10. Sexuality
1.
ノックをしても、返事が無かった。
「マグナ、俺だ。寝てるのか?」
声をかけてから、扉が薄く開かれるまで、かなり時間がかかった。
隈を作ったマグナの目が、隙間から覗く。
カーテンを閉じていて、部屋の中が薄暗い所為もあるんだろうが、ヒドく疲れて見えた。
「ごめん……すぐ出なくて」
「いや、いいよ。リィナは?」
マグナは、力無く首を横に振る。
今はまだ午前中だが、このまま午後まで目を覚まさなかったら、もう丸二日眠り続けていることになる。
「シェラは?」
マグナは、また首を横に振った。
シェラは一旦起きたらしいのだが、眠り続けるリィナを目にして、再び取り乱してホイミをかけ続けて昏倒してしまったそうだ。それが、昨日のことになる。
やれやれ、なんとも空気が重苦しいね。
「そっか。お前も、ちゃんと休めよ。どうせ寝てないだろ。看病たって、出来ることに限りがあるんだしさ」
「……分かってる」
疲れた声出しちゃって、まぁ。
「大丈夫だって。シェラはちょっと無理しただけだし、リィナだって、その内ケロッと起き出して『ご飯~』とか言うに決まってんだからさ」
「……うん」
「それに、お前まで倒れちまったら、誰がこの部屋の面倒見るんだよ。そん時は、俺が付きっきりで看病しちまうぞ?」
やらしい手の動きとかしてみせたのだが。
「うん……そうなったら、お願い」
あっさり肯定されちまった。
こりゃ、相当まいってるな。
「とにかく、ちゃんと休めよ」
「うん……ありがと」
パタン。
扉の閉まる音も心許ない。
ホントに寝不足と心労で倒れなけきゃいいけどな。やれやれ。
2.
帳場で鍵を預けて、宿屋を出る。
おととい宿をとった時は大変だった。幸い、おばちゃんが顔を覚えていてくれたので、危惧していた程には不審がられずに済んだが、なにしろ、俺はリィナを、マグナはシェラを背負っていたのだ。
これでマグナまで気を失ってたら、俺はまるきり少女をかどわかした悪人にしか見られなかったところだ。
二人をベッドに寝かせて、すぐに良くなるなどと気休めを言い残し、俺が部屋を出ようとした時に、マグナが呟いた。
「カンダタ……魔物と組んでたよね」
「……みたいだな」
「あいつ、あれでも人間でしょ?なのに、なんで……」
「そりゃ……金、だろ。あの変態が自分で言ってたじゃねぇか」
マグナは、急に激した。
「なんでよ!?ホントにそんなことで!?あたしには、魔物を、魔王を斃せってさんざん言っておいて、自分はちょっとお金が欲しいからって、平気でその魔物とツルむの!?」
「いや、おい……」
「なんなのよ……そのせいで、リィナはこうして今も目を覚まさないのよ!?ヴァイスだって……なんなのよ、それ……」
マグナは手で額を押さえて俯いた。
「ごめん……分かってる。同じ人が言った訳じゃないよ……でも……」
顔を上げて何かを言いかけて、マグナは首を振った。
「なんでもない。あたしにはもう、関係ないから……」
それきり、言葉を発さなかった。
俺もそれ以上は声をかけずに、部屋を後にしたのだった。
マグナにとって、おとといの戦闘は色々な意味で堪えたらしい。
先に落ち込まれてしまったが、俺も、なんだか胸の辺りにモヤモヤしたものを抱えていたりする。けど、あんな状態のマグナに、俺まで不景気な面を見せても仕方ないしな。
自分のウサくらい、自分で処理するさ。
3.
そんな訳で、宿を出た俺は酒場へ向かった。
ありがたいことに、酒場は昼間から開いていたが、流石にこの時間だとガラガラだ。埋まっているテーブルはふたつだけ。
一方には、地元の村人と思しき男女が向かい合って座っていた。う~ん、こっちじゃねぇな。
俺はカウンター越しに酒場の親父に適当な地酒を頼み、コップを片手にもう一方のテーブルに歩み寄った。
「相席していいか?」
返事を待たずに、構わず席につく。酒を嘗めながら、反対側に座っている三人を眺めた——この酒、結構強ぇな。
店に入ってちらりと見た時は、テーブルのこっち側に、もうひとり誰か居たような気がしたんだが、どうも勘違いだったらしい。
反対側の連中は、恐ろしく怪しげな一行だった。
俺の左斜め前の席では、呆れるくらい大柄な、ちょっとした山みたいな奴が料理をがっついている。あのカンダタよりも、さらにふた回りくらいデカい。
全身を厚手の貫頭衣で覆っていて、頭にもフードをすっぽりと被っているので、中身が全く見えないが、こんな大柄な女はいないだろうから、おそらく男で間違いないだろう。
ご丁寧に、皿を押さえるぶっとい指まで、包帯でぐるぐる巻きにされている。なんかの病気じゃねぇだろうな。
そいつは皿に顔をつけて喰う、いわゆる犬食いで意地汚く料理を撒き散らしていた。まるで獣だな。そういや、なんか臭いも獣臭ぇ気がするぜ。風呂入れよ。
右斜め前には、こちらはやたらと小柄なヤツがちょこんと座っていた。同じく貫頭衣とフードで全身を包み、やはり中身は窺い知れない。笑っちまうほど怪しいぞ、こいつら。
そして、俺の正面には、ひとりだけ顔を出した女が腰掛けていた。
短い銀髪——というより、間近で見ると、こりゃ白髪か?——の女は、体つきこそやぼったい貫頭衣でよく分からないものの、顔立ちは向こうのテーブルの女より俺の好みだ。
この女がいなきゃ、こんな奇怪な連中のテーブルには、まず近寄らなかったぜ。
4.
