14. Just as Long as We're Together

1.

 エルフの隠れ里をさんざん探し歩いた疲れを抜く為に、次の日は丸々休養をとってから、俺達は姫さんの姉貴の足取りを追って、南の洞窟に向かった。

 この前入った時にも感じたことだが、この洞窟の魔物は、結構手強い——というか、面倒臭ぇ。

「早くしなさいよっ!!」

 からかったのを根に持ってやがるのか、未だに俺には愛想の悪いマグナに叱咤される。

 うるせぇな、分かってるよ。

 とは口に出さず、キノコの化け物に眠らされたリィナの体を抱え上げる。

 わらわらと集団で群がってくるこいつらの吐く息が、とにかく厄介だった。催眠効果を持った攻撃をしてくる魔物には他所でも出くわしたが、洞窟内という限定された空間の所為か、やたらと効きが良い気がするぜ。

 キノコ共が眠らせた獲物を狙って、狼モドキの魔物が寄ってくるのも有難くない。万が一、全員寝ちまったら、あっさり噛み殺されかねない。

「リィナは……死んでしまったのか?」

 シェラの側までひいこら持ち返って、地面に横たえたリィナを、姫さんが不安げに覗き込んだ。

 そう。エミリーもついてきちまったのだ。

 俺は危ないから絶対ダメだって言ったんだけどな。すげぇ駄々こねられたけど、心を鬼にして置いてきたんだぜ。

 なのに、こっそり後をつけてきやがったんだ、このお転婆姫様は。

「いや、眠ってるだけだよ」

「そうか。良かったのじゃ」

 ほっと浮かべた笑顔の可愛らしさに、今の窮地を一瞬忘れかける。

 リィナもリィナだぜ。

 一旦引き返して、エミリーを里に帰そうって俺が主張した時は、「ここまで来ちゃったんだから、連れてってあげようよ。だいじょぶ、ボクがちゃんと守ってあげるから」とか言ってた癖によ。

 気持ち良さそうに寝こけやがって。お前が眠っちまったら、こっちは大変なんだぞ。

 ここはひとつ、一刻も早く目覚めてもらう為に、王子様のキスでだな——

「あっ——マグナさんっ!!」

 アホなこと考えていた俺は、シェラの叫び声で振り返る。

 マグナまで、くたりと地面に倒れ込んでいた。

 おいおい、お前まで眠ったら、前衛がいなくなっちまうじゃねぇかよ。勘弁してくれ。

『ベギラマ』

 残ったキノコ共に呪文を喰らわせて、ようやく全滅させる。

 だが、少し離れて、魔狼がマグナに襲い掛かる機会を窺っていた。

2.

「ここに居ろよ!」

 俺はシェラとエミリーに声をかけて、マグナの元に走った。

 グルル、とか物騒な唸り声をあげつつ牙を剥いた魔狼が、おさまりかけた炎壁を回り込んで、マグナに忍び寄る。無防備な首筋でも狙われたら、ひと噛みでお陀仏だ。

 くそっ、ふざけんな。

 間一髪で間に合った俺は、魔狼を蹴り飛ばして引き離そうとした。

 だが、ひょいと躱されてしまう。やっぱり、リィナみたいにはいかねぇな。

 普段はほとんど使わないナイフをフクロから取り出し、マグナと魔狼の間に立って構える。

 すげー心許ないんですが。

 しかし、魔狼はいちおう警戒してくれたらしく、口角から唾液を滴らせて唸りながらも、すぐに仕掛けては来なかった。

 助かるぜ。魔法抜きの俺がてんで弱っちいのが見抜けねぇとは、所詮ケダモノだな。

 もうちょいでお待ちかねの呪文を唱えてやっから、それまでいい子で待ってろよ、頼むから。

 ところが、俺の考えは全然甘かったのだ。

 シェラの脇に置かれた手持ちランプの灯りが届かぬ暗がりに、もう一匹の魔狼が潜んでいた。

 カチャカチャと岩床を蹴る爪音がしたかと思うと、忙しない呼気があっという間に背後に迫る。

「グァウッ」

「くっ」

 振り向きざまに横薙いだナイフは、いとも容易く躱された。畜生、俺の攻撃、全然当たんねぇよ。

 ダメだ、やっぱ呪文でなけりゃ——

「ぅあっ!!」

 痛ぇっ——つか熱ぃっ——つか痛ぇっ!!

 背を向けるなり、それまでナイフで牽制していた魔狼が噛み付きやがった。右のふくらはぎだ。膝をつく。痛ぇいてぇ痛ぇ、ふざけんな、コラァッ!!

 反射的に振り回したナイフが、魔狼の右眼を抉る。

「ギャンッ」

 悲鳴と共に牙が抜かれた。

 ざまぁみろ。止まった標的なら、さすがに俺だって当てられんだ。

 だが、まだくたばってねぇ。

 くそ、痛ぇ。

 鼓動に合わせて、激痛が脳天を突き抜ける。

「ヴァイス!?」

 エミリーの叫び声が聞こえた。いいから声出すな。そっちが狙われちまうぞ。

『ホイミ』

 シェラだ。ふくらはぎの傷が癒える。偉いぞ。お前も、頼りになるようになったな、マジで。

3.

 しかし——ちょっと目を離した隙に、今度は反対側の魔狼が、マグナの喉笛に噛み付こうとしていた。

 だから、ふざけんなっての!!

 ナイフを握った右手より、こっちのが近ぇ。

 俺は咄嗟に、マグナの首の手前に左腕をついて、魔狼に噛ませた。

 痛いんだかなんだか、もうよく分かんねぇ。

 無理な体勢で突き出したナイフは、軽々と跳び離れた魔狼に届かない。

 うわ腕からすげぇ血ぃ出てる。

 ヤバいんじゃねぇの、これ。

 痛ぇ、くそ、呪文……集中できねぇ。

 リィナもマグナも、まだしばらくは目を覚まさないってのに。

 このままだと、本気でマズい。

 全滅——

 そんな言葉が脳裏をよぎる。

 嘘だろ——こんな雑魚相手にかよ。

 血が流れる。力が抜ける。立ち上がれない。

 俺は力を振り絞ってナイフを振り回し、少しでも両脇の魔狼を遠ざけてから、マグナに覆い被さった。

 こいつが噛み殺されるところなんて見たくねぇんだよ。

 せめて、俺が死んでからにしてくれ——って、諦めたら、ホントにみんな死んじまうだろうがっ!!

