13. Kiss

1.

 外がようやく、少し暗くなってきた。

 俺は頭の下で手を組んでベッドに寝転がり、この奇妙な部屋の様子をぼんやりと眺めている。

 隅から隅まで、全てが木で出来ていた。

 それも、切り出した板を組んだり打ち付けたりして造られているのではない。釘の一本も使っていないどころか、おそらく鋸の刃すら入っていないだろう。

 大樹が自ら形を変えて、部屋を形成しているような——俺は、この屋敷の外観を思い出す。ちょっと信じ難いが、屋敷自体が樹木が寄り集まり絡み合って構成されているのだ。

 いや、家屋や間仕切りのみならず、家具もその殆どが加工品ではない。

 視界の端に見える物入れは木のウロだし、服をかけるフックは壁から直接生えた小振りの枝だ。

 ベッドには白いふかふかの綿みたいな物が敷き詰められているが、よく見ると上から被せてあるのではなく、土台から直接生えているのだ。何らかの植物なんだろう。

 窓には硝子など嵌め込まれておらず、いつの間にかこうべを垂れつつある枝葉がその代わりを果たしている。

 正直、すげぇ。なんだか、おとぎ話の世界に入り込んじまったみたいだ。

 こんな場所が実在するとは、世界ってのは想像以上に広いらしい。

「ヴァイス、おるか?」

 扉代わりに、密集してスダレのように垂れ下がっている植物の蔓を掻き分けながら、エルフの姫様が部屋に入ってきた。

 うん、そういう台詞を吐いたら、とりあえず返事を待とうな。万が一、俺が部屋の中でヘンな事してたら、お互いに気まずいだろ?

 仮にもお姫様を寝たまま迎え入れるのもなんなので、身を起こしてベッドの端に腰掛けると、エミリーはトコトコ歩み寄ってきて、俺の脚の間にちょこんと座った。

「……さっきは、すまぬ。お母様が、あれほど怒るとは思わなかったのじゃ」

 しょんぼりと俯いて、謝罪の言葉を口にする。

「いや、エミリーのせいじゃねぇよ。人間を入れちゃいけないってのは、掟なんだろ。仕方ねぇさ。それに、エミリーは俺達のこと、ずいぶん庇ってくれたじゃねぇか」

「……そう言ってもらえると、すこし心が軽くなる」

 里へ来るまでの元気はどこへやら、かなり意気消沈している様子だった。

2.

「エルフが……恩知らずの種族だなどと、思わないで欲しいのじゃ。お母様も、わらわを救ってくれたことには、感謝してる筈なのじゃ」

「ああ、分かってるよ。だから、俺達の滞在を許してくれたんだろ。掟に従えば、放り出されても文句言えないのにな」

 顎を上に向けて、下から俺を見上げていたエミリーは、胸の辺りで頭をすりすりした。

「……うむ。薬湯には、ちゃんと浸かったようじゃな。だいぶマシになったぞ」

 部屋に案内されてすぐに、風呂に入っておけと命じられたのだ。ついでに服も、旅装からもっと楽な格好に着替えている。

 エミリーは、細い背中を俺の胸にあずけた。

「……なでなでするがよい」

「は?」

「だから、わらわの頭をなでなでするがよいと言っておる」

 ああ、はいはい。

 顔のすぐ下にあるエミリーのさらさらの銀髪を、ゆっくりと撫でる。

 って、なんかおかしくねぇか?

 落ち込んでるは分かるけどさ、なんで謝りに来た相手に慰めさせてんだ、この姫さんは。

「……なにを笑っておる」

「いや、別に?」

「嘘を申せ。今のは、人を小馬鹿にした笑い方じゃ。わらわをバカにすると、しょうちせぬぞ」

「はいはい」

「……また、笑いおったな」

 だって、こんな子供みたいなのに、口振りだけ偉そうなんだもんよ。

「いや、あのな。無理してそんな喋り方しなくてもいいんだぞ。子供は、もっと子供らしく喋れよ——いって!!」

 このガキ、俺の腿をツネりやがった。力が弱いから、実際はあんま痛くなかったが。

「バカにするでない!!お主の祖父母よりも、よっぽど長く生きておるわ!!」

「そうだろうけどさ。長く生きただけの子供にしか見えないっつーか」

「ぬかしおったな!!」

 エミリーは両手を振り上げて、肩越しに俺の顔をぺちぺち叩く。

「——分かった。悪かったよ。俺が悪かったから、止めろって」

 目の辺りを掌で庇いながら、俺は慌てて謝った。

「フン、分かればよいのじゃ。手が止まっておるぞ。ちゃんとなでなでするがよい」

「はいはい、仰せのままに。お姫様」

 やれやれ。なんだかまったりしちまうが——俺達を快く受け入れてくれてるのは、この姫さんだけなんだよな。

 俺は、エミリーの頭をゆっくりと撫でながら、里に足を踏み入れた時のことを思い起こした。

3.

「ひぃっ!!人間だわ!!攫われてしまうわ!!」

 俺達を見るなり、そのエルフは真っ青な顔をして里の奥へとすっ飛んでいった。

 エルフの隠れ里に入って、すぐのことだ。

 最初に出くわしたエルフの言動に、俺達はちょっと呆然とする。まるきり魔物扱いじゃねぇか、これじゃ。

「なによ、アレ。エルフって、みんなあんなに失礼なの?」

 マグナの嫌味に、エミリーは唇を尖らせる。

「無礼なことを申すな!エルフがあのように怯えるのは、お主ら人間の——しょぎょうが原因なのじゃぞ!?」

「所業?あたし達、何もしてないじゃない」

「お主らがなにもしておらずとも、他の人間が我らエルフにヒドいことをしたのじゃ!!」

「ヒドいことって、どんな?」

「それは……沢山さらったりしたのじゃ!!ヒドいのじゃぞ!?首輪をつけられて、引き摺られるように連れていかれたそうなのじゃ!!……さらわれた者は、二度と戻って来なかったと聞いておる」

 確かに、そういうことをする人間はいそうだな。エルフなんてすげぇ珍しいから、人買い辺りに高値で売り買いされそうだ。胸糞悪い話だが。

「聞いておるって——それ、いつの話よ」

「……よく知らぬが、百年とかそれくらい前じゃ。それでお母様は、人間とのせっしょくを禁じるようになったのじゃ」

 マグナは苦笑を浮かべた。

「それは人間が悪いとは思うけど、そんな昔のことをあたし達に言われてもねぇ」

「昔ではないのじゃ!たかが百年前など、我らにとってはつい最近の出来事じゃぞ!?」

「ってことは、もしかして姫様も百歳以上なの?」

「わ、わらわは……まだ百年は生きておらぬ。もうちょっとじゃ」

「でも、百歳近いんだ。姫様ってば、案外お婆ちゃんだったのね。そんなに小さいのに」

「お、おば……っ!?この無礼者め!!それに、わらわは小さくなどないのじゃ!!」

「小さいじゃない。明らかに」

「まだ申すかっ!!」

 未だにお姫様抱っこをしている俺の腕の中で、エミリーはムキーッとなってジタバタ暴れた。

「まぁ、その辺にしとけよ。大人げねぇぞ」

 この場合、マグナに対して大人気ないと注意するのは的確なんだろうか。

4.