「それ、旅装だろ?あんた、地元のヤツじゃないよな。やっぱり旅してんのかい?」
俺が話し掛けても、女は無表情のまま何も言わなかった。視線はこっちを向いてるから、無視されてる訳じゃないと思うんだが。
「奇遇だな。俺もそうなんだよ」
やはり返事はない。
俺は、わざとらしく溜息を吐いた。
「なんとか言ってくんねぇかな。迷惑だったら、大人しく退散するからさ。それとも……誰かに余計なことは喋るなって命令されてる、とか?」
俺の大胆な予想——というか、妄想によると、女の両脇の変人共は人買いの類いだ。
ちょいと助けてやれば、この女とイイ事できるかも知れねぇ。そんな風に、俺は期待しているのだった。
スティアみたいないい女の据え膳をバカみたいに辞退しておいて、自分でもなにやってんだと思うが。
そもそも、こんな空想自体、普段だったら歯牙にもかけないというか、そもそも思いつきもしないんだが。
今の俺は、ちょっとオカシイのだった。
カザーブに戻ってからこっち、性的欲求が異常に高まっている。
おそらく、死にかけたせいだと思う。自分でも意識できない部分で精神がヒドく昂ぶっているのか、それとも死なない内に子孫を残せと本能がせっつくのか。
前に死にかけた時も、こんな感じだった覚えがある。
放っておいても、じきに落ち着くと思うから、俺の妄想がまるで見当違いだったとしても、別にいいのだ。というか、むしろ当たったら、そっち方が吃驚だ。
けど、どういう筋書きであれ、思いがけずに上手くいって、名前も知らないこの女とちょっと愉しむことになったとしても、それはそれで構わない、と考えてしまう自分を、今日は抑えられなかった。
「なぁ、あんたら。この子、ちょっと借りてもいいかい」
両脇の奇人は、俺を完全に無視した。大柄なヤツは料理をがっつくだけだし、小柄な方もぴくりとも動かない。
どうにも話になんねぇな。壁に向かって話し掛けてんじゃねぇんだからさ。
「文句ねぇなら、連れてくぜ。ちょっと場所変えて話でもしないか」
俺が促しても、女は無表情のまま動こうとしなかった。
5.
「こいつらが邪魔なら、俺が追っ払ってやるからさ。なんとか言ってくんねぇかな」
しかし俺も、相当勝手なこと言ってんな。
それでも、女は何も反応を示さなかった。
視線はこっちを向いているが、俺を見てるのかどうかすら怪しい。
なんか、面倒臭くなってきた。両脇のヤツらにメラでも喰らわせて、女を攫っちまうか。って、そんな訳にはいかねぇよな、さすがに。どんだけ無法者だよ。
「なぁ、おい——」
「すみませんね。ルシエラさんは、あまりお喋りが得意ではないんですよ」
いきなり横手から話し掛けられて、俺は驚いて椅子からズリ落ちそうになった。
俺の左隣りの席に、それまで確かに存在しなかった男が、唐突に出現していた。フードの下で、にこやかな笑顔を浮かべている。俺の慌てふためく様が、そんなに面白かったか、この野郎。
「なんだ!?あんた、いつからそこに——」
「はい?さっきから、ここにずっと居ましたよ」
「嘘吐けよ」
「いや、本当なんですけどね。信じられないのでしたら、では、そうですね。厠に行って席を外していたということで、ご納得ください」
納得できるか。そんな気配は、微塵もなかったぞ。
「冗談ですよ、冗談」
にこやかな表情そのままに、男は笑い声をあげた。何が冗談なんだか、さっぱり分からねぇ。
「ところで、少々お尋ねしたいのですが」
「……なんだよ」
「ああ、いえ。これは、お会いした皆さんに伺っていることなんですけどね」
「だから、なんだよ?」
「シャンパーニの塔に巣食うカンダタという悪党を退治した人達について、何かご存知ありませんか」
「知らないね」
即答してやった。
だが、こいつ誰だ?俺達に、何の用だ?何が目的だ?
「そうですか。なら、ロマリアの方に居るのかな」
つか、なんでこいつが、その話を知ってやがるんだ?
まさか、カンダタ自らが俺達に背を見せたことを喧伝したりはしないだろう。ああいう連中は、面子を何より重んじるもんだからな。
しかし、俺達がカンダタの元に向かったのを他に知ってるのは、ロラン達ロマリアのお偉いさんと、子飼いのスティア達くらいな筈だ。そこから噂が立つというのも、考え辛い。
6.
俺は、ちょっと探りを入れてみることにした。
『どこで、その話を聞いた?』
だと、こっちも事情を知ってることになっちまうな。
なら——
「……なんで、そいつらを探してるんだ?」
韜晦されるかと思ったが、男はあっさりと答える。
「いえね、私は——そうですね、言わばスカウトのような仕事をしておりまして。さるお方の為に、強い方々を探して集めているのです。それなりに名の通ったカンダタを退けた人達であれば、かなりの実力者に違いありません。それで、是非ともお会いしたいという訳です」
「ふぅん。その、さるお方ってのは?」
気の無い素振りで聞いてみたのだが。
「それは、言えません」
男はにやにやしながら、返答を拒否した。
こいつ、表情が全然変わらないから、まるで腹の内が読めねぇな。胡散臭い野郎だ。
会話が少し途絶えて、後ろのテーブルの話し声が、聞くともなしに耳に届く。
「だからね、その村はエルフを怒らせちゃったから、村中眠らされたわけ!」
「それは、もう何度も聞いたよ。でも、どこかに眠りの村があるなんて、僕にはやっぱり信じられないよ」
かなり興奮している女の様子に、男の方はうんざりしているようだった。
「あ~ヤダ。あんたって、ホントに夢がないわ。なんでこんなのと一緒になっちゃったんだろ」
「そんなこと言うなよ。それとこれとは関係ないだろ。大体、しつこいんだよ、お前は」
「しつこいって何さ、しつこいって!」
「だって、そうじゃないか。最近は、いつもこの話で喧嘩になってるってのに、一向に止めようとしないんだから」
「分ぁかったわよ。もうあんたには喋んない。どうせ、いっつも同じことしか言わないんだから、面白くないったらありゃしない」
どうやら夫婦者みたいだな。向こうの女を引っ掛けないでよかったぜ。
「今の話、本当だと思いますか?」
にやけ面が、不意に俺に問い掛けた。
「エルフがどうのってか?世迷言だろ」
「そうでしょうか。その存在は、多くの伝承に散見されますよ。吟遊詩人の歌にも、よく登場するじゃありませんか」
7.