『ヒャド』

 やけくそ気味に放った呪文は、奇跡的に発動した。

 さっきナイフで傷を負わせた魔狼が凍りつく。

 あと一匹——

 その前に薬草——いかん、頭がぼーっとしてきた。呪文発動後の脱力感が、普段の比じゃねぇぞ、これ。

 ハッハッ、と魔狼の立てる息遣いが、やたらと耳につく。

 半開きの口からだらりと垂れた舌を伝って、唾液が滴り落ちる。

 くそ、来るなら来やがれ。俺に噛みつきゃ動きが止まんだろ。そん時に、ナイフをぶっ刺してやる。

 だから、俺が気を失わねぇ内に——

 さっさと来やがれ——

「こっちじゃ!!」

 今のは——姫さんか!?

「この汚らわしい犬コロめ!!わらわが相手じゃ!!」

 バカ、止めろ、何言ってんだ。ノアニールの爺さんから拝借した『身躱しの服』とやらのお陰で、防御は多少マシでも、攻撃する手段は何も持ってねぇだろうが。

4.

「く……そっ」

 俺が振ったよれよれのナイフは当然かすりもせず、魔狼は嘲笑うようについと犬面を逸らすと、エミリー達に向かって駆け出した。

「だめぇっ!!」

 シェラは魔狼に背を向けて、エミリーを庇ってぎゅっと抱き締める。

 バカ、それじゃ、お前が先に噛み殺されるだけだ。そんなことしてねぇで、バギ唱えろ——無理か。今さっきホイミを唱えたばっかだもんな。

 ヤベェ。どうすりゃいいんだ。

 身を起こそうとして、地についた左腕に激痛が疾る。

 ただでさえ乱れた思考が撹乱されて、回答を導き出せない。

 視界が暗くなる。

 混濁しかけた意識を、必死に繋ぎ止める。

 しっかりしろよ、馬鹿野郎。あいつらが死んじまう。

 だが、魔狼がシェラに襲い掛かるのは、あっという間だった。

 何をする暇もない。

 唸り声をあげて跳びかかる——

「ギャフッ」

 霞む視界の中で、魔狼が弾き飛ばされた。

 二度、三度と地面で跳ねて、俺の方まで戻ってくる。

 びくんびくん、と全身を何度か痙攣させて、それきり動かなくなった。

「よかった、間に合って——だ、大丈夫ですか、シェラさん」

 この声は。

 鼻っ面が陥没して完全にくたばっている魔狼から、声のした方に視線を移す。

 エミリーを抱き締めたまま、ぺたんと床にへたり込んだシェラを、オロオロしながら覗き込んでいるのは——フゥマだった。

 なんで、こいつが——とにかく、助かった……んだよな?

 痛ぇ、くそ痛ぇっ。

 安堵した瞬間に、噛まれた左腕の痛みがいや増して、俺は気絶できなかった。

 のろくさと身を起こし、薬草を取り出す為にフクロを探る。

 気を失っちまった方が楽だぜ。痛ぇな、くそっ。

5.

「お主は……っ!!」

 エミリーが、フゥマをぎろりと睨め上げる。

「あれ?姫さんじゃんか。なんだこれ、なんで——そ、それより、お怪我はないですか、シェラさん!?」

「あ、はい……大丈夫です」

 まだ少し呆然としながら、シェラはこくりと頷いた。

「よかった——立てますか?」

 フゥマが差し伸べた手を、エミリーがぱしりと叩いた。

「えぇい、わらわ達に寄るでない!!一難去ってまた一難とは、このことじゃな!?」

 しっしっ、と手で追い払う仕草をする。

「どうせ、その辺にお主の仲間が隠れておるのじゃろ。わらわにヒドいことすると、この者達が黙っておらぬぞ!?」

 いや、ごめん、姫さん。今は無理だわ。

「別にもう、姫さんを捕まえようとか思ってねぇってば。あいつら帰っちまって、今はオレ様独りだしさ」

「……信用できぬのじゃ」

「ホントだっての。ほら、シェラさん、手を——」

 懲りずに差し伸べられた手を、再度エミリーが叩き落とす。

「不埒者め!!シェラに触れるでない!!」

「この……っ」

「助けてもらったのに、そんな言い方しちゃダメですよ」

 結局、自分で立ち上がったシェラに窘められて、エミリーは不満げな顔をした。

「じゃって、この者はわらわに痛い事したのじゃぞ!?なんで、シェラがこの者の味方をするのじゃ!?」

「味方なんてしてないです。ただ、今は助けてくれたじゃないですか」

「それは……そうなのじゃが」

「だったら、まず先に言うことがありますよね」

 シェラに微笑みかけられて、エミリーは唇を尖らせた。

「……イヤじゃ。わらわは、その者は好かぬのじゃ!!」

 捨て台詞を吐いて、ぱたぱたと俺の方に駆けてくる。

 苦笑してそれを見送り、シェラはフゥマに頭を下げた。

「あの……本当に、ありがとうございました」

「い、いや、全然。それより、ホント無事でよかった」

 フゥマは照れ臭そうに頭を掻く。

6.

「ヴァイス、大事ないか?」

 目の前にしゃがんで、エミリーは心配そうに俺を覗き込んだ。

「ああ、なんとかな」

 傷自体は薬草であらかた治っている。血が抜けたお陰で、ちっとばっかし頭がくらくらするけどな。

「助けてくれたことには、お礼を言います。でも、もしまた姫様を捕まえにきたなら——」

 顔を上げたシェラに睨まれて、フゥマは慌てて両手を振った。

「い、いや、そんなつもりないですって。マジで。さっきも言ったけど、その内また出直そうってんで、あいつら先に帰っちまったし、理由が無いですもん」

 他の連中が未だに姿を現さないところをみると、独りだというフゥマの言葉は嘘ではないらしい。

 やれやれ、あのにやけ面が居なくてほっとするね。あいつとやり合うのだけは、勘弁願いたいからな。

「じゃあ……どうしてここに?」

「いや、ホント、偶然なんスよ。こんなド田舎まで滅多に来ねぇし、タマには目先の違う魔物で修行しよっかな、とか思って残っただけなんス」

「修行って、お独りでですか?」

「ええ、まぁ……」

 目を見開いたシェラの顔が、憂いを帯びる。

「そんな、危ないですよ」

「あんな者にも気を遣うとは、シェラはホントに優しいのじゃな」

 しゃがんだ膝に両手で頬杖をついて、拗ねたみたいにエミリーは愚痴をこぼした。

 出会った翌日からこっち、ほとんど一緒に行動して、すっかり仲良くなってたからな。面白くないらしい。

「や——だ、大丈夫ッスよ。ほ、ほら、オレ様、超強ぇですから」

「それは分かりますけど……」

「や、は、その……心配してくれて嬉しいッスよ。でも、この通りピンピンしてますし、薬草切れたから、もう戻るトコだったし——」

 フゥマは、頭皮が剥がれるんじゃないかと思うほど、ガシガシ頭を掻き毟った。

「それに、その……シェラさんが危ないトコを助けられたんで、オレ、ここで修行しててホント良かったッス!!」

 力いっぱい目を瞑り、上を向いて大声で言う。

 相変わらず恥ずかしいヤツだな。

「……もしかして、あの者はシェラに惚れておるのか?」

 姫さん、惚れるなんて言葉を覚えちまったか。

「かもな」

「ふむぅ、そうなのか……なんじゃ?」

 突然、こちらに向かって突進するように駆けてきたフゥマを目にして、エミリーは腰を浮かせて身構える。

7.