 マグナは俺を睨んで噛み付きかけたが、ついと視線を逸らした。

「なによ……悪かったわね」

 やれやれ。里に入る前といい、やけに姫さんに突っかかるな、こいつ。

 それはともかく、俺達をまるで魔物扱いしてみせるのは、最初に出会ったエルフだけではなかった。

 エミリーの道案内に従って、里の奥に歩を進めると、そこらに居たエルフ達が全員、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、先を争って姿を隠してしまう。

「なんなのよっ!?あたし達が、そんなに凶暴に見えるのっ!?」

 大変ご立腹のマグナさんは、凶暴に見えないこともない。

「なんだか……ちょっと淋しいですね」

 里を訪れるのを楽しみにしていたシェラは、この現実を目の当たりにして、すっかりしょげてしまっていた。

「それにしてもエルフって、ホントに皆、すっごい綺麗だね」

 ひとりで能天気なことを言っているのは、リィナだ。

 まぁなぁ。見る顔見る顔、男も女もどれも美形揃いだけどさ。

「べ、別に大したことないじゃない」

 小声でぶつくさ漏らしたマグナに、今回は賛成かな。

 いくら美形とは言え、こう立て続けに目にすると、さすがに食傷気味だ。

 ありがたみがないっつーか、どいつもこいつも同じ顔に見えるっつーか。見てくれ程の魅力は感じねぇなぁ。ひょろっとしてて、肉付きも悪いしさ。

 なんだか姫さんとは、ずいぶん印象が違って見える。同じように肉付きは悪くても、エミリーは他のエルフよりも全然——なんて言うんだろ。生命力に満ちているというか、個性が感じられるというか。

 他のエルフが植物みたいな存在感だとすると、エミリーには動物的な存在感がある。よく分かんねぇけど。

 そんな変り者の姫さんによれば、里でもっとも物知りなのは、母親であるエルフの女王だということだ。

 こんな調子じゃ、他のエルフに話を聞くのはとても無理そうだし、姫さん自身はあまり物を知っているとも思えなかったので、俺達はエルフの女王の住居である、大樹が何本も絡まり合って出来た奇妙な屋敷に向かった。

5.

「その者達は、なんですか。エミリー」

 屋敷の造りのあまりの物珍しさに、周囲をきょろきょろ見回していた俺達の視線を、一瞬にして奪い集めるほど、恐ろしく冷たい声だった。

「誰が人間を里に入れてよいと言いましたか」

 植物の蔓で編まれたとは思えない立派な椅子に腰掛けた美女が、再び冷淡な声を部屋の奥から発した。

「うわっ、すご」

「……ああ、すげぇな」

 思わず口走ったリィナにつられて、俺も呟く。

 エルフの女王は、とんでもない美人だった。

 こんな直截的な表現、普段はあんま使わないんだが——美しいという言葉しか思い浮かばない。

 嘘みたいに整った顔立ちを、光の加減で緑に見える不思議な色合いの長髪が縁取っている。外見的な年齢は、二十代の後半くらいだろうか。

 冷たい眼差しと表情のせいか、どちらかと言うと印象は表で見かけたエルフ達に近いが、ここまで美しければ充分に魅力的だ。特に、花を思わせるデザインのドレスの裾から覗く、すらりと長い組まれた脚とかな。

 将来は、こんな風に育つのかも知れない姫さんが、慌てて言い訳をする。

「違うんです、お母様。この者達は——」

「いいえ、違いません。その者達は、里に足を踏み入れることを禁じられた、野蛮で卑劣な人間です」

 どうにも嫌われたモンだね。

 とりつく島もないエルフの女王に、エミリーは懸命に食い下がる。

「ちゃんと話を聞いてください、お母様。この者達は——」

「お黙りなさい。人間が近くを訪れる度に、あなたが密かに里を抜け出していたのは知っています。何故、そのような恐ろしいことをするのです。それほどあなたの母を、今よりもさらに悲しませたいのですか」

「そんな……ごめんなさい、お母様。でも、この者達は、他の人間に捕まったわらわを——」

「ご覧なさい。人間など、我らエルフを騙し、奪い、捕らえ、攫うことしか考えていないのです。おお、恐ろしい。その人間達の姿を見ているだけで、震えがきます。この上、あなたまで奪われてしまったら、母はもう生きてはいられません」

「ごめんなさい——ごめんなさい、お母様。でも、違うのです。この者達は、捕まったわらわを助けてくれたのです!!」

 エルフの女王は、深く溜息を吐いた。

6.

「いいですか、エミリー。もしそうであったとしても、それは人間同士で、あなたを奪い合ったに過ぎないのです」

「そんな、お母様——」

「お黙りなさい。人間の狡賢さは、あなたよりも余程よく知っています。狡知に長けた人間であれば、あなたに取り入って里に忍び込む為に、よい顔をしてみせるくらい造作も無いのですよ。

 助けられた程度で、そのように簡単に信用してはなりません。あなたは、騙されているのです」

 女王は厳しくも慈しむような複雑な瞳でエミリーを見つめてから、俺達には氷のような眼差しを向けた。

「この子が何と言ったか知りませんが、ここは人間が訪れてよい場所ではありません。どうぞ、今すぐお引取りを」

「……さっきから、黙って聞いてれば、なんなのよ——」

 あ、やべぇ。マグナさん、相当ご機嫌斜めのご様子で。

「狡賢いとか野蛮だとか、どれだけ人間が嫌いだか知らないけどねぇ、あたし達が何したっていうのよ!?なんなのよ、初対面でその言い草は!?あたし達だって、別に来たくて来たんじゃないんだからね、こんなトコ!!」

 落ち着け。俺達は、来たくてわざわざここまで来たんだよ。

 エルフの女王は、嫌悪感丸出しに眉を顰めた。

「大きな声を出すのはおよしなさい。野蛮な」

 マグナの顔が、はっきりと分かるくらい、ひくりと引きつった。

「いいわ、すぐ出てってあげるわよ!!こっちの質問に答えてくれたら、今すぐにでもね!!」

「人間と話すことなどありません」

 エルフの女王の返答は、あくまでもひややかで、そして身も蓋も無かった。

「……親子揃って、なんて憎ったらしいの!?」

 どうどう。

 落ち着けって、マグナ。そんな喧嘩腰じゃ、話になんねぇよ。

 うううとか唸り声をあげるマグナの肩を押さえて、俺は女王の氷の視線と相対した。

 ……さて、どうしよう。

「え~と、ですね。信じてもらえないかも知れませんが、俺達は別にエルフを攫うつもりも、騙すつもりも無くてですね、ちょっと教えて欲しいことがあって来ただけなんですが」

「先ほど申しました。人間と話すことなどありません」

 だからマグナ、落ち着けっての。

 俺はマグナの口を手で塞ぎながら続ける。

7.

「そうおっしゃる気持ちは、分かりますよ。小耳に挟んだ程度ですけど、人間は恨まれて仕方の無いことをエルフに対してしたみたいですから。俺達は、別に人間代表でもなんでもないけど、そのことについては謝ります」

 試しに、下手に出てみました。

「けど俺達は、狼藉を働いた張本人って訳じゃない。それは女王様にも、分かってもらえると思うんですが」

 返事が無い。ただの——ただの、何だ。

「それにね、さっき姫さん——姫様のおっしゃったことは、いちおう本当の事でしてね。他の人間に捕らえられてた姫様を、偶然とはいえお助けさせていただきまして」

 なんか、我ながら胡散臭い口振りだ。慣れない喋り方するモンじゃねぇな。

 ロランだったら、もっと上手いこと言いくるめちまうんだろうな。ふとそんなことを考えて、気分が悪くなる。

「それでまぁ、恩をきせるつもりはないんですけど、お話くらい伺わせてもらってもいいんじゃないかな~とか思うんですが、いかがなもんでしょう」

「ですから、人間と話すことなどありません」

 ああ、そうですか。全く説得の効果ナシですか。

 喋ってて、そうじゃないかと思いましたよ、俺も。

「お母様!!」

 援護してくれるつもりか、エミリーが再び口を開く。

「助けてくれた礼もできぬとあっては——この者達の頼みも聞けぬとあっては、エルフの名誉に傷がつきます!!」

「我らの名誉は、あなたが決めることではありません」

「そうですけど、でも……」

 なんとも難攻不落だね、こりゃ。

「母が何も分かっていないと思っているのですか、エミリー」

「はい?」

「名誉だなどと、小賢しい理屈を持ち出すのではありません。あなたはただ、人間に興味を惹かれているだけなのです。あなたの愚かな姉と同じように——恐ろしい。どうして、よりにもよって、王女であるあなた達が——」

「姉上が、愚かだったとは思いません!!」

 激しく遮って、エミリーは強い視線を女王に向けた。

8.