「連中の戯言なんか、当てになるかよ」
「かも知れませんが——彼らの語り継ぐところによれば、エルフは寿命が尽きるという事が無いほど長寿のようです。それが本当ならば、さぞかし物知りなのでしょうね。ひとつの村の住人を丸ごと眠らせてしまう不思議な術も、長寿が培った知識の賜物でしょうか」
おばあちゃんの知恵袋に、そんな知識が入ってるとも思えないが。
「それに伝承ではなく、こうして彼らの存在を示唆する噂が実際に流れているのです。実在する可能性は高いと思いますよ。長寿ひとつ取っても、人間以上の存在といえる彼らが、もしどこかに居るのなら、是非ともお会いしたいものですね」
「仲間に引き込もうってのか?まぁ、万が一見つけた時は、あんたも眠らされないように、せいぜい気をつけるこったな」
「ご忠告、痛み入ります——さて、食べ終わったようですね。では、そろそろ行きましょうか、みなさん」
男が立ち上がると、反対側に座っていた連中も全員腰を上げた。
結局、俺の妄想は大外れか。怪しげな連中には違いないが、人買いという訳でもなさそうだ。いや、元から当たってるとは思ってなかったけどさ。
カウンターの向こうの親父に金を払って、男は胡散臭い笑みを顔に貼り付けたまま、俺に軽く会釈して店を後にした。
他の連中は、こちらに目もくれない。ルシエラとかいう女もだ。
まぁ、欲情に任せて暴走せずに済んで、良かったかな。ヘンなことしてたら、その後マグナ達と顔を合わせる度に、妙な罪悪感を覚えちまいそうだ。なんで罪悪感なんて覚えるのか、自分でも納得いかないんだが。
後ろのテーブルは、どうやら喧嘩に発展していた。旦那の方が、乱暴に椅子を鳴らして席を立ち、足音も荒く店を出て行く。
親父と短く世間話をしてから、ほどなく女房の方も出ていった。
ほっと胸を撫で下ろす。今日の俺は、夫婦者だと分かってても声を掛けかねない精神状態だからな。いくらなんでも、それはマズいだろ。
それにしても、憂さ晴らしに来た筈が、新たな悩みの種を抱え込んじまった。あのにやけ面は、一体何者だ?
なんだか面倒な事にならなきゃいいんだが。
まぁ、もしまた会っても、無視すりゃいいだけの話か。
全然胸のモヤモヤが晴れないまま、他に誰も居ない淋しい酒場で、俺はちびちびとコップの酒を嘗め続けた。
8.
酒場を後にすると、こんな辺鄙な山村に他に時間を潰すような場所はない。
今日はやっぱり、宿屋で大人しくしてた方が良いかな。女と見れば、手当たり次第に声をかけちまいそうだ。後でマグナ達に知れたらバツが悪い。
「お兄ちゃん、ちょっといいかい」
元来た道を引き返す途中で、道具屋の親父が、俺に声をかけてきた。
「あんた、酒場に行ってきたんだろ。若夫婦がいなかったかい?」
さっき喧嘩してた奴らのことか?
「ああ、夫婦モンは居たぜ」
「やっぱりな。いつも昼時分は、あすこで飯を食うんだ、あの夫婦」
知らねぇよ。
「それであの二人、何か話してなかったかい?エルフがなんだとか」
「ああ、そんなこと喋ってたな。よく聞いてなかったけど」
「やっぱりなぁ。ジツはね、その話はアタシがあすこの奥さんに教えたんだけどね、それであの二人がしょっちゅう喧嘩してるみたいで、困っちゃってんのさ」
ははぁ。あの世迷言は、あんたの入れ知恵か。
「少し前までは、近所でも評判のおしどり夫婦だったもんだから、アタシも責任感じちゃってさ」
だから何だ。
「それでさ、あんた、旅の人だろ?」
つまるところ、親父の話はこうだった。このカザーブから、さらに北に上がった何処かに存在すると伝えられる、村人全員がエルフに眠らされた『眠りの村』とやらがあるのかどうか、確かめてきて欲しいと言うのだ。
「もちろん、タダとは言わないよ。あんたも旅の人なら、道中じゃ魔物に苦労してるだろ?」
「そりゃ、まぁな」
「そこでだ、『眠りの村』のことを確かめてきてくれたら、ウチのとっときの商品を、あんたにあげようじゃないか」
「とっておき?」
「そうそう。どんな魔物も一撃で斃すって代物だよ」
「一撃だと?そんな都合のいいモンあるのかよ」
「それがあるんだわ。その名も『どくばり』」
毒かよ。
「もっとも、正確に急所を突かなきゃ、まるで効かないんだけどね。でも、役に立つと思うよ」
毒針ねぇ。剣も振れない魔法使いの俺には、うってつけかも知れないが。
「ま、考えとくわ」
俺は親父に片手をあげて、その場から離れた。この先どうするかは、俺の決めることじゃねぇしな。
「頼んだよ~」
親父の声が追ってくる。考えとくって言っただろうが。俺は、頼まれた覚えはねぇからな。
9.
宿屋に戻った俺は、建物の脇に慣れ親しんだ顔を見つけて、思わず駆け寄った。
リィナだ。ほらな。あいつが、あれ位でどうにかなる訳がねぇんだ。
「おい、リィナ……」
呼びかけようとして、途中で止めた。
集中している様子なので、邪魔をするのが憚られたのだ。
リィナは、ヒドくゆっくりとした動作で、深く息を吸ったり吐いたりしながら踊っていた。
いや、踊りじゃないんだろう。緩慢に流れるような一連の動作は、武術の動きを確認しているみたいに見える。
手足の指先まで神経の通った、それでいて固く緊張するでなく、柔らかく流麗な動き。
見ていて、なんだか心地良い。
最初は、純粋に感心していたのだが。
無意識の内に、俺の視線は、ある一点に釘付けにされていた。
いや。その、さ。リィナがゆったりと身を動かす度に、たゆんたゆん揺れるのだ。豊かな胸が。上半身は丈の短い肌着だから、またそれが良く見えるんだ。
湯浴みでもしたのか、下ろしたままの黒髪がまだ乾いておらず、肌着が水気を吸って上の方が微妙に透けていたりする。
ヤベェよ、コレ。今の俺には目の毒だ。
なんとか視線を引き剥がそうと努力していると、リィナが急に素早く動いた。
空中で左右の蹴りを繰り出し、着地と同時に胸を掌で押さえる。
「あいたた、やっぱサラシ巻かなきゃダメだ」
俺は、唾を飲み込んだ。だって、お前、すげぇ柔らかそうな胸に指が食い込んで——いやいや、何考えてんだ。
「よう、もういいのか」
ごく普通な感じに発声できた——と思う。
「うん、お陰様で」
俺の存在にはさっきから気付いていたらしく、驚いた様子もなくリィナは答えた。
「なにしてたんだ、今の」
「ん?ただの腹ごなしだよ」
やっぱり、起きてすぐ飯を食ったんだな。
「ボク、二日も眠ってたんだって?どうりで、あんまり体がいうこと聞かない筈だよね~。ちょっと床擦れもしちゃったよ」
背中に手を回したリィナは、小首を傾げて俺を見た。
「……どうしたの?ヴァイスくん、なんか今日は目つきが怖いよ?」
うぐっ。
こいつなら、頼めば揉ませてくれるかも、とかチラと頭の片隅で考えちまった自分を、ぶん殴りたくなる。
10.