 だが、フゥマはエミリーを素通りして、俺の首根っこに腕を絡めた。

「ヤベェ、やべーよ」

 意味不明なことをほざきながら、俺の首をぐいぐい締め上げる。

「やっぱ実物は、すげぇ可愛いよ。しかも優しいよ。すげぇ好みだよ」

 止めろバカ、苦しいっての。

「ヤベェ、どうしよう、オレ。マトモに顔見れねぇよ」

 知らねぇよ。離せ、この腕白坊主。

 見ろ、お前。置き去りにされたシェラが、きょとんとしてるじゃねぇか。

「お主、シェラに惚れておるのか?」

 物凄い率直に問われて、フゥマは一瞬呆けてから、慌ててエミリーの口に手を伸ばした。

「バ、バカ、声でけぇっての。聞こえちまうだろ!」

 一歩退がって手を払い除け、エミリーはいかにも興味深いと言わんばかりに、フゥマとシェラを見比べる。

「いい加減、離せよ」

「あ、悪ぃ」

 俺の首からほどきかけた腕に、フゥマはもう一度力を込めた。痛ぇっての。

「つか、手前ぇ。よくもこの前は、セコい真似してくれやがったな」

 あ、バカなのに覚えてた。

 だが、あの厄介なにやけ面がこの場に居ないのは、好都合と言える。

 こいつは、あんまり物を深く考えそうにねぇからな。エルフの件を、適当に誤魔化しておこう。

「そのことだけどさ、お前ら、エルフをスカウトしようと思って、ここまで来たんだろ?」

「あ?なんであんたが知ってんだよ、そんなこと」

「いや、前に俺も少し話を聞いたんでな。やっぱそうなのか。じゃあ、あのにやけ面に、お前から伝えといてくれよ」

「何をよ?」

「エルフってのは、呆れるくらいおっとりしてて、とても戦えるような連中じゃねぇってさ。スカウトしても、無駄だと思うぜ」

「おっとりしてるかぁ?」

 フゥマは、ちらりとエミリーに目をくれる。

「いや、その姫さんが特別なんだ。他の連中なんて、俺達を見ただけで慌てて逃げてくんだぜ」

「まぁ、確かに向いてるようにゃ見えないけどさ」

8.

「なんの話じゃ?」

 エミリーが口を挟んでくる。

「いや、エルフは喧嘩が嫌いだって話だよ」

「うむ。わらわ達は喧嘩など好かぬのじゃ」

「それに、姫さん以外のエルフは、人間が大嫌いなんだ。協力なんて、してくれないと思うぜ」

「ふぅん……ま、いちおう伝えておくけどさ」

 バカは素直で助かるが、伝えるのを忘れやしねぇだろうな。

「頼んだぜ」

 いちおう、念を押しておく。

「ところで、お前ら一体、何者なんだ?」

 こいつ、口が軽そうだし、ついでにいろいろ聞き出してやるか。

「強いヤツを集めてるとか聞いたけど、何が目的だ?」

「いや~?オレ様も、詳しいこた知らないんだけどね」

 フゥマはやっと俺の首を開放して、立ち上がりながら答える。

「オレ様達は、魔王を倒す為に集められてんのよ」

「はぁっ!?」

 返ってきたのは、全く予想外の答えだった。

 それが本当なら——こいつら、どっちかっつーと、敵じゃなくて味方なのか?

「それって、どういう——その、なんだ。誰が、お前らを雇ってるんだ?」

「いや、だから詳しいこた知らねって」

「はぁ?」

「いンだよ、細けーコトは。魔王ったら、この世でイチバン強い魔物っしょ?そいつをぶっちめるなんて、すげぇ燃えるじゃんかよ。男なら、そんなハナシにゃ乗らなきゃウソでしょ」

 格好良いつもりか、ニヤリと笑う。阿呆丸出しにしか見えませんが。

「いや、あのな。誰に雇われてるのか知らないってこたねぇだろ」

「ん~、でも、別に困んねぇしなぁ。あんたも会ったろ?あのフード被ったヤツ。あいつが連絡役みたいのしててさ。命令とかも全部あいつを通じて伝えられるから、その上のこた良く知らねんだよ」

 お前、大雑把にも程があるだろ。

「それに、雇われてるっても、まだ駒が揃ってないとかでさ。タマに今回みたいな召集がかかる程度で、普段はそれぞれ勝手に暮らしてんだ」

 自分が騙されてる可能性とか、考えねぇのかよ……考えねぇんだろうなぁ。

 このバカは、詐欺で身持ちを崩すに違いない。

 どうも、こいつの話を鵜呑みにするのはマズそうだ。敵か味方かってのも、今は保留しておいた方が良さそうだな。

9.

「あの……」

 いつの間にか近くまで来ていたシェラに、いきなり背後から声をかけられて、フゥマは文字通り跳び上がった。

「は、はい!?」

 お前、声が裏返ってるぞ。

 ぎこちなくフゥマが振り向くと、シェラは手にした薬草を差し出した。

「これ、少ないですけど使ってください。薬草、残ってないんですよね?」

「え?いや、いいスよ。平気ッス」

「でも、助けてもらったから……お礼です。受け取ってください」

「あ、はい。じゃあ……」

 へこへこ頭を下げながら、薬草を受け取るフゥマ。

「あの……本当にありがとうございました」

「い、いや、いいんですって。全然、大したことじゃないスから」

「それで、あの、私——」

 ヒドく思いつめた顔で何かを言いかけたシェラを見て、フゥマはぎくりとする。

「あ、あの、オレ、そういうつもりで助けたんじゃないですから。全然、期待とかしてないし——」

「いえ、そうじゃなくて——」

 シェラが言い募ろうとした時だった。

「ん~……っ」

 目を覚ましたリィナが、床でもぞりと動いて伸びをした。

「あ、あの、薬草もらっときます。ありがとう。それじゃあ、また今度!」

 フゥマは片手を上げて踵を返すと、逃げるように出口に向かって走り去った。

「なんじゃ、あやつ急に」

 それはな、姫さん。あのバカは、フラれるのを怖がって逃げたんだよ。

 つか、また今度って。約束もしねぇで、どうやって会うつもりだ、あいつ。

「しかし、わらわや木々にしたことは許せぬが、思ったより悪いヤツでもなさそうじゃな。助けてくれた礼くらい、言ってやってもよかったのじゃ」

 そうね。悪いヤツじゃないかもな。ヘタレだけど。

「ふぁっ?」

 マグナも目覚めたようで、ぴくんと体を震わせた。

「……ちょっと、何やってんのよ」

 起きて早々、不機嫌な声を出す。

10.