 女王は、悲しげにエミリーを見つめ返す。

「……どれほど母が嘆き悲しもうとも、あなたは何も感じないと言うのですね」

「そんな……そんなこと——」

「分かりました。あなたの好きになさい。母はもう知りません。わずかな間だけ、その者達の滞在を許しましょう。その間に気の済むように、あなたの言う礼をするといいでしょう。

 もちろん、あなたが独りで世話をするのですよ。里の者に迷惑が及ぶようであれば、すぐに出ていってもらいます……人間がいかに野蛮で愚かしいか、卑劣で強欲か、その身を以って思い知らなければ、あなたには分からないようです」

 いてぇっ!!

 口を塞いでいた指をマグナに噛まれて、思わず離しちまった。血は出てないが、姫さんみたいなことするんじゃねぇよ。

「ちょっと、なに勝手に話を進めてんのよっ!?あたし達は、別にこんなトコ居たくないんだからね!?なんなのよ、悪口ばっかり言って……いいから、こっちの質問に答えなさいよっ!!聞きたいこと聞いたら、さっさと出て行くって言ってるでしょ!?」

「バカ、落ち着けよ——」

「なによ、あんたも、さっきから!!あっちの肩ばっかり持って!!」

 何言ってんだ、こいつは。

「違うって。しばらく泊めてもらえれば、姫さん経由で話を聞くって手もあるだろ?」

 耳打ちすると、物凄い目つきで睨まれた。そんな怒んなよ。

 俺は、マグナ越しにエミリーを覗き見る。

「そんじゃ、エミリー。とりあえず、泊めてもらうってことで」

「分かった……すまぬ」

 エミリーは、申し訳無さそうに呟いた。

「それでは、お母様。わらわが全て面倒を見ますから、この者達の滞在をお許しいただけますか」

「母は知りません。勝手になさい」

 これ以上、話すことは無いとばかりに、女王は冷たく言い捨てる。

 唇を噛みながら、エミリーはぺこりとお辞儀をすると、俺達を促して部屋を出た。

9.

 そんな感じで、女王との会見はすっかり物別れに終わったのだった。

 その後、エミリーは俺をこの部屋に案内すると、他の連中を別の部屋に連れて行った。

 で、しばらく経ってから戻ってきて、こうして俺と一緒にベッドの縁に腰掛けている。

「ところで、お母様に聞きたい事というのは、一体なんだったのじゃ?」

 俺に髪を撫でられながら、エミリーが尋ねた。

「ん~?いや、二つあるんだけどな」

「うむ」

「ひとつは、『生まれ変わりの神殿』ってのについて、何か知らないかと思ってね」

「生まれ変わり……なんじゃ、それは?わらわは、聞いたことがないぞ」

 うん。姫さんには期待してなかったから、別に構わねぇよ。

「それから、もうひとつは、ノアニールの村の呪いを解く方法だ」

 こちらは知っていたようで、エミリーは「ああ、そのことか」と呟いた。

「なんか知ってるのか?」

「知っておる、というか、里を訪れた老人に聞いた。その時も、わらわが勝手に里に招き入れたから、お母様にすごく怒られたのじゃ」

 拗ねたように言って、床から浮いた両足を互い違いにぶらぶらさせる。

「おいおい。そんなしょっちゅう掟破りをしてたら、そりゃお母様も怒るだろ」

「でも、死にそうだったのじゃ!必死に逃げ回っておったようじゃが、あちこち魔物にやられていてな。わらわが見つけた時には、もう虫の息だったのじゃ。放っておけぬじゃろ」

 爺さん、ひとりで来てたのかよ。そりゃ無茶だわ。ここまで辿り着いたのが奇跡だぜ。

「怪我が治るまで、わらわが独りで看病したのじゃぞ。偉いじゃろ。誉めるがよい」

「あー、偉い偉い」

「なんじゃ、その誉め方は!わらわをバカにするなと申したであろ!」

「ごめんごめん。で、爺さんは結局、呪いを解く方法は聞けなかったんだな?」

 聞けてたら、村はとっくに元通りになってる筈だもんな。

「いや、お母様は知らぬとおっしゃっていたぞ」

「へ?」

「最初はお母様は、さっきみたいに老人の話を聞こうともしなかったのじゃ。でも、老人があまりにしつこくてな。少しだけ話をされたのじゃ。じゃが、お母様は呪いのことなど知らぬとおっしゃっていたぞ」

 どういうことだ?あの呪いは、エルフの女王がかけたんじゃないのかよ。

10.

「その話は、本当なのか?」

「お母様が、嘘をついておるというのか!?」

「いや、そういう訳じゃないけどさ……ほら、ずいぶん人間を嫌ってたみたいだし」

「……わらわには、分からぬ」

 お母様が嘘を吐いているとは考えたくないが、人間には本当の事を喋らないかも知れない。そう思ったのか、エミリーは俯いて、沈んだ声を出した。

 頭の両脇から斜めに伸びたエミリーの長い耳が、半ば辺りでへたりと垂れる。

 どうやら、感情によって立ったり垂れたりするみたいだな。なんか、動物っぽくて面白いぞ。

「にゃっ!?」

 ちょんちょんと耳の裏を突付くと、エミリーは変な声をあげて、耳を押さえてこちらを振り向いた。

「い、いきなり何をするっ!?無礼者!!ここは、触っちゃダメなのじゃ!!」

 ほんのり頬が上気している。へぇ、ずいぶん敏感なんだな。

「悪い悪い。そんなに感じ易いとは思わなくてさ」

「ヘ、ヘンな事を申すな!!」

「いや、変な意味じゃなくて」

「……とにかく、もう触るでない!!今度気安く触ったら、しょうちせぬぞ!!」

 そう言われると、触りたくなるな。いや、触んねぇけどさ。

「まったく、信じられぬ事をするヤツじゃ」

 ぶつくさこぼしながら、エミリーは捻っていた上体を戻して前に向き直った。

「余計なことをするでない。お主は大人しく、なでなでしておればよいのじゃ」

 はいはい。

 言いつけ通りに頭を撫でていると、俺が突付いた耳がムズムズするのか、ぴょこぴょこと跳ね動く。

 うわ、触りてぇ。

「ふにゃあぁっ!?」

 あ、やべ、触っちまった。まぁ、どうせ文句を言われるんなら、もうちょっと。

 両耳を後ろから優しく撫でると、エミリーは妙になまめかしい悲鳴をあげながら、腰を折って逃れようとする。

「よ……よさぬか……っ!!イヤッ……ダメ……じゃっ……」

 だが、思うように力が入らないらしい。

 マズい、面白い。

 子猫の顎の下を撫でてるみたいな気分だ。止めようと思ってるんだが、なんだか手が止まらない。

11.

 耳の色んな場所を指でくすぐってやると、エミリーはさらに身悶えて嬌声をあげる。

「ふあっ……やめ……っ……くぅっ!!」

 エミリーは倒れるようにベッドから床に体を投げ出した。

 四つん這いのまま俺から身を離して、ぺたんとへたり込む。

「なっ……なんてことするのじゃっ!!触るなと申したであろ!!お主、耳がついておらぬのかっ!!」

「いや、違う違う。頭を撫でてたら、たまたま触っちゃったんだって」

「嘘を申せっ!!まったく、なんてやらしいヤツなのじゃっ!!」

 エルフにとって耳を触るのは、そんなにイヤラシイことなのか?

