

 わざとらしく咳払いをしてやると、男の方が先に我に返った。

「あ、ああ——すまない」

「ご、ごめんなさい、あたしこそ。凝っと顔を見たりして」

 おいおい。可憐に頬を染めたりして、なんだかマグナの仕草が女の子っぽいんですが。

「俺と、どこかで——いや、いい。すまなかったな」

「いえ、こんなところで、ぼーっとしてたあたしが悪いんです。ごめんなさい」

 お互いにしつこく謝り合っているのがおかしかったのか、同時にぷっと吹き出した。

 別に、何もおかしかねーよ。

「じゃあ、これからは気をつけて」

 冗談めかした口調でほざいて、男はマグナに笑いかけた。

「はい。あの、ありがとうございます」

 何故か礼を言うマグナ。いや、意味分かんねぇから。

 男は軽く片手を上げて、雑踏の中に消えていった。

 もう見えなくなった男の背中を、マグナはいつまでも追い続ける。

 なんか俺、すっかり放っておかれてますが。

「……ほんじゃ、俺、行くわ」

「え?ああ、うん……行ってらっしゃい」

 心ここにあらず、みたいに返された。

 なんか——心配してたのが、馬鹿みたいだぜ。

14.

 ノアニールの村に戻ると、村人達は既に各々の家に散って、途方に暮れながらも掃除に取り掛かっていた。

 とにかく数年分の塵芥をどうにかしないと、寝ることもできないもんな。気の毒な話だ。建物も、傷みまくってるしよ。

 そこらの村人を捕まえて、リィナとシェラの居場所を尋ねると、宿屋に居ると教えられた。

 宿屋の帳場では、シェラがせっせと掃除をしていた。

「あ、ヴァイスさん」

 長い髪を僧侶服の中に仕舞い、頭に頭巾とか巻きつけたシェラが、雑巾を絞りながら顔を上げる。

「その……どうでした、マグナさん。倒れそうな顔してましたけど、大丈夫でしたか?」

「ああ。ぜーんぜん問題ねぇよ」

 マジで。

「何かあったんですか?」

 不思議そうに小首を傾げる仕草が可愛らしい。どっかの誰かより、全然な。

「いや、別に。リィナは?」

「あ、はい。二階の部屋に居ます。あの、オルテガさんが泊まってた部屋らしいんですけど……しばらく、独りにしてくれって言われて」

「ふぅん」

 なにやら、改めて妙な気分だ。

 オルテガと言えば、俺にとってはほとんど伝説中の人物に近い。

 少なくとも数年前までは確かに生きていたとか、アレの父親だとかいう事は、頭では分かっちゃいるんだが、実感というか生活感がイメージに伴わない。

 物語の登場人物が泊まっていたと言われてるみたいな、奇妙な感覚だった。

 リィナも物見高く、そんな気分を満喫してるのかね。

「シェラちゃん、どぅお?」

 通路の向こうから、おばさんの声がした。宿屋のおかみか何かだろう。

「はい!大体、終わりました!」

 元気良く答えたシェラの言葉通り、入り口から帳場にかけての廊下は、かなり綺麗になっていた。

「じゃあ、悪いけど、こっちもお願いできるかしら」

「はーい、今行きまーす!——リィナさんが居るのは、階段を上がってすぐ右の部屋ですよ」

 俺に言い置いて、箒を脇に挟んでバケツを両手でぶら下げて、シェラはえっちらおっちらと、おばさんの声がした方に向かう。

 やけに生き生きして見えた。

 魔物なんかと戦ってるより、こういう事してる方が性に合ってるんだろうな、こいつは。

15.

 そんなことを考えながら、俺は階段を上る。

 すぐ右——この部屋か。

 ノックをしても、いらえは無かった。

 扉を開けようとしたが、鍵がかけられている。

「あ、ごめん。ちょっと待って」

 中から、リィナの声が聞こえた。

 ややあって、扉が開かれる。

「あれ、ヴァイスくん。もう戻って来たんだ。マグナは?」

「先にロマリアに帰した」

 まだ掃除をしていない部屋の中は、えらく埃っぽかった。

 壁際に、そこだけ埃が積もっていない真新しい跡が、くっきりと残っている。

 ちょうど、誰かが座り込んでいたような跡だ。

 もちろん、その誰かとは——リィナ以外に考えられない。

 俺が向けた視線から、偶然なのか故意なのか、リィナはついと顔を逸らした。

「すごいよね。ここに、あのオルテガ様が泊まってたんだって。マグナのお父さんだよ。なんか、不思議な気がするよね」

 普段と同じ口振りだが、うっすら鼻がかって聞こえる。

 下瞼が微かに腫れているように見えるのは、俺の気のせいか?