「手」

「は?」

「どけなさいよ」

 そういや、立ち上がる気力が無くて、マグナを抱えたまま座り込んでたんだった。

 眠ってる間に、そこらに放り出すのを忘れてたぜ。

「ああ、悪ぃ」

 いや、別に何も悪かねぇか。胸に手を置いてた訳でもないしさ。

「……ヘンなことしてないでしょうね?」

 立ち上がって、全身の砂埃をぱたぱた叩きながら、そんなことを言う。

 ヒデェ言い草だな、おい。

「あれ?ボク、眠っちゃってた?——あ、二人で全部倒してくれたんだ。ゴメンね」

「いえ、あの——」

 シェラがリィナに歩み寄って、経緯を説明する。

「ヴァイス——あんた、その血は!?」

 袖と下穿きに染みた血を見て、マグナが目を丸くした。

 今ごろ気付くなよ。

「もう治ってるよ」

「あ……うん」

「呑気の眠っていたお主をかばって、ヴァイスは傷ついたのじゃぞ」

「え?」

「へっぴり腰じゃったが、ヴァイスは一生懸命戦ったのじゃ」

 余計なこと言わなくていいから、姫さん。

「まず先に言うことがあるじゃろ」

 さっき自分が言われたことを、エミリーはそのまま口にした。

 両脇に転がっている魔狼の死屍ししをきょろきょろと見回してから、マグナは視線を落とす。

「……ありがと」

 いえいえ、どういたしまして。

 これで、からかった分をチャラにしてくれると嬉しいんだけどね。

 それにしても、マグナが目を覚ます前に、フゥマが消えてくれてよかったよ。

 また口喧嘩でもされて、さらに機嫌が悪くなられちゃ堪んねぇからな。

11.

 雑魚に思わぬ苦戦を強いられちまったが、キノコの相手は俺が呪文で一手に引き受け、マグナとリィナにはそれ以外の魔物を片付けてもらうことにして、その後は同じ轍を踏むことなく、俺たちはさらに奥へと向かった。

 洞窟は、かなり広かった。

 途中、石柱が環状に立ち並んだ奇妙な場所で休憩を取ったりしながら、どれくらい奥へと進んだだろうか。

 やがて、それまで真っ暗だった横穴のような通路の先に、うっすらと光が見えた。

 道は下り勾配なので、地上に繋がっているとは考え難いんだが。

 横穴を抜けると、そこには広大な空間が開けていた。

「まぶしい」

 呟いたマグナに習って、俺も額に手を当ててひさしを作る。

 実際は、夕闇程度の明るさだろう。だが、手持ちランプの灯りひとつで洞窟を歩いてきた俺達には、空間全体を満たす光が少々目に痛い。

 地底湖と言うのだろうか。床面はほとんどが地下水に占領されていた。

 内側に湾曲した壁面は遥か上まで続いていて、眩しくてマトモに見れないが、尖端に開いた穴から地上の光が降り注いでいる。

 その真下辺りに浮かんだ出島に、それはあった。

 途中で見かけたのと同じような環状列石を覆い隠すようにして、大樹が生えている。

 根元につれて幹の膨らんだ、奇妙な形をしていた。覆い茂ったつたの隙間に入り口と思しい穴が見えるので、エルフの里のそれと同じように、中に居住できる空間がありそうだ。

 大樹の周囲には、もっと小振りの木々が沢山植えられていて、枝に果実を実らせていた。

「……すごいですね」

 シェラが、ぽつりと漏らす。

 地底深くで辿り着いた巨大な円蓋の中心で、降り注ぐ光を浴びながら静かに佇む大樹。粟立つ肌は、ひんやりとした空気のせいばかりではないだろう。

 横に恋仲の女でもいれば、さぞかしいい雰囲気になりそうな光景だが、残念ながらそんなのは居ないので、俺は島へと続く橋みたいな道に向かって歩き出した。

「洞窟の中に、こんな場所があるなんてね」

 俺の後ろを歩くマグナの口調も、少し呆気に取られていた。

「ホント、びっくりだよね。エルフの里もそうだったけど、なんか、別の世界に来ちゃった気がするよ。お話の中っていうか」

 と、リィナ。

 まったくな。おとぎ話も、ほどほどにして欲しいぜ。

12.

「姉上が身を隠すとしたら、きっとここなのじゃ」

 一度は小走りに俺を追い越した姫さんは、後ろを振り返って心細げな顔で立ち止まる。

 すれ違い様に、ぽんと頭を叩いてやる。エミリーは、シェラと手を繋いで後からついてきた。

「でも、あんなに魔物が出るのに、こんなところまで来れたのかしら、姫様のお姉さん」

「おそらく、『消え去り草』を使ったのじゃ」

 マグナの疑問に、エミリーはそう答えた。

「ずっと昔に異国から持ち込まれた、姿を消すことのできる不思議な草なのじゃが、里では根付かなくてな。もうほとんど残ってなかった筈じゃが、『夢見るルビー』と一緒に姉上が持ち出したのであろ」

 大樹の根元に辿り着いた俺達は、絡み合った蔦を掻き分けて、その先の部屋に足を踏み入れる。

 ひとつしかない質素な室内には、誰も見当たらなかった。

 人の気配が無いのは外からでも分かっていたが、いきなり屍体とご対面、なんてことにならずに済んで良かったぜ。おそるおそる覗き込んだエミリーも、とりあえずは胸を撫で下ろす。

 部屋の隅には埃まみれのベッドが床から生えていて、反対側には板状に壁から直接迫り出した机と、木の瘤みたいな椅子があった。

 机の上には、デカい宝石が象嵌された装飾品——おそらく『夢見るルビー』——と、一冊の書物が投げ出されていた。

 積もった塵を払って、表紙を開く。

「なにそれ?」

 マグナが身を寄せて、横から覗き込んできた。

「……日記、みたいだな」

 あんまくっつくなよ。胸が腕に当たっても怒らねぇなら、俺は構わないけどさ。

「なになに?」

「姉上のものか?」

「私も見たいです」

 全員が押し合いし合い集まってくる。

 ちょっと待て。分かったから。

 俺はベッドの縁に腰掛けて、膝の上に姫さんを招き寄せて日記を手渡した。

 左右にマグナとシェラが座って、リィナが後ろから俺の背中にもたれかかって肩越しに覗き込む。

 これでサラシを巻いてなきゃ最高なんだが、とか考えていると、エミリーが頁を繰りはじめた。

13.