「ごめんごめん。でも、頭を撫でるより気持ち良さそうだったら、いいのかと思ってさ」

「気持ちよくても、なんかヘンな感じがするからダメなのじゃっ!!」

「分かった、悪かったよ。もう絶対触らないって」

 まったくもって今さらだが、あんまり姫さんの機嫌を損ねるのは得策じゃない。

 おいでおいでをすると、エミリーは警戒心の強い猫みたいに俺の目の前をうろうろ往復してから、ぽすっとベッドの縁に腰掛けて、乱暴に俺に背中を押し付けた。

「今度やったら、許さぬぞ。拷問じゃ」

「そいつは怖いな。心しておくよ」

 せいぜい機嫌を取ろうとして、俺は姫様の頭を丁寧に撫でる。それにしても、ホントに綺麗な髪してやがんな。

 え~と、何の話をしてたんだっけ。ああ、そうだ——

「それでさ、できれば呪いを解く方法を、もう一回エミリーからお母様に聞いてみてくんねぇかな。神殿の話と一緒にさ」

「……それは、難しいと思うぞ」

 また足をぶらぶらさせながら、エミリーは言った。

「わらわが急にそんな事を尋ねたら、お主らに頼まれたのだとすぐにバレてしまうのじゃ。あんなに怒ってるお母様が、ちゃんと答えてくださるとは思えぬ」

 まぁ、そうかもな。

「じゃあ他に、誰か知ってそうな物知り博士とか居ないのか?」

「お母様が、一番の物知りじゃと言ったであろ。それに、そんな者が居ったとしても、きっと同じことなのじゃ。誰も人間に協力しようとはせぬじゃろ」

「まぁ、そんな感じだよな——やれやれ。なんとか、ウマく話を聞き出せないモンかね」

 このままだと、八方塞がりだ。

12.

「……方法がないことも無いぞ」

 エミリーは、足をぶらぶらさせるのを止めて呟いた。

「姉上を連れ戻すことができれば、さすがのお母様も、お主らの言葉に耳をお貸しくださると思うのじゃ」

「姉上って、例の人間と駆け落ちしたっていう王女様のことか?」

「そうじゃ。姉上の事があってから、お母様は人間がもっとお嫌いになられたのじゃ。姉上が里を抜け出す時に、エルフの秘宝を持ち出したのでな。人間の男が姉上を騙して、秘宝を盗ませたに違いないとお考えなのじゃ」

「エルフの秘宝ねぇ」

「うむ。『夢見るルビー』と言うのじゃが、ただの宝石ではないぞ。わらわは良く知らぬが、何か不思議な力が隠されてるという話じゃ」

 エルフ秘蔵の不思議な宝石ってんじゃ、確かに金になりそうだ。人間が「卑劣で強欲」と決め付けているあの女王様なら、騙して盗ませたと考えて仕方ねぇかもな。

「じゃが、わらわには、姉上が騙されていたとは思えぬのじゃ。姉上は、わらわにだけは、その人間の男のことを色々と話して下さったのじゃが、それは幸せそうなご様子でな。きっと、とても好き合っていたに違いないのじゃ」

「だったら、まぁ俺達の事情は置いといてだな……姉上は連れ戻さない方がいいんじゃねぇのか。戻ってきたら、また女王様に引き離されちまうだろ」

「そうかも知れぬが……お母様も、姉上がどこかに行ってしまうよりは、里でその人間の男と一緒に暮らしてくれた方がいいとお考えだと思うのじゃ。わらわも、それをお許し下さるように、一生懸命お願いするつもりじゃ」

 あの氷の女王様が、素直に聞き入れてくれるとは、あんまり思えねぇけどな。

「なら、連れ戻すのはいいとしてもさ。どこに居るのか分かんねぇだろ?」

「心当たりならあるぞ。しばらく南の洞窟に身を隠すつもりじゃと、里を出て行く前に、姉上がこっそり教えてくれたのじゃ」

「ああ、あの洞窟か。でも、俺達も少し中まで入ったけど、魔物が棲みついてたぜ」

「あれは不思議な洞窟でな。奥に魔物が近寄れぬ聖なる場所があるのじゃ。何年も前の話じゃから、姉上が今もそこに居るとは思わぬが、何か手がかりくらい残されておるのではないか?」

 どうだろうなぁ。どっちかと言うと、最悪の事態にお目にかかる可能性の方が高そうに思えるが。まぁでも、それも手がかりっちゃ手がかりか。

13.

「……姉上が戻ってきてくれたら、わらわも嬉しいのじゃ」

 足をぶらぶらさせるのを再開して、エミリーがポツリと漏らした。

「お姉ちゃん、好きなんだな」

「もちろんじゃ。当たり前であろ」

 ぶらぶら揺れる自分の爪先に視線を落としながら、エミリーは続ける。

「わらわは、姉上の気持ちがちょっとだけ分かる気がするのじゃ。この里は、つまらぬ。変わったことなど、何ひとつ起きぬ。皆、まったく同じ毎日を繰り返すことに、何の疑問も抱いておらぬのじゃ」

 また、耳がたらんと垂れはじめた。

「この里では、昨日も今日も明日も、どれも全く代わり映えがないのじゃ。それをつまらぬと感じるのは、わらわがまだ子供じゃからと皆は言う。大きくなれば、そんな風に思わなくなると諭されるのじゃが、でも、つまらぬものはつまらぬのじゃ!!」

 いま振り返ると、やたら時間がゆっくり流れていた気がする実家の風景を、俺は思い出す。

 まぁ、俺は人間だから、エミリーの気持ちも分かるけどさ。

 何の波風も立たない平穏な日常を受け入れられなければ、永遠にも等しい寿命を生きるなんて芸当は出来っこない気もするぜ。

 やっぱり、この姫さんは、エルフの中では相当な変り種と見た。

「姉上が人間に興味を持ったのも、同じような気持ちだったからだと思うのじゃ。人間の男は、エルフの男とは全然違う、と姉上はよく口にしておった。毎日色んなことが起こって楽しいと聞かされて、わらわはずいぶん姉上を羨ましく思ったものじゃ」

 ははぁ、それでか。なにかと俺にまとわりついてんのは。

「それに、姉上が人間の男に感じていた『好き』という気持ちは、わらわが知ってるのとは、ちょっと違っていたようなのじゃ。よく分からぬが、心臓が苦しくなるくらいドキドキするのじゃそうでな——わらわも、それを知りたいと思ったのじゃ」

「だから姫さんは、近くに人間が来たら、つい覗きに行っちまうんだな」

「……そうなのじゃ」

「でも、これからはあんまり無茶しない方がいいぞ。今回はたまたま俺達が近くにいたからよかったけどさ、いつかその内、ホントに捕まって売り飛ばされちまうぞ」

「分かっておる。これでも、わらわも反省しておるのじゃ」

 しおしおと耳を垂らせて、エミリーはしょんぼりとうな垂れてしまった。

14.

 ちょっと元気付けてやろうとして、俺は軽口を叩いてみせる。

「で、こうして実際に人間の男と接してみて、どうよ?お姉ちゃんみたいに、惚れちゃいそうか?」

「さっぱりじゃな。こうして身を寄せておっても、姉上の気持ちはまだ全然分からぬのじゃ」

 ああ、そうですか。

「じゃが、エルフの男と違うのは分かるぞ。あやつらは、お主みたいにわらわにヘンな事せぬからな」

 耳を触るのは、そんなにヘンな事なのか——そういや人間同士でも、あんまり普通の事でもないかな。

「悪かったよ——でも、もうちょっとこう、なんか良いトコはないですかね」

「ふむ……そうじゃな。お主のなでなでは、割りと好きじゃぞ。なかなか筋がよい——人が誉めておるのに、なに笑っておるのじゃ」

「いや、そんな誉められ方されたの、生まれて初めてだからさ」

 エミリーは頭を撫でていた俺の手を掴むと、顔の手前に運んだ。

「ゴツい手じゃな」

「そんなこと言われたのも、初めてだな。人間にしちゃ、全然ゴツくないんだぜ。こんなヒョロい手」

「そうなのか。エルフの手は、もっと細くて美しいぞ」

 不恰好で悪うござんしたね。

 エミリーは両手で掴んだ俺の手を、赤ん坊みたいにスベスベした自分の頬に当てた。姫さんなりに、姉貴の気持ちを理解しようと努力しているらしい。

「お主の顔もそうじゃが、多少はブサイクの方が、かえって飽きがこなくてよいのかも知れぬな」

「……それは、誉めてるのか?」

「そのつもりじゃぞ。この里では、お主くらいブサイクの方が、逆に人目を引くと思うのじゃ。皆が綺麗なだけでは、あまり面白くないというのが、お主を見ておるとよく分かる」

 全然、誉められてる気がしませんが。

「……なんじゃ、怒ったのか?」

 エミリーは顔を上向けて、下ろした手をベッドについた俺を見上げた。

「いや、別に?」

 どっかの誰かじゃあるまいし、子供の言うことに、いちいちカチンとくる程大人気なくないですよ?