「そ、そんなことねぇよ。それは、ほら、お前のことが心配で、あんま寝てなかったから……」
「ホントにぃ~?」
「いや、ホントだって。部屋も違うから、具合もいまいち分かんねぇしさ。ひとり不安で眠れない夜を過ごしてた訳よ」
「なんかヴァイスくんの言うことって、ウソっぽいんだよね~」
仰る通りだが、今回は嘘じゃねぇぞ。
「ホントに心配してたって。まさか、お前が二日も寝込むような怪我を負うなんて、想像したこともなかったしさ」
リィナは、丸出しのヘソの辺りを触った。だから、もっとちゃんとした服着ろっての。ついじっくり見ちゃうじゃねぇか。
「怪我自体は、シェラちゃんのお陰で、とっくにすっかり治ってたんだけどね」
「そうなのか?——っていうか、お前、よく大丈夫だったよな。あの時は、真っ二つにされちまったかと思って焦ったよ」
「あー、あれね。普通は、あんな無茶な防ぎ方しないんだけどね」
頭の後ろに手をやって、リィナはあははと笑った。あんな目に遭っても、相変わらず軽いな、こいつは。
「あの時は、どうやっても斬られるって分かってたから、せめて斬られる場所を誘導したんだけど……上手く弾けたのは、運が良かったよ」
「そう、それ。どうやって、あのニックって奴の剣を弾き返したんだ、あれ?腹になんか仕込んでたのか?」
「別に何も仕込んでないよ——ん~、どうって言われてもなぁ」
リィナは、腕組みをした。あんまり考えてる顔には見えなかったが。
「ヴァイスくんも、『どうして呪文を唱えると火が出るの?』ってボクに聞かれたら、困っちゃうでしょ?」
「……まぁな」
門外漢には理解できないということか。
「ん~、そうだなぁ……」
リィナは足元に落ちていた小枝を拾い上げて、俺に渡した。
「ほい。そっちの尖った方で、ボクのお腹を突いてみてよ」
「おいおい、折角治ったばっかなのに、ンなことできるかよ」
「大丈夫だいじょぶ。ほら」
だから、丸出しの腹を突き出すんじゃない。傷跡が残ってないみたいでよかったが。
再び促されて、俺は仕方なく、おそるおそるリィナの腹に尖った枝先を当てた。
「もっとぐっと押して。背中まで突き抜けるくらい」
怖いこと言うな。くそ、どうなっても知らねぇぞ。
11.
食い込んだ枝先を中心に、リィナの腹の皮膚がすり鉢状に陥没して、ぞっとしない感触が枝を握った手に伝わる。
「力ゆるめないで。そのまま強く突いて」
リィナの台詞を違う意味に脳内で変換したりしながら——どうにもしょうがねぇな、今日の俺は——やけくそ気味に枝を押し込む。
フッ、と鋭い呼気をリィナが発した瞬間。
俺の二の腕くらいの長さの枝は、凄い力で押し返されて、真ん中からぐにゃりと曲がると、そのままバキリと折れた。
枝先を押し付けていた箇所が若干赤みを帯びていたが、リィナの肌に傷はついていなかった。
「まぁ、こういうことができるように、躰を作ってあるんだよ」
俺は思わず——ホントに無意識にリィナの腹を触った。
うひゃ、とか言って、リィナは跳び退る。
「くすぐったいってば」
「あ、ああ、悪ぃ」
こういうこと、って言われてもな。触った感じは、普通の女の肌みたいに柔らかいぞ。なんでそんなこと出来んのか、よく分かんねぇ。
「そんな訳で、剣そのものは弾けたんだけど……ん~、何て言えばいいんだろ。剣に込められた殺気にあてられちゃったんだよね、簡単に言うと」
「それで、二日も寝込むモンなのか」
「うん。ボクみたいな非力な女の子は特に、体の内側で頑張って力を練らないと勝負にならないのね」
非力って。お前が非力なら、俺は無力だっての。
「その、内側で力を作る流れを断ち切られちゃったっていうか——う~ん、上手く説明できないなぁ。とにかく、ダメージがシンに残っちゃったんだよ。あのニックって人、凄い使い手だったから。まぁ、次はボクが勝つけどね」
「俺は、次が無いことを願ってるけどな」
できれば、二度と相手にしたくねぇよ、あんな物騒な奴。
「でも、良くなったみたいで安心したよ」
「うん、もう大丈夫。後は何回かご飯を食べて眠って体動かせば、すっかり元通りだよ」
動物かよ。こいつらしいが。
「——そういや、マグナは?」
「ボクが起きた時には、もうフラフラだったから、寝かせといた。付きっきりで看病してくれてたんだってね」
「みたいだな。少しは寝ろって、何回も言ったんだけどさ」
「なんか、みんなに心配かけちゃったみたいで、ゴメンね」
「何言ってんだ。こっちは、いつも世話になってんだ。タマには心配くらいさせろよ」
12.