「会ってみたかったな~。あと何日か早く来てれば……って、違うんだよね。村の人達には何日か前でも、実際はもう何年も経ってるんだもんね」

「ここで、何してたんだ?」

「え?」

 リィナは、俺の方を見なかった。

 部屋を見回しながら、答える。

「別に、何もしてないよ。ほら、オルテガ様っていったら、すごい有名な勇者様だからさ。どんな人なのかな~って、想像してただけだよ……泊まってた部屋を見たって、なんにも分かんないんだけどね」

 あはは、とリィナは笑った。

「オルテガ様って、めちゃくちゃ強かったって言うじゃない?ジツはボク、ちょっとだけ憧れてたんだよね。だから、別に何も分かんなくていいから、部屋をちょっと見てみたかったんだよ。それだけ」

「泣いてたんじゃないのか?」

 言うつもりは無かったのに、その台詞は勝手に俺の口をついて出た。

「へ?」

「何か、独りで悩んでるんじゃないのか?」

 ロマリアの修練場で見かけた、ブルブスと手合わせしていた時のリィナを思い出す。

16.

「なんで?何も悩んでないよ?」

 確かに、悩みなんて何もなさそうな、いつも通りの声音だけどさ。

 なんか、微妙に違うんだよ。

 それに、どうして俺の方を見ようとしないんだ。

——考え過ぎだ。気のせいだ。リィナの態度は、別にそれほど不自然って訳じゃない。

 そう思っても、勝手な思い込みでリィナに感情移入しちまう自分を、何故か止められない——なんでだ?

 なんだか分かんねぇけど、今のお前は——少しだけ、淋しそうに見える。

 自分では制御できない感情が、勝手に頭の中に想像を浮かべる。

 俺が見落としてただけで、こいつは今までも、こうだったんじゃないだろうか。

 独りで悩みを抱えながら、無理して明るく振舞って、影でこっそり落ち込んで。

 俺達には——俺には、そんな顔を見せないように、気をつけて。

「俺って、そんなに頼りにならねぇかな」

 また、口が勝手に動いた。

 いや、頼りにならねぇのは、自分でも分かってるんだけどさ。

「……どうしたの?なんかあった?」

 別に、なにもねぇよ。

 リィナは、やっと俺の顔を見た。そして、笑った。

「急にマジメな顔しても、似合わないよ?」

 それも、分かってる。

 だが——訳の分からない悔しさが、俺の胸を満たす。

「お前の悩みって、俺達にも関係ある事じゃねぇのか?もしそうなら、少しくらい言ってくれよ」

「だから、ないってば——」

「そりゃ、俺は頼りにならないかも知れねぇよ」

「頼りにしてるって言ったよ?」

「戦闘に関することだけじゃなくてさ——」

 駄目だ。止めようとしても、口が勝手に動いちまう。

 なんか、やっぱりおかしいぞ。

 実際、ここ最近の俺は、おかしいんだが。

 他人とは常に距離を置いて、面倒臭ぇ内面なんかには踏み込まず、建前やら予定調和で当たり障りなく付き合うのが、俺のやり方だった筈だ。

 なのに、こいつらと出会ってからの俺ときたら——まったく、らしくない。

 それは、自分でも分かってるんだが。

 今、覚えている違和感は、それだけじゃないような。

17.

「ああ、そうだよ。お前の悩みを聞いたところで、どうせ俺には何もできないだろうさ。何も答えてやれねぇよ、きっと」

「ちょっと、ヴァイスくん——?」

「俺に言ったところで、仕方ねぇ事なんだろ。お前が何か、秘密を抱えてることは知ってるけどさ」

「それは——」

「ああ。お前が自分から話すまで待つって言ったよ。喋れない理由があるんだろ。分かってる——でも、その秘密の所為で、お前が独りで苦しんでるなら……そんなの、嫌なんだよ」