「すまぬな。わらわは思ったことをすぐ口に出し過ぎると、よく注意されるのじゃ。これでも、気をつけてるつもりなのじゃが」

 素直に謝罪を口にする。

 ああ、そうか——

 エミリーは上を向いたまま、細くて小さい指で俺の唇に触れた。

15.

「姉上に聞いたことがあるのじゃが、人間は好きな者同士で唇を合わせる習性があるそうじゃな」

「ああ、キスのことか?いや、習性ってんじゃないけどな」

「では、なんなのじゃ?何故そんなことをするのじゃ?」

 そいつは随分とまた——根源的な質問だな。

「そりゃ……なんでとか、そういう事じゃなくてだな……つまり、したいからするんだよ」

 我ながら、説明になってねぇ。エミリーも、「よく分からぬ」とぼやいた。

「エルフは、キスしたりしねぇのか?」

「そんな下品な習性は、我らにはないぞ」

 へぇ、そうなのか。アホみたいに長生きってのが関係してんのかね。子供を作って次代に子孫を残す必要がほとんど無い訳で、性に関しては恐ろしく淡白なのかも知れない。

 話を聞いてると、森に囲まれて毎日のんびり暮らしていれば、それで満足みたいな印象を受けるし、いわゆる色事に対しても、人間に比べてまるで無頓着なのかもな。

「下品とか言いつつ、ジツは興味あるんじゃねぇの?」

「うむ。あるのじゃ」

 からかうつもりで言ったのだが、あっさりと頷かれちまった。

「すごくドキドキすると、姉上が言ってたのじゃ。それでわらわも、姉上にしてもらおうと思ったのじゃが、普通は女同士でするものではないと断わられてな」

「まぁ、そうかな」

 しかも、姉妹だしな。

「でも、この里には他にしてくれる者も居らぬし、ずっとどんなものかと想像してたのじゃ。だから、ヴァイス。わらわに、そのキスとやらをするがよいぞ」

「へ?」

 それは、まだ早いんじゃ——いや、見た目が十二、三歳でも、ホントはもう百歳近いんだから、別に早かねぇのか。でも、なんか妙に背徳感をおぼえるんですが。

「なんじゃ、イヤなのか?」

「いや、別にイヤって訳じゃねぇけどさ……ああ、そうだ。さっきエミリーも言ってただろ。好きなモン同士でするんだよ、キスってのは」

「ふむぅ……お主の言う『好き』が、姉上が人間の男に抱いていた気持ちのことならば、確かにわらわにはよく分からぬ。でも、わらわはお主が嫌いではないぞ。それでは、ダメなのか?」

「いや、ダメってこたないけど……」

「じゃあ、お主がわらわのことを嫌いなのか?」

 仰向けた顔に、不安の色を浮かべる。

 なんとも直球だね。

 そう——エミリーは、素直なのだ。

16.

 同じように気が強いのに、「まるで小さいマグナの相手をしてるみてぇだな」という気分に全然ならないのが、不思議だったんだが。

 あの捻くれモンとは、素直さが段違いなんだな。

「いや、嫌いじゃねぇよ。どっちかっつーと、好きな方かな」

「そうか!なら、問題は無いのじゃ。キスするがよいぞ」

 そう言って、嬉しそうに笑う。

 まぁ、別にいいか、キスくらい。姫さんも、どんなモンだか経験してみたいだけだろうし、下手に意識する方がおかしいよな。それ以上となると、ちょっとマズいが。

 でも、姫さんの姉貴が人間と恋仲だったってことは、いちおう人間とエルフは、その……デキるってことだよな?

 俺的には、そっちの方が興味深かったりするんですが——いやいや、いくらなんでも姫さん相手に、そっちをする気はさらさらないけどな。

「よーし、じゃあ、いっちょキスするか」

 言ってしまってから、噴き出しそうになるのを堪える。こんな間抜けな宣言してから、キスしたことねぇよ。

「うむ。するがよい」

「じゃあ、今の座り方だとやり難いから、こっちに来てくれ」

 俺はエミリーの脇に両手を差し入れて、ひょいと隣りに移動させる。

「くすぐったいぞ——それで、どうするのじゃ?」

「こっち向いて、ちょい顔を上に向けて。目を瞑るんだ」

「ん」

「楽にしてていいぞ」

「んむ」

 なんか、作業の指示って感じだな。もうちょっと雰囲気出した方がいいのかね。

 ベッドについたエミリーの手に掌を重ねて、華奢なおとがいに指をかける。

 薄い唇。

 いざとなると、なんだかイケナイことをしてるみたいな気分が、やっぱり頭をもたげちまうな。

 まぁ、深く考えずに、ちょっと唇を重ねてやりゃ済むことだ。

「まだか?」

 目を閉じたまま、エミリーが催促する。

「口を閉じて。今するよ」

 耳元で囁くと、くすぐったそうにピクリと震えた。

 可愛いな——あ、いや、子猫とかに感じるのと同じ意味でだが。

 俺は、そっとエミリーにキスをした。

 このまま頭を抱えて、舌を入れたらマズいよな、やっぱ。

 足音には、気付いていた。

 だが、それまでも稀に部屋の外を横切る足音は聞こえていたし、エルフの使用人かなんかのそれだと思って、あまり気に留めなかったのだ。こんな状態だしさ。

17.

「ヴァイス、入るわよ。別に今——じゃなくても……よかったんだけど……」

 返事も待たずに入ってくる辺りは、姫さんとよく似てやがる。だから、ヘンなことしてたら気まずいって言ったろ?言ってねぇけど。

 エルフ共に対抗意識でも燃やしているのか、家の中だというのに随分とめかし込んでいた。既に湯浴みを済ませたのか全体的にこざっぱりとしていて、ロマリアで買った中でも一番のお気に入りだと言っていた服に着替えている。

 そんなマグナを視界の端に捉えて。

 俺は思わず——硬直してしまっていた。

 一瞬自失したマグナは、俺を怒鳴りつけようか、それとも謝ろうか、迷うみたいに瞬間的に表情をくるくる変えると、結局何も言わずにスダレを開けて部屋から出ていった。

 小走りの足音が遠ざかる。

 ヤベェ。

 このままじゃ、幼女趣味の変態にされちまう。

 いや、でも、この姫さんはジツは百歳近いんだから、幼女って訳じゃないよな?