『今日から、私とロビーの本当の生活がはじまります。

 これからは、大好きなロビーとずっと一緒に暮らせるんです。とても幸せ。

 ここならきっと、お母様にも見つからないし、本当に、ずっと一緒。これも、夢見るルビーのお陰です。

 人間って、どうしてあんなに見る見る年老いてしまうんだろう。

 あなたは「そんなに変わったかな」なんていつも笑うけど、出会ってから本当にどんどん変わってしまうから、私はすごくすごく怖かったんだよ。

 気がついたら、あなたがお爺さんになっていて、そして、私の前から姿を消してしまったら——

 ああ、ダメ。そんなの、耐えられません。

 だから、夢見るルビーのことを話したの。すぐにでも、今のあなたとずっと一緒に居たかったから。

 あなたが頷いてくれた時は、本当に嬉しかった。天にも昇る気持ちです。

 あなたとは夢の中でしか会えなくなってしまうけど、でも、ずっと年老いることもなく、今のあなたのまま一緒に居てくれるんです。

 あなたが少し迷ったのは、村での生活があるからだよね。

 でも、あなたが淋しくないように、今までと同じ暮らしを送れるように、あなたの村の人達も、みんな一緒に夢の中で暮らせるようにしておきました。

 だから、何も問題ありません。

 ずっとずっと、一緒に居ようね』

 本人以外には意味不明な書き込みを除くと、大体そんなような文章だった。

 なにやら薄っすら怖さを感じてしまうのは、俺が男だからだろうか。

 エミリーが頁をめくっていく。

 しばらくは、益体もないのろけ話が続いていた。

 日記と言っても、特に日付は記されておらず、思いついた時に、その時の感情を書き散らしたように見える。

 頁を繰り続けると、次第に様子が変わっていった。

14.

『ひどいわ、ロビー。

 どうして、いつも昨日のことを覚えてないの?

 二人であの丘の上まで遊びに行って、一緒にお弁当を食べたじゃない。

 もう何回も行ってるのに。

 いつもはじめてって言うの。

 絶対に忘れないって言ったのに。

 やっぱり覚えてない。

 私だけ、どんどん思い出が溜まっていく。

 まるで、私だけ、どんどんあなたが好きになっているみたい。

 すごく淋しいです。

 私が思い出を話すたびに、きょとんとしないで。

 ずっと一緒に居るのに。

 そうじゃないみたい。

 ううん。でも、このままでないと、あなたはたったの何十年で居なくなってしまうもの。

 私は、昔の人とは違うもの。

 あの人とは違うもの。

 諦めたりなんてしない』

 今日はあれをしたこれをした、という具体的な記述が減って、不安や愚痴が増えてきた。

 それに伴って、文中のわずかな手がかりから察するに、日記をつける間隔がどんどん開いているように思える。

 エミリーが頁を捲る音が、やけに大きく聞こえた。

15.

『どっちが夢かなんて、分からなくなってしまえばいいのに。

 でも、目を覚ます度に、ぴくりとも動かないあなたがいて。

 あっちが夢なんだって思い知らされる。

 こっちのあなたは、キスをしても抱き締めてくれないの。

 いつも、あんなに優しいのに。

 どうして、何も言ってくれないの。

 どうして、あなたはエルフじゃないの。

 どうして、すぐに死んじゃうの。

 一緒に思い出を作りたいよ。

 私だけ、胸の中がどんどん重くなって。

 いつもあなたは慰めてくれるけど。

 今は、何も言ってくれません。

 一緒に思い出を作れるあなたは、慰めてくれません。

 抱き締めても冷たいまま。

 なんで動いてくれないの。

 嫌だよ。

 ずっと一緒に居るのに、すごく遠くに感じます。

 どうすれば、もっとずっと一緒に居られるの。

 こたえてよ。

 ずっと考えてるのに、分からない。

 すごく遠い』

 日付が無いので正確なところは判らないが、感覚的にはかなりの日数——ひょっとしたら、年単位の時間が経過していた。

 ノアニールの村人達の時を止めたのが、『夢見るルビー』の不思議な力なのだとしたら——そしてロバートも、この地で同様の状態に置かれていたのだとしたら。

 こんな処で、ずっと独りきりで暮らして——目が覚めたら、動きもしないし物も言わない恋人がいて——眠れば恋人と会えはするが、昨日のことは何も覚えていなくて——

 ダメだ。俺だったら、もっとずっと早く我慢できなくなってるわ。

 変化が無いことを苦にしないエルフだからこそ、これだけ保った気がするぜ。

 とは言え、普通のエルフは持たない感情が、次第にアンを限界にいざないつつあった。

16.

『もう、目が覚めなければいいのに。

 ずっと目が覚めなければ、ずっとロビーと一緒に居られるのに。

 ロビーも、私のことを忘れたりしないのに。

 ずっと眠ってたい。

 起きるのは嫌』

 短い文章が目立つようになっていた。この生活に、かなり疲れているようだ。

 だが、何頁か後の文章は、少々様子が変わっていた。

『ロビーったら、すごいわ。

 私、ぜんぜんそんなこと思いつかなかった。

 思い切って、打ち明けてよかった。

 すごく長くなっちゃったけど、目が覚める前に全部言えてよかった。

 そうだわ。

 ずっと目が覚めなければいいんだわ。

 二人とも、ずっと目を覚まさなければ、ずっと一緒に居られるもの』

 頁を繰る姫さんの手が止まった。

 多分、俺と同じ予感を抱いてるんだと思う。

 シェラが、エミリーの手を握る。

 いつしか俺の首に巻かれたリィナの腕に、少し力が篭る。

めくって」

 マグナが言った。

17.