 マズい。

 頭の中に浮かんだ言葉を、ロクに検討も選別もせずに、そのまま口にしちまってる。

 こんなの——俺の流儀じゃねぇよ。

 何が自分をそうさせるのか——俺は、脳裏に浮かびかけた情景を、無理矢理押し潰した。

「なぁ。なんでもない顔して、独りで抱え込むなよ」

「ヴァイスくん……」

「そういうことされると、自分が全然頼りにされてねぇっていうか……遠く感じちまうっていうか……」

 止めろよ。駄目だ。今の俺が、リィナにこんなこと言うべきじゃない。

「頼むから、もうちょっと、近寄らせてくれよ。俺は——」

 違う違う。

 危ねぇ。

 何言おうとした、俺。

「——仲間じゃねぇか」

 一瞬だけ、リィナの眉が顰められたのを、俺は見逃さなかった。

「そうだね」

 ポツリと呟いて、リィナは目を閉じる。

 ゆっくりとした瞬き程度の時間。

 すぐに開かれた目は、笑っていた。

 なんのつもりか、ずいと体を寄せてくる。

「近寄らせてくれって、こういうことかな?」

 俺に凭れ掛かって、首に手を回す。

 耳のすぐ横で、含み笑いが聞こえた。

「……からかうなよ」

「またぁ。マグナのことは、からかったクセに」

 ちぇっ、筒抜けだな。

18.

「それとも、自分がからかわれるのは、嫌いなのかな?」

 含み笑いと共に、耳に少し吐息がかかった。

「だよね。ヴァイスくん、プライド高いから」

 そんな風に思ってたのかよ。

「俺、結構マジなんだけど」

「ボクもだよ……真面目じゃなきゃ、こんなことできないよ」

 ひどく。女っぽい声で。囁いた。耳元で。

 ぎしっ、と自分の体が硬直するのが分かる。

 間近で嗅ぐと、思った以上に、匂いが女だ——違う。そうじゃない。

「そうじゃなくて……俺は、お前が心配で——」

 リィナは、湿った声で囁く。

「じゃあ……慰めてよ」

 ぴったりと俺に半身を押し付けたまま、胸まで撫で下ろされたリィナの手が、再び上って頬に辿り着く。

 指でくいと横を向かされると、真正面にリィナの顔があった。

 瞼が閉じられる。

 顎が、ちょっと上を向く。

 俺は——その顔に手を置いて、無言でリィナを引き剥がした。

「あれ?」

「お前な」

「ダメ?もしかして、バレバレ?」

 俺は、小さく頷いてみせる。多少、ぎこちなかったかも知れない。

「ありゃ。いや~、難しいんだね、ひっかけるのって」

 今さらのように顔を真っ赤にして、リィナは頭を掻きながら身を離した。

「ボクにしては、すっごい頑張ったつもりだったんだけどなぁ。マグナの仇はとれなかったか~」

「だったら、マグナがどうとか、先に言うべきじゃなかったな」

 まぁ、こっちはお陰で我に立ち返れたんだが。

「うわ、ほっぺた熱っ!ひゃー、思い出しただけで恥ずかしいよ」

 頬に両手を当てて、身悶える。

「あのさ、お互いに今のは忘れようね?」

「……いいけど」

「でも……ちょっとはその気になった?」

 リィナはにへっと目を笑わせた。

19.

「ならんならん」

「またまたー」

「つか、次は是非、サラシを巻いてない時に挑戦してくれ」

 リィナは視線を落として、自分の胸に指先を置いた。

「あ、そっか。これって、そういう時は、すごい武器になるんだもんね」

 お前のは、特にな。

「でも、ドキドキして心臓に悪いから、もういいや。慣れないことは、するもんじゃないよね」

 あははと笑う。

「そりゃ……残念だな」

「ホントに~?」

 ああ、ホントホント。

「まぁ、ヴァイスくんは、すけべーさんだもんね」

 いや、あのな……リィナには、言われても仕方ねぇか。

 スカートの中を覗こうとしたトコまで見られてっからなぁ。正確には、覗こうとした訳じゃないんだが、ギリギリ感っつっても、分かってもらえねーよなぁ。

「心配してくれて、ありがとね。ちゃんと頼りにしてるから」

「あ、ああ」

 急に話を変えられて、俺は反射的に頷くことしかできなかった。

 リィナは、すっかり普段の口調に戻って、けろっとした顔で続ける。

「そいで、今日はこれからどうするんだろ。ロマリアに戻るのかな?」

「そう……なるかな」

「だったら、シェラちゃん呼んで、早く戻ってご飯にしよう!ボク、お腹ぺこぺこだよ」

 俺の後ろに回って、部屋から追い立てるように背中を押す。

 なんか、上手く誤魔化された気がするぞ。

 まぁ、いいけどさ。

 俺も、おかしなことを口走っちまったし、お互い忘れるのに異存はねぇよ。

 けど——さっきの女っぽかったリィナを思い出す。

 仕切り直すのは、アリかな。

 次は、訳の分かんねぇ勢い任せなんかじゃなく、もうちょいそれなりに振舞ってみせるからさ。

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