 って、そういう問題じゃねぇか。

 エミリーがもぞりと動いたので、俺はようやく唇を離した。

 その途端に、ぷはーっと息を吐き出し、苦しそうにすぐ吸い込んで、忙しく呼吸を繰り返す。

 どうやら、ずっと息を止めていたらしい。

「これがキスとやらか?なんだか、苦しいだけなのじゃ」

 ごめんな。初めてのキスがこんなで。

「何がよいのか、よく分からぬぞ。キスをすれば、姉上の気持ちが少しは分かるかと思ったのじゃが……そういえば姉上も、はじめの頃は別に何も感じなかったと言ってたかも知れないのじゃ。何回もしなければ、分からぬものなのか?」

 いや、まぁその、なんと申しますか。

「それとも、やっぱり姉上のような『好き』が分からなくては、ダメなのじゃろうか」

「そうだな。順番としちゃ、そっちが先かな」

 俺は、エミリーの頭の上にぽんと手を置いた。

「好きな相手とするから、ドキドキするんだよ」

「ふむぅ……ところで今、あの女の声が聞こえたと思ったのじゃが、どこにも居らぬな。目をつぶっていたから見てはおらぬのじゃが、わらわの勘違いか?」

「いや、来たよ。すぐ出てったけど」

「そうなのか。何ぞ用があったのではないのか?おかしなヤツじゃな」

 いや、多分、俺がおかしなヤツだと思われてるんだけどね。

 さて、どうしたモンかね、こりゃ。

18.

 俺はエミリーと別れて——姫さんは、これから晩飯を用意してくれるそうだ——とりあえずマグナを探しに部屋を出た。

 足取りは重い。

 いや、キスの相手がスティアとかだったら、むしろ構わねぇんだけどさ。誤解でも何でもない訳だし。

 でも、今回のは、ちょっとなぁ。

 とにかく、誤解は解いておかねぇと。俺の沽券にかかわるぜ。

 微妙に上がったり下がったりして、やや歩き難い廊下の向こうから、周りをきょろきょろ眺めながら、リィナがこっちに歩いてくるのが見えた。

「あ、ヴァイスくん。すごいよね、この家。どうやって作ったんだろ?」

「さぁな——マグナ、見なかったか?」

「ううん。部屋を出てから見てないけど。なに?なんかあったの?」

「いや、別に。大した用じゃねぇよ」

「ふぅん——あ、そうそう。昼間はありがとね」

 すれ違いかけたリィナが、よく分からないことを言った。

「昼間?」

「うん。あのフードの人のこと。逃げて正解だったと思うよ」

 ああ、そのことか。

「ホントはボクも、気付かなきゃいけなかったと思うんだけどさ。魔法の事はヴァイスくんに任せとけばいいや、みたいに思っちゃってたみたいなんだよね。ごめんね」

 拝むように片手を上げて、片目を閉じる。

「いや、任せてくれていいけどさ」

 意外な台詞に、俺は虚を突かれていた。

「——ってことは、ちょっとは頼りにしてくれてんのかな」

「うん。そりゃもちろん、頼りにしてるよ~」

 リィナは、屈託のない笑顔を浮かべる。

 なんだ、これ。

 なんか——嬉しいぞ。

「シェラは?部屋に居るのか?」

 照れ臭くて、つい話を逸らしたりする。

「お風呂から戻ってればね。ボクも、これから入るつもりだけど——」

 リィナは、にへらと笑った。

「覗いちゃダメだよ?」

 そんな、覗いてもいいよ?みたいな顔して言うんじゃねぇよ。お言葉に甘えちまうぞ?

 とか言ってる場合じゃないんでした。そうでした。

「バカ言うな。するか、ンなコト」

 きっぱり言い捨てて立ち去る俺って、クールだよな。

「あ、マグナを見かけたら、ヴァイスくんの部屋に行くように言っとくね」

 リィナが、俺の背中に声をかける。

「ああ、頼む」

 少し逡巡してから、俺はそう答えた。

19.

 この屋敷は、驚くほどに広くはないが、なんというか迷路みたいで、探し歩くのは割りと手間だった。

 しばらくあちこち回ってみたのだが、マグナは見当たらない。

 やっぱり、部屋に戻ってるのかね。

 あえて反対方向に進みながら、そんな事を考える。いや、だって、シェラとか一緒に居たら、余計に話し辛いっつーかさ。マグナが部屋に戻ってたら、もう話は伝わっちまってるだろうな。

 結局マグナの姿が見えないまま、屋敷の端まで辿り着いてしまった。

 そこに壁は無く、渡り廊下が外まで続いている。

 昼間よりは薄暗いが、表はまだ充分に明るかった。時間的にはとっくに夜中なんだが、何故かこの辺りは真っ暗になる時間が異常に短いのだ。それに気付かなかった頃は、充分に睡眠をとらずにヘトヘトになったりしたモンだ。

 すぐ引き返す気になれず、表に出て伸びをする。

 まぁ、別に慌てる必要もないかな。

 時間が経つにつれて、そんなに大した問題でも無いように思えてきた。

 普通に考えたら、子供と触れ合っただけだもんな。あいつが誤解してるとしたら、あれ見てヘンな風に受け取る方がおかしいんだ。

 そう自分を納得させようと頑張っていると、横手で枝を踏む音がした。

 人がせっかく思考を切り替えようと努力してるってのに。

 そちらを見ると——マグナがそこに居た。

 なんかタイミング悪ぃな、さっきから。

 マグナは一瞬踵を返しかけて——やっぱり止めて、俺を睨みつけた。

「なに?なんか用?」

 タイプは違うが、氷の女王様と同等くらいにけんもほろろな雰囲気だ。

「用があったのは、お前の方じゃねぇのか?」

 マグナは、少し言い淀んだ。

「——別に。あんたに用事なんか無いわよ」

 じゃあ、なんで俺の部屋に来たんだよ。半分でいいから、姫さんの素直さをこいつに分けてやって欲しいぜ。

「あのさ、さっきの事、誤解してると思うんだけどさ——」

「何が?誤解なんてしてないわよ」

「聞けよ。さっきのは——」

 あれ?

 なんて説明すりゃいいんだ?

「え~とだな……姫さんは、例の駆け落ちした姉貴とその彼氏の関係に憧れててだな、でも姉貴の気持ちがよく分からなくて、それを理解したくて俺とキスしてみただけなんだ」

 なんだか、端折り過ぎた気がする。

20.

「ちなみに、エルフはキスなんかしないそうだぜ。だから、あれにはそんなに深い意味は無くてだな——」

「ふぅん。つまり、はじめてだったってことね。あのお姫様にとっては」

 そりゃそうなんだけども。そこを汲んで欲しかったんじゃねぇよ。

「いや、だから、そんな大層なモンじゃなくて、試しにやってみただけって言うかだな——」

「あんたは試しでキスするって訳ね。誰とでも」

 物凄い固い声だった。

「別にいいんじゃないの、キスくらい。大体、あんたがどこで誰と何をしようが、あたしには全然関係無いものね」

 脇を抜けて屋敷に戻ろうとするマグナの手を、俺は掴んだ。

「だから、聞けって!」

 何を言っても焼け石に水な予感がして、後に続く言葉が出てこない。

「——なによ。離しなさいよ。あたしなんかに構ってないで、あんたは可愛いお姫様と乳繰り合ってればいいでしょ」

 乳繰り合うって、お前。なんつー言葉を使うんだ。

「分かるわよ、あんたの気持ちも。見た目はちょっと幼いけど、ホントに可愛いもんね、あのお姫様。実際はずっと年上なんだし、いいんじゃないの。お姫様が可愛過ぎて、あんたとじゃ釣り合うなんて、とても言ってあげられないのが気の毒だけど」

 嫌味ったらしい言い草だな。

 つか、こいつまだ、可愛いとか可愛くないとか気にしてんのかよ。

「いや、あのな。そういうんじゃねぇっての。冷静に考えれば分かんだろ。今日会ったばっかで、いきなりそんな仲になる訳ねぇだろ?」

 俺の反論は、どこかズレている気がした。

「お互いにひと目惚れだったんじゃないの。知らないけど。どうでもいいわ」

「だから、惚れたとか腫れたとか、そんな話じゃねぇっての。そもそも、姫さんはその惚れるって感情自体、よく分かってないみたいでだな——」

「それを知りたくて、キスしたって言うんでしょ。もう聞いたわよ。でもそれはつまり、あんたにそういう感情を抱いてみたかったから、したっていう事でしょ。惚れてるのと、何が違うのよ」

「へ?」

 そうなのか?