世話になったと言えば。
「そうだ。そういや、お前、あの時——」
なんで武闘家なのに、ベホイミを唱えることができたのか。リィナは、皆まで言わせなかった。
「あーうん。そっちのことなんだけど……ちょっと待ってくれないかな」
珍しく視線を下に落として、言い辛そうにする。
「……後で、ちゃんと話すから」
後って、どのくらい。とは聞かなかった。
「ああ、分かった。お前がそう言うなら」
こいつが何者かっていうのは、もう分かってる。
俺の、命の恩人だ。
それ以上のことは、こいつが自分から話す気になってからで充分だ。
「ありがと。感謝するよ」
馬鹿野郎、感謝するのはお前じゃねぇよ。
「さてと。ボクはもうちょっと体をほぐしてくけど、ヴァイスくんも一緒にやる?」
「バカ言え。お前の運動に、俺がどう付き合えるってんだよ」
「うん?ひとりじゃできない柔軟したりとか。こう、背中合わせでお互いに手を持って、背筋の伸ばしっことかすると、すごい気持ちいいよ」
「……いや、やめとくわ」
大変に魅力的なお誘いだが、今の俺じゃ別の意味で気持ち良くなっちまいそうだ。
「そう?まぁ、やりたくなったら、いつでも言ってよ」
ありがたい申し出だね。落ち着いたら、是非ともお願いしたいもんだ。
「ああ、頼むよ——リィナ」
リィナが身を翻して柔軟をはじめる前に、俺は思い切って呼びかけた。さっきから言おう言おうとして、とうとう口に出来ずにいた言葉を告げる為に。
「ん?なに?」
「えっと、あの、さ……」
お前が二日も寝込んじまうような怪我を負ったのは、俺のヘマの所為なんだ。そして、俺が命拾いしたのは、お前のお陰だ。
思うように言葉が出ない自分に驚いた。俺は、本気で礼を言うのが、こんなに苦手だったのか。
リィナは、何も言わずに俺が口を開くのを待っていてくれた。
「その……ごめんな。そんで……ありがとう」
脈絡の無い台詞だったと思う。これじゃ、何を謝ってるのか、何の礼を言っているのか分からない。
でも、リィナは「何が?」とか「どうしたの、急に?」なんて聞き返さずに、ただ一言、こう言った。
「どういたしまして」
にこっと笑う。
それは、思わず惚れちまいそうになるほど、いい笑顔だった。
13.
部屋に戻ってベッドに横になった俺は、実際に寝不足気味だったこともあり、いつの間にやらウトウトとしていたらしい。
忙しなく扉を叩く音に起こされた時には、カーテンを開けたままの窓の外は、もう真っ暗だった。
「ヴァイス!!居ないの!!」
切羽詰った声。
手探りで灯りをつけて扉を開けると、マグナがまろび入ってきた。
「やっぱり……ここにも居ない」
「いや、居るけど、ここに」
俺が見えない訳じゃなかろうに。
「違うの。シェラが居ないの。居なくなっちゃったのよ!」
なんだと?
「リィナが目を覚まして、安心しちゃって……あたし、寝ちゃったのよ」
「ああ。お前、ちょっと眠った方が良かったんだって」
「でも!起きたら、シェラが居なくて……こんなのが置いてあって……」
マグナは、握り締めていた紙片を俺に見せた。
『お世話になりました。ありがとうございました』
そこには短く、そう書かれていた。
「リィナは?」
「まだ、部屋に戻ってないの。どうしよう、シェラまで……」
真っ青な顔をして、膝をかくんと折ったマグナを、慌てて支える。
「どうしよう……あたし、独りになっちゃう……」
俺の服にしがみついた手が震えていた。
「落ち着け。独りな訳ないだろ。俺も、リィナもいるじゃねぇか」
マグナは、呆然として俺を見上げた。
「……そっか。そうだよね。そうだった」
長い溜息を漏らす。
「お前、疲れてるんだ。だから休めって言っただろ。ほら、ちょっと座れよ」
俺は、マグナをベッドに腰掛けさせて、隣りに座った。
マグナは両手で顔を覆って、ふるふると首を振る。
「ごめん……どうかしてた。ヴァイスもリィナも死んじゃったみたいな気がして……」
「ヒデェな」
俺は笑ったが、マグナはくすりともしなかった。
14.
「ホントだよね……ちょっと疲れてたみたい。夢とか頭の中で考えてた事と、現実がごっちゃになっちゃって……」
「大丈夫だ。俺もリィナも、ちゃんと生きてるから」
マグナは、頭を抱えて小さく頷く。
「そんなに堪えてたのか。この前のこと」
「うん……そうみたい」
この取り乱し振りは、大半は寝不足が原因なんだろうけどな。少しは眠ったみたいだが、まだフラフラだぜ、こいつ。
「でも、冒険者なんてやってたら、案外当たり前に出くわす場面だぜ。ああいうの」
『つまり、お前には覚悟が足りないんだ』
遠い記憶から浮かび上がった台詞が、頭の中でリフレインする。
「……あれが当たり前だっていうの!?ヴァイスが、リィナが死んじゃうかも知れなかったのに、それを当たり前に……何でもないみたいに受け止めろっていうの!?」
マグナは、真っ直ぐ俺を見上げた。
悪い。考え無しの台詞だった。単なる受け売りだよ。だから、そんな目で見ないでくれ。
そうだよな。そんな簡単に、覚悟だなんだと割り切れるモンじゃねぇよな。
多分、お前のが正しいんだ。俺も、そう思う。
「ヴァイスは……なんで、平気なの?」
「へ?」
「だって、おととい……死にかけたばっかりなんだよ?それなのに、すごく普通に見える」
いや。実際は、それほど普通じゃなくて、昼間は困ってた訳ですが。
「何事にも動じない性格でもないでしょ。なのに、どうして?あたし、あれから色んなこと考えちゃって……凄く嫌なことも思いついちゃったの。聞くつもりなんてなかったんだけど、ダメ、我慢できない。聞いてもいい?」
「ああ」
「あのね、すごく否定して欲しいの。ごめんね、自分が安心する為にこんなこと聞いて。その……ヴァイスは——」
マグナは自分を落ち着かせるように、一呼吸置いた。
15.