『ロビーはベッドで寝ています。

 夢の中じゃありません。

 今も、振り返ればロビーがいます。

 今、ちゃんと触れました。

 触ると暖かくて、眠ってるから少しだけど、ずっと動いてるのが分かります。

 私は、今、起きてます。

 さっき、ロビーに、もう一度全部打ち明けました。

 そうしたら、やっぱり夢の中と同じことを言ってくれました。

 私達がずっと一緒に居るには、こうするしかありません。

 ロビーは最初から、そのつもりだったみたいです。

 悩んでたのがバカみたい。

 ロビーは最初から、ずっと私と一緒に居てくれるつもりでした。

 ああ、ロビー。

 愛してるわ』

 そして、次の頁には、それまでよりもずっと丁寧な字で、短い文章が記されていた。

『お母様。先立つ不幸をお許し下さい。

 私達は、エルフと人間。

 この世で許されぬ愛なら、せめて天国で一緒になります。

 ずっと一緒に。 アン』

18.

 しばらく、沈黙が部屋を支配した。

 やがてマグナが、はぁ、と息を吐いたが、何も言わなかった。

「こんな……ホントに、これしか無かったんですか?」

 シェラが声を震わせた。

「こんなの……イヤです」

 ぎゅっとエミリーの手を握る。

「……なん……じゃ……?」

 エミリーは日記を手にしたまま、呆然と呟いた。

 ぴんと立ってはいないが、力無く垂れてもいない長い耳が、内心の混乱を物語っているようだった。

「よく分からぬのじゃ……」

 俺の膝の上で、エミリーの体から次第に力が抜けていくのが分かる。

「この後、どうしたんだろ……?」

 さすがに、リィナの声も沈んでいた。

 多分、二人は湖の底だろうな。

 そう思ったが、口には出せなかった。

「……今日は、ここに泊まっていくか?」

 代わりに、そんな提案を口にする。時間的には、そろそろ夜中の筈だしな。

「そうね……それでいい?」

 マグナの視線上にいるエミリーとシェラは、返事も頷きもしなかった。

「そうだね。ちょっと眠くなってきたし」

 リィナが、欠伸を噛み殺す。多分、フリだろうという気がした。

「じゃあ、そうしましょ」

 マグナは立ち上がって、ぽんとひとつ手を打った。

「泊まるにしても、ちょっと掃除しないとダメね」

 自分でもとってつけたように聞こえたのか、マグナは小さく溜息を吐いた。

19.

 その夜、睡魔は、なかなか俺を襲わなかった。

 もともと寝つきが悪いってのもあるが——それ以上に、寒いからだろ、これ。

 地底湖に囲まれたこの島は、地面の近くが特にひんやりと肌寒い。

 部屋がひとつしか無いという理由で、俺だけ外に追い出されたのだ。掃除は手伝わせた癖によ。ヒデェ話だぜ。

 毛布に包まって寝転がっていたのだが、かなり体が冷えてきた。眠ったら死ぬほどじゃないが、このまま安眠するのは難しそうだ。

 地上にも短い夜陰が訪れたようで、辺りはすっかり真っ暗だった。

 俺は手探りで大樹の根元に移動して、膝を丸めて背を預けた。この体勢の方が、冷たい地面に接する部分が少なくて済むし、自分の体温で暖まる分、いくらかマシだ。腰が痛くなりそうだけどな。

 靴を脱いで毛布の上から冷え切った爪先をこねていると、横手で静かに蔦を掻き分ける音がした。

 大樹からやや離れて、手持ちランプの灯りがともされる。

 シェラだった。脇に例の日記を抱えている。

「どうした?」

 なるべく驚かせないように気をつけて、小声で言ったのだが。

「ひっ!?」

 危うくランプを取り落としそうになって、シェラはわたわたしてみせた。

「あ、ヴァイスさん——ごめんなさい。起こしちゃいましたか?」

 声を聞いた限りでは、少しは元気になったようだ。

 部屋を追い出される前の記憶では、らしくもなく、まるで無口になっちまった姫さんと一緒に、相当落ち込んでたからな。

「いや、まだ寝てなかった」

 ちょうどいいや。

 俺はシェラを手で招き寄せて、毛布の端を持ち上げた。

「早く入って」

「え?あ、はい」

 地面にランプを置いて、素直に俺の隣りに座るシェラ。

「もっとくっついてくれ」

「……ひゃっ!?」

「う~……あったけぇ」

 シェラに抱きついて暖を取る。やれやれ、助かったよ。

「ヴァイスさん——すごい冷えてますよ?」

「だろ?寒くてさ。ほら、ほっぺたもこんな」

「ひゃぅっ!?あ、あの……ちょっと」

 頬をつけると、シェラは困ったような声を出した。

20.

「すごい冷たい……あの、私の毛布も持ってこれたらいいんですけど、姫様と一緒に使ってたから……」

「いや、構わねぇよ。そんかし悪いけど、ちょっとだけあったまらせてくれ」

「はい、いいですよ」

 シェラは苦笑交じりに微笑んだ。

「——で、どうした。眠れないのか?」

「ええ……ちょっと……」

 シェラは、毛布の隙間から日記の端だけ出してみせる。

「もう一回、これ、読んでみたくて……」

「そっか。邪魔しちまったな」

「いえ、そんな全然」

「俺のことは気にしないで——って、俺が言うのもなんだけどさ。読んでて構わないぜ」

「はい……」

 囁く声は、沈んでいた。

 頷いたものの、視線を落とすだけで、シェラは日記を開かなかった。

 会話が途切れると、辺りは耳が痛いくらいの静寂に包まれる。

 ここには魔物も近寄らないから、物音を立てるものが何も存在しないのだ。

 耳を澄ますと、部屋の中からリィナの鼾さえ聞こえる気がした。

「やっぱり……」

「ん?」

 ポツリと漏らしたシェラの顔を覗くと、何故か慌てて首を横に振った。

「な、なんでもないです」

「なんでもないこた無いだろ」

「いえ——ホントになんでもないですから」

 ランプの炎に陰影の揺れる横顔は、とても言葉通りの表情ではなかった。

「なんか言っちまいたい事があるなら、俺でよければ聞くけど」

「いえ、いいんです」

「なんだよ、水臭ぇな。前に俺も、愚痴聞いてもらっただろ。そのお返しだよ」

「だって……私の方が、聞いてもらってます」

「……ま、話したくないなら、別にいいけどさ」

 突き放したつもりじゃなかったんだが、シェラは毛布の上からがばっと膝を抱えた。

21.