 いや、違うと思うんだが。そんな感じじゃなかったよな。

21.

 俺が首を捻っていると、マグナは鼻で笑った。

「なに?そんなことも分かってないで、キスなんかしたの?呆れた。あんた、最低ね」

 なんだと、こいつ——いやいや、ここで俺までキレたらお仕舞いだろ。頑張れ、俺。我慢するんだ。

「だから、そんなんじゃねぇっての。だって、キスの後も、姫さんは全然ピンときてなくてだな——」

「知らないわよっ!!聞いてない、そんな事っ!!」

 マグナは、急に大声で叫んだ。

「離してよっ!!あたしなんか放っといて、あんたは可愛いお姫様の側に居てあげなさいよっ!!可哀想でしょ!?陰であんたにそんな風に言われてるって知ったら、可愛いお姫様が傷つくわよっ!?」

 やっぱり、こいつもズレてるって。どう考えても。

 マグナは俺の手を強引に振り解くと、足早に廊下を進む。

「ついて来ないでよっ!!」

「無茶言うなよ」

 俺の部屋も、そっちだっての。

「なによ、別にあたしを探しに来た訳じゃないんでしょっ!?一緒に戻ることないじゃない!!外の様子でも見物してくれば!?どうぞごゆっくり!!」

「……うるせぇな。お前が姫さんの側にいてやれって言ったんじゃねぇかよ。姫さんがメシの仕度をしてくれてるから、手伝いに行こうとしてるだけだっての」

 イラっとして、つい口を滑らせてしまう。

「あ、そう。勝手にすればっ!?」

 マグナは、さらに足取りを早める。

 やれやれ、しまったな。折角我慢してたのによ。

「——あ」

 前方から、件の姫様がこちらに向かって来るのが目に入った。

「なんじゃ、お主ら。こんなところにったのか」

「よかったわね。お姫様が迎えにきてくださったわよ。それじゃあ、あたしはこれで!」

 目を合わせようともせずにすれ違うマグナを、エミリーは怪訝な面持ちで見上げる。

「なにを怒っておるのじゃ?あまり大きな声を出すでない。木々が怯えてしまうのじゃ」

「ああ、悪いな」

 マグナが返事をしようとしないので、代わりに謝っておく。

 渡りに船とはこのことだ。姫さんに、ひと肌脱いでもらうとしよう。

22.

「まぁよい。夕餉ゆうげの支度が整ったぞ。木の実や山菜ばかりじゃから、人間には物足りぬかも知れぬが、わらわが手ずから用意したのじゃ。ありがたく食すがよい」

「だってよ」

「聞こえてるわよ!」

「お前な、ちょっと待てよ」

 ついてくるようにエミリーを促して、マグナの後を追う。

「なんじゃ、お主ら。喧嘩しておるのか?」

「まぁな」

「してないわよっ!!」

「あのさ、エミリー。ちょっと聞いていいか?」

「なんじゃ?」

「さっきのキスのことなんだけどさ——」

 マグナが足を止めて、こちらを振り返った。

「なに聞いてんのよ!?どうでもいいって言ってるでしょっ!?」

「黙って聞けよ——どんな感じだった?」

 エミリーは、きょとんとしてみせた。

「先ほど申したであろ。苦しいだけだったのじゃ」

「だよな。じゃあ、それで俺に惚れちゃったりは?」

「姉上のようにか?残念ながら、全然じゃな。姉上の気持ちは、さっぱり分からぬままなのじゃ」

「ほらな?」

 俺がそう振ると、マグナは非難がましい目つきをした。

「そういうコト聞く、普通?他人の前でそんな風に聞かれて、ホントのこと言えないわよ」

「失礼なヤツじゃな!わらわは、嘘など申さぬぞ!」

 そうそう。姫さんは、お前みたいに捻くれてねぇんだぜ。

「なんじゃ。もしかしてお主ら、先ほどのキスのことで喧嘩しておったのか?」

「だから、別に喧嘩なんてしてないったら!!」

「まぁな」

「ふむぅ……」

 エミリーは難しい顔をして、ちょっと考え込んだ。

「ひょっとして、キスというのは、好きな者同士でするのがよいだけでなく、好きな者同士でなくては、してはならぬものなのか?」

「まぁ、そうかな。特に、口と口ではな」

23.

「ちょっと、何ヘンなこと教えてんのよ!?」

 別に変じゃねぇだろ。

「そうなのか。すまぬな。わらわは、よく知らなかったのじゃ。許すがよい」

「は?許すって何を?」

「じゃから、好きな者同士でないわらわ達がキスしてるのを見て、ヴァイスと好きな者同士のお主が怒っておるのじゃろ?」

「ばっ——違うわよっ!!何言ってんのっ!?」

「なんじゃ、違うのか?」

 いや、俺に振るな。

「違うわよっ!!いい?あのね、ホントはキスなんて、そんな簡単にするものじゃないのよ?あたしはね、姫様が何も知らないのをいいことに、このバカが騙してキスしたから怒ってるの。こういうヤツを、卑怯者っていうのよ」

 エラい言われようだ。

「ほぅ。エルフには卑怯な者などおらぬから、ジツはあまりよく分かってなかったのじゃ。ヴァイスがそうとは気付かなかったが、さすがに人間じゃな。お主、卑怯者じゃったのか」

 嬉しくない感心の仕方をするエミリー。

「そうよ。これが卑怯者よ。これからは気をつけなさい」

 マグナ、お前な。

「でも、ヴァイスはわらわのお願いを聞いてくれただけじゃぞ。あまり悪いことをしたとも思えぬのじゃが」

「卑怯って分からないように騙すから、卑怯者って言うのよ」

「……なんだか、難しいのじゃ」

 いや、マトモに取り合わなくていいんだぞ。

「——どうあれ、お主とヴァイスは好きな者同士ではないのじゃな?」

「あ、当たり前じゃない!!バカなこと言わないでよ」

「ふむぅ、わらわの思い違いか。それは残念なのじゃ」

「え?」

「せっかく姉上の言う『好き』が、少し分かったと思ったのじゃが。やっぱりわらわには、よく分からぬのじゃ」

「分からないって、エルフの男の人を好きになったりしないの?」

 ここまでのやり取りで、すっかり毒気を抜かれたような顔をして、マグナはエミリーに尋ねた。

「わらわは、まだないのじゃ。他の者にしても、姉上のように——なんと言うのじゃ?えぇと、情熱的に——恋焦がれる——で合っておるか?そういうのは、里では全然見たことがないのじゃ」

「そうなの?」

 アホみたいに長生きなのに、いちいち情熱的な恋愛してたら身が持ちそうにないもんな。この里でずっと暮らしてたら、世間も狭いだろうしさ。

24.