「自分はいつ死んじゃってもいいや、って思ってない?」
俺は、即答できなかった。
その通りだったからだ。
別に積極的に死にたいと思っていた訳じゃない。お世辞にも、意気地のある方じゃないからな。ナイフでも突きつけられて脅されれば、見っとも無く命乞いのひとつもしてみせるタイプだ。
だが、どうしようもない死に直面した時——俺は、何がなんでも生き延びたいと強く願うよりは、諦めたんじゃないかと思う。死んだら死んだで仕方ない。ギリギリの際のキワでは、そんな風に諦める方に傾いた。以前、死に直面した時は。
何故なら——
「……そうだったかも知れねぇよ」
「ヴァイス!?」
己に価値を、見出せなかったから。
いや、価値だとかなんだとか、そんな大層な話じゃないんだ。要するに、自分が存在していようがいまいが、死のうが生きようが、どっちだろうと大した違いはない。そう思っていたのだ。
どうせ自分は誰にも何も影響を及ぼさない。そんな風に、自分を突き放して見ていたように思う。自暴自棄という感じでもなく、多分、極めて冷静に。
実際、そうだった筈だ。
俺とは繋がりの希薄な実家の記憶。そこで学んだ、期待し過ぎないという処世術を、家を出た後も後生大事に抱き続けた。他人と薄っぺらい関係しか作れなかった俺のことなど、一体誰が気にかけるだろう。
俺は自分を哀れんじゃいない。俺みたいな考えの持ち主は、世に溢れている筈だ。よくある話。ありふれた、普通のこと。
だが——
「まぁ、待てよ。そう『だった』って言っただろ。今は、そんなこと思ってねぇよ」
そうなのだ。あれは、自分でも意外だった。
俺は、あの時——死にたくない。そう願ったのだ。
俺は、少しづつ変わっているのだろうか。
もしかしたら、こうして真っ直ぐ俺を見つめるこいつに出会えたのは、とても幸運なことだったのかも知れない。
なんて、大袈裟だよな。
「本当に?」
「ああ。本当に本当だ」
柄にもなく真剣な顔をして頷いてしまったことに気がついて、すぐにおどけてみせる。
「それに、勝手に死ぬなんてこと、マグナが許してくれないだろ?」
マグナは疲れた顔に、ようやく少し笑顔を浮かべた。
16.
「そうよ。あんたは、あたしの目の届くところに居なきゃいけないんだから。それが死出の旅路につくなんて、契約違反もいいとこだわ。絶対、許さないんだから」
「肝に銘じるよ」
横道に逸れた話が落ち着いた途端に、マグナは本来の目的を思い出した。
「——そうだ、こんなことしてる場合じゃないわ。シェラを探さなきゃ!!」
話が済んだら、もう『こんなこと』呼ばわりかよ。いや、別にいいんですけどね。
立ち上がりかけたマグナの肩を、俺は押し止めた。
「いいから、お前は休んでろ。どうせ大して寝てねぇんだろ。まだフラフラじゃねぇか」
「でも——」
「いいから。俺に任せとけ。心当たりが無いでもねぇしな」
「そうなの?」
「要するにこいつは、ちょっとした家出みたいなモンだろ?心配しなくても、ちゃんと戻ってくるよ、シェラは」
「……分かった。お願いね。実は、さっきから頭がクラクラして、地面が揺れてるの」
「ゆっくり休んでろよ。お姫様は、俺が連れ戻してやるから」
部屋から出ていきかけた俺の背中に、マグナは問い掛ける。
「……シェラがお姫様なら、あたしは?」
なにいきなり軽口に反応してんだ、こいつは。
「そりゃ……女王様、かな」
マグナは唇をぶーと鳴らした。
「あたしも、お姫様の方がいい」
「いいから寝てろ、お前は」
それ以上、何かを言われる前に、俺は扉を後ろ手に閉めた。
17.
心当たりと言っても、非常に頼りない、単なる思い付きだったんだが。
シェラは、その場所で蹲って、抱えた膝に顔を埋めていた。
肝試しをした時に、俺と並んで話した、墓地の中だ。
近づいても、シェラは顔を伏せたまま動こうとしなかった。
俺も、何も言わずに隣りに腰を下ろす。
あの時と並びは逆だが、星空は同じ。というか、違いを見分けられるほど、星に詳しくない。
月の位置は、もうちょっと高かったかな。
ともあれ、軽い既視感に襲われるには充分なくらい、似たような状況だった。
「どうして……ここに居るって分かったんですか」
やがて、シェラが下を向いたまま呟いた。
「絶対、見つからないと思ったのに」
あんだけ怖がってたもんな。自分からこんなトコに隠れるなんて、普通は思わないだろうな。
「いやほら、俺って魔法使いだし」
山勘ですが。
「……なんですか、それ」
シェラが、微かに笑ったように思えた。
さて、勘が見事に的中したのはいいが、ここから先は何も考えてない。なにしろ、俺も半信半疑どころか、ほとんど期待してなかったからな。
まぁでも、シェラの考えてることは良く分かる。と思う。今の俺には。
「なぁ、聞いてくれるか」
こうなりゃ、出たトコ勝負だな。
「お前にしか、話せねぇんだ」
返事は無かったが、俺は実際に話したくなっていたので、そのまま続けた。
「シャンパーニの塔で変態共とやり合ってから、ずっとモヤモヤしてるんだ。なんか、ホントに情けなくてな。だって、そうだろ?ウチの女共は体を張って前衛で頑張ってたのに、俺ときたら後ろで呑気に呪文を唱えてただけなんだぜ」
カンダタに迫られた時の、あの情けない感覚。
「それどころか、俺のヘマの所為で、リィナに怪我まで負わしちまった——まぁさ、魔法使いってのは、前衛に護られてナンボだよ。それを承知でこの職業に決めたんだから、こんな悩みは今さらだよなぁ。それは分かってるんだ」
冒険者になってから、こんなことで悩んだ覚えは一度たりとてなかったんだが。
「これから武器の扱いを覚えようにも、モノになるまでには随分かかるだろうし、そんな暇があったら新しい魔法を覚える努力をした方がマシだってことも分かってる」
嫌ってくらい分かってるんだが。
18.