「も~……ごめんなさい。ホントに、いつもウジウジしてて、ご迷惑ばっかりかけてごめんなさい」

 毛布に顔を押し付けて、くぐもった声で言う。

 本当は話してしまいたいのに、自分の喋る内容が、相手の負担になることを怖れて切り出せない。そんな感じだった。

「別に迷惑とか思ってねぇよ。まぁ——」

 その気になったら、話せよ。

 そう言いかけて、喉の奥で言葉が詰まる。

 何かが引っかかっていた。脳裏に浮かんだのは——焚き火のイメージ。

 横にはシェラじゃなくて、マグナが座っていて——ああ、そうか。

 シェラの話を聞くのはいいが、俺はまた何も答えられないんじゃないだろうか。その思いが、俺の喉を塞いだのだ。

 情けないことに、多分、そうだろうという予感がある。

 黙ってた方がいいんじゃないかとも思う。

 でもさ。

「喋っちまえよ。呑み込んでるよりは、ちっとは気分が楽になるかも知れねぇしさ」

 結局、そんな事をほざいていた。

 俺って、まるで成長してねぇのかな。

 シェラは、毛布に顔を埋めたままだった。

 けど、こいつもさ——

 毛布に埋まった金髪を、ぽんぽんと軽く叩く。

 なんで、こんなに自分に自信が無いのかね。

「やっぱり……ダメですよね」

「ん?なにが」

 くぐもった声が続ける。

「やっぱり、普通と違うと、幸せにはなれないんです」

 そういう事か。

 俺は、シェラの頭の中を推測する。

 アンとロバートには種族の壁。

 そして、シェラには性別の壁。

 その違いはあるけれど、どちらも決して乗り越えられないという意味では、共通している。

 つまりシェラは、アンに自分を重ね合わせてしまったんだろう。

22.

「いや、でもな……シェラだったら、いいってヤツもいると思うけどな」

 後から考えると、俺のこの台詞はいかにも考えなしだった。

 これだけ可愛ければ——単純に、そう考えてしまったのだ。

「違うんです……」

「え?」

「そういう人は、違うんです。私のことを、女の子として見てくれる訳じゃないです」

 俺の受け答えは、軽いままだった。

「そうか?そりゃ、そういうヤツも居るだろうけどさ、中には——」

「だったら!!」

 シェラは顔を上げて、俺を見た。

「だったら、ヴァイスさんは、私の事を恋人って見れますか!?普通の女の子と同じように!?」

 間抜けな俺は、ここに至ってようやく、自分がいかに適当な口を利いていたかを思い知るのだった。

 だが、思い知ったところで、俺はしどろもどろに「なんとなくこう言った方がいいんじゃないか」みたいな言葉を継ぐことしかできない。

「急に言われても、分かんねぇけど……見れない事はないんじゃねぇかな。そういう仲になれば」

 ホント、俺ってバカだな。

 シェラは俺から瞳を逸らして、また下を向いた。

「嘘です。気持ち悪いこと言って、ごめんなさい。そんな風に思ってないですから、心配しないでください」

「……そんな言い方すんなよ」

「でも、気持ち悪いですから」

 なんでもないような口振りに、却ってこいつの抱える問題の根深さを認識させられる。

 あまりにも深くて——まるで届く気がしない。

 なんて言ったらいいのか分からない。

「ごめんなさい。ヴァイスさんは、何も悪くないです。こんな事、言うつもりじゃなかったんです。ホントにごめんなさい」

「もういいって。俺の方こそ……悪かったよ。よく考えもしないで、適当なこと言っちまった。ごめんな」

「いえ、私が悪いんです——なんて、謝ってばっかりじゃ、困っちゃいますよね。ホント、いつもウジウジして、後悔ばっかり……」

 だから、言わなきゃ良かった。

 多分シェラは、その言葉を呑み込んだ。

「今度会ったら、あの人にもちゃんと伝えないと……」

「あの人?」

「フゥマって人です。あの人も、きっと勘違いしてるじゃないですか?」

 シェラは、力無く笑った。

23.

「助けてもらった時、いくらでも言う機会はあったのに……バカみたい。何を期待してるんでしょうね?」

 自嘲を浮かべる横顔を、見ていられなかった。

「シェラ……」

「あ、ダメですよ。ここで優しくしたりとか、しないでください。そういうの、いいですから」

 冗談めかした口振りは、変に無理をしている風にも聞こえなかった。

 それがなんだか、一層痛々しいんだが——安易な言動も、俺には出来なくなっていた。

「でも、ほら。その日記を持って帰れば、あの女王様から神殿の話を聞けるかも知れないだろ?それが目的で、こんなトコまで来たんだしさ」

 ようやく、そんなことしか言えない。

「そうですね……」

 ヒドく小声で囁いてから、それを掻き消すように、シェラは明るい声で言い直す。

「そうですよね!」

 多分、俺が気を遣われたのだ。

 それが分かっても——

「そうそう」

 アホみたいな相槌を打つことしかできなかった。下手な言葉を口にしたところで、余計に気を遣わせるだけな気がして。

 エルフの女王が神殿の話を知っているのか、まだ分からないし、そもそも、その神殿の話からして、シェラの望みを叶えてくれる物かどうかも分かっていないのだ。

 俺がこいつにしてやれる事って、何かあるんだろうか。

 また静寂が俺達を押し包みかけた時、再びガサリと蔦を掻き分ける音が聞こえた。

「シェラ……どこじゃ?」

 眠そうに言って、部屋から出てきたのはエミリーだった。

 小さい体を毛布に包んで、よたよたと歩いてくる。

「姫様——」

「……ズルいのじゃ」

 ぼーっと俺達を見下ろしてから、エミリーは俺の毛布に自分のそれを重ねると、脚の間に潜り込んできた。

 今の今まで寝ていたらしく、体中がぽかぽかしている。こりゃあったけぇ。

「急に居なくなったから……淋しかったのじゃぞ」

 隣りで寝ていた筈の母親が、いつの間にか姿を消したことに気付いた子供みたいな声を出す。

「ごめんね。やっと眠れたのに、起こしちゃいましたね」

 シェラは、優しくエミリーの頭を撫でた。

24.