「じゃが、皆、仲は良いぞ。お主らも、早く仲直りするがよい。わらわは、喧嘩は好かぬのじゃ」

 おそらくエルフというのは、何事につけても非常に穏やかなのだ。喧嘩が嫌いと言って憚らないこの姫様すら、くっきりと浮いちまうくらいに。

「そうだな。わざわざ探しにきてくれたのに悪いけど、ちょっと先に戻っててくれ。仲直りしたら、すぐ行くからさ」

「うむ、分かったのじゃ。そうするがよい。あまり遅いと、先に食べてしまうぞ」

「ああ。すぐ戻るよ」

 トコトコ遠ざかっていくエミリーの小さい背中を見送りながら、マグナに声をかける。

「な?」

「なによ」

「だから。そういうんじゃなかっただろ?」

「得意そうな顔して言わないでよ——でも、なんかエルフって、やっぱり感覚が人間とは全然違うみたいね。あのコのお姉さん、よく人間とくっついたもんだわ」

「まったくな。あの姫さんは、あれでエルフの中ではかなりの変り種みたいだから、姉貴もやっぱり変りモンだったんじゃねぇの」

「かもね。てことは、ヴァイスも頑張れば、あの可愛いお姫様の恋人になれるんじゃないの」

「まだそういうこと言うかね」

「だって、ヴァイスにも少しはそういう気がなかったら、キスなんてしてないでしょ?それとも、可愛いコなら見境ナシなの、あんたって?」

「人を種馬みたく言うな」

 俺は、そんなに旺盛じゃねぇよ。

「見境ナシなら、却って良かったじゃない。なんの後腐れも無く、可愛いお姫様とキスできたんだから」

「しつけぇな。どうもさっきから聞いてると、お前まだ、可愛いとか可愛くねぇとか拘ってんのかよ」

「べ、別に——そんなんじゃないわよ」

「ンな拘んなよ。無理したってしょうがねぇだろ。お前は、そのままで充分——」

「充分——なに?」

 しまった。酒も入ってねぇのに、何を口走ってんだ、俺は。

 どう考えても——可愛くはねぇだろ。

「憎ったらしいよ」

 うぐっ。

 こいつ、腹を拳で殴りやがった。なんて女だ。

「悪かったわねっ!!」

 ズカズカ先に行きかけて——マグナはふと足を止めた。

25.

「ねぇ……」

「なんだよ?」

「あたしって……そんなに可愛くない?」

 振り返って、上目遣いに俺を見る。

「は?」

「ごめんね、なんか怒ってばっかりで。でもね、ちょっと言い過ぎちゃったなって、いっつも後で反省してるんだよ?」

 マグナは両手の指を合わせたり絡ませたりして、モジモジしてみせる。

「でも、そんなのヴァイスには分かんないもんね。やっぱり、可愛くないよね……」

 急に女の子っぽい言動をしはじめたマグナを見て、俺は眉間に深く刻まれた皺を解いた。

「——いや、そんなことねぇよ。さっきは、俺も嘘吐いちまった。照れ臭くてさ」

 俺はそっぽを向きながら、ぶっきら棒に続ける。

「本音を言うと……可愛いと思ってる」

「適当に言ってない?」

「あのな、何度も言わせんなよ」

 ボリボリと頭を掻く。

「可愛いと思ってるよ。すごく」

「じゃあ……」

 マグナは後ろで手を組んで、恥ずかしそうに身を揺らした。

「キス、してくれる?あたしにも」

「いいのか?」

「……うん」

 俺は、ゆっくりマグナに歩み寄る。

「ホントにするぞ?」

「うん。いいよ」

「ホントのホントにしちまうぞ?」

「だから、いいってば」

 俺は、マグナのすぐ正面に立った。

「目を閉じて」

「うん」

 マグナは目を瞑って、少し上を向く。

 微かに震えているのが分かる。こりゃ、はじめてだな。無理しちゃって、まぁ。

 俺はマグナの頭の後ろに手を添えて、もう片方の手でマグナの手を握った。

26.

「大丈夫。力を抜いて」

「うん。優しくね」

 エミリーより、全然体が固くなってるぞ。

 俺は、息のかかる距離まで顔を近付けて——

「って、なに本気に——うひゃぅっ!!」

 マグナがぱちりと目を開けた瞬間に、ひょいと顔をズラして、耳に息を吹きかけてやった。

 膝をかくんとさせたマグナを支えながら、にやにや笑う。

 お前が言おうとした台詞は、『って、なに本気にしてんのよ。やっぱり見境ないのね』てなトコだろ。

 アホか。お前みたいなおぼこの下手な芝居に、俺が引っかかると思ってんのか。笑いを堪えるのに苦労したっての。

「ちょっ——なにすんのよっ!!」

 息を吹きかけた耳を手で擦りながら、マグナは頬を膨らませる。

「なんで!?いつ気付いたの!?」

「悪ぃな。はじめっから、本気にしてねぇよ。俺をからかうには、ちっとばっかし経験が足りなかったな」

 これでも、俺が気付いてるって伝わるように、ずいぶん白々しく振舞ってやったんだぜ。

「なによ、偉そうに!!しゃあしゃあと適当なコトばっか言って——この嘘吐きっ!!」

「お互い様だっての」

 悔しそうに、俺を睨みつけるマグナ。

「ほら、行くぞ。早くしねぇと、リィナに夕飯全部食われちまうよ」

 う~、とか唸りながらも、マグナは大人しくついてきた。

「ねぇ」

 後ろを歩きながら、マグナが声をかけてくる。

「なんだよ」

「ねぇってば」

「だから、なんだよ——」

 肩を叩かれて振り返った俺は——

 素早く横に回り込んだマグナに、キスされた。

「へへ~ん。引っかかった~」

 嬉しそうにはしゃいだマグナは、急に顔中を真っ赤にする。

27.

「ち、違うわよっ!?これは、その……騙されたまんまじゃ悔しいから、そのっ……ただの仕返しなんだからねっ!?別に、深い意味とか、そういうのは全然無いんだからっ!!分かったっ!?」

「……なんだ、そうなのか」

「ホントにホントなんだからねっ!?——え?」

「いや、ふざけただけなんだろ。分かったよ。ちょっとがっかりしただけだ」

「えっと……って、そんな何回も引っかかんないわよっ!!」

「引っかけるとか、もう思ってないんだけどな。自分から本当にキスしといて、そんな言い方はないんじゃねぇの。まぁ、いいけどさ」

「え——だって、あたしもなんであんなことしたのか、自分でも良く分かんないっていうか……ううん。そんな真面目な顔したってダメよ。騙されないんだから」

「だから、分かったっての。もういいよ。ただの仕返しだったんだろ」

「……そうよ」

「だよな」

「……」

 俯いてしまったマグナに、一歩近づく。

「なぁ」

「……なによ」

「もう一回、ちゃんとやり直しちゃダメか?」

「え?ばばばかなこと言わないでよ!?やっぱり、また騙そうとしてるでしょっ!?分かってるんだからっ!!」

「いや、今度は本気だ。急に我慢できなくなった——キスしていいか?」

「急にって……なに言ってんの?ダメに決まってるじゃない!!」

 構わず、俺はマグナの腰を抱き寄せた。

「ダメ……ダメって言ってるでしょ!?」

 マグナの頭を撫でてから、頬と髪の間に手を差し入れる。

「ちょっと……ふざけないでっ!!イヤだったら!!」

 頬を撫でた手を、おとがいに滑らせる。

「ふざけてない。マグナとキスしたいんだ。ほら、口閉じて」

「あ……」

 マグナの唇を、優しく親指でなぞる。

「目も。閉じて」

「い、いや……」

 震える薄目の瞼を、ぎゅっと閉じたマグナは——

28.

「——やっぱり、イヤだったら!!こんなのイヤッ!!」

 俺の胸を力任せに押し退けて、踵を返して足早に歩み去る。

 あらら。あと一瞬我慢すれば、ちゃんと俺が噴き出してやってたのに。

「悪い。冗談だ」

 本気にされてもアレなので、念の為、俺はマグナの背中に声をかける。

「バカッ!!」

 怒鳴り声だけ残して、マグナはどんどん遠ざかっていった。

 ちょっとしつこかったかな。

 いや、あんな単純なイタズラに、まさか引っかかっちまうとは思わなかったからさ。やられっぱなしじゃ、年上として示しがつかないっつーか。

 まぁ、でも、ホントに一瞬だったし、微妙にズレてたし。

 お前がそのつもりなら、さっきのは数えなくてもいいんだぜ。

 それにしても——最後のマグナの慌てようは、なかなか傑作だった。

 あのうろたえっぷりは、少しだけ可愛かったかな。

 そんなことを考えながら、俺はゆっくりとマグナの後を追った。

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