「でもさ、やっぱり男としてどうなのよ、とか思っちまうんだ。女の尻に隠れて、こそこそ呪文を唱えるだけってのはさ。だって、いつでも先に傷つくのは——あいつらの方だろ」
後ろに引っ込んでちゃ、身を挺して守ることすらできやしない。
「俺はさ——本当はあいつらを、カッコ良く守ってやりたいんだよな、多分。けど、現実はまるきり逆だろ。俺が魔法使いとしてもっと成長したとしても、この構図は変わらない。どんなに頑張ったって、魔法使いである以上は無理なんだ」
それとも、イオナズン辺りを使えるようになれば、少しは話も違ってくるのだろうか。
「もちろん、イチから戦士とかに鞍替えしようだなんて思わねぇよ。向きじゃないしな。魔法使いとして成長した方が、よっぽど役に立つと思うしさ。けど、なんかモヤモヤしてんのは、消えねぇんだ。分かってんだけどさ——まぁ、要するに愚痴だよ、愚痴」
だから、お前も愚痴があるなら吐き出しちまえ。
みたいなつもりだったのだが。
ちょっと失敗だったかも知れない。このまま黙っていられたら、俺が情けないだけじゃねぇか、これ。
二人して落ち込んで、どうしようってんだ。
そんな俺のふがいなさに、同情した訳でもないんだろうが。
「……私、あの時、本当はもっと前から気がついてたんです」
ややあって、シェラは静かに口を開いた。
「でも、怖くて動けなかった……やっと階段を上がったら、ヴァイスさんがやられてて、リィナさんも……」
シェラは、両手で頭を抱えた。
「私、本当に駄目な人間です。折角、ヴァイスさんにここで励ましてもらって、もっとちゃんとしようって決心したばかりだったのに……本当に、自分が嫌です。なんで、こんななんだろう。いつでも、ずっと誰かに迷惑をかけることしかできないなんて……」
戦闘に関する事だけを言ってるんじゃない気がした。
「もう自分が許せそうにないです。でも、きっとヴァイスさんもマグナさんもリィナさんも、みんな許してくれちゃうから……だから……」
「家出したのか」
「私なんか、居ない方がいいんです。どこにも居ない方がいいに決まってます」
とは、穏やかじゃないね。
「でも、最終的にはリィナにホイミかけられただろ。あれには、結構驚いたぜ」
19.
「あんなの……もっと最初から、ちゃんとしてれば……」
「いや、どうだろうな。あのタイミングでシェラがいきなり出てきたから、俺達全員が助かったって見方もできると思うけどな」
本心なんだが、こんな結果オーライみたいな言い方じゃ、慰めにもなんねぇかな。
「まぁ、なんだかんだ言っても、結局は自分に出来ることをやるしかねぇよ。僧侶なんだから、シェラの方があいつらを守ってやれるんだしさ。迷惑かけたくないってんなら、今、僧侶がいなくなる方が、よっぽど迷惑だと思うだろ?」
「それは、他の——」
「他の誰かと入れ替えりゃいい、なんて言うなよ?ウチの僧侶は、お前なんだ。俺も、ウダウダ余計な事は、もう考えねぇから、お前も腹くくれよ。それに、今さら別の奴を仲間にするなんて、マグナが認めねぇよ。もちろん、俺もな」
「……」
「大体、シェラが居なくなっちまったらさ、俺は誰に男はツラいよ的な愚痴をこぼしゃいいんだ。女に言っても、分かってもらえねぇだろ?」
なんか、今はこういう事を言っても平気な気がした。
「……もらえないでしょうね」
シェラは、やっと顔を上げた。
「でも、言われてみれば、そうですよね。あんまり詳しくないですけど、普通は男の人が前で戦って、女の人は後ろから援護するんですよね、きっと。それなのに——私達、ちょっと情けないですね」
「まったくな」
まぁ、女共の方が強ぇから、しょうがねぇよ。
「ほら、戻ろうぜ。早く帰ってやらねぇと、マグナなんてオロオロしちゃってヒドかったんだぜ。それに、俺が連れて帰るなんて大見得切っちまったから、一緒に戻ってくれないと、マグナに殺されちまうよ」
立ち上がって差し伸べた手が、僅かな逡巡の後に握られる。
聞いた台詞を繰り返すかと思ったが、シェラは俺の予想と違う言葉を口にした。
「ヴァイスさんは、ちゃんとみんなを守ってると思います」
「ンなことねぇよ」
いや、マジで。このままじゃ、マグナのお袋さんに申し訳が立たねぇよ。
「カッコ良くかどうかは、別ですけど」
「……言うね」
躊躇いがちに、いたずらっぽく笑って、俺を見上げる。
——そんな可愛い顔を、今の俺に見せたらダメだろ。
ヤバい。忘れかけてたのに、また妙な気分になってきた。
20.
握ったシェラの手は小さくて、本当に男なのかよ、みたいなエラく基本的な疑問が湧き上がるのを抑えられない。
実は、俺が自分で確かめた訳じゃないんだよな。ネズミ野郎やシェラ自身がそう言ったのを、鵜呑みにしただけで。
旅をするには男って事にしといた方が安全だから、とかいうオチが無いとは限らない。って、さすがにそりゃ無いか。なに考えてんだ、俺は。
でも、マグナ達は同じ部屋で寝泊りしてるんだから、当然もうとっくに確かめたんだろうな。
おいおい、確かめるって、どうやってだよ。
マズい。妄想が、変な方向に広がりそうだ。
ヨコシマな内心を悟らせまいとして、俺はシェラの頭を掴んで、くしゃくしゃに掻き回してやった。
「ふぇっ、なにするんですか」
「うるさい。生意気なこと言うからおしおきだ」
「ヒドいですよ、もぅ。ぐしゃぐしゃになっちゃったじゃないですか」
シェラは、両手で髪を梳く。
やかましい。男だったら、髪が乱れたくれーでゴタゴタ言うな。
畜生、やっぱヤベーよ、今日の俺。
なんかぎゅ~っと小柄な躰を抱き締めたり、気が済むまで色んなトコを撫でくり回して、シェラの性別を確認したい衝動を堪えつつ。
そんな葛藤はおくびにも出していないつもりだったのだが、シェラが喉の奥で悲鳴を上げたので、俺は大いにうろたえた。
いや、違うんだって。たまたま今日の俺がおかしいだけで、でも平気だから。ヘンなことしたりしないから。目つきも怖くないよ?