「……頭がぐるぐるするのじゃ」

 半分寝言みたいな喋り方だった。

「悲しいのとか、色んなのがぐるぐる回って……なんだかよく分からぬ……」

「姫様……」

「夢を見たのじゃ」

 長い耳がとろんと垂れる。気落ちしたから、というよりは、瞼と一緒に眠くて垂れたように思えた。

「姉上が、人間の男と幸せそうに暮らしてたのじゃ……」

「……よかったですね」

 シェラの微笑みはぎこちなかったが、寝惚けているエミリーの目には入っていないだろう。

「姉上は……幸せだったのじゃろうか?」

「それは——」

 わずかに間が空いた。

 おそらく、いくつかの言葉が外に出る前に、シェラの口の中で消えた。

「私にも……分かりません」

「……ヴァイスは、どうじゃ?」

 眠くて振り向くのを諦めたように、エミリーはもぞりと身じろぎをした。

「俺にも、分かんねぇな」

 他の言葉は思い浮かばなかった。なんか、気休めを言う気分じゃなかったしな。

「そうか……人間にも、分からぬのか……わらわも、ずっと考えておったのじゃが……」

 かくん、とエミリーの頭が落ちる。

「やっぱり……姉上の気持ちは……わらわには、良く分からぬのじゃ……」

 エミリーは、小さく欠伸をした。

「じゃが……姉上のような『好き』は……よいだけのものではないのじゃな……」

 最後は、ほとんど言葉になっていなかった。

 シェラは、なんともいえない表情で、息を呑んでエミリーを見つめた。

「そうですね……」

 少しして、頭を撫でていた手を止める。

「寝ちゃったみたいです」

 細くて薄いエミリーの背中が、寝息につれて微かに俺の胸を押す。

 睡魔の次の標的に定められて、俺の口からも盛大な欠伸が漏れた。

25.

「ヴァイスさんも、眠ってていいですよ」

 シェラは、くすりと笑った。

「私、読み終わるまで隣りに居ますから。それなら、寒くないですよね?」

 手にした日記を、ちょっと上げてみせる。

「いや、でも悪ぃよ」

「全然悪くないですよ。私、これを読む為に出てきたんですから」

 そういやそうだな。

「ホントは、もういいかなって思ったんですけど……女王様に渡したら、もう読めなくなっちゃうじゃないですか。だからやっぱり、もう一回読んでおきたいんです」

「そっか」

「はい。ちゃんと姫様も見てますから、安心して眠っちゃってください。それに隣りに居れば、私も寒くないですし。独りで読んでたら、さっきのヴァイスさんみたいに凍えちゃいます」

「そうだな。んじゃ、お互いに湯たんぽ代わりってことで」

 正直、シェラの提案はありがたかった。

 寝つきが悪いもんだから、一度睡魔を取り逃がしちまうと、なかなか次が襲ってこねぇんだ、俺の場合。

「もし姫様だけじゃ足りなかったら、私も抱えちゃっていいですよ。なにしろ湯たんぽですから」

 そう言って、含み笑いを浮かべる。

 うん、落ち込んだ顔してるより、そっちのが可愛いぜ。

「いや……充分、あったけぇよ……」

 毛布は二重だし、姫さんはぽかぽかしてるし、さっきまでとは大違いだ。

 瞼を落とすと、睡魔が一気に俺を夢の世界に手繰り寄せる。

「……おやすみなさい」

 眠りに落ちる寸前に、シェラの声が聞こえた。

 髪を撫でられた気がする。

 でも、返事をしたら、この睡魔が逃げちまうんだ。

 ごめんな——

26.

 目を覚ますと、辺りはもう明るかった。

 地上に比べりゃ暗いんだろうが——俺は下を向いて、眩しさに顔を顰めた。

 何度か力を込めて瞬きすると、次第に目が慣れてくる。

 正面に、誰かの足が見えた。

「おはよう」

 顔を上げると——マグナが腕組みをして、俺を見下ろしていた。

「ああ。おはよう」

 しゃがれた声で返事をする。

 左脚と右肩がやけにダルい。

 見ると、俺の脚を枕代わりにして、姫さんがヘンな体勢で丸くなっていた。

 肩にはちょこんと頭を凭せ掛けて、シェラがすやすやと寝息を立てている。

 うん、結構な絵面えづらだろうな、これは。

「いや、あのですね……」

 マグナが何も言わない内に、勝手に言い訳が口をついて出る。

「夜中、日記をもう一回読んでおきたいって、シェラが部屋から出てきてだな。で、寒かったから、くっついてお互いに暖まってたんだけどさ……」

 視線が上を向かない。もちろん、朝日が眩しいからだが。

「そしたら姫さんが、シェラを探しにきてだな……二人とも、そのまま寝ちまったみてぇだな」

「ふぅん。まぁ、別にいいけど」

 思ったより、普通の声だった。

「だったら、姫様とシェラは、ちゃんと部屋に戻してよ。風邪でも引いたらどうすんのよ」

 俺はいいのかよ。

「あんたは、別にどうなってもいいけど」

 ああ、そう。

「んふぁ?——あ、おぁようございまふ」

 シェラも目を覚ました。

 もごもごと口の中で朝の挨拶をして、眩しそうに目を擦る。

「みんな、おっはよー。朝ご飯にしよう!」

 少し離れたところから、リィナが声をかけてきた。

 朝っぱらから、元気溌剌だな、お前は。

「あ、はい。すぐに仕度しますね」

 少しよろけながら身を起こし、部屋に戻りかけたシェラは、立ち止まってマグナを振り返った。

27.

「昨日の夜は、ヴァイスさんが寒そうにしてたから、一緒に寝ちゃいました」

「あ……そう」

 悪びれた風もなくあっさりと言われて、マグナは少し意表を突かれた顔をした。

「独りで外に追い出すなんて、やっぱり可哀想ですよ。もう少し、優しくしてあげてくださいね」

「……そうね」

 シェラが部屋に消えると、何故か俺がマグナに睨まれるのだった。

 別に、何もしてねぇよ。してやれなかったっつーか。

「悪かったわよ」

 今度は、俺が意表を突かれる番だった。

「でも、寒かったんなら、そう言えばいいじゃない。そうすれば、あたしだって……」

 唇を尖らせる。

「そうだな。次からそうするわ」

 やっぱ、腰痛ぇし。

「ヘンな姿勢で寝るからよ。ほら、薪拾うわよ」

 腰を押さえる俺に悪態を吐いて、ぷいと踵を返す。

 はいはい、と。枯れ枝もそこそこ落ちてるし、朝飯分くらいはなんとかなりそうだな。

「んにゃ……」

 お姫様は、案外寝ぼすけだった。毛布でくるんで抱え上げても、まだ目を覚まさない。

 まぁ、飯の仕度が整うまでは、寝かせといてやるか。

 眠り姫を部屋に運ぶ途中で、調理道具や食材を抱えて出てきたシェラとすれ違った。

「マグナさん、怒ってました?」

「いや、別に」

「そうですか。良かった」

 安堵と悪戯っぽさが半々の微笑みを浮かべる。

 やっぱ、すげぇ可愛いんですが。

「さっさとしなさいよ!」

 慣れた手つきで食事の仕度をするシェラの後姿を、なんとなく眺めていると、木々の間からマグナに怒鳴りつけられた。

 お前は、部屋でぐっすり眠れたからいいよな。

 足で蔦を掻き分けて、姫さんを部屋の中で寝かせてから、俺は腰を叩いて薪を拾いに向かった。

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