だが、よく見ると、シェラは俺に怯えているのではなかった。
その視線を追って、俺も息を飲む。
ぼんやりとした光の球が、くるくると宙に円を描いていた。
もしかして、あれは人魂ってヤツですか。
円の中心で胡坐をかいているのは——リィナだ。あいつ、何やってんだ。
人魂が、ゴツいおっさんの形に変化した。足が無い。うん、ありゃ確かに幽霊だわ。
よく聞き取れないが、何か会話を交わしているようだ。
「……行くか」
シェラは蒼褪めた顔をして、無言でカクカクと首を上下させた。
お陰で妙な気分が霧散したのには感謝するが——
リィナ、お前、幽霊と普通に喋るとか、できれば勘弁してくれ。
ちょっとは遠慮してくれないと、こっちはまるきり追いつけねぇよ。
21.
シェラを送り届けて、自分の部屋に戻った俺は、足を踏み入れた瞬間に扉を閉めるのも忘れて動きを止めた。
マグナが、俺のベッドで寝息を立てていた。
おそらく、俺が出ていった後、そのまま眠ってしまったのだろう。ベッドの縁に腰掛けたまま、上体だけ横倒しになったような体勢だ。
普段の俺なら、やれやれしょうがねぇな、疲れてたしな、とか冷静に対応できたんだろうが——だから、今日はマズいんだっての。
俺は強く頭を左右に振って、いかがわしい気分を振り払おうとあがいた。
いやあのな。これはマグナが俺を信頼してくれてるってことだろ?信用してない男の部屋でなんか、絶対寝こけたりしねぇもんな、女は。うん、喜ばしいことじゃないか。この信頼を裏切るなんて、もっての他だよな、まったく。
とか俺が、必死こいて思考をあっちじゃない方向に誘導しようとしてるってのに——なんだってお前は、そんなに短いスカートを穿いてやがんだよ。裾がめくれて、ちょっと見えそうになってんじゃねぇか。
灯りに照らされた素脚の白さが、いつもに増して眩しく見える。こいつ、綺麗な肌してるよな。
いくらか顔にかかった前髪に、髪の間から覗く薄く開いた唇に、呼吸につれて上下する胸に、なんだか色気を感じてしまう。
いやいやいや、無いから。色気とか、あり得ないから。
でも、こんな風に男の部屋で無防備に眠ったりしたら、襲われちゃっても仕方ないんだぜ——もちろん俺は、そんな事しないけどね?
ちょっ、知らない内に、近寄ってるんですけど、俺。
おいおい、なに覆い被さってんだ。
おおお、手が勝手に脚の方に。
ヤバい。
マジ、ヤバい。
22.
「ふぁっ、なに!?」
はじめてすぐに、マグナは目を覚ました。
どうしても、結構揺すっちまうからな。仕方ねぇか。
俺の首に、必死にしがみついてくる。
「悪ぃな、起きちまったか。あ、シェラはもう部屋に戻ってるぜ」
俺は努めて普段通りに、目と鼻の先にあるマグナの顔に語りかける。
運び始めてすぐに目を覚ましたマグナは、訳が分からずしばらくあわあわしていたが、次第に状況を把握したようだ。
「ちょっと!何してんのよっ!?」
「何って、お姫様抱っこ」
つまり、俺はマグナを抱えて、部屋に運んでいるところだった。
我ながら、末永く語り継がれていいくらいの、鉄の自制心だよな。
「はぁ!?なんで——」
「だって、お前、俺の部屋で寝てただろ」
「あ、そうか——じゃなくて!!起こせばいいじゃない!!」
「いや、疲れてたし、起こすのも可哀想かなと思ってさ」
「もう起きたから!!下ろしてよ!!早く!!」
「うわバカ暴れんな。なんだよ、自分でお姫様がいいって言った癖によ」
「こういう事じゃないでしょ!?いいから、下ろしなさいよ!!」
「あー、はいはい。もう着くから。あんま騒ぐなよ、他の客に迷惑だろ」
それで口は閉じたが、一層じたばた暴れ出す。
「だから、暴れんなって。スカートめくれちまうぞ」
マグナは慌ててスカートの前と尻を押さえた。さっきから角度によっちゃ丸見えだから、もう遅いけどな。まぁ、俺からは見えないし、他に誰も廊下には居ないが——おや。
23.
『あれあれ~?』
と口にしないのが不思議な目つきをしたリィナが、廊下の向こうから歩いてきた。
ちょうど戻ってきやがったか。まったく、幽霊と何やってたんだか。
「ほれ。着いたぞ」
部屋の前で下ろしてやると、マグナは俺を睨みつけた後、急いでリィナを振り返った。
「ち、違うの、これは——」
「ボク、何も言ってないよ?」
こいつも、いい性格してるよな。
「そうなんだけど、そうじゃなくて……あーもうっ!!——そうだ、シェラは!?」
「言ったろ。もう戻ってるよ。寝てんじゃねぇか?」
マグナは静かに扉を開けて中を確認すると、ふーっと溜息を吐いた。
「シェラちゃん?どうかしたの?」
「ううん。なんでもなかったみたい」
ギロリと俺を睨め上げる。
「シェラの事は、お礼言うけど……今度は、ちゃんと起こしてよね!?」
「今度って、また俺の部屋で寝るつもりかよ」
「そうじゃないけどっ!!」
「え、なになに?マグナ、ヴァイスくんの部屋で寝てたの?」
「違うから!!寝てないから!!ほら、リィナも病み上がりなのに、またそんなカッコで、どこほっつき歩いてたのよ!!ちゃんと安静にしてないと駄目でしょ!?」
「え~。寝過ぎちゃったから、もう眠れないよ」
「いいから!!寝るの!!それじゃ、お・や・す・み・な・さ・いっ!!」
マグナはリィナを部屋に引っ張り込むと、俺に向かっていーっと歯を剥き出してみせて、扉をバタンと閉めた。
この様子なら、一晩眠れば、元のあいつに戻ってそうだな。
俺は、回れ右をして自分の部屋に戻った。
腕に残るマグナの感触を、反芻しながら。
……俺も、明日には元に戻ってることを願うよ。いや、ホントに。